第2次オルレアンの戦い/アルトネの再占領
☆ 12月2日のオルレアン大森林方面
メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍がロワニとププリーで仏ロアール軍左翼と激突していたこの12月2日。
カール王子が率いる独第二軍の戦線は、大公軍の戦線・オルレアン~パリ大街道(現・国道D2020号線)の西側とは対照的に「小競り合い」程度の小戦闘が行われただけの一日となります。結果、オルレアン大森林の北方と東方に展開した独軍の陣地は安泰で、仏軍の突破が心配された仏ロアール軍の最右翼(東側)でもモンタルジとその北郊外のロアニ川流域に多少まとまった部隊が存在するのみで、これも前進することはありませんでした。
普第22師団がトゥーリーの南、ティヴェルノン周辺から西へ去った後、オルレアン~パリ大街道の沿道東側には普騎兵第5旅団と普騎兵第2師団所属の騎砲兵2個(普野戦砲兵第2連隊騎砲兵第1と普野戦砲兵第6連隊騎砲兵第3)中隊だけが警戒任務に就いていました。この騎兵たちは大森林の北縁から仏第15軍団の諸隊(軍団第2と第1師団)が現れるとトゥーリー並びにバゾッシュ=レ=ガルランドに向けて後退しますが、この時に時間稼ぎを狙って騎砲兵2個中隊が仏軍の行軍列に砲撃を行うと、なんと仏軍は直ちに前進を止めてしまったのです。
その後、オワンヴィル(=サン=リファール。トゥーリーの北北西4.5キロ)からシャティオン=ル=ロワ(バゾッシュ=レ=ガルランドの東4.7キロ)へ進んだ普騎兵第6師団が騎砲兵中隊を先行して送り、この砲兵も砲撃を始めると、仏第15軍団の右翼諸隊は踵を返し南方へ去って行ったのです。
カール王子はこの日の昼前、普第17と普第22師団が自軍右翼(西)側の戦闘に参戦したと聞き、バゾッシュ=レ=ガルランドの南で普軍騎兵と仏軍が対峙している、との報告を受けた後、正午になって北独第9軍団に対し「バゾッシュ=レ=ガルランドに向かって移動せよ」と命じ、軍団長のフォン・マンシュタイン歩兵大将には「現在騎兵の面前にいる仏軍部隊が突進して来た場合には、オルレアン~パリ街道の傍らで迎撃出来るよう準備する」よう訓令するのでした。
ところが、午後1時30分、カール王子の下にベルサイユ大本営のモルトケ参謀総長より以下の電信命令が届くのです。
「ヴィルヘルム1世国王陛下は目下の戦況に鑑み、貴軍に対しオルレアンへ進軍してロアール河畔において仏軍と決戦を行うよう命じられた。貴官(カール王子)はその隷下諸隊全兵力を挙げて明日(3日)、オルレアンに対し攻勢を取るよう命じる」
これを読んだカール王子は直ちに幕僚を召集し、急ぎ「現況においてのオルレアン侵攻」作戦の作成を命じると、その準備段階として、コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将の普第3軍団に対し「ピティヴィエ周辺に集合する」よう、フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将の普第10軍団*には「ボワーヌとボーヌ=ラ=ロランドに集合する」よう、それぞれ緊急令を発します。
この後、大公軍が「ロワニとププリーの戦い」で仏ロアール軍左翼を「叩きのめした」ことが伝えられると、午後10時、「全軍ロアール河畔まで前進する」との決定が発せられ、急ぎ計画されたオルレアンへの攻勢作戦が命じられたのです。
これによれば、この日午後、仏軍と遭遇することなくバゾッシュ=レ=ガルランド周辺に到着した北独第9軍団は「翌3日午前9時30分にアルトネを攻撃」、ピティヴィエ周辺で待機に入っていた普第3軍団は「同時刻シヤール=オー=ボワ(バゾッシュ=レ=ガルランドの南東12.3キロ)を攻略した後、ルリー(シヤール=オー=ボワの南南西8.6キロ)を攻撃」、普第10軍団は「前進する2個軍団の後方に進み、午後にはヴィルロー(アルトネの東8.4キロ)とシヤールに到達するよう」、シャティオン=ル=ロワの普騎兵第6師団は「軍の最右翼としてオルレアン~パリ大街道方面を警戒しつつ左翼側軍団に続行せよ」とのことでした。
手薄となる軍左翼側(東)のヨンヌとロワン両河川の警戒任務は、普第10軍団から普第39旅団の歩兵4個大隊を割いてこれに当て、更に砲兵1個中隊の増援を受けた普騎兵第1師団が担うこととされたのです。
※長らく普第10軍団に付属していたヘッセン大公国のライター騎兵6個中隊はこの日原隊復帰を命じられ、無事北独第9軍団の第25「ヘッセン大公国」師団へ合流しています。
カール王子は、この日激戦を勝ち抜いたフリードリヒ・フランツ2世大公に宛ててモルトケ参謀総長の命令を付した訓令を送付し、「大公軍の前進に関する詳細な作戦は大公殿下に委任する」としました。
この書簡は12月3日午前2時30分、ジャンヴィル(トゥーリーの西4キロ)にあった大公軍本営に到着します。
大公は既に麾下一部部隊に早朝からパテ方面へ敵を追撃する命令を発していましたが、カール王子の訓令を読むと更に次の命令を発するのでした。
「普第17師団はオヌー周辺で待機、B第1軍団は騎兵第4師団の2個旅団と共にリュモーへ移動し、普第22師団はアルトネに対する北独第9軍団の攻撃を支援、普騎兵第2師団は普第22師団に従え」
同時にパテ~シャルトル街道(現・国道D935号線)より西側の捜索に普騎兵第4師団残りの1個旅団を当て、この目的のため歩兵と砲兵若干がこの旅団に付けられるのでした。
ロワニ 戦い終わって
仏ロアール軍司令官ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍は2日夜間、ロワニとププリーにおける戦闘の顛末を聞かされ、また前線の複数指揮官から「独軍は必ず明日早朝から攻勢を取るはずだ」との報告を受けます。
同時にオルレアン大森林方面から「独軍左翼側に兵力増強の兆しあり」との報告もあり、続けて「多くの砲兵を有する敵縦列がオワゾン(アルトネの北東9.1キロ)付近に集合しつつある」との報告も到着しました。この最後の報告は北独第9軍団の動きを示したものでしたが、ドーレル将軍は「このまま前線を漫然と維持すれば全軍が危機に陥る」と考え、「全軍直ちに現在位置を撤し、12月1日以前の旧オルレアン防衛線(半恒久陣地があります)まで後退せよ」と命じたのでした。
これにより仏第15軍団は軍団第3「ペタヴァン」師団がアルトネを出てスニー経由でジディへ退却し、この退却援護は軍団第2「マルティノー・デ・シェネ」師団と軍団砲兵隊がアルトネ付近に残って担い、軍団第1「ドゥ・シャブロン」師団はシュヴィイとサン=ル(=ラ=フォリ。アルトネの南東9キロ)との間に展開してオルレアン大森林の北縁を守ることになりました。
ドーレル将軍はガンベタやフレシネがまた何か厄介な事を命じて来る前に、シャンジー将軍とブルバキ将軍*に対して今後の仏第15軍団の行動を伝え、同時にシャンジー将軍に対し「第16と第17両軍団を率いて独軍の右翼(大公軍)に対する攻撃を独断で実施するよう」委任したのです。
※ブルバキ将軍は正にロワニの戦い最中(12月2日)にオルレアンに到着し、翌3日正式に仏第18軍団長に任命されます。ドーレル将軍はボーヌ=ラ=ロランドの戦い直後から、ガンベタらトゥール派遣部によってこの第18と第20軍団の指揮も委ねられていました。
☆ シヤール=オー=ボワの戦闘(12月3日)
こうして、仏第15軍団第1師団の主力はシヤール(=オー=ボワ)とヌーヴィロー(=オー=ボワ。シエールの西6キロ)周辺に集合すると、翌12月3日、命令に従ってオルレアン大森林の北縁に向かい行軍しようとしました。ところが午前9時30分、同じくカール王子から命令されて早朝シエールに向かった普第3軍団が出発直前の仏軍の前に現れたのです。
仏第15軍団第1師団長のベルトラン・ドゥ・シャブロン准将はシエール周辺で宿・野営していた歩兵8個大隊と師団砲兵6個中隊をサントー(シヤールの北東2.6キロ)へ送り出し、ピティヴィエからの街道(現・国道D2152号線)に沿って前進して来る普軍を迎撃しました。
対する普第3軍団長C・アルヴェンスレーヴェン中将は、軍団の前衛となっていた普第6師団先鋒の諸歩兵大隊とそれに追従する師団砲兵隊に対し、サントーの北東2キロを切った辺りで街道の両脇へ展開するように命じ、後方から接近する普第12旅団本隊を砲列右翼(西)に連ね、残りの諸隊に西側のラ・ブロス(サントーの北西1.9キロ)北郊外とマロー=オー=ボワ(サントーの東北東2.6キロ)周辺で待機するよう命じました。
こうしてお互い相当数の砲列による砲戦が開始されます。
砲撃開始後、十数分で普軍左翼(東)の軽砲1個中隊に損害が発生し、この中隊は後退せざるを得なくなりますが、右翼側には第3軍団砲兵も到着して砲列を延伸し、正午頃には砲78門でサントー周辺を叩きました。
一気に劣勢となった仏軍はシヤールへ向かって後退し、フォン・ブッデンブロック中将の普第6師団はラ・ブロスの西側から仏軍を追い、フォン・コンタ大佐が指揮する普第9旅団は普擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊のF大隊を先頭にサントーを占領すると街道沿いに敵を追って進み、その東側ではフォン・ヴルフェン大佐指揮の普第10旅団がル・ヴュー・サントー(サントーの南南東1.2キロ)へ向かって進みました。
普第5師団砲兵隊はサントーとル・ヴュー・サントーとの間に砲列を敷いてシヤール方面を砲撃し、しばらくするとその軽砲2個中隊は軍団砲兵隊の前進に併せてシヤールの1,500m北まで接近して砲撃を始めます。この砲撃と、普猟兵第3「ブランデンブルク」大隊の2個中隊がシヤール部落の南へ回り込み仏軍の予備を攻撃したため、この予備部隊は陣地を放棄して南側のオルレアン大森林へ逃走しました。
シヤールの西側では独立した2、3軒の農家に仏軍が籠もって抵抗を続けますが、これも普フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊第3大隊が襲撃して仏兵を駆逐します。
こうして普第3軍団は更にシヤールへ接近して砲列を敷いた6個中隊の砲兵(野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第1,5,6、重砲2,5,6中隊)による正確な砲撃援護で部落を西側から包囲し、仏シャブロン師団は僅かに開いた東側から一斉に南方のオルレアン大森林へ脱出するのでした。
午後3時。シヤールを完全に制圧し隊を整えた普第3軍団は、更にオルレアン大森林に向け前進を続行します。
この時、普第6師団はシヤール街道上を、フォン・シュトゥルプナーゲル中将の普第5師団は南方へ続く鉄道上をそれぞれ行軍し、軍団砲兵隊と第5師団砲兵隊、普第48「ブランデンブルク第5」連隊と普第24「ブランデンブルク第4/大公メクレンブルク=シュヴェリーン」連隊の2個大隊は後衛として一時シヤール周辺に留まりました。
後退する仏軍は至る所に障害を設けており、また森の中では伏兵を警戒しながら進んだため街道を行く普第6師団の行軍速度は遅く、更に夕刻に掛けて激しい吹雪がオルレアン地方を襲ったため師団前衛が森を抜けてルリー北方の開墾地に達した時には午後6時を回っていました。行軍中北方のヌーヴィロー=ボワ方面からは猛烈な銃撃音が聞こえ、更に「仏軍が再びナンクレ(=シュル=リマルド。ボーヌ=ラ=ロランドの西7.2キロ)を占領した」との報告が届いたため、ブッデンブロック将軍は敵中に突出した自軍の安全を図るため普第64「ブランデンブルク第8/王子カール・フォン・プロイセン」連隊をルリー西方に、シヤールから増援としてやって来た普第48連隊を反対側の東方に配置して夜に備えました。
夜が更けてほぼ全ての部隊がルリー周辺に到着すると、C・アルヴェンスレーヴェン将軍は前哨をルリー南方にも展開させて東西警戒の第64、48両連隊と連絡させ、その他軍団主力はルリー周辺で宿・野営するのでした。
オルレアン北方の戦場
☆ ラ・トゥール農場の戦闘(12月3日)
北独第9軍団は3日早朝、シャトー・ガイヤール(サンティリーの東2.5キロ、大街道上)周辺で集合するとアルトネ攻撃の準備に入りましたが、この集合中カール王子から新たな命令が届き、それによれば「一支隊を割いてサン=ル(=ラ=フォレ)へ派遣せよ」とのことでした。
このため、フォン・マンシュタイン将軍は第49「ヘッセン大公国第1」旅団長エヴァルト・フェードア・フォン・ヴィンクラー大佐(ヘッセン軍人ではなく普軍軍人です)率いる支隊をサン=ルに向けて別動させるのです。
※12月3日のヴィンクラー支隊
○ヘッセン大公国(H)第1「近衛/親衛」連隊
○H猟兵第1大隊
○Hライター騎兵第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊・第1中隊
○H野戦砲兵・重砲第1中隊
*輜重援護から外れ直後に合流
○普第84「シュレスヴィヒ」連隊・第5,7中隊
この支隊の先鋒がラ・トゥール農場(ヌーヴィロー=ボワの北北西2.9キロ。現存します)に接近すると、その周辺に残留していた仏第15軍団第1師団中ヌーヴィロー=ボワ周辺に集合していた諸隊から激しい銃撃を浴びます。この仏軍はやがてオルレアン大森林方面から来援した諸隊で補強され、その散兵はラ・トゥール東側の開墾地を北上し始めます。
エタンプ近郊まで原型を留めるオルレアン~パリ旧ローマ街道(現・国道D97号線)の両脇に展開したH第1連隊の第2大隊と、前線に砲を敷いた野戦重砲兵だけではこの仏軍の前進を阻むことが出来ませんでしたが、モールガール(ヌーヴィロー=ボワの北2.7キロ付近にあった部落。現存しません)から進んでラ・トゥールを包囲しようと言う仏軍の試みは、H第1連隊第2中隊と普第84連隊2個中隊による逆襲によって阻止されます。結局、数頼みの仏軍の前進はH野戦砲兵必死の榴弾砲撃によって次第に脚を止められ、やがてサン=ジェルマン(・ル・グラン。ヌーヴィロー=ボワの北北西1.9キロ)に向けて後退して行きました。
この後、午後4時にH歩兵による一斉突撃がサン=ジェルマンに対し敢行されるものの、これは仏軍の猛銃火によって失敗に終わります。夕刻に至り、「仏軍は強力な兵力をヌーヴィロー=ボワからヴィルローに掛けて展開している」との斥候報告と折からの激しい吹雪により、「夜間敵の近くに留まるのは危険」と判断したフォン・ヴィンクラー大佐は麾下をラ・トゥール農場の北側、旧ローマ街道付近まで後退させ野営に入ったのです。
☆ アルトネとシュヴィイの戦闘(12月3日)
早朝、シャトー・ガイヤールに集合した北独第9軍団主力の方は、その前衛*をアルトネに向けて発進させ、前衛はその途上、アルトネ周辺に1個師団程度の敵が存在し砲兵を付した前衛が大街道を挟んでアッサス(アルトネの北北東2.2キロ)と並ぶ位置まで進んでいる事を確認しました。
報告を受けたフォン・マンシュタイン将軍は普第85「ホルシュタイン」連隊に対し「ダンブロンを占領し大街道に沿って前衛を出す」よう、又、普第84連隊に騎砲兵第2中隊を付して「ヴィルシャ(ダンブロンの東南東4.3キロ)に進んで左翼外を警戒せよ」と命じます。
※12月3日・北独第9軍団の本隊前衛
○普擲弾兵第11「シュレジェン第2」連隊
○普竜騎兵第6「マグデブルク」連隊・第3,5中隊
○普野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第1中隊
○同・軽砲第2中隊
ダンブロンに向かった普第85連隊は道中仏軍に全く遭遇せず、ダンブロンも抵抗無く簡単に占領されました。部隊は早速部落の守備を固めると前哨を街道に派出します。
ところが午前9時、中央の大街道を行くシュレジエンの擲弾兵たちはアッサス付近に砲列を敷いた仏第15軍団第1「マルティノー」師団砲兵から猛烈な榴弾砲撃を受け、一時遮蔽に身を伏せて身動きが出来なくなりました。これに対しマンシュタイン将軍は軍団の野戦砲兵5個中隊*を急ぎ大街道に跨がって展開させ、午前9時30分に対抗射撃を開始させます。すると仏軍砲兵は砲撃を切り上げ、アルトネ方面へ引き上げたのです。
これでアッサス付近の仏軍歩兵(マルティノー師団第1「ダリエス准将」旅団)もアルトネへ後退し、アッサスは普擲弾兵第11連隊F大隊が速やかに占領しました。ここに先ほどの5個中隊の砲兵が前進して砲列を敷きましたが、アルトネの南に砲列を敷いていたシャップ大佐率いる仏第15軍団砲兵隊がアッサスに対する砲撃を開始し、激しい砲撃戦が始まりました。
マンシュタイン将軍は残りの軍団所属砲兵中隊もこの砲撃戦に参加させるため展開を急かします。すると、西側からもアルトネに向けて砲撃を行う砲兵が現れるのでした。
※アッサスの北独第9軍団砲兵
○普野戦砲兵第9連隊・重砲第1,2中隊(普第18師団砲兵)
○同・軽砲第1,2中隊(普第18師団砲兵)
○同・重砲第3中隊(軍団砲兵)
*軍団砲兵の重砲第4中隊も付近に待機しますが砲撃には至っていません
この日の払暁時、ププリーの北にあったメクレンブルク=シュヴェリーン大公麾下の普第22師団前哨が仏軍に襲撃されベニョーまで後退しました。しかしこの仏軍部隊は単なる偵察隊で、昨日激戦が行われていたププリー北部の森林を捜索すると東へ引き上げて行きました。この間にベニョー北方に集合した普第22師団は直ちにププリーに向けて前進を始め、午前8時と9時の間でププリー周辺における昨日の前線を復活させます。昨日と違うのは後方から普騎兵第2師団が進み来たことで、騎兵たちもププリー周辺で一時待機に入るのでした。
午前10時になると、普第22師団砲兵6個と普騎兵第2師団の騎砲兵中隊がププリー南東の昨日展開した陣地に砲を敷き、午前10時30分アルトネとその周辺の仏軍、特に砲兵陣地に向けて砲撃を開始するのです。
こうしてアルトネ周辺は北と西から合計90門に及ぶ普軍砲兵の榴弾砲撃を受けることになりました。砲撃は容赦なく、間もなく仏軍陣地とアルトネ市街では損害が次々に発生しました。
仏第15軍団第2師団長エミール=フィリップ・マルティノー・デ・シェネ少将は部隊の損害が際立つ前に後退を決意し先ずは師団と軍団砲兵、次いでダリエス旅団の順にアルトネからラ・クロワ・ブリケ(アルトネの南3.4キロ)へ脱出させ、最後に師団第2「ルビヤール准将」旅団を10月10日の戦い(アルトネの戦い)でも激戦地となったアルブレ・フェルム(農場。同南南東2.5キロ。現存します)へ退却させました。
この後退を見た普擲弾兵第11連隊は追撃を開始し、アルトネを占領した後、短時間の戦闘でアルブレの家を奪取しました。この際アルトネとアルブレで多くの落伍兵を捕虜としています。
その右翼(西側)ではほぼ同時に普第85連隊の第2大隊がアルトネ西郊のオートロッシュ部落を占領し、左翼(東側)ではヴィルシャから南下した普第84連隊がアルブレの家目指して進み出しました。
このアルトネの再占領を間近で観戦していた独第二軍司令官カール王子は、「今でこそ簡単に後退している仏軍も、オルレアン大森林付近まで独軍が迫れば激しく抵抗するに違いない」と信じ、マンシュタイン軍団だけではオルレアンに迫ることは不可能と感じたカール王子はメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世に対し、「普第22師団をシュヴィイに、普第17師団をその西側のシュヴィイ城館(シュヴィイの西1.5キロにある広大な城館)まで前進させ、特に砲兵によってアルトネから南下する北独第9軍団の支援を行うよう」訓令します。同時に普騎兵第2師団はププリーからオートロッシュ付近の開墾地に向かい、普騎兵第6師団もトゥーリーからオートロッシュを目指しました。
オルレアン近郊のカール王子と幕僚たち
北独第9軍団は30分ほど休息を取ると午後12時30分、前進を再開します。
アルトネ周辺の諸砲兵中隊を同行させる普第36旅団は擲弾兵第11連隊を大街道とオルレアン~パリ鉄道に沿って先行前進させ、普第85連隊はオートロッシュから同じくラ・クロワ・ブリケに向けて南下しました。この時、普第85連隊は第1大隊をダンブロンの守備に残し、擲弾兵第11連隊は第2大隊をアルトネの警備に残しています。また、ヴィルシャから南下する第84連隊以外の軍団残り(フュージリア第36「マグデブルク」連隊など)は予備となって左翼(東)側後方に続行しました。
この時、大街道の西では命令によって普第22師団が普驃騎兵第13連隊を先鋒として前進し、ミュルヴィルとリール・フェルム(両方とも農場。オートロッシュの南西2.3キロ付近。現存します)の横を過ぎると戦闘展開しつつシュヴィイを目指します。その後方ではププリー南の陣地を撤した砲兵諸中隊が普騎兵第2師団と共に歩兵の左翼(東)後方を進みました。
仏第15軍団のマルティノー師団本隊は普軍がアルトネから南下を企てている間、ラ・クロワ・ブリケの北方丘陵上に砲列を敷き直していた仏第15軍団砲兵隊の援護下に入ります。この時、シャップ大佐の軍団砲兵はマルティノー師団砲兵と協調して北方の普軍部隊に激しい榴弾砲撃を加えましたが、この援護射撃に勇気を得たオヴィイエ風車場(ラ・クロワ・ブリケの北北西1.4キロ)とアルブレの家南側にいたマルティノー師団後衛諸隊は再び北上を開始しました。
北独第9軍団の諸砲兵中隊はこの攻撃に対しアルトネ南方の緩斜面を成す高地上に砲を並べて応戦します。その左翼(東)端は集中砲火を避けラ・グランジ・フェルム(農場。アルブレの家の北西1キロ)まで後退していた普擲弾兵第11連隊のF大隊に、右翼(西)端はオヴィイエ城館(オヴィイエ風車場からは西北西へ800m)に進んだ普第85連隊第2とF大隊にそれぞれ援護されました。このオヴィイエ城館には直後にH歩兵第2連隊の第1大隊も進み来て合流したのです。
戦う仏第15軍団
こうして独仏が対峙する4キロほどの戦線において銃砲撃戦が始まりました。
しかし、大街道の西側に砲列を敷く普軍砲兵は、前面にあるオヴィイエ城館の庭園樹林に視界を遮られて砲撃がままならず、これを見た普第9軍団砲兵部長の男爵ゲオルグ・ハインリッヒ・カール・フォン・プットカマー少将(あのグラヴロット会戦「魔の1058高地」で奮戦した方です)はその砲兵4個中隊を順次オーヴィリエ城館の南西側へ陣地転換させ、直後に普騎兵第2師団の騎砲兵両中隊もこちらへ移動して砲撃を開始します。これと同時に普第22師団砲兵隊はリールの家からボージョンシー・ル・キュイ(小部落。オーヴィリエ城館の南西2.4キロ)間に進出し、クルジー農場からラ・クロワ・ブリケ付近に展開する仏軍砲列を横から叩きました。この砲撃は効果抜群で、しかも午後2時になると大街道西側の仏軍砲列(第15軍団砲兵隊の一部)は「弾切れ」となり全く沈黙してしまうのです。
大街道東側の普軍砲列には北独第25「H」師団砲兵から2個中隊が加わり、更に普軍の騎砲兵2個(普野戦砲兵第9連隊騎砲兵第2、野戦砲兵第3連隊騎砲兵第2)中隊がシシー(アルブレの家の北東1.7キロ)に到着し砲撃に加わると、大街道の東側アルブレの家周辺の仏ルビヤール旅団兵も戦闘を中止し後退を始めるのでした。
仏軍が後退を開始すると普軍は空かさず前進を始めます。
大街道の西側で普第85連隊は仏軍砲兵が撤退すると入れ替わりにオヴィイエ風車場を占拠し、大街道東側では普第84連隊が砲撃によって炎上していたアルブレの家に入ります。
押され始めた仏マルティノー師団は大街道筋のラ・クロワ・ブリケ付近で防戦一方となりました。ここでは普擲弾兵第11連隊の2個大隊と東側からラ・クロワ・ブリケに突進して参戦したH猟兵第2大隊によって激しい銃撃戦となります。この戦いは独帝国参謀本部戦史課編纂の公式戦史でも「ここで仏軍は勇敢に抵抗した」と称賛する「一歩も退かない」激戦となりますが、フォン・マンシュタイン将軍による前線への増援命令でオーヴィリエ風車場に前進していた砲兵5個中隊とその左翼(東側)に砲を並べた普第22師団砲兵6個中隊が、ラ・クロワ・ブリケ周辺に集中砲撃を行ったため、被害が増大した仏軍は午後3時、遂にラ・クロワ・ブリケを放棄して一斉退却を開始しました。
この時、仏軍右翼(東側)はアンデグルー(小部落。シュヴィイの北北東1.1キロ)に踏み止まり迫る普軍に阻止砲撃を行った数門の仏砲兵に助けられ、一部は転回して再び数ヶ所で普軍に突撃を敢行するのです。この衰えない闘志を見せる仏軍部隊に対し、グラヴロット会戦で左肩に重傷を負い第2級鉄十字章を受けた北独第9軍団砲兵隊長ハンス・カール・ヴィルヘルム・フォン・ヤーゲマン大佐は、自ら麾下重砲第3中隊を率いて普軍の散兵線を越えて前進し、友軍戦線の前方150mのアルブレの家西側の丘陵端で目前の仏軍戦線に対し砲撃を行い、また大佐は付近の3個(普野戦砲兵第9連隊重砲第1、H重砲第2、H騎砲兵)中隊に対し前進を命じ、それぞれの中隊は普軍戦線を越えて陣地転換を行って仏軍を叩き始めます。
こうなってしまうと、強気の仏軍歩兵も後退せざるを得なくなり、アンデグルーの砲兵後方まで引き下がったのでした。
この頃、ラ・クロワ・ブリケの北方丘陵上とオヴィイエ風車場付近から後退した仏第15軍団砲兵とマルティノー師団砲兵は、シュヴィイの北側に築かれた胸墻に籠って砲撃を行っていた仏砲兵数個中隊に援護されて同所に砲列を敷き直し、追撃して来た独軍諸隊を至近から砲撃しシュヴィイを護ります。対する北独第9軍団の砲兵たちも前線で直接指揮するプットカマー将軍やヤーゲマン大佐の気迫に後押しされ、先述の4個中隊以外の砲兵諸中隊もラ・クロワ・ブリケの南側に進んで対抗砲撃を繰り返したのでした。同じく、普騎兵第2師団の2個騎砲兵中隊も大街道東側の砲列に加わり、普第22師団の砲兵隊はシュヴー(シュヴィイの北西4.1キロ)~シュヴィイ街道(現・国道D6号線)に跨って砲列を敷き、独軍砲列の右翼(西)端となりました。
雪中の戦場(クリスチャン・シェル画)
※シュヴィイに対面する独軍砲兵砲列(右翼/西から左翼/東へ)
*パリ~オルレアン大街道の東側
・普野戦砲兵第2連隊/騎砲兵第1中隊
・普野戦砲兵第6連隊/騎砲兵第1中隊
・H砲兵連隊/軽砲第2中隊
・H砲兵連隊/軽砲第3中隊
・普野戦砲兵第9連隊/軽砲第3中隊
・普野戦砲兵第9連隊/重砲第4中隊
・普野戦砲兵第9連隊/軽砲第4中隊
・普野戦砲兵第9連隊/重砲第2中隊
・普野戦砲兵第9連隊/軽砲第2中隊
・普野戦砲兵第9連隊/軽砲第1中隊
*パリ~オルレアン大街道の西側
・普野戦砲兵第9連隊/重砲第1中隊
・普野戦砲兵第9連隊/重砲第3中隊
・H砲兵連隊/軽砲第1中隊
・H砲兵連隊/重砲第2中隊
・H砲兵連隊/騎砲兵中隊
*シュヴーの南東側(ただし砲列の並びは不明)
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第3中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第4中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第5中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第6中隊
・普野戦砲兵第11連隊/重砲第3中隊
・普野戦砲兵第11連隊/重砲第4中隊
※シュヴィイ周辺とその南側の仏軍砲列(砲数は定数。実際はこれより少なかったと思われます)
*仏第15軍団第2「マルティノー」師団砲兵隊
・仏砲兵第9連隊/第18中隊(4ポンド砲x6)
・仏砲兵第12連隊/第18中隊(4ポンド砲x6)
・元・近衛砲兵連隊/第14「山砲」中隊(4ポンド砲x6)
*仏第15軍団砲兵隊 シャップ大佐指揮
・仏砲兵第2連隊/第19中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第2連隊/第20中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第3連隊/第13中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第3連隊/第14中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第3連隊/第15中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第3連隊/第16中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第6連隊/第11中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第6連隊/第12中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第18連隊/第14中隊(4ポンド騎砲x6)
・仏砲兵第19連隊/第14中隊(4ポンド騎砲x6)
・仏砲兵第19連隊/第15中隊(4ポンド騎砲x6)
・仏混成砲兵第29「海軍」中隊(8ポンド砲x6)
・仏混成砲兵第30「海軍」中隊(8ポンド砲x6)
・仏砲兵第7連隊/第20中隊(ミトライユーズ砲x8)
戦う仏海軍砲兵(シュヴィイ)
この双方合わせて200門以上に及ぶ砲撃戦は、劣勢となる仏軍砲兵(詳細不明ですが12~18個中隊、90門前後と思われます)も猛烈に叩き続ける普軍砲列に負けず榴弾を送り続けました。この砲撃によりアンデグルーとシュヴィイの家屋の多くで炎が上がり、フェルム・ドゥ・ボーヴェ(農家。ラ・クロワ・ブリケの東1.2キロ。現存します)とレ・フォリ(農家。同南東1.4キロ)に残っていた仏軍はH猟兵第2大隊に攻撃されて駆逐され、両農家はH猟兵によって占領しました。
シュヴィイ付近の仏軍野戦砲兵は前線の友軍歩兵が後退したことで陣地を撤して退却し、その後1時間はシュヴィイ南西のオルレアン大森林西端付近に砲列を敷いた2個砲兵中隊が後退援護の対抗砲撃を行いましたが、こちらも辺りが夕闇に沈む頃(午後5時30分)、砲撃を止めるのでした。
砲兵が激しい砲撃戦を行っている間にラ・クロワ・ブリケの南側まで移動していた普第18師団主力は砲撃が終了した直後、大街道の両側に分かれて砲火によって炎上するシュヴィイへ向かい、その後方からは砲撃を終えて砲を前車に繋いだ5個砲兵中隊が続行しました。フォン・プットカマー将軍はこの砲兵諸中隊がシュヴィイの北600mまで接近した所で再び砲列を敷くよう命令し、砲兵たちはこの地点から再びシュヴィイを砲撃します。しかし部落や周辺からは応射はなく、市街地からも仏軍は撤退をした様子でした。夜に入り暗闇が辺りを支配し始めてから独軍諸隊はシュヴィイへ入ろうとしますが、ここでカール王子から「シュヴィイ占領はこれを禁じる」との意外な命令が届くのです。
これはフリードリヒ・フランツ2世大公が「夜陰の中で強固な防御工事を施した市街を攻略するのは危険」と考え、カール王子も「第二軍はオルレアン攻撃に大公軍との協調を必要としている」として貴重な戦力の損耗を恐れ夜間の攻撃を禁じたのでした。
これにより、普第18師団は前哨をシュヴィイ面前に出すとラ・クロワ・ブリケ周辺で野営に入り、H師団と第9軍団砲兵隊はアルトネとダンブロンとの間、普騎兵第6師団はリュアンとトリネ(それぞれアルトネの北東と東5.6キロ)の間でそれぞれ野営しました。
普第22師団は「大砲撃戦」の間、シュヴーの南東側に展開した同師団砲列の後方で待機していましたが、砲撃終了直後、師団の驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊斥侯から「敵がシュヴィイから撤退した」との報告を受け、フォン・ヴィッティヒ師団長は「シュヴィイを占領する」としてその準備を麾下に命じました。これにより普第95「チューリンゲン第6」連隊と驃騎兵第13連隊の2個小隊は前哨としてジディ(シュヴィイの南南西5.1キロ)からオルレアン大森林西端までの間を警戒し、師団に同行していた普騎兵第2師団は西側に展開する大公軍主力と連絡するためボージョンシー・ル・キュイ周辺で野営に入りました。
マルティノー・デ・シェネ将軍は午後4時30分、殆ど弾薬を使い果たした部下をシュヴィイからセルコット(シュヴィイの南4.9キロ)に向けて後退させます。将軍はこの地で同僚ペタヴァン少将と会し、疲れ果てた兵士たちはセルコット周辺で宿・野営に入るのでした。
仏軍砲兵の後退




