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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
393/534

ロワニとププリーの戦い/ロワニの戦闘・後半戦とププリーの激戦

ププリー付近戦闘図

 挿絵(By みてみん)



☆ 普第17師団とB第1軍団のロワニ攻防戦


 普第17師団と普第22師団が協力してリュモーを確保し、仏第16軍団の第3師団(モランディ准将指揮)を撃破しつつある中、普第17師団長のフォン・トレスコウ中将はシャンドゥ(グリー城館の北東1.4キロ)に一時留め置いた普第33旅団に命じ、B軍の左翼(東)側で行われている戦闘に関与させます。この際、普第75連隊の第1、F両大隊と普槍騎兵第11連隊の第4中隊は「師団長直轄予備」に指定されてシャンドゥ周辺で留め置かれ、普第33旅団長の男爵フーゴ・カール・エルンスト・フォン・コトヴィッツ少将は正午過ぎ、普第76連隊と普第75連隊の第2大隊をロアニの方向へ進撃させ、付近のB軍を含む砲兵8個中隊に対し、梯団を組んでリュモーの西側にて歩兵に追従するよう促し、これを西へ振り向けさせました。この強力な集団はちょうどシャトー・ドゥ・グリーに対する仏第16軍団第1師団第1旅団(ブルディヨン准将指揮)の突撃に遭遇するのでした。

 この時、普第75連隊の第5中隊と普第76連隊の第1,4中隊はグリーに向かった諸隊の側面援護としてエキュイヨン(リュモーからは西へ2.8キロ)へ向かいますが、途中普槍騎兵第11連隊第2中隊に壊滅させられたモランディ師団砲兵(既述)が遺棄した砲2門を鹵獲しています。また、普第75連隊の第7中隊は昨日まで弾薬や糧食縦列の護衛をしていましたが、この2日早朝、同連隊の第4中隊と交代して第1大隊に加わっています(本来第7中隊は第2大隊所属です)。


挿絵(By みてみん)

コトヴィッツ

挿絵(By みてみん)

仏軍散兵を襲う普軍(エミール・ヒュンテン画)


※グリー城館南での戦闘に参加した諸砲兵中隊

○普砲9連/軽砲第5,6中隊

○普砲9連/重砲第5,6中隊

○普砲9連/騎砲兵第1中隊(1個小隊欠)

○普砲9連/騎砲兵第3中隊

○B砲3連/重砲第5,6中隊


 仏ブルディヨン旅団はB第4旅団諸隊によるグリーからの激しい銃撃によって足止めされると、更に東側から突然現れた強力な敵によって不意打ちの形で右翼側面を攻撃され、急ぎロワニの方向へ後退して行きました。この際にブルディヨン准将は部下に対し、ロワニ東郊外の砂利採取場で踏み止まるよう命じましたが、直ぐ後ろから追って来た普第76連隊の2個中隊による銃剣突撃を受け、全く余裕の無くなったブルディヨン旅団主力は部落とその南側へ駆逐されてしまいます。

 勢いに乗った普第76連隊の第2大隊は普第75連隊の諸隊と合流してロワニ部落へ突入し、残りの諸隊はボーヴィリエから前進して来たB第2連隊第3大隊とB猟兵第4大隊の援護射撃を背景にフジューを攻略します。このB軍の2個大隊はフジューから南西へ進みヴィルピオン城館を狙いますが、ヴィルピオンはジョーレギベリ師団とバリー師団の数個大隊によってしっかり護られており、猛銃砲火を浴びたB軍両大隊は大きな損害を受けて後退しました。ほぼ同時にフジューも奪還を目指す仏軍によって激しい榴弾砲撃を受けますが、普軍諸隊はこれを凌いで部落を死守したのです。


 ロワニ攻略を目指すトレスコウ将軍は、部落周辺の仏軍が頑強に抵抗するのを見ると、リュモー付近に待機する普第34旅団の歩兵も西へ進んで参戦するように命じました。

 これによって3個中隊の歩兵が南面警戒としてヴィルール農場(ロワニの南1.2キロ)へ進み、別の3個中隊はグリー城館から前進して来たB軍諸隊と合同でロワニの西側街道口へ、残りの諸隊は同東街道口へそれぞれ進みました。


※ロワニ攻撃の独軍諸隊

*ロワニへ先に突入した部隊

○普第75連隊・第6,7,8中隊

○普第76連隊・第2大隊

*ロワニ東郊外の砂利採取場

○普第76連隊・第2,3中隊

*ヴィルールへ前進

○普擲弾兵第89連隊・第3,4中隊

○普フュージリア第90連隊・第12中隊

*ロワニの西街道口へ前進

○普擲弾兵第89連隊・第1中隊

○普フュージリア第90連隊・第10中隊

○普猟兵第14大隊・第3中隊

○B第10連隊・第2大隊

*ロワニの東街道口へ前進

○普フュージリア第90連隊・第1大隊と第9,11中隊

○普猟兵第14大隊・第1,2,4中隊


挿絵(By みてみん)

攻撃する普第17師団


 東西から部落内へ1個連隊強の兵力で侵入した独軍は頑強に抵抗する仏ブルディヨン旅団将兵を次第に圧迫し、その多くを部落外へ追い出すことに成功します。ブルディヨン准将らはヴィルピオンに向けて撤退しますが、仏マルシェ第37連隊の主力2個大隊は部落西側の高所にある墓地に立て籠って抵抗を続けました。

 この時、歩兵に追従して前進した独軍砲兵8個中隊はロワニの東1キロ強(エキュイヨン付近)まで接近しますが、歩兵が市街戦へ移行したため砲撃することは出来ません。逆に部落から追い出された仏軍が砲兵の左翼(南)に突撃しましたが、これは砲兵護衛に付いていた普竜騎兵第17連隊の第5中隊が迎撃し、仏兵の多くが倒され一部が捕虜となるのです。この時、竜騎兵連隊の主力は普第17師団主力の側面援護をしており、機会を捉えてヴィルピオンに向け突進を試みましたが、城館近くに展開していた仏軍砲兵中隊の急射撃を受けて失敗し撤退しています。


挿絵(By みてみん)

ロワニ墓地の争奪戦(仏マルシェ37連隊)


 ロワニが墓地を除いて確保されたため、B第1軍団左翼側の戦いは随分と楽になりました。そのため、シャトー・ドゥ・グリーとヴィルプレヴォ間の第一線にあったB軍全ての砲兵は、普騎兵第4師団の騎砲兵2個中隊と共にロワニ付近まで前進し再展開するのです。


※ロワニ周辺まで前進した独軍砲兵(左翼/東側から右翼へ順に)

*ボーヴィリエの南

・B砲1連/軽砲第4中隊

・B砲3連/重砲第4中隊

・B砲3連/重砲第3中隊

*ボーヴィリエとモラルの家の間

・B砲1連/重砲第6中隊

・B砲1連/重砲第7中隊

・B砲3連/重砲第8中隊

・B砲3連/重砲第7中隊

*モラルの家西

・B砲4連/重砲第10中隊

・B砲1連/重砲第9中隊

・B砲1連/重砲第5中隊

・B砲3連/12ポンド砲第12中隊

・B砲1連/軽砲第3中隊

*ラ・マラドルリの南西

・B砲3連/騎砲兵第1中隊

・B砲3連/騎砲兵第2中隊

*ヴィルラン付近

・普砲5連/騎砲兵第1中隊

・普砲11連/騎砲兵第2中隊


挿絵(By みてみん)

ロワニから撤退する仏ジョーレギベリ師団将兵


 この80門以上(それまでの戦闘による損耗で十数門が使用不能となっていました)となる砲列は凄まじい威力を発揮します。唸りを上げる榴弾はヴィルピオン周辺に展開するドゥブランク旅団の戦列に次々と落下して損害を与え、後退して来たブルディヨン旅団もまた損害を受けました。

 仏第16軍団長のシャンジー将軍は既に正午頃、パテ(テルミニエの南西5キロ)付近に到達した仏第17軍団の前衛に対し増援を要請していましたが、この頃になってヴィルピオンの東、ファヴロル付近に第17軍団第2師団(エルンスト・リュドヴィック・デュ・ボア・ドゥ・ジャンシニー少将指揮)の1個旅団と軍団砲兵隊が到着したのです。


 B第1軍団長フォン・デア・タン大将は、砲兵が仏軍を圧倒している間に後方で弾薬を補充しボーヴィリエとモラルの家周辺に再集合したB第1師団に対し午後2時30分、軍団砲兵隊の援護下でヴィルランからヴィルピオンに向けての攻撃前進を命じました。この際にフジューで普第17師団を助けヴィルピオンで跳ね返されたB第2連隊第3大隊とB猟兵第4大隊はモラルの家で本隊と合流しています。

 B第2師団の方はその左翼、普第17師団の戦線後方にあってフジュー方向へ前進しました。この時B猟兵第1と第9大隊はヴィルランの南に展開する砲列による猛烈な支援射撃を受け、ロワニからヴィルピオンに通じる街道(現・国道D109号線)の傍らにポツンと存在していた林(ヴィルピオンの北北東950m付近。現存しません)に居残っていた仏軍部隊を攻撃してヴィルピオンに追い払いました。しかし、ヴィルピオンから激しい銃撃とミトライユーズ砲の猛射撃を浴び、その様子を見ていた軍団本営よりその先への前進を止められたのです。


 普第4師団長、王弟アルブレヒト親王騎兵大将はヴィルラン付近から前進するB軍諸隊を見て、その右翼(西側)ヴィルヴェ周辺で待機する普騎兵第9と第10旅団そして普胸甲騎兵第5「ヴェストプロイセン」連隊に命じ、一斉にヴィルピオン目掛け突進させます。ほぼ同時にB胸甲騎兵旅団もその最外右翼側でコルニエール農場へ進もうと前進を開始しました。ところがこの行動はファヴロル付近に砲列を敷く仏第17軍団の軍団砲兵に発見され、およそ40門の榴弾砲撃により前進を阻止された独軍の諸騎兵隊はショヴルー農場(ヴィヴレの南西2キロ)へ急ぎ進んで砲の有効射程外へ逃れるのでした。しかし、騎兵に同行していた騎砲兵3個中隊(B砲3連の騎砲兵第1,2中隊と普砲5連の騎砲兵第1中隊)は騎兵2,3個中隊に護衛されつつノンヌヴィル近郊まで肉薄し、その軽快な機動力を発揮して対抗砲撃を受ける度に陣地転換を行い、ヴィルピオンの仏軍に近距離から榴弾を浴びせ続けます。この砲兵は、独軍騎兵の再南下に対抗するためギヨンヴィルへ前進して来た仏ミシェル少将の騎兵師団に対しても砲撃を行い、その正確な砲撃を前にミシェル将軍は何も出来ず、またもや後退を命じるしかありませんでした。

 このギヨンヴィル方面の敵が消えたのを見た普騎兵第9旅団長フォン・ベルンハルト少将は、麾下騎兵と共にヴィルピオンの仏軍戦線後方を走り抜けて一挙にゴミエを襲撃しようと計りましたが、さすがにこれはヴィルピオンとゴミエの仏軍から猛烈な十字砲火を浴びて失敗し撤退しています。


☆ ロワニ攻防の終盤戦


 仏第17軍団長のルイ=ガストン・ドゥ・ソニ将軍は、シャンジー将軍の仏第16軍団右翼(第3師団)がリュモーの南から撤退を始め、ヴィルピオンの2個師団も次第に圧迫されている状況では、ファヴロルで奮闘するピエール・バルバリー・ドゥ・ラングラード大佐率いる第17軍団砲兵隊も危ない、と考えて午後3時前、パテから「西部ヴォロンテール(ボランティア/義勇兵)連隊」(元ローマ教皇領護衛隊のズアーブ兵による)や「ブリダ」中隊、トゥール「共和国」中隊など義勇兵集団800名を率いて出発し、道中未だ戦闘力を有していた将兵たちを拾い集めつつ前進しました。


挿絵(By みてみん)

 ソニ


 ローマ教皇領ズアーブ兵部隊とは、1860年に組織された教皇領の守備隊で、それまでのオーストリア帝国軍部隊に代わりイタリア(サルディニア)王国やガルバルディを始めとする共和主義者たちからローマ教皇領を護るため、熱心なカトリック信者のフランスとベルギー人義勇兵がローマに集合したことから発足します。翌61年「教皇のズアーブ」と呼ばれ始め、やがて世界各地から参集した若い未婚の男性信者の義勇兵(ボランティア)によって組織された「国際義勇兵部隊」に育ちます。部隊の共通語は仏語とされ、初代隊長はスイス人のM・アレット大佐でした。

 部隊は1868年5月に4,592名と最大の人員を数え、1860年から1870年までの10年間に所属したのは1,910名のオランダ人・1,301名のフランス人・686名のベルギー人の他、英国人やプロシア人、南ドイツ人やアメリカ人も少数ながら参加し、少なくとも黒人3名、中国人1名もいた、とされます。この内常時700名前後いた仏人ズアーブは、同時期に仏帝政から派遣されていた「教皇領派遣部隊」とは全くの別物で、仏軍に属さない純粋な義勇兵でした。

 1870年の9月上旬。セダンの戦いにより仏帝政が崩壊、仏軍の教皇領派遣部隊は本国に召還されますが、ズアーブの仏人はそのまま部隊に残り、教皇領ズアーブの隊長は仏人のアタナーズ・シャルル・マリエ・ドゥ・シャレット大佐となりました。やがてイタリア王国軍の教皇領侵攻を迎え、この結果ローマが占領され教皇領ズアーブは解散させられてしまいました。仏人ズアーブたちはシャレット大佐と共に9月下旬フランスはトゥーロンへ強制送還され、シャレット大佐は500名程度となった「旧」教皇領ズアーブ兵と共に心機一転、独軍と戦うためトゥール派遣部に従軍を申し出ました。ガンベタはその特徴的な教皇領ズアーブの制服着用共々ロアール軍への参加を許し、部隊は「西部ヴォロンテール(ボランティア)連隊」(実態は200から300名程度を1個大隊とした2個大隊制)の名で当初は仏第15軍団に所属し、第1次オルレアンの戦いに参戦した後、第17軍団所属の義勇兵として(このロアニとププリー戦後、第3師団第2旅団所属となります)12月を迎えました。


挿絵(By みてみん)

 シャレット


 「ヴィルピオンの戦い」終了後の12月1日夜、トゥルノワジ近郊にいた「西部ヴォロンテール連隊」はソニ将軍からパテへ進むよう命令されます。シャレット大佐らズアーブ達は第17軍団の前衛と共に翌2日朝にパテへ到着しました。敬虔なカトリックのソニ将軍らはパテの教会で祈りを捧げます。パテは「百年戦争」当時、ジャンヌ・ダルク率いるフランス軍がオルレアン解囲の直後、初めて野戦で英国軍に勝利した場所(1429年6月)で、仏軍にとって大変縁起の良い場所でした。正午過ぎ、将軍は前線のシャンジー将軍より増援を要請され、前衛の1個旅団と軍団砲兵をファヴロルへ送り出しました。

 先述通り午後3時、前線の危機を悟ったソニ将軍は、ズアーブ兵を前に出撃を告げます。「勇敢なズアーブよ。先に送った2個連隊は独軍によって脅威に晒されている。諸君らが前線で怖気付く者たちに勇気を示す時が訪れた。急げ、ズアーブ!」

「ピウス9世(当時の教皇)よ永遠なれ、フランスよ永遠なれ」の合い言葉が敬虔なズアーブ兵の間で響き渡ります。シャレット大佐は18名の士官と下士官兵198名からなる第2大隊をパテの街に残し、士官14名と下士官兵300名の第1大隊と共に、トゥールの修道女たちから受け取った「イエスの心・フランスを救う」と記されたイエスの「心臓」を描いた隊旗を掲げ前進しました。


挿絵(By みてみん)

12月2日の教皇領ズアーブの士官たち


 ソニ将軍らはゴミエを経て急ぎファヴロルへ進むと、休む間もなくロワニに向かって前進を継続します。普軍側はこの動きを察知すると、ヴィルール在の歩兵3個中隊に対しロワニから増援として1個大隊の歩兵を送りました。これら諸隊はヴィルール農場とその付近の林(現存しません)でソニ将軍の「支隊」を待ち受けるのでした。


 この普軍の散兵線に対しソニ将軍の支隊は正面から衝突します。将軍率いる第17軍団兵が突進する中、シャレット大佐のズアーブは援護射撃を行いますが、普軍は頑強に抵抗し後退の兆しは見られません。そこで大佐は部下に着剣を命じ、目前の林に対して突撃を命じます。猛烈な銃火の中、ズアーブたちは開墾地を駆け抜け、林に殺到して普軍3個中隊を駆逐しました。同時にヴィルール農場の普軍も圧倒され、普軍の前線諸中隊はロワニの南にある小林(ロワニ中心部から南へ550m。現存します)まで一気に後退しました。


挿絵(By みてみん)

ソニ将軍と教皇領ズアーブの突撃


 しかし、無謀とも言える突撃は仏軍側にも多くの犠牲を強いることになり、騎乗して指揮を執っていたソニ将軍も大腿に銃弾を受けて倒れます。

 これに対しロワニで掃討戦を続ける普軍のフォン・トレスコウ将軍は、南から迫る敵の脅威に対抗するため最後に残った師団の予備、シャンドゥからロワニに進んで来た普第75連隊の第1、F両大隊を投入する決心をします。しかしこの両大隊も既にシャンドゥ付近で待機中、榴弾砲撃とシャスポーの狙撃を受けて損害を出しており、第1大隊長のフォン・ヒルシュフェルト少佐を失っていました。

 犠牲を出しつつも攻撃を続行する仏軍に対し、更にロワニから撃って出た3個中隊と合流した普第75連隊第1、F大隊は、部落南で戦うヴィルールから後退した諸隊と共に攻撃前進し、ソニ将軍の部隊と対決します。

 この従前より倍以上に膨れた普軍の激しい銃撃と白兵戦により仏軍は完全に崩壊し、ヴィルール農場は再度普軍の手に戻りました。ソニ将軍に続きシャレット大佐も2度に渡って銃弾を受け重傷を負いました。

 これで戦線を支えきれなくなった仏第17軍団諸隊は一気に後退局面となり、それは直ぐに潰走状態になります。砲兵も殆ど砲弾を使い果たしミトライユーズ砲1門と多くの捕虜を残して撤退しました。この間、ロワニの墓地に籠った仏マルシェ第37連隊の将兵も、完全に包囲されて殲滅されてしまったのです。

 しかし既に日没となり、普軍もB軍も損害と疲弊が大きく、これ以上の攻撃や追撃を行うことは出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

倒れたソニ将軍とロワニへ突撃する教皇領ズアーブ

挿絵(By みてみん)

「ロワニの戦い」(Charles Castellani 1879)


※ソニ将軍の部隊と戦った普軍諸隊

*ヴィルール農場

○普擲弾兵第89連隊・第3,4中隊

○普フュージリア第90連隊・第12中隊

*ロワニから増援として南下、付近の林に展開

○普猟兵第14大隊・第1,2,4中隊

○普フュージリア第90連隊・第9中隊

*シャンドゥから参戦

○普第75連隊第1、F大隊

*ロワニで第75連隊に加わった攻撃隊

○普擲弾兵第89連隊・第1中隊

○普フュージリア第90連隊・第10中隊

○普猟兵第14大隊・第3中隊


挿絵(By みてみん)

ソニ将軍とシャレット大佐


 この日の戦いによる教皇領ズアーブ部隊の損害もまた大きく、彼らが戦ったロワニ南の細長い林(現在は「ズアーブの森」と呼ばれ追悼碑があります)周辺には青いジャケットとバギーパンツスタイルの制服を着た兵士の遺体が散らばっていました。重傷を負ったシャレット大佐を含め部隊の士官14人中11名が死傷し、「イエスの聖心臓」旗を捧げ持っていた旗手は7回も交代して内3名が戦死、4名が負傷(即ち最後の旗手も負傷)しました。ある中隊では2名の古参兵以外全員が戦死、大隊は下士官兵300名中218名(内戦死は110名)の損害を出しました。他の義勇兵中隊も62名の戦死者を出しています。


 ソニ将軍とこのズアーブ達には後刻談があります。

 負傷したソニ将軍がシャレット大佐を始め多くのズアーブ負傷兵たちと共に戦闘の終了した戦場で搬送されるのを待っていた時、横たわり激痛にじっと耐えていた将軍の目の前に突然聖母マリアが現れ、「まだ全てが失われたわけではない。フランスは生き残る」と告げて消えるという奇跡が起きたのです。

 ロワニの戦傷により左足を切断したソニ将軍は、戦後スピリチュアルな残り人生を過ごしました(1887年死去)。


挿絵(By みてみん)

ロワニの新教会の祭壇画「ロワニ12月2日の夜」(リオネル・ロワイエ画)

挿絵(By みてみん)

「ロワニ12月2日の夜」部分

挿絵(By みてみん)

戦後義足となったソニ将軍


 教皇領を失い、イタリア王国と絶交状態となって「バチカン」に閉じ籠っていた教皇ピウス9世は、シャレットら忠実なズアーブ達が仏での戦闘で傷ついたことを知らされると、「シャレットと彼の勇敢な息子たちに出来る限り早く伝えるように」と慰安の言葉を下しています。

 「私は彼らがまだ私の下にあると考えている。彼らがどこにいようと、私は彼らとの思い出を守り、常に彼らのために祈り、そして願っている。魂の中で、私は常に彼らと共にある」


挿絵(By みてみん)

教皇ピウス9世


☆ ププリーの戦い


 普第22師団がリュモーの南へ進んだ時、今朝方ダンブロン(アルトネの北3.6キロ)方面へ派出していた普騎兵第3旅団から伝令が到着します。伝令が告げるには「仏の大軍がアルトネからアレーヌ及びトゥーリーに向かい前進中」とのことでした。これに対抗可能な兵力はトゥーリー周辺でオルレアン~パリ大街道を守る普騎兵第5旅団のみ(普騎兵第2師団残りの普騎兵第4旅団はピティヴィエの南に展開しています)で、状況を素早く飲み込んだ普第22師団長のフォン・ヴィッティヒ将軍は「師団の全力を挙げオルレアン~パリ街道に現れた敵を叩く」と決しました。

 この時、ヴィッティヒ将軍はメクレンブルク=シュヴェリーン大公より「普第22師団はロワニに向け前進せよ」との命令を受けたばかりでしたが、将軍は「詳細なる状況を知り、これに鑑み師団はアルトネ方向に進む」との報告を大公宛に送ったのです。

 ヴィッティヒ将軍は直ちに命令を発し、それによれば「普第43旅団はオヌー(リュモーの東南東1.3キロ)からミルアール(オヌーの南東2.1キロ)に向かい、師団砲兵はその後方に続行、普第44旅団はこの間に集合して砲兵隊に密接してその後方を進み、この旅団右翼側(南)に師団騎兵の普驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊が展開して偵察任務に当たれ」とのことでした。


 一方、仏第15軍団はこの2日朝、軍団第3師団(ペタヴァン少将指揮)をジディ(シュヴィイの南東5キロ)からサンティリーを目標に北上させ、軍団第2師団(マルティノー・デ・シェネ少将指揮)はその右翼側(東)でリュアン(アルトネの北東5.6キロ)とアシェール(=ル=マルシェ。同東北東10キロ)を目標に前進、軍団第1師団(ベルトラン・ドゥ・シャブロン准将指揮)は更にその東で北上を開始しました。

 軍団第3「ペタヴァン」師団は正午頃ダンブロンに達し、すると付近まで進んでいたヴィルヘルム・ギュンター・イーノ・フォン・コロンブ少将の普騎兵第3旅団(普槍騎兵第2「シュレジェン」連隊・普胸甲騎兵第1「親衛/シュレジェン」連隊)と遭遇します。仏軍は直ちに砲兵を展開して普軍騎兵をププリー(アルトネの北西3.5キロ)の北へ追い払い、北上を再開しましたが、その直後、ミルアール方向に普軍の縦列が進み来るのを発見し、これと対戦するためププリーへ転進するのでした。


挿絵(By みてみん)

 コロンブ


 普第43旅団長ヘルマン・フォン・コンツキー大佐は仏軍がププリーに向けて進み始めたのを見ると、これに先んじてププリーを占領しようと部下を叱咤して行軍を急がせ、旅団の先頭に立つ普第95「チューリンゲン第6」連隊を直率すると駆け足でププリーへ突進しました。連隊の第1大隊は部落に入るとその中央でほぼ同時に部落へ進入した仏軍の前衛と衝突し、短時間の戦闘でこれを撃退して部落から追い出すことに成功しました。第1大隊はそのまま部落の東端に展開して仏軍の襲来に備え、続けて部落に侵入した同連隊の第2大隊は部落北郊外でエアール(ベニョーの北東2.2キロ)に向かう小街道(現・国道D356.2号線)の西側にある森林(現存します)の所まで突進して急ぎ散兵線を敷くと、仏軍左翼(北)側から包囲しようと街道の東側に沿って南北に別れ広がる林(ごく一部のみ残っています)で機動する仏散兵群とその後方の縦隊を銃撃して出鼻を挫く手柄を立てました。

 旅団前衛の2個大隊がププリー周辺で仏軍を抑え撃つ間に、普第22師団の強力な砲兵隊(通常師団の1.5倍となる6個中隊)はププリー南方に砲列を敷き、後続する普第32「チューリンゲン第2」連隊も、執拗に繰り返される仏軍の突撃を阻止するため順次前線に進出するのでした。


 一方、ペタヴァン師団がププリーで阻止されたのを見たドーレル将軍は、中央を進む軍団第2「デ・シェネ」師団と第15軍団砲兵隊の一部をペタヴァン師団の救援に向かわせる決心をしてそれぞれに命令を下します。

 この結果、野戦砲兵2個中隊とミトライユーズ砲1個中隊強(10門)がオートロッシュ(アルトネの西1.4キロ)の西郊外に進んで急ぎ砲列を敷き、その東側では数個大隊の歩兵がオートロッシュの南北に散兵線を敷き、その南端はオヴィイエ城館(オートロッシュの南1.7キロ)に達しました。


 こうして普仏双方散兵線を敷いた本格的な持久銃撃戦となりましたが、やがて普軍側左翼(北)に増援が到着します。これはアルトゥール・カール・レーブレヒト・マルシャル・フォン・ビーバーシュタイン大佐率いる普第44旅団で、ププリー郊外で指揮を執るヴィッティヒ将軍は直ちにその普94「チューリンゲン第5/ザクセン大公国」連隊を部落北方の森へ、普第83「ヘッセン第3」連隊を部落内へ送りました。この時、普第83連隊のF大隊は砲列の右翼(南)側援護に回され、同時に普砲11連軽砲第5中隊は部落北西方後方の準備陣地で待機し、同軽砲第3中隊は普第94連隊の陣地へ進みました。

 師団の全てが集合したヴィッティヒ将軍は、ここで仏軍に対する一斉攻撃を企てます。将軍はコンツキー大佐に対し第43旅団の全力で東側の仏軍散兵線を叩くように命じ、大佐は旅団主力を率いると仏軍の散兵線に向かって突撃を敢行し、慌てた仏軍の第一線部隊を後退させることに成功するのです。ところがこれはその後方に控えていた仏軍の第二線部隊の猛反撃を呼び込み、「息切れ」した普軍諸中隊は一斉に元の陣地へ急速後退する羽目に陥りました。この激しい攻防の最中、前線で騎乗し指揮を執ったコンツキー大佐は複数の銃弾を浴びて戦死してしまうのです。


挿絵(By みてみん)

フォン・コンツキー大佐の死


 これで普第22師団は一気に危機へ陥り掛けますが、仏ペタヴァン師団は自軍の第一線より前進せず、再び対峙を続けたため普軍側は一息吐くことが出来ました。ここで普第83連隊の第1大隊は再び部落の予備となって後方に控え、普第95連隊の第1大隊は左翼(北)の予備となって森の前線を支えるのでした。

 このププリー北の戦線では、第94と第95連隊の一部がエアール街道を挟んで東側に展開する仏軍と銃撃戦を続けており、午後3時になると仏軍の新たな部隊が参戦して街道東側の南北に分かれた林から前進して街道を渡り始め、更に砲兵1個中隊が急進するとこの2つの林間に砲を敷いて近距離から砲撃を開始しました。この強力な仏軍部隊はやがて街道西側の普軍散兵線まで150mと至近距離に接近します。ここで北方の準備陣地に待機していた軽砲第5中隊が急遽散兵線まで前進して霰弾を速射して仏軍歩兵を脅かしたため、仏軍は一気に二つの林まで後退して行き、林間の砲兵中隊も退却しました。


 この時、ププリーの北2キロのエアール街道沿いで待機していた普騎兵第3旅団長フォン・コロンブ少将は6個中隊の騎兵(この時普槍騎兵第2連隊第4中隊はダンブロン北方で警戒任務に、同連隊第5中隊はトゥーリー周辺に残留していました)を直率してププリー北方の森林北東縁に沿って南下し、後退する仏軍の歩兵を襲撃します。しかし仏軍歩兵は素早くこれをかわしたため攻撃は失敗してしまいました。去って行く仏兵に対しては、普軍の軽砲第3中隊が前進して追撃の榴弾砲撃を行っています。


 この激しいププリー北方の戦いの間に、仏軍左翼(南)の4個大隊は直協となったオートロッシュ西方のミトライユーズ砲列による猛烈な援護射撃に助けられて、ラ・ヴィルヌーヴ(農場。アルトネの北西1キロ。現存します)とオートロッシュから一斉に前進し、普軍右翼(南)に襲い掛かりました。

 これに対抗したのはププリー南郊外で砲列の援護を行っていた歩兵5個中隊とププリーから駆け付けた工兵2個中隊で、歩兵たちはモラル(農場。ププリーの南2キロ。現存します。ロワニ北にある同名の「モラルの家」との混同注意)の北方に展開して仏軍を迎撃しました。この時、南方で警戒・偵察任務に就いていた普驃騎兵第13連隊は歩兵の左翼側面を援護するのです。この騎兵連隊は同時に普第17師団と普第22師団の間を警戒していた普竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊と連絡を取り合うのでした。


※ププリー南方で仏軍を迎え撃った部隊

○普第83連隊・F大隊(第9~12中隊)

○普第94連隊・第2中隊

○普第11軍団工兵・第1,3中隊


 このププリー南部の戦線でも激しい銃撃戦と白兵戦が発生しますが、普軍側は数的劣勢にありながらも持ち堪え、仏軍の前線突破を許しませんでした。しかしこの戦闘中、普第83連隊F大隊長のレンゲルケ少佐は胸に銃弾を受けて戦死してしまったのです。


挿絵(By みてみん)

 戦う普第83連隊


 午後4時を過ぎ、夕方が近付くと焦った仏軍はププリーの普軍全戦線に向けて猛烈な砲撃とミトライユーズ砲の射撃を開始し、それが止むと同時に仏ペタヴァン師団とデ・シェネ師団の一部は密集した散兵群を作って一斉突撃を敢行しました。しかし、既に長時間の戦闘で疲れ果てていた仏兵の威力は薄く、戦線南ではモラルの東で迎撃した普軍工兵2個中隊が、ププリー部落東縁では普32連隊諸中隊が、それぞれ仏軍の攻撃を容易に食い止め、短時間で仏軍は後退して行くのです。

 ところが、戦線北部における仏軍の突撃は強烈で、それまで何とか森の前縁で持ち堪えていた普軍4個大隊(普第94連隊、普第95連隊第2大隊)は左翼(北)側面から背面に回り込まれ、ププリー部落の北まで一斉に後退するしかなくなるのでした。北部戦線の危機に予備の普第95連隊の第1大隊が出撃しましたが、仏軍を防ぐことは出来ず、普軍の北部前線は森からベニョーへの街道(現・国道D10号線)まで下がってしまうのです。それでも勇敢な一部将兵が森に残り、ほとんど四方を囲まれながらも激しく抵抗し、仏軍のププリー背面(西側)へ回る包囲運動を阻止します。しかしこの戦闘前の砲撃時、赴任したばかりの第94連隊長心得、フォン・パルメンシュタイン中佐は大腿部に榴弾の弾いた石を受け、動脈を切断し瀕死の重傷を負ってしまいました(翌日リュモーの野戦病院で死去します)。


挿絵(By みてみん)

ププリー郊外の農場へ侵入する仏軍


 この時、ププリー北西郊外の準備陣地にいた師団の総予備、普第83連隊の第1、2大隊が旅団長のフォン・ビーバーシュタイン大佐に命じられて逆襲を開始しました。この2個大隊はベニョー街道筋で援護射撃を行う普第94、95連隊兵の前を通り過ぎると、一斉に声を上げて仏軍を威嚇し、直後雪崩のような強烈な突撃を敢行しました。

 ここが戦いの「分水嶺」で、北部戦線の仏軍は一斉に後退を始め、エアールへの小街道を越え、東側の森に逃げ込むのでした。この北方で参戦の機会を待っていたコロンブ将軍の普騎兵第3旅団は、既に闇が迫る中逃げる仏軍に対し再び突撃を敢行しますが、その東側の森に潜んだ散兵群から猛烈な銃撃を浴び、またもや待避するしかありませんでした。


挿絵(By みてみん)

普胸甲騎兵第1連隊の攻撃(コテル画)


 これでププリーの戦闘も大方終了しました。

 普第22師団諸隊は深夜午後11時まで警戒を解かずにププリー周辺の陣地を動かず、その後日付が変わる頃、砲兵6個中隊を歩兵数個中隊に護衛させてリュモーへ送り、その後方を師団本隊と騎兵が進み、歩兵たちはオヌーとドマンヴィル周辺で野営し、普騎兵第3旅団はベニョーで宿営しました。


 ロワニ周辺に集合した独軍諸隊は午後7時に夜間の配置に入りました。普第17師団は本隊がリュモー付近で、前衛がロアニとフジュー周辺でそれぞれ野営、B第1軍団はロワニ、フジューの他、ヴィルラン、オルジュール、ラ・マラドルリそしてタノンで宿営しました。普騎兵第4師団の内、普騎兵第8と第9旅団がコルマンヴィル、クルブアイユ、サンシュヴィル(それぞれオルジュールの西5.8キロ、西北西5.8キロ、北西9.5キロ)で宿営し、普騎兵第10旅団はリュモー付近で宿営して普第17と第22師団の間をつなぎ、この騎兵の前哨は南から南東方向に進んで警戒網を広げました。


 仏ロアール軍の第16軍団第1「ジョーレギベリ」師団はヴィルピオン、ファヴロル、テルミニエ周辺で、同軍団第2「バリー」師団はゴミエ周辺で、同軍団第3「モランディ」師団は遥か南のコエートル(パテの東南東8.2キロ)周辺で宿・野営し、ミシェル騎兵師団はミュゼル周辺で野営、仏第17軍団諸隊はパテ、ルヴレ(=サント=クロワ)、そしてテルミニエで宿・野営しました。ププリーで戦った仏第15軍団の諸隊は結局アルトネまで退却して宿・野営を行っています。


 12月2日の「ロワニとププリーの戦い」(独呼称。仏名称は「ロワニの戦い」)で仏ロワール軍は死傷者4,000名以上を出し、北上を完全に止められてしまいました。独軍は野砲8門、ミトライユーズ砲1門、軍旗1旒を鹵獲、負傷者を除く捕虜は約2,500名となりましたが、独軍側もまた4,000名以上の損害を出したのです。


挿絵(By みてみん)

12月2日のフリードリヒ・フランツ2世大公と本営幕僚たち


※ロワニとププリーの戦い(1870年12月2日)独軍の損害数


○B第1軍団(B第1師団・B第2師団・B胸甲騎兵旅団)

 戦死/士官26名・下士官兵284名・馬匹135頭 負傷/士官80名・下士官兵1,567名・馬匹156頭 行方不明/下士官兵341名

○普第17師団

 戦死/士官19名・下士官兵287名・馬匹57頭 負傷/士官37名(内・軍医1名)・下士官兵678名・馬匹47頭 行方不明/下士官兵68名・馬匹6頭

○普第22師団

 戦死/士官7名・下士官兵131名・馬匹67頭 負傷/士官24名・下士官兵377名・馬匹8頭 行方不明/下士官兵96名

○普騎兵第2師団

 戦死/士官2名・下士官兵6名・馬匹60頭 負傷/士官4名・下士官兵38名・馬匹51頭 行方不明/下士官兵2名・馬匹25頭

○普騎兵第4師団

 戦死/士官3名(内・軍医2名)・下士官兵6名・馬匹29頭 負傷/士官4名・下士官兵22名・馬匹47頭 行方不明/軍医2名・下士官兵35名・馬匹30頭


◇総計

 戦死/士官57名(内・軍医2名)・下士官兵714名・馬匹348頭 負傷/士官149名(内・軍医1名)・下士官兵2,682名・馬匹309頭 行方不明/軍医2名・下士官兵542名・馬匹61頭


挿絵(By みてみん)

モラルの普第83連隊


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