ヴィルピオンの戦い
仏ロアール軍の右翼(東側)2個軍団によるボーヌ=ラ=ロランド奪取が失敗に終わり、仏国防政府トゥール派遣部のレオン・ガンベタらが失望して落ち込んでいた11月30日午前、派遣部にパリから発送された書簡と公報が届きます。
この書簡の束はその4日前にパリから軽気球によってトゥールに向け発せられましたが風向きが全く逆で、悪天候もあって強風に流されたこの気球は遙々ノルウェー南部まで吹き流されてしまいます。どちらかといえば仏に同情的なノルウェー政府はこれを知ると、直ちに宛先のトゥールに向けて速達で発送し直したものでした。
これら書簡によれば、「パリ軍のデュクロ将軍は29日、兵10万と砲400門により一大反攻に及ぶ予定で南方への突破を試み」「独の包囲網を破った後はブールジュ(オルレアンの南南東98キロ)方面にいると思われる友軍と連絡するため、ロアール川上流目指して進み、当初はジアンを目指す」とのことでした。
トゥール派遣部のガンベタは、この2日間デュクロ将軍は突破戦闘中のはずで、時期を逸することなくこれを直ちに援助することが派遣部の使命、と考え、30日の午後、ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍の本営に忠実な補佐官シャルル・ルイ・ドゥ・フレシネを送り込みました。
ガンベタは、「直ちにピティヴィエに向かって前進せよ」と命じた場合、あの頑固なドーレルは抗命に近い状態で反論し軍を動かさない可能性が高いと憂慮し、「今度こそ命令拒否を許してはならない」と考えてフレシネに「もしもドーレル翁がピティヴィエ進撃に反対した場合これを渡すように」と一通の「辞令」を渡しました。この書面はドーレル将軍が「政府の命令を拒否した場合直ちに軍司令官を罷免する」ための「免職辞令」だったのです。ガンベタは既にドーレルが罷免になるだろうと考え、後任はジアンからオルレアンに移ってドーレル将軍から仏第15軍団の指揮を受け継いだベテランのシャルル・ガブリエル・フェリシテ・マルティン・デ・パリエール少将か、数万に及ぶ大軍指揮の経験は浅いものの闘志あふれる仏第16軍団長アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー少将のどちらかにロアール軍を託す気になっていました。
こうして30日夕方、オルレアンの市街西側、サン=ジャン=ドゥ=ラ=ルエルにあるドーレル将軍の本営ではある種の緊張が漂う状態で軍議が開かれましたが、フレシネからデュクロ将軍が出撃したことを告げられ、改めてピティヴィエへの進撃を命じられたドーレル将軍はしばし黙考した後「目下の状況を考慮すれば錬成や編成未了であってもロアール軍は北上しなくてはならぬ」と語り、これには居並ぶ高級士官たちからも異論は出ませんでした。ドーレル将軍は「仏第15軍団第1師団を支点としてロアール軍左翼(西側)は右翼への大旋回を行う」と命じるのです。フレシネはほっとして手にしていた辞令を胸に納めたのでした。
これにより、オルレアンの防衛は右翼がクルミエ近隣まで進んでいたルイ=ガストン・ドゥ・ソニ将軍の仏第17軍団が行い、それによって開く左翼の「穴」はル・マンで編成がほぼ終わったバンジャマン・ジョレス提督率いる仏第21軍団がヴァンドームへ前進することで埋めることとなります。
ピティヴィエ攻撃は軍中央にある仏第15と第16軍団によって行われ、軍右翼の2個(第18、第20)軍団はオルレアン大森林の北縁に沿って待機し、後命を待って先陣2個軍団に続きピティヴィエへ進むことになったのです。
☆ ヴィルピオンの戦い(12月1日)
ヴィルピオン周辺図
12月1日早朝。右翼への転向命令によりクルミエの北部にいた仏第16軍団が動き出します。
主力の軍団第2師団と第3師団はサン=ペラヴィー(=ラ=コロンブ。オルレアンの北西18.7キロ)周辺からスニー(アルトネの南西7.2キロ)に向けて発ち、同第1師団(旧・混成師団)は左翼(北側)警戒としてその第2旅団(ブルディヨン准将指揮)をゴミエへ、第1旅団(ドゥプランク准将)をギヨンヴィルへ向けました。更にコニ川流域にいると思われる独軍を警戒するため、クルミエ戦直後から指揮を取るミシェル少将*の軍団騎兵師団を最左翼後方へ進め、進撃方向の右翼(南)にも少数の騎兵部隊を並進させました。
このブルディヨン旅団は午後2時過ぎにゴミエに接近し、待ち構えていたB軍砲兵4個中隊は射程に入った仏軍の行軍列に対し猛砲撃を開始します。これを見た仏第1軍団第1師団長のジャン・ベルナルディン・ジョーレギベリ海軍少将は歩兵をギヤール農場(ギヨンヴィルの南南東2キロ)へ進めて地歩を固めさせると、その援護射撃の下で砲兵を急進させ、ギヤール農場付近に展開させました。この仏軍砲兵による砲撃はゴミエだけでなくギヨンヴィルに対しても行われ、普騎兵第9旅団は南から迫るドゥブランク旅団からも激しい銃撃を浴び、また西側からはミシェル将軍の騎兵師団が包囲を狙って北東方へ機動し始めたので、旅団長のオットー・ハインリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・ベルンハルト少将は押し寄せる仏軍を前に撤退を決め、配されたB軍歩兵共々急ぎコルマンヴィル(ギヨンヴィルの北西6.7キロ)まで後退するのでした。
このため、ゴミエのB第1旅団はその右翼(西側)が「ガラ空き」となってしまい、この西側と南側から激しい銃砲撃を浴びたB第1旅団長カール・フォン・ディートル少将は午後3時過ぎに後退を命じ、B軍将兵は銃火を浴びながら美しい庭園のあるヴィルピオン城館(ゴミエの北北東2.2キロ)まで下がったのです。
このヴィルピオン城館は当初15世紀に建てられますが、16世紀と17世紀に渡って何回か建て直され、現在の建物は17世紀由来のものを修繕しています。その西側におよそ2平方キロメートル強の美しい庭園を持っており、現在では庭園北東の一角のみが19世紀当時のままに残され、西半分は放射状の園路のみ残し鬱蒼とした森となっています。
田園風景の中に忽然と姿を現す城館に入ったディートル将軍は、急ぎ歩兵2個大隊を庭園東側に面する家屋と城館に配置し、その砲兵1個中隊を庭園西外に配してこれを歩兵1個大隊で護衛させました。他の砲兵2個中隊と歩兵1個大隊、猟兵1個中隊は館の東側、ファヴロル(ヴィルピオンの南東1.5キロ)に通じる街道(現・国道D29号線)に沿って展開し、逆側右翼ではノンヌヴィル(同西北西1.4キロ)の南西郊外に歩兵2個中隊を送って西側を固めます。残る猟兵3個中隊は予備として城館北郊外の風車場(ムーラン・ドゥ・ヴィルピオン。城館の北西550m。農場として現存)東側で待機し、歩兵に続いて後退したB胸甲騎兵旅団は左翼側のファヴロル北郊外で踏み止まると、いつでも突撃出来るよう準備に入るのでした。
広大な庭園自体は高さ2.5mの隔壁で囲われており一見防御に向いていましたが、B軍には散兵壕を掘る余裕はなく庭園自体も広々として遮蔽が少なかったため放置されました。
ヴィルピオン城館
※12月1日午後3時30分頃ヴィルピオンのB第1旅団
*庭園の東面側
○B親衛連隊・第1大隊
○B第1連隊・第1大隊
*庭園の西面側
○B親衛連隊・第2大隊
○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第7中隊
*ファヴロルへの街道脇
○B第1連隊・第2大隊
○B猟兵第2大隊・第3中隊
○B野戦砲兵第1連隊・4ポンド砲第1中隊
○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第5中隊
*ノンヌヴィルの南西郊外
○B親衛連隊・第9,10中隊
*ヴィルピオン北方郊外
○B猟兵第2大隊・第1,2,4中隊
ヴィルピオンの戦い 急ぎ展開するバイエルン軍歩兵
このB第1旅団の危機に際し、仏軍が北上するとの至急報を受けたフォン・デア・タン大将は午後2時30分、オルジェール(=アン=ボース)からB第2旅団を前進させます。カール・フォン・オルフ少将率いるこの旅団はヴィルヴェ(小部落。オルジェールの南2キロ)からギヨンヴィル方向へ進み、その先鋒の2個大隊と4ポンド砲中隊はショヴレー農場(ノンヌヴィルの西2キロ。現存します)の北東方でギヨンヴィルを経て南からやって来た仏ドゥブランク旅団の前衛と戦闘状態になります。この時、B第2旅団本隊から6ポンド砲2個中隊が急ぎノンヌヴィルの西郊外へ進出して砲を敷き、旅団の残り部隊は1個大隊を予備として4個大隊がコルニエール農場(ヴィルヴェの西南西1.2キロ。現存します)を南正面右翼端にして横一線に散兵線を展開し、その最右翼(西)側面をBシュヴォーレゼー騎兵第3連隊が援護するのでした。
※12月1日午後3時30分頃ヴィルヴェ南方のB第2旅団
*ノンヌヴィルからコルニエール北方郊外の間、左翼(東)から右翼(西)へ
○B野戦砲兵第3連隊・6ポンド砲第4中隊
○B野戦砲兵第3連隊・6ポンド砲第3中隊
○B猟兵第9大隊
○B第11連隊・第2大隊
○B第2連隊・第3大隊
○B第2連隊・第2大隊
○B第11連隊・第1大隊
○B野戦砲兵第1連隊・4ポンド砲第3中隊
○B猟兵第4大隊
○Bシュヴォーレゼー騎兵第3連隊
*後方予備
○B第2連隊・第1大隊
B第2旅団がヴィルピオンの西側を急ぎ固めている間にもB第1旅団の危機は続き、ヴィルピオンはゴミエを越えて迫って来た仏ブルディヨン旅団とミシェル騎兵師団の2個騎兵旅団によって中央ばかりでなく左翼(東)側にも脅威を受け始めました。
この頃、B第4旅団は命令されたロワニ(=ラ=バタイユ。ヴィルピオンの北東2.5キロ)に向けてラ・マラドルリ(オルジェールの東1.7キロ)付近から進んでいましたが、南方から砲声が響くと直ちに南西方面へ進路を変え、仏軍がヴィルピオンに襲い掛かる前に戦場へ到達しました。
旅団長の男爵フーゴ・カール・ルートヴィヒ・フォン・ウント・ツー・デア・タン=ラートザームハウゼン少将(軍団長の実弟)は6ポンド砲1個中隊にBシュヴォーレゼー(以下・軽)騎兵半個中隊を護衛に付けてヴィルピオン方面へ先行急進させ、その後方からB第13連隊が駆け足で続きました。
先頭に立った同連隊の第3大隊は、待機するB胸甲騎兵旅団の横を通過するとファヴロル部落に入って急ぎ防衛態勢を取り、他の2個(第1、2)大隊と先の6ポンド砲中隊はファヴロルとヴィルピオンの東郊外に展開するB第1旅団左翼との間の街道に沿って展開し、戦闘を開始しました。
一方、猟兵大隊と6ポンド砲1個中隊はロワニ部落に入るとその南端で警戒態勢を取り、旅団主力は今朝早くオヌー(小部落。ロワニの東南東5.2キロ)に仏軍が入ったとの情報を得ていたため、その北のリュモー(同東4キロ)まで進むと軍団の最左翼となって戦闘態勢を敷いたのです。
※12月1日午後3時30分頃ヴィルピオン東方のB第4旅団
*ファヴロルの西郊外、ヴィルピオンへの街道脇
○B第13連隊・第1大隊
○B第13連隊・第2大隊
○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第8中隊
○B軽騎兵第4連隊の半個中隊
*ファヴロル部落
○B第13連隊・第3大隊
*ロワニ=ラ=バタイユ部落の南
○B猟兵第7大隊
○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第6中隊
*リュモー部落周辺
○B第10連隊
○B軽騎兵第4連隊の3個中隊
○B野戦砲兵第1連隊・4ポンド砲第4中隊
このようにB軍は3個旅団の主力がコルニエール農場からファヴロルまで約6キロに渡る戦線を作り出しますが、特に右翼のB第2旅団が激しく攻撃され、ヴィルピオンのB第1旅団共々ほぼ二倍近い敵に対し次第に苦戦を強いられて行きます。
右翼西側戦線の焦点となったショヴレー農場の攻防では、B第2連隊第2大隊の突撃が仏ドゥブランク旅団の猛銃砲火によって何度も退けられ、結局この大隊は大損害を受けて後退して行きました。
B第1師団長のバプティスト・フォン・シュテファン中将は、戦闘が佳境に入るとB第2旅団の散兵線に入って陣頭指揮を執っていましたが、午後4時頃に近くで破裂した榴弾の破片とシャスポー銃弾1発を受けて重傷を負い、後送される際にヴィルピオンのフォン・ディートル少将に師団の指揮を託しました。
この頃、仏ドゥブランク旅団の右翼がノンヌヴィルの南西郊外に達し、激しい銃撃のため損害を無視出来なくなったB6ポンド砲第3中隊は退却せざるを得なくなります。これに対し踏み留まったB6ポンド砲第4中隊は、それまでの激戦で2門の砲が使用不能となり砲4門で戦い続け、接近する仏軍に対し砲弾を榴弾から榴散弾に換え砲身が焼けるのも構わず砲撃を続けたのです。
この砲兵中隊を率いていたのがバイエルン王国の親王、レオポルト・フォン・バイエルン大尉でした。
レオポルト・マクシミリアン・ヨーゼフ・マリア・アルヌルフ・フォン・バイエルン王子は、後に王国の摂政となるルイトポルト親王(第2代国王ルートヴィヒ1世の三男。長兄マクシミリアン2世は第3代国王、次兄オットーはギリシャ国王オソン1世です)の次男で、兄は摂政から最後のバイエルン国王となるルートヴィヒ3世です。王族でもまず国王になれない序列(普王国のカール王子同様「その他の王子」)にあるレオポルト王子は当時24歳。伝統に則って16歳から軍人の道を歩み、猟兵と歩兵部隊で学んだ後、野戦砲兵第3連隊に中尉として勤務、20歳で普墺戦争を迎えます。この戦争では西部戦線のキッシンゲンとユッティンゲンの戦いで普軍相手に実戦を経験し戦後大尉に昇進しました。
普仏戦争では開戦時からB野戦砲兵第3連隊の6ポンド砲第4中隊を率い、ヴルト戦では戦闘の機会がなかったもののセダン会戦に参加、クルミエ戦を経てこの日を迎えています(その後20世紀初頭に独帝国元帥になりました。1930年死去)。
雪原の中砲撃を指揮するバイエルン王国レオポルト親王
ノンヌヴィル南西郊外にいたB親衛連隊の第9,10中隊は既に銃弾を撃ち尽くし、遂に前線から後退を始めていましたが、このたった4門で仏軍と対決する若い王子の凛とした姿を見ると、第9中隊の一部将兵が王子の砲兵の傍らに留まり、もしもの時には銃剣だけで王子ら砲兵を守ろうと決意するのでした。やがてB第2旅団の危機を知ったB第1旅団予備のB猟兵第2大隊(1個中隊欠)が独断でノンヌヴィル郊外に駆け付けたため、レオポルト王子当座の危機は去ったのです。
しかし、この間にもB軍必死の銃砲火を冒して進むブルディヨン旅団の3個大隊はヴィルピオン城館へと着実に前進し、最後は師団長のジョーレギベリ提督が直率すると城館の敷地東側へ殺到しました。
事ここに至って既にB第1旅団諸中隊の銃弾・弾薬もほとんど底を尽き、フォン・ディートル将軍は銃弾が比較的残っていたB親衛連隊第1大隊を後衛に指定すると、その援護の下でB第1旅団諸隊に対しロワニへの一斉退却を命じたのです。この時には一足先にB胸甲騎兵旅団もロワニへ退いていました。
ヴィルピオンへ突入する仏軍と撤退するバイエルン軍
B軍右翼側の戦場では、ノンヌヴィルへ進んだB第1旅団B第2猟兵大隊の援護で午後5時に至って仏軍が銃砲撃を中止するまでB第2旅団はその散兵線を維持します。その後、旅団長のフォン・オルフ将軍は敵前から麾下諸隊を一斉に後退させ、幸いにも仏軍の追撃もなくB第2旅団はオルジェールまで引き上げることが出来たのです。
軍団総予備になっていたB第3旅団は、戦況が不利となった午後4時以降、オルジェール東郊外のラ・マラドルリで戦闘態勢を取って待機に入りましたが、前線で戦闘が終了した午後5時過ぎにオルジェールへと移動し、ファヴロルからロワニへ移動したB第4旅団の諸隊と協力してオルジェール西側のシャトーダン街道(現・国道D927号線)筋からB第4旅団本隊が居残ったリュモーに至るまでの前方(南側)へ前哨を配置し、仏軍が万一夜襲を掛けて来た場合、瞬時に対応出来るよう警戒に入りました。
この右翼(西)外側では普槍騎兵第10連隊がギヨンヴィルからの撤退先であるコルマンヴィルに残留し、この地からバゾッシュ=アン=デュノワ(コルマンヴィルの南西4.9キロ)とプリュヌヴィル(ギヨンヴィルの西3キロ)へ各1個中隊を派遣し、更に1個中隊がゴベール(同北西1.6キロ)にいる仏軍前哨の様子を窺うため、その部落郊外に散開します。
この日、この連隊以外の普騎兵第4師団諸隊は、コルマンヴィルの北方、コニ川の北側に広く分散して宿営を求めました。
B第1軍団を力ずくで撤退させたシャンジー将軍の仏第16軍団はこの夜、占領したヴィルピオン、テルミニエ、スニーの各地周辺に野営し、その南方でオルレアン方面へ移動する仏第17軍団はトゥルノワジ周辺からサン=ペラヴィーへ移動し宿営し、1個旅団を先行させてパテに進めました。
ヴィルピオン城館の仏第16軍団将兵
12月1日に発生した「ヴィルピオンの戦い」で仏軍は約1,100名の死傷者(内士官の戦死は8名)を出します。
B第1軍団の損害は、戦死/士官8名・下士官兵114名・馬匹30頭、負傷者/士官29名・下士官兵584名・馬匹39頭、行方不明(殆どが捕虜)/士官5名・下士官兵196名・馬匹1頭、損害合計は士官42名・下士官兵894名・馬匹70頭でした。
負傷者には軽傷を負った砲兵中隊長レオポルト王子も含まれますが、それまでは各国の王侯一族に比して目立つ活躍が少なかったバイエルン王族では称賛されるべき活躍と言え、独本土でこの報道がなされると「若輩ながら天晴れな勇気と活躍」と各方面から称賛され、従兄弟の国王ルートヴィヒ2世はバイエルンの高位軍功章マックス・ジョセフ勲章をレオポルト王子に授けるのでした。しかし、王族なのに最前線で命を賭けた王子には気の毒ですが、この「称賛の嵐」は本戦争でも珍しい仏軍の勝利を少しでも薄めようとする独側のプロパガンダとも言えるでしょう。
レオポルト・フォン・バイエルン(1870)
戦場のレオポルト王子
この夜シャンジー将軍は、パテに構えた軍団本営からオルレアン(サン=ジャン=ドゥ=ラ=ルエル)のドーレル将軍に宛てて報告書を送ります。それによれば、「仏第16軍団は午前10時にテルミニエ~ゴミエ~ギヨンヴィルの線上で敵と衝突し、その戦いは昼から午後6時まで続けられ」「敵は少なくとも2万人と砲4、50門で頑強に抵抗したが、我が軍団は敵をファヴロル~ヴィルピオン~ノンヌヴィルへと後退させ」「我が兵士たちは勇敢に戦い、独軍は銃剣によって各部落から排除された」「ただし、我が砲兵は勇敢さと射撃精度とを欠いており賞賛することは出来ない」「我々の損失は深刻なものではなく敵は数名の士官を含め多くの者が捕虜となった」「今日の勝利の栄冠はジョーレギベリ提督に与えられる」「敵はロワニとシャトー・ドゥ・カンブレ(オルジェ-ルの北東3.7キロ)の方向へ後退したが、明日我が軍団はこれを攻撃する」
そしてシャンジー将軍はこう結んでいます。
「私は成功を疑っていません」
仏国防政府トゥール派遣部はこの日、再びパリからの連絡文を入手し、それには「デュクロ将軍が『エピネー(Épinay)』まで突進した」とありました。その後、「ヴィルピオンの戦い」の勝利が伝わるとガンベタ達は文字通り小躍りして喜び、流れが変わった、との確信を得るのです。
ガンベタらトゥールの首脳陣は、デュクロ将軍率いる「パリ軍」がロンジュモー(パリ、シテ島の南18.2キロ)付近まで突破したものと信じ、急ぎ国内各地への布告を作成しました。それには「独軍の敗北近し」とあり、パリ軍の進撃を伝えて戦意高揚を図るのでした。
ところが、これは大変な間違いで、パリからの連絡文が伝える「エピネー」とは「エピネー=シュル=セーヌ」(シテ島の北11.7キロ)のことで、ガンベタらが思い込んだ「エピネー=シュル=オルジュ」(同南20キロ)とは全くの正反対、しかもセーヌ河畔のこの街は独軍包囲網の線上、サン=ドニ近郊だったのです。
そうとは知らぬガンベタは、オルレアン大森林の北縁にいるカトリノー大佐の義勇兵集団に対し、「急ぎフォンテーヌブローの森目指して進撃するよう」命じました。同じくこの「間違った朗報」を伝えられたドーレル将軍も明日2日のための命令を麾下に発するのです。それによれば、「仏第16軍団は左翼前方への前進を継続し、アレーヌ、ジャンヴィル、そしてトゥーリーへ到達するよう努め」「仏第17軍団はパテからスニーへ進んで第16軍団に追従するよう」「仏第15軍団は一時ヌーヴィロー=ボワとシヤール=オー=ボワに集合して同地を守備し、その後に北西方向のサンティリーに向けて前進するよう」それぞれ命令するのでした。
※アレクサンドル・エルネスト・ミシェル少将
1817年、イタリアとの国境に近いイゼール県のマンスで生まれたミシェル将軍は、18歳でサン・シール士官学校を卒業すると騎兵一筋にアルジェリア植民地で勤務を続けて昇進を重ね、1868年、50歳を前に准将へと昇進しています。ヴルトの戦いにおいてモルスブロンヌで胸甲騎兵旅団(仏第8と第9胸甲騎兵連隊)を率い、この戦争で最初に「死の騎行」を行ったミシェル准将は、部隊がほぼ全滅となった中で幸運にも生き残り、その勇気を称賛され改めて仏第1軍団の騎兵師団を率いることとなります。しかしマクマオン軍はセダン会戦で歴史的大敗を喫し、ミシェル将軍麾下の騎兵たちも一部は投降、一部はモルトケ将軍言うところの「ネズミ捕りの罠」から脱出、将軍自身も捕虜とならずに友軍戦線へたどり着きました。その後、第15軍団に属する独立騎兵旅団を率い、10月20日に念願の少将へ昇進すると第16軍団、次いで第17軍団と目まぐるしく所属を変えながらロアール軍が崩壊して行く中、少なくなって行く騎兵を率い最後まで戦い抜くことになります(戦後アルジェリアに戻って騎兵師団を率い、1882年6月に引退、予備役編入となっています)。
ヴルトの戦い 仏胸甲騎兵の突撃




