ボーヌ=ラ=ロランド戦後11月末の状況
独第二軍司令官カール王子は11月28日の日没時、ボーヌ=ラ=ロランド周辺で戦闘が終了したことを受けて翌日の命令を起草します。
それによれば、独第9軍団に対し「翌早朝、フォン・マンシュタイン歩兵大将自らが2個旅団を率いてボワーヌ及びバゾッシュ=レ=ガルランド(トゥーリーの東南東8.6キロ)へ行軍し、軍団残りの諸隊はメクレンブルク=シュヴェリーン大公軍がトゥーリー付近に到達するのを待った後に先行2個旅団を追うように」とのことでした。
カール王子はボーヌ=ラ=ロランドの戦い直後において、戦闘によって仏軍にどの程度の物的・心理的損害を与えたのか判断出来ずにいました。従って「翌日、仏軍は再びボーヌ=ラ=ロランドを襲うに違いない」と信じ、一部が未だ敵を追撃中の普第3と普第10軍団に対し「ボーヌ=ラ=ロランドとロンクールの現存陣地を固め、兵力を集中する」ように命じたのです。同時にシャトー=ランドン(ボーヌ=ラ=ロランドの北東22キロ)付近でロワン沿岸を監視するフォン・ボルテンシュターン中佐の支隊に対し「シャトー=ランドン市街を完全に占領し、ロワン河畔の警戒を厳重にせよ」との命令が下されますが、中佐はこの28日夜の報告で「ロワン河畔にあった敵の第一線部隊はモンタルジ(ボーヌ=ラ=ロランドの東南東23.8キロ)まで撤退した模様」との情報を伝えたため、この命令は本営より「市街の占領は必要なし」(市街を占領すれば住民の監視や市街防衛に貴重な人材を割かねばならず、広範囲の偵察や監視に影響が出ます)として取り消され、支隊はそのままシャトー=ランドン近郊に留まりました。
レ・コテルの東郊外にある11月28日記念追悼碑
※1872年彫刻家ヴァレット作のガリア女性立像を冠したシェール県の護国軍追悼記念碑。この下にジュランヴィルやレ・コテルで戦死した190名の仏軍兵士が眠っています。レ・コテル(現/ル・パブ・ドゥ・ジュランヴィル)の十字路から350mジュランヴィル寄り街道の北縁に現存。
☆ 11月29日
仏第20軍団を率い、同第18軍団をも臨時に指揮下に置いていたクルーザ将軍は、トゥールの仏国防政府派遣部に対し28日の戦闘結果報告を電信にて至急送しましたが、深夜、再び攻勢に出るための作戦を考慮中にトゥールより電信命令が届き、これは「独軍に対する攻勢はこれを一時中止する」との「後ろ向きな」命令でした。これによりクルーザ将軍は29日早朝、前線にあった仏第18軍団に対し、「ヴヌイユ並びにジュランヴィルの陣地を放棄しラドン方面に向かって後退するよう」に命じ、諸隊はこれに応じて翌29日早朝から前線を離れ始め、ラドンやメジエール(=アン=ガティネ)に向けて後退して行ったのです。これに気付いた普第39と第37旅団の前哨諸隊はヴヌイユ、レ・コテル、ジュランヴィルの各拠点を再占領するのでした。
この29日夕方には、普第10軍団の3個(第37~39)旅団はロルシーからボーヌ=ラ=ロランドまで、普第3軍団はラ・ピエール・ペルセやバチイイ(=アン=ガティネ)からボワーヌまで、普騎兵第1師団はボワーヌとバルヴィル(=アン=ガティネ。ボワーヌの東3.5キロ)に、北独第50「H第2」旅団と普騎兵第2師団主力はピティヴィエとその周辺に、それぞれ宿・野営を行います。北独第49「H第1」旅団はバゾッシュ=レ=ガルランド付近に進み、普第18師団はトゥーリー周辺のオルレアン~パリ大街道(現・国道D2020号線)沿道に展開しました。
この日、大公軍の前衛となった普騎兵第4師団はトゥーリー付近で大街道に到達します。なお、この街道上の要衝アルトネは一時独側支配下にありましたが、ボーヌ=ラ=ロランド戦前の一連の動きの中で放棄されています。
メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍の普第22師団は29日、前衛がアレーヌ(=メルヴィリエ。トゥーリーの西8.4キロ)、本隊がイモンヴィル(同北西15.6キロ)に到着し、普第17師団はその右翼(西)側、ジェルミニヨンヴィル(アレーヌの西6.7キロ)に達して、その前衛をバゾッシュ=レ=ゾット(同南6.1キロ)まで進め、同師団に属する竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊は更に南西側でロワニ(=ラ=バタイユ。アルトネの西北西11.7キロ)に至っています。
同じ大公軍のバイエルン王国(B)第1軍団は、この普軍2個師団の後方をシャトーダンからオルジェール(=アン=ボース。シャトーダンの東北東27.8キロ)に向けてトゥーリーへの街道(現・国道D927号線)上を行軍し、その途上シヴリー(同東12.3キロ)の北郊外でヴァリーズ(シヴリーの東1.7キロ)に駐屯していた仏リポウスキー中佐の義勇兵集団と遭遇します。B軍の前衛、B第4旅団は直ちに従属砲兵を展開し義勇兵の前哨陣地に向けて榴弾を発射すると、リポウスキー中佐の前哨はたちまち陣地を放棄して退却し、中佐はヴァリーズ部落西に流れるコニ川の橋を護ろうとジロンド県の義勇兵中隊を配置しましたがB軍歩兵2個(B第10連隊第2とB猟兵第7)大隊の一斉突撃を受けて駆逐され、ヴァリーズ部落も西側の公園から侵入したB軍歩兵により短時間で占領されたのでした。仏義勇兵の逃げ足はここでも素早かったのですが、B軍は一部を捕虜にすることに成功しています。B軍の損害は戦死6名・負傷28名・捕虜1名でした。
このB軍行軍列右翼(南側)を捜索したB軍シュヴォーレゼー騎兵諸中隊は、敵がいると思われていたこのコニ川流域とトゥーリー街道沿いにこれ以上仏軍の姿を見かけることはなく、B軍団は午前11時にオルジェールへ向けヴァリーズを後にしています。
リポウスキー
ところで、このヴァリーズで戦闘が発生した頃、シヴリーの南では仏ディガール准将の騎兵旅団(仏第16軍団騎兵師団の第2旅団。クルミエ戦までは仏第17軍団長になったソニ将軍が率いていました)がコニ川沿いにトゥルノワジ(オルレアンの北西23.5キロ)に向け後退して行きました。この時、この騎兵旅団と共にシャトーダンに進んでいた仏軍諸隊(仏第17軍団の一部)の後衛は、このシャトーダン南東の地方に構えた陣地で一時休息していました。この仏軍に遭遇したのがこの日、クルタレン(シャトーダンの西14.3キロ)からクロイエ(=シュル=ル=ロワール。同南南西10.7キロ)を経て東進して来た普騎兵第6師団の前衛で、両者は直ぐに離れて戦闘を避け、仏軍は本隊を追って南方へ去るのでした。
この騎兵師団本隊の方は行軍中モルグ(シャトーダンの南東9.6キロ)で仏騎兵1個中隊に遭遇し、これを同行する騎砲兵が数発の榴弾砲撃だけで撃退し、この仏騎兵はトゥルノワジ方面へ逃走しましたが、この方面には強力な仏軍部隊が存在したため、普騎兵師団は予定していたトゥルノワジへの進撃を中止しました。
普騎兵第6師団本隊はこの日、オルレアンへの街道(現・国道D955号線)上のヴィランピュイ(ヴァリーズの南6.6キロ)に宿営し、普驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊を前衛としてヴィランブレン(トゥルノワジの西5.9キロ)の前進陣地へ進めました。この驃騎兵連隊から深夜、トゥルノワジへ斥候偵察に出たある小隊は、真の闇の中、仏軍騎兵の野営陣地に忍び込み、寝込みを襲って仏軍騎兵を混乱状態に陥れると、十数名を捕虜として意気揚々とヴィランブレンに引き返すのでした。
因みにこの日、普騎兵第5、6師団、普第22師団に増援として配属されていたB第1軍団所属の諸隊はカール王子の命令で一斉にその任を解かれ、原隊復帰を命じられてそれぞれの親部隊の下に急ぎ向かっています。
普騎兵第6師団この日の損害は戦死2名・負傷3名・馬匹8頭でした。
※11月29日から12月1日にかけて原隊に復帰したB軍部隊
○B第2連隊・第1、第3大隊
○B第10連隊・第1大隊
○B第11連隊・第1大隊
○B砲兵第3連隊・6ポンド砲第9中隊、6ポンド砲第10中隊、12ポンド砲第12中隊
○シュヴォーレゼー騎兵第4連隊/第4中隊の2個小隊
○戻らず任務続行の部隊
*B親衛連隊・第12中隊
軍団輜重縦列の護衛
*シュヴォーレゼー騎兵第3連隊/第4中隊
パリ南郊アルパジョン~トゥーリー間(現・国道N20号線)の後方連絡線守備
この日の夕。カール王子は翌30日の命令を発します。それによれば、「第10並びに第3軍団はボワコマンとモンタルジ方面を捜索して敵の配置・意図を探り、第9軍団は更にボーヌ=ラ=ロランドに接近するよう、大公軍はその左翼でバゾッシュ=レ=ガルランドに至るよう」それぞれに命じたのです。
深夜11時45分。仏国防政府トゥール派遣部の戦争指導者ドゥ・フレシネは、クルーザ将軍と第20軍団代理指揮官のビオ大佐に電信を送りました。その中でフレシネは、トゥール派遣部はクルーザ将軍たち第18と第20軍団がボーヌ=ラ=ロランドでカール王子軍を「引き付ける」ことにより、大公軍が東進し「ヴァンドームやル・マンに向かっていた敵の圧力を削ぐことが出来た」と賞賛します。そして一旦後退はしたもののピティヴィエに向かう計画に変更は無いとして、30日に「第20軍団はオルレアン大森林を後背地としてボワコマン~ベゾー風車場(ボワコマンの北西3.7キロ。農家として現存します)~シャンボン(=ラ=フォレ。同西北西6.8キロ)の線に前線を構築してニベル(同西南西4.4キロ)に主力を置き、第18軍団はベルガルド~ラドンを死守せよ」と命じます。また、「モンタルジの守備隊は市街を死守し、攻撃された場合は第18軍団が援助しなければならない」としました。
追いつめられる仏義勇兵
☆ 11月30日
前日夜の命令でバゾッシュ=レ=ガルランドに至るよう命じられて大公軍左翼先頭に立った普第22師団でしたが、その将兵は強行軍に疲れ果てており、30日中にはトゥーリーまで進み出るのが精一杯(10~20キロ程度の行軍距離)でした。このトゥーリーからアルトネの北東側に展開中の普騎兵第2師団援助のため数個歩兵中隊がオルレアン大街道沿いに展開しています。
この日、普第17師団はアレーヌに到達し、B第1軍団はオルジェール付近で留められ、束の間の休息をしています。
大公軍の諸斥候隊はこの日、「テルミニエ(アルトネの西10.2キロ)、ダンブロン(同北3.6キロ)、アシェール(=ル=マルシェ。同東北東10キロ)の各部落を結んだ線上に敵の前線がある」と報告し、右翼(西)にあった普騎兵第6師団(カール王子の命令でこの日から独第二軍に転属しています)はトゥルノワジを再び偵察し、同地に強大な仏軍が存在していることを再確認しました。この後、同師団は北方に転進して、この日はヴァリーズでトゥーリー街道を越えノットンヴィル(ヴァリーズの北2キロ)からダンシー(同北北西7.2キロ)に掛けて宿営しています。
この代わりとして普騎兵第4師団がトゥーリーから大公軍の右翼に進出することとなり、同30日、サンシュヴィルとヴィアボン(それぞれオルジェールの北西9.6キロと北8キロ)に進んでいます。
この30日。仏軍は仏第18と第20軍団本隊をオルレアン森林の西側に展開する仏第15軍団の陣地線近くに呼び寄せるため、多くの陽動攻撃隊を北方に発しました。
この内の一つが払暁時、モンバロワの北郊外にあった数軒の農家まで進出していた普第48「ブランデンブルク第5」連隊第2大隊に対し攻撃を仕掛けます。仏軍部隊は部落内に侵入すると一時は普軍と激しい銃撃戦となりましたが、普猟兵第3「ブランデンブルク」大隊が救援に駆け付けると完全に普軍有利となり、正午頃に仏軍は撤退して行きました。この際、普軍猟兵は約100名の捕虜を獲ています。
ほぼ同時にサン=ルー(=デ=ヴィーニュ)からヴヌイユに向けて目立つ仏軍縦列が進みましたが、こちらは普第52「ブランデンブルク第6」連隊の1個中隊と第10軍団の軽砲第1中隊が対抗して進み出ると戦うことなく踵を返し、再び南方へと去って行きました。
この日は他の地区でも第10軍団の正面前線に対し仏軍部隊が前進し、普軍前哨線と衝突する前に去って行く機動を見せています。
普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は前夜、この30日の行動を次の主旨で麾下部隊に命じていました。
「普第39旅団はサン=ルー並びにメジエール、そしてロルシーに向かって前進し、普第38旅団はロンクールとコルベイユ付近に宿営地を設け、普第37旅団は南東へ行軍し可能ならばモンタルジを再占領する」
この内、フォン・ヴァレンティーニ大佐率いる普第39旅団は午前8時30分、レ・コテル周辺を発してベルガルドに向かう街道(現・国道D975号線)を南下しますが、前衛がメジエールに近付くとたちまち激しい銃撃が浴びせられたのです。
※11月30日における普第39旅団
◇前衛
○第56「ヴェストファーレン第7」連隊・第9,10,12中隊
○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・1個中隊
○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第3中隊の2個小隊(4門)
◇本隊
○第79「ハノーファー第3」連隊・第2,4中隊
○第79連隊・F大隊(第9~12中隊)
○第56連隊・第3,4中隊
○竜騎兵第16連隊・1個中隊と半個
○野戦砲兵第10連隊・重砲第3中隊
◇前哨としてレ・コテル付近に残留
○第56連隊・第1,2,11中隊
○第79連隊・第1,3中隊
◇シャトー=ランドン付近
○第56連隊・第2大隊(第5~8中隊)
○第79連隊・第5,6中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第3中隊の1個小隊(2門)
(他にHライター騎兵第1連隊・第2,4中隊)
◇輜重援護隊
○第79連隊・第7,8中隊
この時、前衛3個中隊は急ぎメジエールの南西側に面して散兵線を敷いて展開し、ヴァレンティーニ大佐はまず軽砲第3中隊に命じてその砲4門の砲列をレ・グイヨーの十字路(現・国道D950とD975号線の交差点。メジエールの北西1.2キロ)に敷かせ、次に本隊から第79連隊の第2,4中隊に護衛されてやって来た重砲中隊を軽砲の砲列並びに展開させたのです。
これら砲10門による30分間の事前砲撃後、普軍歩兵はメジエールへ突進しましたが、仏軍側はモンティニー(メジエールの南2.3キロ)付近の高地に砲兵1個中隊を置き、この砲兵が効果絶大な援護射撃を行ったため普軍歩兵は部落内まで侵攻する事が出来ません。それでも普第79連隊の諸中隊は何とかメジエールの南端に取り付きますが、ここで東側から仏軍の増援が到着したためヴァレンティーニ大佐も遂に諦め、攻撃諸隊に退却を命じます。旅団の残余部隊は十字路北のバルヴィレット(メジエールの北西1.6キロ)付近の小河川、モルパ川の後方に布陣し、退却する歩兵を援護するのでした。
この時、普第38旅団はボーヌ=ラ=ロランドから東のロンクールやコルベイユに向けて移動中でしたが、南方から砲声が轟くと普第16「ヴェストファーレン第3」連隊の2個大隊はジュランヴィルを通過してバルヴィレットまで前進し、仏軍の北上に備えました。しかし、昼を過ぎると諸隊は後述のフォークツ=レッツ軍団長による命令で順次レ・コテルまで後退したのです。
メジエールで戦闘が始まったことを知ったフォークツ=レッツ将軍は、仏軍が再びロンクール方面へ来襲するに違いないと信じ、午前11時に軍団の諸隊を全てロンクールの南方に集合させる命令を発しました。普第37旅団は早朝モンタルジに向けて発し、この時は既にミニュレット(コルベイユの東南東4.2キロ)まで進んでいましたが、この命令によりロンクールへ引き返しています。
ところが仏軍は進撃する素振りを見せず、前進した部隊も引き返したため、普第10軍団は夕方になってからジュランヴィルとロルシーを再占領しています。
ロルシー付近で戦うズアーブ兵
このメジエールでの戦闘が一旦終局を迎えた頃、普第10軍団前線部隊からの救援要請を受けて前進した普第3軍団の一部がメジエール近郊に到着しました。
この日、メッス包囲とその後の強行軍で体調を崩し療養中だった普第5師団長フォン・シュテュルプナーゲル中将は、復帰して着任しましたが、昼過ぎにメジエールの「危機」を知ると直ちに普第52連隊に騎兵1個中隊と師団砲兵隊所属で勇猛果敢なステファジウス大尉率いる軽砲第1中隊をメジエールに向けて送り出します。
この諸隊は午後4時頃になってメジエールの正面西側に到達しますが、対抗して前進を再開した倍する仏軍散兵に対し猛銃砲火を浴びせて一時は激しい戦闘状態となりました。普軍は粘り強く対抗してこれを部落へ追い返し、煩く南側の高地から撃ち掛ける仏軍砲兵中隊に対しても、ステファジウス中隊が正確な対抗砲撃を継続して陣地から追い出します。しかし夕闇迫り、シュテュルプナーゲル将軍もこれ以上の戦いは望まず、諸隊は夜が更ける前にボーヌ=ラ=ロランドへ引き上げました。
普第3と第10軍団におけるこの日の損害は戦死51名・負傷216名・捕虜10名・馬匹34頭でした。
普第3軍団の砲兵
カール王子はこの30日午前、本営を置いたピティヴィエから戦場視察のためボーヌ=ラ=ロランドに向けて騎行中、普第3軍団の正面南に敵が出没したとの報告を受け、独第9軍団に対し「急ぎボーヌ=ラ=ロランドまで前進するよう」命令を発します。
午後になって仏の大軍がボワコマンから北西のナンクレ(=シュル=リマルド。ボーヌ=ラ=ロランドの西7.1キロ)へ進んだことを知ったカール王子は、ボーヌ=ラ=ロランド周辺に到着し始めていた第9軍団の一部をクールセル(ボワーヌの南西4キロ)まで戻る形で転進させますが、こちらも夕闇迫ったため、再びピティヴィエまで引き帰らせています。
ピティヴィエにはこの日、バゾッシュ=レ=ガルランドを拠点にオルレアン大森林を警戒していた諸隊も集合し、それまでトゥーリーの東からボワーヌ南方まで長い前線を維持していた独第9軍団は、ほぼピティヴィエに集合することとなりました。
この日、独第二軍の最左翼部隊となっていたフォン・ボルテンシュターン中佐率いる「シャトー=ランドン支隊」は、命令通りモンタルジを偵察するためその北西側のオルレアン運河周辺に斥候を送り出しましたが、付近の小河川や運河に架かる橋にはほぼ全てにバリケードが築かれ、その一部は破壊されて落とされており、モンタルジ市街には強力な仏軍部隊が存在していることも確認しました。
また、ボルテンシュターン中佐は同日、遙か東のヌフシャトーやショーモンに残留していた同僚(普第40旅団を中心とする普第20師団の半数)「ショーモン支隊」とロワン河畔で連絡します。
普第20師団長のアレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・クラーツ=コシュラウ少将が率いるショーモン支隊は去る11月12日、ラングル(ショーモンの南南東31キロ)目指して行軍を開始し、途上、新兵の護国軍部隊を蹴散らしながら進むと16日にラングル要塞北方と西方正面に到着し陣地を設けました。しかし19日になってカール王子よりクラーツ=コシュラウ将軍に対し、「歩兵2個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊をラングル周辺に残留させ、残り全てを率いて直接ロワン川に向けて前進せよ」との命令が届くのです。この時既に将軍はラングル要塞を手持ちの野砲(12門)によって砲撃する準備を整えていました。
将軍は命令に従い、「ラングル支隊」*を残して西進を開始し、新兵の護国軍部隊に義勇兵や反抗する住民の「巣窟」になっていそうな都市を迂回、出来る限り戦闘を避けつつトネール(トロアの南49.6キロ)~ジョワニー(モンタルジの東49.4キロ)~クルトネ(同東北東24.5キロ)~シェロワ(同北東30キロ)と進んで11月30日、シャトー=ランドンの北東方でロワン川に到達したのでした。
※11月30日のクラーツ=コシュラウ将軍直率部隊
◇本隊 クラーツ=コシュラウ少将/カール・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ディリングスホーフェン少将(第40旅団長)
○普第17「ヴェストファーレン第4」連隊・第2大隊
○普第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊
○普竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊・第3中隊
○普野戦砲兵第10連隊・重砲第4中隊
○第10軍団野戦工兵第2中隊
◇「ラングル支隊」 フォン・エーレンベルク大佐(第17連隊長)
○第17連隊・第1、F大隊
○竜騎兵第16連隊・第2中隊
○野戦砲兵第10連隊・軽砲第4中隊
独第二軍左翼(東)ではこの30日、多くの偵察・斥候隊の報告と前述の戦闘、そして捕虜や脱走兵への尋問により、オルレアン大森林の東側にまだかなり大きな仏軍兵力が存在することがはっきりとしました。
この日はカール王子の本営に対し、ベルサイユから「パリの仏軍が北東方面に向かって大規模出撃を敢行した」との第一報が到着します。カール王子はこれに因っても「ロワン川からピティヴィエ間に対し仏軍の更なる出撃が考えられる」として、「ピティヴィエ~ボーヌ=ラ=ロランド間に集合した3個(第9、第3、第10)軍団により敵の攻撃を待ち受ける」ことに決するのでした。そこでメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世歩兵大将に対して「貴軍の前哨線を明日(12月1日)中に旧ローマ街道(オルレアン~エタンプの旧街道。現・国道D97号線)まで延伸し、 普騎兵第6師団はオワンヴィル(=サン=リファール。トゥーリーの北4.5キロ)まで進む」よう命じたのです。逆に大公軍右翼に進出した普騎兵第2師団は再度大公軍に所属することとなったのでした。
仏軍束の間の休憩
☆ 12月1日
月が変わった最初の日、まだ夜が明けやらぬ前。独第二軍の左翼(東)南面全域に派出された斥候たちは日の出と共に戻って来ると「仏軍は夜間、メジエールとボワコマンより南方及び南西方向へ撤退した模様」との第一報を上げます。
この報告を受けたカール王子の本営では直ちに両部落の確保を命じ、メジエールには普猟兵第10「ハノーファー」大隊、ボワコマンには普第48連隊第1大隊がそれぞれ進出し占領しました。更に南方へ偵察行に出た各隊は、「仏軍は未だベルガルドとラドンの北方高地に前哨を置いている」と報告するのです。
この仏軍諸隊は普第6師団司令部と独第9軍団本営の報告に照らし合わせれば、昨日までオルレアン大森林の北端に陣を敷いていた部隊と思われました。
昨日、シャトー=ランドンの北でロワンを渡河したクラーツ=コシュラウ「支隊」はこの日ボルドー(=アン=ガティネ)まで進んでおよそ1ヶ月振りに本隊復帰を果たしますが、その行軍中、モンタルジ~ボーモン(=デュ・ガティネ)街道(現・国道D94号線)が障害物に鹿砦や道路の破壊等によって各所で寸断されているのを発見しています。これはモンタルジ西方の部隊が進撃でなく防御に転じた証拠とも見られたのでした。
これらの状況からカール王子の本営は「オルレアン~パリ街道の東側における仏軍の早期前進は可能性が低くなった」と見積もりました。逆に大公軍が上げたこの日早朝の報告からは仏軍の新たな動きが垣間見えたのです。
この1日、カール王子の命令によって普第22師団はバゾッシュ=レ=ガルランドまで左翼端を延ばし、普第17師団はジェルミニヨンヴィル(トゥーリーからは西へ14.9キロ)まで支配地域を拡大し、前衛をバゾッシュ=レ=ゾット(同南西11.2キロ)に送りました。
前日から独第二軍に配属となった普騎兵第6師団はトゥーリーに達しますが、その行軍途中のオルジェール(=アン=ボース)で普槍騎兵第15「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊を離脱させ、ギヨンヴィル(オルジェールの南南西6.3キロ)まで進ませると大公軍の部隊が前進し来るまで南方を警戒しました。
この連隊は同日午前7時、仏軍の大きな部隊が南から前進して来るのを望見しますが、その先頭が普軍槍騎兵の白黒ペナントを認めると戦いを避ける命令を受けていたのかパテ(オルジェールの南11キロ)方面へ後退して行きました。この槍騎兵連隊と交代するため正午頃、普騎兵第4師団から槍騎兵第10「ポーゼン」連隊と普騎兵第9旅団(槍騎兵第1「ヴェストプロイセン」、同第6「チューリンゲン」連隊)が前進し、午後1時頃には強力な偵察隊を南方に送りますが、この偵察隊はパテ北方で仏軍の散兵線と接触し、引き返す時にその後方に大きな兵団が行軍列を作りアルトネ方向(東)へ行軍して行くのを発見するのです。
この頃、B第1軍団から発した斥候もまたパテ付近で仏軍の運動を確認しており、報告を受けたフォン・デア・タン歩兵大将はB胸甲騎兵旅団を、今朝方仏軍守備隊が去っているのを発見しB軍斥候が居残って確保していたテルミニエ(ギヨンヴィルの東5.9キロ)へ送り、この日早朝オルジェール(=アン=ボース)から南下してゴミエ(同東2.6キロ)に達していたB第1旅団をその援助に指定するのでした。
B第1軍団の残りはラ・マラドルリ(オルジェールの東1.7キロ)周辺にあって軍団長の命令により昼前から行軍準備に入っていましたが、その後、「仏軍は偵察行動を行っているだけで本格的な侵攻の様子が見えず、パテ北郊から後退し始めている」との報告(今朝方の普槍騎兵第15連隊の報告と思われます)があって午後1時には宿営に戻っています。
しかし、これは些か早過ぎる判断というもので、この1時間後の午後2時少し前、テルミニエに到着し更にパテ方面へ機動したB胸甲騎兵旅団の前哨は、ルヴレ=サント=クロワ(パテの東北東3キロ)付近で目立つ仏軍歩兵部隊と遭遇し、その後方パテ方面から更に大きな兵団が前進して来るのを発見したのです。
この情報は直ちにゴミエのB第1旅団長カール・フォン・ディートル少将にも伝えられ、将軍は麾下に戦闘態勢を取らせると配属されていたB野戦砲兵第1連隊の6ポンド砲2個(第5,7)中隊に対し、急ぎ部落の東西郊外に砲列を敷かせ、敵を待ち受けるのでした。
その左翼(東)ではB胸甲騎兵連隊の本隊が所属する2個騎砲兵中隊と共にトゥリエット(農場。テルミニエの西北西1.3キロ。現存します)に留まって同じく戦闘態勢を取り、右翼(西)側では普騎兵第4師団の槍騎兵3個(第1、6、10)連隊がギヨンヴィル付近で戦闘態勢を取りました。ギヨンヴィル部落自体には普軍槍騎兵に付せられたB第12連隊の1個大隊が守備に就いています(B第12連隊とB野戦砲兵第1連隊4ポンド砲第2中隊はこの1日、普第9旅団と行動を共にしていました)。
仏軍はこれら独軍の拠点に対し1日午後2時30分頃、一斉に襲い掛って来たのです。
普仏戦争・こぼれ話
“Ahmed-Ben-Kacy”
アーメド・ベン・カシー(アル・ベン・カシム)の「伝説」
「ジュランヴィルのトルコ兵」19世紀末の絵葉書
今日、レ・コテル(現、ル・パブ・ドゥ・ジュランヴィル)の国道D31号線と同D975号線の交差点南東角の家の壁に、フランス追悼記録協会(ソシエテ・ナシオナル・デュ・スーベニア・フランセズ)の手によって記念プレートが付けられています。
「記録
アーメド・ベン・カシー
アルジェリア・チュライヤール第3連隊の兵士
プロイセンの大勢の兵士に対してこの家に於いて奮闘した
倒れるまでに7人を倒す
1870年11月28日
われわれは彼を忘れない」
(筆者注・ストリート・ビューでも確認出来ます)
この物語は、仏の戦史「ロアール軍」では以下のように語られています。
「普軍がジュランヴィルを再占領しようと行軍を開始した時、撤退せず死ぬまで戦い抜くと決意した一人の精悍な仏軍兵士がいた。彼はレ・コテルのジュランヴィルに向かう街道を見渡たせる街角に建つ食品雑貨店一階の小さな部屋の明るい窓際に配置されていた歩哨で、ここへ前進して来る普軍兵士を狙撃するはずだった。その部屋にはベッドがあり、そこには負傷兵が横たわっていた。普軍兵士が家に接近し、覚悟を固めた兵士は窓際から離れてベッドの後ろに隠れ、手近に銃弾を置いてその時に備えた。その位置は部屋に入って来る普軍兵士を出来る限り多く銃撃するために理想的な位置となった。ほどなくやって来た普軍兵士らが窓を越えて部屋に侵入すると、勇敢なアフリカの兵士は銃を乱射し、結果7名の普軍兵士が射殺された。怒った普軍兵士たちは彼の背後となったドアから乱入し、彼は多数の銃弾でズタズタにされて死に、普軍兵士らはその血まみれの遺体を窓から通りへ放り出した」
独側はまた別の話を伝えています。これは普第37旅団・第91「オルデンブルク」連隊の下士官サミュエル・フランクが残した手記で、11月29日の朝、ロンクールからレ・コテルを経てジュランヴィルに進む時に何が起きたかを物語っています。
「午前9時30分、レ・コテルではまたもや騒動が持ち上がった。ある負傷兵が収容されていた家に隠れ潜んでいた『トルコ兵』が、我々への怒りに我を忘れて一人で戦いを再開し銃を撃って来たのだ。彼を隠れ家から追い出すのは困難だった。無益な流血を避けるため、我々はレ・コテルに残っていた仏軍の看護兵を探した。この『野蛮人』のことを知っており彼の怒りを知っていたある仏軍の看護兵は、彼を宥め投降させるために協力することを請け負った。銃撃の中、『トルコ兵』に声を掛けながら看護兵はドアに向かって歩いて行った。しかし『トルコ兵』は看護兵を撃ち、彼は下あごに銃弾を受けて倒れた。仕方なく我々のフュージリア兵が攻撃を開始し、『トルコ兵』は頭に銃弾を受けて死亡した」
(ここまで、Wikipedia仏語版「ボーヌ=ラ=ロランドの戦い」より筆者意訳)
因みに、普第91連隊では29日に戦死者どころか負傷者もゼロ、当時ボーヌ=ラ=ロランド周辺にいた独軍全体を見ても戦死者は1名・負傷者3名です。28日でも普第91連隊では戦死者は12名となります。勇敢なチュライヤール兵「アーメド・ベン・カシー」がこの家で最期まで戦ったことは事実でしょうが、その「戦果(仏は7名、独は暗に0)」や「日付」(仏は28日、独は29日)については独仏異論があるようです。
追悼の記念プレートにある「アルジェリア・チュライヤール第3連隊」ですが、当時「アルジェリア・チュライヤール兵」のまとまった部隊はこの地になく(マルシェ・ズアーブ第3連隊の間違い、という方がいるかも知れませんが、同部隊は第20軍団の所属でボーヌ=ラ=ロランド方面で戦っています)、日付も28日となっています。ベン・カシーはレ・コテルにいた可能性がある第18軍団のマルシェ・アフリカ軽歩兵連隊かマルシェ・ズアーブ第4連隊の所属だったのでしょうか。
この「謎」は別のフランスの記事である程度読み解け、物語はもっと真相に近付くように思われます。
その記録を元に、筆者の想像を(大いに)交えてみれば、アーメド・ベン・カシー(アル・ベン・カシム)の物語はこうなります。
「ボーヌ=ラ=ロランドから4キロほど東へ進んだところにあるジュランヴィル郊外で1870年11月29日早朝に戦闘があった。
ボーヌ=ラ=ロランド~ジュランヴィルの街道とベルガルド~ピュイゾーの街道交差点角にあった家屋の1階にある小さな部屋、その街道を見渡す窓際にアフリカ軽歩兵第3大隊所属のアル・ベン・カシム(アフリカ植民地で罪を犯した懲罰兵)がシャスポー銃を手に十字路を射界に収め、独軍が部落にやって来るのを待っていた。
ベン・カシムの大隊は第18軍団に属し前日、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いで最前線に出て戦った。エゴ少佐率いるこの大隊(2個中隊のみ)は去る11月5日、アルジェリアのコンスタンティーヌを出発し、本土で新設される「マルシェ・アフリカ軽歩兵連隊」の一部となって第18軍団に加入するため地中海を越えてやって来た。この時、正にロアール軍はパリへ進撃するためカール親王率いる独軍と衝突寸前で、第18軍団は第20軍団と合同しボーヌ=ラ=ロランド目指して進撃した。
結局、この日は日没時に戦闘終了の号令が掛かり、普軍は前線に留まり砲撃も止む。エゴ少佐も部下を連れてメジエールまで下がって野営に入った。
ところが、ベン・カシムだけは密かにレ・コテルに居残る。それは『逃走』ではなく『闘争』だった。彼は十字路に建つ家に入ると、待ち伏せにちょうど良い場所として角部屋に陣取り、窓から離れ、部屋に置かれた1台のベッドの後ろに隠れた。シャスポー銃の引き金に指を掛けたまま、彼は待つ。しかし彼は一人ではなかった。素早く装填するため銃弾を置いた目前のベッドには病人の女性が怯えながら臥せっていた。
やがてベン・カシムの待ちに待った状況が訪れた。ロンクール方面から街道を南下して来た普軍の前哨斥侯隊は十字路の家を調べるため窓から中を覗く。すると連続して銃声が響き、最初の普軍兵士が倒れた。連続して発する銃撃で咽るような濃い硝煙が部屋に籠り、反撃しようと窓から部屋へ入ろうとした普軍兵士が撃たれ、壊れた窓から通りに落ちた。残された普軍兵士は憤怒して家に突入し、ドアを破って部屋に飛び込んだ兵士たちは振り返って銃口を向けたベン・カシムを一斉射撃で吹き飛ばし、瀕死の『トルコ兵』を銃剣で差し、血まみれとなったアフリカの兵士は窓から通りに放り出されて死んだ。
この惨劇の中、怪我もせず生き残り一部始終を見ていた貧しい病気の女性の証言は、戦争の歴史を記録する者にとって興味深いものとなったに違いない。しかし戦後、残念ながらこの物語を誰かが尋ねる前に彼女は死んでしまった。
その後、事情を知った地域の住民は彼の事を『ジュランヴィルのトルコ兵』と呼び、その死の模様は口伝えに広がるにつれ脚色され『伝説』となった。現在、普仏戦後に雑貨店を営んでいたこの家の外壁にはアル・ベン・カシムを記憶するため、フランス追悼記録協会の記念プレートが掲げられている。」
ソース:「アル・ベン・カシム」仏陸軍H・ラシュク少佐・著 1962年5月サン=シール士官学校出版「カソア」(ヒクイドリ)誌に掲載 筆者意訳したのち日付や死傷者など各所を削除・修正して加筆
アーメド・ベン・カシーの死




