表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
388/534

ボーヌ=ラ=ロランドの戦い(前)

☆ 仏ロアール軍(11月20日から27日)


 クルミエの戦いで普仏開戦直後の「ザールブリュッケンの戦い」以降初めて勝利らしい勝利を得た仏ロアール軍は、クルミエ戦後オルレアンの北西~北方に円弧を描くような長い防衛線を作り、南方から続々集合する新兵部隊を受け入れ、増強を続けました。


 ロアール軍の総指揮官ルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将は、「一刻も早くパリへの進撃を」と迫る仏国防政府トゥール派遣部の「圧力」に対し表向き遵従を装いながらも様々な理由を付けては攻勢発動を遅延させ、必ずや反撃して来るに違いない独軍に対抗して防御態勢を整えるため、シュヴィイ(オルレアンの北14.2キロ)からジディ(シュヴィイの南南西5.3キロ)、オルム(ジディの南南西5キロ)を経てラ・シャペル(=サン=メマン。オルレアンの西南西5キロ)でロアール(Loire)河畔に至る西半面の防衛線強化に勤しむのです。

 オルレアンの市街北東方には東へ広がるオルレアン大森林があり、ここでは軍隊の行軍に適した街道が限られていたため、ドーレル将軍はこの森自体を防衛線として当初は要所に監視哨を置くだけに留め、街道封鎖を中心に防護策を取り、森林のオルレアン側に当たる南西縁にのみ部隊を配備しました。

 オルレアン市街地はそれ自体を「要塞化」するために突貫工事が行われ、軍の拠点として、あるいはロアール南岸へ撤退する際の橋頭堡として強固な防衛拠点となって行きます。この市街周辺に急造した砲台に砲を備えるため、ドーレル将軍はトゥール派遣部のガンベタの「威光」を利用して海軍に要請を出し、シェルブールにあった海岸要塞の備砲を外して海軍砲兵数個中隊と共にオルレアンまで輸送させました。それ以外でも海軍は多くの艦船から備砲を外して軍艦用の重砲を陸送し、同じく要塞重砲の不足を補いました。

 ロアール軍には正規の工兵が少なかったため、オルレアン周辺部では政府の土木関係の役人と技官が立ち回って堡塁や建造物の増強工事を指導し、この工事には多くの住民が動員されたのです。


挿絵(By みてみん)

ドーレル将軍とジョアンヴィル公(オルレアン王家)

 ※ジョアンヴィル公爵フランソワ・ドルレアンはフランス王ルイ・フィリップの三男で海軍提督でしたが、1848年の革命で父王が廃位されると英国に亡命、70年の戦争開始で偽名を使い母国に戻って軍に復帰しますが、やがてガンベタらに素性がバレて英国に強制送還されてしまいました。


 防御の中心となるロアール軍の左翼(西)には、クルミエで戦った仏第16軍団第1、2師団と仏第17軍団の他、ジアン(オルレアンの南東58.5キロ)からロアール南岸を行軍して合流した第16軍団第3師団と、9月までは教皇領でスアーブ兵を率いていた伯爵アンリ・ドゥ・カトリノー大佐が掌握する義勇兵集団、そしてシャトーダンやクルミエ戦にも参加した伯爵ジョセフ・アンソニー・アーネスト・ドゥ・リポウスキー中佐率いる義勇兵集団もまたドーレル将軍の指揮下に入りました。

 そのロアール上流ジアンでは、クルミエ戦前までは単に「東軍」(ややこしいのですが最初は「ヴォージュ軍」と呼ばれた仏「東部軍」とは別の軍勢です)と呼ばれていた、ロアールの上流域で召集された約40,000名となる集団を元に仏「第20軍団」が新設され集結しました。なお、この集団からはディジョンにいる独軍(フォン・ヴェルダー将軍の独第14軍団)と戦う「東部軍」や「ヴォージュ軍」の後方第二線用の戦力として15,000名が抽出されリヨンに向かっています。

 また、ヌベール(オルレアンの南東138.5キロ)周辺で編成されていた仏「第18軍団」の内、軍団第1師団もまたジアンに先遣され、続いて第2、第3師団もジアンへ向かうのでした。


 こうして第15、16、17、そして第18と20の各軍団が加わったドーレル将軍のロアール軍は、約20万名の戦闘員を揃えることになりました(実際には第18と20軍団はトゥール派遣部の直轄扱い)。


※11月20日における仏ロアール軍北~西側の配置

○カトリノー義勇兵集団(カトリノー大佐)

 オルレアン大森林北東部、シャンボン=ラ=フォレ(ボーヌ=ラ=ロランドの西10.2キロ)からシヤール=オー=ボワ(シャンボンの西12.1キロ)までの森林縁沿いに展開。義勇兵数個中隊は更に前哨としてナンクレ=シュル=リマルド(シャンボンの北東3.1キロ)など大森林北方3~5キロの小部落に派出されていました。

○仏第15軍団(3個歩兵師団と騎兵師団)

 オルレアン大森林北端サン=リ=ラ=フォレ(アルトネの東南東9キロ)からシュヴィイを経てブレ(=レ=バール。同南西13.2キロ)までに展開。

○仏第16軍団(3個歩兵師団)

 第一線として半数がブレからビュシー=サン=リファール(ブレの南南西6キロ)までに展開。残り半数は第二線としてサン=ペラヴィー=ラ=コロンブ(同西北西5.8キロ)からクルミエまでに展開。

○リポウスキー義勇兵集団(リポウスキー中佐)と第16軍団騎兵師団(ジャン=ジャック・ポール・フェリクス・レセール少将)

 トゥルノワジ(サン=ペラヴィーの西5.2キロ)を拠点に北西側コニ川流域方面に進出して徘徊。最北端はパテ(同北5.3キロ)周辺。


挿絵(By みてみん)

森を行くロアール軍の兵士


 クルミエ戦の結果に有頂天となっていたトゥール派遣部のガンベタは、フレシネやグレ=ビゾンら「忠実な副官」等と共に、ロアール軍を速やかに前進させてパリを臨むセーヌ河畔に至る「夢」を見ていました。更に第18、第20軍団が使用可能となるとドーレル将軍に対し「大至急パリ解放のための進撃計画を作成し実行せよ」と迫るのです。

 しかし、これが途方もない「夢のまた夢」と知る慎重なドーレル将軍は、「まずはパリ国防政府のトロシュ将軍らの意向を聞いた後に計画を進めなければ意味がない」即ち「パリの軍隊がロアール軍と呼応・同期して包囲網に対する内側からの解囲を謀らねば独軍の撃破など到底出来ない」等と反論します。

 パリ降伏が月単位から週単位となったと焦るガンベタの我慢もここまでで、ドーレル将軍の「熱意と戦意に欠ける緩慢な態度」に怒ったガンベタは、自ら軍の行動を「指導」するとして、「ロアール軍はピティヴィエを経由してフォンテーヌブローに達し、ここからセーヌ沿いにパリへ向かうか渡河して北上しパリ東郊外へ向かう」との作戦計画を練り、「軍右翼(東側)はピティヴィエまで先行し、総軍フォンテーヌブローを目標に前進せよ」との命令を起草したのです。

 同時にパリ国防政府に対して「首都東方の独軍包囲網に対して突破戦闘を行う」よう要請し、パリの東で独軍の首都包囲網解囲を行おうとするのでした。


 11月22日。ガンベタはフレシネを通じてオルレアン在のドーレル将軍に対し電信命令を発し、同日夜、将軍は同命令を受領します。

 これによれば、「ドーレル将軍は3万の兵を直率しシヤール=オー=ボワに向かって前進し、24日にはピティヴィエに至れ」とのことでした。同時にガンベタはジアンの第20軍団に対して「24日までにボーヌ=ラ=ロランド並びにジュランヴィルに到達せよ」との命令を発しました。

 ドーレル将軍はこれに対し23日、フレシネ(とガンベタ)に攻命と受け取られぬよう気を付けながら「命令を憂慮する」建白書を送ります。

 ドーレル将軍はこの書簡の中で、「全軍がピティヴィエに向かって前進すれば、総兵力8万と推測されるフリードリヒ・カールの軍を正面に招くこととなり、(錬成もままならない)ロアール軍はオルレアン前面に築いた防御陣地に待ち構えて戦うよりも圧倒的に不利な状況の野戦を行わざるを得なくなる」と訴えたのです(実際にはこの時点でカール王子の手元にあった歩兵は45,000名だけでしたが、ほぼ全てに実戦経験があり十分に強力です)。

 「クルミエの勝者」として人気が出ていたドーレルに無理強いし、その結果解任ともなれば全軍の士気に影響すると考えたガンベタらは「少しだけ」妥協しようと作戦を変更し、「最初にドゥ・パリエール将軍の第15軍団はシヤール=オー=ボワからルリー(シヤールの南南西8.6キロ)間まで、第20軍団はボワコマン(ボーヌ=ラ=ロランドの南西5キロ)からベルガルド間まで」前進して集合・待機せよと命じ、軍の急激な前進は控えて時間は掛けるもののピティヴィエへの進撃は諦めず、とするのでした。


 この23日の変更命令によって翌24日、先述の通りモンバロワの騎兵戦やラドン及びメジエールの戦闘が発生します。

 この日の戦闘後、仏第20軍団は予定されたボワコマン~ベルガルド間に野営し、ボーヌ=ラ=ロランドの南方とラドン近郊に前衛として各1個旅団を張り付けました。

 同じ24日には仏第15軍団の前衛がシヤール=オー=ボワに進み、オルレアンの大森林北端にいたカトリノー大佐の義勇兵集団はこの第15と第20の両軍団の間を占めて相互両翼と連絡することになります。

 第15軍団の残部は同24日に発生したヌーヴィロー=オー=ボワやアルトネでの戦闘によりドーレル将軍が命令を変更、予定より西側のサン=リ(=レ=フォレ。アルトネの南東9キロ)やシュヴィイ、ジディに転進してオルレアン北部の防衛線を強化するのでした。


 同じ24日にはジアン周辺に集合を終えた仏第18軍団が動き出します。

 この軍団長には仏北部のアミアン北方で一時「北部軍」を指導していた「運命に翻弄され続ける」ブルバキ将軍が予定されますが、着任には未だ期日を要したため、参謀長のジャン=バティスト・ビオー大佐(資料によっては准将)が代理指揮を執っていました。

 この軍団にもフレシネより前進命令が下り、ビオー大佐はラドンとモンタルジを目標に北上を始め、26日に同地域に達した第18軍団は臨機に第20軍団長クルーザ将軍の指揮下に入りました。

 この26日にクルーザ将軍はフレシネからの新たな命令を受領し、それによれば「第20と18軍団はボーヌ=ラ=ロランド、ジュランヴィル(ボーヌ=ラ=ロランドの東南東5.2キロ)、メジエール(=アン=ガティネ。ジュランヴィルの南2.1キロ)を占領しピティヴィエ進撃の準備を成せ」とのことでした。

 クルーザ将軍はこの命令(22日の命令を26日に延期しただけの代物です)実行のため27日、以下の命令を麾下に発するのでした。


「明日11月28日、第18軍団はメジエールとジュランヴィルを経て前進し」「第20軍団第1師団はボワコマンを経て前進」「第20軍団第2師団はモンバロワ(同南西4.1キロ)とサン=ルー(=デ=ヴィーニュ。同南2.6キロ)を経て」「それぞれボーヌ=ラ=ロランドを目標として進撃」「第20軍団第3師団はサン=ルー付近で予備として待機」


 同じ28日早朝。オルレアンのドーレル将軍はトゥール派遣部より「クルーザ将軍によるボーヌ=ラ=ロランド攻略が開始されるので、必要に応じて第15軍団によりクルーザ将軍の右翼(西)側を援助せよ」と命じられるのでした。


☆ ボーヌ=ラ=ロランドの戦い(11月28日)・ジュランヴィル、コルベイユの戦闘


 11月28日早朝に前進を開始した仏軍は、短時間のうちに普第10軍団の前哨陣地と衝突します。


 この日、普第10軍団の普第38旅団はボーヌ=ラ=ロランド周辺に、普第39旅団はレ・コテル(ボーヌ=ラ=ロランドの東4キロ)周辺にそれぞれ展開し、前哨線をバチイイ(=アン=ガティネ。同西3.7キロ)からオルム(同西南西1.3キロ)とフォンセリーヴ(同南東1.5キロ)を経てロルシーとコルベイユの間にある雑木林(同東8キロ)まで延びていました。

 普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将はそれまでの戦況と偵察報告から、仏軍が南及び南東から攻め上がって来ると予測し、エグリー(同北3.7キロ)付近に宿野営していた普第37旅団と軍団砲兵隊をマルシリ(同東北東1.9キロ)まで前進させて自軍左翼側を補強し、右翼側増援は前日の軍命令によりピティヴィエの南東方まで前進して来た普第3軍団配下の普第5師団が進み出ることを期待するのでした。


※11月28日早朝における普第10軍団の戦闘序列


*普第37旅団支隊(レーマン大佐)

・第78連隊

・第91連隊

・竜騎兵第9連隊

・重砲第2中隊、軽砲第2中隊

・第10軍団野戦工兵第2中隊


*普第38旅団支隊(フォン・ヴェーデル少将)

・第16連隊(1個中隊欠)

・第57連隊

・ヘッセン大公国(H)騎兵ライター第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊/第3中隊

・H騎兵ライター第2「親衛シュヴォーレゼー」連隊/第2,3,4中隊

・重砲第1中隊、軽砲第1中隊

・第10軍団野戦工兵第1中隊


*普第39旅団支隊(フォン・ヴァレンティーニ大佐)

・第56連隊(1個大隊欠)

・第79連隊(1個大隊欠)

・猟兵第10大隊

・竜騎兵第16連隊/第1,4中隊

・重砲第3中隊、軽砲第3中隊(1個小隊欠)


挿絵(By みてみん)

ヴァレンティーニ


※以下、28日の戦闘に参加しなかった部隊


*シャトー=ランドン方面支隊(フォン・ボルテンシュターン中佐)

・第56連隊/第2大隊

・第79連隊/第5,6中隊

・H騎兵ライター第1連隊/第2,4中隊

・軽砲第3中隊の1個小隊(砲2門)


*輜重援護隊

・第16連隊第7中隊

・第79連隊/第7,8中隊


*ラングル在「普第40旅団支隊」(クラーツ=コシュラウ少将)

・第17連隊

・第92連隊

・竜騎兵第16連隊/第2,3中隊

・重砲第4中隊、軽砲第4中隊

・第10軍団野戦工兵第2中隊


※Hライター騎兵は第9軍団の北独騎兵第25「ヘッセン=ダルムシュタット」旅団所属


 フォークツ=レッツ将軍はボーヌ=ラ=ロランド(以下例外を除きこの章では「ボーヌ」と略します)の東西郊外にある高地と、ロンクール(ボーヌの東3.5キロ)周辺の緩やかな丘を防御拠点として陣地を構築させていました。普軍防衛線の中核となるボーヌは、その北方のエグリー(ボーヌの北3.8キロ)を中心とする高地の南端にあたり、その南側のモンバロワやサン=ルーから見れば緩斜面の上にありました。市街の北には直線で高地を横切るローマ帝国時代のオルレアン~サンス街道址「シーザーの小道(シュマン・ドゥ・カザール)」があります。

 市街地には高さ9m程度となる中世の城壁が一部残っており(現存しません)、普軍はこの壁と堅牢な家屋に防御を施しました。しかし市街地の近辺には、銃撃拠点としては便利なものの砲兵や騎兵にとっては邪魔者でしかない農家や果樹園、そして雑木林が点在し、接近する敵にも遮蔽を与えるのでした。


 普軍左翼、ジュランヴィルの南に展開していた普第39旅団前哨(第79連隊の第1,2中隊)は午前8時前、南方より接近する仏第18軍団第1師団第1旅団(ボンネー准将指揮)の散兵と銃撃戦を開始し、この日の戦端が開かれます。


 この時、レ・コテル付近に砲を構えていた普砲兵第10連隊の軽砲第3中隊もこの敵に対して砲撃を開始し、仏軍に少なくない損害を与えました。しかし数にものを言わせるしかない仏軍は強引に前進を続け、その勢いは次第に普軍前哨を圧迫し、砲兵陣地にも銃弾が届くようになりました。普軽砲第3中隊は午前9時頃、レ・コテルの陣地を放棄して後退すると、ジュランヴィルの陣地からも普軍歩兵が後退を始め、これら諸中隊は砲兵と入れ替わる形でレ・コテルに前進して来た普第79連隊のフュージリア(以下F)大隊が吸収するのでした。

 普第39旅団に付随していた砲兵2個(重・軽砲第3)中隊は、このF大隊の援護下で街道沿いでラヴォ川の橋袂にあるデ・ゾム・リーブルの風車場(レ・コテルの北1.1キロ。農場が現存します)の南側に砲列を敷き、この砲列が接するボーモン(=デュ=ガティネ。ボーヌの北北東8.3キロ)への街道(現・国道D975号線)西側には普第56連隊の2個(第1、F)大隊と竜騎兵2個中隊が待機するのでした。


 ほぼ同時刻にロルシー付近の普軍前哨(第79連隊第3,4中隊、猟兵第10大隊第3中隊)も南から接近する仏第18軍団第1師団第2旅団(シャルベ准将指揮)に押し切られ、この3個中隊はロルシーの陣地を放棄して北東方コルベイユ(ボーヌの東8.9キロ)郊外のモンタルジ鉄道線の土堤まで一気に退却しました。ここで普猟兵第10大隊残りの3個中隊と合流した前哨は、迫る仏シャルベ旅団に対し猛銃撃を加え、一旦仏軍の攻撃を頓挫させることに成功します。仏軍は諦めずにこの鉄道堤陣地の左翼(東)からコルベイユを狙い包囲を謀りますが、これもコルベイユの公園(市街地東に隣接。一部が現存します)に転移した一部の普軍歩兵が仏軍の正面から銃撃を浴びせ、この行動を阻止するのでした。


挿絵(By みてみん)

普軍衛生隊と負傷兵


 午前10時。仏第18軍団は強力な散兵線を敷いてジュランヴィルの北東方、ロルシー北西方に開ける土地まで前進しました。このコルベイユの西側鉄道堤付近には普第56連隊の第1大隊が構えており、彼らは接近する仏軍に猛銃撃を浴びせますが、コルベイユの南方からの銃撃も加わり普軍大隊は十字砲火に晒されました。しかし、右翼(西)側に迂回して鉄道堤を越えようとした仏軍の動きは阻止しています。

 この第56連隊必死の防戦に対し、軍団長命令で前進して来た第37旅団の先鋒、普第91連隊第2大隊がヴヌイユ(レ・コテルの北西900m)の風車場まで進み来ると、第39旅団を率いるフォン・ヴァレンティーニ大佐は後を第37旅団兵に任せて、予備として最後に残っていた普第56連隊のF大隊を前進させ、この大隊はレ・コテルを過ぎると左翼東を警戒しつつジュランヴィルへ突進し、同連隊第1大隊と協調して北上する仏軍散兵線を崩し、仏兵を後退させることに成功しました。その勢いのまま第56連隊F大隊はジュランヴィルに突撃しましたが、既に市街は普軍が設えた防御に頼った仏将兵でしっかりと守られており、ここで激しい銃撃戦が発生するのでした。この時デ・ゾム・リーブル風車場の砲兵たちは敵との間に多くの友軍歩兵が戦っていたため、一切砲撃を行うことが出来ませんでした。

 この激戦は、マルシリより急ぎ駆け付けた普第91連隊のF大隊が増援として投入されジュランヴィルの西側から参戦し、更に正午頃、普第56連隊Fと第1大隊がほぼ同時に部落に対して突撃を敢行したため、遂に仏軍は部落より後退し南方へ去って行きました。しかし、ジュランヴィルの南に点在する諸農家には仏軍が立て籠もり、激しい銃声があちらこちらで響き渡るのでした。


 しかし、同時進行で行われていたコルベイユの戦闘では、普猟兵第10大隊を中核とする6個中隊の必死の防戦空しく、数倍する仏軍の最右翼(東)シャルベ旅団の攻撃は強力で、普軍守備隊は遂に仏軍の部落内への進入を許してしまいます。ここで勝敗は決し、普群将兵は半数が鉄道堤に沿って西方へ脱出しロンクールへ、残りは北上してボルドー(=アン=ガティネ。コルベイユの北北西3.5キロ)へ至りました。このボルドーには暫く前から第39旅団の予備諸隊が待機していました。

 ボルドーの普軍はコルベイユの失落により仏軍がそのまま北上し進むものと身構えましたが、反して仏第18軍団第1師団は左翼へ転進するとジュランヴィルへ向かい、メジエール(=アン=ガティネ)からも軍団の本隊(第2、3師団)がジュランヴィルに向けてゆっくりと動き始めました。


 ジュランヴィルのヴァレンティーニ大佐は、どう見積もっても5倍は違う仏大軍の前進を前に後退を決め、それまでに得た約300名の捕虜を連れて再びジュランヴィルを脱し、第37旅団先遣の待つヴヌイユとロンクールの後方陣地へ退くのでした。


挿絵(By みてみん)

ジュランヴィルへ進む仏第18軍団将兵


 フォン・フォークツ=レッツ将軍はこの時、身に凍みる寒気の中でロンクール付近の丘から大地を埋める仏軍の姿を観察していましたが、きっと3ヶ月半前に真夏のマルス=ラ=トゥールで3倍する仏バゼーヌ軍の2個(第4と第6)軍団と戦いながらも一切退かなかった時のことを思い出したのではないでしょうか。


 将軍は望遠鏡を下ろすと幕僚に「ヴヌイユとロンクールの間のボーモン街道沿いに(第39と37の)2個旅団を集合させろ」と命じます。同時にボーヌ市街とその周辺は、ヴェーデル将軍率いる第38旅団(騎兵4個中隊、工兵1個中隊、砲兵2個中隊付属)と軍団砲兵の2個騎砲兵中隊だけに任せるしかないと決心するのです。


※11月28日午後1時過ぎの普第10軍団諸隊の位置


○ロンクール周辺

 *第78連隊・第2大隊と第1,2中隊

 *第79連隊・第3,4中隊

 *猟兵第10大隊

 *竜騎兵第9連隊・第1,2,3中隊

 *竜騎兵第16連隊・第1,4中隊

 *野戦砲兵第10連隊・重砲第2中隊、軽砲第5,6中隊

○デ・ゾム・リーブルの風車場南方

 *第79連隊・第1,2中隊

 *第91連隊・第1大隊

 *野戦砲兵第10連隊・重砲第3中隊、軽砲第3中隊

○ヴヌイユ東方

 *第91連隊・第2大隊

○レ・コテル

 *第79連隊・第F大隊

○ボーヌ鉄道停車場(現・カルティエ・ドゥ・ラ・ガール。ロンクールの北北東1.3キロ)周辺

 *第79連隊・第3,4中隊

 *野戦砲兵第10連隊・重砲第5,6中隊

 *工兵第3中隊

○ボーヌとその周辺

 *第16連隊(第7中隊欠) 

 *第57連隊

 *H騎兵ライター第2連隊・第2,3,4中隊

 *H騎兵ライター第1連隊・第3中隊

 *野戦砲兵第10連隊・重砲第1中隊、軽砲第1中隊

 *野戦砲兵第10連隊・騎砲兵第1,3中隊

 *工兵第1中隊

○ボルドー(=アン=ガティネ)

 *第78連隊・F大隊

 *竜騎兵第9連隊・第4中隊

 *野戦砲兵第10連隊・軽砲第2中隊

○ヴヌイユ~レ・コテルの北方で弾薬補充中

 *第56連隊・第1大隊

○ジュランヴィルからロンクール方向への後退戦闘中

 *第56連隊・F大隊

 *第91連隊・F大隊


ジュランヴィル、コルベイユ周辺戦場図

挿絵(By みてみん)


※普第10軍団戦闘序列(1870年11月)


☆軍団本営

軍団長 コンスタンチン・ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将

参謀長 ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィ中佐

砲兵部長 男爵フォン・デア・ベック大佐

工兵部長 クラーマー中佐

参謀部 ゼーベック大尉/男爵フォン・ホイニンゲン・ゲナント・フォン・フエネ大尉/フォン・ポドビールスキー中尉

副官部 男爵フォン・ローゼンベルク騎兵大尉/フォン・レッシング大尉/フォン・ヴィルリッヒ騎兵大尉

工兵部 ノイマイスター大尉

衛兵長 フォン・ボルンスタット中尉


◎普第19師団

 師団長 フェルディナント・エミール・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュワルツコッペン中将(疾病入院中のため) 代理 エミール・ペーター・フォン・ヴォィナ少将(普第39旅団長)

師団参謀 フォン・シャーフ少佐


◇普第37旅団

 ペーター・フリードリヒ・ルートヴィヒ・レーマン大佐

○普第78「オストフリーゼン」連隊

 フリードリヒ・ヴィルヘルム・ロタール・フォン・リッカー大佐(メッス攻囲中に負傷のため10月21日~12月31日まで休養) 代理 レオポルト・ペーター・ゴットフェルト・フランツ・フォン・ムーティウス中佐

○普第91「オルデンブルク公国」連隊

 ヴォルフガング・フランツ・フリードリヒ・コルンブス・フォン・ハーゲン中佐


◇普第38旅団

 リヒャルト・ゲオルグ・フォン・ヴェーデル少将

○普第16「ヴェストファーレン第3」連隊

 フリードリヒ・アウグスト・ハーン・フォン・ドルシェ大佐(メッス攻囲中10月7日ベルヴューの戦いで負傷のため休養)

代理 ハインリッヒ・ヴィルヘルム・フェルディナント・ザンノウ中佐

○普第57「ヴェストファーレン第8」連隊

 ルートヴィヒ・オットー・ルーカス・フォン・クラナッハ大佐


○竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊

 伯爵ヴェルナー・ゲオルグ・フォン・ハルデンベルク中佐(疾病で入院のため) 代理 フリードリヒ・カール・エンゲルベルト・フォン・デア・デッケン少佐

○野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・第1大隊

 シャウマン中佐

・重砲第1,2中隊

・軽砲第1,2中隊

○第10軍団野戦工兵第1中隊及び野戦軽架橋縦列

 クライスト大尉

○同第3中隊 リンドウ大尉

○第10軍団第1衛生隊


◎普第20師団

 師団長 アレクサンダー・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・クラーツ=コシュラウ少将

師団参謀 男爵フォン・ヴィルリゼン大尉


◇普第39旅団 E・フォン・ヴォィナ少将

 代理 ハインリッヒ・シモン・エデュワルド・フォン・ヴァレンティーニ大佐

○普第56「ヴェストファーレン第7」連隊

 フーゴ・フォン・ブロック大佐

○普第79「ハノーファー第3」連隊

 フォン・ヴァレンティーニ大佐 代理 コンスタンティン・フェルディナント・アドルフ・フォン・ボルテンシュターン中佐


◇普第40旅団

 カール・フリードリヒ・アレクサンダー・フォン・ディリングスホーフェン少将

○普第17「ヴェストファーレン第4」連隊

 フォン・エーレンベルク大佐

○普第92「ブラウンシュヴァイク公国」連隊

 ハインリッヒ・テオドール・ヴィルヘルム・アルベルト・ハーバーラント大佐


○普猟兵第10「ハノーファー」大隊

 フリードリヒ・スタニスラウス・アルクサンダー・デュニン・フォン・プルチホフスキー少佐

○竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊

 ルドルフ・ハインリッヒ・カール・フーベルト・フォン・ヴァルドウ中佐

○野戦砲兵第10連隊・第2大隊 クラウゼ少佐

・重砲第3,4中隊

・軽砲第3,4中隊

○第10軍団野戦工兵第2中隊及び器具縦列 マイエル大尉

○第10軍団第2衛生隊


◇第10軍団砲兵隊

 男爵モーリッツ・フォン・デア・ゴルツ大佐

○野戦砲兵第10連隊・騎砲兵大隊 ケルバー少佐

・騎砲兵第1,3中隊

○野戦砲兵第10連隊・第3大隊 コッタ中佐(疾病で入院のため) 代理リッペントロップ少佐

・重砲第5,6中隊

・軽砲第5,6中隊


◇野戦砲兵第10連隊・弾薬大隊 ストラッケルヤン少佐

・第1~第5砲兵弾薬縦列

・第1~第4歩兵弾薬縦列

◇輜重兵第10「ハノーファー」大隊

 フォン・ベルゲ・ウント・ヘルレンドルフ少佐

・衛生予備厰

・馬厰

・野戦製パン縦列

・第1~第5糧食縦列

・第1~第12野戦病院

・輜重監視中隊



※仏第18軍団戦闘序列*

軍団長 シャルル=ドゥニ・ソテール・ブルバキ中将(未着任のため第20軍団長が兼務)

参謀長 ジャン=バティスト・ビオー大佐

砲兵部長 シャルル大佐

工兵部長 ドゥ・ラ・ベルジュ大佐


◎軍団第1師団 エドゥアール・ロマン・フェイエ=ピラートリ少将

師団参謀 ドゥ・サシー中佐


◇師団第1旅団 ボネ准将(独公式戦史ではロベール「准将」)

○マルシェ第42連隊 レクレア中佐

○護国軍第19「シェール県」連隊  ドゥ・シュロ中佐

○マルシェ猟兵第9大隊 ドゥ・ボワフルーリ少佐

◇師団第2旅団 シャルベ准将(独公式戦史ではボネ准将)

○マルシェ第44連隊  ロベール中佐

○護国軍第73「ロアレ県/イゼール県」連隊 ロクール中佐

◇師団砲兵隊 弾薬縦列長アリプ戦隊長(少佐相当)(砲18門)

 ・砲兵第13連隊第13「混成」中隊(4ポンド砲x6)

 ・砲兵第13連隊第14「混成」中隊(4ポンド砲x6)

 ・砲兵第9連隊第20中隊(4ポンド砲x6)

○工兵第1連隊第7中隊第1分隊


◎軍団第2師団 ジェローム=イヤサント・パノアット海軍少将

師団参謀 ドゥ・エペ中佐


◇師団第1旅団 ペリン大佐

○マルシェ第52連隊 プロヴォー中佐 

○護国軍第77「タルヌ県/メーヌ=エ=ロアール県/アリエ県」連隊 ラブロ中佐

○マルシェ猟兵第12大隊  ドゥ・ヴィルヌーブ少佐

◇師団第2旅団 ペロー准将

○戦列歩兵第92連隊  バルディン大佐

○マルシェ・アフリカ軽歩兵連隊*(2個大隊) グラトレオ中佐

○護国軍第80「ドゥー=セーヴル県/アルデーシュ県/イゼール県」連隊 (隊長不明)

◇師団砲兵隊(砲18門) 

 ・砲兵第9連隊第21中隊(4ポンド砲x6)

 ・砲兵第2連隊第22中隊(4ポンド砲x6)

 ・砲兵第13連隊第21中隊(4ポンド砲x6)


○工兵第1連隊第7中隊第2分隊


◎軍団第3師団 グリー工兵大佐

師団参謀 (不明)


◇師団第1旅団 師団長兼務

○マルシェ・ズアーブ第4連隊 リッテ中佐

○護国軍第81「シャラント=アンフェリウール県/シェール県/アンドル県」連隊 ルノ中佐

◇師団第2旅団 マルク・サン=ティレール大佐

○マルシェ第53連隊 ブレメ中佐

○護国軍第82「ボークリューズ県/ドローム県/リヨン市」連隊 オムイー中佐

◇師団砲兵隊(砲18門) 

 ・砲兵第8連隊第1中隊(不明)

 ・砲兵第10連隊第1中隊(不明)

 ・砲兵第14連隊第1中隊(不明)


○工兵第3連隊第5中隊第1分隊


◎軍団騎兵師団 ギヨーム・ジョセフ・ドゥ・ブルモン=ダール少将


◇師団第1旅団 シャルルマーニュ准将

○マルシェ驃騎兵第2連隊 ドゥ・ポワンティ中佐

○マルシェ槍騎兵第3連隊 ピエール中佐

◇師団第2旅団 ギヨン=ベルニエ准将

○マルシェ竜騎兵第5連隊 デュッセル中佐

○マルシェ胸甲騎兵第5連隊 ドゥ・ブレクール中佐


◎軍団砲兵隊 ドゥ・ミリベル中佐

砲兵7個中隊(砲42門)


※仏第18、第20軍団は9月の政変以降、国内混乱の内に編成され、練成前の新兵からライン軍のベテラン兵士、脱走・落伍兵、アフリカ植民地兵、教皇領のズアーブ、外人部隊など雑多な兵士を掻き集めたため情報も錯綜しており、史料によって隊長の名前、階級、果ては部隊編成まで違うことが多くあります。ここでは比較的多くの文献に登場する人物や部隊編成を記しています。

※マルシェ・アフリカ軽歩兵連隊とは 「レジメント・ダンファントリー・レジエール・ダフリカ」、アフリカ植民地の懲罰部隊、「アフリカ軽歩兵」第1、2、3大隊から各2個中隊を抽出して作られた「マルシェ」部隊です。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ