独第二軍の偵察前哨戦(11月24日から27日)
メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍がノジャン=ル=ロトルーの南方から独第二軍の右翼(西)へ向かって転向した頃、当の独第二軍はオルレアン大森林の北方と東方で攻勢の準備に忙しく、自軍の前方にいる数倍するかもしれない仏「新」軍の状況を知ろうと盛んに偵察活動を行っている最中でした。
☆ ヌーヴィロー=オー=ボワの前哨戦、アルトネの再占領、モンバロワの騎兵戦(11月24日)
バゾッシュ=レ=ガルランド(アルトネの北東15.3キロ)周辺に陣を構えていた普第3軍団麾下の普第6師団はこの日、南方の敵情を探るために強力な支隊*を早朝から活動させ、普第20連隊長フリードリヒ・グスタフ・フォン・フロトウ大佐率いる支隊はテイレ=サン=ブノワ(小部落。パゾッシュの南南東6.8キロ)を経てオルレアン大森林に向かって進みます。
この時前日(23日)の斥候偵察で報告されていたサン=ジェルマン(=ル・グラン。パゾッシュの南8.9キロ)にいた仏軍は既に撤収しており、払暁時には周辺に点在する農家に見られた仏軍部隊も接近した「フロトウ支隊」の砲兵による砲撃と普軍歩兵半個大隊(6個中隊)の攻撃によりヌーヴィロー=オー=ボワ(パゾッシュの南10.6キロ)方面へ撤退しました。このヌーヴィロー=オー=ボワにはアルトネの南方から前進したと思われる新たな仏軍部隊(マルシェ第29連隊を中核とする仏第15軍団第1師団の前衛)が集結しており、撤退した部隊はこの部隊と合流した模様でした。
フロトウ大佐はこの部落を攻め落とすことにして、普軍の重砲第6中隊は部落を射程に捉えると砲列を敷いて砲撃を開始しました。
しかし、連日の雨(この日も時折凍えるような雨が降りました)で泥濘となった大地は砲撃の効果を薄め、猛烈な銃火を冒して進む普軍歩兵も泥だらけで苦労しながらの戦闘となります。普軍は犠牲を出しつつも部落まで100mを切った場所まで進みましたが、普軍砲兵必死の猛砲撃にも関わらず仏軍の銃火は収まらず、また普軍の左翼(東)側に仏の強力な縦隊が進み出したためフロトウ大佐は攻撃中止を命じ、包囲攻撃を受ける前に一旦サン=ジェルマンまで部下を後退させ集合させるのでした。
大佐は支隊を背進させると、迫って来る強力な仏軍部隊をル・シェンヌ(農場。テイレ=サン=ブノワの南に隣接)付近で食い止め、激しい銃撃戦の果て、双方共に撤退し戦闘は正午過ぎに終了しました。
フロトウ大佐と支隊はバゾッシュ=レ=ガルランドに戻り、大佐は戦死35名・負傷131名・行方不明5名・馬匹損傷17頭の損害を報告しています。仏軍はこの日150名余りの損害でした。
ヌーヴィロー=ボワの戦い(11月24日)
※11月24日の普第6師団「フロトウ」支隊
○普第20「ブランデンブルク第3」連隊・第1、F(フュージリア)大隊
○普フュージリア第35「ブランデンブルク」連隊・第2、3大隊
○普竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊・第2,4中隊
○普野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊・軽砲第5、重砲第6中隊
このように仏軍は相当に強力な諸兵科混成の兵力を前線まで進出させており、カール王子ら独第二軍首脳陣は「その後方に相当大きな軍が控えているに違いない」と警戒するのでした。
同24日。独第9軍団の管区では午前8時、普第36旅団長(心得)の男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・ハインリッヒ・エドゥアルド・アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン大佐が普擲弾兵第11「シュレジエン第2」連隊と普騎兵第2師団の騎砲兵2個中隊を率い、普騎兵第3旅団が側方を警戒する中、パリ~オルレアン大街道(現・国道D2020号線)を南下しました。
大佐の支隊はアッサス(アルトネの北東2.1キロ)で仏軍の前哨と遭遇しますがこれを駆逐すると、騎砲兵たちは同地で急ぎ砲を並べてアルトネ市街の砲撃を開始しました。するとアルトネにいた仏軍部隊はあっさりと市街から撤退するのです。
ファルケンハウゼン大佐は追従していた普騎兵第3旅団(普騎兵第2師団)の騎兵に追撃を依頼し、自らはアルトネ市街を占領しました。
騎兵たちは沿道に走る電信線やオルレアンへの鉄道線を寸断しながらラ・クロワ・ブリケ(アルトネの南3.4キロ)まで進みましたが、南方のシュヴィイから砲兵を伴った歩兵の一大縦列が接近して来たため正午頃アルトネへ引き上げるのでした。
線路越しに銃撃する普第18師団部隊(アルトネ付近)
同じ頃。普第10軍団でボーヌ=ラ=ロランド(ピティヴィエの南東17.4キロ)付近に展開していた部隊(普第38旅団とヘッセン・ライター騎兵第1、第2連隊からの6個中隊)はオルレアン大森林に複数の偵察斥候を放ちました。
その内の一つ、南西方面へ進んだ部隊*はモンバロワ(ボーヌ=ラ=ロランドの南西3.5キロ)付近で仏軍の槍騎兵部隊に遭遇しますが、ヘッセン(H)のライター(軽)騎兵第4中隊がこれと対決し、仏軍騎兵を撃退するとこれをボワコマン(同南西5キロ)まで追い払いました。Hライター騎兵の損害は戦死2名・負傷6名・行方不明7名・馬匹9頭の損失でした。
別の騎兵斥候は大森林縁のシャンボン=ラ=フォリ(同西10キロ)付近まで進出し、その森縁に仏義勇兵がいるのを確認しています。
これら第10軍団の斥候たちは午後2時までに宿営地まで帰還しました。
突撃する仏軍マルシェ槍騎兵
※モンバロワで仏槍騎兵と戦った偵察隊
○普第57「ヴェストファーレン第8」連隊・第1,4中隊
○H騎兵ライター第2「親衛シュヴォーレゼー」連隊・第3,4中隊
第10軍団が放った斥候偵察隊でベルガルド(ボーヌ=ラ=ロランドの南9キロ)に向かった一隊は、サン=ルー(=デ=ヴィーニュ。同南2.6キロ)近郊で仏軍の強力な諸兵科混成部隊の縦列がボワコマンとメジエール(=アン=ガティネ。同南東5.9キロ)に向かっているのを発見、急ぎ帰還し報告しました。これは即ち仏軍がボーヌ=ラ=ロランドを左右から完全に包囲する形勢であり、後述するように普第10軍団もまたメジエール方面へ部隊を進出させようとしていたため遭遇戦の形で戦闘が始まるのです。
☆ ラドンとメジエールの戦い(11月24日)
同24日、第10軍団の内、未だロワン河畔のモンタルジ(ボーヌ=ラ=ロランドの東南東23.9キロ)付近にいた本隊2個旅団は、先行した普第38旅団のいるボーヌ=ラ=ロランド(この項では以下ボーヌと省略します)で集合することとなり、普第37旅団はラドン(同南東10.6キロ)とメジエールを経由し、普第39旅団は軍団砲兵隊を引き連れてパンヌ(同東南東18.5キロ)経由でそれぞれボーヌへ進むこととなりました。
「マルス=ラ=トゥールの戦い」でも奮戦したペーター・フォン・レーマン大佐率いる普第37旅団はこの日早朝、ラドンに向かう街道(ほぼ現在の国道D2160号線)を行軍しますが、やがてその前衛がラドンの西郊外に仏軍の大規模な部隊が控えているのを発見します。
旅団前衛と共に行軍していた普第39旅団長で第19師団長代理(師団長のフォン・シュワルツコッペン中将が疾病入院のため)のエミール・ペーター・パウル・フォン・ヴォイナ少将(以降弟のヴィルヘルム・フォン・ヴォイナ少将と区別するためE・ヴォイナ将軍とします)は、「見敵必戦」とばかりに前衛の歩兵2個大隊に対して攻撃展開を命じました。
E・ヴォイナ将軍は街道の北に重砲中隊を展開させ、やがて本隊から急行した軽砲中隊もその横に砲を並べました。
※11月24日の普第37旅団行軍序列
◇前衛支隊(第91連隊長ハーゲン中佐)
○普第91「オルデンブルク公国」連隊・第1、F大隊
○普竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊・第2,3中隊
○普野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・重砲第2中隊
○普第10軍団工兵第1中隊の半個と野戦軽架橋縦列
◇本隊(旅団長ペーター・フォン・レーマン大佐)
○普第91連隊・第2大隊
○普第78「オストフリーゼン(フリースラント)」連隊
○普野戦砲兵第10連隊・軽砲第2中隊
○普第10軍団工兵第3中隊
レーマン
仏軍も普軍が東方より出現したことに気付き、普軍前衛右翼(北)側を包囲しようと動き始めますが、ここで普軍側は砲撃を開始、本隊の普第91連隊・第2大隊は砲撃中の砲兵陣地を抜けて突進し、敵左翼が進んで来るレ・ザルロ(小部落。ラドンの北東1キロ)を目指しました。
この前進に続いたのは普第78連隊の2個(第2とF)大隊で、オルデンブルク兵の北側に進み、仏軍の包囲攻撃を未然に防ぐのでした。
第91連隊第2大隊を直率した連隊長のハーゲン中佐は、レ・ザルロの仏軍を駆逐すると続行した同連隊第1、F大隊の集合を待ち、午後2時頃、連隊の総力でラドン市街へ突入しました。しかし、仏軍は反撃せず直ちに市街から脱出し、西のベルガルド方面へ後退して行ったのです。
この時、ラ・モット(小部落。ラドンの北西550m)に残留した仏軍の後衛は激しく抵抗して本隊の後退を助け、やがて投降しました。
こうして仏軍を退けた普第37旅団は行軍を再開し、メジエール(=アン=ガティネ)へ続く街道(現・国道D950号線)を進み出しますが、直後に前進方向から砲声が轟き、E・ヴォイナ将軍は直接戦場に向かわず、敵の不意を突くためモンティニー(2軒の農場。ラドンの西北西3.6キロ。現存します)を経由して戦闘に参加しようと街道を左に外れるのでした。
一方、第37旅団が戦い始めたことを知らされた普第10軍団長フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将は、同じくボーヌに向け行軍中の普第39旅団に対し「メジエールに向かい同僚旅団を助けよ」と命じます。ところが軍団から先行した斥候は「メジエールは既に仏軍の手にあり」との報告をするのでした。
普第39旅団長代理ハインリッヒ・シモン・エデュワルド・フォン・ヴァレンティーニ大佐は午後1時30分、ボーヌ直前のヴヌイユ(ボーヌの東3.2キロ)でフォークツ=レッツ軍団長の命令を受領します。
この時旅団(歩兵4個大隊、騎兵1個中隊、砲兵2個中隊)では同行していた軍団砲兵隊が先行してボーヌに到着し、歩兵2個大隊と竜騎兵1個中隊が南方警戒に派出され別動していました。従って大佐が直ぐに動かせたのは歩兵2個大隊と砲兵2個中隊のみで、命令に従ってメジエールに向かい南下すると部落から激しい銃撃を被ることになったのです。
ヴァレンティニー大佐は両歩兵大隊を部落西の(現・国道D950とD975号線による)街道交差点に集合させると、歩兵たちは砲兵の援護射撃の下、直ぐ南側のラルシュモン農場(交差点の南350m)を襲い、農場と付近数軒の農家にいた仏軍前哨を駆逐しました。
この動きに刺激された仏軍は、交差点周辺の普軍に対して砲兵2、3個中隊による砲撃を開始し、ヴレヴィル(=デュ=ガティネ。メジエールの西南西3.6キロ)部落から攻撃隊が発進してラルシュモンに迫り、ほぼ同時にベルガルドから強力な歩兵の縦列数個が北上して来たのです。
しかし、この日はお互いの「思惑」(普は拡散している部隊の集合を優先したい・仏は新兵が多く夕から夜に掛けての戦闘は避けたい)からかこれ以上の戦いに発展しませんでした。
フォークツ=レッツ将軍は戦闘態勢を取ってメジエールに南から接近していた普第37旅団に対し、メジエールを大きく迂回させて部落西の交差点付近にいる普第39旅団の北方に抜けさせ、同旅団は敵が攻撃して来ないことを確認すると警戒しつつボーヌに至り、日没までにロマンビル(ボーヌの北1.6キロ)周辺で宿営を始めました。夜半までにはラドンに残していた負傷者収容の任を帯びた後衛もこれ以上の損害なく全員無事にロマンビルに至っています。
メジエール西の普第39旅団は、仏軍が距離を取って停止し、それ以上の戦闘行動を取らなかったため、ラルシュモン農場から順次撤退を開始、ゴンドルヴィル(ボーヌの北東4キロ)まで後退して宿営し、その前哨線は南方を警戒してヴェルゴンヴィル(同東南東2.1キロ)からロルシー(ラドンの北5.7キロ)まで長く取られました。
こうして普第10軍団は点在していた3個の旅団(第40旅団は別任務で遙か東のショーモンにいます)がボーヌ周辺に集合し、軍団規模(2、3個師団)と想像される仏の大軍を南に控えて「にらみ合い」になるのです。
この11月24日、普第10軍団は戦死が士官5名下士官兵50名・負傷が士官7名下士官兵145名・行方不明が下士官兵12名、総計219名・馬匹36頭の損害を報告しました。対する仏軍(第20軍団)の戦死・負傷は200名程度と伝えられ、別に約170名が普軍の捕虜となっています。
☆ 11月25日
独第二軍は24日の遭遇戦により、仏軍がアルトネ南のシュヴィイ周辺に集合している事、その集団の一部が東側ヌーヴィロー=ボワ(アルトネの東13.1キロ)方面へ移動している事、ベルガルドやボワコマンに新たな軍団が現れ北上を狙っている事などを認識しました。
このボワコマンやメジエール(=アン=ガティネ)に出現した仏軍について、ラドンで捕虜となった仏兵を尋問した結果、これら新たな軍勢は「コート=ドール県のボーヌ(ディジョンの南南西36.6キロ)の近郊シャニー(ボーヌの南南西14.1キロ)から鉄道によりジアン(オルレアンの東南東58.5キロ)へ運ばれた新軍団」に属するものと判明し、更にラドンで戦死した仏一士官の所持品を検査すると、その軍団の戦闘序列と「ガンベタより軍団長のクルーザ将軍に宛てた」書簡が発見され、これによってこの仏軍右翼(東)部隊がクルーザ将軍率いる「仏第20軍団」で、ジアンは「仏ロアール軍」とロアール川以東を担当する「仏東部軍」及び「ヴォージュ軍」との境界を成していることが判明するのでした。
以上の情報を吟味したカール王子の独第二軍本営は24日深夜、25日午前における各部隊の配置を決定して通知しました。
これに因れば25日午前9時において普第10軍団はボーヌ(=ラ=ロランド)で、普騎兵第1師団はボワーヌ(ピティヴィエの南東9.7キロ)の西で、普第3軍団はピティヴィエとシャティオン=ル=ロワ(同西11.1キロ)で、北独第9軍団はトゥーリーの南で、それぞれ予測される仏軍からの攻撃を防御するため警戒態勢に入ることとされ、普騎兵第2師団は軍の最右翼(西)として出来る限り遠方まで偵察することを命じられるのでした。
ところが、仏軍はこの25日、攻撃機動を行うことはありませんでした。
仏軍この日の目立つ行動は同日午前中に普第10軍団に対して向かって来た偵察隊だけで、これも普軍前哨兵が数発銃撃を行っただけで退却して行くのです。
独第二軍ではそれまで、第3軍団(ピティヴィエより西)と第10軍団(ボーヌ=ラ=ロランド)の間に15キロ以上前線の「隙間」がありましたが、普騎兵第1師団(第3軍団に送られた普槍騎兵第9と第12連隊を除きます)がボワーヌ以西に進出したことでこの「穴」も塞がりました。
普第10軍団はこの日、仏軍に動きが無いことを確認するとロワン川とヨンヌ川の間(即ち軍団の後方連絡線)に敵が入り込まないようモンタルジとシャトー=ランドン(モンタルジの北17キロ)へも部隊を派出する事を決定します。
普第3軍団は兵站後方部隊が未だ到着していなかったため、ヌムール(同北30キロ)にも一部部隊を留めたのでした。
☆ 11月26日
翌26日も仏軍は独第二軍に対する攻撃を発動しませんでした。
この日最大の「事件」はシャトー=ランドンに向かった普第79連隊長代理のコンスタンティン・フェルディナント・アドルフ・フォン・ボルテンシュターン中佐率いる支隊*の行軍中に発生します。
中佐の支隊が第10軍団前哨線の最左翼であるロルシー(ボーヌ=ラ=ロランドからは東南東7.9キロ)付近を通過しようとした時、ラドンを監視していた友軍前哨が騎兵を含む仏軍に攻撃されているのを発見します。
この仏軍は仏第20軍団第3師団第2旅団の前衛で、マルシェ混成軽騎兵第6連隊の3個中隊と行動を共にしていました。ボルテンシュターン中佐はこの仏軍に逆襲しこれをラドンへ追い返そうと追撃しましたが、シェヴネル(ラドンの北2.8キロ)付近で仏軍旅団の2個大隊(スペイン国境付近、ピレネー=オリアンタル県の護国軍)と遭遇、双方短時間の銃撃で南北に待避しました。この時中佐が同地で得た捕虜の中に、なんと仏第20軍団の第3師団第2旅団長ギラード大佐が含まれていたのです。大佐は瀕死の重傷を負っており、やがて息を引き取りました。この戦闘による普軍支隊の死傷者は21名でした。
奮戦するギラード大佐
※11月26日の普第10軍団「シャトー=ランドン支隊」
○普第56「ヴェストファーレン第7」連隊・第2大隊
○普第79「ハノーファー第3」連隊・第5,6中隊
○Hライター騎兵第1「近衛シュヴォーレゼー」連隊・第2,4中隊
○普野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・軽砲第3中隊の1個小隊(2門)
☆ 11月27日
27日早朝。独第二軍の右翼側では西側からやって来る大公軍といち早く連絡するために諸隊が西へ移動し、普第35旅団、普騎兵第3旅団、普軍の砲兵4個中隊がアレーヌ(トゥーリーの西8.4キロ)からオルジェール(=アン=ボース。アルトネの北西16.2キロ)やロワニ=ラ=バタイユ(オルジュールの南東4.5キロ)へ移動し、大公軍がロワール(Loir)川を渡河して東進する際に援助しようとしました。
この日、この独第二軍右翼が発した斥候諸隊は、それまでコニ川(オルレアンの北西方ブリシー付近から北西へ流れヴァリーズ、コニを経てマルブエ付近でロワールに合流する支流)の北まで進出していた仏軍の前哨たちが、同川の遙か南まで去ったことを確認しています。
同日、ヌムール在の普第3軍団後衛は「周辺の住民によれば、前夜25,000名に上る仏軍がモンタルジの南方まで進んで野営した模様」との至急報を軍本営に上げました。この情報は暫く後にシャトー=ランドンの近郊でロワン沿岸を監視するボルテンシュターン中佐からも同様の報告が到着したために確実視されました。
この他にも各斥候により北進する仏軍の縦隊がモンタルジ西のオルレアン運河流域南方で複数確認されており、更にミニュレット(モンタルジの北西11.8キロ)には昨日は確認されなかった目立つ仏軍部隊がおり、ここから前哨がコルベイユ(ラドンの北7.7キロ)方面へ前進していることが報告されるのです。
前述通りピティヴィエ方向(北東)に向かっていると思われるオルレアン大森林北辺に進んだ強力な仏軍部隊もおり、これらの情報からカール王子は「仏ロアール軍がロワン西岸沿いとオルレアン大森林からフォンテーヌブロー地方への前進を謀っているのでは」と推察しました。
しかし仏軍の進撃方向がこれで確実になったか、と言えば難しいところで、大公軍とブル付近で接触した仏軍が未だオルレアンの北西側に控えていることも確実で、仏軍が自軍左翼に兵力を移行しているように見えるのもカール王子を引っ掛け独軍左翼側に隙間を開けさせ、大公軍との間を仏軍主力がパリ方面へ正面突破する「謀略」かも知れず、カール王子としてはこの時点で普第10軍団の護るボーヌ=ラ=ロランドとロワン西岸に兵力を集中する決断が出来ませんでした。
そこでカール王子は、必要に応じ臨機に普第10軍団を援助するため、普第3軍団に命じて「普第5師団をピティヴィエ~ボワーヌ間に進め、普第6師団はピティヴィエに移動せよ」と「やや左翼寄り」に移動することを命じるのです。
同時に普第6師団の東進により手薄となるバゾッシュ=レ=ガルランドには北独第9軍団に1個旅団の派出を命じます。また必要に応じ第9軍団本隊も左翼(東)側へ転移させるため、カール王子はロワール沿岸に達した大公軍に対し、「29日までに少なくとも前衛がトゥーリー付近でパリ~オルレアン大街道に達するよう」命令を送付したのでした。
ヘッセン・ライター騎兵




