メクレンブルク大公軍、独第二軍と合同す
☆ 11月24日
戦争の短期終結に腐心するモルトケ参謀総長の親書を受けて納得し、大本営の「無茶振りな」命令を実行することを決心したメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は、24日の朝、麾下総軍に対し「シャトーダン及びバンドーム(シャトーダンの南南東37キロ)方面(即ち左・南東側)へ転進するべく」命令を発し、麾下諸隊はほぼ90度左旋回する行軍計画を大至急作成して即実施するという「その実行力を試される」状況となりました。
この24日、「行軍計画の変更」により大公軍の左翼から先頭に変わった普騎兵第6師団は、ヴィブレイからロアール=エ=シェール県に入って本隊がモンドゥーブロー(ヴィブレイから南西へ14.7キロ。ノジャン=ル=ロトルーの南38.3キロ)に至りますが、ここで護国軍「新兵」部隊と義勇兵の集団に遭遇しこれを駆逐しています。同じく師団の行軍側面を進んだ両翼支隊も、サン=タジル(モンドゥーブローの北北西6.6キロ)とサルジェ(=シュル=ブレイ。同南南西7キロ)でそれぞれ護国軍「新兵」と義勇兵の混成部隊に出会いこれらを蹴散らしました。
なお、同師団長で9月9日にラン(Laon)にて重傷を負ったメクレンブルク=シュヴェリーン大公の弟君・ヴィルヘルム公は、1ヶ月ほどで戦列に復帰しますが怪我の具合は思わしくなく、半ば強制でベルサイユ宮殿に設けられた独軍病院にて安静を言い渡されました。それでも師団が兄大公の麾下となると「師団と共に行動する」と意地を張り復帰を願いましたが、容態は野戦行軍に耐えられるものではなく願いは叶いませんでした。
この“プリンツ・シュナップス”不在の間、師団の指揮は麾下普騎兵第15旅団長のカール・ヨハン・フォン・シュミット少将(マルス=ラ=トゥール戦のゴルズ高地で驃騎兵第16連隊長として奮戦し負傷、将官に昇進して復帰)が執っています。
同じ頃、普胸甲騎兵第6「ブランデンブルク」連隊の1小隊を率い、長駆斥候に出たフォン・ブッセ少尉は、シャトーダンの西郊外まで進出するとロワール(Loir)川の浅瀬を馬で渡り、市街地へ接近しました。しかしシャトーダンはマルシェ部隊(この頃は既に正規軍の戦列歩兵同様に扱われていました)と護国軍部隊によって厳重に護られており、周辺で捕らえて尋問した住民の言に依れば「歩兵だけでなく騎兵と砲兵も市内で見た」とのことでした。
ブッセ少尉は敵に察知される前にその場を去り帰途に就きましたが、往きに使用したロワールの浅瀬周辺に仏の守備隊が進出しているのを発見し、少尉ら斥候隊員は密かに泳いで川を渡ると苦労して馬匹も渡河させ、対岸に現れた仏義勇兵中隊に突撃して敵が怯んだ隙にこれを突破し、その夜はサン=マルタンの森(レ・ボワ・サン=マルタン。ロワール西岸、シャトーダンの西3キロにある森林)に隠れ潜んで一夜を明かしました。少尉たちは翌朝、ロワール対岸からシャトーダンを観察した後に仏の支配地域を突破し、無事連隊へ帰還しています。ブッセ少尉の大胆な行動は奏功譚として新聞記事にもなり独国民が賞賛することになりますが、一日後、少尉たちは「運良く大軍の狭間にいたお陰で助かった」と思い知るのです(後述)。
義勇兵の追撃をかわす普胸甲騎兵
このブッセ隊ばかりでなく、同じ普騎兵第6師団からは24から25日に掛けて多くの斥候が放たれましたが、クロイエ(=シュル=ロワール。シャトーダンの南西10.8キロ)に向かった斥候は、同地に護国軍と義勇兵の部隊がいるのを報告し、更に南方のフレトゥヴァル(同南南西22キロ)やバンドームに向かった斥候は、エピュイゼイ(バンドームの北西15.7キロ)付近で強力な仏軍部隊に発見され猛烈な銃撃を被ったため、それ以上の前進を諦めるのでした。
同日。普騎兵第6師団の後方にはラ・フェルテ=ベルナールから南東へ転進したB第1軍団が続き、前日は普騎兵第6師団のいたヴィブレイ周辺に至り、B軍の左翼後方(北西)には普第17師団が同じくマメールからラ・フェルテ=ベルナールに、同第22師団がベレームからノジャン=ル=ロトルーにそれぞれ到達し宿営しています。
同日朝、大公軍右翼後方となった普騎兵第4師団中ブル(シャトーダンの北西19.8キロ)にいた普騎兵第9旅団から派出した前哨は、シャペル=ロワイヤル(ブルの南西11.3キロ)に近付いた時、部落から猛烈な銃撃を受けました。
大公軍本隊の進路上に仏軍がいるとの報告を受けた同師団からは、複数の斥候隊と一つの規模の大きな偵察隊が急ぎ南方に送られましたが、彼らは3日ほど前に独大公軍南下の報を受けマルシュノワールの森(シャトーダンの南南東25キロ周辺)南方の駐屯地からシャトーダンを越えてマルブエ(シャトーダンの北4.8キロ)周辺に進んだ仏第17軍団の1個師団と遭遇してしまうのです。
普軍騎兵は危うくこれから逃避しましたが、この接触は仏側にも動揺を与え、それは翌日意外な展開を生むのでした。
☆ 11月25日
24日の夜間、バンドームの北西方やシャトーダン西郊に独軍が接近したことを知ったトゥールの国防政府派遣部は、ル・マンではなくバンドームやその南方のロアール(Loire)沿岸に目標を変えたように見える独軍の姿に慌て、「これは直接トゥールを狙っているに違いない」と判断し、日付が変わった25日の早朝、3日前に仏第17軍団長となったばかりのガストン・ドゥ・ソニ将軍に「一部をバンドームに派遣し独軍のロアール河畔への突破を防ぐ」よう命じるのです。ソニ将軍は命令通り1個旅団を鉄道でバンドームに向かわせると、その時軍団で実働していた軍団の第3師団の歩兵諸隊と軍団砲兵の騎砲兵2個中隊(8門)を直率して同日(25日)、独軍の「弱い右翼」がいると思われるブルを目指して突進するのでした。
こうして大公軍の中央と右翼の間を進んだ仏第17軍団第3(ピエール・デフランドル少将)師団の前衛は25日の昼過ぎ、ブルの南東方で北方から南へ進むB軍の行軍列を望見します。
これはB第1軍団の弾薬縦列と架橋縦列で、11月中旬、戦闘部隊が前進する中シャルトル付近に留まり待機していた所、24日になってヴィブレイから東へ行軍中の軍団本隊に北から合流せよとの命令が下り、この日の目標であるアルヴィル(ブルの南西23.2キロ)に向かっている途上でした。
軍団長のフォン・デア・タン大将は、まさか仏軍がこんな北にまで進むとは考えもせずにすっかり油断しており、それは何も大将のみの責任ではなく、大公軍本営の責任でもありました。何故ならば軍本営は、このシャルトル~モンドゥーブロー道路(現・国道D921号線)を「後方部隊優先」に指定し「傷病兵の輸送」等に充てるよう指示していた(即ち「安全」と見なしていた)からでした(普第4師団から「ブルの南西からシャトーダンまでに仏軍がいる」との報告が届いていなかったものと思われます)。
既に縦列の護衛兵は殆どが先方警戒のためユンヴェール(ブルの西5.5キロ)まで進んでおり、軍属の人夫と輜重兵、そして僅かの工兵からなる縦列は丸ごと捕縛される危機に陥ります。
この時、付近を行軍中だったのが普騎兵第4師団所属の普騎兵第10旅団でした。
ルドルフ・フォン・クロージク少将率いるこの旅団はこの日、ボヌヴァルの北方からラ・バゾッシュ=グエ(ブルの南西16キロ)を目標に前進していた所で、クロージク将軍は仏軍が南方から迫って来るのを発見すると、麾下と付近にいた諸隊とを併せ指揮を執り、迫る仏軍に対抗するのでした。
クロージク
※25日にクロージク将軍が率いた諸隊
○普騎兵第10旅団(竜騎兵第5「ライン」連隊・驃騎兵第2「親衛第2」連隊)
*B第13連隊・第10,11中隊
*普竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊
○普槍騎兵第6「チューリンゲン」連隊・第1,4中隊(普騎兵第9旅団所属)
○普野戦砲兵第5連隊・騎砲兵第1中隊
○普野戦砲兵第11連隊・騎砲兵第2中隊の1個小隊(2門)
※普竜騎兵連隊はランから普第17師団に合流するため行軍中、命令によって普騎兵第4師団に臨時配属となっていました。
※B軍歩兵2個中隊は普騎兵第4師団に配属されていた歩兵の一部です。
B軍歩兵2個中隊はイェーヴル(ブルの東1.9キロ)で部落とオザンヌ川(ボーモン=レ=ゾテル付近からブルを経てボヌヴァル付近で合流するロワール支流)に架かる橋(現・国道D955号線の橋)を占領して仏軍と対峙し、普軍騎砲兵はその8門の騎砲を部落の南北に並べました。
しかし、緊張して待つ独軍の将兵を前に仏軍は積極的な攻撃を仕掛けず、ただブルの南郊外に砲列を敷いて幾度か発生した銃撃戦を行っただけで前進することはありませんでした。
B軍の各縦列は急ぎブルを通過して護衛隊の待つ西へ進み、クロージク将軍たちは全ての後方部隊がブルを去った午後4時に陣を解き、警戒しつつブルを迂回してラ・バゾッシュ=グエへ向かい、宵の口に同地で前日はブルにいた同僚の普騎兵第9旅団と合同しました。
仏第17軍団の前衛部隊は、普軍騎兵がブル周辺から去って行くのを見るとブルに入り、この夜は市街と周辺で宿野営しました。
この日、普騎兵第4師団残りの騎兵第8旅団はボヌヴァル北のシャルトル~シャトーダン街道(現・国道N10/D910号線)脇で警戒態勢を執り、待機しています。
この日の「ブルの遭遇戦」で仏軍側は約100名の損害を受け、独軍側は僅か6名の損害でした。
大公軍の右翼では、普騎兵第6師団がバンドームに接近し、ダンゼとアゼ(それぞれバンドームの北北西11.5キロと北西8.3キロ)に到達して斥候をロワール東岸に送ってその森林と諸部落で仏軍と接触しました。
サン=カレ(モンドゥーブローの南西13キロ)とモンドゥーブローに到着したB第1軍団の後方で、同軍団の輜重縦列は忍び寄った仏護国軍部隊に襲撃されましたが、B軍の輜重護衛中隊は奮戦して仏軍を撃退します。
この日、普第17師団と第22師団はオートン(=デュ=ペルシュ。ノジャン=ル=ロトルーの南南東15キロ)とその南西19キロ余りとなるヴィブレイを結ぶ線上に到達しました。
フリードリヒ・フランツ2世大公は夕刻、ブルでの出来事や諸斥候の報告に接し、「我が軍とパリ包囲軍との間に強力な敵兵団(ブルの仏第17軍団を指します)が侵入した様子」から「一時ロアール川に向かう軍の行軍を中止し、先にブルにいるという敵を駆逐すべき」と決断しました。
するとこの夜大公の下に大本営からの命令が届き、それによれば「ロアール河畔における仏軍の集中は疑いようのないものとなったので、大公軍は以降カール王子の隷下となり、更にボージョンシーに向けて迅速に前進せよ」とのことでした。また、カール王子からの書簡も届くと、そこには「大公軍はその右翼側のみボージョンシーへ向かうこととなろう」との「予告」が認めてあったのです。
しかし大公はこれら命令を「無視」することに決めます。大公にはカール王子(大公から見れば母方年下の従兄弟)に対する「対抗心」もあったことでしょうが、それはさておき「この命令はブルに敵の強力な兵団が侵入した」との重要な報告を大本営やカール王子が受ける前に発せられたものであり、「今や何を差し置いてでもブルの敵を排除するのが優先」との考えからでした。
☆ 11月26日
翌朝、普騎兵第9旅団はラ・バゾッシュ=グエから南東方で重要な鉄道が走るクルタレン(ブルの南14.8キロ)方面に偵察斥候を派出します。同第10旅団は仏軍が進出したと思われたユンヴェールとブルとを北に避けて前進を再開し、その後方からはブルの敵を攻撃するよう命令された普第22師団が進みユンヴェールを襲撃して、短時間で微弱な仏軍守備隊を駆逐しました。普軍歩兵はそのままブルへ突進しますが、既に仏軍の姿は消えており、先程のユンヴェールの敵は後衛だったと知れるのです。ブルの住民は普軍の尋問に対し「14,000名の仏軍は砲兵2個中隊と共に昨夜南方へ退却した」と答えるのでした。普軍は「ブルの敵軍はシャトーダンへ向かったに違いない」と考えます。
同じ頃、普第17師団はラ・フェルテ=ベルナールからブルに向かって行軍し、この日はラ・バゾッシュ=グエに到達しました。この朝、同師団は大公より「軍の後方を警戒する」一支隊の編成を命じられ、この部隊*はヴィブレイから西方向へ逆転向すると、既に前日普騎兵第17旅団から派出した偵察隊が仏軍守備隊を追い出して居座っているユイヌ河畔のデュノー(ル・マンの東北東24.7キロ)周辺に進み、ル・マン~ノジャン=ルーロトルー街道(現・国道D323号線)筋に展開してル・マンに対する警戒を開始しました。
※11月26日における普第17師団の「後衛支隊」
*アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将(騎兵第17旅団長)指揮
○擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊・第2、3大隊
○槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊・第1,3中隊
○竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊第1,2,4中隊
○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊(2門)
普軍騎兵たち
同日、B第1軍団はトゥール方面警戒のためにモンドゥーブローの南方に一支隊を残留させると、主力はアルヴィルへ北進しますが、大公より「仏軍はブルから退去したので貴軍団はクルタレン及びドゥルエ(クルタレンの南西6.2キロ)へ東進せよ」との命令が入り、同地へ向かいました。
バンドームの北西方まで進んでいた普騎兵第6師団は、クロイエ(=シュル=ロワール)、フレトゥヴァル、バンドームのロワール(Loir)河畔を偵察し、同時にロワール渓谷内を走る鉄道を破壊しようと斥候偵察隊を多数派出しましたが、仏軍はこれら各地に多数存在し、またバンドームからは師団根拠地となっていたアゼに対して攻撃が企てられたため破壊工作は殆ど実施出来ませんでした。
独第二軍司令官のカール王子は同26日の午後、前日の大本営令によって配下となったフリードリヒ・フランツ2世大公に対し電信命令を発します。それによれば、「大公軍は大本営令による行軍方向を維持して続行し、可及的速やかにジャンヴィル(トゥーリーの西4キロ)にある第二軍右翼と連携せよ」とのことでした。
これを受け取った大公は、既にブルの敵もシャトーダン方面へ去ったことで命令を実行することに決し、翌27日の行軍命令を起草しました。
「普第22師団はその左翼(北)側を普騎兵第4師団に警戒させ、オザンヌ川の北岸沿いに東進しボヌヴァルに向かえ。普第17師団はボヌヴァル南方のサン=モーリス(ロワール東岸。市街からは南に1.9キロ)とその高地を目標として前進し、B第1軍団はシャトーダンに向かって前進せよ。右翼(南)側の警戒は普騎兵第6師団が行い、クルタレンまで前進せよ」
☆ 11月27日
27日。大公軍は命令通り目的地へ進みますが、この間一切「敵部隊」に遭遇しませんでした。
24日までボヌヴァルにいた「ペルシュ兵団」の優良なマルシェ部隊はシャトーダンを経て南へ去り、ソニ将軍の仏第17軍団主力もまた前述通り25日の夜間マルブエまで下がっていましたが、将軍はシャトーダンで「トゥール派遣部を守るためバンドームに集合せよ」との命令を受けました。
ところがソネ将軍は翌26日バンドームに残置していた旅団より、「クロイエ(=シュル=ロワール)、フレトゥヴァル、バンドーム近郊に普軍騎兵が現れた(前述の普騎兵第6師団の斥候達です)」との報告を受け、「最早バンドーム北方のロワール(Loir)西岸は普軍に押さえられた」と信じてしまい、「命令通り南西へ進むのは危険」として同日夕方、マルシュノワールの森南方の元の宿野営地へ引き上げることを決め、その集合目標をエコマン(シャトーダンの南20キロ)とするのです。
しかし仏第17軍団は練成途上の新兵を多く含んだ「未熟」な部隊であり、しかも再三に渡る移動(しかも敵の目前)の労苦と緊張が将兵を疲弊させ、その隊列は乱れて落伍兵が相次ぎ、脱走もまた少なからず見られるのでした。落伍兵たちは街道沿いを彷徨うように南へ進み、所々で数群のグループとなって途方に暮れているところを収容され隊伍を整えて再出発しました。ある歩兵大隊と砲兵1個中隊はマルシュノワール(シャトーダンからは南へ27.7キロ)とは90度も方向違いのトゥルノワジ(シャトーダンの東南東23.5キロ)に至ってしまい、2,000名にも及んだ落伍兵はボージョンシーにまで進んでようやく集合する事が出来たのです。
仏軍の負傷兵
この日、フリードリヒ・フランツ2世大公はカール王子からの通報を受けます。それには「独第9軍団はオルジュール(=アン=ボース。トゥーリーの西南西19.5キロ)とロワニ(=ラ=バタイユ。オルジュールの南東4.4キロ)まで前衛を進めた」とありました。カール王子としてはようやくロワール川の線まで進んで来た大公軍を「こちらから迎えに」出た訳で、大公にとっては嫌味とも受け取れるような通報でした。しかも同日、普騎兵第2師団からは「大公軍の前衛と速やかに連絡を取れ」と命じられた普槍騎兵第2「シュレジエン」連隊の第4中隊が西へ突き進み、普第22師団とボヌヴァルで会合したのです。彼らは仏軍の前線を2回に渡って突破し、16時間休みなしに約60キロを駆け抜けたのでした。
☆ 11月28日
これでオルレアンのドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍率いるロアール軍と対決するカール王子率いる独軍が並び揃いました。
大公軍の所属諸隊は28日、ボヌヴァルとシャトーダンの間で宿営し休息しました。その左翼(北)は普騎兵第4師団で、ボヌヴァルからサンシュヴィル(ボヌヴァルの東14.1キロ)までに展開・宿営しています。
B第1軍団はシャトーダン周辺に宿営地を設け、諸兵科連合の支隊数個をクロイエ(=シュル=ロワール)、オルレアン、オルジュール(=アン=ボース)へのそれぞれの街道(現・国道順にD35、D955、D927号線)に進めて未だ仏軍の前哨部隊がいるクロイエとコニ(=モリタール。シャトーダンの北東9.6キロ)付近の渓谷方面を警戒しました。
大公軍の斥候はこの日、ビナ(同南南東21キロ)の東方に巨大な野営地があると報告し、一昨日はシャトーダンにいたと思われる仏軍の行軍列が南(マルシュノワールの森)に向かっていることを発見するのです。
ところでこの前日(27日)、ボヌヴァルに進んだ大公軍本営に、大公自身も良く知っている将官が訪れました。その人物はベルサイユ大本営の軍需経理(兵站と主計担当)長官アルブレヒト・フォン・ストッシュ中将で、歓迎する大公に丁重な挨拶をした後、将軍はヴィルヘルム1世国王の御名がある任命書を大公に差し出し、「大公殿下の参謀長を仰せつかりました」と告げたのです。
当時52歳の中将は秀才居並ぶ普参謀本部でも才能を認められた有能な参謀で、普墺戦争では皇太子率いる独第二軍でブルーメンタール参謀長の次長として活躍、戦後は陸軍省の主計部門を取り仕切っていました。
後に海軍長官にもなるストッシュ将軍はシュレジエンの貴族家が出自でラインラントはコブレンツの出身、曲者の多い普軍参謀にあって如才なく敵も少ない将軍でした。この任命は、いわば大公の「お目付け役」で、一大会戦となる直前、モルトケ参謀長や国王が大公とカール王子との仲違いや大本営との齟齬を心配し、「別命あるまで大公の傍に」と赴任させたものだったのです。
ストッシュ
◎仏第17軍団(11月下旬)
軍団長 ドゥ・ソニ少将(11/22~)→ゲプラット少将(12/2~)→ドゥ・コロンブ少将(12/21~)
参謀長 ドゥ・ブイエ大佐→フォルジュモル准将
砲兵部長 ピエール・バルバリー・ドゥ・ラングラード大佐
工兵部長 シャリエ大佐
☆第1師団 シャルル・ベルナール・ドゥ・ヴェッセ・ドゥ・ロクブリューヌ少将
〇第1旅団 パリ准将 ベラル准将
・マルシェ第41連隊(3個大隊)
・護国軍第74連隊(3個大隊)/仏南西部・ロット=エ=ガロンヌ県の護国軍部隊
〇第2旅団 ドゥ・ロクブリューヌ准将→フォースマーニュ大佐
・マルシェ第43連隊(3個大隊)
・護国軍第72連隊(3個大隊)/仏南中部・カンタル県と中仏・ヨンヌ県の混成護国軍部隊
・マルシェ猟兵第11大隊
〇師団砲兵隊(4ポンド砲18門)
・砲兵第6連隊第19中隊
・砲兵第8(第7の説あり)連隊第19中隊
・砲兵第15連隊第19中隊
〇工兵第1連隊「再生」第3中隊第1分隊
☆旧・第2師団(~11月下旬) エドゥアール・ロメイン・フェイエ=ピラートリ准将
〇旧・第1旅団 ボネ大佐
・マルシェ第42連隊(3個大隊)
・護国軍第19連隊(3個大隊)/仏中部・シェール県の護国軍部隊
・マルシェ猟兵第9大隊
〇旧・第2旅団 エングレーズ准将
・マルシェ第44連隊(3個大隊)
・護国軍第73連隊(3個大隊)/県都オルレアンのロワレ県と南西部・イゼール県の混成護国軍部隊
〇師団砲兵隊(不明)
・砲兵第13連隊第13中隊
・砲兵第13連隊第14中隊
・第2砲兵段列第12中隊
・第2砲兵段列第17中隊
・砲兵第9連隊第20中隊
〇工兵第1連隊「再生」第3中隊第2分隊
☆第2師団(11月末~)
エルンスト・リュドヴィック・デュ・ボア・ドゥ・ジャンシニー少将→パリ准将
〇第1旅団 コシ大佐
・マルシェ第48連隊(3個大隊)
・マルシェ第64連隊(1個大隊)
・護国軍第80連隊(1個大隊)
・マルシェ猟兵第10大隊
〇第2旅団 ティブヴィル中佐
・マルシェ第51連隊(3個大隊)
・護国軍第85連隊(3個大隊)/仏南西部・ジェール県の護国軍部隊
〇師団砲兵隊(4ポンド砲18門)
・砲兵第3連隊第3中隊
・砲兵第3連隊第4中隊
・砲兵第20連隊第13中隊
〇工兵第1連隊「再生」第3中隊第2分隊
※この師団は10月中旬軍団で最初に編成されますが、旧・師団はクルミエ戦後に新設第18軍団の第1師団(工兵は残留)となり、11月末~12月上旬に部隊を変えて新編されました。
☆第3師団 ピエール・デフランドル少将→ドゥ・ジュフロア=ダバン准将
〇第1旅団 ドゥ・ジュフロア=ダバン大佐→ディディエ大佐
・マルシェ第45連隊(3個大隊)
・護国軍第70連隊(3個大隊)/仏中南部・ロット県の護国軍部隊
・マルシェ猟兵第1大隊
〇第2旅団 ソトロー=デュパール大佐
・マルシェ第46連隊
・護国軍第76連隊/スイス国境付近・アン県、南部・オード県、南東部・イゼール県の混成護国軍部隊
〇師団砲兵隊(4ポンド砲砲18門)
・砲兵第8連隊第20中隊
・砲兵第10連隊第20中隊
・砲兵第14連隊第21中隊
〇工兵第3連隊「再生」第4中隊第1分隊
◎騎兵師団(12月上旬時点未編成)
師団長 ドゥ・ロングリュ少将→ゲプラット少将→ドゥ・リュナス・デスプイユ准将
〇第1旅団(12個中隊) ドゥ・ランドルビル准将
・マルシェ混成軽騎兵第6連隊
・マルシェ槍騎兵第4連隊
・マルシェ混成軽騎兵第5連隊
〇第2旅団(8個中隊) ゲプラット准将→バルビュー准将
・マルシェ胸甲騎兵第4連隊
・マルシェ胸甲騎兵第7連隊
☆軍団砲兵隊(砲38門/ミトライユーズ砲16門) スメ中佐
・海軍混成砲兵第32中隊(8ポンド砲x6)
・海軍混成砲兵第33中隊(8ポンド砲x6)
・砲兵第2連隊「再生」第1中隊(8ポンド砲x6)
・砲兵第2連隊「再生」第2中隊(8ポンド砲x6)
・砲兵第12連隊「再生」第20中隊(ミトライユーズ砲x8)
・砲兵第13連隊第22中隊(ミトライユーズ砲x8)
・砲兵第15連隊「混成」第15中隊(7ポンド砲x6)
・砲兵第18連隊「再生」第15中隊(4ポンド騎砲x4)
・砲兵第18連隊「再生」第16中隊(4ポンド騎砲x4)
☆弾薬段列 ラボ騎兵少佐
〇第3砲兵段列第15中隊
☆軍団工兵
〇工兵第3連隊「再生」第4中隊第2分隊
☆軍団義勇兵
・西部ヴォロンテール(ボランティア/義勇兵)連隊(教皇領ズアーブ兵による。300名規模の2個「大隊」編成)
・パリ「友誼」中隊
・ジロンド「斥侯」中隊
・「ブリダ」義勇兵中隊(ブリュ隊長)
・トゥール「共和国」義勇兵中隊(ユソン隊長)
・オート=ビエンヌ県義勇兵中隊(スダナ隊長)
・トゥーロン「狙撃兵」中隊(クレー隊長)
仏軍の高級士官




