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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
385/534

独メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍のペルシュ地方進撃(後)


☆11月19~21日


 大公は11月19日、麾下全軍を現在地に留まらせ一日の休日を与えます。貴重な休息で疲れを癒した大公軍は20日、前進を再開しました。

 この日、普第17師団はスノンシュ(ラ・ループの北10キロ)に、普第22師団はラ・ループに達します。


挿絵(By みてみん)

ラ・ループの城館


 ノジャン=シュル=ウール付近に停止していた普騎兵第4師団は早朝、斥候を南方に放ち、この斥候たちは「イリエ=コンブレとボヌヴァルにあった敵がシャルトル方面へ前進する気配あり」との報告を上げました。これを聞き及んだB軍フォン・デア・タン大将は、この敵を向かい討ち壊滅しようと麾下B第1軍団に予定よりやや南側に偏った進路を取らせ前進させました。

 B第2師団はこの日、クルヴィル(=シュル=ウール。シャトーヌフの南15キロ)に達し、イリエ=コンブレに北面するマルシュヴィルとオレ(それぞれイリエ=コンブレの北7.6キロと北北東11キロ)に前哨を派出しました。B第1師団の方は西へ進み、夕方6時までに前衛はシャンプロン=アン=ガティンヌ(ラ・ループの南南東9キロ)を臨む地点まで前進しました。B軍は市街地攻撃を計りますが既に闇は深く、また市街地には頑丈なバリケードが築かれ、強力な仏軍守備隊もあって貴重な砲兵まで存在していたので、この日の攻撃は諦めて宿野営に入るのでした。

 普騎兵第6師団はこの日、B軍2個師団の間を進み、夕刻にはロワール川に達してサン=ドニ=デ=ピュイ(シャンプロンの東7.4キロ)に到着し宿営しています。


挿絵(By みてみん)

悪天候の行軍・バイエルン軍


 この夕べ。フリードリヒ・フランツ2世は「大公軍がこのままノジャン=ル=ロトルー方面へ進撃するとすれば、これまでと違って相当数の敵兵力と相対することになるのは必然」と考えました。そこで翌日からの行軍は「敵との本格的な交戦を予想して兵力を集中運用することが肝要」と考え、次の主旨の命令を下しました。


 「翌日(21日)、普第22師団とB第1軍団はコンデ=シュル=ユイヌ(ノジャン=ル=ロトルーの北北東6.9キロ)とティロン=ガルデ(同東13キロ)との間に進んで集合し、普第17師団はその右翼後方となるラ・マドレーヌ=ブヴェ(ラ・ループの西8.3キロ)へ進み、これら集中した4個師団によりノジャンに向けて前進する」


 しかし、このペルシュ地方(ノジャンを中心とするオルヌ県南東端とウール=エ=ロワール県西端に跨がった地域。現在のペルシュ自然公園一帯)では、多数見られる並木のある境界壁代わりの土手や、点在する堅牢な一軒農家があり、これらは騎兵や砲兵の行軍を阻害し、銃砲撃の拠点として防御側にとって非常に有益となったため、独大公軍の特徴である多数の騎兵や砲兵の使用が制限され、また地理に通じる義勇兵や住民が独軍へ反抗しやすくなっていたのです。


挿絵(By みてみん)

街道の障害物を撤去する普軍槍騎兵


 クルミエ戦の前までノジャン=ル=ロトルーからシャトーダンにかけて存在し、後に仏第21軍団となって仏海軍のバンジャマン・ジョレス提督が率いることとなる集団は、この時すでに練成のためル・マン方面に去っており、代わって独大公軍に相対することとなったのは、イヴ=ルイ=エルキュール・フィエレック中将率いる「西部軍」の一部、ジャック・オーギュスト・ルソー工兵大佐率いる「ペルシュ兵団」でした。

 この、練成途中の新兵による護国軍諸大隊に旧来の護国軍部隊やマルシェ部隊を集合させただけの「未成兵団」は、砲兵も僅か2個中隊(4ポンド山砲6門、12ポンド野砲6門)しかありません。

 それでもその戦力は、オルヌやカルヴァドスにサルト県、そしてロワール流域等の護国軍新兵9,400名やマルシェ部隊に正規軍猟兵4,600名、義勇兵約400名、騎兵約420騎と侮れぬ数となっており、これは4つの「旅団」に分けられて、ボヌヴァル、ブル、そしてノジャン=ル=ロトルーを中心とする一帯に展開していました。


挿絵(By みてみん)

ブルターニュ地方の護国軍新兵


 21日早朝。ラ・ループから出立した普第22師団は、その前衛*がウール=エ=ロワールとオルヌ県境のラ・エ・ヌーヴ(ラ・ループの南西5.2キロ)付近で仏軍散兵集団に遭遇し、これに銃撃を浴びせて撃退しますが、この仏軍前哨部隊はオルヌ県側のル・ムーラン・ヌフ(水車場のあった小部落。ラ・エ・ヌーヴの西1.4キロ)に構えていた別の仏軍と合流しました。

 この地からドネット川が作り出す渓谷に沿って4キロほど続く街道(現・国道D38号線)が西へと延びていましたが、普軍がこの街道を前進しその「出口」の南に当たるラ・コロンビエ(小部落。ル・ムーラン・ヌフの南南西2.7キロ)に近付くと、激しい銃砲撃を浴びることになりました。

 この部落と周辺の高地には仏軍の部隊が堅牢な陣地を造って構えており、その先のブルトンセル(ル・ムーラン・ヌフの西南西3.8キロ)にもかなり大きな守備隊がいて、シャルトル~ノジャン=ル=ロトルー線の鉄道停車場には貴重な4門の砲が砲口を東に向けて据えられていました。この大砲は接近する独軍の先鋒部隊を絶えず砲撃し悩ませることとなったのです。


※11月21日午前・普第22師団の前衛支隊

○普第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊

○普驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊・3個中隊

○普野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・重砲第3中隊

○普第11軍団工兵・第1中隊


 第83連隊長代理のフリードリヒ・カール・ヴィルヘルム・エヴァルト・フォン・ショルレマー少佐は敵の砲撃下、同連隊の第2大隊をムーラン・ヌフに突進させて部落東の鉄道踏切でバリケードを構えていた仏護国軍部隊を駆逐してこれを占拠し、後方本隊から駆け付けた軽砲第5中隊は前衛の重砲第3中隊の2個小隊と共にムーラン・ヌフに砲列を敷き、ブルトンセルの停車場と部落とを砲撃しました。この時、重砲第3中隊の残り1個小隊は苦労しながら砲2門を街道北の高地へ引き上げ遅れて砲戦に参加し、その右翼(西)側では普第83連隊主力が散兵線を敷いてブルトンセル正面の仏軍に銃撃戦を挑むのでした。

 同じ頃、師団本隊の普第95連隊第1、2大隊はラ・コロンビエの敵を狙って前進し、午後1時、仏軍守備隊を駆逐してこれを占領しました。更にこの内の2個中隊はラ・クリニエール(ブルトンセルの南南東950m)に向かって攻撃の範囲を広げ、このため仏軍はノジャン=ル=ロトルーに至る後方連絡線となっていた街道(現・国道D918号線)を脅かされることになりました。

 このため、ブルトンセルの仏軍は後方との連絡を絶たれることを恐れ、暫く銃撃を交わした後に撤退を開始します。これと入れ替わるように普第83連隊第2大隊と同第95連隊の一部がブルトンセルの停車場と部落を占領し、その際に仏軍が撤収出来ずに放置した野砲1門が発見され、普軍の戦利品となりました。


 ブルトンセルの仏軍は西方及び南西方向へ退却し、それは概ね下流でノジャン=ル=ロトルーに至るユイヌ川の渓谷方面でしたが、これを狙った普軍砲兵の照準は正確で、仏軍の退却行はたちまち潰走へと変化するのでした。この後、ノジャン=ル=ロトルーへの街道を進んだ普第22師団は、街道を逃げる仏将兵をリヴレ(ブルトンセルの南南西4.1キロ)付近まで追撃しますがそれ以上の深追いは止め、この日はブルトンセルとその周辺の家屋を接収して宿営し、歩兵2個大隊は敵が逃げたユイヌ河畔のレマラール(ブルトンセルの西8.5キロ)方面に向けて警戒線を張るのでした。


 一方、B第1軍団が対面していたシャンプロン=アン=ガティンヌの仏軍(オルヌ県の護国軍3個大隊と4ポンド山砲、12ポンド野砲各1個小隊)は20日夜間に撤退を始め、ラ・フルシュ(現・国道D923号線とD928号線の分岐点にある家屋群。ブルトンセルの南6キロ)付近に新たな陣地を設けました。

 翌21日早朝から前進を開始したB第1師団の前衛支隊*は正午頃、この陣地帯に至る街道(現・国道D923号線)に跨がって接近し、遮蔽に頼って待ち構える敵に対して500mを切った距離まで迫ると銃撃戦を挑みました。


※11月21日午前・B第1師団の前衛支隊

○B第11連隊・第2中隊

○B猟兵第9大隊

○Bシュヴォーレゼー騎兵(軽騎兵)第3連隊・第1中隊

○B野戦砲兵第1連隊・4ポンド砲第3中隊の1個小隊(2門)


 この後、B第1師団長バプティスト・リッター・フォン・シュテファン中将は砲兵2個中隊を前衛まで前進させ、B砲兵はレ・バール(ラ・フルシュの東3キロ)西の高地上に砲を引き上げると砲列を敷き、この砲兵援護下、同じく本隊から急進したB猟兵第2大隊はラ・フルシュ北の街道脇にあるプティ・ヴィヴェ、ラ・テュイルリー両農家を急襲して占拠すると、ここを拠点に仏軍左翼(北)側に有効な射撃を行いました。これによってラ・ループへの街道(現・国道D928号線)脇にあった野戦急造堡塁から仏軍砲兵が撤退するしかなくなります。

 B軍は順次到着する本隊が攻撃態勢を取った後にラ・フルシュ西郊の仏軍に対し包囲攻撃を開始しますが、仏軍はB軍の攻撃を待たずユイヌ渓谷(西へ3キロ付近)に向けて急速に撤退し、一部はノジャン=ル=ロトルーへの街道(先のD923号線)を南下して行きました。この退却行軍列はラ・フルシュに進んだB軍砲列から激しい砲撃を受け、またB軽騎兵2個中隊がしつこく追尾して、それはノジャン=ル=ロトルー近郊で友軍陣地に迎えられるまで続きました。

 この時、仏軍右翼(南)側を包囲するべく前進したB親衛(ライヴ)連隊は、戦場の東を流れるクロッシュ川周辺の冠水した湿原と、ラ・フルシュ南方の密集した樹林に妨げられ、攻撃に参加することが出来ませんでした。

 B第1師団はこの日、ラ・フルシュ周辺とマロール(=レ=ビュイ。ノジャン=ル=ロトルーの北東9キロ)、そしてクドルソー(マロールの南1.8キロ)に宿営します。


 B第2師団の方はこの日B胸甲騎兵旅団と共にクルヴィル(=シュル=ユール)よりティロン=ガルデを目標に前進しました。

 師団はシャッサンへの旧街道(現・国道D30号線)を進み、アポンヴィリエでティロン=ガルデへの街道(現・国道D30.2号線)へ転進し西進すると、師団前衛*は正午過ぎ、ティロン=ガルデの東にあった仏軍の拠点レ・フェルリー(家屋群。ティロン=ガルデの東北東2.5キロ)から銃撃を浴び、以降この地で数時間に渡り再三突進して来る仏軍を撃退し続けます。この時、B猟兵第7大隊の第2中隊が猛烈な銃火を冒して街道南側にあった雑木林(現存。レ・フェルリーの北500mほど)に突進してこれを確保、中隊はしばらくの間この林を死守してレ・フェルリーとその周辺に陣を構える仏軍(オルヌとマンシュ県の両護国軍大隊と12ポンド野砲1個小隊にミトライユーズ1門)と銃撃を交わしました。


※11月21日午前・B第2師団の前衛支隊

○B猟兵第7大隊

○Bシュヴォーレゼー騎兵(軽騎兵)第4連隊・第4中隊

○B野戦砲兵第1連隊・6ポンド砲第6中隊の半個(3門)

 *後に残余(3門)も加入


挿絵(By みてみん)

ティロン=ガルテの仏軍


 このレ・フェルリーの北西550mにあったル・パルク(家屋群。現存します)やその先ラ・トレミエール(農家。ティロン=ガルデの北東2.2キロ)にも仏軍がおり、前衛は完全に足を止められていましたが、やがて本隊(B第4旅団)から増援としてB第10連隊第2大隊が駆け付け、彼らは銃火を冒してル・パルクに突撃して守備兵を追い出し、これを占領しました。

 この攻撃で前進の機会を得た前衛のB猟兵第7大隊3個(第1,3,4)中隊も、開墾地を突進してラ・トレミエールの家に突入し、こちらも守備兵を駆逐して拠点を奪取するのです。

 これで孤立したレ・フェルリーの仏軍めがけてB軍が殺到しますが、仏軍守備隊はレ・フェルリーが陥落しても、戦場を南北に二分するティロンヌ川(現・国道D922号線が沿って走るロワール支流)南の高地で激しい抵抗を行い、戦力が拮抗し戦闘は一進一退となったため、B第2師団長は午後2時、後置していたB第3旅団所属の歩兵4個大隊を戦線に投入することに決し、同旅団は待機していたコンブル(ティロン=ガルデの東北東5.3キロ)からティロン=ガルデの南郊外(仏軍の右翼後方)となるラ・シャロピニエール(農場。ティロン=ガルデの南南西1キロ)目指して前進しました。

 この内のB猟兵第1大隊はティロンヌ川を渡って仏軍右翼が展開していた高地に向かうと、猛々しい鬨の声を上げて突撃を敢行し仏兵を高地から追い落とすことに成功します。後に続いたB第3連隊が猟兵大隊を援護すると、大隊は前進を継続してレ・ブロッスの家(農家。ティロン=ガルデの南東1キロ)へ突入しました。


 こうして右翼も敗れた仏軍はティロン=ガルデからノジャン=ル=ロトルー方向(西)へ後退を開始し、暫くの間少数の後衛がティロン=ガルデ部落の陣地に残留しました。

 B第4旅団は隊を整えるとティロン=ガルデを攻撃し、午後4時30分、遂に仏軍後衛は西方へ脱出し、B軍は部落を占領します。

 後退する仏軍に対してB軍前衛は直ちに追撃に移行するとセリジエ(ティロン=ガルデの西4.5キロ)まで進み、この夜B第4旅団本隊はその後方のル・ヴァル(農場。同西北西1.6キロ)に、B第3旅団はティロン=ガルデにそれぞれ宿営しました。


挿絵(By みてみん)

バイエルン第13連隊(第4旅団所属)の兵士


 この日B第1軍団の左翼(南)後方では普騎兵第6師団がシャッサン(ティロン=ガルデの東南東5.4キロ)に到達し、普騎兵第4師団はB軍歩兵1個大隊を増援として迎えるとイリエ=コンブレに進みます。

 この時、騎兵師団外翼を進んだ普騎兵第8旅団は再びボヌヴァルに迫りますが、この方面には未だ強力な仏軍部隊が展開していることが確認され、彼らは再び攻撃を諦めるのでした。


 同21日。普第17師団長のヘルマン・フォン・トレスコウ将軍は、それまで前衛となっていたエンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐の支隊に騎兵を追加し右翼支隊として、早朝レ・ムニュ(スノンシュの西南西8.5キロ)を経てムーティエ=オー=ペルシュ(ブルトンセルの北北西5.8キロ)に向けて出発させると、スノンシュから師団を率いて大公軍の右翼後方(北東)をまずはベロメール(=ゲウヴィル。ラ・ループの北東5キロ)へ進み、北方に潜む敵に対する警戒を怠りなくラ・マドレーヌ=ブヴ(ブルトンセルの北4.6キロ)に向かいました。


※11月21日の普第17師団行軍序列


◇前衛

 ○普第75「ハンザ第1」連隊

 ○普竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊・第3中隊

 ○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・重砲第5中隊

◇本隊

 ○普第76「ハンザ第2」連隊

 ○普擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊

 ○野戦砲兵第9連隊・重砲第6中隊

◇右翼支隊

 ○普フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第1、3大隊

 ○普猟兵第14「メクレンブルク」大隊

 ○普槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊・第2中隊

 ○野戦砲兵第9連隊・軽砲第5,6中隊

 ※その他の騎兵、工兵、縦列等は本隊の後方に距離を置いて追従しました。


 師団右翼支隊と前衛は所々で見つかる道路封鎖の障害物を取り除きつつ前進し、前衛は午前11時、ラ・マドレーヌ=ブヴの東方で仏軍(フィニステール県の護国軍大隊と義勇兵諸隊)に遭遇しました。普軍前衛はこれを攻撃してラ・マドレーヌへ追いやり、前衛を率いる普第75連隊長のヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・フィリップ・マルテイン・アダム・フォン・デア・オステン中佐は、軽砲2個中隊に部落を砲撃させた後、同連隊の第3中隊に対し部落入り口を塞ぐバリケードを攻撃せよと命じ、中隊は右翼側を進んだ第12中隊と共に突撃を敢行してこれを占拠しました。

 同じ頃、ムーティエ=オー=ペルシュへの街道(現・国道D280号線)上で南方からの砲声を聞いた右翼支隊・第90連隊の2個大隊は、急遽ラ・マドレーヌへ転進し、攻撃中の第75連隊諸中隊と共に部落を北方から攻撃して侵入しました。仏軍守備隊は耐え切れずに後退し、西と南へ敗走を始めます。これを追撃した普軍は途中で右翼支隊の普猟兵第14大隊が加わり、彼らはラ・ジョワネール(ムーティエの東南1.7キロ)とラ・ボードリエール(ラ・マドレーヌの南1.3キロ)まで進みます。

 結局仏軍を離散させた普第17師団は、21日夕暮れまでに部隊の全てがラ・マドレーヌ=ブヴとムーティエ=オー=ペルシュに到達し、その周辺で宿営するのでした。


 こうして11月21日の夕暮れ時、大公軍はその第一線部隊(B第1軍団と普第22師団)がノジャン=ル=ロトルーまであと1日まで迫ります。その右翼後方には普第17師団が、左翼には普騎兵第4と同第6師団がおり、それぞれ側前方を警戒していました。ここまで大公軍はほぼ同じ規模かそれ以下の仏軍に遭遇し、損害もたいしたことなく前進しましたが、この時大公フリードリヒ・フランツ2世は、ペルシュ地方の主邑となるノジャン=ル=ロトルーには、それまで遭遇し後退して行った仏軍諸部隊を含め、相当の兵力が集中しているものと考えていました。

 そこで大公は明日「軍を挙げての総攻撃でノジャンを落とす」決意を固め、夕刻、次の主旨の命令を下すのです。


「翌22日、普第22師団はユイヌ川を渡河して西側に廻り込んだ後にノジャン市を攻撃、同時にB第1軍団は北及び東からノジャン市を攻撃せよ」「普騎兵第6師団は歩兵の攻撃と同時に敵の後方連絡線を断つため、ラ・フェルテ=ベルナール(ノジャン=ル=ロトルーの南西19.5キロ)方向へ進撃せよ」「普第17師団はレマラール(同北12.4キロ)付近に進んで戦闘準備を成して待機し、その前衛をベレーメ(同西北西20キロ)まで前遣せよ」「普騎兵第4師団はシャルトル~パリ街道(現・国道D910号線)を守備し出来ればボヌヴァルを占領せよ」


☆11月22日


 22日午前。大公の命令に従って第一線諸隊によるノジャン=ル=ロトルーへの前進が開始されます。ところが正午頃、各隊の前衛がノジャン市街に近付いて見ると、市街地とその郊外から仏軍はすっかり姿を消し、昨夜の内に西方又は南方へ撤退したものと思われました。

 報告を受けた大公は「直ちに総軍西方及び南西方向へ前進を継続せよ」と緊急令を発します。

 この結果、普第22師団とB第1旅団はこの日妨害を受けることなく順調に行軍し、それぞれベルデュイ(ノジャン=ル=ロトルーの北西6.3キロ)とル・ティユ(同南西11.7キロ)に至りました。同じくB第2と第4旅団はノジャン市街へ入城し市内を捜索して完全に占領します。

 B第1軍団の前衛となったB第3旅団は長駆ラ・フェルテ=ベルナールへ向かい、同地にいた仏護国軍3個大隊と短時間戦闘を交えると、護国軍の前線はたちまち崩壊して潰走し、市内とその周辺で約150名が捕虜となりました。

 軍の右翼となった普第17師団の行軍列は午後2時30分にレマラールを過ぎ、ベレームを目標に街道(現・国道D920号線)を進みます。この途中、コロナール=コルベール(レマラールの西8.8キロ)で仏軍部隊と遭遇しますが、前衛の砲兵が榴弾を数発発射しただけで仏兵は直ちに部落を放棄して撤退して行きました。

 師団の先頭を行く普フュージリア第90連隊第3大隊は行く手に幾度も現れる土手を越えつつ急進し、ベレーム西郊外で休息していた仏軍部隊に接近すると同大隊の第9中隊が銃剣突撃を行い、恐慌に陥った仏軍は四散しました。

 これにより普第17師団はこの夜遅くにベレームに到達して宿営し、前衛を遥か西方に派出しました。

 同日、普騎兵第6師団は正午頃にボーモン=レ=ゾテル(ティロン=ガルデの南南西6.6キロ)に達すると午後日没までにオートン(=デュ=ペルシュ。ノジャン=ル=ロトルーの南南東15キロ)とシャルボニエール(オートンの東3キロ)に至りました。

 普騎兵第4師団は前夜の命令到着が夕方となってしまい、結果、そのままの位置で留まっています。


挿絵(By みてみん)

ノジャン=ル=ロトルーの1870年記念碑


 この日、フリードリヒ・フランツ2世はノジャン=ル=ロトルーに入城し独第二軍司令官フリードリヒ・カール親王からの親書を受け取ります。これは既述の「協力要請」で、即ち「独第二軍はその前哨がアルトネの北方で仏軍と接触し、諸般の状況から仏ロアール軍はオルレアン近郊に集合を成しているものと思われる。独第二軍はこれと対決する決心を成したので、貴軍はル・マンを経てトゥールに向かい急速に進撃することで敵を拘束し、結果我が軍を助けて貰いたい」との内容でした。

 フリードリヒ・フランツ2世はこの要請を、自身の考える作戦計画と一致するとして快く引き受けようと決心します。これに従い大公は翌23日の行軍命令を起草して麾下諸隊へ発送しました。


 前日ベレームからマメール(ベレームの西14.5キロ)へ後退していた仏「ペルシュ兵団」指揮官ルソー大佐はこの日、ノジャン=ル=ロトルーから後退して来た麾下主力を引き連れ更に西へ進むと夕刻、アランソン~ル・マン街道上のラ・ユット(マレームの西21キロ)に達します。大佐と「ペルシュ兵団」主力は翌23日午前、ラ・ユットからル・マン鉄道に乗って南下し、ボヌヴァルで頑張るマルシェ部隊以外の「ペルシュ兵団」諸隊は23日夜間、ル・マンに到着するのです。


挿絵(By みてみん)

仏護国軍部隊の野営


☆11月23日


 23日、B第1軍団はノジャン=ル=ロトルーからラ・フェルテ=ベルナールへ前進して同地で集合し、普第22師団はベルデュイからベレームへ、普第17師団はベレームからサン=コスム(=アン=ヴィレ。ベレームの南西13.7キロ)へそれぞれ行軍し、普第17師団の右翼支隊はマメールに達してル・マンへの街道(現・国道D300号線)を押さえ、アランソン(マメールの西北西22.5キロ。ル・マンからは北へ48キロ)方面の警戒を行いました。

 この日、B第1軍団の前衛はソー=シュル=ユイヌ(ル・マンの東北東30.6キロ)で仏軍と遭遇し短時間戦闘状態になりましたが大事に至らず双方が引き、その他諸隊の行軍は妨害されずに進行しました。

 普騎兵第6師団はB軍団の左翼となって前衛がヴィブレイ(ル・マンの東40.3キロ)、本隊がシャンプロン(小部落。ヴィブレイの北北東2.1キロ)に到達します。

 かなり後方に遅れていた普騎兵第4師団は、この日もボヌヴァルを占領しトゥールに至る鉄道線を破壊しようと南下しますが、またもや仏軍の激しい抵抗に遭遇し引き返します。しかし、1個旅団が守備隊の去ったブル(ボヌヴァルの西16.7キロ)に向かい、その占領には成功しました。


挿絵(By みてみん)

普軍竜騎兵の戦闘


 大公はノジャン=ル=ロトルーからB軍団の後方をル・テイユ(ノジャン=ル=ロトルーの南西11.5キロ)に向かいますが、途上普ベルサイユ大本営の電信命令を受領しました。

 これは既述の「大公軍はロアール河畔ボージョンシー(オルレアンの南西24.5キロ。ル・テイユからは南東へ88.5キロ)方面へ前進、サルト川(ペルシュ地方の北西外を源流としてアランソン、ル・マンを通りアンジェの北でロワールに注ぐ支流)方面は騎兵と若干の歩兵で監視するに留めよ」という主旨の命令です。


 ル・マンを「射程内」に捉えていた大公はこの命令に顔を曇らせました。

 普大本営はこれまでの1週間、単にシャルトルの西にある仏軍を警戒し出来れば壊滅させることを命じただけで、あとは大公に任せ切りでした。オルレアン方面の事態はカール王子自身の親書からしても独第二軍が単独で対応するはずで、大公の頭にはオルレアンのことなど欠片もありません。

 事ここに至った経緯が見えない大公には「カール王子軍が数日以内に攻撃を開始するとすれば、自身への命令到達は絶望的に遅く、南西方向へ動く軍を急激に反対の南東方向へ転回させるのも大変な作業であり、到底大本営が期待する期日(数日以内)に目標(ボージョンシー)へ到達するのは無理」と「現場を知らない理不尽な机上計画の命令」に映ったのです。

 大公は直ちに大本営に向けて「軍の1日の休息(=猶予)」を要求しますが素早く届いた返信には「許可ならず。直ちに(命令を)実施」とありました。


 翌24日午前、怒り心頭で何の手立ても行えなかった大公の下に、昨日の電信命令を補足する伯爵フォン・モルトケ参謀総長からの親書が届きます。

 その書簡には、それまでの経緯が詳細に記してあり、モルトケが大公軍を第二軍と共にオルレアン方面へ使用するに至った判断を明快に解説していました。それを要約すれば、「オルレアン方面にあってパリへの前進を謀る仏軍は侮れない数となっており、独軍としては現在使用可能な兵力を余すことなく投入せざるを得ない。大公軍の活躍でウール流域及びペルシュ地方にある仏軍は攻勢になく、守備一辺倒の弱体な兵力であることが判明し、当初の見込みと違ってこの方面(西)からパリへ仏軍が進撃することは考えにくくなった。そこで大公軍もカール軍を助けるためオルレアン方面の敵を右翼(西)から攻撃してもらいたい」ということだったのです。

 ほぼ同時に「カール王子はオルレアン進撃の時期を大公軍がボージョンシー付近に至るまで延期する」との通報も大公の下に届きました。


 当時47歳の働き盛り、父の急死により19歳でバルト沿岸有力国の主となり四半世紀が過ぎて既に名君の誉れ高く、普軍でも名誉職ではない野戦指揮官としてのキャリアを積み、軍司令官の歩兵大将として麾下将兵から崇拝されるフリードリヒ・フランツ2世大公は、敬愛するヴィルヘルム1世(大公にとって母方の伯父に当たります)の名で下された命令と、その才能に感服するモルトケの親書を閉じると「直ちにボージョンシーへの行軍計画を作成せよ」と幕僚に命じるのでした。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ・フランツ2世


※ 独メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍の本営(1870年11月15日)

司令官  メクレンブルク=シュヴェリーン大公国大公フリードリヒ・フランツ2世歩兵大将

大公付武官

 男爵フェルディナント・フォン・ネッテルブラット少佐/フォン・シュレッター大尉

参謀長  パウル・カール・アントン・フォン・クレンスキー大佐

砲兵部長 代理・ヴィーペ中佐

工兵部長 代理・シューマン少佐

本営管理部長 タデン大尉

*軍本営参謀部

 フーゴ・ヴィルヘルム・イシドロ・オスカー・ストレンペル少佐/伯爵フォン・シュリーフェン大尉*/フォン・フィーティングホッフ大尉

*軍本営副官部

 アム・エンデ大尉/フォン・ラインホルト大尉/フォン・クライスト騎兵大尉/フォン・コッチュ中尉

軍本営従軍者

 ザクセン=アルテンブルク公国公爵エルンスト1世歩兵大将

 ザクセン=アルテンブルク公付武官 伯爵フォン・ボイスト少尉

 メクレンブルク=シュヴェリーン公太子フリードリヒ・フランツ3世親王大尉


挿絵(By みてみん)

ザクセン=アルテンブルク公エルンスト1世

挿絵(By みてみん)

メクレンブルク公太子フリードリヒ・フランツ3世


※ 独大公軍・団隊数

☆B第1軍団 歩兵27個大隊/騎兵16個中隊/砲兵20個中隊(118門)/工兵3個中隊

☆普第17師団 歩兵13個大隊/騎兵12個中隊/砲兵6個中隊(36門)/工兵1個中隊

☆普第22師団 歩兵12個大隊/騎兵4個中隊/砲兵6個中隊(36門)/工兵2個中隊

☆普騎兵第2師団 騎兵24個中隊/砲兵2個中隊(12門)

☆普騎兵第4師団 騎兵24個中隊/砲兵2個中隊(12門)

☆普騎兵第5師団 騎兵34個中隊/砲兵2個中隊(12門)

☆普騎兵第6師団 騎兵20個中隊/砲兵1個中隊(6門)


軍総計 歩兵52個大隊/騎兵134個中隊/砲兵39個中隊(232門)/工兵6個中隊


※軍本営参謀部の第二参謀、伯爵フォン・シュリーフェン大尉とは、あの「シュリーフェン・プラン」で有名なアルフレート・フォン・シュリーフェン伯爵その人です。



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