独メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍のペルシュ地方進撃(前)
☆11月16日
前日の15日にヴィルヘルム1世国王の名で発せられたベルサイユ在普大本営からの命令により、フリードリヒ・カール親王元帥率いる独第二軍と同時に担当方面を示されたメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世歩兵大将は16日、この命令をノジャン=ル=ロワ(シャルトルの北22.5キロ)に構えたばかりの本営で受領します。
このノジャン=ル=ロワとそのウール川上流のマントノン(シャルトルの北北東16.9キロ)には、大公の領地出身兵が半数を占める普第17師団が進んでおり、不衛生な長期の行軍で病気となって入院したグスタフ・カール・ベルンハルト・ティーロ・フォン・シンメルマン中将に代わり、ベルサイユ大本営で国王の側にいた軍事内局長(あのマントイフェル将軍が前任で参謀本部と肩を並べていた国王の軍事諮問機関の長)ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将が師団長に任命(この11月16日付)され指揮を執り始めていました。
この時、大公麾下の普第22師団と普騎兵第6師団はシャルトルとその周辺部にあり、バイエルン王国(B)第1軍団はガラルドン(同東北東17キロ)付近に、普騎兵第4師団はアルトネ~シャルトル街道(現・国道D954号線)を行軍中でアロンヌ(シャルトルの南東18キロ)付近にいました。
ヘルマン・フォン・トレスコウ
大公軍の斥候たちはこの日、「仏軍はドルー(同北33.2キロ)南方のウールとブレーズ両河川間に集合している」と報告しています。
大公は翌17日の行軍命令として、普第17師団に対しては、「ウール川西岸に沿って北上しドルーに向かえ」との命令を授け、同じく普第22師団には第17師団の左翼(西)側及び後背を援護し連絡するため「シャルトルからブレーズ河畔のフォンテーヌ=レ=リブ(ドルーの南西12.3キロ)付近で複数の渡河点を確保せよ」と命じます。
クルミエの「傷」を癒し切れていないB第1軍団は「軍総予備となりサン=シェロン・デ・シャン(シャルトルの北14キロ)まで前進して待機」とされ、普騎兵第6師団はシャトーヌフ(=アン=ティムレ。同北西23.4キロ)とノジャン=ル=ロトルーへ通じる両街道(現・国道D939号線とD923号線)に各1個旅団を派遣して敵を捜索し、普騎兵第4師団はイリエ=コンブレ(シャルトルの南西24.3キロ)とボヌヴァル(同南30.5キロ)に対する警戒任務に就き、15日の大本営令で「大公軍」指揮下に入った普騎兵第5師団はウーダン(ドルーの東北東18キロ)に進出し可能ならドルーまで進撃するよう命じられるのでした。
この時、仏軍ではドルーの守備として既述通りデュ・タンプル中佐が率いる旅団クラスの兵力(約7,000)を置いています。
タンプル中佐はドルー~シャルトル街道(現・国道D854号線)の右翼(西)側、ブレーズ沿岸のガルネ(ドルーの南南西4.2キロ)とトレオン(同南南西7.3キロ)に護国軍各1個大隊を置き、その前哨隊はアンベルメの森(トレオンの東に広がる森。現存します)に展開していました。
また、別の護国軍2個大隊がブレーズ川とシャルトル街道までの間に展開しています。元よりこの街道筋では仏海軍の水兵たちによる海軍「フュージリア」2個中隊が駐屯していました。これらを併せて仏軍左翼(東)側は歩兵2個大隊半の兵力からなり、その主力はニュイズモン(ドルーの南2.4キロ)~リュレイ(同南東2.7キロ、現・国道D311沿いになります)にあって左翼側の前線をウール川に沿って北に折り、その末端はサント=ジェム(ドルーの東3.4キロ)にまで至るのでした。
☆11月17日
普第17師団は17日早朝、ドルーに向けて出立します。
その前衛*は第34「メクレンブルク大公国」旅団長で独第一軍司令官の縁戚、ルドルフ・カール・ハインリッヒ・エンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐に率いられ、午後1時から2時にかけてリュレイに接近して仏護国軍と衝突しました。
※11月17日の普第17師団前衛
○普フュージリア第90「メクレンブルク」連隊・第1、3大隊
○普猟兵第14「メクレンブルク」大隊
○普槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊の1個小隊
○野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・軽砲第5,6中隊
マントイフェル大佐
マントイフェル大佐は軽砲中隊に射撃を命じ、砲兵たちは直ちに砲列を敷くと榴弾砲撃を始めますが、このリュレイ付近の仏軍は付近で砲弾が数発破裂しただけで北側の林に逃げ込んでしまいました。
この「マントイフェル隊」の左翼(西)には普騎兵第17旅団(1個連隊欠の2個連隊。第17師団は「大型平時編制師団」で騎兵は旅団編成でした)に属する野戦砲兵第9連隊の騎砲兵第3中隊がブランヴィル(リュレイの南2.3キロ)に進み出て砲列を敷き、ニュイズモン部落周辺に踏み留まっていた仏軍の出撃を数回に渡って撃退し、この部落に向けて榴弾を発射しました。
普騎兵第17旅団を援護するため一緒に前進した擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊の第3大隊*は、砲撃によって弱まったニュイズモンの仏軍前線に向けて突撃を敢行し、部落に侵入すると右翼側に進出した普猟兵第14大隊の1個中隊と共同し、部落から北側の林に後退した仏軍を銃撃しますが、この仏軍は兵士を散開させず午後3時に林からドルー市街方向へと撤退して行くのでした。
※普軍の伝統では歩兵や擲弾兵連隊「3番目」の大隊は「フュージリア(元は火打ち石式の銃を持つ兵士の意ですがこの時代既に尊称です)」大隊を名乗ります。しかし、この第89連隊はメクレンブルク大公国時代から続く「擲弾兵連隊所属兵は全て擲弾兵(これもこの時代既に尊称です)」との伝統から「第3大隊」を名乗りました。(後書きに続きます)
普猟兵第14大隊の軍装
リュレイの北東側となるウール河畔のサント=ジェムでも仏軍は抵抗しますが、野戦砲兵第9連隊の軽砲第5中隊がサン=ドニ(現・モロンヴァル。ドルーの東南東2キロ)から砲撃を行うと効果は覿面で、夕暮れ時になるとサント=ジェムも普軍が占領することとなりました。
この「リュレイ近郊の戦闘」初期段階でフォン・トレスコウ将軍は左翼(西)側シャトーヌフへの街道(現・国道D928号線)沿いに見え隠れする仏軍に対し一支隊*を投入しました。仏軍もトレオンの護国軍1個大隊をアンベルメ部落(トレオンの東2.6キロ)に急行させ普軍の攻撃に備えます。両者は間もなく衝突し仏護国軍兵はシャスポーの猛銃撃で普軍を迎え撃ちますが、普軍将兵は散兵戦を挑んでアンベルメへ突入し、勢いに押された仏護国軍将兵は後背の森林とその先のトレオンに向けて後退して行ったのでした。
普軍支隊の第76連隊第9,12中隊はアンベルメ部落を確保し、その銃口を森の南西端に向けて森林内に潜む仏軍兵士に銃撃戦を挑みます。同連隊他の中隊はアンベルメ郊外から森の南部を包囲する態勢を作り出し、同行した騎砲兵中隊は森林中程東端にあるシャンブレアン(トレオンの北東2.4キロ)を砲撃して部落を炎上させると、仏の護国軍を中心とする諸隊はガルネ部落を抜けてドルーへと撤退して行きました。
ドルー市街(1870)
※アンベルメを攻撃した普第17師団支隊
○普第76「ハンザ第2」連隊フュージリア(F)大隊
○擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊・第2,3中隊
○普槍騎兵第11連隊・第3,4中隊
○野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第1中隊
トレスコウ将軍は部下のアンベルメ攻撃を横目に師団本隊残余を率いてドルーへの街道(現・国道D854号線)を直進し、砲兵はこの街道脇に布陣していた仏海軍歩兵を砲撃して、サン=マルタン(ドルー南郊外。現在の市街南側線路脇にある工場付近)南方の林から駆逐しました。師団はその後目立つ抵抗を受ける事なくドルーに入って市街地を占領し、既に仏軍が去ったブレーズ川西岸に前哨を送って警戒させるのでした。
この17日の「ドルー攻略戦」における普軍の損害は戦死9名・負傷38名・捕虜1名・馬匹損害11頭で、仏軍のそれはウール=エ=ロワール県護国軍の第2大隊長ドゥ・ブリクヴィル少佐を含む士官の戦死16名・負傷17名・捕虜8名、下士官兵以下の損害は捕虜約40名を含むおよそ150名と伝えられます。
ドルーの聖堂
一方、シャルトルの西方スノンシュ(シャルトルの西北西35.5キロ)を中心とする地方には既述通り仏軍のマルティ中佐率いる旅団クラスの兵力(約8,000名)が展開しており、独軍が「ドルーに向かって前進する」との情報が伝わると、中佐は部下をシャトーヌフ(=アン=ティムレ)の南北に広がる森(現存します)に展開させ、独軍の前進に備えました。
歩兵1個大隊とB軍12ポンド重砲兵中隊をシャルトルに残置させた普第22師団は17日午前8時にシャルトル市街を発し、その前衛は午後にシャトーヌフ北方でマルティ中佐の仏軍前哨に遭遇しますが、この仏軍はルヴァスヴィル(シャトーヌフの北北東5.7キロ)付近で暫く銃撃を行うと西へ後退して行きました。師団本隊は午後5時になって日が沈むとマルヴァル・レ・ボワ(ルヴァスヴァルの南2キロ)とル・ブレ(=レ=デュー=エグリーズ。同東2.9キロ)まで進んで宿営を始め、前哨をシャトーヌフ市街近郊(南西方)とブレーズ沿岸(北方)に派出しました。
また、軍右翼後方では一軍団長に戻った男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将率いるB第1軍団が早朝ガラルドンを発って順調に行軍を続け、指定されたシャルトル~ドルー街道を管制するサン=シェロン・デ・シャンの部落周辺に至りました。
この17日、シャルトルの西から南にかけて警戒するよう命じられた普騎兵第6師団は所属両旅団共に仏軍と接触することになります。
シャトーヌフへの街道(現・国道D939号線)を進んだ普騎兵第14旅団は、シャトーヌフ郊外のティメール(シャトーヌフの南南東1.6キロ)で先述の仏マルティ「旅団」の一部に遭遇しますが、普軍騎砲兵が榴弾を2、3発発射すると仏軍は部落から撤退しました。
ノジャン=ルーロトルーへの街道(現・国道D923号線)沿いを進んだ普騎兵第15旅団は、ウール河畔のランデル(シャルトルの西21.4キロ)付近で仏軍と遭遇し戦闘になります。普騎兵旅団はここでも先行した騎砲兵小隊が2門の砲で部落を砲撃し、旅団の普驃騎兵第16連隊の半個中隊が騎銃を手に下馬して歩兵として東から部落に突入しますが、ここを守っていた仏軍は戦慣れしていたのか粘り強く戦い、普驃騎兵たちは仏兵を中々部落から追い出すことが出来ませんでした。
その後仏軍は普軍の騎砲兵中隊が揃って(6門)砲撃を始め、その照準が正確となった後にようやく部落から脱出し撤退しました。この間、普驃騎兵第16連隊の1個中隊は同じく歩兵となってラ・ノエル(ランデルの東北東1.4キロ)にいた仏軍がランデルに近付くのを阻止し、最終的に撃退に成功しています。
こうして普騎兵第15旅団本隊はクルヴィル(=シュル=ユール。ランデルの南東3.6キロ)とフロンヴィル(クルヴィルの東北東4.7キロ)に宿営を構え、普騎兵第14旅団本隊はシャトーヌフに迫った普第22師団の宿営地後方となるシェンヌ・シュニュ(シャトーヌフの東6.5キロ)とその周辺諸部落に宿営しました。
同日、イリエ=コンブレとボヌヴァル方面の警戒を任じられ、アロンヌから発してシャルトルの南側に進んだ普騎兵第4師団は、ボヌヴァルの遙か北方で強力な仏軍部隊に遭遇してシャルトル方面へ後退し、この日はティヴァール(シャルトルの南南西8キロ)周辺で宿営を求めるのでした。
大公軍の最右翼(北)となった普騎兵第5師団は、その2個(普第11、第12)騎兵旅団がウーダンへ集合(普騎兵第13旅団のみマント=ラ=ジョリーに残留しています)し、この内普騎兵第12旅団は同行した近衛後備歩兵4個大隊と共に市街地郊外に陣地を設け、その一部はドルーを占領した普第17師団と連絡を取りました。
師団右翼(北側)となった普騎兵第11旅団の方はリケブール(ウーダンの北東4.5キロ)付近で仏護国軍と同「9月召集新兵」部隊に遭遇し、これを旅団に追従していた普近衛後備擲弾兵第2連隊の第1大隊と野戦砲兵第4連隊騎砲兵第1中隊が銃砲撃を行った結果、仏軍は撃退され西へと後退して行き、これを追った普槍騎兵第13連隊の騎兵たちは後陣の敵兵を襲って殲滅したのです。
こうして大公軍は忙しい一日を終えましたが、この時の仏軍の様子や重ねた斥候偵察によって「仏軍はイヴリー=ラ=バタイユ(ドルーの北北東17.7キロ)付近に多少強力な集団が存在するものの、全般的に見てウール川方面には強大な兵力を持っていない」ことを確認しました。このことを知った大公フリードリヒ・フランツ2世はドルー方面を普騎兵第5師団に任せ、残りの全軍で元よりの大本営命令(15日発令)に沿った行動、即ち「南方ロアール河畔トゥール方面を目指す」ことを決し、「その過程でル・マンに集合するという仏の新軍を離散させよう」と考えるのでした。
☆11月18日
翌11月18日午前早く、普第17師団は普騎兵第17旅団を左翼(北西)に連ねてドルーを発ち、マルシャンヴィル街道(現・国道D4号線)を西へブレゾル(ドルーの西22.2キロ)を目標に前進を始めますが、この日は途中のラオン(ブレゾルの東7.7キロ)までしか進めませんでした。これは南方シャトーヌフ方面から砲声が聞こえ、行軍を停止して斥候を放ったための遅延でした。
同日シャトーヌフの北から南西方向のラ・ループ(シャトーヌフの南西20.6キロ)へ行軍するよう命じられた普第22師団も、行軍開始早々に仏軍と接触してしまいます。シャトーヌフ周辺には未だ仏マルティ「旅団」の一部が居座っており、普第22師団は所々で攻撃を受けたため目標まで到達出来ませんでした。
散兵線を行く仏護国軍兵士たち
同師団の右翼(北西)となった普第44旅団は最右翼に警戒隊を出し前進しましたが、この支隊(普第94「チューリンゲン第5」連隊・驃騎兵第13「ヘッセン=カッセル第1」連隊3個中隊・砲兵2個中隊)はブレーズ川に沿ってフォンテーヌ=レ=リブ(シャトーヌフの北8.2キロ)目指して進んだところ、途中ラ・クー・ド・フォンテーヌ森(現在もシャトーヌフの北に長く延びている森林)北端付近で仏軍に遭遇し、普第94連隊第1とF大隊がこれに対抗し攻撃すると、仏軍は短時間で銃撃を控え、深い森の中をトルセ(シャトーヌフの北6.5キロ)方向へ撤退して行きました。
このトルセ部落には別の仏軍部隊があり、森から脱出した友軍を迎える用意をしていましたが、これを普軍歩兵は襲撃して、ただ1回の突撃により部落を席巻しました。仏軍は大混乱に陥り損害を受けながらブレーズ川に向かって潰走し、這々の体で対岸へと逃走して行くのでした。
同時に普第44旅団の「片割れ」、第83「ヘッセン=カッセル第3」連隊はサン=ジャン=ドゥ=ルベルヴィリエ(シャトーヌフの北3.5キロ)を襲い、付近の森の中で逃げ遅れた仏兵を駆逐したのです。
一方、普第43旅団はその先頭に普第32連隊を置き、同連隊はサン=ソヴァール(シャトーヌフの北東3.3キロ)を経てシャトーヌフへ急進し、郊外のビジュオネット(同北東1.7キロ)で守備隊を駆逐するとシャトーヌフ市街へ突入しました。
この時、東方からはB第1軍団もシャトーヌフ目指し接近中(後述)で、大公は渋滞を避けるため、市街地で抵抗されなかった普第43旅団に対し、更にディニー(シャトーヌフの南西8.1キロ)を目標に前進を続行させたのです。
普43旅団長ヘルマン・フォン・コンツキー大佐はこの命令に応えるためシャトーヌフで「前衛支隊」*を編成し、そのままラ・ループへの街道(現・国道D928号線)を直進させます。この前衛はアルデル(シャトーヌフの南西6.3キロ)で仏軍部隊と遭遇し、普軍は数発の砲撃によってこれを退けると午後4時にアルデルを占領しました。しかし、その2キロ先のディニーには強力な仏軍部隊が居座り、近付く普軍に猛烈な銃撃を浴びせ、既に晩秋の陽は落ちて辺りは闇に沈んだため、前衛はディニー攻撃を諦めアルデルに留まったのでした。
※11月18日の普第43旅団前衛支隊
○普第32「チューリンゲン第2/ザクセン=マイニンゲン」連隊・第1大隊
○普槍騎兵第3「ブランデンブルク第1/ロシア皇帝」連隊・第2,3,5中隊(普騎兵第6師団所属)
○普野戦砲兵第11「ヘッセン=カッセル」連隊・軽砲第5中隊
前衛に続いた旅団本隊もシャトー・トルノー(シャトーヌフの西南西3キロ付近にあった城館。現存しません)付近で仏軍と遭遇しますが、普軍が歩兵1個中隊を城館に向け突進させると激しく抵抗し、普軍が更に増援を送り込むとようやく仏兵は付近の森に逃走するのでした。
ここで夕暮れとなり、普第43旅団と後続した普騎兵第6師団はアルデル周辺で野営し、普第44旅団は午後8時、シャトーヌフに入り宿営しました。
普第22師団はこの18日、戦死16名・負傷35名を報告しています。
一方、普第43旅団の後方からシャトーヌフ近辺に達したB第1軍団は小休止の後、第43旅団を追ってラ・ループへの街道両脇を行軍してアルデル部落の南北郊外まで進出しました。軍団と共に進軍するフォン・デア・タン大将は「敵がこの先のディニーにあって激しく抵抗するため、普軍は戦闘を中止しアルデル周辺で野営する」と聞くと、午後5時「ならばB軍が先に行く」とばかりにB歩兵第13連隊に軽騎兵半個中隊と砲兵1個中隊を付け、ディニーに向けて送り出しました。この支隊はディニー郊外の一軒農家を占拠するとここに前哨を置いてディニーを終夜監視させ、本隊はル・トロンシェ・コルデル(ディニーの東南東1.8キロ)付近で警戒しつつ野営しました。
この夕べ、B第1師団の本隊はシャトーヌフの南西から西方にかけて野営することになりました。
シャトーヌフ森(シャトーヌフの西側に現在も延びる森林)の西側を野営地に指定された諸隊は、すっかり暮れた闇の中、不気味な森の中の小路を行く羽目になりますがここで仏軍と遭遇してしまいます。
この少し前の夕刻、B猟兵第4大隊はシャトーヌフの森西側のサン=メックム(=オトリヴ。シャトーヌフの西4.4キロ)で約2,000名と見積った仏の連隊クラス部隊と遭遇して、数倍する敵を果敢に攻撃しました。仏軍はたちまち部落を棄て西へ敗走しますが、ジョドゥレ(サン=メックムの西南西4.2キロ)を経ての退却中、今度はB猟兵第2大隊に遭遇して側方から銃撃を浴び、恐慌状態となってしまいには潰走となりました。逃げ遅れた兵士たちはB猟兵たちに捕縛され、およそ260名の捕虜と武器、装備品がB軍の戦利品となったのです。
同じ頃、別の仏護国軍部隊がB軍前哨の隙を見つけてシャトーヌフ森の東縁まで進みましたが、これはシャトーヌフ西郊外に野営しようとしていたB猟兵第9大隊に発見され、護国軍部隊は短時間の戦闘後西へ敗走して行きました。
「大公軍」左翼(南西)においてはこの日、普騎兵第4師団がティヴァール(シャルトルの南南西8.1キロ)から命じられたボヌヴァル及びイリエ=コンブレへ向け前進しますが、それぞれの市街地郊外で仏軍の守備隊に遭遇し、これを騎砲によって駆逐しました。しかし、イリエ=コンブレでは砲撃後、下馬した竜騎兵2個小隊が市街地へ入ろうとすると仏軍は激しく抵抗し、追い出すことが出来ません。師団長の王弟ハインリッヒ・アルブレヒト親王は騎兵だけでは両市街の占領は無理と断じ、師団はノジャン=シュル=ウールとダマリー(それぞれシャルトルの南西11キロと南12キロ)に向かって背進し宿営するのでした。
普驃騎兵と仏護国軍兵の戦い
※普第17師団・戦闘序列(1870年11月16日)
師団長
グスタフ・カール・ベルンハルト・ティーロ・フォン・シンメルマン中将(疾病のため降板)
代理師団長
ヘルマン・ハインリッヒ・テオドール・フォン・トレスコウ中将(大本営付・軍事内局長官)
参謀士官 フィッシャー少佐
副官 フォン・バルルゼック大尉(工兵)/フォン・リヴォニウス中尉
◇第33旅団
男爵フーゴ・カール・エルンスト・フォン・コトヴィッツ少将
○第75「ハンザ第1/ブレーメン」連隊
ヴィルヘルム・マクシミリアン・カール・フィリップ・マルテイン・アダム・フォン・デア・オステン中佐
○第76「ハンザ第2/ハンブルク」連隊
フリードリヒ・フェルディナント・ルドルフ・フォン・ノイマン大佐
◇第34「メクレンブルク大公国」旅団
ルドルフ・カール・ハインリッヒ・エンゲルハルト・フォン・マントイフェル大佐
○擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊
エヴァルト・クリスティアン・レオポルト・フォン・クライスト大佐
○フュージリア第90「メクレンブルク」連隊
エドムンド・ヨセフ・デヤニッツ=フォン・グリスティンスキー大佐
※第2大隊は11月18日からトゥール(Toul/ナンシーの西20キロ)より本隊合流に向け行軍中(12月8日帰着)
*猟兵第14「メクレンブルク」大隊
フランツ・フォン・ギザ少佐
◇騎兵第17旅団
アルフレート・ボナヴェントゥラ・フォン・ラウフ少将
○竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊
アウグスト・パウル・フォン・カールデン大佐
※この時ランス占領地総督府配下。11月27日に旅団へ復帰
○竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊
エルンスト・フォン・ラーテノウ中佐
○槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊
伯爵カール・アウグスト・アダルベルト・ツー・ゾルムス=ウィルデンフェルス大佐
◇師団砲兵/野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊・第3「メクレンブルク」大隊 コッセル少佐
○重砲第5,6中隊
○軽砲第5,6中隊
*野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第1,3中隊
*第9軍団・野戦工兵第1中隊(付・野戦軽架橋縦列)
リリー大尉
*第9軍団・第2衛生隊
*野戦砲兵第9連隊・弾薬縦列中
・第4,5砲兵弾薬縦列
・第3,4歩兵弾薬縦列
*輜重兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」大隊中
・独立馬厰
・野戦製パン縦列
・第1,4,5糧食縦列
・第7,8,9野戦病院
普第17師団戦力計 歩兵大隊13個・騎兵中隊12個・砲36門・工兵中隊1個
1870年のプロシア軍フュージリア兵
ドライゼ銃(着剣/上)と同フュージリア銃(下)
普軍の歩兵連隊中、第33~40と73、80、86、90の12個連隊、そしてザクセン軍の第108連隊はこの普仏戦争中「フュージリア連隊」を名乗ります。同時に各歩兵連隊と擲弾兵連隊(第1~12)の「第3大隊」も「フュージリア大隊」(擲弾兵第89とザクセン軍の擲弾兵第100、同101連隊は「第3大隊」)とされました。因みに歩兵連隊の第1と第2大隊は「ムスケーティア(マスケット銃士)大隊」と呼ばれ、第1~12擲弾兵連隊の第1と第2大隊は「グレナディーア(擲弾兵)大隊」と呼ばれましたが軍装や記章の違い程度で「中身」は同じ「ライフル(ドライゼ)銃を持つ戦列歩兵」でした。
1715年の普軍擲弾兵
フュージリア兵は「歩兵」や「擲弾兵」と違い「戦列歩兵」ではなく「散兵」として前哨任務や軍の「尖兵」の役割を担うこととされていました(このフュージリアよりも装備を軽量化し散兵戦術に特化していたのが猟兵です)。実際の装備も通常歩兵の持つドライゼ銃より銃身が若干短い(つまりは射程を犠牲に取り扱い易さを優先した)「フュージリアゲヴェーア」を持ち、銃剣は歩兵の持つソケット式(銃口に差し込むかアタッチメントで横に嵌めて使用する)「槍型」ではなく、銃身の先端下に装着する「剣型」の「フュージリア=ザイテンゲヴェーア」を使用しました。しかし実戦ではほとんど普通の「歩兵」と変わらない使い方をされることとなります。
着剣したフュージリア・ドライゼを持つ普フュージリア第86「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊兵
この時代、既に規則正しく隊伍を組んだ密集隊形で交互に銃撃を行う「戦列歩兵」の姿は消えており、歩兵は散兵線や塹壕に肩を並べて弾幕を張るか、フュージリアや猟兵と変わらぬ散兵戦術(散開して銃撃を行い機会を捉えて突撃する)を行っていたからでした。
この先1880年代に独帝国軍全ての「歩兵」が、それまでのフュージリア兵と同じ「軽歩兵」の装備を与えられ同じ「散兵」としての役割を担うように(即ち現代の歩兵の姿に)なって行きます。
着剣したドライゼを持つ普軍歩兵




