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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
383/534

11月15日~23日の独第二軍(付/11月15日時点の独軍配置)


 ここまで記して来た陸戦(1870年11月15日)によって、新たな脅威(仏ロアール軍と仏西・北西方の新軍)に晒され始めた独軍は、メッス包囲から解放された元帥フリードリヒ・カール王子の第二軍とエドウィン・フォン・マントイフェル騎兵大将の第一軍によりこれに対処しようとしています。

 この11月15日における独軍の配置を以下に要約しておきましょう。


 パリの包囲網については、10月21日のラ・マルメゾンの戦いや同月末のル・ブルジェの戦い以降大きな変化はありません。ただ、包囲網への増援勢力としてフォン・フランセキー歩兵大将の普第2軍団が第二軍から離れて召集され、普第4師団が南方包囲網の後方マシー(ベルサイユの南東13.8キロ)に到着し、後発の普第3師団を含む軍団主力はセーヌとマルヌ両川の間に進んで来ました。

 このクレテイユ(パリ・シテ島の南東10.6キロ)地区に面する包囲網には11月10日頃まで普第17師団が配置に就いていましたが、普軍の歩兵大将でもあるメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世の率いる新軍に参加するため南西へ進み、この「大公軍」はパリ南方及び西方に増加しつつある仏の「新軍」に対する警戒に当たります。

 「大公軍」に参加する普第22師団や普騎兵第6師団はランブイエの森からシャルトルの間に展開してウール河畔ドルー方面の仏軍に対抗し、その南方、ヴォーヴには普騎兵第4師団が、トゥーリーには普騎兵第2師団が、それぞれ宿営しシャトーダン方面ロワール(Loir)川からオルレアン大森林北方正面までの間を警戒しています。


挿絵(By みてみん)

ル・ブルジェの戦い・モレ川を渡る普近衛擲弾兵第1「国王」連隊


 この時、ノルマンディー地方(パリ西方)とピカルディ地方(パリ北西方)に集合する仏軍に対しては、万が一に備えて普騎兵第5師団がセーヌ川左岸(川下に向かって左・ここではほぼ南方)にあってマント=ラ=ジョリー方面に展開し、普後備近衛第2旅団がヌフル=ル=シャトー(ベルサイユの西16.2キロ)に進んでいます。

 同時にセーヌ右岸(川下に向かって右・ここではほぼ北方)には9月末以来、マース軍から2つの兵団(ザクセン騎兵師団と普近衛歩兵第2連隊による「トゥール・リッペ支隊」と普近衛槍騎兵旅団と普第27「マグデブルク第2」連隊他による「エプト方面支隊」)がボーベやジゾーにあってアミアンやルーアン方面を警戒していました。


 メッスから転進したマントイフェル将軍の独第一軍本隊は、ランスとルテル周辺に到着して更に北西方向へ前進を継続しようと準備中で、同軍の残り(普第7軍団・普第4旅団他)はラ・フェール、シャルルヴィル=メジエール、モンメディ、そしてティオンビルの各要塞を攻囲する準備を行っている最中でした。また、メッスには普第13師団の主力が残って要塞都市の警備を行いつつ後命を待っています。

 カール王子率いる独第二軍は、フォンテーヌブロー、サンス、シャティヨン(=シュル=セーヌ)付近でセーヌ及びヨンヌ両川を渡り、軍右翼(普第9軍団)はオルレアン大森林を警戒する普騎兵第2師団と連絡を取り、軍左翼(普第40旅団支隊)はショーモンを拠点にラングル要塞を監視していました。


挿絵(By みてみん)

メッス要塞から出る仏軍将兵


 このラングル要塞の南方では10月から「ストラスブールの勝者」ヴェルダー将軍率いる独第14軍団が活動してソーヌ川からコート=ドール県の山地(ディジョンの西側)の間に展開しており、その配下となる普予備第4師団はベルフォールの北方でヴォージュ山脈(独名/ヴォゲーゼン山脈)を越えて本隊合流を目指していました。また、ベルフォール要塞に対しては普予備第1師団が包囲を完了し、攻囲の準備を急いでいました。


 これら前線の五個軍後方連絡線には、守備範囲に比して小規模な各軍所属の兵站守備隊が展開し、更に後方の広大となった占領地には三個総督府が設けられてかなり大きな兵力を展開し、主に鉄道沿線の主要都市や要塞都市に駐屯して独本土との兵站線を守っています。

 この内、エルザス(仏・アルザス)総督府内では未だ降伏しないファルスブール(独名/パルツブルク)要塞都市を包囲する兵力が、付近を通過する独第三軍用に用意された唯一独と直通する鉄道線を要塞からの襲撃に備えて護り、同じくヴォージュ山脈北端にあるビッチュ要塞は監視するに足るだけの兵力が展開していました。


※1870年11月15日までに独軍が攻略した仏要塞や城塞(陥落順・<>内は開城日)

*ラ・プティット=ピエール(独名/リッツェルシュタイン)<8月9日>

*リヒテンベルク<8月9日>

*マルサル<8月14日>

*ヴィトリー(=ル=フランソワ)<8月25日>

*セダン<9月2日>

*ラン(Laon)<9月9日>

*トゥール(Toul)<9月23日>

*ストラスブール<9月28日>

*ソアソン<10月16日>

*セレスタ(独名/シュレットシュタット)<10月24日>

*メッス<10月28日>

*ベルダン<11月8日>

*ヌフ=ブリザック(ノイ=ブライザッハ)<11月10日>


挿絵(By みてみん)

ベルリン王宮のグラヴロット会戦壁画


 この時期、パリ西方ベルサイユに置かれた普王国大本営(実質独全軍の司令部)は、この後方連絡線における仏国内の鉄道線を復旧・利用することに重点を置き、仏軍の後退によって寸断されていた各路線には、各軍の鉄道隊のみならず、本国からも鉄道技師を始め鉄道路線敷設に経験のある建設労働者が動員されて突貫工事を実施していました。

 しかし、アルデンヌ地方からティオンビル(独名/ディーデンフォーヘン)間には未だ攻略されない前述の複数要塞が路線上に残り、同じく前述のラングルやベルフォールの要塞も重要な路線上に構える厄介な存在でした。

 この仏本土占領地内に点在する「障害」により、独本土の軍団管区から前線へ延びる後方連絡線は、鉄道の利用を各個に運用出来ず、しばらくの間モセル(独名/モーゼル)川から先に進んだ各軍の後方連絡鉄道線は、フルアール(ナンシーの北北西8.5キロ)~ブレーム(Blesme/ヴィトリー=ル=フランソワの東14キロ)~シャロン=アン=シャンパーニュまでの間、ただ一つの鉄道線に委ねられていました。

 11月4日付の普大本営命令では、この鉄道路線を各軍が共同して利用するため、その必要度に応じて運用する混乱回避の諸規定を事細かく定めています。


 南方のオルレアン、北方のアミアン、その間の西側に集中する仏のほとんど本格戦闘体験のない(ただし「熱意」と数だけはある)「新軍」は、独軍が広く薄く展開せざるを得ない状況を作り出しました。このため、時折本格的なパリへの進軍を計画し、パリを包囲する独第三軍とマース軍の背後を脅かしました。

 しかし「クルミエの戦い」で得た仏軍の優位性なるものは、その熱意の高まりに反して、ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍ら仏ロアール軍首脳が的確に判断したように「幻」に過ぎません。ガンベタやフレシネらトゥール派遣部の望みそのまま勢いに任せ進軍すれば、確かに独のパリ包囲網近辺まで押し寄せることは可能だったのかも知れませんが、その結末は「何一つ史実と変わらない」事になったでしょう。

 何故ならば、既に独第一、第二軍共に前衛が仏「新軍」の間近に迫っており、その独軍は仏軍に比して少員数ながらも数々の血塗られた戦いを経験した直後の精鋭ばかりで、しかも戦いを経て思慮深くなったカール王子とマントイフェル将軍以下のベテラン士官たちに率いられていました。

 この後、休戦に至るまでの戦闘は、この少数精鋭の独軍に対し、数だけを頼りの仏「新軍」がどこまで戦えるのか、が焦点となって行ったのです。


挿絵(By みてみん)

仏軍の鷲旗を奪う普軍兵士


☆ クルミエ戦後の独第二軍(11月23日まで)


 普ベルサイユ大本営はクルミエ戦後の仏ロアール軍の動向につき、「敵ロアール軍はノジャン=ル=ロトルー付近並びにウール川西方に集合する仏軍と合流し、その後パリに向かって前進するもの」と推察します。

 独軍でこの脅威に即応可能だった部隊は、セーヌ左(南)岸にあった普騎兵第5師団と、その増員としてヌフル=ル=シャトーに進んで来た普近衛後備第2旅団のみで、この「ウール戦線」も責任範囲とされたメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世は、この穴を埋めるために「大公軍」の普第22師団と普騎兵第6師団をランブイエ~シャルトル間に展開させました。

 この時点では大公軍は南方オルレアン~シャトーダン方面からの仏軍「北進」の企ても阻止する任務を帯びており、このままでは遙かに長い前線に騎兵を中心とする兵力を薄く展開するしかありませんでしたが、これも11月15日を過ぎると、カール王子の独第二軍主力がセーヌ川上流からヨンヌ沿岸に達したことで改善されて行きました。


挿絵(By みてみん)

普軍の工兵と水陸両用舟艇


 普大本営は国王の名で15日、この大公軍と独第二軍の責任範囲を定め、「大公軍は今後、現在地から西方を任地としてトゥーリー~シャトーダン街道(現・国道D927号線)に沿った位置から西向し、第二軍は南方に面しオルレアン方面を警戒せよ」と命じます。

 モルトケ参謀総長はこの15日にカール王子へ訓令親書を発し、「第二軍は国王陛下から賜った任務を遂行するため、まずはフォンテーヌブロー前面にある第9軍団に防御態勢を取らせて現在地を守備させ、(貴軍主力が第9軍団に追い付いて)状況が我が軍有利となれば全軍で速やかにオルレアンへ侵攻して貰いたい」と命じました。この時、独第9軍団長フォン・マンシュタイン将軍も同じ主旨に沿った詳細な命令を直接参謀本部から通達されています。

 この命令によればマンシュタイン将軍は「第9軍団並びに同行する普騎兵第1師団とトゥーリー方面に展開する普騎兵第2師団を直接指揮下に収め」「仏軍がオルレアン~パリ街道(現・国道D2020号線)を北上する場合にはこれを阻止し、兵団の右翼(西・普騎兵第2師団)は西面に指向する大公軍と連絡を維持せよ」とのことでした。

 また、同時にフリードリヒ・フランツ大公には「普騎兵第2師団を隷下から切り離してマンシュタイン将軍に渡した後、軍をあげてシャルトル並びにドルー方面へ前進せよ」との命令が下されたのです。


 普騎兵第1師団は16日、ミリ(フォンテーヌブローの西17キロ)から出立するとピティヴィエ(ミリの南南西30キロ)近郊まで前進し、翌17日も前進を継続してピティヴィエ~トゥーリー街道(現・国道D927号線)を西へ、オルレアンへの旧街道(現・国道D20号線)交差点付近まで進むとその周辺に宿営地を設けました。

 普騎兵第1と第2両師団の諸隊は南面するオルレアン大森林を警戒して斥候を放ち、この騎兵たちの後方(北)アンジェヴィルには17日、マンシュタイン将軍の独第9軍団主力が進んでいます。

 将軍は第9軍団を20日までアンジェヴィル周辺に宿営させて防衛陣地を整備させ、カール王子から達した「敵の情報を得るため最大限努力せよ」との命令を実行し斥候を放ちました。


 独第二軍本営はこの16日、20日までに普第3軍団がピティヴィエに、普第10軍団はロワン河畔のモンタルジ(サンスの西南西46.5キロ)に達するよう命令を発します。王子は軍右翼(西)の2個(第9と第3)軍団でオルレアンを再攻略させ、その間左翼の普第10軍団をブールジュ方面へ向けて前進させる心積もりでした。カール王子はこの敵の情報が見えない遠方へ突進するための「眼」として、普第10軍団のフォークツ=レッツ将軍に第25「ヘッセン大公国」師団の騎兵6個中隊を送るのでした。


 11月16日。コンスタンティン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる普第3軍団配下の普第6師団は本隊をサンスに進め、翌17日にシェロワ(サンスの西21.2キロ)を経てロワン河畔のヌムール(フォンテーヌブローの南15.2キロ)に達します。

 17日にサンスへ入った同じ軍団配下の普第5師団は翌18日、サンスを発ってジュイ(サンスの西南西23キロ)経由でシャトー=ランドン(ヌムールの南13キロ)へ向かい、その途中南方から現れた義勇兵中隊を攻撃し、これをモンタルジ(シャトー=ランドンからは南へ17キロ)方面へ追いやりました。

 この頃は独軍の少人数斥候や単騎に対する住民の抵抗や武力行使が相次ぎ、C・アルヴェンスレーヴェン将軍も背後を気にして1支隊(普擲弾兵第12「ブランデンブルク第2」連隊第6,8中隊・竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊の1個小隊・砲兵1個小隊/2門)をレーマン少佐に預け、これをサンスからヨンヌ川を遡ったパッシー(サンスの南9.8キロ)方面へ送り出しました。

 少佐の隊がパッシーを過ぎて更に南下すると、義勇兵たちが街道(現・国道D606号線)にバリケードや鹿砦を築いているのを発見し、少佐はこれを攻撃して四散させるのでした。


 20日朝にシャトー=ランドンを発してリマルド河畔のナンクレ(=シュル=リマルド。ピティヴィエの南南東13キロ)を目指した普第5師団の前衛は、ボーヌ=ラ=ロランド(ナンクレの東7.2キロ)付近で仏軍部隊に遭遇し本格的戦闘へと移行します。

 この第5師団先鋒隊はヘニング・フォン・ハイデブレック少佐が率いて普猟兵第3「ブランデンブルク」大隊第3中隊・竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊第2,3中隊からなり、ヌムールから発しピティヴィエに向かった普第6師団前衛の南を並進していました。

 ハイデブレック隊は散兵戦を行いつつボーヌ=ラ=ロランドの敵を回避すると前進を続行してナンクレに迫りますが、強力な仏軍の行軍縦列がシャンボン(=ラ=フォレ。ナンクレの西南西3.1キロ)から接近して来るのを望見し、直ぐにバチイイ(=アン=ガティネ。同東3.5キロ)まで退がるのでした。

 前衛先鋒隊が強力な仏軍と衝突したことを知ったC・アルヴェンスレーヴェン将軍は直ちに増援を送り、先行した砲兵小隊は最初にボーヌ=ラ=ロランドに籠もった仏軍を砲撃してこれを後退させると、後続の歩兵は一気にナンクレまで前進して部落を占領しました。ナンクレ付近には既に仏軍の姿はなく、ハイデブレック隊を脅かした仏軍は後退したものと思われます。

 そのハイデブレック隊の竜騎兵たちはこの時斥候として南へ走り、ピティヴィエ~オルレアン街道(現・国道D2152号線)沿道とその西側となるサントー(小部落。ピティヴィエの南西11.9キロ)とヌーヴィロー=ボワ(サントーの西南西8キロ)に仏軍部隊が存在するのを確認しています。


 普第3軍団はこの20日、普第6師団がピティヴィエへ、普第5師団がボワーヌ(ピティヴィエの南東9.6キロ)へそれぞれ前進し、先にピティヴィエの西でオルレアン大森林の北に展開している普騎兵第1師団と連絡しつつ、大森林を望む地点へ前哨を送り警戒任務を開始するのでした。


 一方、フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将の普第10軍団(普第40旅団を中核とする「ショーモン支隊」を除きます)は、独第二軍の命令が「西への行軍」から「南西への前進」に変更されたことを知らず、前命令に従ってシャティヨン=シュル=セーヌからヨンヌ河畔ジョワニー(サンスの南南東25.2キロ)に向かいますが、途中幾度も仏の義勇兵、護国軍9月以降召集の新兵部隊、そして様々な武器を手にした住民等から狙撃や障害物の設置など様々な妨害を受けます。

 彼らは普軍の進路上に障害物を並べ、橋を落とし、路傍の林や家屋等に潜んで銃撃を行っては姿を眩まし、少人数の部隊が宿営に入ろうとするところを銃撃するなど、次第に過激かつ巧妙にゲリラ戦術を駆使するようになって来ました。

 また、今までは独軍の姿を見ただけで逃げるように撤退していた義勇兵や護国軍の新兵たちも次第に戦慣れして来ており、11月18日に普第38旅団が遭遇した義勇兵と護国軍の混成部隊は、普軍歩兵の銃撃に怯まず応戦し、また騎兵が襲撃を行っても持ち場を離れず抵抗し、「小癪な『民間人』にはこれで十分」とばかりに散兵の銃撃と少数の騎兵を繰り出すだけだった旅団長リヒャルト・ゲオルグ・フォン・ヴェーデル少将(マルス=ラ=トゥールの戦いで負傷後、復帰しています)が、痺れを切らして砲兵中隊に支援を頼み榴弾砲撃を行って後、ようやくヨンヌ県都で仏義勇兵たちの拠点となっていたオーセール(ヨンヌ上流河畔。ジョワニーの南東24.5キロ)に向けて後退して行ったのでした。


 フォークツ=レッツ将軍は19日、自身の本営もジョワニーまで進めるとこの地で待っていた16日付でカール王子が発した「第10軍団はモンタルジへ向かえ」との命令を受領します。

 この命令書は、馬車に乗る歩兵小部隊に護衛された第二軍本営の一士官によって運ばれたもので、この士官は途中幾度も仏義勇兵や武装住民の襲撃に遭遇しながらもこれを切り抜け、フォークツ=レッツ将軍に手渡したものでした。

 普第10軍団はこのモンタルジへの行軍でも義勇兵や住民等から妨害を受け、前衛諸隊がモンタルジに進むのは21日夕刻となってしまいます。そこには配属変更命令を受けたヘッセン大公国(H)の騎兵6個中隊がこの日午前中に到着して彼らを待っていたのです。


挿絵(By みてみん)

普軍の憲兵


 ここまで、独軍の騎兵諸隊と普第3軍団の諸隊による斥候偵察、そしてカール王子自身が手配した偵察と情報収集によって得られた敵の状況は、その殆どが一致して「仏軍が強力な兵力をオルジュール(=アン=ボース。アルトネの北西16キロ)~ダンブロン(アルトネの北3.5キロ)~シャール=オー=ボワ(ピティヴィエの南西14.4キロ)~ボーヌ=ラ=ロランド付近に達するおよそ60キロ強の線上に前線を構えている」と報告していました。夕暮れから夜間に掛けてこの前線に接近した独軍の騎兵斥候たちはアルトネ、クルジー農場(アルトネの南南西3.1キロ)、シュヴィイ(アルトネの南6キロ)付近に膨大な数の焚き火が見えたことを伝え、これはオルレアン~パリの街道沿いに大規模な野営が存在することを証明するものでした。

 斥候や巡察隊が捕らえた仏軍の脱走兵や捕虜、住民等は口を揃えて「ロアール軍は数個軍団を加えて巨大となり、その主力はオルレアン北方の陣地帯に集合している」と証言するのでした。


 こうして仏軍の状況が判明して来ると、カール王子は「第9と第3軍団をパリ~オルレアン街道両側に集合させ、これに第10軍団を加えて11月26日にオルレアンに対し総攻撃を加える」と決するのです。

 この攻撃を成功させるため、王子は西隣で西方の敵に面している「大公軍」に対し、これまで自身が得た情報を全て送付して伝え、フリードリヒ・フランツ大公に対してはオルレアン攻撃の計画を開陳し、同時に「貴軍にはなるべく速やかにル・マンを経由してトゥールへ進撃して頂き、敵がオルレアン方面から少しでも兵力を分派せざるを得なくして貰いたい」と要請するのでした。


 11月22日。独第二軍は予定通り右翼(西)方面へ行軍を開始、普第9軍団はトゥーリーからアレーヌ(トゥーリーの西8.4キロ)へ至る街道沿いに密集して宿営し、街道南側の諸部落は歩兵部隊の応援を受けた普騎兵第2師団が受け持ってこれを占領しました。

 普第3軍団とこの日新たにC・アルヴェンスレーヴェン将軍の隷下となった普騎兵第1師団の前哨は、オアゾン(トゥーリーの南南東6.9キロ)付近で普騎兵第2師団に連絡して、普第6師団はパゾッシュ=レ=ガルランド(トゥーリーの東南東8.5キロ)、普第5師団はボワーヌからピティヴィエまでその前哨線を延伸するのでした。


 同22日。普第10軍団本隊はモンタルジ周辺に達着し、シャティヨン=シュル=ロワンに派遣された普竜騎兵第9「ハノーファー第1」連隊の第2中隊は、ジアンから前進したと思われる数個の仏護国軍部隊を攻撃して駆逐しました。

 翌23日、フォークツ=レッツ将軍は普第38旅団と増援のH騎兵数個中隊を直率してラドン(モンタルジの西15キロ)経由でボーヌ=ラ=ロランドに到達します。軍団の残余部隊はモンタルジに留まり、オルレアン運河(カナル・ドルレアン。モンタルジ北のシャレットでロワン川へつなぎ、ベルガルドの南で北西に方向を変え、オルレアンでロアール川につなぐ運河で現存します)の各街道渡過点には強力な前遣隊を送って、今後命令が下り次第速やかに前進出来るよう守備させるのでした。

 この時、第10軍団の騎兵斥候たちはベルガルド(ラドンの西7キロ)に仏軍の正規戦列歩兵(マルシェ部隊と思われます)部隊がいることを確認し、更に周辺住民の言によれば「この歩兵部隊は数時間前に到着したばかりで、昨日はロリス(ラドンの南12.8キロ)に25,000名に及ぶ別の大軍があり、砲兵を多数引き連れた80,000の大軍がジアンからモンタルジに向けて行軍中」とのことでした。


 この「10万超の仏大軍」は独軍には俄には信じられないものでした。

 しかし、話半分にしてもフォークツ=レッツ将軍が掌握する軍団の3倍はする数となりますが、一方で普騎兵第2師団の斥候たちは同じ頃、仏軍の目立つ縦隊が2、3日前からアルトネ北のサンティリーから西へ行軍して行くのを確認しており、23日にはトゥーリー~シャトーダン街道(現・国道D927号線)に沿って偵察行に出た士官が、それまでは敵の目立つ行動が少なかったコニ川(アレーヌの西を水源にオルレアン北西のパテ方面へ流れる河川)の各街道渡河点に仏軍の目立つ部隊がいる、と報告しています。


 この仏軍の「矛盾する行動」、即ち「右翼(東)は北上し左翼(西)は西へ離れて行く運動」は独第二軍本営の参謀たちを困惑させましたが、この23日夕刻にベルサイユから届いた大本営の通報と命令により謎は解けるのです。

 ベルサイユの普大本営は22日、独第14軍団長フォン・ヴェルダー歩兵大将から重要な報告を受け、それによれば「11月中旬より仏の1個軍団がソーヌ川下流域から鉄道輸送により西へ向かったらしい」とのことで、同時期に集まった報告をまとめると、この仏軍の行動はオルレアンの北に兵力を集中するための一連の動きであることを示し、先の仏軍右翼による「奇妙な行動」は「仏の中央から左翼の増援である新参1個軍団を戦線に加える際の隙間を開ける動き」と読めるのでした。


 普大本営は「敵の前進を待たずオルレアン前面の敵を攻撃する」方針に固まり、この23日、10万以上と予測される敵と対決するには独第二軍のみでは不足と判断し、当時カール王子の要望に応え、ノジャン=ル=ロトルー(シャルトルの西南西51キロ)周辺からル・マンへ進撃しようとしていたフリードリヒ・フランツ大公に宛て「貴軍は直ちにロアール河畔ボージョンシーを目標に前進を開始し、カール王子と協力してオルレアン周辺の敵を攻撃せよ」との主旨の命令を電送したのです。

 同時にカール王子も大公軍との協調攻撃を命じられ、23日夕刻にこの電信命令を受領した王子は、「まずは大公が自軍右翼に連なって攻撃態勢を取るまで待とう」と、敵の増強にも焦らず慌てず、どっしりと構えて時期を待つ決心をするのでした。


挿絵(By みてみん)

捕虜となったズアーブ兵と普軍の監視兵(画 クリスチャン・シェル)



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