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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
381/534

クルミエの戦い(後)


クルミエ戦場図(11月9日正午頃)

挿絵(By みてみん)




 モンピポー城館(クルミエの南東2.8キロ)の西側で合同したB第1旅団とB第3旅団は、迫る仏軍に対するため、B第1旅団砲兵2個とB第3旅団のB4ポンド砲第2中隊を森西縁のラ・プランテの家(モンピポー城館の西500m程にあった農家。現存しません)西側に進めて砲列を敷かせ、B第1と第3連隊の計5個大隊は砲列後方(東)の林に展開、その右翼(北)側では普騎兵第2師団の騎砲兵2個中隊がラ・モット・オー・トランの家(クルミエの南南東1.4キロ。現存します)北東方まで再度前進して砲列を敷きました。

 この独軍砲兵5個中隊はラ・グラン・リュ(クルミエの南西2キロ。シャトー・リュと農場。現存します)北西方まで前進した仏軍砲列と対決し、再び激しい砲撃戦となります。B第12連隊の第1、2大隊と普騎兵第3旅団、そして最前線から撤退したB猟兵第1大隊はクルミエ後方のボンヌビルの東郊、街道の交差点付近で兵団総予備として待機し、B第12連隊の第3大隊とB第3旅団砲兵のB6ポンド砲2個中隊は、クルミエで苦戦中のB第4旅団増援としてクルミエの前線へ向かいました。


挿絵(By みてみん)

クルミエ詳細図


 一方の仏ロアール軍はクルミエの独軍に対しバリー師団主力により午後1時に突撃を敢行し、レ・クロットの採石場は南・西・北の三方から猛烈な攻撃を受けたため、オルムト農場のB猟兵第7大隊と採石場のB第13連隊2個大隊はクルミエ西の公園まで後退しました。クルミエ周辺の最上級士官であるB第4旅団長フーゴ・フォン・デア・タン少将は、一気にクルミエを狙って接近する仏軍に対抗するため、自身の予備部隊で最後に残ったB第10連隊第2大隊をクルミエ公園の前線に投入します。

 この午後1時過ぎから2時間に渡って熾烈な銃砲撃戦が続き、クルミエ前面の戦線は一時膠着しますが、午後3時、決着を付けようとフォン・デア・タン少将はクルミエ北方で砲撃を続けていたB砲兵第3連隊6ポンド砲第7、B砲兵第1連隊6ポンド砲第6,8の3個中隊を、オルムト農場からレ・クロットに通じる道路際まで前進させ、敵の至近から砲撃を再開させました。この内の第8中隊は激しい砲撃戦で4門の砲が使用不能となり、僅か2門で砲撃を続けています。同時にB第10連隊第3大隊が銃撃を物ともせずに前進し、またレ・クロット北方に待機する普騎兵第5旅団の約1,000騎が一斉突撃の姿勢を見せると、仏バリー師団は一時退却することになるのでした。


挿絵(By みてみん)

クルミエ西郊公園の激戦


 一方、仏ロアール軍司令官ドーレル将軍もクルミエにおける膠着状態を打破しようと、バコンとラ・ルナルディエールを確保した後に手の空いたダリエス准将旅団(第15軍団第2師団第1旅団)をバリー師団の増援に送ることとし、ラ・グラン・リュの仏砲兵2個中隊に対しては目標を東(モンピポー)ではなく北(クルミエ)に変えるよう指示するのです。


 クルミエ公園の南でラ・グラン・リュを目標に砲撃していたB砲兵第3連隊6ポンド砲第8中隊は、迫り来る仏ダリエス旅団の前衛散兵に対し、砲兵たちが鹵獲したシャスポー銃を手にして一斉銃撃を行いました。思わぬ銃撃を受けた仏兵が後退すると、この6ポンド砲中隊は銃撃の隙を突いて後退し、クルミエからラ・モット・オー・トランの家に通じる小路(現・ヴァレ通り)で砲を再展開して、左翼(南側)でラ・ルナルディエール方面の砲撃を続ける普軍騎砲兵の砲列と連絡を取るのでした。

 同じく、クルミエ北方でバリー師団を一時後退させたB砲兵3個中隊も東へ200mほど下がって新たな陣を敷き、ここに南方からやって来たB第3旅団に属する6ポンド砲兵2個中隊が左翼(南)に展開しました。

 この間、バウミュラー大尉率いるB4ポンド砲第4中隊は変わらずクルミエ公園の北西端という最前線に展開して砲撃を続けていましたが、ここは仏軍側に突出して見立つため常に銃砲撃の的となる危険な場所で、ダリエス旅団の接近に合わせて再度突進した仏バリー師団兵が公園内部に入ると、大尉は手際よく砲車を公園外に撤収させて危機を回避し、ちょうどこの時に増援として到着したB第12連隊の第3大隊(B第3旅団所属)は、小銃に着剣して銃剣突撃を行い、仏バリー師団兵は再び公園から西へと後退するのでした。


挿絵(By みてみん)

クルミエを見つめるバリー将軍


 この少し前、クルミエ公園には後方からB砲兵第1連隊の第11中隊が来着しました。この4門しか砲を持たない中隊は本国からやって来たばかりの、いわば「新兵器実戦評価」部隊で、B軍の「秘密兵器」を携えていました。それがミトライユーズ砲式の斉発砲(ボレーガン。旧軍は霰弾砲と呼びました)「フェルトレ(フェルド)機関砲」で、B軍の「斉発砲」は24本の銃身を平行に束ね、理論上では1分間におよそ300発発射出来る、ミトライユーズと同じクランクハンドルを回すことで撃針を次々に作動させ連続発射する仕組みで、有効射程は1,300m前後、B軍の小銃弾を使用しました。

 伯爵フォン・テュールハイム大尉率いる4門のフェルトレ砲は、次々と押し寄せる仏軍に対し圧倒的な威力を示し、接近した敵兵をなぎ払いましたが、この砲も未だ実験的な代物であり、次弾装填の際に故障を起こし、また弾詰まり・銃身の過熱による変形も発生して短時間で4門全てが機能不全を起こしたため、急ぎ後退して行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

 ボレーガン


 一方、昼前にボンヌビルから北方に向かったB第2旅団主力と普騎兵第4旅団は、午後12時30分、シュミニエ(クルミエの北北西3.2キロ)に接近すると、この部落とシャン(クルミエの北4.8キロ)に仏軍の強力な部隊がいるのを望見しました。これはルイ・ドゥプランク准将率いる仏第16軍団のジョーレギベリ提督師団第1旅団で、仏軍は独軍の前進を発見すると猛烈な銃撃を開始しました。

 B第2旅団長のフォン・オルフ少将は、旅団歩兵をシュミニエの東側2キロほどの場所に砲列を敷いていた砲兵4個中隊*の北に展開させ、この砲兵たちは直近の敵、ヴィルヴォアンドルーの家(農家。シュミニエの南西1キロ。現存します)北郊に砲列を敷いていた仏軍砲兵を狙い撃ちし、この仏軍砲列は短時間で砲撃を中止して退避しました。


※シュミニエ周辺の仏ジョーレギベリ師団に対抗した独軍砲兵

左翼(南)から北へ

・B砲兵第1連隊4ポンド砲第3中隊

・B砲兵第3連隊6ポンド砲第4中隊

・B砲兵第3連隊6ポンド砲第3中隊

・B砲兵第1連隊6ポンド砲第7中隊


 同じ午後1時前後。B第2旅団の右翼後方(北東)に進んだ普騎兵第4旅団の前方に、仏レオー将軍率いる騎兵集団がやって来ました。

 この仏レオー騎兵集団は既述通り午前中B胸甲騎兵旅団の騎砲兵と2時間に渡る砲撃戦を繰り広げた後、シャップを経由してシュミニエの西まで下がっていましたが、この時アルフレ・シャンジー将軍からの命令により再びシャップ~シュミニエ間を東へ進む動きを見せ始めます。

 これを見た普騎兵第4旅団長男爵グスタフ・カール・テオドール・ボギスラウ・フォン・バルネコウ少将は部下を引き連れ、B砲兵4個中隊の砲列による援護を受けつつ仏軍騎兵に迫りましたが、その前衛はシャンとシュミニエ両面から激しい砲撃を受け、また将軍は相手とする騎兵集団が麾下の3倍以上もあることに気付き、捕捉される前に旋回して危機を脱し、一気に東へ後退しました。

 この普騎兵旅団の一斉退却が仏軍前進の「号砲」となるか、とも思えましたが、仏レオー騎兵集団は逆に砲撃を繰り返すB軍砲列から逃げるような機動を見せ、慌てたように西方へと急速後退して行きます。

 戦後シャンジー将軍が著した書籍に依れば、この時、仏軍の左翼(北)外には仏第16軍団と行動を共にする義勇兵諸中隊が2、3群に分かれて「気ままに」東へ進んでおり、レオー騎兵集団はヴィランブレンからトゥルノワジにかけて展開する制服も様々な義勇兵たちを遠目に見て、シャトーダン街道(現・国道D955号線)を行軍する「北方シャルトル方面からやって来た普軍増援」と勘違いし後退したもの、とのことです。


挿絵(By みてみん)

 撃たれる仏軍指揮官


 アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー将軍はこの時47歳。つい一月半前に戦場となったアルデンヌはヌアールの出身、この普仏戦争で頭角を現すこととなった気鋭の将軍です。

 シャンジー将軍の父は農家の出でナポレオン戦争に従軍しますが、戦後軍を去り一般人に戻っています。シャンジー自身はサント=ムヌーの学校在学中、海軍を志し航海術の訓練を受けますが、ひどい船酔いと鉄拳制裁当たり前の閉鎖的な海軍に嫌気を覚え、陸軍に鞍替えしメッスで第5砲兵連隊に入隊、同時にパリの国立大学で学びます。そして正規陸軍士官になる決心をしたシャンジーは18歳でサン・シール(仏軍士官学校)を受験、合格こそしますが合格者138人中133位という低成績でした。しかし猛勉強の末卒業時に順位を25位まで上げた彼は晴れて20歳で少尉として軍人の道を歩み始めます。その後の16年間アルジェリアで勤務して、灼熱の植民地で獰猛なズアーブ兵を率いて実績と昇進を重ねたシャンジーはイタリア独立戦争に従軍しマジェンタやソルフェリーノの戦いを経験します。41歳で大佐に昇進して戦列歩兵第48連隊長となり、モロッコとの戦いで活躍すると45歳で准将昇進、普仏戦争直前に最初のレジオン・ドヌールを受勲、開戦時はアルジェリアに残って植民地を護りますが9月、正規軍の壊滅状態により仏本土に召喚されロアール軍立ち上げに活躍するのです。


 騎兵の援護を失った仏ジョーレギベリ師団に対し、B胸甲騎兵旅団と普騎兵第4旅団は再び行動を起こし、B胸甲騎兵第2連隊と普驃騎兵第1連隊の騎兵銃を手に下馬した騎兵たちは、突出してサン=シジスモンを占拠していた仏猟兵3個中隊に襲いかかり、これを西へと駆逐しました。これで「圧力」のなくなった部落北方に展開するB騎砲兵2個中隊はシャンを砲撃し、被害が出始めたシャンの仏軍(ブルディオン旅団)は午後2時、部落を捨てて潰走気味に西へと退却するのでした。

 B第2旅団長フォン・オルフ少将はこの期を逃さず、動揺する仏軍に対し総攻撃を謀り、まずは諸砲兵中隊に対し「シュミニエから400mの地点まで前進し敵を砲撃せよ」と命じ、続いて歩兵諸大隊には「砲撃を始めた砲兵の横をシュミニエに向かって前進せよ」と命じました。

 こうしてB軍の6ポンド砲兵3個中隊は旧陣地から北へ進んで再展開し、シュミニエ周辺の仏軍(ドゥプランク旅団)に猛烈な榴弾砲撃を浴びせます。このため、シャンから同僚が逃げ出したのを見て動揺していた仏軍将兵も又なし崩しに退却を始め、唯一師団首脳がいるシュミニエ部落の仏軍のみが踏み止まりました。


 シャンジー将軍から「虎の子師団」の指揮を引き受けたばかりのジョーレギベリ海軍少将は、その勇猛果敢さによってトゥール派遣部のガンベタにより師団長に抜擢された立場を十分に理解しており、この時もその「不屈の精神」を遺憾なく発揮、乗馬に鞭打つと戦場を駆け巡り、敗走を始めた部下を叱咤激励して短時間で混乱を鎮め、部下の潰走を留めることに成功します。砲兵もまた僅か数門で砲撃を続けていたシュミニエ北方の砲兵中隊の援護で再び展開し砲撃を開始しました。この砲撃は、耕作地にポツンと並ぶ2軒の農家を盾に砲撃を続けていたB騎砲兵2個中隊を痛撃して、遂に退却させることに成功するのでした。


挿絵(By みてみん)

クルミエ~仏軍砲兵の前を進撃する仏軍部隊


 ジャン・ベルナルディン・ジョーレギベリ海軍少将はこの時55歳。仏西国境に近いバイヨンヌの船長の家に生まれた彼は海軍士官を目指しブレストの海軍士官学校に入学、砲60門大型帆走フリゲート「メルポメネー」乗艦の士官候補生として海軍生活をスタートさせます。その後、ベルギー独立戦争を初戦に乗艦をコルベットに変えて西アフリカ、南米、地中海、インド洋と仏の植民地拡大に従って世界各地に派遣され、順調に昇進して行きました。40歳の時に砲艦「グレナーデ」館長(少佐)としてクリミア戦争に参戦、戦争中に中佐に昇進しエフパトリアやキンブルン半島の戦いで活躍し、戦後ツーロン軍港の幕僚となります。しかし仏本土に落ち着くことなく、シャルル・リゴー・ドゥ・ジェヌイ提督(普仏戦争開戦直後の海軍大臣)麾下の艦隊一員として中国に向かいアロー戦争に従軍、続いてコーチシナ(現在のベトナム南端部)戦争と転戦しサイゴン占領(1859年2月)に貢献します。45歳で大佐に昇進し、引き続きアロー戦争終盤(1860年)に従軍すると北京「円明園の略奪」に遭遇、敬虔なプロテスタントだったジョーレギベリは英仏兵の見境ない暴虐行為にショックを受けたと言われます。中国とインドシナでの活躍で最初のレジオン・ドヌールを受勲したジョーレギベリは48歳の時、ルイ・フェルデブ将軍(普仏戦争終盤で北軍司令官)の西アフリカ・セネガル遠征に参加した後、トゥーロンを母港とする装甲フリゲートの艦長(グロワール級の「ノルマンディ」とゴロワーズ級の「ルヴァンシュ」)を歴任し、1870年5月下旬、海軍少将に昇進、プロヴァンス級装甲フリゲート「ヒロイン」に将旗を翻すと北海第二艦隊(練習艦隊です)を率いて普仏戦争に突入しました。帝政が打倒された70年9月、共和派を支持するジョーレギベリ提督はシェルブール港のあるコタンタン半島の防衛指揮官となった後、トゥール派遣部からロアール軍に参加するよう命令されるのでした。


挿絵(By みてみん)

 ジョーレギベリ


 踏み止まったジョーレギベリ師団の猛攻を受け後退したB騎砲兵2個中隊は、サン=シジスモン郊外まで下がると再び仏軍左翼に対し砲を向けましたが、この間に仏シャンジー将軍はシャンの南郊外に戻って来たブルディオン准将旅団を迎え入れ、シャンの戦線を立て直しました。


 B第2旅団長フォン・オルフ将軍はこれら仏軍の増強を察知すると「クルミエの戦線が維持困難となりつつある今、部下より3倍は多数の敵に対してこれ以上戦うのは危険」と判断し、「今後北方に開けている退却路を西側の敵より防衛するのが任務」と決心して、麾下に対し「現在の陣地を強化して維持せよ」と命じたのでした。

 このクルミエ北方の土地は当時も今も平坦で視界が開けており、敵の銃砲撃から身を護る自然の掩蔽もなく、防御の中心となる部落や家屋も数少なく、この後退戦闘は非常な危険を伴うものでした。オルフ将軍にとっては幸いなことに、波状攻撃を掛けて来る仏軍を、将軍の麾下将兵は一斉射撃で撃退し続けることに成功しました。これは仏軍側が練成不足のせいか突撃も気迫のない中途半端なもので、シャン周辺に集合した仏第16軍団砲兵もB軍を混乱させることが出来なかった(砲撃効果が薄かった)ため、と独公式戦史は結論しています。


 こうして午後4時前に仏ロアール軍は左翼第16軍団の攻撃が膠着し、右翼第15軍団もモンピポーの森前面で阻止されてしまいました。しかし一方の独軍も戦線中央で突出していたクルミエ部落の防衛が「風前の灯火」、仏軍3個旅団の猛攻をぎりぎりで支えており、このままではソローニュの森(オルレアンの南・ロアール川の南に広がる湖沼が点在する大森林地帯)方面やジアンからロアール軍の増援が到着し、対してシャルトルからやって来る独軍増援(普第22、普騎兵第4両師団)は戦場から35キロ以上先のヴォーヴ付近にいるため、今夜は凌げたとしても、明日には「フォン・デア・タン兵団」は包囲撃破を覚悟しなくてはならないことになりそうでした。

 フォン・デア・タン大将は戦況が刻一刻不利となって行くことを憂慮し、「半ば包囲された今の状態を維持するのは大いに危険」と判断、午後4時、左翼側から旅団毎順番に「戦闘中止」を命じ、「総退却」を発令したのです。

 退却はまずアルトネ方向目指し後退して敵の追撃を振り切った後、パリ南部の包囲網に影響を与えぬよう、北からやって来る普第22、普騎兵第4両師団と適当な場所で合流し、最終的に北上するロアール軍を阻止する考えでした。


挿絵(By みてみん)

クルミエ部落の市街戦


 独軍に退却命令が出た午後4時頃、仏バリー師団は再びクルミエ公園の北西端へ突撃して侵入し、同時に南西から接近したダリエス旅団中の4個大隊が公園へ接近しました。

 B第13連隊長伯爵ルートヴィヒ・フォン・イーゼンブルク=フィリップスアイヒ大佐は正にこの時「退却命令」を受領しました。大佐は正午から4時間に渡って守備し続けた公園から少しずつ後退するために采配し、まずは未だ十分に弾薬を持っている兵士たちを公園からクルミエ部落西縁まで退却させ、公園に残った部隊は逆に数回に渡って侵入する仏軍に向かって突撃を敢行し、敵が後退する部隊に迫るのを防ぎました。この後、今度は公園内の部隊が部落縁の部隊による援護射撃の下で部落内へ撤退します。このように、二手に分かれたクルミエ守備隊は部落の東へ脱出し、それは見事に冷静で統制の取れた撤退でした。

 こうしてB第4旅団はクルミエからジェミニー(クルミエの北北東4.3キロ)に向かい撤退し、諸砲兵中隊もクルミエ公園と部落に雪崩れ込んだ仏兵から浴びせられる銃撃から逃れて砲列毎に後退するのでした。ジェミニーに集合した後、B第4旅団は仏軍から妨害されることなくサン=ペラヴィー周辺まで後退することが出来るのです。


挿絵(By みてみん)

クルミエ公園へ突撃するバリー師団将兵


 B第1旅団は「退却命令」が出ると速やかにモンピポー城館前面の戦線を離れ、ジェミニーまでサン=ペラヴィー街道(現・国道D3号線)を北上しました。連隊規模に縮小している旅団は、このジェミニー西側で戦っていたB第2旅団や普騎兵第4旅団と合流し、更にサン=シジスモンを経由してコアンヌ(サン=ペラヴィーの東北東3.3キロ)周辺で遅れていた部隊を待った後、夜に入って泥濘に沈む悪路を行軍しスニー(コアンヌの北東6キロ)に進み、夜半過ぎ、遂にアルトネに到着しました。

 クルミエ街道のモンピポーの森入り口付近で待機していた普騎兵第3旅団は「退却命令」を受領すると、同じく「退却命令」を受領し前線を離れてサン=シジスモン周辺に集合したB胸甲騎兵と合流してアルトネへ向かうB第1師団の退却を援護した後、サン=シジスモン周辺で待機・休息に入り、サン=ペラヴィー付近で同じく小休止するB第4旅団と協力して西側へ前哨を派遣しました。

 またB第1軍団砲兵本隊はB猟兵第2大隊の護衛でサン=ペラヴィーの北方でパテ(サン=ペラヴィーの北5.3キロ)へ通じる街道(現・国道D935号線)脇まで後退し、街道沿いの民家を接収し束の間の休息に入るのです。


 モンピポーの森北端付近に集合したB第3旅団は、シュヴォーレゼー(B軽)騎兵第4連隊が合流した普騎兵第5旅団(アルトネからトゥーリーへ後退する軍団輜重を護衛するため、この時点で普驃騎兵第4連隊が抜けています)と共に軍団後衛として仏軍の監視に当たることとなります。

 B歩兵はサン=シジスモンからジェミニーに掛けて街道沿いと諸部落に展開し、騎兵はヴォリシャール農場(クルミエの北2キロ)に集合して直ぐ西にいる仏軍を警戒監視します。

 これを邪魔と考えた対峙する仏バリー師団はクルミエと占領したばかりのオルムト農場からヴォリシャール農場に向けて攻撃隊を進めますが、B砲兵1個中隊がこれら仏軍の突進を狙い撃ちし、仏軍は敢えなく撃退されました。

 この夜はこのヴォリシャール農場への攻撃以外、仏ロアール軍の本格的な攻撃はなく、仏軍はシャンからクルミエまでの線を前線としてその後方で宿野営に入るのです。

 結局、独軍の後衛はジェミニーとサン=シジスモン周辺で警戒しつつ戦いの疲れを少しでも癒すため休息することとなり、その前哨はビュイッソンの森(ジェミニーの南~南東に広がる森)西端からシャンの東方に掛けて配置され夜を迎えたのでした。


挿絵(By みてみん)

 散兵線のバイエルン将兵


 時間を会戦開始時点(9日午前9時)まで戻します。

 オルレアン市街に残ったB親衛連隊を中核とする支隊(B親衛連隊長のアントン・リッター・フォン・トイフェンバッハ大佐指揮)は、西側から激しい砲声が途切れなく響き始めると、先に受けたフォン・デア・タン将軍の「会戦が始まったら兵団左翼(南)に進め」との命令に従って行動を開始し、ロアール河畔のサン=エ(オルレアンの西南西12.1キロ)に向け出立します。

 この地で仏軍前哨と遭遇した部隊は短時間の戦闘でこれを駆逐すると、B第3旅団が展開しているはずのシャトー・プレフォールへ進みました。

 ところが、既にB第3旅団はバコン方面に向けて転進しており、ちょうどユイッソ(=シュル=モーヴ)の兵団本営を経て前線を巡って来た騎兵斥候の報告により友軍不利の戦況を掌握することになります。

 支隊は状況が判明するまで命令に従いシャトー・プレフォールで待機しますが、午後4時30分、オルム経由でサン=ペラヴィーまで進むようフォン・デア・タン将軍の命令が届き、支隊は急ぎサン=ペラヴィー方面へ進み始めました。

 この「総退却」時点で行軍に耐えられない傷病兵や2個の野戦病院はオルレアン市内に残されることになります。その数は独軍記録に因れば約450名となっています(全員仏ロアール軍の捕虜となりました)。

 オルレアン市内にあった輜重の前遣隊と糧食縦列、そして市内倉庫に蓄えていた収蔵物品を満載した馬車輸送隊や鉄道の機関車、車両は全て残らず夕方までにアルトネを経てトゥーリーまで輸送されました。


 戦闘がほぼ終了したこの日(9日)夕刻、フォン・デア・タン大将はユイッソ(シュル=モーヴ)からサン=ペラヴィーに後退すると、北方のパテから街道沿いをジェミニーまで展開して休息中の諸部隊に対し、「暫時休息を終了して今夜中にアルトネ方面まで退却せよ」と命じました。

 続く雨と雪で泥濘となった街道を諸隊は順次行軍し、夜明けまでにほぼ全ての部隊がアルトネ近郊に到着しました。

 アルトネでは一足先に到着していたB第1師団が休まずに陣地を構築しており、ここでシャトー・プレフォールからサン=ペラヴィーに向かう途中で総退却を知り、混乱を避けてオルレアンの北郊外へ出、セルコット(オルレアンの北9.4キロ)からパリへの大街道(現・国道D2020号線)を北上しやって来た「オルレアン支隊」も、道程にして35キロ強を踏破して原隊に無事復帰するのでした。


挿絵(By みてみん)

 バイエルン軍の後退行軍


 「クルミエの戦い」では、仏ロアール軍がおよそ7万名・砲約150門を投入したのに対し、独「フォン・デア・タン兵団」は約2万・砲約110門で対抗し、一言で表せば「数の多さで圧力を掛けた仏軍が独の後退を招いた」戦いとなりました。

 独軍の損害は約800名で詳細は以下の通りです。


※クルミエの戦い(1870年10月9日)独軍の損害数

○B第1師団(人的損害計313名)

 戦死/士官8名・下士官兵43名・馬匹8頭 負傷/士官9名・下士官兵200名・馬匹10頭 行方不明/下士官兵53名・馬匹11頭

○B第2師団(人的損害計413名)

 戦死/士官6名・下士官兵37名・馬匹23頭 負傷/士官18名・下士官兵219名・馬匹7頭 行方不明/士官1名・下士官兵132名・馬匹1頭

○B胸甲騎兵旅団(人的損害計17名)

 戦死/下士官兵3名・馬匹13頭 負傷/下士官兵10名・馬匹14頭 行方不明/下士官兵4名・馬匹1頭

○B第1軍団砲兵隊*師団配属砲兵は除く(人的損害計23名)

 戦死/士官2名・馬匹14頭 負傷/士官2名・下士官兵19名・馬匹19頭 行方不明/なし

○普騎兵第2師団(人的損害計17名)

 戦死/下士官兵5名・馬匹15頭 負傷/士官1名・下士官兵8名・馬匹33頭 行方不明/下士官兵3名・馬匹8頭


*総計 戦死/士官16名・下士官兵88名・馬匹73頭 負傷/士官30名・下士官兵456名・馬匹83頭 行方不明/士官1名・下士官兵192名・馬匹21頭


※行方不明はほぼ捕虜ですが、この集計は9日に前線での戦闘による行方不明者のみで、オルレアン市内で捕虜となった2つの野戦病院と傷病兵約450名を含みません。

※資料によっては独軍の損害を「戦死・負傷者、士官54名・下士官兵1,112名、約1,000名の捕虜」としていますが、これは11月1日から15日まで一連の「フォン・デア・タン兵団」と「ロアール軍」との戦闘による損害総数(独軍公式戦記では士官55名・下士官兵1,074名)と混同したものと思われます。


 これに対し仏軍の損害は1,500名前後と言われますが、シャンジー将軍の回想録には「仏第16軍団のみの損害として1,250名を失う」とあり、仏軍の実際の損害は少なくとも2,000名前後だったのでは、と思われます。


 この戦いは間違いなく仏軍の「完全勝利」でした。開戦以来「ザールブリュッケンの戦い」以外に完全な勝利はなく、僅かに「コロンベイの戦い」が引き分け状態と言えるのみのフランスにあって、この「勝利」は心理的にも実に大きなものでした。

 しかし実際には、仏ロアール軍は錬成が完了しないままの戦闘で無駄な犠牲も多く発生し、しかも攻撃は数だけを頼みに強引に行われ、結局は包囲殲滅ならず多数をとり逃がしてしまい、中途半端な結果に終わってしまいます。

 とはいえ、この会戦では仏軍側に普軍の「攻撃ドクトリン」となりつつあった「攻撃前の徹底した事前砲撃」が見られ、成功こそしませんでしたがモルトケばりの分進合撃を謀るなど「学習と進化」も見られたため、兵士の練成が成ってある程度戦えるようになれば仏ロアール軍も侮れないものになる、との認識が独軍側に芽生えます。

 逆に仏ロアール軍(と言うより軍事的に素人のガンベタ始めとするトゥール派遣部)に「B軍は普軍より大したことが無い」との誤った認識も芽生えさせました。


 この会戦結果を正確に判断したのは仏軍側ではドーレル将軍らロアール軍のベテラン正規士官の一部のみだったと言えます。ドーレル将軍らは、この勝利なるものは単に相手の数が少なかっただけで得た僥倖(B軍は決して弱兵ではない、という認識)であり、しかも相手(フォン・デア・タン将軍)がオルレアンという「罠」に掛からずさっさと後退してしまったため、同規模か更に大きな会戦を増員の成った独軍とパリの遥か南方で行わねばならないことに気付くのでした。


挿絵(By みてみん)

クルミエ公園北西角にある1870/71記念碑 



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