クルミエ・前夜
11月初頭。オルレアン西郊外で警戒任務に就いていた独軍「フォン・デア・タン兵団」の普騎兵第2師団を中心とする前哨は、ロアール(Loire)河畔のメル(ブロアの北東18キロ)からロワール(Loir)*河畔のモレ(シャトーダンの南南西20キロ)に至る地域に集合し始めた仏軍の動きを探知します。
11月6日になると、独軍の騎兵斥侯は「シャトーダンが仏軍に再占領されている」と報告し、ロアール河畔のボージョンシー(メルの北東12.8キロ)では、斥侯として出撃していたBシュヴォーレゼー(以下「軽」)騎兵第4連隊の1個小隊(30~40騎)が市街へ侵入すると、仏軍歩兵の集団がロアール川対岸(左岸/南岸)に現れ接近して来るのを発見しますが、それとほぼ同時に武装した住民たちが街路に飛び出し、一瞬にして取り囲まれてしまいました。B軽騎兵たちは剣を振るい騎銃を乱射して包囲網を突破し、無事帰還しています。
※今後、日本語表記では同じロアール又はロワールとされる大河『Loire』とサルト川支流『Loir』について、オルレアン付近で東西に流れる大河Loireを「ロアール」、シャトーダン付近で南北に流れるLoirを「ロワール」と表記します。
オルレアンとロアール川(19世紀)
オルレアンの西側を担当していた普騎兵第2師団長、伯爵ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ中将は師団前面の敵情を明らかにすることを命じ、翌7日、師団の3個連隊、騎砲兵2個中隊、B歩兵1個大隊半を直率し、2個縦隊を作ってバコン(オルレアンの西20.6キロ)並びにウズーエ=ル=マルシェ(マルシュノワールの北東13.8キロ)を経て西へ進み、その後方を普とB軍の胸甲騎兵たちがバコンまで追従して来ました。
※11月7日の「ヴェルニゲローデ」支隊
〇本隊(バコンを通過)
・普驃騎兵第6「シュレジエン第2」連隊
・普野戦砲兵第2連隊騎砲兵第1中隊
・普槍騎兵第2「シュレジエン」連隊
・B猟兵第1大隊第2,4中隊、第3中隊の半個中隊
〇右翼隊(ウズーエ=ル=マルシェを通過)
・普驃騎兵第4「シュレジエン第1」連隊
・普野戦砲兵第6連隊騎砲兵第3中隊
・B第13連隊第10,11,12中隊
〇予備隊(バコンで待機)
・普胸甲騎兵第1「親衛/シュレジエン」連隊
・B胸甲騎兵旅団(B胸甲騎兵第1、第2連隊)
・B野戦砲兵第3連隊騎砲兵第1,2中隊
休憩する普軍の胸甲騎兵たち
本隊の前衛となった普驃騎兵第6連隊は、普騎砲兵第1中隊とその砲前車に乗るB猟兵の分隊を従え、午前10時にマルシュノワールの森を直ぐ南西に臨むシャントーム(ウズーエ=ル=マルシェの南西4キロ)に達します。この部落にいた仏軍は既に立ち去っていましたが、部隊は住民から銃撃を浴びせられ、その郊外に一旦止まりました。
同じ頃、前哨斥侯として更に南西方向へ進んだ驃騎兵の1個中隊は、マロール小部落(シャントームの南南西1.8キロ)付近で仏軍部隊を発見し、これは森へ向かう行軍列後衛の様子で、仏軍はマルシュノワールの森へ撤退中でした。
前哨からの至急報を受けたシャントーム郊外の独軍前衛は急ぎ騎砲兵1個小隊を送り、この普軍騎砲2門は仏軍の後衛を砲撃してこれを駆逐し、この砲兵護衛として追従して来た普軍槍騎兵は仏軍を追撃し森の縁に至りますが、この森縁にあった農家(ボワ・ダンフェール。現存します)から銃撃を受けて引き返しました。
この時、森の東側に仏軍騎兵部隊が見られたため、ヴェルニゲローデ将軍はB胸甲騎兵第2連隊をB騎砲兵第2中隊と共にバコンからビジー(ウズーエ=ル=マルシェの南南東3キロ)とヴィレルマン(同南5.4キロ)まで前進させ襲撃に備えます。
独軍を銃撃する仏住民
同じ頃、右翼隊はビナ(同西4.8キロ)直前まで進んでいましたが、ここにいた仏軍の騎兵1個中隊は、独軍の接近を受けて部落の西にあった林(その一部のみ現存します)に向かって去って行きました。右翼隊はこの後、一旦東へ呼び戻され、ブシー(ビナの東2キロ)から南へ折れて正午前後に本隊によって占領されていたシャントームへ到着しました。
ヴェルニゲローデ将軍は午後に掛けてここから西へ、ロワール河畔のモレ方面まで進もうと考えていましたが、どうも敵が潜んでいる様子のマルシュノワールの森が気になり始めました。将軍は本隊をマロール周辺に集合させると、B第13連隊の3個(第10,11,12)中隊と普軍の騎砲兵第3中隊に対し西方へ先行し行軍するよう命じ、普驃騎兵第4連隊を右翼に置いて西側を警戒させると、普驃騎兵第6連隊の2個中隊をサン=ローラン=デ=ボワ(マルシュノワールの北東5キロ)付近のマルシュノワールの森突角に向け急進させたのです。
この少し前の事。仏第16軍団長になったばかりのシャンジー少将は、マルシュノワールから伝えられた独軍接近中という報告を受け、自ら戦場となるマルシュノワールの森北縁まで騎行し、軍団中直ぐに前線へ移動可能な諸隊に対し「サン=ローラン=デ=ボワに向かい前進し、森の縁にいる前哨部隊を援助せよ」と命じました。
この時、既にマルシェ猟兵1個大隊がサン=ローラン=デ=ボワに到着しており、独ヴェルニゲローデ支隊が森縁に迫った時には森縁やその前に点在する諸農家(殆どが現存します)に元より分散配置されていた前哨と合流して敵を待ち受け、増援はサン=ローラン=デ=ボワからオータンヴィル(サン=ローラン=デ=ボワの北西4.1キロ)に掛けて展開しようとするのです。
森から仏軍部隊が次々に出現するのを認めたヴェルニゲローデ将軍は、西へ向かって進もうとしていたB軍歩兵3個中隊をマロール周辺で僅かに高くなっている丘陵地帯に展開させ、普第2軍団の騎砲兵第1中隊もB歩兵の左翼(南東)側に砲列を敷きました。B猟兵はヴィレルマンやシャントーム始め森の北東端に面する諸部落に陣を敷き敵を待ち受けます。
仏軍は午後1時30分前後にこれら独軍拠点に対して総攻撃を開始し、猛烈な銃撃が各部落や陣地に浴びせ掛けられました。午後2時には、仏軍の増援主力となったブルディヨン准将率いる仏第16軍団第3師団第1旅団がサン=ローラン=デ=ボワ付近に到着して、隊に追従していた砲兵2個中隊が部落前面に砲列を敷いたのです。
その後短時間で仏ブルディヨン旅団は独軍に対し銃砲撃を開始し、同時に西側から現れた仏騎兵1個旅団がオータンヴィルに突入するとそこから独ヴェルニゲローデ支隊の右翼(北側)に向かって動き始め、更に中隊規模の騎兵がシャントームに向かい突進して来ましたが、こちらは部落前面に展開していたB猟兵の第2中隊が銃撃を浴びせ掛けて撃退しています。
バイエルン軍猟兵(1870年の軍装)
しかし、午後2時過ぎ辺りからの30分間に渡る猛銃砲撃戦で、遮るものの少ない農地や荒野に展開していた独軍側は、農家や森縁など遮蔽物から撃ち掛ける仏軍に対し圧倒的に不利となり、損害も目立ち始めました。そして午後3時前に仏軍はサン=ローラン=デ=ボワとオータンヴィルから数個縦隊に分かれて急速前進を開始したため、ヴェルニゲローデ将軍は手遅れになる前に麾下に対し戦闘中止と後退を命じるのです。
独軍はマロールの西郊に砲を敷いていた普騎砲兵第1中隊6門の援護射撃を背後に、団隊毎に東に向かって一気に撤退しました。この時、両翼には並行して普驃騎兵両連隊が速歩で続き、敵騎兵による側面からの攻撃を警戒するのでした。
独軍の後退時、ビジーとヴィレルマンに待機していたB胸甲騎兵第2連隊は後衛戦闘を命じられ、マロールの東側・シャントームの南方まで前進して仏軍を待ち、B騎砲兵第2中隊はヴィルジクレール(マロールの東1.4キロ)付近で砲列を敷いてサン=ローラン=デ=ボワからマロールに向けて進んで来る仏軍縦列を砲撃しました。
すると仏軍は前進を止め、やがて踵を返してサン=ローラン=デ=ボワへ戻り、ヴェルニゲローデ支隊はこれ以上の損害を被ることなくバコン方面へ引き上げることが出来たのです。しかし、最も西にいたB歩兵第13連隊の3個中隊は撤退の途中、数倍する仏軍に捕捉され、逃げ遅れた約60名が捕虜となってしまいました。
この「マルシュノワールの森偵察戦」における独軍の損害は、B軍(猟兵第1大隊と歩兵第13連隊第3大隊)が戦死11名・負傷55名・捕虜78名、普軍(騎兵第2師団)が戦死1名・負傷7名・捕虜5名・馬匹の損害21頭と案外大きく、仏軍側は死傷者40名前後と独軍の三分の一に収め、仏軍勝利と呼ぶことが出来る戦闘となっています。
翌11月8日。
仏ロアール軍はオルレアン攻撃命令の実行を開始、計画通り右翼南側の第15軍団、左翼北側の第16軍団共にメッサ(ボージョンシーの北3.4キロ)~ウズーエ=ル=マルシェの線上とマルシュノワールの森との間に集合し、両軍団の騎兵師団と義勇兵の集団は第16軍団の左翼側に進んでプレヌーヴェロン(ウズーエ=ル=マルシェの北6.4キロ)に向かいます。
軍の前衛はクルミエ方面の独軍前哨線を目標に進み、歩兵数個大隊はロアール河畔に残ってシャルトル方面を警戒しました。
仏マルシェ歩兵の行軍
さて、マルシュノワールの森から引き上げ西側を警戒していたヴェルニゲローデ将軍は、仏軍が森の東側に出て来たとの斥侯報告を受けて、普騎兵第3、第5両旅団とB猟兵第1大隊をラ・ルナルディエール(バコンの東北東1.9キロ)とバコンとに集合させ、B胸甲騎兵旅団とB第13連隊第1大隊をサン=ペラヴィー(=ラ=コロンブ。クルミエの北8キロ)付近に集合させます。その中間となるクルミエには当初B第13連隊第3大隊を置きますが、この大隊は昨日小隊規模の捕虜を出し、疲労もあったため午後に入ると同連隊の第2大隊と交代し予備に回っています。
同時に緊急集合の掛かったオルレアン市内に駐屯するB歩兵第2師団は、B第3旅団を西郊外の騎兵たち左翼後方、ユイッソ(=シュル=モーヴ。バコンの東5.5キロ)、シャアンジー(同東10.7キロ)、そしてロアール川岸のサン=エ(同南東10キロ)まで進んで待機し、B第4旅団はオルム(オルレアンの北西8キロ)周辺に展開しました。
地歩を固めたB第3旅団は前衛として歩兵1個大隊をシャトー・プレフォール(ユイッソの南南西3.4キロ。モーヴ河畔に現存する城館です)に、B第4旅団は歩兵2個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊の前衛支隊をロジエール(=アン=ボース。クルミエの東北東3キロ)に進めました。
11月7日の勅令で「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」傘下となったオルレアン方面の独軍司令官、ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将は8日早朝、前日のマルシュノワールの森偵察で得た情報やオルレアン周辺で活発になる仏義勇兵らの様子から「敵のオルレアン攻撃は近い」と判断します。これを裏付けるように早朝、サン=エのB第2師団前衛から報告があり、「サン=エを発した斥候はムン(=シュル=ロアール)近郊で仏軍部隊に遭遇した」とのことでした。
ちょうどこの頃、パリからトゥールに向けて移動中のアドルフ・ティエールも、オルレアンに独軍がいることを知って西側に避けてムンを通過しており、同行した仏軍士官が「ムンの東郊外にてロアール軍前哨兵に誰何され立ち去るよう命じられた」と日記に書き残しています。
8日正午頃にはロアール軍の行動が活発となり、その前衛は普騎兵第2師団の正面、ル・バルドン(バコンの南南東5.5キロ)とシャルソンヴィル(同北西5.6キロ)付近にまで迫りました。
また、諜報からの情報もフォン・デア・タン将軍の下に届いており、その至急報によれば「ジアン付近に仏軍の大集団が集合中」とのことでした。
これらの情報からフォン・デア・タン将軍は「オルレアンは正に包囲攻撃に晒されようとしている」と考え、同日夜、翌朝に予想される仏ロアール軍の攻撃に対抗する部隊配置を命じるのです。
フォン・デア・タン将軍と兵団首脳陣は当初より「オルレアン周辺に集中して応戦するのは得策ではない」と考えていました。
この理由は、外郭のある市街に接して広大なブドウ園と衛星部落が点在するため、敵の侵攻を待ち受けるには少ない兵力を分散配置するしか手がなく、この見通しが利かず障害の多い地勢では騎兵や砲兵の行動にも支障が大きいためでした。
逆に市街から出て郊外で防戦する方法は有効とされ、フォン・デア・タン将軍は「オルレアンを西に離れた地域に主力を展開」することを決するのでした。この理由は、「仏軍が万一西からだけでなく南及び東から前進して包囲を狙っても、この位置なら敵は数日間オルレアン市街とブドウ園、そしてロアール川が邪魔となって東と南との連携攻撃を行うことが出来ず、また当方が不利に陥っても簡単に北方へ脱出することが可能」と判断したからでした。
こうしてフォン・デア・タン将軍は、使える兵力を根こそぎクルミエ東郊外のビュイッソンの森(クルミエの北東3.8キロ周辺。ロジエールとジェミニー部落間に現存する森林です)とモンピポーの森(同東南東4.8キロ周辺。西側が半分ほど開墾されていますが現存します)の西側に集合させ、西からやって来る敵に対し正面か、それがロアール川に沿って来た場合には側面から迎撃してボージャンシー方面へ撃退することを命じたのでした。
「フォン・デア・タン兵団」は終夜配置転換を行い、翌9日早朝には敵を待ち受ける態勢を取りました。
B第2師団はモンピポー城館(クルミエの南東2.7キロ。現存します)からロジエール(=アン=ボース)間に集合し、その後方デスキュール農場(モンピボー城館の東北東1.8キロ。現存します)周辺にはオルレアン市とロアール南岸にいたB第1師団が前進して配置に着き、更にここから6キロほど北東のル・バール付近には軍砲兵隊が進み待機しました。
B胸甲騎兵旅団は前日同様サン=ペラヴィー(=ラ=コロンブ)におり、その他普軍騎兵第2師団は、ロアール南岸から騎兵第4旅団を呼び寄せて3個旅団全力でB第1軍団の前面に展開します。
この内、前夜ロアールを渡河してオルムに到着した普騎兵第4旅団は、サン=シジスモン(クルミエの北5.6キロ)の近郊へ、同第5旅団はクルミエ周辺に、同第3旅団は騎砲兵2個中隊と共にバコン周辺に、それぞれ集合するのでした。
騎兵前哨は北がトゥルノワジ(サン=ペラヴィーの西5.1キロ)、南がトリニ小部落(バコンの南西3.3キロ)までに展開して西側を監視、サン=エに残った前哨はムン方面を警戒します。
普騎兵第2師団に属して前日サン=ペラヴィー、クルミエ、バコン、シャトー・プレフォールにあったB諸歩兵大隊は、騎兵の援護と戦闘時の収容を命じられ、そのままの位置に居残りました。
オルレアン市内では、B歩兵「親衛」連隊、B軽騎兵2個中隊、B砲兵1個小隊が残留します。これは市街の住民が仏ロアール軍に呼応して蜂起するのを威圧して阻止することと、「アルトネの戦い」「第一次オルレアンの戦い」で発生した多くの傷病兵が収容されている市内の野戦病院を警護するためでした。
この9日早朝には、独軍の去ったロアール南岸に掛かっていたB軍の徒歩仮橋は破壊されて川に落とされました。
また、フォン・デア・タン将軍は8日日中、シャルトルに当てて電信を発し、同地の普第22師団や普騎兵第4師団に救援を要請していますが、この返信が8日夜にあり、それによれば「明9日、第22師団はヴォーヴ(シャルトルの南南東22キロ)に進み、騎兵第4師団は同日前衛がオルジェール(=アン=ボース。同南南東36.4キロ)に達せり」とのことでした。
シャルトル在の普第22師団長フォン・ヴィッティヒ将軍はフォン・デア・タン将軍の救援要請が来る前、複数の情報源から「仏ロアール軍オルレアンへ動く」との情報を得ると、直ちに在ベルサイユ・普フリードリヒ皇太子に「フォン・デア・タン兵団救援のための南下」の許可を申請し、皇太子と「直属上司」となったばかりのメクレンブルク=シュヴェリーン大公は移動を認めたため、将軍はフォン・デア・タン将軍の電文を読む前に行軍準備を終えていました。
しかし素早く動いたヴィッティヒ将軍とアルブレヒト親王(普騎兵第4師団長)でしたが、如何せんシャルトルとオルレアンは直線でも60キロ以上離れており、どんなに急いでも行軍2、3日は掛る距離でした。従って、この救援は翌日の会戦には結局間に合わなかったのです。
仏ロアール軍司令官ルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将は11月8日の夜、翌朝のための命令を発し、それによれば、「軍右翼(南)・ロアール河畔を進む仏第15軍団所属諸隊は、ル・バルドン、フォンティーヌ、ラ・ルナルディール(それぞれバコンから南南東へ5.5キロ、同2.7キロ、北東へ2キロ)を目標として前進、軍左翼(北)を行く仏第16軍団所属諸隊は、クルミエを目標として前進、独軍の右翼側からこれを包囲せよ」とのことでした。ドーレル将軍はこの包囲を速やかに達成するため、第16軍団のシャンジー将軍に騎兵10個連隊、砲兵6個連隊、そして多数の義勇兵中隊を増援として与えたのでした。
同じ頃、フォン・デア・タン将軍は幕僚と共にオルレアンの本営を発ってオルムへ向かい、ここで宿営しました。将軍は自軍より数倍多い敵が西からやって来ることを理解していましたが、相手は「素人同然の護国軍や義勇兵が主力」と見下しており、この時点では全く負けるとは考えていませんでした。
しかしフォン・デア・タン将軍は、「今後ロアールを越えて南仏へ進撃する際にオルレアンは必要不可欠」と考え固執していた普フリードリヒ皇太子(既述通り、直前にオルレアン方面も担当することになったメクレンブルク=シュヴェリーン大公に「オルレアン市街をB軍に死守させるよう」教示しています)とは違い、この先の「戦争の落としどころ」(つまりはパリを倒せば終戦)を考えれば「今」オルレアンを守り抜くことはさして重要ではない(この辺りモルトケも同じ考えだったのでは、と思います)、と考えており、「いざとなったら市街を放棄し全軍アルトネ方面(北)へ後退し」仏軍の北上には「エタンプやシャルトルの南でパリからの援軍と共に反撃する」ことで対処することも視野に入れていました。
この「ロアール川の要衝」に拘らなかったフォン・デア・タン将軍と、「もう少し時間が欲しかった」のに練成中の未熟な軍を「今」攻撃に投入せざるを得なかったドーレル将軍、お互いの首将の「余裕と不安の差」が翌日の戦いに反映することになるのです。
仏軍の騎兵斥侯




