仏「ロアール軍」の再起と独「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」の誕生
仏国防政府のトゥール派遣部では、10月9日の内務相レオン・ガンベタ(当時32歳)の到着以降、この若いカリスマが全てを掌握しパリ以外の地方内政と軍とを司ると、包囲下にあるパリのトロシュ政権との連絡が困難なことを理由に、パリの許可を受けず一部外交も取り仕切る独裁的な権力を行使して行くことになります。
トゥールのガンベタ
このガンベタ個人の人気と権力に支えられ、半ば強引に召集された「新・国軍」もガンベタを頂点とするトゥール派遣部が統帥し、その編成と行動計画もまたパリに計ることなく推進されて行きました。
派遣部に当初から赴任していた海軍大臣(パリ以外の総軍責任者でもありましたが)のフリション中将も既述通りこの「ガンベタ独裁」に嫌気が差して辞任し、地方の新軍は全てガンベタとその補佐官(いわば官房長官)となったシャルル・ルイ・ドゥ・ソルス・ドゥ・フレシネ(当時42歳。後の仏首相)によりコントロールされることになったのです。
フレシネ
この事態を独帝国参謀本部戦史課編纂の公式戦史は簡単にこう述べています。
「全くこの偉人が持っていた不屈の精神と鉄の如き心は折れることなく終戦時まで続いた。殆ど無制限となった独裁権力は次々と新戦力を生み出し、新軍は歩兵60万、砲1,400となり前線に出動して独軍と対峙するまでになるのである」(筆者意訳)
ガンベタがパリを脱出しトゥールに現れ地方軍を取りまとめている、と聞き及んだモルトケを始めとする普参謀本部も、当初こそ「軍事の素人に何が出来る」と高を括っていましたが、やがてその「勢い」に顔色も変わり警戒し始めたのです。
この野戦用の新軍にと召集されたセダンやメッスの敗残兵、僅かに残った正規軍戦列歩兵、戦前に召集されていた護国軍部隊の残余以外に、開戦以降「臨時」に召集された護国軍新兵も10月11日、政令によって市町村や管区毎に員数の違う中隊や大隊に編成され、各県はこの中隊・大隊を旅団編成に仕立てました。
この「臨時」護国軍旅団は主に県自体の防衛に充てられますが、戦争の推移によって県外へも出征することになって行きます。
また、パリの意向に関係なく「新軍団」も立ち上げられます。
オルレアン撤退後、仏第15、第16軍団による「ロアール軍」は、ルイ・ジャン・バプテスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将の隷下で「鍛え直され」、既述通りブロア(オルレアンの南西55.5キロ)とジアン(同東南東59.4キロ)とに分かれてオルレアンに対面し、またその中間南側となるソルドル河畔に展開します。寄せ集めとはいえ「軍団」という形が出来上がりつつあった仏第16軍団では、アルジェリア帰りのジョセフ・プルセ少将が総司令官に任じられました。
この仏第16軍団の編成作業は10月一杯続き、11月初旬まで軍団第2師団と同第1、3師団の各1個旅団はブロア付近で編成と錬成が続きます。
この2個軍団に保護される形でその後方地区では新たな軍団が立ち上げられ、ロアール北岸のブロア~メル(ブロアの北西18.4キロ)間では仏第17軍団が、上流のヌベール周辺では仏第18軍団が、それぞれ10月末までに発足し編成を始めました。
同じく海軍中将のコンスタン・ルイ・ジャン・バンジャマン・ジョレス提督率いる混成集団(後に仏第21軍団となります)が、独軍が北へ去ったシャトーダンやブル(シャトーダンの北西19.7キロ)、ノジャン=ル=ロトルー(同北西46.8キロ)の線上に展開して独軍の最前線となっていたシャルトル方面を警戒し、ロアール軍と仏北西部に点在する軍勢との間を埋めました。
余談ですが、このジョレス提督は普仏戦争の7年ほど前、日本の長州藩と英仏米蘭との間で発生した下関戦争(1863、64年)の仏側指揮官です。
ジョレス
この仏北西部では既述通り3万~6万程度の兵団が複数活動を始めており、ピカルディからノルマンディの北部でブルバキ将軍が、ルーアンを中心にノルマンディ地方でブリアン将軍が、その東側セーヌの左岸(ここでは南岸)ではフィエレック将軍が、それぞれ護国軍や義勇兵を統率し独軍の偵察斥候隊と衝突していました。
このフィエレック将軍兵団の右翼側、シャトーヌフ=アン=ティムレ(シャルトルの北西23.4キロ)とスノンシュ(シャトーヌフの西15.2キロ)にはマルティ中佐が約8,000名*を率いて展開し、ウール川上流域のクルヴィル(=シュル=ウール。シャトーヌフの南14.7キロ)やブレーズ川沿いでドルー近郊のガルネ(同北北東15.5キロ)までを守備範囲としていました。
また、ドルーには10月来、デュ・タンプル中佐率いる護国軍兵を中心とした約7,000名*が幾度かの独軍強行偵察部隊の来襲を退け居座っていましたが、シャルトル陥落後の10月25日に普第6騎兵師団本隊が前進して来るとさすがに西へと撤退して行ったのです。
※マルティ中佐旅団(10月末)
・カルヴァドス県(ノルマンディ地区。県都カーン)護国軍連隊
・マルシェ歩兵第36連隊第2、3大隊
・マイエンヌ県(ペイ・ドゥ・ラ・ロアール地区。県都ラヴァル)の護国軍1個大隊
・海軍フュージリア兵2個中隊
・詳細不明の猟兵半個中隊
※デュ・タンプル中佐旅団(10月末)
・コレーズ県(中仏リムーザン地区。県都チュール)護国軍連隊
・カルヴァドス県の護国軍1個大隊
・海軍フュージリア兵2個中隊
・詳細不明の猟兵半個中隊
・砲兵隊(詳細不明)
普第6騎兵師団が、フォン・ヴィッティヒ将軍率いるシャルトル在の普第22師団の要請で再びマントノン(シャルトルの北北東16.8キロ)まで下がると、11月3日、両師団は共同でクルヴィルの仏軍に対する示威運動を開始し、同時に普騎兵第4師団はその左翼側(シャルトルの南)に連携して普第8、第9騎兵旅団を派出、こちらはノジャン=シュル=ウール(シャルトルの南西11.3キロ)を経てクルヴィル方向へ進み、師団残りの普騎兵第10旅団はバイオー=ル=パン(ノジャンの南西3.4キロ)を経てイリエ=コンブレ(ノジャンの南西13.2キロ)まで進み、シャトーダン及びノジャン=ル=ロトルー方面を警戒しました。
こうしてクルヴィルは攻撃され、普軍砲兵が榴弾を2、3発発射するとマルティ中佐の部下たちはクルヴィル市街を捨てて西へ逃走しました。しかし、更に西側ではフィエレック将軍麾下の仏軍がしっかりと防衛線を張っていたため、普軍諸隊は翌朝シャルトルまで引き上げたのでした。
普騎兵第6師団の撤退後、ドルーには暫くの間両軍とも兵力を進出させませんでしたが、市街地には双方の斥候隊が度々侵入し、遭遇戦が頻発するようになります。
これとは別にモカール大佐率いる約8,000名の仏護国軍と義勇兵による「ウール集団」は、ウーダン(ドルーの東北東18キロ)とマント=ラ=ジョリー(セーヌ河畔。同北東38キロ)を拠点とする普騎兵第5師団に対してエブルー(同北北西35.7キロ)周辺を守備し、セーヌ川沿いにガイヨンからベルノン(それぞれマント=ラ=ジョリーの北西33.7キロ、同20.2キロ)付近まで、ウール川沿いではパシー(=シュル=ウール。同西24.7キロ)まで前哨を送っていました。
普騎兵第5師団所属の普騎兵第13旅団は、独第三軍司令官フリードリヒ普皇太子の命令で10月21日頃西への偵察行を開始しましたが、22日にショーフール(=レ=ボニエール。マント=ラ=ジョリーの西17.4キロ)の南郊外で仏軍の強力な散兵集団(モカール大佐隊の一部と思われます)に遭遇し、包囲の危険性もあったため戦闘を避けてマント=ラ=ジョリーに後退し防備を固めています。モカール大佐の部隊は11月上旬にマント=ラ=ジョリーの西側10キロ付近まで接近しますが、それ以上東進することはなく、間もなく西へ引き上げて行きました。なお、モカール大佐は11月中にトマス将軍と交代させられています。
既述(「パリ包囲網の後方事情(10月末まで)」)通り「パリ包囲網」西方に進んだ独マース(第四)軍の「エプト川方面」支隊と「トゥール・リッペ将軍」支隊は、11月上旬までにウール川流域やセーヌ下流で先の仏北西部に増え続ける仏新軍と遭遇し、多少の戦闘を交えますが、これら地方は河川と森とによって視界や行軍路が遮られることが多く、偵察も限られたため仏軍が実際どの程度の兵力をその後方に控えているのか判別し難い事になってしまいました。
そのため、10月23日に普大本営がメッス攻囲軍に発した命令(既述の「メッス後」の行軍指示)では、本来ならパリ包囲網を強化したい所、この不気味な包囲網後方の仏新軍を「明らか」にして無力化することに主眼が置かれることとなるのです。
そしてこの11月上旬。バイエルン軍の男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将が麾下と共に待機するロアール河畔オルレアン周辺でも仏軍の大きな動きが始まるのです。
☆ 10月末から11月初頭の仏ロアール軍
10月中旬。バイエルン軍(B)と普軍による「フォン・デア・タン兵団」がオルレアンやシャトーダンを攻略し(シャトーダンは後に放棄)、ロアール川に橋頭堡を築くと、仏トゥール派遣部はこれを「独軍がトゥール派遣部を狙っている」と考え、対応に追われました。
ちょうど同じ頃にヴォージュ県からオート=ソーヌ県に侵入したバーデン軍(Ba)と普軍による「ヴェルダー(独第14)軍団」と戦う仏「ヴォージュ軍」を視察して来たガンベタは、トゥールに帰着するとフレシネを通じて次々に指示を出し、この意向に沿って仏ロアール軍は編成途中の第16軍団中ブロア周辺で錬成中の部隊を、マルシュノワール(ブロアの北北東26.7キロ)からロアール河畔のメルに掛けての線上に再展開させ、ソルドル河畔に展開していた第15軍団の1個旅団をブロアに呼び寄せます。
こうしてトゥール派遣部の面々は緊張してフォン・デア・タン将軍の来寇を待ち受けますが、シャトーダン戦以降、斥候偵察こそ現れるもののB軍や普軍騎兵の本隊はオルレアン近郊から一向に動く気配がなく、しかも偵察によってロアール沿岸にあるB軍の兵力数も「大きくはない」ことが判明するのでした。
こうなると、次第に膨れ上がるロアール軍(10月最終週までに仏第15、16、17軍団合わせ10万前後)を「使って見たくなる」ガンベタでした。
10月24日。ロアール軍の本営があるサルブリ(オルレアンの南54キロ)でトゥール派遣部とロアール軍首脳による作戦会議が開催され、ガンベタは「速やかにオルレアンを攻撃する」よう軍首脳に要請、対するロアール軍司令官ドーレル・ドゥ・パラディーヌ将軍は「兵の錬成は始まったばかりで兵站も未だ十分ではなく(海外植民地軍や現役復帰させた)士官も多くが未だ着任していない」として攻撃延期を主張しました。しかし一刻も早くパリ「救出」に向かいたいガンベタは譲らず「進撃」を強硬に主張し、数は多くなったものの実戦では精悍な独軍に適う筈もない、と自軍を正確に評価していたドーレル将軍は「それでも時間は必要」と譲りませんでした。
しかし、それまでも再三攻勢に出ることを声高に求めて来たガンベタは将軍を遮り、何としてでも北上しろ、と厳命したのです。
この時、ガンベタは完全に焦っていました。パリ周辺部の戦いは海外報道でも伝文によっても独有利に進行していることが明らかで、200万を数えるパリ市民の糧食事情を考えても首都は後1ヶ月持つか持たないか、でした。確かにメッスではバゼーヌ軍が頑張ってカール親王軍を引きつけ、独軍の足を引っ張っていましたが、彼らは完全に包囲下にあって連絡は困難で(これはパリも一緒です)、こちらもいつまで保つか分かりません。
「パリが落ちればフランスは落ちる」
ガンベタとしては、無理を承知で奇跡を信じてでも可及的速やかにパリへ向かわねばならないのでした。
レオン・ガンベタ
しかし、元弁護士のガンベタは有能で行動力のある政治家ではありましたが、軍に在籍した事はなく軍事に関しては全くの素人でした。
この辺りは形ばかりの少将・ビスマルクと一緒で、時に「やれ糧秣だ」「兵站だ」「準備が」と行動を渋って「機会を逸する」軍人に対し両人とも怒りを覚えますが、ビスマルクはぐっと堪え(たまにはそれを押し切ることもありましたが)大体はモルトケらの言い分を聞いて大人しくしていたのに対し、ガンベタは「国の一大事」では政治が優先する、とばかりに無理難題を軍人に次々と強要するのでした。
この辺りは古今東西「負けている側」に現れる現象で、どんなに優秀で分別ある統治者でも、国が傾くと「焦りは禁物」と忍耐して事に当たる優秀な軍人の意見を曲げてしまうものなのです。
結局、この時もガンベタは「軍事常識」を楯に抗命するドーレル将軍を押し切ります。ドーレル将軍としては仕方がなく、もう2ヶ月は時間が欲しかったオルレアン攻撃を計画し、その準備に追われるのです。
護国軍新兵の射撃訓練
更にロアール軍の士官不足に関して、トゥール派遣部の軍事指導部(=ガンベタやフレシネ)は「悪魔の解決法」を行うことを命じました。
これはガンベタの到着以前から既に始まっていましたが、正規軍の大量降伏により深刻となった士官の絶対数不足を補うためにトゥール派遣部がまず取った施策は、引退した予備役や傷病休職していた士官を根こそぎ召集し、次に主としてアフリカ植民地から現役士官を引き抜いて帰国させるというものでした。
しかし、それでも士官は足りず、すると「下士官を士官に、下級士官を高級指揮官に戦時昇進・登用」する命令を発するのです。
これは18世紀末の「大革命」期、貴族士官が大量に逃亡・処刑された時に行われた施策と全く同じで、これで確かに数は揃って行きましたが、当然ながら質の悪い(最悪は無能な)者や実戦経験のない者が階級上現役士官と肩を並べ、これでは数少ない現役ベテラン士官のモチベーションは下がる一方でした。これは戦争終結後も尾を引く事態(階級制度を元に戻すための混乱)だったのです。
同じ事は独側でも行われます(8月の諸会戦で中級士官を大量に失いました)が、独軍の「戦時昇進」は出来るだけ階級を変えずに、例えば大尉が大隊を中佐少佐が連隊を率いたりしますが、仏のそれは大尉を中佐に、中佐を准将にするような目立つものが多く、それも戦功を基準とするものではないことが多かったために、弊害もまた大きかったのです。
行軍する仏軍士官
結局、ドーレル将軍は仏第15軍団の2個師団を10月最終週に鉄道を使用してヴァンドーム(ブロアの北西30キロ)とメルへ輸送し、その後、仏第16軍団中既にブロアからマルシュノワール方面へ前遣されていた部隊を合わせ、レ=バール(オルレアン中心地の北西11.7キロ)からラ・シャペル=サン=メマン(ロアール沿岸。同西南西5.1キロ)までのオレレアン西郊外へ前進させることになります。
この作戦計画は、西側からの強襲により10月31日にオルレアンを攻略し、同時にアルトネ(オルレアンの北20キロ)に対してロアール軍の持つ騎兵のほぼ全力・13個連隊を挙げて進出させ「フォン・デア・タン兵団」の退却を妨害し、あわよくば捕捉殲滅する壮大なものでした。
同じくアルジャン=シュル=ソルドル付近にある仏第15軍団の残り(軍団第1師団)とブールジュ付近に残る仏第16軍団の残り部隊に対し、ジアン(オルレアンの東南東58.6キロ)付近で集合し、その後オルレアンの東側に向かい、西側の部隊と連動しオルレアン周辺で独軍を挟撃することを命じます。
ガンベタは、軍団の練成も儘ならないまま尚早な攻撃を強要するトゥール派遣部を批判した第16軍団長プルセ少将を更迭し、軍団混成師団長だったアンソニー・アルフレド・ユージン・シャンジー少将を軍団長に任じました(11月2日)。その他ガンベタらが「やる気がない」「無能」「反抗的」と見なした多くの指揮官が短期間に交代させられています。
しかし、オルレアン攻略後どうするかについては強気のガンベタも迷っていたようで、10月27日にドーレル将軍が受け取った命令書には、パリへの北進については一切書かれておらず、ただ「オルレアンの解放後、街区と郊外合わせて約20万人を収容する防御施設付きの野営を設営せよ」とあったのです。
しかしこの軍機動は計画通りに行きません。オルレアン攻撃の発起点に向かう行軍は、サルブリからブロアへの鉄道輸送が度々渋滞したお陰で第15軍団の2個(第2、3)師団の輸送が大幅に遅れてしまい、また天候不順で大雨も降ったために街道筋は泥濘に沈み、これによって更に遅延して行きました。
西側の第15軍団がブロアの東側に着いた時には既に11月を迎え、同じ頃、アルトネを襲う予定のレオー騎兵師団も漸くのことでメル周辺に集合しました。同軍団で10月中に前遣されていた1個旅団はロアール川南岸のミュイード(=シュル=ロアール。ブロアの北東17.4キロ)付近に集合し、川沿いにオルレアンへ向かう諸兵科混成部隊(マルシェ猟兵1個大隊、護国軍1個大隊、騎兵1個中隊、護国軍新兵と義勇兵の集団)の側面を援護することになります。
この左翼(北)側ではマルシュノワールの森(マルシュノワールの北で東西13キロ・南北平均4キロほどに広がる森)南端に沿って仏第16軍団の主力が集合し、その支隊となる歩兵1個大隊と砲兵1個中隊を付した騎兵1個旅団が、森の北縁のオータンヴィル(マルシュノワールの北6.5キロ)に在りました。
これら攻撃隊の最左翼となった歩兵1個大隊はクロイエ=シュル=ル=ロアール(シャトーダンの南西10.7キロ)に駐屯し、攻撃機動のため駐屯部隊がいなくなったシャトーダン方面を警戒するのでした。
☆ 10月末から11月初頭の独「フォン・デア・タン兵団」
数だけは数倍するロアール軍の脅威を受けることとなるフォン・デア・タン大将率いる兵団は、10月一杯オルレアン周辺から動かずに従前からの陣地を強化して、兵団から分離しシャルトルに進んだ普軍(普歩兵第22師団・普騎兵第4師団)との連絡をオルジェール=アン=ボース(オルレアンの北北西32キロ。シャルトルからは南南東へ36キロ)で取り、特に西側(トゥール派遣部の方向)の仏軍を警戒していました。
「仏ロアール軍が遂に動き出すのでは?」との情報は10月20日過ぎにフォン・デア・タン将軍の下に伝えられ、将軍はオルレアン西側の偵察を増強させます。
この命令を受け、クルミエ(オルレアンの西北西18.2キロ)から西へ進んだ強力な偵察隊*は10月25日、ビナ(マルシュノワールの北北東10.2キロ)で仏義勇兵の集団に遭遇するとこれを駆逐し、この集団の退却を追った普驃騎兵第4連隊の2個中隊は、義勇兵が南側に広がるマルシュノワールの森に逃げ込む前にこれを捕捉、一部を斬り捨て一部を捕虜とし連行しました。すると森からビナに向かって進む仏軍部隊が出現しますが、ビナの南西に急遽布陣したB軍猟兵1個中隊は普軍騎砲兵小隊(砲2門)と共にこれを攻撃し、仏軍は戦わず急ぎ射程外まで退きました。B猟兵は夕闇迫る午後5時頃、この仏軍に対し突撃を敢行して大損害を与え、仏軍部隊はビナから数キロ離れた森付近まで後退して行ったのです。
同25日、ジョスヌ(マルシュノワールの東南東10キロ)に向けて偵察行に出た別の一隊*は、途中の諸部落から仏軍が撤退していることを確認しながらジョスヌに達しますが、途中クラヴァン(ジョスヌの北東5キロ)で先行する驃騎兵斥候に銃撃を加える仏軍があり、これは同行していた普軍騎砲兵が榴弾砲撃するとたちまち撤退し西へ去って行きました。この偵察部隊はこれ以上の妨害を受けることなく帰還しています。
※10月25日の「フォン・デア・タン兵団」偵察隊
○ビナに向かった部隊
*普驃騎兵第4「シュレジェン第1」連隊・第2,3,4中隊
*B猟兵第7大隊・第1中隊
*普野戦砲兵第2「ポンメルン」連隊・騎砲兵第1中隊の1個小隊
○ジョスヌに向かった部隊
*普驃騎兵第6「シュレジェン第2」連隊・第2,3,4中隊
*B猟兵第1大隊・第2中隊
*普野戦砲兵第6「シュレジェン」連隊・騎砲兵第3中隊の1個小隊
10月31日。仏軍の強力な部隊はマルシュノワールの森から出撃し、ウズーエ=ル=マルシェ(ビナの東4.8キロ)で馬匹の餌となる秣を徴発していたB胸甲騎兵を襲いこれを駆逐しました。この胸甲騎兵たちはオルレアン西に警戒網を張る普騎兵第2師団に通報し、師団司令部は緊急集合を掛けるとウズーエに一隊を派遣し、すると普軍騎兵集団を見た仏軍部隊は戦闘に至る前に南方へ撤退して行きました。
この頃、オルレアンの北や南側でも仏義勇兵の出没が相次ぎ、オルレアン大森林(オルレアン北東に広がる森)やロアール川南岸の諸部落でも破壊工作や前哨襲撃を行って独軍の前線部隊を悩ませ、また部落に残っていた住民も隙あらば敵対する様子を窺わせていたのです。
普驃騎兵第1「親衛第1」連隊の斥候隊は10月26日と27日の連日に渡って活動中に襲撃され、人馬共に損害を受け退却しています。
同じくフォン・デア・タン兵団の支配領域最南端となるサン=シラン=ヴァル(オルレアンの南南東9キロ)でも、巡視隊が度々銃撃を浴びる事件が起きていました。
☆ パリ北西~西郊外の独軍の状況(10月末から11月上旬)
ベルサイユ在の普大本営はメッス陥落の前後(10月下旬)に前述のパリ包囲網西側及び南側における仏「新軍」の活動につき暫時報告を受け、普参謀本部は「中仏と西仏における仏新軍の編成は大いに進行している」と認識します。
しかし、その員数や集合地については情報が錯綜し、裏付けの取れない信頼性に乏しい情報が多数あったため確信を持てずにいました。独軍騎兵はパリ包囲網の背後をくまなく捜索しますが、そこで判明したことは「仏軍は攻勢に出ることより局地防衛に徹しているらしい」ということでした。
とはいえ、モルトケ参謀総長ら普参謀本部の見解としては、「メッスより仏北西部へ向かう予定の独第一軍(マントイフェル将軍麾下)がパリ北方に至るまでは、仏新軍がパリの解囲を謀り西または南より攻撃発起する可能性を捨ててはならない」とするのです。
特に西側(セーヌ下流域・ノルマンディ地方)からの「脅威」は、ロアール軍と称する仏南方の集団と等しく危険である、と認識していました。これはパリ西側包囲網の外にベルサイユ大本営とパリの攻城廠(ベルサイユとクラマールの中間、ビラクブレーの広大な野原に建設中でした)があり、また首都解放を謀る仏軍としては、メッスからやって来る新たな独軍と出来るだけ長期間接触せずにパリの軍隊と連動しようと望むはず、と考えたからで、パリのトロシュ、デュクロ両将軍が考えていた「北西ルーアン方向への突破」と考え方は一緒で、「読み」としては「正解」と言えたのです。
この頃、「トゥール方面よりサルト県のル・マン(トゥールの北北西77キロ)に向けて軍隊が鉄道輸送されている」との新聞記事が仏地方紙や外国の特派員報道で見られ、これは普参謀本部の予測が正しい証左に見えました。しかしモルトケは「目下の敵状は未だ十分明らかではない」として「敵に対し確実な配備をするには情報不足」と断じるのです。
この判断によってパリの包囲陣は「パリ守備兵の新たな出撃に対する警戒をこれまで通り厳重に行い、西または南から行われると思われる敵の解囲行動から包囲網を防御する準備を行う」ことを訓令され、メッスからやって来るマントイフェル将軍には、急ぎオワーズ川まで進むよう督促を入れるのでした。
モルトケとフリードリヒ皇太子
同じ頃(10月末)。パリ包囲網の北側を任担する独マース軍は、前述通り北西のルーアン方面からの脅威を受けており、軍包囲網の右翼後方に至急援軍を向かわせなくてはならない状況になっていました。
このため、11月5日に包囲網北西部にあった普後備近衛師団の一部が普第4軍団の一個旅団と交代してアルジャントゥイユ「半島」に進出し包囲網を固め、第4軍団の旅団は北西方面への増援となりました。
ちょうどその頃、メッスから鉄道輸送されて来た普第2軍団の普第4師団が、ナンシーからの後方連絡鉄道線の端末駅・ナンテュイユ=シュル=マルヌより徒歩行軍で到着し、パリ南方包囲網後方のロンジュモー(ベルサイユの南東17.7キロ)付近に集合しました。同軍団残りの普第3師団は、普第17師団に代わってセーヌとマルヌ両河川の合流点における「クレテイユの三角地帯」に対面する包囲網を守備するよう命令が発せられ、これにより普第17師団は、西仏やトゥール方面へ進む新たな軍に所属することが決まります。
普大本営は11月7日ヴィルヘルム1世国王の勅令として、この「新軍」の司令官に歩兵大将メクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世を指名し、大公はフォン・デア・タン将軍率いるB第1軍団と普騎兵第2師団の他、普第17師団、普第22師団、普騎兵第4師団、同第6師団をその隷下に納めました。
「メクレンブルク=シュヴェリーン大公軍」は、パリの南と西方面から仏軍が首都の解囲を謀った場合、その作戦を粉砕することが求められます。
大公軍は編成が完了しパリ包囲網から離れるまで、元帥となったフリードリヒ皇太子の独第三軍に隷属しますが、この時、皇太子は参謀長ブルーメンタール中将と共に大公に対し、「貴軍右翼となる普第22師団、普騎兵第4、第6師団は、11月12日までにウール県に対面してシャルトル付近に集合し、パリ包囲網を離れる普第17師団はその左翼(南)側に出てロワール(大河のLoire川ではなくアンジェ付近でロアール支流サルト川に注ぐLoir川)河畔のボヌヴァル(シャトーダンの北13キロ)付近に進み、B第1軍団の主力はシャトーダンへ、その1個旅団と普騎兵第2師団はオルレアンに残って市街を死守すべき」等と教示するのでした。
しかし、この大公軍の機動を待たず、オルレアン周辺の戦況は一変します。
フリードリヒ・フランツ2世大公はウール県から西のノルマンディ地方の仏軍に対抗することを一時中断し、南側ロアール川方面から受ける脅威の対処に追われることとなったのです。
メクレンブルク大公フリードリヒ・フランツ2世
◎仏第16軍団(11月初旬まで)戦闘序列
軍団長
ルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将(10/4~13)
ジョセフ・プルセ少将 (10/17~29)
アントワーヌ・アルフレ・ユージン・シャンジー少将 (11/2~)
参謀長
ルノー少将 (発足時/10月上旬のみ)
ラルマン大佐 (~10/25)
アシル・エルネスト・ヴィルモテ大佐 (11/1~)
砲兵部長
クロード・オーギュスト・ロビンオット=マルシー大佐
工兵部長
ジャヴァン大佐
☆第1師団
師団長
プルセ少将 (10/5~13)
シャンジー少将 (~10月末まで)
ルイ・ドゥプランク少将(11月上旬)
ジャン・ベルナルダン・ジョーレギベリ海軍少将 (11/7~)
○第1旅団 (編制中) ※11/15編成完了
モランディ准将
・マルシェ猟兵第8大隊
・マルシェ第36連隊(3個大隊)
・護国軍第8「シャラント=アンフェリウール県」連隊(現シャラント=マリティーム県。県都はラ・ロシェル)(2個大隊)
※オルレアンで編成開始後に「オルレアンの戦い」が発生、ジアンへ退避。11月15日に編成終了。ブロアへ向かいます。
○第2旅団
※下記「シャンジー混成師団」第1旅団
〇師団砲兵隊 マスネ戦隊長(騎兵少佐)
・砲兵第7連隊第19中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第8連隊第18中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第15連隊第24中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第10連隊第19中隊(ミトライユーズ砲x6)
〇工兵第3連隊・第20中隊第1分隊
☆第2師団 (編制中) ※11/15編成完了
バリー少将
〇第1旅団 トゥールで編制・練成中
ゴラール少将(10/4~11)
ミノ准将(~10月)
デメゾン准将(11月~)
・マルシェ猟兵第7大隊
・マルシェ第31連隊(3個大隊)
・護国軍第22「ドルドーニュ県」連隊(県都はペリグー)(2個大隊)
〇第2旅団 ル・マンで編制・練成中
バリー大佐(発足時/10月上旬のみ)
ベラール大佐(11月~)
・マルシェ第38連隊(3個大隊)
・護国軍第66「マイエンヌ県」連隊 (県都はラヴァル) (3個大隊)
〇師団砲兵隊
・砲兵第9連隊第19中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第12連隊第5中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第12連隊第6中隊(4ポンド砲x6)
〇工兵第3連隊・第20中隊第2分隊
☆第3師団
シャンジー准将(発足時/10月上旬のみ)
モランディ准将 (10月中旬~12月)
〇第1旅団
※下記「シャンジー混成師団」第2旅団
〇第2旅団 (編制中) ※11/16編成完了
サトエリ准将(発足時/10月上旬のみ)
ティエリー大佐(10月中旬~)
・マルシェ第40連隊(3個大隊)
・護国軍第71「オート=ヴィエンヌ県」連隊(県都はリモージュ)(2個大隊) ※10/23編成完了
〇師団砲兵隊
※下記「シャンジー混成師団」砲兵隊
〇工兵第1連隊・第18中隊第1分隊
※10月末までは下記「シャンジー混成師団」工兵隊
☆混成師団(10月末まで)
シャンジー少将
○第1旅団(11月に第16軍団第1師団第2旅団となります)
ルイ・ドゥプランク准将(10月末まで)
リベル大佐(11月~)
・マルシェ第37連隊(3個大隊)
・護国軍第33「サルト県」連隊(県都はル・マン)(3個大隊)
○第2旅団 (クルミエ戦用に創設/11月に第16軍団第3師団第1旅団になります)
ブルディヨン准将
・マルシェ猟兵第3大隊
・マルシェ第39連隊(3個大隊)
・護国軍第67「オート=ロアール県」連隊(県都はル・ピュイ=アン=ヴレ)(2個大隊)
・護国軍第75「メーヌ=エ=ロアール県/ロアール=エ=シェール県」連隊(県都はアンジェ/ブロワ)(2個大隊)
〇師団砲兵隊(11月に第16軍団第3師団砲兵隊へ)
・砲兵第13連隊第19中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第14連隊第19中隊(4ポンド砲x6)
・砲兵第14連隊第20中隊(4ポンド砲x6)
〇工兵第1連隊・第18中隊第1分隊(11月に第16軍団第3師団へ)
☆騎兵師団
レセール少将
○第1旅団(ヴァンドームからトゥールへ)
トリパール少将
・マルシェ驃騎兵第1連隊
・混成マルシェ軽騎兵第2連隊
○第2旅団(オルレアンからブロアへ)
ブリアン少将 (~10/19)
ルイ=ガストン・ドゥ・ソニ少将
ジャン・アレクサンドル・ディガール少将
・槍騎兵第6連隊
・混成マルシェ軽騎兵第3連隊
○第3旅団(ブールジュ)
アブディダル少将
・マルシェ胸甲騎兵第3連隊
・マルシェ竜騎兵第4連隊
・混成マルシェ軽騎兵第4連隊(臨時編成)
※これら騎兵連隊は全て4個中隊制です。
☆軍団砲兵隊 カーレ中佐
・砲兵第7連隊第2中隊(12ポンド砲x6)
<元・第1砲兵段列第8中隊を解隊し再編>
・砲兵第7連隊第14「混成」中隊(12ポンド砲x6)
<元・第1砲兵段列第8中隊を解隊し再編>
・砲兵第16連隊第12「混成」中隊(12ポンド砲x6)
<元・第1砲兵段列第12中隊を解隊し再編>
・砲兵第16連隊第17「混成」中隊(12ポンド砲x6)
<元・第1砲兵段列第12中隊を解隊し再編>
・砲兵第18連隊第15中隊(4ポンド騎砲x4)
・砲兵第20連隊第6中隊(4ポンド騎砲x4)
・砲兵第20連隊第7中隊(4ポンド騎砲x4)
・砲兵第15連隊第22中隊(7ポンド砲x不明)
・砲兵第7連隊第24中隊(7ポンド砲x不明)
・砲兵第8連隊山砲第1中隊(4ポンド山砲x不明)
・砲兵第8連隊山砲第2中隊(4ポンド山砲x不明)
☆輜重段列 アルトリュック中佐
・第1砲兵段列第14中隊<再編>
・第2砲兵段列第5中隊<再編>
・第2砲兵段列第15中隊<再編>
・輜重第14連隊の弾薬段列2個<再編>
・弾薬段列卒2個隊
☆軍団所属義勇兵部隊
・パリ義勇兵中隊
・セーヌ=エ=マルヌ義勇兵中隊
・ラ・サルト義勇兵中隊
・ドゥ・セーブル義勇兵中隊
・カルヴァドス義勇兵中隊
・オート=ピレネー義勇兵中隊
・ドルドーニュ義勇兵中隊
・アンドル=エ=ロアール義勇兵中隊
・アルプ=マリティーム義勇兵中隊
・オラン(第7)義勇兵中隊
・サン=ドニ義勇兵中隊
・ブリウド(ポール郡)義勇兵中隊
・ロアール=エ=シェール義勇兵中隊
・ヴァンデ義勇兵集団
※義勇兵の隊名は出身地/実際は勇壮な名前を付けている部隊が多くありました。また、定員は50~200名位までまちまちです
護国軍兵士の出征




