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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
377/534

ティエールの欧州歴訪と「パリ・10月31日蜂起」



 包囲下のパリでは、第二帝政時代から「地下」で活動して来た反体制極左の人々(共産主義者やアナキストなど)が「革命のチャンス」とばかりに職人や肉体労働者、下町の貧困層に潜り込んで煽動し、市街(特に北東部)は不穏な空気に満たされつつありました。

 10月に入ると、9月末に掛けてのトロシュ政権下の軍事行動(ソー、ピエールフィット、オート=ブリュイエール、ビトリ、シュビイなど)の失敗がこの民衆の不安と不満を更に煽り立て、人々は中心街8区の東端・コンコルド広場のストラスブール擬人像前(9月末の開城まではストラスブール市の包囲を受けて人々が集まり祈を捧げていました)で政府非難の集会を催し、再三に渡って広場に隣接するチュイルリー宮殿やルーブル宮殿前に押し掛け抗議の声を上げていました。民衆は急進左派グループのアジテーターが音頭を取る「シャスポー銃を渡せ!」「帝政や王党派の残党を政府から追い出せ!」「パリ市議会の選挙を行え!」などの主張を声高に叫び、デモ行進を行います。

 トロシュ国防政府側も次第にこれを捨て置くことが出来なくなり、穏健なパリ市民呼ぶところの「暴動マニア」(モノメニア・ドゥ・レムゥット)を押さえ込む方針を立て、10月8日、9月政変以降に臨時召集された護国軍新兵4,000名余りが武器を手に「自治市政万歳」を連呼しながら市庁舎を取り囲んだ時には、政府側に忠実な護国軍部隊を突入させて力任せで解散させるという一大衝突も発生するのです。

 トロシュ政権側はこれら「暴動マニア」の首謀者を必死に探索しますが、元より彼ら反体制派は下層民衆の中に紛れ込んでおり発見することは叶いませんでした。

 こうして街角では政府側の国民衛兵や護国軍兵士が睨みを利かせ、時折正規軍兵士たちも姿を見せて示威行動を行いますが、下層民を中心に発生する騒動がなくなることはありませんでした。


挿絵(By みてみん)

コンコルド広場

(手前にストラスブール像、奥にオベリスク)


 10月となってもトロシュ将軍はパリを囲む独軍に対し連戦連敗となり、それまでは「暴動マニア」に釣られず黙していた人々の間にも政府に対する不信・不満が高まって行きます。そしてメッスが陥落し、ラ・マルメゾンとル・ブルジェで行った目立つ攻勢も独軍に跳ね返され、更に7週間に渡って欧州を歴訪しフランス支持を取り付けようとしたティエールが「手ぶら」で帰還した後に独と交渉する(後述)ことがニュースとなって連続的に伝わると、パリ市民の怒りが遂に爆発するのです。


 王党(オルレアン)派ではあるものの現実を直視し共和党穏健派とも妥協する元・首相の大物政治家、ルイ・アドルフ・ティエール氏は、国防政府の外務大臣ジュール・ファーブルより「ヨーロッパを外遊し、主要国にフランスの状況を説明して和平に一枚噛んで貰えるよう交渉して頂きたい」との要請を受け、パリ包囲前の9月12日頃、まずはイギリスへ旅立ちます。この頃は国防政府が成立したばかりで、ファーブルは同時にビスマルクに対し会談を要請していました(フェリエール会談)。

 しかしティエールと会見したイギリス首相ウィリアム・エワート・グラッドストンは「開戦責任は明らかに仏側にあり、帝政が倒れたのは当然」として、和平仲裁に関しては「まずは独側と交渉し和平に向かうとの合意が前提」とにべもありませんでした。世論も同情こそあれ未だ「プロシア贔屓」(英王家はドイツ系でヴィクトリア女王の長女は普皇太子の后です)が多く、これ以上の成果は望めないと諦めたティエールは20日にイギリスを発ち、一旦帰国しました。

 ところが、パリは独軍に包囲されており、彼はそのままトゥールに出来たという政府の派遣部へ向かうことにします。しかしトゥール派遣部も立ち上がったばかりの混乱の最中で、この大物政治家の相手をする者はありませんでした(ガンベタがやって来るのは10月9日)。ティエールはここでパリから脱出していた家族と再会しますが、同時にフェリエール会談の結果も知り、急ぎイタリア経由(イタリア王国は教皇領問題のため後回し)でウィーンに向かいました。

 22日にウィーンに着いたティエールは、オーストリア=ハンガリー帝国宰相フリードリヒ・フェルディナント・フォン・ボイスト伯爵とハンガリー王国首相アンドラーシ・ジュラ伯爵両名と会見しますが、ここでも「自らは動かない」と仲裁を断られ、ティエールは続いてロシア帝国に向かいます。

 9月28日にサンクト=ペテルブルクに現れたティエールは10月9日まで滞在し、アレクサンドル2世皇帝や外相アルクサンドル・ゴルチャコフ公爵と会見しますが、元よりロシアは「プロシア寄り」(クリミア戦争以来の仏への怨念)であり、皇帝と普王ヴィルヘルム1世は甥と伯父(アレクサンドル2世の母アレクサンドラがヴィルヘルム1世1歳年下の実妹です)の血縁関係もあり、更に仏の新政権が皇帝の大嫌いな共和派であることなど、交渉は端から難しいものでした。

 結局ティエールの得たものは、アレクサンドル2世から「普軍と交渉する時の用意として」渡された信認状だけでした。

 ティエールはロシアを後にして再び西へ向かい、歴訪の最後に隣国イタリアのフィレンツェへ立ち寄りました。しかしイタリア王国も同情こそすれ和平交渉の矢面に立つ気は無く、結果ティエールは10月21日にトゥール派遣部に戻ったのでした。

 

 派遣部の意向は、実権を握るガンベタこそ立ち上げた新軍を鍛えてパリの独軍を背後から襲うと息巻いていましたが、現実(オルレアンがバイエルン軍に占領され「シャトーダンの悲劇」が発生した直後。シャルトルは正にこの21日に陥落しました)を見れば「パリ在の国防政府の同意があればビスマルクとの直接交渉もやむを得ない」というもので、ティエールはロシア皇帝の信認状を手にパリに向かうのでした。


 パリ包囲網の南から接近したティエールは10月30日(正にル・ブルジェの戦い最中)に信認状の効果でベルサイユに赴き、この時は和平に関する話を伏せてビスマルクと短時間「世間話的な」会見をしています。ここでメッスの陥落を知らされたティエールは急ぎパリに向かい、深夜、外務省でル・ブルジェ敗戦の報を受け意気消沈するトロシュやファーブルたちに対し、「歴訪した各国の反応は薄く、また各国首府のみならず地方の有力者と会談しても同情こそすれ支援を取り付けることは出来なかった」「トゥール始め地方は和平を期待している様子である」との主旨の報告をします。

 トロシュら国防政府首脳は包囲下で部分的な情報しか得ておらず、直接「見聞」して来たティエールの言葉は「千鈞の重み」があって、特に地方の厭戦的有様は衝撃を与えました。ファーブルはティエールに歩み寄ると「ベルサイユでビスマルクと選挙中の休戦について会見し、相手の出方を探って欲しい」と頼みます。同時に会議は、このティエール氏の歴訪と対独交渉(決して和平のためではなく選挙のための休戦交渉)の開始、メッスの陥落とバゼーヌ軍の降伏、ル・ブルジェの戦いの結果などを官報で「正直に」市内へ伝えることも決します。


 翌10月31日の早朝。官報や新聞各社の速報(壁新聞)を読んだパリ市民は、これらの「衝撃的事実(「三つの衝撃」と呼ばれます)」からトロシュ政権の首脳陣を「無能」、更には「反逆者」呼ばわりし始め、この不満爆発を見た老革命家ルイ・オーギュスト・ブランキやルイ・シャルル・ドレクリューズ(後のパリ・コミューン指導者の一人で直後に下町の第19区区長となります)を始めとする急進左派の人々(第一インターナショナルの指導下で「パリ二十区共和主義中央委員会」が作られ、政府を監視していました)は再び「怒りの火」の延焼を謀り、9月政変でパリ第18区区長となっていたドイツ嫌いの若きジョルジュ・バンジャマン・クレマンソー(第1次世界大戦後半の仏首相で当時29歳になったばかり)は「ティエール工作」に怒り心頭、モンマルトルの壁に「18区は政府が休戦交渉を行う裏切り行為に対し断固抗議する」と大書した紙を張り出したのです。


挿絵(By みてみん)

クレマンソー(1870年代)


挿絵(By みてみん)

ドレクリューズ


挿絵(By みてみん)

ブランキ


 この日の午前中、「パリ二十区共和主義中央委員会」の委員たちは郊外で集会を開き、「独への抗戦続行と政府の退陣」を要求することに決し、委員たちは下層民の多いパリ東部で自然発生的に集まった群衆によるデモ行進を指導してパリ中心シテ島対岸の市庁舎(オテル・ドゥ・ヴィル)を目指して進みました。これには途中多くの市民や国民衛兵が参加し行列は長く広く膨れ上がりました。ファーブルはティエールをベルサイユに赴かせるため不在でしたが、その他の国防政府首脳陣(トロシュ、ジュール・フェリー、ジュール・シモン、エマニュエル・アラゴ、エルネスト・ピカードなど)はこの危機を受け、事態収拾のために市庁舎に集まります。

 パリ二十区共和主義中央委員会の委員たちは居並ぶ政府首脳に対して、「現政府の廃止」と「市会議員選挙の実施」を求め迫りました。その交渉にはパリ市長のアラゴ、トロシュ将軍のほか無任所相のルイ・アントワーヌ・ガルニエ=ページと陸軍大臣アドルフ・シャルル・エマニュエル・フロ将軍も加わり、最初は「穏やかに」始まりますが、時間が経つ毎に市庁舎を取り囲む市民たちが痺れを切らせて騒ぎ出し、状況は悪化の一途と見切った財務相のピカードは独り密かにその場を離れるのでした。


挿絵(By みてみん)

ピカード


 午後4時、ギュスターブ・フルーランス率いる「ベルビル義勇兵(テュライヤール)」大隊と暴徒と化した一部群衆が市庁舎内に乱入し、これはなし崩しに暴動に発展、そもそも周辺の治安警備に派遣されていた護国軍数個大隊もこれに流されて加担してしまい、市庁舎は市民たちに完全に占拠されてしまいます。

 暴徒は建物の窓を破壊して回るなど一時は騒然となりましたが、市庁舎に元々配置されていた政府に忠実な護国軍3個中隊は、民衆が駆け込んで来るのを見たトロシュ将軍により直ちに撤退させられていたため、この時は流血の惨事は起きていません。当時、市庁舎の警護隊は「人民に向かって武器を使用してはならない」と釘を差されていました。

 政府高官の多くはこうして武装した市民たちに捕まりましたが、前述通りピカード大臣は混乱に乗じて脱出に成功しました。


挿絵(By みてみん)

フルーランス


 群衆が騒然とする中、暴徒を背景に委員たちは「コミューン(自治政府)の成立を」と迫り、フルーランス隊長はテーブルの上に土足で立つと「公安委員会」(かのギロチンを連想させる悪名高い革命下の統治機構)の成立とそのメンバーのリスト(ブランキやドレクリューズ、フルーランス自身の名前もありました)をトロシュ将軍らに突き付け「コミューンを創設する討議を開始する」と宣言したのです。トロシュ将軍は退陣を拒否しますが選挙の実施については認めました。この後の討議は双方怒号が飛び交う大混乱の有様となり、事態は混沌として行くのです。

 同じ頃、シテ島アルレ通りにあったパリの警察本部(当時は仮庁舎でコミューン鎮圧後に現在の場所へ移動します)には急進左派のラウル・アドルフ・ジョルジュ・リゴーが数百人の国民衛兵と共に押し掛けて「無血占領」しています。


挿絵(By みてみん)

ラウル・リゴー


 市庁舎から逃走したピカードは急進左派主導の暴徒を鎮圧するために奔走します。パリ市街には急を告げるラッパが鳴り響き、政府側の衛兵たちが要所を固めました。

 しかしこの「革命」は、包囲に疲れたその他大勢の一般市民には受け入れられず、賛美の声を上げた者は最下層の人々だけでした。「革命」は下町以外の市中に広がらず、軍もまた政府側に付いていたのです。


 午後8時になると政府側の護国軍数個大隊が市議会を囲む群衆を排除し始め、その内の2個中隊は兵営からパリの有名な地下通路(石切り場の坑道や上下水道)を辿って議事堂内へ突入します。そして深夜に議事堂は内側から開かれ、護国軍部隊が鎮圧に入りました。トロシュら政府高官は解放され、暴徒と化した民衆は我に返って武器を捨て投降するもの、逃走するもの、逮捕されるもの様々で、大混乱の中、騒動は収まるのです。

 午前3時。ファーブルは抗議のため留まっていた中央委員会の委員と多数の民衆に選挙実施を約束し、また本日の逮捕者を即釈放し報復もしないことも約束しました。市民らはようやく市庁舎を離れ帰宅したのでした。


挿絵(By みてみん)

パリ市庁舎(19世紀)


 この「10月31日蜂起」によりアラゴ市長は責任を取る形で辞任し、後任は既に9月政変でセーヌ県知事となっていたジュール・フェリーで、市長を兼務することになり、今後クレマンソーら左派系の区長たちと様々な形で争うことになります。また、ファーブルの約束はトロシュ将軍らによって一部が反故にされ、極左のメンバー14人に逮捕状が出されると、ブランキやフルーランス等は逮捕を逃れて地下に潜行するのでした。


挿絵(By みてみん)

アラゴ


挿絵(By みてみん)

ジュール・フェリー


 「蜂起」の翌朝。パリ西郊のベルサイユでは別の重要な会議が行われていました。

 ティエールは再び包囲網から出てベルサイユに向かい、ビスマルクと会見していたのです。

 会談は早朝から始められ、結局は断続的に(粘り強く?)4日間も続きました。しかし、結論から言うと全くの徒労に終わるのです。


 まず、ティエールは国防政府が望んだ3つの要求をビスマルクに示します。

「25日間の休戦を実行」

「休戦と同時にパリへ食料を搬入」

「休戦の25日間で仏は選挙を行い、新議員による国民議会を開催、正式な政府を樹立」


 これに対しビスマルクは食料補給の条件として、フェリエール会談でも条件としたパリ周辺の外堡(モン=ヴァレーリアンやビセートルなど)を独に引き渡す(食料補給はモルトケらが猛反対するだろうから「堡塁はその代償としての提案」とします)、選挙の実施は認めるが「その条件は被選挙権を一切制限しないこと」として、共和派や穏健左派以外でも(つまりは帝政期の議員・閣僚たちも)立候補を可能とせよ、と迫りました。

 目先のことも決まらないものですから、休戦・選挙後の和平交渉についてはざっくりとした意見交換しかなかった、と言われます。しかしビスマルクからは、アルザス=ロレーヌの割譲と50億フランという膨大な賠償金の要求が示されました。


 この強気で一歩も引かないビスマルクの態度に、ティエールもこれ以上話し合うことはない、として引き上げます。ティエールとしてはトロシュ政権が「パリ外堡の放棄」など絶対に認めないはず(これまでの要塞攻囲を見てもお分かりの通り、この外堡のある・なしで要塞都市の攻略は大きく左右されます)であるし、トゥール派遣部のガンベタが独に向けた刃を簡単には下ろすはずもなかったのです。

 しかしこの4日間の会見で得たものが双方ひとつありました。それはティエールとビスマルクの間に生まれた、プロがプロに対して抱く「共感」で、互いの立場(自分と意見を異とする者も多い政府を代表し、互いの国の利益を少しでも増やそうと努力する姿)からお互い「いつかは話し合って妥協点を探ることが出来る人物」と認め合うのでした。これは戦争の終末期に至った時、実に大きな意味を持ったのです。


 ティエールは包囲網境界のセーブルからセーヌを渡り、その橋の袂で密かに待っていたファーブルにデュクロ将軍と話し合います。ティエールは、独側は強硬であちらの条件を受け入れない限り交渉の先はない、と語り、落胆したファーブルとデュクロはパリに帰って結果をトロシュらに話し、国防政府は「最早交渉に望みはない」としました。

 ティエールはベルサイユのビスマルクの下に戻り、普大本営に宛てたパリ国防政府からの電信(パリ~ベルサイユ間の電信線は切られず残っていました)で、「以降交渉はしない」との意志が伝わるとトゥールに向けて旅立ちます。

 その後ティエールはトゥール派遣部のガンベタとも不仲となり、南仏に去って行くこととなります。


 パリでは11月4日、約束された選挙(全20区の区長選挙と現政権の信任投票)が行われ、トロシュ国防政府は信任され区長も穏健派の人物が多数当選しますが、労働者・職人の多い下町の区では逮捕された急進左派の闘士が当選したり、第一インターナショナルに関係する人物が当選したりして、左派も侮れない数の区長を当選させています。

 しかし、現実のパリは和平の望みも消えて無くなり、最早「独憎し」で戦い続けようとする「声高な」一派に引き摺られているだけ、と言った状況になりました。意気消沈した市民たちには厭戦気分が蔓延し始め、季節が冬に向かうこの時期、遂に備蓄食料も尽きようとしており、飢餓が始まろうとしていました。

 ところがこの最悪の状況下、11月の二週目に入ると突然首都に朗報が舞い込むのです。それは「ロアール軍の大勝利」というパリ市民が夢にまで見ていたニュースで、これで一気に厭戦気分は薄れ、市民も国防政府も再び闘志に火が点くのでした。



 ※ 以前にも記しましたが、本作はプロシア王国とドイツ帝国の軍事面中心に描いて行くため、当時のフランスの政治、経済、民衆の生活は必要最低限しか示しません。

 戦争当時のパリの政情や包囲下の市民については、実に詳細な研究をなさっている横浜市立大学松井道昭名誉教授のブログをご覧ください。また、渡正元・著、真野文子・現代語訳の「巴里籠城日誌」も、当時包囲下にいた日本人の目を通してパリの実相が見えて来る貴重な資料となります。


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