独第一・第二軍、シャンパーニュへの行軍
☆ 独第一軍の前進(11月15日まで)
独第一軍主力は11月7日、メッス西郊より遂に前進を開始し、翌8日にはエテン(メッス/大聖堂の北西40.5キロ)を挟んで北のスパンクール(ベルダンの北東27.8キロ)と南側フレンヌ=アン=ヴォエヴル(同東南東19.3キロ)に達します。
この時、普第8軍団は軍本営と共にあり左翼(南)側に、普第3旅団と第1軍団砲兵は右翼(北)側にありました。この時には既に普第1師団と普騎兵第3師団(普第15師団の一部と同道)は本隊から離れて別動(後述します)しています。
普第8軍団と共に行軍中の軍司令官、エドウィン・フォン・マントイフェル騎兵大将は、このエテンでベルダン陥落の報を受け、これで後顧の憂いなく西へ進めることになりましたが、この日の夜、在ベルサイユの普大本営から(またもや)一通の命令書が届くのです。
そこには「第一軍は(シャルルヴィル=)メジエール要塞の攻囲を単独で実施せよ」とありました。命令には続きがあり、その主旨として「第一、第二軍がメッスより暫時前進することで、現在直接敵と対峙している後備部隊の任務を順次正規野戦軍が引き継ぎ、後備部隊には占領地の守備と兵站維持の任務に限定して行わせるよう」求めていたのです。
元よりこの命令書は10月31日にベルサイユから送付されたものでしたが、野戦郵便の遅延によってようやくマントイフェル将軍の手元に届いたものでした。
マントイフェル(1870年)
同時に10月31日発令の大本営令では、野戦軍と後方兵站総監部、そして各総督府に配属されていた部隊(正規軍含む)の配置転換も告げられます。
これにより、独第一軍の兵站総監部に属する部隊は、普軍の「ザンクト=ヴェンデル」後備大隊(後備第30「ライン第4」連隊所属)に予備驃騎兵第6連隊の第1中隊だけとなってしまいました(移動する戦闘部隊と各総督府が責任を持つ後方連絡線末端までの短い区間のみを守備範囲とするためです)。
また、各軍の兵站総監部と総督府の所属部隊数は次のように定められます。
○ 独第二軍兵站総監部/歩兵4個大隊・騎兵2個中隊
○ 独第三軍(在パリ西・南方)兵站総監部/歩兵16個大隊・騎兵9個中隊・砲兵2個中隊
○ 独マース軍(在パリ東・北方)兵站総監部/歩兵4個大隊・騎兵2個中隊
○ エルザス総督府/歩兵23個大隊・騎兵9個中隊・砲兵2個中隊半
○ ロートリンゲン総督府/歩兵20個大隊・騎兵6個中隊・砲兵2個中隊
○ ランス「占領地」総督府/歩兵17個大隊・騎兵4個中隊・砲兵3個中隊
この変更命令を受けたランス「占領地」総督府からは、「現在、メジエール要塞都市を包囲している後備第2師団の諸隊を、速やかに他の戦闘部隊により交代させて欲しい」との意見具申が出されます。これはメッス開城によって野戦軍が増加するため、それを見込んでの要求でした。
元より「後備部隊」とは、選抜徴兵から外れた者や予備役を終えた「老兵」、そして普墺戦争後に廃止された旧「ラントヴェーア」(郷土軍)の兵士から構成されており、あくまで野戦軍の「補助」、後方兵站関連任務や捕虜の取り扱い、占領地や要地の警備に使用する部隊です。野戦部隊には別に「補充部隊」が用意されており欠員の補充はそこが行うので、「後備」部隊は最前線に出て戦う想定で作られていません。せいぜい敵の籠もる要塞や都市を「包囲」するまでで、そこを攻める「攻囲・攻城」は本来野戦軍と「要塞」と冠の付く部隊の仕事でした。
戦争が急展開して急激に戦場が拡大した8月末~10月末までは野戦軍の数と補充が戦域に対し広大に過ぎて間に合わず、やむを得ず後備部隊に要塞を警備していた正規軍部隊を付け、「予備」という名に「昇格」させ前線に送り出していた大本営でした。それでも数が足りず、本来なら内国警備にしか参加させないような「弱い」後備部隊まで戦場に駆り出されていた(メジエールやベルダンを囲んでいた部隊など)のです。
しかし、メッスが陥落して19万を号する戦闘兵員(実質14万ほど。戦傷・戦死より赤痢等病気による欠員が数倍多くありました)が別方面で使えるようになると、後方の面倒を見ている総督府としては、後備部隊については今後ますます増えるだろう広大な占領地を守るためにも、本格戦闘時での信頼度も劣る「弱兵」の後備部隊を下げ、代わって「戦闘が本職」の野戦軍に任担して貰いたくなるというものです。
結果、大本営は先の命令(後備部隊の任務限定)を発した訳で、フォン・マントイフェル将軍もメジエール要塞の攻囲をランス占領地総督府に代わって自ら実行しなくてはならなくなったのでした。
これによってルテルに向かって行軍中の普第1師団は、「既に包囲網にある後備部隊への援助」ではなく「要塞を自ら包囲攻撃する」任務に変更されメジエールへ向かうこととなります。
師団には普第1軍団工兵の架橋縦列が合流し、ストゥネ付近でモンメディ要塞からやって来た仏軍の斥候隊を駆逐した後、11月9日にムーズ川を渡河してボーモン(=アン=アルゴンヌ)に入り、翌10日にはル・シェーヌ(セダンの南南西24.8キロ)に至りました。この街で前述の命令を受け取った師団長のゲオルグ・フェルディナント・フォン・ベントハイム中将は、11日、目標を当初のルテルからブルジクール(シャルルヴィル=メジエールの南7.6キロ)へ変更し、ヴォンス河畔のポワ=テロン(メジエールの南南西13キロ)に進みました。この時、ランス占領地総督府から届いた通報によれば「ブルジクールには既に要塞攻城砲の一部が届いている」とのことでした。
師団は12日、全軍休養を命じられたため休みますが、翌13日、ブルジクールに向けてまずは旅団毎に前衛を送り出し、その内普第1旅団前衛の普第41「オストプロイセン第5」連隊は、ブルジクールの北方でメジエールから偵察に出ていた仏軍と交戦しました。この時は短時間で双方離れ後退しています。
一方、普第2旅団前衛となった普第43「オストプロイセン第6」連隊・普竜騎兵第1「リッタウエン」連隊の1個中隊・師団砲兵の1個中隊はセダン西方郊外のドンシュリーに向かい、ここでムーズ川を渡るとメジエールに東側から接近しました。
翌14日。師団主力もブルジクールに進み、その後前衛と合流し夕方までに普第1旅団は西側、普第2旅団は東側からメジエール要塞を包囲し始めるのです。
普第1旅団はこの時、ソルモンヌ川(メジエール西郊外のヴァルクでムーズに注ぐ支流)の渡河点を占領して要塞西郊における南北の交通を確保し、仏白(フランス=ベルギー)国境の要衝、ロクロワ(ヴォーバンの星形要塞です。ブルジクールの北北西28.5キロ)の監視にも一隊を送り出したのでした。
普第1師団がブルジクールでメジエール要塞の包囲を完成した頃、親部隊の独第一軍諸隊もまた順調に距離を稼ぎ、普第8軍団はベルダンの北方でムーズ川を渡ると、この行軍列にはベルダン攻囲を終えた普猟兵第8「ライン」大隊、第8軍団工兵2個中隊、普第65「ライン第5」連隊が合流しました。
なお、本来第29旅団(普第15師団)に所属しベルダンに残った第60「ブランデンブルク第7」連隊は、ロートリンゲン総督府麾下だった普第65連隊が第29旅団に加わった代わりとして同総督府配下とされます。ロートリンゲン総督府は11月4日、普大本営令により管区を西に拡張され、仏ムーズ県(北はベルギー国境に接しモンメディ、ストゥネ方面からベルダン、サン=ミエルを経て南はリニー=アン=バロア周辺まで。県都バール=ル=デュク)も管内とされていました。
普第8軍団は11月11日、サント=ムヌーとヴィエンヌ=ル=シャトー(サント=ムヌーの北11キロ)の間、アルゴンヌの森西端に達し、普第1軍団の一部(第3旅団と第1軍団砲兵)はビュザンシー(セダンの南30.5キロ)に到着します。
普騎兵第3師団はアルゴンヌの森で義勇兵の出没情報を得て討伐を行っていましたが、山地をくまなく捜索したものの敵を発見することが出来ず、第一軍が同地に到着したことで任務を解かれ、師団は第一軍の南北両翼に分かれ行軍することとなりました。騎兵と共に行動していた普フュージリア第33「オストプロイセン」連隊と普第15師団砲兵(野戦砲兵第8連隊第1大隊)の軽砲2個(第1,2)中隊はこの際に師団へ復帰しました。
これまで多方面に部隊を割いていた普第8軍団も残すところ歩兵1個連隊を欠いただけとなります。その第28「ライン第2」連隊はザクセン王国(S)架橋縦列とメッス西のモーゼル河畔に残留していましたが、この2日前の9日、メッス近郊を出発して本隊を追っています。
独第一軍はこれでシャンパーニュの平原へ入り、11月15日、左翼(南)が目的地のランス、右翼(北)がルテルへ到着したのでした。
一方、ラ・フェール要塞包囲の命令を受けて軍から離れた普第4旅団は、11月6日よりポンタ=ムッソンから鉄道輸送でソアソンへ向かいますが、途中列車の渋滞と運行障害が重なって行軍は大いに遅れ、この15日、漸くラ・フェール要塞の包囲を開始するのでした。
※独第一軍の行軍経路(司令部の位置。1870.11.2から11.15/ランス、ルテル到着、メジエール包囲まで)
○11月2日
・第1師団 ヴォワピー
○3日
・第1師団 ブリエ(メッスの北西22.4キロ)
○4日
・第1師団 スパンクール(ベルダンの北東27.8キロ)
○5日
・第1師団 休息日
○6日
・第1師団 ダンヴィエ(ベルダンの北20.3キロ)
○7日
・軍本営 コンフラン(=アン=ジャルニジー。メッスの西北西24.2キロ)
・第1師団 ストゥネ
・第3旅団と第1軍団砲兵 ブリエ
・第8軍団 ジャルニー(メッス西北西21.6キロ)
・騎兵第3師団 アルゴンヌの森(ベルダンの西30キロ周辺)で捜索中
○8日
・軍本営 エテン(ベルダンの東北東19.7キロ)
・第1師団 休息日
・第3旅団と第1軍団砲兵 スパンクール
・第8軍団 フレンヌ=アン=ヴォエヴル(ベルダンの東南東19.3キロ)
・騎兵第3師団 アルゴンヌの森
○9日
・軍本営 コンサンヴォワ(ベルダンの北北西15.9キロ)
・第1師団 ボーモン(=アン=アルゴンヌ)
・第3旅団と第1軍団砲兵 ダンヴィエ
・第8軍団 サモニュー(ベルダンの北11キロ)
・騎兵第3師団 アルゴンヌの森
○10日
・軍本営 ヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ。サント=ムヌーの北東18.4キロ)
・第1師団 ル・シェーヌ(セダンの南南西24.8キロ)
・第3旅団と第1軍団砲兵 デュン(=シュル=ムーズ。ストゥネの南11.9キロ)
・第8軍団 ヴァレンヌ(=アン=アルゴンヌ)
・騎兵第3師団 アルゴンヌの森
○11日
・軍本営 ヴィエンヌ=ル=シャトー(サント=ムヌーの北11キロ)
・第1師団 ポワ=テロン(メジエールの南南西13キロ)
・第3旅団と第1軍団砲兵 ビュザンシー(セダンの南30.5キロ)
・第8軍団 ヴィエンヌ=ル=シャトー
・騎兵第3師団 オートリー(サント=ムヌーの北20キロ)
○12日
全軍休息日
○13日
・軍本営 シュイップ(サント=ムヌーの西26.6キロ)
・第1師団 ポワ=テロン
・第3旅団と第1軍団砲兵 ヴージエ
・第8軍団 スアン=ペルト=レ=ユリュ(シュイップの北6キロ)
・騎兵第3師団 サン=モレル(ヴージエの南6.7キロ)
○14日
・軍本営 ランス
・第1師団 ブルジクール(シャルルヴィル=メジエールの南7.6キロ)
・第3旅団と第1軍団砲兵 アティニー(ヴージエの北西12.5キロ)
・第8軍団 チュイジー(ランスの南東16キロ)
・騎兵第3師団 ジュニヴィル(ルテルの南12.4キロ)
○15日
・軍本営 ランス
・第1師団 ブルジクール
・第3旅団と第1軍団砲兵 ルテル
・第8軍団 ランス
・騎兵第3師団 タニヨン(ルテルの南西9.5キロ)
独第一軍の行軍(11月上旬)
独第一軍司令官フォン・マントイフェル将軍とその本営は11月14日、軍に先行してランスに到着し、将軍はランス占領地総督府を表敬訪問すると総督のアドルフ・ルイス・フォン・ローゼンベルク=グルシュティンスキー中将と会談を行います。この会合で、今後の独第一軍がオアーズ川へ向かう行軍の準備を取り決め、仏白国境沿いのアルデンヌ地方に残る仏の国境要塞群攻略に関する部隊配置を決定しようとしました。
ところが、またもや普大本営からマントイフェル将軍宛ての命令が届き、それによれば、「メジエール要塞攻囲用の火砲は先にラ・フェール要塞攻略に使用される」ので「メジエールの攻囲にはベルダン攻囲に使用された火砲を運搬して使用せよ」、と命令されるのです。
しかし、これは文字通り「言うは易し、行うは難し」の「机上の空論」で、ベルダンからシャルルヴィル=メジエールへ攻城砲を運ぶには、ベルダンからクレルモン=アン=アルゴンヌまで泥濘に沈む街道(現・国道D603号線)を馬匹で運送し、ここから部分開通している鉄道(ランスへの後方連絡線)で運ぶこととなるので、メジエールの包囲網に設置出来るまで数週間は掛かると同時に相当数の人員を割かねばならない計算となります。
この命令に少々「苛立った」マントイフェル将軍は、メジエール包囲中の普第1師団に対し「攻城砲の包囲網到着まではメジエール要塞に対する行動を一切中止とし、絶対に砲撃を行ってはならない」と厳命するのでした。更に将軍は「メジエールに対しては、ブルジクール方面(南)に部隊を再展開し、同時にロクロワとジヴェ(メジエールの北41キロ。ベルギー国境に面する要塞です)の監視を行いつつ、この方面を担当する部隊は暫くの間、先にオアーズ川方面に進む我が軍の後方連絡線防衛に努める」との方針を達したのでした。
この時、先に普第7軍団のハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将に命じてあった普予備第3師団の「諸兵科混成戦闘団」(普第19「ポーゼン第2」連隊・普第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊・予備竜騎兵第1連隊・予備驃騎兵第3連隊・第5軍団予備砲兵3個中隊)がブリエまで前進した、との報告が入って来ました。マントイフェル将軍はこの部隊にメジエールまでの前進を命じて先の任務(仏白国境要塞群の監視)を与えることに決め、現在メジエール要塞を包囲している普第1師団を後方に下げて主力と合流させることにするのでした。
将軍は、今後攻城砲が使用可能となった際の「メジエール攻囲」もメッスのツァストロウ将軍に任せ、先に軍への編入を命じて貰い受けるつもりだった予備第3師団の「諸兵科混成戦闘団」はツァストロウ将軍麾下へ返すのでした。
こうしてマントイフェル将軍は、大本営が命じた「オアーズ川までの前進展開」を独第一軍がいち早く達成するため、後方の「厄介事」(ティオンビル、モンメディ、メジエールの攻略)全てをツァストロウ将軍に「丸投げ」してしまうのです。
そんなこととはつゆ知らないフォン・ツァストロウ将軍はその頃、ようやくメッスの仏軍捕虜護送に目処を付け、メッス周辺の捕虜収容所を閉じている最中で、後方へ捕虜を護送して行った諸隊も続々とメッスへ引き返していました。
将軍は今後、これらの部隊が帰参した暁には当初の命令通りティオンビルとモンメディの包囲を開始しようと考え、ティオンビルには普第14師団主力を充て、モンメディには第13、14両師団から歩兵5個大隊・騎兵4個中隊・砲兵1個中隊を抽出して支隊を結成し当たらせることを計画しました。モンメディを包囲する支隊には「3国国境」のロンウィーを監視する任務も与えます。残りの第13師団主力はメッスとその周辺の守備と治安に従事することになりました。
本隊が遙か先へと離れてしまった第一軍兵站総監部も、ようやくメッス攻囲の後始末を終え、本隊への糧食と兵站物資輸送の段取りを付け、更にメッス駐屯部隊の事務処理を終えると、急ぎランスへ出立して行ったのです。
☆ 独第二軍の前進(11月10日まで)
独第二軍は、メッスが開城(10月28日)した直後から10月23日発令の大本営命令の実行を開始し、司令官フリードリヒ・カール親王元帥は、「11月11日までにトロワ及びショーモン周辺へ到達し、必要に応じてショーモンを拠点にフォン・ヴェルダー将軍の独第14軍団を援助する」との方針を定めました。
メッス郊外のカール王子
最初にメッスを離れたのは10月29日にモーゼル川東岸の陣地からブリエへ移動した普騎兵第1師団で、その2日後、軍の行軍右翼(北西)となったアルベルト・エーレンライク・グスタフ・フォン・マンシュタイン歩兵大将率いる普第9軍団も行軍を開始、途中普騎兵第1師団と合流すると11月2日、サン=ミエル付近でムーズ川に達し渡河します。
その一日遅れでメッスを離れ軍中央となった普第3軍団はこの日(2日)、更にムーズ上流のコメルシー(ポンタ=ムッソンの西南西37.3キロ)に到達し、翌3日、軍本営の到着を待ってからムーズを渡河しました。
軍左翼(南東)の第10軍団主力は同2日、メッスを発してポンタ=ムッソンに入ります。この出立前、軍団長のコンスタンティン・ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将はマントイフェル将軍から「第1師団がメジエール包囲を命じられメッスから去るので、一個旅団でサント=バルブの捕虜の面倒を見て欲しい」と依頼されました。フォークツ=レッツ将軍は麾下の普第40旅団に普竜騎兵第16「ハノーファー第2」連隊第4中隊と野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊軽砲第4中隊を付けてサント=バルブに派遣します。この支隊は4日、任を後備部隊に引き渡すとサント=バルブを離れ本隊を追って南方へ向かいました。
一方、エデュアルド・フリードリヒ・カール・フォン・フランセキー歩兵大将率いる普第2軍団の残部は、10月26日から末日までの間に先行してパリ方面へ輸送された普第4師団を追う形でパリ包囲網へ向かうことになります。
この普第3師団本隊は、11月3日から8日に掛けて鉄道輸送でナンテュイユ=シュル=マルヌ(ソアソンの南45.4キロ)へ移動し、そこから陸路パリの包囲網へ向かいます。残る普第14「ポンメルン第3」連隊、普竜騎兵第3「ノイマルク」と第11「ポンメルン」連隊の6個中隊、軍団砲兵6個中隊、そして輜重の一部はバール=ル=デュク~ヴィトリー(=ル=フランソワ)~セザンヌを経て陸路の後方連絡線(ほぼ現・国道N4号線)を行軍しパリへ向かうのでした。
メッスの勝利後、伯爵に叙せられたモルトケ参謀総長はこの時、カール王子に対し「今後の第二軍が担う任務について」親書を送付し、これは11月3日、コメルシーでカール王子に手渡されました。
この手紙の主旨によると「カール王子の麾下部隊は主任務として敵の新軍団結成を阻止し、生まれたばかりの新軍団はこれを潰し解散させることに努めること」とされ、「今後の状況次第で追加されるだろう任務を後回しとして、まずはブールジュ、ヌベール、シャロン=シュル=ソーヌ(トロアからそれぞれ南西184キロ・南南西160キロ・南南東178キロ)の占領を優先することを希望する」とありました。モルトケは「これらの各地には各1個軍団を派遣すればその周辺に集合する敵新軍団を撃破することが可能であろう」とするのでした。
これを見ても当時のモルトケは、パリの攻囲より南仏に雨後の筍の如く出現する仏「新軍団」を早期に排除することが最重要と考えていた(=非常に気にしていた)ことが分かります。
カール王子はこの書簡を読むと、麾下の進軍方向を「いかなる理由であろうとも」ブレさせずに進むことでモルトケの期待に応えようと決心するのでした。
しかし、この独第二軍の行軍は非常な困難に見舞われます。
独第二軍はメッス出発時に自軍が用意備蓄した以外の糧秣と物資を一切受け取ることが出来ず、また徴発しようにも周辺部では糧秣が尽きており、各軍団諸隊は携行する糧秣のみで行軍を強行するのでした(この直後に西へ進んだマントイフェル第一軍も同じ辛苦をなめることになります)。
そして携行する糧秣も無くなり、メッスから離れた2、3日後の行軍(ムーズ河畔到着以降)からは宿営地の宿主に糧秣を請い、また後続する殆ど空の糧秣縦列や補助糧秣縦列は、行軍路上に設置された倉庫で総督府の後備部隊等が徴発し集めた糧秣などを供給補充され、少しずつ充足して行ったのでした。
この、まるで綱渡りのような行軍は5日目を過ぎる頃には改善され、この頃から天候も回復し穏やかな秋晴れの日々となり、道路事情も「メッスの泥沼」より余程状態が良好だったため、メッス攻囲終了直後、まるで敗残兵のように疲弊し切っていた独軍将兵も、持ち前の明るさと健康を取り戻して行ったのです。
家族への手紙を書く普軍兵士たち
行軍に対する仏の抵抗も当初は全く行われず、独第二軍の行軍列先頭は11月6日、順調にマルヌ河畔へ至りますが、この、東はボージュ県、西はオート=マルヌ県に入った辺りから次第に「不穏な空気」が漂い始めました。行軍先に仏義勇兵の姿が散見されるようになり、通過する部落では武器を隠し持つ住民が増え、ラングルやショーモンから来たと思しき武装集団が「つい先ほどまでいた」形跡が明らかとなる空き地や部落の広場などが目立つようになるのです。この中で、トロアに向かいサン=ディジエの南方でマルヌを渡河しようとした普第3軍団の前衛は、ショーモンの北20キロ前後の地点で仏軍と衝突するに至ります。
レイマー・コンスタンチン・フォン・アルヴェンスレーヴェン中将率いる普第3軍団は、開戦初期のスピシュラン戦からマルス=ラ=トゥール戦まで厳しい戦いを経て損耗し、グラヴロット戦からメッスの包囲では第二線を守ることになるものの、蔓延した赤痢などの疫病によって更に傷め付けられ、包囲戦最終期のベルヴューの戦いでも犠牲を出してしまいます。それでも11月となって南西方向への行軍が始まると、軍団の将兵は久々の「運動」で体力も戻り、元気に行軍して行きました。
C・アルヴェンスレーヴェン将軍はコメルシーにて3日、「左翼支隊」*を編成し、この部隊をゴンドルクール(=ル=シャトー。コメルシーの南28.5キロ)を経てショーモン方面へ進ませます。
※11月3日の第3軍団「左翼支隊」
○普擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊・第2、F大隊
○普竜騎兵第2「ブランデンブルク第1」連隊・第1,3中隊
○普竜騎兵第12「ブランデンブルク第2」連隊・第3中隊
○野戦砲兵第3「ブランデンブルク」連隊重砲第1中隊
ベルヴューの戦いでも活躍した普第9旅団長、カール・ベルンハルト・フォン・コンタ大佐が率いることになったこの支隊は、本来ならこの左翼方面を進むはずの第10軍団が遅れているため、第3軍団の左翼側(同時に第10軍団の進路をも)を警戒することが任務でした。
「コンタ支隊」は4日、本隊と別れて南下しオルネン川上流に向かいますが、この日リニー=アン=バロワ(サン=ディジエの東北東28.2キロ)に至ったカール王子より更なる命令が届き、「ボローニュ(ショーモンの北10キロ)付近の鉄道分岐点と、出来ればショーモン西郊外の鉄道分岐(同市西3.4キロ付近)とその西側ブリコン(同西南西12.5キロ)の鉄道分岐を押さえよ」と、本来の目的以上の重責を負わされるのです。
これはリニー=アン=バロワで「仏軍はヌシャトー南西側の鉄道線上で立ち往生している多くの機関車及び列車を、ショーモンを介して南へ脱出させようとしている」との情報を得たカール王子がこれら車輌の奪取を目論み、更にショーモンからトロアに至る鉄道を無事に接収し自軍の連絡に使用しようという目算でした。
命令を受けたコンタ大佐は、11月5日、部隊をゴンドルクールへ至らしめ、翌6日、マルヌ河畔のフロンクル(ショーモンの北20.8キロ)に向けて行軍します。すると、先行した竜騎兵がマルヌ川に迫ると、渓谷となった川岸に向かってつづら折りに下る街道(現・国道D253号線)が鹿砦で封鎖されているのを発見しました。この鹿砦には仏兵が存在せず、竜騎兵たちは柴を片付けて進みますが、普竜騎兵が更にフロンクルに接近すると銃撃を浴び、更にプロヴァンシェール=シュル=マルヌ(フロンクルの北西2.3キロ)の小部落とその南方の高地尾根(フロンクルからは西)にも仏軍がいて、コンタ大佐はここで停留を強いられます。普竜騎兵が住民を尋問すると「強力な仏軍部隊がショーモンとラングルにいる」とのことで、この話の真偽はともかく、間違いなく仏軍の目立つ部隊が「この先」に存在することを悟った大佐は無理をせず、「まずは本6日中にジョインヴィレ(フロンクルの北15.9キロ)に達する予定の本隊と連絡を通してから事に当たろう」と考えたのでした。
このため、コンタ大佐は前衛としてフロンクルの東郊外高地で部落の仏軍と銃撃戦を行っていた擲弾兵第8連隊の第9,10中隊にそのまま後衛として銃撃戦を続行させつつ後退させ、支隊の前衛をマルヌ渓谷沿いに北上させヴィリエール(=シュル=マルヌ。フロンクルの北3キロ)で西岸へ渡河させるとギュモン(=シュル=マルヌ。同北5キロ)へ、残りをルヴロワ(=シュル=マルヌ。ギュモンの北1.8キロ)まで退避させるのでした。
コンタ大佐からの伝令によってジョインヴィレで事の次第を知ったC・アルヴェンスレーヴェン将軍は、同じくジョインヴィレに至ったカール王子の許可を得ると翌7日早朝、コンタ大佐の親部隊、普第5師団本隊を大佐の待つルヴロワへ前進集合させ、コンタ大佐には擲弾兵第8連隊の第1大隊を送って支隊を増強させると、マルヌの西岸を一気にショーモンまで強行軍させたのです。
この夜間にフロンクル周辺にいた仏軍は、全てマルヌ渓谷を遡りボローニュの南まで後退しており、部落南にある林(ボローニュの南2.7キロ付近に現存します)と、林の更に南2.5キロにあるブルトネ部落に籠りました。
しかし、部落を目標に普軍の砲兵が砲撃を開始すると、仏軍はたちまち壊乱して撤退し、林の仏軍も素早く両翼から包囲され、しばらくの間銃撃で抵抗しましたが、最後は普擲弾兵第8連隊第12中隊による突撃を受けて浮き足立ち、多くの兵が捕虜となったのでした。ここで夕方となったため、師団はボローニュ周辺で宿野営に入りました。
これと平行して普軍竜騎兵の1個中隊が強固に防衛されていると噂されていたショーモンに向けて西側から偵察を行いますが、騎兵中隊はビュキシエール(=レ=ヴィリエール。ショーモンの西7.7キロ)で仏軍の集団と遭遇し一斉銃撃を浴び、後退しています。
翌8日。C・アルヴェンスレーヴェン将軍は引き続き普第5師団に対しショーモンへの前進を命じ、師団はボローニュから一斉にショーモンへ前進を開始しました。
すると、昨夜までは存在したはずの仏軍は全て消えており、師団は全く抵抗を受けずにショーモンを占領し、西側のブリコン部落(例の鉄道分岐点があります)まで展開して、本来最右翼となってこの街を占領するはずだった普第10軍団を待つのでした。
一方、第3軍団の本隊(第6師団と軍団砲兵など)はジョインヴィレから西進し、この日はシレ=シュル=ブリーズ(サン=ディジエの南34キロ)に達しています。
普第10軍団本隊は7日にヌシャトー(ナンシーの南西52キロ)、9日にはアンドロ=ブランシュヴィル(ショーモンの北北東19キロ)に到着し、これでショーモンの普第5師団と連絡が付きました。師団長代理の普第10旅団長、クルト・ルートヴィヒ・アーダルベルト・フォン・シュヴェリーン少将(師団長のヴォルフ・ルイス・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中将は赤痢を罹患し入院中でした)はショーモンをフォークツ=レッツ将軍の前衛に任せ、本隊を追って西へ出立しました。その第3軍団本隊はこの日後衛をドゥルヴァン=ル=シャトー(ジョインヴィレの西南西17キロ)に置いて後方を固めると、本営と本隊がバール=シュル=オーブ(ショーモンの北西34.7キロ)まで前進しています。
一方、独第二軍の行軍右翼(北西)側では、普第9軍団と普騎兵第1師団が6日、モンティエ=アン=デ(サン=ディジエの南南西22キロ)に達し、盛んに騎兵斥候を発して進軍方向に横たわるオーブとセーヌ両川の渡河点を探らせました。これら騎兵斥候たちの報告では、「この先セーヌ河畔までは敵の存在なし」とのことで、8日、普第9軍団と普騎兵第1師団は前進を再開し、この日はブリエンヌ=ル=シャトー(トロアの東北東35キロ)に進みました。同時に普槍騎兵第12連隊の1個中隊を先行させ、この中隊は一気にトロア市に入城したのです。これに先立ち斥候として市内へ突入した普軍槍騎兵は街路で住民から銃撃を受け、午後に市庁舎を占領した中隊長は市長に対し「制服を着用しない民間人の軍事介入があった」と非難して罰金を科すのでした。
9日に普第9軍団と普騎兵第1師団はピネ(トロアの東北東20.5キロ)に進み、前衛をトロアに送って市街を完全に占領します。
10日には同軍団と騎兵師団はトロアに入城し、その東側では普第3軍団の本隊がヴォンドゥーヴル=シュル=バルス(トロアの東南東30キロ)に、それを追って普第5師団はオーブ河畔のクレルヴォー(ヴォンドゥーヴルの東南東26キロ)に、普第10軍団の本隊はショーモンに入城、第40旅団はヌシャトーに入り、これで行軍の第一段階を達成しました。
この独第二軍の兵站総監部とランス及びロートリンゲン総督府麾下の兵站守備諸隊は10月末、第二軍の移動に従い主兵站集積地と定めるナンシー周辺より移動を開始し、ナンシー~ショーモン街道(現・国道D674号線)沿道の要地に展開しました。また、ヌシャトーとブレーム(サン=ディジエの西北西16キロ)双方からショーモン北のボローニュに至る重要な鉄道線の守備も始まり、特にブレーム~ボローニュ線は途中仏軍や義勇兵により破壊されて寸断されていたため、まずはマルヌ川で落とされていた3本の鉄道橋梁の修理に取り掛かるのです。
独第二軍はこうして11月10日にトロアからショーモンの線上に到達し、ここでモルトケ参謀総長が望むロアール川上流域に出現した仏新軍の討伐へ向かう第二段階の行軍準備に入りました。
ところがその最中、カール親王はトロアに構えた本営にてベルサイユ大本営からの至急報に接するのです。
この電信が命じるには「パリ付近並びにロアール河畔における直近の戦況に鑑み、貴軍は従前の行動方針を捨て、速やかに西方(パリ方向)へ転進せよ」とのことだったのです。
※独第二軍の行軍経路(司令部の位置。1870.11.2から11.10/トロア、ショーモン到着まで)
○2日
・軍本営 ポンタ=ムッソン
・第9軍団 リュプト=ドゥヴァン=サン=ミエル(ポンタ=ムッソンの西47.4キロ)
・騎兵第1師団 ピエールフィット=シュル=エール(ベルダンの南29.3キロ)
・第3軍団 コメルシー(ポンタ=ムッソンの西南西37.3キロ)
・第10軍団 ジュイ=オー=アルシュ(メッスの南西9キロ)
・歩兵第40旅団 メッス在(サント=バルブ)
○3日
・軍本営 コメルシー
・第9軍団 バール=ル=デュク(サン=ディジエの北東21.6キロ)
・騎兵第1師団 バール=ル=デュク周辺
・第3軍団 コメルシー
・第10軍団 ポンタ=ムッソン
・歩兵第40旅団 メッス在(サント=バルブ)
○4日
・軍本営 リニー=アン=バロワ(サン=ディジエの東北東28.2キロ)
・第9軍団 バール=ル=デュク
・騎兵第1師団 バール=ル=デュク周辺
・第3軍団 リニー=アン=バロワ
・第10軍団 トゥール(ナンシー西)
・歩兵第40旅団 コルニー=シュル=モセル(メッスの南西12.7キロ)
○5日
・軍本営 モンティエ=シュル=ソ(サン=ディジエの南東26.3キロ)
・第9軍団 サン=ディジエ
・騎兵第1師団 サン=ディジエ
・第3軍団 ダマリー=シュル=ソ(サン=ディジエの東22キロ)
・第10軍団 トゥール
・歩兵第40旅団 ポンタ=ムッソン
○6日
・軍本営 ジョインヴィレ(サン=ディジエの南南東25.8キロ)
・第9軍団 モンティエ=アン=デ(サン=ディジエの南南西22キロ)
・騎兵第1師団 モンティエ=アン=デ
・第3軍団 ジョインヴィレ
・第10軍団 コロンベ=レ=ベル(ナンシーの南西28キロ)
・歩兵第40旅団 ナンシー
○7日
・軍本営 ジョインヴィレ
・第9軍団 モンティエ=アン=デ
・騎兵第1師団 モンティエ=アン=デ
・第3軍団 ジョインヴィレ
・第10軍団 ヌシャトー(ナンシーの南西52キロ)
・歩兵第40旅団 休息日
○8日
・軍本営 ドゥルヴァン=ル=シャトー(サン=ディジエの南29キロ)
・第9軍団 ブリエンヌ=ル=シャトー(トロアの東北東35キロ)
・騎兵第1師団 ブリエンヌ=ル=シャトー
・第3軍団 シレ=シュル=ブリーズ(サン=ディジエの南34キロ)
・第10軍団 ヌシャトー
・歩兵第40旅団 ヴェズリーズ(ナンシーの南南西24キロ)
○9日
・軍本営 ブリエンヌ=ル=シャトー
・第9軍団 ピネ(トロアの東北東20.5キロ)
・騎兵第1師団 ピネ
・第3軍団 バール=シュル=オーブ(ショーモンの北西34.7キロ)
・第10軍団 アンドロ=ブランシュヴィル(ショーモンの北北東キロ19キロ)
・歩兵第40旅団 ヌシャトー
○10日
・軍本営 トロア
・第9軍団 トロア
・騎兵第1師団 トロア
・第3軍団 ヴォンドゥーヴル=シュル=バルス(トロアの東南東30キロ)
・第10軍団 ショーモン
・歩兵第40旅団 ヌシャトー
独第二軍の行軍(11月上旬)




