ベルダン攻囲戦
☆ ベルダン攻囲戦(承前)
9月24日。
仏ベルダン守備隊は要塞の北西方ティエヴィル(=シュル=ムーズ)を経てラ・マドレーヌの林方面に対し威力偵察隊を送り出します。
この偵察隊は要塞西側の城塞から重砲の援護射撃を受けつつ進みましたが、この方面の前線にいた普第65「ライン第5」連隊の第10中隊は仏軍部隊の突撃を3回も阻止し、仏偵察隊は前線突破を諦めて要塞へ引き返します。
急報を受けてムーズ川の東岸を北上した普軍北東前哨(普第65連隊第6中隊・予備驃騎兵第4連隊第2中隊・砲兵2個小隊/4門)は、前線最右翼となるヴァモー小部落から対岸の敵に対し銃砲撃を加え、普第65連隊F大隊の2個中隊はロンビュ(農場。ベルダンの西北西5.3キロ。現存します)へ進んで仏軍部隊左翼側に出、威嚇するのでした。
ベルダン要塞司令ジャック・ゲラン・ドゥ・ヴァルダースバッハ准将は、攻囲開始以来、普攻囲兵団司令ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー中将より再三再四、降伏勧告を受けますが悉くこれを拒絶し、ボートマー将軍はいよいよ本格的な攻囲を開始しなければならなくなりました。
攻囲の第1段階として、将軍は要塞への砲撃を命令し、普軍砲兵は9月26日早朝、前夜に急造した肩墻に12門の大砲を設置すると、西、北、南東の3方面から3時間に渡って要塞を砲撃するのでした。
※9月26日の普軍砲撃陣
○ブルモン高地上
*第8軍団・予備重砲中隊(6門)
○オダンヴィル(ベルレの東南東1.7キロ)北方高地上
*第7軍団・予備重砲中隊の1個小隊(2門)
○コート=サン=ミシェル山北方高地陣地
*第7軍団・予備重砲中隊の1個小隊(2門)
*同1個小隊(仏鹵獲砲2門)
これに対し要塞の仏軍砲兵も活発に応射を行い、オダンヴィルの普軍野砲1門が破壊されています。
仏守備隊はまた、ベルダン市民の要求により周囲の高地斜面の畑に放置されていたブドウを収穫しようと、10月初頭に数回の出撃を行いました。
10月2日午後。ムーズ西岸地域のロンビュ、同じく東岸地域のルクールティエの森(ボワ・ルクールティエ。ベルヴィルの北北西1.4キロ)方面に対し仏軍が突撃し、コート・サン・ミシェル山麓の普軍前哨にも80騎ほどの仏猟騎兵が突撃を敢行しました。
ロンビュでは普第65連隊の第10中隊と野砲数門が、東岸では普第65連隊第6中隊が、それぞれ冷静に防戦してこの突撃を撃退し、コート=サン=ミシェル山麓でも普軍前哨は仏騎兵と格闘してこれを四散させます。
また、翌3日にも仏軍は要塞南西側へ出撃し、これはビルモンとラ・メゾン・ルージュ(ビルモンの西3.7キロの小部落)の間で普ユーリッヒ後備大隊が阻止して追い返すのでした。
仏軍猟騎兵
フォン・ボートマー将軍は10月5日、本営をエー(ベルダンの東北東8.5キロ)からシャルニー(=シュル=ムーズ)へ移転させると、ベルダン攻撃を本格化させる命令を下します。
これは、この数日の間にトゥール要塞とセダン要塞より鹵獲した要塞(攻城)砲が普軍要塞砲兵3個中隊と共に到着する予定だったからで、将軍はコート=サン=ミシェル山上に攻城砲を集めて要塞北側を集中砲撃し、その結果要塞の砲列が沈黙したら、城壁は高いものの水濠のない西側の城塞地区に対し正攻法による対壕掘削を行う、という作戦を決定したのです。
この要塞砲を運ぶため、ボートマー将軍は9月末に相当数の兵員と馬匹を包囲網から外し、それぞれ反対方向(北西と南東)へ直線距離でほぼ同じ70キロ離れたトゥールとセダン方面に送りました。これは重砲を運ぶ馬匹が全く足りず砲の到着が大幅に遅れる、と通告があったため「迎えに出た」のでした。
こうした苦労の末、攻城砲をベルダンまで運ばせたボートマー将軍でしたが、10月6日に普大本営より「貴官を普第13師団長に任ずる」との命令が届き(Ba師団長となったグリュマー将軍の後任です)、将軍は後ろ髪を引かれる思いでベルダンを後にメッス包囲網へ向かいました。
将軍の後任は普第1旅団長だった男爵ヴィルヘルム・カール・フリードリヒ・フォン・ガイル少将で、10月9日、シャルニーの本営に着任すると、早々にボートマー将軍が手配した砲撃計画を推し進めさせました。
ガイル
この司令官交代の最中に普要塞砲兵2個(普要塞砲兵第3連隊・第4,6)中隊がトゥールより到着し、運んで来た要塞砲の半数以上はフロメレヴィル(=レ=ヴァロン。ベルダンの西7キロ)付近に設置された砲廠に運び込まれ、ほほ同時に普要塞砲兵第11連隊第6中隊は、セダンから鹵獲砲用の弾薬と要塞砲を運び、これはムーズ下流のブラ(=シュル=ムーズ)に到着しました。
10月8日には歩兵第65連隊の第1大隊もダンヴィエとストゥネ警備の任を解かれて帰参し、この大隊は要塞西部の包囲陣へ参加しました。これと入れ替わりで普予備槍騎兵第6連隊はランス総督府に招致され、攻囲網を去って行ったのでした。
なお、ダンヴィエとストゥネでは後備部隊が代わって任を引き受けましたが、ストゥネの警備に就いたブリュール後備大隊の第5中隊と後備第53連隊の少数の兵士は10月11日の早朝、東へ13キロ離れていたモンメディ要塞から出撃した仏軍部隊により包囲され、その大多数が脱出に失敗して捕虜となり要塞へ連れ去られるという「事件」を引き起こしています。
ガイル将軍は北方と西方高地に設置させる予定の砲台工事を「邪魔」させぬため、10月11日の午後8時前、普第65連隊全体をムーズ川両岸に向けて侵攻させ、ベルヴィル、ティエヴィル、ルグレ(ベルダンの西南西3.3キロ)の各部落を手中にして要塞からの出撃を困難にさせようと謀ります。
この夜は月明かりもあり、普軍予備砲兵たちは陽動としてヴィクトル堡を砲撃しました。
ベルヴィル部落には未だ仏住民も居住していましたが、普軍が前線を出て進み始め、自分たちの部落に向かうと一早く要塞へ逃げ込みました。また、ティエヴィルとルグレは防御工事を施して守備隊もいましたが、普軍はこれを急襲して守備隊の不意を突き、仏守備隊はほとんど戦わずして要塞へ逃走するのでした。この時、普第65連隊は約20名の捕虜を獲ています。
普第65連隊諸隊はそのまま要塞至近の各部落を占領したまま留まり、翌12日の夜、再び行動を起こして更に要塞へ接近しました。
この時、西岸の2個(第1、F)大隊はティエヴィルとルグレからグロリューとジャルダン・フォンテーヌ(それぞれ「城塞」の西750mと北西770mにある小部落)に向かって突撃し、東岸の第2大隊はベルヴィルから出撃すると要塞の北側斜堤およそ450mまで接近し、急ぎ散兵壕を掘ってこの位置を固守するのでした。
この時も要塞の外にいた仏軍守備隊はほとんど抵抗せずに要塞内へ退却しました。ところが、仏軍は要塞に入ると一変、稜郭から激しい銃撃を開始し、特にジャルダン・フォンテーヌに対する銃撃は凄まじいものがあり、部落の東端から陣地を延伸しようとしていた普第65連隊第1大隊の諸中隊はこの日目立つ損害を受けてしまうのです。
また、普攻囲兵団は同日夕刻、砲台の構築に着手しましたが、ベルダン周辺の土地は粘土質で、天候不順により既に泥濘と化しており、しかもこの泥濘の下は固い岩盤という場所ばかりで、砲台の構築作業は困難を極めました。それでも普軍要塞砲兵と作業に従事した後備兵たちは頑張り通し、一晩で要塞の西側に4個、北東のコート=サン=ミシェル山に6個、それぞれ砲台を完成させたのでした。
10月13日朝・午前6時にはこれら砲台に搬入された各種52門の砲により、ベルダン要塞への本格攻城砲撃が始まったのです。
ベルダン停車場
※10月13日におけるベルダン要塞に対する攻城砲陣地と備砲
○ピエロン(農場。城塞の南西980m。現存しません)西方、サン=バルトルミー高地尾根上
*第1号砲台
普軍6ポンド重野砲x6(第8軍団予備重砲中隊)
○グロリュー部落西郊外
*第2号砲台
仏製(鹵獲)22cm臼砲x4
○ティエヴィル南方、コート=ドゥ・エヴォー東方尾根
*第3号砲台
仏製(鹵獲)12ポンドカノン砲x6
*第4号砲台
途中で築造中止(翌日後方の別場所に設置)
*第5号砲台
仏製(鹵獲)24ポンドカノン砲x6
○ベルヴィルの北、コート=サン=ミシェル山上(西から番号順に並ぶ)
*第6号砲台
仏製(鹵獲)24ポンドカノン砲x6
仏製(鹵獲)野砲(口径不明)x6(控置)
*第7号砲台
仏製(鹵獲)12ポンドカノン砲x4
*第8号砲台
仏製(鹵獲)12ポンドカノン砲x4
*第9号砲台
仏製(鹵獲)27cm臼砲x4
*第10号砲台
仏製(鹵獲)24ポンドカノン砲x4
仏製(鹵獲)野砲(口径不明)x6(控置)
*第11号砲台
普軍6ポンド重野砲x6(第7軍団予備重砲中隊)
※合計 普軍野砲x12門・仏製野砲x12門・仏製要塞砲x42門
※仏製(鹵獲)砲は普要塞砲兵第3連隊第4,6中隊と普要塞砲兵第11連隊第6中隊が扱いました。
この砲撃に対する仏要塞砲の対抗射撃もまた激しく、城塞に最も近いところにあったエヴォー高地の第3号・5号両砲台は、要塞からの集中砲撃により肩墻が崩されて一部の大砲にも損害が発生したため、正午前後に砲撃を止めざるを得なくなりました。
他の砲台は砲撃を続けますが、多少の損害はどの砲台でも発生していました。しかし、普軍砲兵は怯まずに砲撃を続行し、夜になると砲兵と工兵によって損傷部分の修理や補修、壊れた砲の交換が行われ、翌朝になると激しい損傷が発生し使用不能となった第3・第5号砲台を除き、再び激しい砲戦を続けたのでした。
この日(14日)はブラモン高地東斜面に第4号砲台が稼働し、砲撃を開始します。このやや離れた場所に築造された砲台には仏製(鹵獲)12ポンドカノン砲6門が設置され、これは要塞からは狙い難い場所にあったため効果的に砲撃を続けることが出来ました。
また、昨日撃破されてしまった第3号・第5号両砲台も砲撃中に修繕されて再び砲列に復帰します。普軍攻城要塞砲兵たちは意気衰えない仏軍要塞砲の激しい砲撃を受けつつも砲撃を途絶えさせることはなく、そのまま15日の朝を迎えました。
しかし、この日午前中も猛砲撃を続けたにも関わらず、仏軍の砲撃は衰えを見せず、遂に午前11時、普軍砲兵は砲撃中止を命じられるのです。続けて仏軍も砲撃を止め、ベルダン周辺は3日振りに砲声が途絶えることとなったのでした。
この「ベルダン3日間の砲戦」で普軍は、普仏戦争の攻城砲砲撃作戦中でも目立つ損害を受け、各種砲15門が破壊され、砲兵は60名以上の死傷者を計上しました。歩兵では要塞斜堤に向かい前進した第65連隊兵が約40名の死傷者を出しています。
ベルダン要塞では城塞地区と要塞市内で複数の火災が発生し、多くの建物が焼失しました。また、城郭の備砲数門が破壊され、砲兵も数十名が死傷しましたが、仏軍はこれを直ちに交換・修繕し、前述通り応射が途切れることはありませんでした。
フォン・ガイル将軍はこの状況から「いくら頑張っても有力な砲兵がいる本格要塞を砲撃だけで撃破することは不可能」と断じ、「要塞に対する正攻法を行わなければ落城させるのは無理」とします。
そこでガイル将軍はカール王子と大本営に対し「本格的な攻城廠の準備と鹵獲砲の弾薬の補充は要塞攻略にとって極めて重要」との意見具申をするのでした。
ガイル将軍は、この措置が実行されるまで要塞の攻撃を中止するとして、普第65連隊は前進陣地・部落を放棄して元の前線まで後退し、各砲台では重砲運搬の手間を省き、今後の砲撃再開まで大砲をそのまま砲台に留め置き、歩哨を置くと各砲には霞弾を装填して万が一仏軍が接近した時に備えました。
独軍の砲撃が止むと、要塞司令のゲラン・ドゥ・ヴァルダースバッハ准将は反撃を計画し、10月20日の夜、暴風が吹いて音を気にすることが無くなったと見ると砲台襲撃隊を送り出しました。この仏軍は城塞に近い
コート=ドゥ=エヴォー高地の2砲台を襲い、ここを警備していた普第65連隊第1大隊の歩哨を駆逐しますが、事態を察知したティルヴィル在の同大隊から速やかに援軍が出撃し、これによって仏兵は大砲の火口に大釘を刺して退却するのでした。しかしこの大砲を使用不能にするための処置は急いでいたためか完全ではなく、大砲は直ぐに使用可能となります。
普軍砲台で大砲に釘を刺す仏軍兵士(ベルダンの戦史表紙)
10月28日。この日明けやらぬ午前5時、仏軍は再びムーズ両岸で大規模な出撃を行いました。
仏軍の工兵隊は護国軍大隊と共にコート=サン=ミシェル山の砲台群を襲います。しかし、既にこの時には「20日の教訓」によって普軍は砲を撤去しており、残っていたのは使えなくなっていた砲1門のみでした。
仏軍部隊は胸郭と防弾遮蔽を破壊すると、一部はルクールティエの林に向かい、一部は更に西側のブドウ畑を越えてベルヴィルへ向かいました。
ベルヴィルでは、既に仏軍正規兵の集団と護国軍兵がラ・ガラヴォード(現・市街北東部)を越えて突進して来ており、普第65連隊の第5中隊がベルヴィル東南方の鉄道堤に展開し銃撃戦となっていました。普軍中隊は突然東側高地から現れた仏軍により包囲の危機に陥ります。同時にムーズ対岸にも仏軍が進出して来たため右翼(西)側からも銃撃を浴びせられた第5中隊はやむを得ず後退を計りますが、突撃して来た仏正規軍兵により多数の捕虜を与えながらの厳しい後退となりました。残兵は同連隊第7中隊の守るルクールティエの林へ逃げ込むのでした。
この林にも東と南から仏軍が迫りますが、この時、普第65連隊第6中隊が野砲1個小隊を引き連れてコート=サン=ミシェル山上に現れ、速やかに砲台に残っていた仏兵を追い出すと、山麓の仏軍に対し射撃を行い、これによって仏軍の北上は阻止されるのでした。その後普第6中隊はベルヴィルに向かって突進しますが、仏軍は部落に籠もって激しい銃撃を浴びせて来たため、普軍は部落奪還を諦めるしかありませんでした。
ムーズ東岸における戦闘は、午前8時30分頃に終結します。
この朝、仏軍は普軍西側の包囲網にも攻撃を仕掛けています。
要塞北西側から出撃した3個の仏軍攻撃隊中、右翼(北側)隊が霞弾で砲撃する軽野砲2門と共に普第65連隊第1大隊が守るティルヴィルに突進しました。この突撃は計3回行われますが、その都度普軍の一斉射撃により撃退されます。バリケードで封鎖されていた部落南側の街道口では仏猟騎兵の一隊が突撃を敢行しましたが、こちらもバリケードを盾にした普軍の一斉射撃で撃退されています。
こうして、仏軍のティルヴィル攻撃は失敗し、この右翼部隊は午前7時に要塞へ引き返しました。
この時、仏軍中央隊は日が昇る前の闇に乗じてグロリューとジャルダン・フォンテーヌ間のブドウ畑を通過して、8日前に襲撃したコート=ドゥ=エヴォー高地の2砲台を再び襲いました。前回同様に普軍歩哨は駆逐され、今度は残っていた砲12門全てが完全に破壊されてしまうのです。ここに残っていた仏製鹵獲砲は、コート=サン=ミシェル山上の砲台同様、前回の襲撃を教訓に引き上げを計りますが、周辺の泥濘が酷く運び出せずにいたものでした。
勢いを得た仏軍中央部隊は、そのまま尾根沿いに西へ進み、ブラモン高地の第4号砲台を狙いますが、こちらには普第65連隊第11中隊が待ち構えており、激しい銃撃を浴びた仏軍は暁に空が白む頃、要塞への撤退を始めたのでした。
仏軍左翼部隊は同じく早朝、グロリューから散兵群を先頭にサン=バルテルミー高地北東斜面のブドウ畑を越えてピエロン農場方面へ進みますが、ここに陣を構えていた普第65連隊第10中隊と衝突します。銃撃戦は1時間以上も続きますが、午前9時頃になると仏軍側の攻勢に衰えが見え始め、一気に後退局面となりました。
この日、ベルヴィルとグロリュー部落は仏軍の手に落ちますが、その他の普軍前線陣地は、仏軍の後退後、普軍が奪還しています。この日の戦闘で普第65連隊の損害は死傷者30名、主に捕虜の行方不明は40名を数えるのです(仏軍側は死傷者97名)。
ベルダン 街道門
この10月28日の仏軍攻勢(奇しくもメッス開城の日)を最後として、ベルダン要塞攻囲戦は最終段階を迎えることとなりました。
10月末週から11月初頭に掛けて、新たに第一軍司令官となったフォン・マントイフェル将軍からフォン・ガイル将軍に増援が発せられ(前段で記した普第60「ブランデンブルク第7」連隊・普猟兵第8「ライン」大隊・第8軍団の野戦工兵2個中隊)、更にメッスで使用した普軍の攻城12センチカノン砲を普要塞砲兵数個中隊が運んで到着するのです。
これによりガイル将軍の下には合計102門の砲が配置に付くこととなり、弾薬も順次到着して優勢だった要塞の仏軍砲兵に対するのでした。
また、工兵と正規歩兵連隊の到着で、ガイル将軍は本格的な対壕掘削の正攻法開始を命じることが可能となります。
11月3日。28日の出撃以来積極的な行動を控えていた仏守備隊のゲラン・ドゥ・ヴァルダースバッハ司令官(メッスの陥落を知ったものと思われます)は、「普軍が正攻法の準備を開始した」との報告を受け、「メッス要塞のバゼーヌ将軍が降伏し、増援や解囲も絶望的」として白旗を揚げる決心をしました。
直ちに休戦を求める「白旗の使者」がガイル将軍の本営に送られ、将軍はこれをベルサイユの大本営へ報告するのです。
翌4日、普大本営はベルダンでの休戦を許可し、再び使者が行き来した結果5日になって双方の敵対行動は中止され休戦が発効しました。
6日からベルダン要塞の開城に付き、ガイル将軍とヴェルダースバッハ准将との間で会談が始まり、紆余曲折の果ての11月8日、正式に開城条約が締結されました。
これにより、「ベルダン要塞は11月9日を以て独軍に引き渡し、仏守備隊中の護国軍と国民衛兵、義勇兵以外の守備兵は全て捕虜となる」こととなります。
ガイル将軍はヴェルダースバッハ准将らベルダン要塞守備隊の「勇敢な防戦と休戦後もその抵抗力を残していた(無駄な消耗戦をせずに済んだ)」ことを評し、「仏軍が要塞内に現存する武器・軍用資材はこれを一時没収とするが、独軍は戦争が終結し和平となった暁には、これを全て返還する義務を負う」と条約に明記させたのでした。同時に仏軍の士官たちはセダンの降伏条約に準じ「個人武器と私有物の保持を許可し、本戦争中独諸邦に対して敵対行動を取らないと誓約すれば解放する」とされました。
11月9日早朝。普軍はベルダン要塞に入城します。その将兵たちは自らの手による攻城砲の激しい榴弾砲撃の結果、多くの公共施設や民家が破壊や焼失しているのを見ることとなったのです。
普軍のベルダン入城
ベルダンの攻囲戦(9月7日~11月7日)における独軍の損害は、戦死が士官4名・下士官兵38名、負傷が士官9名・下士官兵166名、行方不明(ほぼ全てが捕虜)が士官1名・下士官兵44名、損害合計は士官14名・下士官兵248名です。損害の半数以上は常に前線に出て戦っていた普第65連隊で、その総数は士官9名・下士官兵172名となりました。
捕虜については先の45名を入れて8月24日のザクセン軍団攻撃以来369名を数えます。これは8月28日に発生した、ザクセン軍団の補助糧食縦列が「勘違い」して要塞に入り丸ごと捕虜となった件が数を大きくしています。
仏軍の損害については詳細が分かっていませんが、判明している情報を集約すれば、8月24日から10月28日最後の出撃まで、正規軍・護国軍合せた損害(死傷者)の総計は250名前後と思われます。この中で戦死(負傷後の死亡も含む)は83名と言われ、その内の6名は砲撃によるものとされます。捕虜は前述通り護国軍兵士等を除き、約3,500名となりました。
要塞内の病院には前述の戦傷や病気により攻囲中延べ1,000名が入院し、その内の1割、約100名が死亡したと言われています。
要塞にはライット式(砲口装填)カノン砲が46門、旧来の青銅製前(砲口)装填式滑腔砲は71門、臼砲が20門ありました。
※10月時点のベルダン要塞備砲
○ライット式カノン砲
・24ポンド砲x15・12ポンド砲x25・4ポンド砲x6
○臼砲
・27cm x7・22cm x9・15cm x4
○青銅滑腔砲
・16ポンド砲x22・12ポンド砲x24・8ポンド砲x4・その他の榴弾砲x21
ベルダン市庁舎前の仏軍野砲(1870年)
開城後に普軍が調べたところでは、要塞には火薬類100トン、24ポンドカノン砲弾10,350発、12ポンドカノン砲弾7,700発、4ポンドカノン砲弾2,050発、 その他榴弾13,300発、散弾200箱、丸弾300発、葡萄弾600発が備蓄されていました。
その他の武器は小銃が33,000挺(内シャスポー銃5,000、タバティエール銃3,000)、拳銃780丁、サーベル800本などで、これらは士官の私物以外全てが普軍の手に落ちたのでした。
※10月上旬時点での仏ベルダン守備隊戦闘序列
○本営(司令官 ジャック・ゲラン・ドゥ・ヴァルダースバッハ准将)
・少将1名・准将2名(司令官含む)
・本営属員 43名
○騎馬憲兵 56名
○工兵 157名
○砲兵
・仏野戦砲兵第4大隊の一部 52名(マルス=ラ=トゥール方面より)
・ムーズ県の護国軍砲兵 約100名
・セダン等の正規軍砲兵 約200名
計359名
○大砲段列(砲卒) 352名
○騎兵
・仏猟騎兵第5連隊(6個中隊) 614名(戦闘馬匹200頭)
○従来からの要塞守備兵(2個中隊) 256名
○歩兵
・戦列歩兵第57連隊第4大隊 約1,300名
・戦列歩兵第80連隊第4大隊 約1,100名
・ムーズ県の護国軍2個(第1、第2)大隊 1,864名
・国民衛兵と義勇兵 1,339名
○消防士 130名
※これらの部隊には、セダン等から逃れた士官10名・下士官兵およそ2,600名が編入され含まれています(工兵130名・砲兵250名・砲卒や輜重280名・騎兵400名・戦列歩兵1,200名・ズアーブ猟兵150名など)。
1870ベルダン包囲戦記念碑(19世紀末)




