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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
374/534

独第一、第二軍の再始動


 10月28日のメッス要塞陥落(降伏文書は27日夕の署名)と仏ライン(バゼーヌ)軍の全面降伏は、この普仏戦争の行く末を決定付け、バゼーヌ将軍の抵抗とパリへの進撃に一縷の望みを託していた仏国(=国防政府・トゥール派遣部とパリ市民)に大打撃を与えました。

 セダンに続く大敗北により仏軍はほぼ九割方の正規野戦軍を失い、現役正規軍士官もまた大方捕虜となるか紳士協定による「不戦の誓い」を立てて戦場を去りました。


挿絵(By みてみん)

 普軍のメッス入城


 しかし、プライド高く血の気の多い仏国人は簡単には手を挙げず、新規徴兵の護国軍部隊に義勇兵諸中隊(中隊とは言っても30から多くて100名程度が多い「グループ」です)を中核として、独側が「異常」と呼ぶほどの速度で次々と「新軍団」を立ち上げて行ったのです。


 これに対し、独側はメッス攻囲を終えた二つの軍を再編成し対抗することとなりました。


 普大本営はメッス要塞の陥落が見えて来ると、モルトケ参謀総長を中心に「メッス後」の作戦方針を定め、「メッス攻囲軍の一部は仏北西部に向かって行軍し、その行軍途上でアルデンヌ鉄道沿いに残った諸要塞を攻略すること」と「残りは南西方面へ進撃しフォン・デア・タン兵団が仏ロアール軍と対峙するロアール川流域へ向かうこと」とします。

 特に期待されたのは「アルデンヌ鉄道」(メッスからティオンビル~フォントワ~ロンギュヨン~モンメディ~カリニャン~ドゥジー~セダン~シャルルヴィル=メジエールに至る)の全線開通で、この仏・ベルギー国境と平行して走る路線を活用することが出来れば、パリを攻囲する独軍への新たな補給路として、また仏北西部(サン=カンタン、アラス、アミアン、カレー)への後方連絡として機能し、それは戦争終結を早めることにも繋がるのです。


挿絵(By みてみん)

 メッス 仏軍の野営(ベルクロア交差点)


 10月23日に発せられた重要な複数の大本営命令中、メッス攻囲軍のフリードリヒ・カール・ニコラウス・フォン・プロイセン親王騎兵大将(直後の28日付で元帥。以降これまで通り「カール王子」とします)に宛てた命令には、この大本営の意図が色濃く示されていました。


「1870年10月23日 ベルサイユにおいて


 メッス要塞に包囲された仏軍の状況に関する情報によれば、仏ライン軍と要塞は数日を経ずして降伏することが確実となった。

 従って、仏ライン軍の降伏により発生する要塞施設と武器・諸物資の鹵獲については、特に命じるまでもなく粛々と進めよ。メッスを管轄とするエルザス総督府には既にメッス市民のための糧食を準備するよう電信命令を発している。メッス要塞の各分派堡塁、防衛陣地等受け渡しの際は、様々な罠や策謀に注意しその防止に努めねばならない。このため、9月26日の勅令(いわゆる「レニエ工作」を受けてメッス要塞の開城とライン軍降伏に言及した準備命令)によって定められた処置(施設の明け渡しや鹵獲品の受け取り方法等)を慎重に実施することが必要となろう。


 降伏条約の内容はセダンにおける降伏条約を基準とすること。国王陛下におかれましては、もし降伏条約の締結が迅速に行われるのであればセダンと同じく士官は不戦の宣誓によって解放しても構わぬ、とのお達しである。捕虜となる下士官と兵士に関しては、一部をザール=ルイ~トリール~カルを経てケルンに(但しアイフェル鉄道未完成部分は徒歩行軍とするように)、一部はクールセル=シュル=ニエ等からザールブリュッケンを経て護送すること。この捕虜護送の整理・集約はザールブリュッケンにある路線区管制官に委任する。更に後方への護送につき、ザールブリュッケンの路線区管制官は後方の各路線区管制官と相談し定めることとする。


 現在、メッス周辺で包囲任務に就く諸兵力の今後につき、国王陛下におかれましては以下の通りご命令なされた。


 独第一軍、即ち第1、第7、第8の各軍団、予備第3、騎兵第3の各師団は、今後もメッスを維持・守備すると共にティオンビル(独名デーデンフォーヘン)並びにモンメディ(ベルダンの北40キロ)両要塞を攻囲し、この内『後備』第3師団の任務は、捕虜となった仏将兵を一時監視下に置いてこれを順次内国へ後送することとする。しかし、内国においては現在のところ、これだけ多くの捕虜を監視する部隊が存在せず、後備第3師団についてはしばらくの間内国に留まって捕虜を監視せねばならない。このため同師団の第一軍復帰は相当遅れるものと覚悟せよ。また、後方任務に就く他の後備大隊を前線へ送ることについても後命を待つこと。

 メッス~ティオンビル~シャルルヴィル=メジエール間の鉄道線(アルデンヌ鉄道)の修理計画は直ちに立案すること。このためランス在の第1野戦鉄道隊は第一軍隷下とする。ちなみに、ザールブリュッケン在の王国鉄道提理(運用)部には、メッス周辺の鉄道復旧準備を既に命じたところである。このため、同部が線路などの修繕資材を先に徴発することもあると考えられるので、担当官はこれと調整を要するだろう。第一軍はこれ以外にも最低2個軍団を以て速やかにサン=カンタン(ランスの北西85キロ)~コンピエーニュ(パリの北北東72キロ)間に到達せねばならない。このためには、メッスにて降伏条約が発効し次第、当該軍団は直ちに行軍を開始すること。


 第二軍、即ち第2、第3、第9、第10の各軍団、騎兵第1師団は、主行軍方向をトロア(ランスの南106キロ)に定め、その後速やかに中仏ロアール川中流域に到達することとする。但し、既に電信命令によって鉄道輸送でパリ方面へ先行することを命じた1個師団(普第4師団)は、この際再び軍団(第2軍団)に復帰することを命じる(つまりは第2軍団の残部もパリに向かうことになります)。ブズール方面にあるヴェルダー将軍麾下の第14軍団には、この後第二軍がリヨンに向けて前進する暁にはその左翼を援護するよう既に命じている。


 第一、第二の両軍は、その給養を容易にし同時にその行軍速度を上げるため、行軍正面を広く指定し横長く行軍すること。


   参謀総長フォン・モルトケ

   フリードリヒ・カール親王閣下」(筆者意訳)


挿絵(By みてみん)

 戦利品 メッスの仏軍野砲


 メッス要塞が陥落しバゼーヌ将軍が降伏した後、独第二軍は大本営が命じる通り自軍占領地内の捕虜を大至急東へ発送し、10月末には既に南西方向への行軍を開始しました。

 ところが、独第一軍はメッスとその周辺における残務(特に捕虜の扱い)が想定以上に厄介であったため中々前進命令を遂行出来ず、予定より1週間ほど長く同所に留まることを強いられました。


 予備第3師団の「師団内師団」・『後備』第3師団は、命令通り大量の捕虜を指定地まで護送、その後も監視業務で独内地に留まらねばならず、このため「大型師団」であった予備第3師団の残部は、正規歩兵1個旅団(2個連隊)と騎兵4個連隊、砲兵6個中隊という「騎兵師団」クラスとなってしまいます。


挿絵(By みてみん)

 降伏後、普兵からタバコを貰う仏兵


 この仏軍捕虜の護送方法は以下の通りで、まずはモーゼル川左(西)岸に設けた第二軍管轄下2つの「一時捕虜収容所」から、1日あたり捕虜1万人を、第一軍管轄下にも2個ある「中央捕虜収容所」(第一軍の「一時捕虜収容所」でもあります)へ送り出し、この収容所からは同じく1日あたり1万人の捕虜をサント=バルブとアル=ラクネイー付近2ヶ所に設営された「東方捕虜収容所」に送り出しました。この「東方捕虜収容所」は捕虜を独内国へ送り出す拠点として活動し、10月30日以降ここに集められた捕虜は、「サント=バルブ捕虜収容所」からはブレ=モセル(メッスの東北東24.4キロ)を経由してザール=ルイへ、「アル=ラクネイー捕虜収容所」からはクールセル=シュル=ニエへ、それぞれ徒歩により護送された後、各々鉄道に乗せられ独奥地の捕虜収容所へ送られて行ったのです。


挿絵(By みてみん)

一時捕虜収容所で憔悴する仏軍捕虜(11月1日のスケッチ)


 メッス攻囲の終了で再び独立した一個の「軍」に戻った独第一軍は、9月中旬、攻囲中に任を解かれポーゼン州に去ったカール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ歩兵大将の後、カール王子が第二軍と司令官を兼務していましたが、メッス陥落により第1軍団長の男爵エドウィン・カール・ロチェス・フォン・マントイフェル騎兵大将が軍司令官に「昇格」し就任しました。

 マントイフェル将軍は10月30日、ジュイ=オー=アルシュ(メッスの南西10キロ)の軍本営に赴任すると、後任が決まるまで普第1軍団も統一指揮することとなります。

 シュタインメッツ将軍の参謀長だったオスカー・エルンスト・カール・フォン・スペルリング少将(第2次大戦で活躍するエーリヒ・フォン・マンシュタイン将軍母方祖父です)は、シュタインメッツ将軍退任と同日の9月15日、病気休職となったカール・フリードリヒ・フォン・ヴェーデル少将に代わり第15師団所属の第29旅団長に転任していましたが、その後は参謀副長だった伯爵ヘルマン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルテンスレーベン大佐が軍参謀長を代行しており、大佐はそのままマントイフェル将軍にも仕えます。因みにスペルリング将軍自身もメッス攻囲中の10月、赤痢に罹患し入院しています(12月に復帰)。また、後備兵が去って随分と「小振り」になってしまった予備第3師団は、ハインリヒ・アドルフ・フォン・ツァストロウ歩兵大将率いる普第7軍団麾下となりました。


 この普第7軍団は守備隊としてメッスに一部部隊を留め、残りはティオンビルとモンメディ要塞の攻囲に向かうこととなりますが、ツァストロウ将軍はまずメッス周辺に残る仏軍捕虜の監視と独内国への送り出しを完了させねばなりませんでした。これは捕虜の数が膨大(15万名前後)だったために中々の難事業で、特にクールセル=シュル=ニエ~ザールブリュッケンの鉄道運行が乱れに乱れたため捕虜の後送は停滞し、任務の遅延は作戦全般に影響して、11月初頭にはオアーズ川方面(サン=カンタン~コンピエーニュ)へ出発するはずだった第一軍の諸隊も、11月の第1週を過ぎようとしてもなおメッス近郊で捕虜の監視を続けていたのです。当然のことながら、とっくに東方へ送り出しているはずの膨大な数の捕虜に対する給養も準備せねばならず、ただでさえ食糧事情が困窮する折、これはツァストロウ将軍にとって最大の頭痛の種となったのでした。


 この困難な任務に四苦八苦するマントイフェル将軍に対し、在ベルサイユの普大本営は「遅延は許さない」とばかりに容赦なく「尻を叩く」ような命令を重ねるのです。


挿絵(By みてみん)

 普大本営(ベルサイユ)

※左からビスマルク宰相、ブルーメンタール中将(第三軍参謀長)、フリードリヒ皇太子(背中)、ローン陸軍大臣、モルトケ参謀総長、ヴィルヘルム国王



 10月末週、普大本営は独第一軍に対し「ベルダン要塞の攻囲増援のための一支隊」を派遣するよう命じ、更に「普騎兵第3師団をフレンヌ(=アン=ヴォエヴル。ベルダンの南東19キロ)方面へ」向かわせるよう命じました。これにより、第15師団所属の普第60「ブランデンブルク第7」連隊・普猟兵第8「ライン」大隊・第8軍団の野戦工兵2個中隊が10月28日、ベルダンに向かい出立し、同時に騎兵第3師団も西に向かって進み始めます。

 この騎兵師団に与えられた任務は、普フュージリア第33「オストプロイセン」連隊と普第15師団砲兵(野戦砲兵第8連隊第1大隊)の軽砲2個(第1,2)中隊を伴って「アルゴンヌ山地に徘徊すると言う仏義勇兵を掃討」して、その任務終了後「クレルモン(=アン=アルゴンヌ。ベルダンの西24キロ)付近に集合し第一軍主力(西方へ向かう2個軍団)の到着を待て」というものでした。


 これに追い打ちを掛けるような命令も10月31日に電信によって発令され、これは「1個師団を直ちに出立させるように」というもので、その任務は「(シャルルヴィル=)メジエールに籠城する仏軍を包囲するランス総督麾下の普軍後備兵諸隊(後備歩兵5個大隊・予備騎兵3個中隊・砲兵1個中隊)を臨機に援助する」というものでした。

 この命令により、サント=バルブ周辺で捕虜監視任務に就いていた普第1師団は11月2日、ヴォワピー(メッスの北北西4キロ)を経て、まずはルテル(ランスの北東37キロ)を目標に出立して行きました。このため、サント=バルブの「東方捕虜収容所」はその後の手配が付くまでの数日間、まだメッス周辺に残っていた第二軍に属する1個旅団が監視することになったのでした。

 更に11月5日、普第4旅団(第2師団傘下)も師団竜騎兵1個中隊と師団砲兵の重砲1個中隊を引き連れてポンタ=ムッソンへ向かいます。これはポンタ=ムッソンから鉄道に乗ってソアソンへ進み、ランスからクレイユ(パリの北46キロ)並びにアミアンへ繋がる鉄道線上にあって仏軍が押さえているラ・フェール要塞(ソアソンの北32キロ)の攻囲を開始するためでした。これにより普第1軍団は僅か歩兵1個旅団・騎兵1個連隊・砲兵9個中隊となってしまったのでした。


 このように捕虜護送の任務を必死で完遂しようとするマントイフェル将軍の第一軍は、多くの部隊を引き抜かれたものの、11月第2週には捕虜後送の目処を付け、捕虜監視任務を完了した部隊からモーゼル左(西)岸へ移動し、その後の行軍準備を始めました。

 

※11月6日頃のメッスに残る普第7軍団以外の独第一軍

○モーゼル西岸・メッスより下流域(北側)に宿営

◇普第1軍団

*第2師団

 ・第3旅団

 ・竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊(1個中隊欠)

 ・師団砲兵3個中隊(重砲1個、軽砲2個)

*軍団砲兵隊(6個中隊)

○モーゼル西岸・メッスより上流域(南側)に宿営

◇普第8軍団

*第15師団

 ・第30旅団

 ・驃騎兵第7「ライン第1/国王」連隊(1個中隊欠)

 ・師団砲兵2個中隊(重砲2個)

*第16師団

*軍団砲兵隊(6個中隊)


 普第1と第8両軍団は11月7日早朝、漸くのこと普大本営令に従って西方へ出立することが出来ました。


 普第8軍団はフレンヌ(=アン=ヴォエヴル)とエテンそれぞれを経由する2本の街道(マルス=ラ=トゥール/グラヴロットの戦いで言及していた「南ルート」と「北ルート」。現・国道D903号線とD603号線)を使用しランス方向へ進み、普第1軍団は数日前に第1師団が使用したブリエ街道(現・国道D643号線)をルテル方向へ進み出しました。

 この2個軍団は遅れた日程を出来るだけ取り戻そうと、目的地であるランスとルテルに到着するまで休息日を設けず、文字通りの強行軍を行います。諸隊は遅い糧食縦列や輜重縦列を待たずに進み、その給養は専ら宿営地の宿主に求めたのでした。

 マントイフェル将軍と第一軍本営は第8軍団と一緒に行軍し、両軍団の後続後方部隊は行軍中、シャンパーニュ地方の後方連絡線上に倉庫群や病院を設置して行ったのです。


 メッスを発つ前、マントイフェル将軍は後に残るツァストロウ将軍と会談し、「予備第3師団中、未だに捕虜監視・護送任務に従事してしまっている正規軍歩兵混成旅団と軽騎兵の2個連隊、そして師団砲兵の3個中隊を出来る限り速やかに野戦部隊へ復帰させ、ブリエ(メッスの北西22キロ)付近に集合させた後に第一軍本隊の右翼(北)へ進出させるよう」訓令し、「3国国境地帯のロンウィー(ティオンビルの北西35キロ)の監視を行いつつ、ティオンビルとモンメディ両要塞の攻囲を進め」るよう要請すると、「この両要塞の攻囲に関しては、両方同時に攻略するか、又はティオンビルから先に行うのかは将軍の判断に委ねる」とするのでした。


 マントイフェル将軍の出発後、ツァストロウ将軍に残された部隊は麾下の普第7軍団と、歩兵のいなくなった予備第3師団の騎兵と砲兵のそれぞれ半分、そしてメッス包囲に参加し残された攻城重砲60門と普第72「チューリンゲン第4」連隊(前線へ出動した第70「ライン第8」連隊の代わりにザール=ルイ要塞を守備し、その後前線に進出していました)の内、既にティオンビルを監視している2個大隊となりました。


挿絵(By みてみん)

 メッスを後に護送されて行くバゼーヌ軍将兵


☆ ベルダン攻囲戦


 独第一軍司令官、フォン・マントイフェル騎兵大将にはもう一つ、ベルダン要塞の攻略という重要な任務も課せられていました。

 将軍はこの要塞のためにも貴重な戦力を削らねばならず、10月下旬にはその手配(先述の普第60連隊や普猟兵第8大隊、工兵の派遣)を行いますが、その後10日ほどで要塞は開城し、マントイフェル将軍は北西方面への行軍に専念することが出来るのです。


 ベルダンはムーズ(独名マース)川中流、アルゴンヌ山地とロレーヌ高原の間に位置する古来よりの要衝で、1870年当時の人口はおよそ14,000人、市街地は城郭で囲まれた要塞都市でした。

 この隔壁は中世以前から築造・増設を重ねたもので、17世紀末にこれもヴォーバンの設計によって増強が行われ稜堡式要塞に生まれ変わっていました。

 要塞北方と東方の城郭は、片や要塞西面の前方に突出した七角形の城塞(いわゆる重城)に連なり、反対側は南東方へ突出するヴィクトル前進堡塁に連なります。この城郭の南西側は多少壁が薄く防備も貧弱で一見弱点と見えますが、ここを襲う者は城塞とヴィクトル堡からの十字砲火を覚悟しなくてはなりません。また、この要塞南面はムーズ川を開いて氾濫地帯となり、この方向からの対壕掘削による正攻法攻撃は不可能でした。

 ムーズ川はベルダン市の南方上流で幾つかの支流に分岐し、渓谷を作る各支流は流れも速く水量も豊富で橋梁の無い場所での渡河を不可能としています。要塞の水濠はこのムーズ川から水を引きますが、ベルダン要塞の水濠は本郭の周りにしか存在しませんでした。これも弱点と言えましたが、本郭の外となる前述の城塞とヴィクトル堡の城壁は十分に高く頑丈で、歩兵の突撃などものともしませんでした。

 しかし、ベルダン市は周囲を高地に囲まれており、この高地を奪われると四方から見下ろされることになりました。

 当時はこの東西の諸高地に分派堡塁がなく(戦後に築造され第1次大戦で激戦地となったのは有名な話です)、要塞に面する高地斜面は多くがブドウ園となっており、高地尾根もほぼ鬱蒼とした樹林となっていました。特に要塞北面から2キロ強北東方向に離れたコート=サン=ミシェル山(戦後に仏軍が堡塁を築きます)からは市街地と城塞内部が全て俯瞰出来てしまい、その麓にある諸部落は攻撃側にとって手頃な拠点となるものでした。


 ベルダン要塞は普仏開戦当時およそ140門の各種大砲を用意しており、また糧食も十分に貯蔵してありました。要塞司令は当時67歳、予備役から戦時復帰したジャック・ゲラン・ドゥ・ヴァルダースバッハ准将で、守備兵は開戦当初こそ極僅か*でしたが、後に戦列歩兵第57連隊と同第80連隊の第4(マルシェ)大隊を加え、マルス=ラ=トゥールやグラヴロット会戦後、戦場から脱出し原隊に復帰出来なくなった砲兵50名を迎えました。更にセダン会戦後、独軍攻囲網からの脱出に成功した兵士や、捕虜となった後にポンタ=ムッソンへの護送中脱走した者などが要塞へ逃げ込んだため、9月中旬には護国軍部隊にこの「元シャロン軍」兵士たちと義勇兵若干を加え、守備隊兵力はおよそ7,000名に達していたのです。


※8月上旬のベルダン要塞守備隊

○ムーズ県の護国軍第1、第2大隊(合計1,600名以下)

○同砲兵2個中隊(150名前後)

○仏猟騎兵第5連隊・補充中隊(新兵250名と馬匹180頭)


挿絵(By みてみん)

 ヴァルダースバッハ


 ベルダン要塞は8月24日のザクセン軍団通過時に攻撃を受けたものの大した損害は無く、以来戦闘らしい戦闘は発生せず、独軍も騎兵の小部隊により監視するだけに留めていました。

 その後、最初はティオンビル要塞の包囲を命じられていた元ケルン要塞司令・普軍のルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー中将が命令変更でベルダンの攻囲を命じられ、部隊*と共にベルダンに向かいます。


※9月上旬のボートマー支隊

○普第65「ライン第5」連隊

○後備第28「ライン第2」連隊

 ・ジークブルク後備大隊

 ・ブリュール後備大隊

○後備第68「ライン第6」連隊

 ・ノイス後備大隊

 ・ドイツ後備大隊(ケルン市ライン東岸地区)

○予備「重」驃騎兵第4連隊

○第7軍団・予備重砲中隊


 しかしティオンビルよりの行軍中再び命令が変更され、ライン州の後備兵4個大隊は陥落したセダンの守備と仏守備隊が籠城する(シャルルヴィル=)メジエール要塞の監視へ向かうこととなりました。更に普第65連隊の第1大隊がストゥネ(セダンの南東29キロ)とダンヴィエ(ベルダンの北20キロ)両兵站集積地の警備を命じられて去り、ボートマー将軍はたった2個(第65連隊第2・F)大隊と驃騎兵1個連隊、6ポンド野砲6門になってしまった支隊を引き連れ、9月7日、ベルダン要塞の東側に現れます。


 ボートマー将軍は翌8日、東側高地より要塞をじっくりと観察し、要塞の斜堤際にある諸部落には防衛兵力が存在しないことを確認しました。しかし要塞の南側郊外はムーズ川から引水して氾濫地となっており、ムーズ上流のベルレ(ベルダンの南南東3.3キロ)にあった徒渉場は破壊されて使えず、下流のベルヴィル(=シュル=ムーズ。同北1.7キロ)付近の鉄道橋も爆破されていたのです。

 ところが、驃騎兵の斥候が更に下流(北)を調べたところ、ブラ(=シュル=ムーズ。同北5.7キロ)付近には徒渉場と渡船が手付かずに残されているのが判明し、翌9日、普第65連隊の第7中隊(第2大隊所属)と1週間前からベルダンを監視していてボートマー隊に一時合流した普槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊、それに同連隊に配されていた騎砲3門がブラでムーズを渡河して西岸に渡り、川沿いに南下して要塞西側の通行を遮断しようと謀りました。

 しかし、最悪のタイミングでまたもや命令が届き、槍騎兵連隊はメッス包囲中の原隊(普騎兵第1師団)復帰を命じられ急ぎ出発してしまったため、歩兵中隊は孤立を避けるため空しく上流に引き返したのでした。

 この第7中隊は結局、ブラ部落の対岸となるシャルニー(=シュル=ムーズ)に宿営し、「ブラの渡し」を守備することとなりました。また、ムーズ川東岸にある諸隊はこの9日、ベルダンを望む東側の高地で、エテン街道(現・国道D603号線)を挟んで均等に展開したのでした。


 こうしてボートマー将軍が要塞を監視し始めてからの3、4日間、仏軍は要塞の補強作業に専念している様子で出撃することはなく、ただベルレの南で偵察斥候同士の遭遇戦が数回あった程度でした。

 しかし、9月15日の午後、仏守備隊は北西方向のラ・マドレーヌの林(ベルダンの北西5.3キロに現存するラ・マドレーヌ農場の付近にあった林)に向けて出撃し、フロメレヴィル(=レ=ヴァロン。同西7キロ)周辺で徴発した糧食を満載しシャルニーに向かって帰途上にあった普軍の馬車隊を襲ってこれを奪おうとしました。これは仏軍の襲撃を一早く察知したシャルニーの第7中隊が駆け付けて戦い、東岸から応援もやって来ると仏軍は諦めて後退して行きました。

 また、18日早朝には要塞砲兵の援護射撃の下、ベルヴィル(=シュル=ムーズ)を経てコート=サン=ミシェル山へ向かう仏軍の攻撃がありましたが、こちらも普軍前哨と救援隊が防戦し、大事になる前に仏軍は要塞に引き上げています。


 ベルダン要塞の包囲が本格化したのは9月23日以降で、これはそれまで独第一軍に属していた兵站後方連絡路の守備隊が任を解かれてベルダンまで前進*し、またセダンで鹵獲した要塞砲若干がボートマー将軍の下に到着したからでした。


※9月23日のボートマー支隊(歩兵21個中隊・騎兵7個中隊・砲兵2個中隊/砲18門)


○普第65「ライン第5」連隊

 ・第2大隊

 ・フュージリア(F)大隊

○後備第25「ライン第1」連隊

 ・アーヘン後備大隊

○後備第65「ライン第5」連隊

 ・ユーリッヒ後備大隊

○後備第68「ライン第6」連隊

 ・ドイツ後備大隊の1個中隊*

○予備「重」驃騎兵第4連隊

○予備槍騎兵第6連隊(1個中隊欠)

○第7軍団(野戦砲兵第7連隊)・予備重砲中隊

○第8軍団(野戦砲兵第8連隊)・予備重砲中隊

○仏製鹵獲砲6門


※この中隊はセダンから仏の鹵獲砲を運び護衛して来ました。


 余裕の出来たボートマー将軍は、包囲部隊をムーズ川を境として西と東に分割し、東方包囲網は更にエテン街道で南北(北東と南東)に分けられました。

 今までの三倍近くとなったベルダン攻囲兵団は、その主力をムーズ東岸に展開させます。その前哨第一線は東岸において、ベルヴィル部落の西、ムーズ湾曲部の頂点部分にあったヴァモー(ベルダンの北西2.8キロ。現存しません)小部落からベルヴィルの北を通りコート=サン=ミシェル山を経てラ・ブランシャルドリ(農家。ベルダンの東3.5キロ。現存します)を通ってベルリュプト(=アン=ヴェルデュノワ。同東南東4.6キロ)に至るというもので、西岸では南方ベルレから西へビルモン(農家。ベルレの西1.9キロ。現在は邸宅街になっています)へ、ここからサン=バルトルミー(ベルダンの西南西2.5キロ付近の丘陵尾根)とブルモン(同西2.3キロ付近の丘陵尾根)両高地尾根を越えて東岸包囲網北端となるヴァモーの対岸、ヴィレ=レ=モワンヌ(ブラ=シュル=ムーズの南西3.2キロの小部落)に至るというものでした。

 ボートマー将軍は東西包囲網の連絡確保のため、壊されたベルレ付近の徒渉場付近に徒歩で渡る仮橋を架けるよう命じるのでした。


※9月23日におけるベルダン攻囲兵団の配置

 指揮官 ルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー中将

○西方地域(歩兵8個中隊・騎兵3個中隊・砲兵1個中隊/6門)

*第65連隊・F大隊

*ユーリッヒ後備大隊の4個中隊(注・1)

*予備重驃騎兵第4連隊の2個中隊

*予備槍騎兵第6連隊の1個中隊

*第8軍団・予備重砲中隊(普軍6ポンド砲6門)

○北東方地域(歩兵7個中隊・騎兵1個中隊・砲兵1個小隊/8門)

*第65連隊・第2大隊

*ユーリッヒ後備大隊の2個中隊(注・2)

*ドイツ後備大隊の1個中隊

*予備重驃騎兵第4連隊の1個中隊

*第7軍団・予備重砲中隊の1個小隊(普軍6ポンド砲2門)

*仏軍鹵獲砲6門

○南東方地域(歩兵4個中隊・騎兵1個中隊・砲兵1個小隊/2門)

*アーヘン後備大隊の4個中隊(注・1)

*予備重驃騎兵第4連隊の1個中隊

*第7軍団・予備重砲中隊の1個小隊(普軍6ポンド砲2門)

○予備隊(歩兵2個中隊・騎兵2個中隊・砲兵1個小隊/2門)

*アーヘン後備大隊の2個中隊

*予備槍騎兵第6連隊の2個中隊

*第7軍団・予備重砲中隊の1個小隊(普軍6ポンド砲2門)


※数日後に到着し加わった部隊

○後備第69「ライン第7」連隊

*ジンマーン後備大隊(注・1)

 北東方地域へ

*アンダーナッハ後備大隊(4個/第1~4中隊のみ)(注・1と3)

 西方地域へ

○後備第60「ブランデンブルク第7」連隊

*テルトー後備大隊

 包囲網に加わるも直後に別命を受け(ランス総督府傘下となりランスへ)再び出立(9月30日)


 注・1 これらの後備歩兵大隊は本来兵站路守備隊として編成されており、野戦部隊と比べて2個中隊多い6個中隊(およそ1,200名)制となっています。

 注・2 後備第2師団からの増援により、北東方地域のユーリッヒ後備大隊の2個中隊は西方地域に移転し、本隊4個中隊と合流しました。 

 注・3 アンダーナッハ後備大隊残りの2個中隊は、ランス方面へ向かう後方連絡線上の「クレルモン=アン=アルゴンヌ」と「シュイップ」両兵站集積地で守備隊となっています。


挿絵(By みてみん)

 ベルダン(1866)


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