ベルフォール攻囲の開始
普予備第1師団の前衛*は、「ベルフォール攻囲兵団」の右翼(西側)「前遣」支隊となってセルネー(独名ゼンハイム。ミュルーズの北西13.7キロ)を経由しマズヴォー(独名マスミュンスター。同西25.5キロ)付近を通過して、ヴォージュ山脈の南山麓をベルフォール地方目指して進みました。
10月31日にはゲブビレル(独名ゲーブヴィラー。ミュルーズの北北西20.5キロ)とゾウルツ=オ=ラン(同ズルツ。ゲブビレルの南南東3キロ)付近で仏義勇兵や護国軍部隊と交戦し、翌11月1日にもセルネーとグエヴェンハイム(セルネーの南西8.8キロ)付近で遭遇戦が発生しましたが、どちらも短時間で仏軍側が退却しています。
※11月2日の普予備第1師団の前衛支隊(以下、「右翼支隊」とします)
*ポンメルン後備混成第2連隊
◯イノヴラツラウ後備大隊
◯ブロンベルク後備大隊
◯ドイツェ=クローネ後備大隊
*普予備槍騎兵第2連隊・第4中隊
*第9軍団・予備軽砲第1中隊
*第2軍団・要塞工兵第2中隊
11月2日。予備第1師団の右翼支隊は遂にベルフォール要塞の守備隊に所属する護国軍や義勇兵が配置に就く前哨線に到達しました。
ベルフォールの仏軍は、プティ=マニーとグロス=マニーの双子部落(ベルフォールの北9.6キロ周辺)やロップ(同北東5.4キロ)にそれぞれ1個大隊の護国軍兵を置き、ヴォージュ山脈の住民たちを中心とする義勇兵諸中隊を、ベルフォールから北東方向の山脈内に通じる諸街道に徘徊させていました。
普右翼支隊の先鋒となったドイツェ=クローネ後備大隊は、ルージュモン(=ル=シャトー。ベルフォールの北東14.4キロ)の北郊でこの仏軍前哨と衝突し、かなりの時間、銃撃を交わします。この仏軍は闘志に燃えて執拗な抵抗を試みますが、やがて普後備大隊が呼び寄せた砲兵(第9軍団予備軽砲・第1中隊/4ポンド砲6門)が砲撃を始めると、仏軍はプティ=マニー付近の高地まで後退しました。
普軍軽砲中隊はこの高地を砲撃し続け、ドイツェ=クローネ後備大隊はその東正面へ、後続のブロンベルク後備大隊は左翼(南側)に回り込んで進み、挟撃する形で高地の仏軍を攻撃します。
この仏軍部隊は普軍の後備兵が突撃を敢行するまでもなく砲撃と銃撃で大損害を被り、残存兵は要塞に向かって潰走するのでした。
普右翼支隊はその後妨害を受けることなく、夕刻までに予定された目標のヴァルドア~ジロマニー街道(現・国道D465号線)の中間点(ベルフォールの北9キロ)付近に到達しました。
この日(2日)、エンシスハイムからベルフォール地方に出発した普予備第4師団所属の元「アルザス南部警戒隊」の前衛支隊*は、ゼントハイム(ミュルーズの西21.5キロ。セルネー/独名ゼンハイムと紛らわしいので注意)を経由して行軍し、プティ=マニーを左折して南進するとアンジューテ(ベルフォールの北東8.7キロ)に達します。予備第1師団の本隊も同じ行軍路を使用して、この日はロ(ゼントハイムの西2.5キロ)を経てラ・シャペル=ス=ルージュモン(ベルフォールの北東14キロ)に到着しました。
師団本隊の先鋒となったシュテンダール後備大隊は更に街道(現・国道D83号線)を先へ進み、サン=ジェルマン(=ル=シャトレ。アンジューテの東2キロ)の工場にいた仏軍前哨を駆逐すると、レ・ゼルル(同南東2.2キロ)の近郊で街道にバリケードが築かれており、その先のロップ(レ・ゼルルからは南西へ3.2キロ)にも仏軍大隊がいるのを発見し、この部隊も襲撃して要塞方面へ駆逐し、ロップ周辺で警戒しつつ野営に入りました。
※11月2日の普予備第4師団の前衛支隊(以下「予4支隊」とします)
◯普第25「ライン第1」連隊・第1大隊
◯オルテスブルク後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊)
◯オステローデ後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊)
*普予備槍騎兵第3連隊・第2,3,4中隊
*師団「混成」砲兵の軽砲第3,4中隊
※11月2日の普予備第1師団本隊
*ポンメルン後備混成第1連隊(グネーゼン後備大隊・欠)
○シュナイデミュール後備大隊
○コーニッツ後備大隊
*ポンメルン後備混成第3連隊
○シュテンダール後備大隊
○ブルク後備大隊
○ノイシュタット後備大隊
*予備槍騎兵第2連隊(1個中隊欠)
*第9軍団・予備軽砲第2中隊
ベルフォール付近(北)
11月3日には右翼支隊がシャロンヴィラール(ベルフォールの西6キロ)に、「予4支隊」は昨日右翼支隊が宿営したセルママニー(同北北西6.5キロ)にそれぞれ進出して、ベルフォールへ通じる西と北の街道を押さえました。普予備第1師団本隊はバンヴィラール(同南南西6.3キロ)を先頭にスヴナン(同南5.9キロ)~シェヴルモン(同東南東4.5キロ)~ロップ(同北東5.4キロ)に至る要塞南方から東方の包囲原型を作り出します。
仏軍のベルフォール守備隊はこの日、要塞の前進諸堡塁から普軍に対して初めて砲撃を行いますが、これは威嚇程度で普軍の前進を留めるまでには至りませんでした。
この日、予4支隊の普第25連隊第1大隊と普予備第1師団本隊のシュテンダール後備大隊は共同してヴォージュ山麓のエロワ(ベルフォールの北5.8キロ)に集合していた仏護国軍大隊を攻撃し、これを要塞方面に退却させます。
なお、予4支隊からは前夜(2日夜)、親部隊となる独第14軍団と連絡するべくフォン・オーレン=アドラースクローン少佐率いる一隊(予備槍騎兵第3連隊の1個中隊と馬車に乗った第25連隊の歩兵60名)が西に向かって出立し、リュールを経て翌3日、直線距離でも西に50キロ以上離れたブズールに到着し連絡を成しました。
この3日、普予備第1師団長のウード・フォン・トレスコウ少将は師団司令部をレ・ゼルルに置いています。
仏軍士官に降伏勧告文を渡す独軍士官(11月4日)
この、独軍側がベルフォール要塞を遠巻きに包囲した時点(11月3日)において、総指揮官となるウード・フォン・トレスコウ少将(親戚のエミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将も攻囲戦に参加するので、以降U・トレスコウとします)が掌握する諸隊は要塞を完全に封鎖するには数が足りなかったため、U・トレスコウ将軍は「もしも優勢な敵が出撃に及んでも時機を失うことなく相互が補完し合える」絶妙な配置(現在で言うところの機動防御に近い形)を目指して部隊を展開させました。
この訓令を受けた諸隊は、それぞれの宿営地前方に油断なく前哨を置くと、宿営地部落の「小要塞化」工事を始めました。
普軍は部落の周囲を鹿砦で囲い、その入り口をバリケードで塞ぎ、宿営地間には散兵壕と掩蔽された交通壕そして要所要所に肩墻を設けて、各宿営地は応援が駆け付けるまで独自で防御を行えるよう工夫を重ねます。また、ラ・シャペル=ス=ルージュモンには輜重・糧食と各種機材等を納める倉庫群を設営し、軍病院もこの街に置かれました。
しかし、このベルフォールという地方は高地帯の中にあって山と山との間に比較的小さな部落が点在する場所であり、主要街道を繋ぐ道路も少なく、人口も多くはなかったため元より糧食を徴発するのも困難であり、更にめぼしい糧食は全てベルフォールに運ばれた後だったため、普攻囲兵団側はこの先、糧食の補給に大変苦労することとなるのです。
ウード・フォン・トレスコウ
この「ベルフォール攻囲」の初期段階では双方積極的な行動は少なく、せいぜい小競り合いが続きました。
11月5日。護国軍部隊2個中隊(500名前後)が要塞から西のシャロンヴィラールへ通じる街道(現・国道D19号線)上にあるエセール(同・西3.6キロ)を確保しようと前進し、西側の包囲網前線にいたドイツェ=クローネ後備大隊(後備大隊の定員は802名です)と衝突します。しかし、独後備兵から激しい銃撃を浴びた仏護国軍部隊は抵抗することなく要塞へ引き返しました。また、「ヴォージュ山脈を越えて強力な仏軍部隊が北方よりベルフォールに向かった」との未確認情報がもたらされたため、6日にジロマニー(ベルフォールの北11.8キロ)へ強力な威力偵察隊を送りましたが、これは誤報と判明し偵察隊は引き返しました。
7日に仏軍は普軍包囲網の南と東に対して砲撃を行い、宿営駐屯地となっていた数個の部落で火災が発生しました。この後、仏軍は要塞から出撃してスヴナンとヴェズロワ(ベルフォールの南東5キロ)へ向かいますが、ブルク、ノイシュタット両後備大隊がこれに対抗して銃撃戦が行われた後、仏軍部隊はボタンの森(スヴナンの北西2キロ、サブルーズ川を越えたボタン部落北に広がっていた森)とボスモンの森(ベルフォールの南郊外にあった森)を通って要塞へ撤退するのでした。
この間にエルザス総督府では普予備第1師団所属部隊とシュレージェンの後備部隊との交代が進み、任を解かれた諸隊は順次ベルフォールの原隊へ復帰して行きます。
この交代は11月8日にほぼ終了し、ベルフォールの包囲・封鎖はほぼ完全になりました。それまでは要塞に対し前哨第一線と宿営拠点のみ維持していたU・トレスコウ将軍の攻囲兵団は、南西方リゼーヌ川の線まで抑えることが出来るようになります。
また、この配置転換ではそれまで攻囲兵団唯一の正規軍部隊として予4支隊のバックボーンとなっていた普第25「ライン第1」連隊の第1大隊がコルマールに向けて撤退して行きました(9日)。同大隊は12日にズルツ付近で原隊の第25連隊本隊に合流し復帰を果たします。
残りの予4支隊は、ポンメルン後備混成第2と第4連隊と共に要塞西部の包囲に回ってジロマニーからモンベリアール(ベルフォールの南南西15キロ)までに展開し、ヌフ=ブリザック要塞攻囲を離れて赴任したエミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将が指揮を執ります。予備第1師団の残部(ポンメルン後備混成第1と第3連隊主幹)は要塞東側の包囲に回るのでした。
※11月8日・ベルフォール西部の包囲部隊
指揮官 エミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将(以降E・トレスコウ)
○ジロマニー~セルママニー間に宿営
*ポンメルン後備混成第4連隊
・ハルバーシュタット後備大隊
・ノイハルデンスレーベン後備大隊
・スタルガルト後備大隊
*予備槍騎兵第3連隊の2個中隊
*予備第4師団・軽砲第4中隊
○フライエ(=エ=シャトビエ。ベルフォールの西北西9キロ)とシャロンヴィラールに宿営
*オストプロイセン後備混成第2連隊
・オルテスブルク後備大隊
・オステローデ後備大隊
*予備第4師団・軽砲第3中隊の2個小隊4門
○バヴィリエ(ベルフォールの南西3キロ)~モンベリアール間に宿営
*ポンメルン後備混成第2連隊
・イノヴラツラウ後備大隊
・ブロンベルク後備大隊
・ドイツェ=クローネ後備大隊
*予備槍騎兵第3連隊の2個中隊
*予備第4師団・軽砲第3中隊の2個小隊2門(モンベリアール在)
※11月8日・ベルフォール東部の包囲部隊
指揮官 男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・ブッデンブローク大佐
○サン=ジェルマン(=ル=シャトレ)~ベソンクール(ベルフォールの東5キロ)間に宿営
*ポンメルン後備混成第3連隊
・シュテンダール後備大隊
・ブルク後備大隊
・ノイシュタット後備大隊
*予備槍騎兵第2連隊の1個中隊
*第9軍団・予備軽砲第2中隊
○ベソンクール南方~スヴナン間に宿営
*ポンメルン後備混成第1連隊
・シュナイデミュール後備大隊
・コーニッツ後備大隊
・グネーゼン後備大隊
*予備槍騎兵第2連隊の1個中隊
*第9軍団・予備軽砲第1中隊
○ムロー(ベルフォールの南南東5キロ)付近で予備
*予備槍騎兵第2連隊の2個中隊
*第2軍団・予備軽砲第1中隊
この「ベルフォール攻囲兵団」による包囲網の構築と増強は、この11月中旬に集中して行われました。
U・トレスコウ将軍ら攻囲兵団の首脳陣は、諸隊の後方支援を行う主拠点としてモンベリアール市を指定し、仏軍が出撃又は解囲を狙った他方面からの侵攻があった場合に備えます。特に市街東南方リゼーヌ川岸に聳えるモンベリアール城は、歩兵の突撃位ではびくともしない強力な陣地となり、攻囲兵団はここに守備隊を常駐させ籠城も可能なように糧食も蓄えました。
モンベリアール城
これら攻囲兵団の動きはベルフォールの仏守備隊にも知られ、11月10日には1個大隊の歩兵による出撃が西側包囲網に対して試みられ、この部隊はシャロンヴィラールの駐屯部隊に突進し、同時に出撃した仏軍の貴重な砲兵小隊(砲2門)がエセール付近に砲を並べシャロンヴィラールの普軍陣地を砲撃しました。しかし普軍側のオルテスブルク後備大隊は慌てずに反撃し、これを軽砲数門が援護したために仏軍は程なく踵を返したのでした。
遡って11月5日。独第14軍団長のフォン・ヴェルダー歩兵大将は、1週間前に配下となったU・トレスコウ少将に対し最初の命令を発しました。
それに因れば、「仏軍がブザンソン方面から東進する可能性があるため、これを監視し、ベルフォールからスイスに達する鉄道線を破壊せよ」とのことでした。
この頃はヴェルダー将軍の手元にある第14軍団本隊(Ba師団と普混成旅団)がディジョンとグレに進み、本営他少数の部隊のみがブズールにあった頃で、その最左翼(東)部隊もリュールからブズールに移ったため、リュール方面もU・トレスコウ将軍が面倒を見なくてはならなくなっていました。
同じ頃、「仏護国兵部隊がドゥー河畔のイル=シュル=ル=ドゥー(モンベリアールの西南西17.5キロ)に現れた」との風評が流れ、U・トレスコウ将軍は先のヴェルダー将軍の命令を実行するよう、要塞包囲網の西側を指揮することになったばかりのE・トレスコウ少将に命じました。
11月9日。E・トレスコウ将軍は「噂」を確かめるため諸兵科連合の強力な威力偵察隊をドゥー川に沿って派遣します。この部隊はバヴァン(モンベリアールの南西6キロ)を経て街道(現・国道D663号線)に沿って前進しますが、既に同地方に敵影はなく、モンベリアールへ帰着すると「敵は既にブザンソン(イル=シュル=ル=ドゥーの西南西48キロ)方面へ撤退したようだ」と報告します。
E・トレスコウ将軍は10日の仏軍による西側包囲網攻撃を撃退した後12日になって、今度は麾下で包囲網から外せる全力、歩兵4個大隊・騎兵3個中隊・砲兵1個中隊と1個小隊(8門)を直率して包囲網を離れ、エリクール(ベルフォールの南西10.5キロ)からアルセ(モンベリアールの西10.4キロ)を経て街道(現・国道D683号線)を南下し、前述の偵察隊の伝通りドゥー沿岸に敵勢力が存在しないことを再確認するのでした。この「E・トレスコウ支隊」は道中、少数の仏義勇兵から数回に渡って嫌がらせ程度の銃撃こそ被りますが、それ以上の抵抗はなく、ただ、街道の数ヶ所において橋梁が破壊され、またバリケードが築かれているのを確認しました。E・トレスコウ将軍はこの時、ヴェルダー将軍がドール方面へ出撃すると聞き及び、「少しでもヴェルダー将軍を楽にしよう」と勇み立ち、敵を求めドゥー川岸の街道を下ります。遂にはベルフォールとブザンソンの中間地点クレルヴァル(ブザンソンの東北東39キロ)に至りますが、ここでも敵影を見ることが出来なかった将軍は、包囲網を何時までも手薄にして置く訳にも行かず引き返し、この日(12日)はイル=シュル=ル=ドゥーに宿営すると翌13日、モンベリアールへ帰還するのでした。
同じ頃、E・トレスコウ将軍麾下の別動隊は、「ベルフォールからスイスに達する鉄道線を破壊せよ」とのヴェルダー将軍もう一つの命令を実行するため、まずはスイス国境付近を偵察するためE・トレスコウ将軍とは逆方向の東へ進むと、スイスとの国境の部落デル(モンベリアールの東15.3キロ)周辺まで進んで住民から武器を取り上げて回り、その帰路、モルヴィヤール(同東北東11キロ)付近でベルフォール~スイス(ポラントリュイ)鉄道線を破壊するのでした。
ベルフォール付近(南)
U・トレスコウ将軍は、このデル地方からバーゼルに対面するサン=ルイ(ミュルーズの南東25キロ)に掛けての仏/スイス国境付近の警戒をも行わねばなりませんでした。これは何もスイスが独に敵対するという訳では無く、イザとなったら中立国に逃げ込めるため義勇兵の活動が活発となる恐れと、国境沿いにブザンソンやリヨン方面から強力な仏援軍が密かに入り込む可能性もあったためです。
しかしこの任務は11月12日より後、ストラスブールからやって来た普第67連隊が肩代わりすることとなりました。
普第67「マグデブルク第4」連隊は戦前より普第15師団第30旅団に所属し、そのままゲーベン将軍麾下(普第8軍団)として普仏戦争を迎えるとグラヴロットの戦い(ジェミヴォー森、マンス渓谷、サン=テュベールの家、モスクワ農場)で奮戦し、そのままメッス攻囲に参加した後の10月11日、独内国警備に回されました。そして後方任務を行いつつ戦力を回復した後、エルザス総督府に配され予備第1師団配下となってストラスブール付近で宿営していたのでした。
この時、普第67連隊第1大隊とフュージリア(以下F)大隊はラ・シャペル=ス=ルージュモンを宿営地とし、第2大隊はそれまで放置に近い状態にあったミュルーズ市の治安維持・守備に入ります。連隊諸隊は宿営地から随時巡視隊を派出して国境地帯を警備することになるのでした。
ベルフォールの仏守備隊は11月10日の出撃以来、要塞と外堡から普軍宿営地に対し断続的な砲撃を行っていましたが、15日になって再び大規模な出撃を行います。これはおよそ歩兵4個大隊・工兵若干・野砲2、3門によるもので、払暁時に10日の逆、東側包囲網に向かって突進しました。
この内、東方ベソンクールへの街道(現・国道D419号線)を進んで来た仏軍は普軍前哨線から普軍を駆逐しベソンクールへ突撃して来ますが、この部落を守備していた男爵フォン・ツァンマー=オステン大尉率いるノイシュタット後備大隊は、部落から打って出て密集隊形で迫る仏軍に突進したため、仏軍縦列は逡巡して列が乱れ、混乱状態で要塞方面へ撤退します。この撤退を見た仏守備隊は予備隊を投入して再び東部へ突進させたため、戦闘は普軍前哨線付近で膠着するのでした。
この間、両軍の砲撃は激化し、要塞からは重砲も発砲を開始しました。予備隊を投入したベソンクール西の仏軍は砲撃の援護で息を吹き返し、度々普軍前線を襲いますが、これを前線にあったヴァインベルガー大尉率いる第9軍団予備軽砲第2中隊の1個小隊(砲2門)が仏軍歩兵の突進に対し直接照準で砲撃を繰り返し、これは大尉が集中した銃砲撃を受け、撤退せざるを得なくなるまで続けられました。同時に、同大尉麾下の1個小隊も仏軍の側面に回り込んで砲列を敷き、絶え間なく榴弾を発砲したため、午前8時に至ってこの仏軍はついに後退して行ったのです。
要塞守備隊から出撃した他の仏軍は、北東方ロップと南東方シェヴェルモンを狙って2個の縦列で突進しました。
しかし、ロップに向かった仏軍は前線後方に控えたヴァインベルガー大尉麾下の残る1個小隊の砲撃により前進を阻止され、シェヴェルモンに向かった縦隊は陽動攻撃を図ったもので、途中で引き返し戦闘には至りませんでした。
この「11月15日の戦闘」で普軍は18名の損害(その殆どがヴァインベルガー大尉の砲兵たち)を、仏軍は130人前後の損害を被っています。
普後備部隊と仏護国軍部隊の戦闘
この頃にはU・トレスコウ将軍も、ベルフォール要塞が籠城する守備隊や居残った住民たちに比して長期間耐久出来る膨大な量の糧食や生活必需品を蓄えており、また要塞や外堡も近代戦の攻城砲撃に耐えうる強度を持つ防御施設を数多く備えていることを知り、長期間の包囲兵糧攻めも、砲撃による落城も中々に難しいことを悟っていました。
U・トレスコウ将軍は、今後のベルフォールに対する作戦を単なる包囲監視とするのか、又は時間が掛かると共に労力や資材を投入せねばならない対壕掘削作戦「正攻法」で行くのか大いに迷うところでしたが、ベルフォールを是が非でも「落としたい」普大本営から、ヌフ=ブリザック要塞の陥落を受けて「ベルフォール要塞は正攻法により陥落させる」との決定が発せられ、正攻法に必要となる大量の資材は直ちにヌフ=ブリザックの工廠から引き上げられてベルフォールの攻囲網へ送られるのでした。
普予備第4師団本隊は、ヌフ=ブリザック要塞の陥落後フォン・ヴェルダー将軍の命令を受けてブズールへの行軍を開始すると、11月13日にエンシスハイム(ミュルーズの北12.8キロ)の近郊に集合し、翌14日、主力は2個縦列を作ってセルネーに達し、15日にはその先頭がジロマニーへ進みます。
この15日には、師団本隊から離れていた第25「ライン第1」連隊第1とF大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個小隊がセルネーを出発しサン=タマランに通じる山道(現・国道N66号線)を行軍してヴォージュ山脈を越え、サン=モーリス(=シュル=モセル。ジロマニーの北13キロ)に向かいました。
この予備第4師団所属で、ベルフォールの西側包囲網に従事していた諸部隊の内、オルテスブルク後備大隊・普予備槍騎兵第3連隊の2個中隊・師団「混成」砲兵の軽砲第3,4中隊も、フォン・ヴェルダー将軍により原隊復帰を命じられますが、オステローデ後備大隊と普予備槍騎兵第3連隊の1個中隊だけは包囲網に留まりました。この代わりにベルフォール要塞攻囲兵団には、ヌフ=ブリザック要塞の守備に従事していた同師団のレッツェン後備大隊と、同地で獲た捕虜の護送任務を行っていたグンビンネン後備大隊が任を解かれて加わるのです。
☆普予備第1師団 (1870年11月上旬時点)
師団長 ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ少将
参謀 フォン・シュルツェンドルフ大尉
◇ 後備第1旅団
旅団長 男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フォン・ブッデンブローク大佐
◯ ポンメルン後備混成歩兵第1「第14/第21」連隊(フォン・ティッツヴィッツ大佐)
・グネーゼン後備大隊(グルッペ少佐)
*現・ポーランドのグニェズノ(ポズナンの東北東48キロ)
・シュナイデミュール後備大隊(フォン・ヴァイスフン少佐)
*現・ポーランドのピワ(ポズナンの北84キロ)
・コーニッツ後備大隊(カウシュ大尉)
*現・ポーランドのホイニツェ(ビドゴシュチの北70キロ)
◯ ポンメルン後備混成歩兵第2「第21/第54」連隊 (フォン・オストロウスキー大佐)
・イノヴラツラウ(ホーエンザルツァ)後備大隊(フォン・シャナン大尉)
*現・ポーランドのイノブロツワフ(ビドゴシュチの南40キロ)
・ブロンベルク後備大隊(フォン・ペテリー少佐)
*現・ポーランドのビドゴシュチ
・ドイツェ=クローネ後備大隊(フォン・パヴェルス少佐)
*現・ポーランドのバウチュ(ピワの北西22.4キロ)
◇ 後備第2旅団
旅団長 フォン・アフェアン少将(傷病のため?エミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将が代行)
◯ ポンメルン後備混成歩兵第3「第26/第61」連隊 (フォン・ベルガー大佐)
・シュテンダール後備大隊(レッペルト少佐)
*ベルリンの西105キロ
・ブルク後備大隊(フォン・シュッツ中佐)
*マグデブルクの北東23キロ
・ノイシュタット後備大隊(男爵フォン・ツァンマー=オステン大尉)
*ベルリンの北西75キロ
◯ ポンメルン後備混成歩兵第4「第61/第66」連隊(フォン・ゲリッケ大佐)
・ハルバーシュタット後備大隊(ウターヴェッデ大尉)
*マグデブルクの南西47キロ
・ノイハルデンスレーベン後備大隊(フォン・ヴェルテルンハーゲン大尉)
*現・ハルデンスレーベン。マグデブルクの北北西23.5キロ
・スタルガルト後備大隊(フォン・ボヤン少佐)
*現・ポーランド、ドイツとの国境に近いのスタルガルト・グビンスキ(ベルリンの南東118キロ)
◯ 予備槍騎兵第2連隊(フォン・ブレドウ大佐)
◯ 師団混成砲兵大隊 (ヴァイゲルト少佐)
・第2軍団予備軽砲第1中隊(ランゲマック大尉)
・第9軍団予備軽砲第1中隊(フォン・ブラウンシュヴァイク大尉)
・第9軍団予備軽砲第2中隊(ヴァインベルガー大尉)




