ヌフ=ブリザック要塞攻囲戦
☆ ヌフ=ブリザック要塞攻囲戦
10月7日の砲撃戦以降、普予備第4師団の「焦点」がセレスタに移り、ヌフ=ブリザック周辺では独仏共にしばらくの間大きな動きはありませんでした。ヌフ=ブリザック要塞の守備隊は堅牢な要塞に頼って積極的行動を取らず、ただ時折小部隊によるゲリラ的な出撃を行うのみでした。
ところが10月15日、およそ1,500名の仏守備隊による出撃があり、彼らはこの日早朝からの濃霧に乗じて要塞の西側へ進み、二手に分かれてヴェコルスハイム(ヌフ=ブリザックの南西2キロ)とヴォルフガンツェン(同北西2.3キロ)を襲います。
ヴェコルスハイムで前哨任務に就いていたオストプロイセン州グンビンネン後備大隊の1個中隊は突如三方から襲撃を受け、危うく包囲殲滅される寸前に唯一敵からの銃撃がなかった西方へ脱出しました。また、ヴォルフガンツェンにいたレッツェン後備大隊の前哨も仏軍に襲われ、西側の森林地帯へ待避しています。
急を聞いて宿営地のデッセンハイム(ヌフ=ブリザックの南西5.5キロ)とヘッテンシュラーク(同西5.5キロ)から駆け付けたグンビンネン後備大隊の主力は、ヴェコルスハイムの西で前述の中隊を収容すると空かさず逆襲し、程なく仏軍は要塞に向かって退却して行きました。同じく前哨が後退したレッツェン後備大隊も、仏軍が占領したヴォルフガンツェンを素早く包囲すると突撃を敢行して、浮き足だった仏軍部隊は一気に要塞まで遁走したのです。
この日の戦いでは双方共に人的損害は微々たるもので、戦闘も午前7時には終結していました。
次に大きな動きがあったのは22日の午後で、仏軍は再びヴェコルスハイムを狙って襲撃を企てましたが、仏攻撃隊の隊列がカストンの森(独名カステン・ヴァルド)東縁に砲列を敷いた普軍野砲兵による数発の榴散弾砲撃を浴びると、仏軍部隊は行軍を中止して要塞に引き上げたのでした。
ノイ=ブライザッハ要塞のバール(バーゼル)門(独領となった後1900年の姿)
ヌフ=ブリザックを包囲していたエミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将率いる諸隊*は、10月中旬にセレスタの攻囲兵団に対しオストプロイセン後備混成第1連隊の2個大隊と1個砲兵中隊を増援として送ったため、要塞の四方を完全に封鎖することが出来なくなってしまいます。トレスコウ将軍は仕方なく要塞の西と北側に兵力を集中させ、南方は監視の前哨のみ派遣するだけに留めました。
※10月20日前後のヌフ=ブリザック包囲「トレスコウ支隊」
*オストプロイセン後備歩兵旅団
・インスターブルク後備大隊(オストプロイセン後備混成第1連隊)
・グンビンネン後備大隊(オストプロイセン後備混成第1連隊)
・レッツェン後備大隊(オストプロイセン後備混成第3連隊)
・ゴールダプ後備大隊(オストプロイセン後備混成第3連隊)
・ダンツィヒ後備大隊(オストプロイセン後備混成第3連隊)
・マリーエンブルク後備大隊(オストプロイセン後備混成第3連隊)
*予備槍騎兵第1連隊
*師団「混成」砲兵・重砲第1,2、軽砲第1中隊
しかし、10月27日にはセレスタの陥落によりティルジット、ヴェーラウの両後備大隊(オストプロイセン後備混成第1連隊所属)が復帰し、彼らは師団砲兵の重砲第2中隊を伴って手薄になっていた要塞南部の包囲に進み、その包囲線はヴェコルスハイムからアルゴルスハイムの間に敷かれます。
同時にインスターブルク、グンビンネン両後備大隊は、これもセレスタからやって来たグラウデンツ、トールン両後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊所属)と合流すると、師団砲兵の軽砲第2中隊を伴って要塞北西方のヴィダンソラン運河から南側のライン~ローヌ運河間に再展開して要塞西郊を固め、残るオストプロイセン後備混成第3連隊の4個大隊と師団砲兵の重砲第1、軽砲第1中隊は要塞の北方の包囲網を再構築し、この前線はライン川の大きな中州に面したビースハイム部落まで達しました。この数日後にはセレスタより普第25「ライン第1」連隊の第2大隊も北部包囲網へ参加し、こうしてヌフ=ブリザックの攻囲に本腰を入れたフォン・シュメリング将軍は27日、その司令部を要塞北方6.6キロのクンハイム(独名キューンハイム)に置くのです。
セレスタ攻囲に参加していた独要塞砲兵(第7軍団要塞砲兵第6中隊のみセレスタへ残留)と要塞工兵諸中隊も、10月末日までにはヴィダンソラン(ヌフ=ブリザックの北北西6.3キロ)周辺へ到着し、工兵たちはこの地で攻城材料の用意とヴィダンソラン運河とライン~ローヌ運河に架かっていた橋梁の再建と修繕を開始しました。同時にザスバッハ(・アム・カイザーシュトゥール。ブライザッハの北北東12キロ)の西郊とヴァイスヴァイル(ザスバッハの北東7.7キロ)付近のライン川に渡船場を設置する工事も開始されますが、11月1日夜間に発生したライン川の増水でブルクハイム(ブライザッハの北北東7.5キロ)に設置していた軍舟橋が流され、工兵たちはこちらにも係留渡船(両岸を鎖やロープ等で結び、これを伝ってボートを引く渡河方法)を設置して急場を凌いだのでした。
フォン・シュメリング将軍は事前偵察により、要塞攻略の正面を唯一運河が巡っていない要塞北側のヴィダンソラン運河とライン~ローヌ運河間に定めます。
この決定に従って攻城砲は一部がヴォルフガンツェンに、一部がビースハイムに配されて要塞本郭を狙い、ライン東岸バーデン領にも重砲を設置して西河畔のモルティエ堡塁を砲撃することになりました。この砲撃の援護により要塞斜堤からおよそ600m離れた場所(およそヴォルフガンツェンの真東1.5キロ付近)に第1平行壕を掘削することとなったのです。
要塞北方と西方の包囲網第一線に就く前哨は、10月31日の夕刻、一斉に要塞へ接近し、工兵たちが北方から第1平行壕掘削予定地点まで対壕の掘削を開始しました。
翌11月1日夜間には要塞砲兵と工兵によりヴォルフガンツェンとビースハイムに3個の砲台が構築されて攻城砲が運び込まれます。この砲台は相互に交通壕で結ばれ、その端には付属施設も設えられました。
このヌフ=ブリザック周辺は石が多い地質で鶴嘴を使える機会が少なく、掘削作業は困難を極めたと伝えられます。
一方、ライン東岸バーデンのブライザッハでは同1日の夕刻、ラシュタット要塞からBa軍の要塞砲兵が到着し、ブライザッハ北方のライン河畔に3個の砲台を構築しました。その日夜にはブライザッハ要塞の中心となるライン河畔に隆起していたシュロスベルク山上へ砲兵陣地を設けて、モルティエ堡に対する砲撃を準備しました。
これら砲兵や工兵の作業は極力仏軍の目を避けて密かに行われ、この間、仏軍の妨害は全くと言っていいほどありませんでした
モルティエ堡塁
※11月2日におけるヌフ=ブリザック並びにモルティエ堡に対する攻城砲陣地と備砲
○ヴォルフガンツェン南郊外
*第1号砲台
15センチ短(砲身)カノン砲x4 ※数日後、他の攻城砲に交換
*第2号砲台
仏製(鹵獲)15センチカノン砲x4
○ビースハイム西郊外
*第3号砲台
15センチ短(砲身)カノン砲x4 ※数日後、他の攻城砲に交換
○ブライザッハ北方ライン河畔
*第1a号砲台
30センチ臼砲x4
*第2a号砲台
15センチカノン砲x4
*第3a号砲台
12センチカノン砲x4
ヌフ=ブリザック攻囲図
11月2日朝。独攻囲兵団の各砲台では砲撃準備が完了し、要塞に対して砲撃を開始しました。仏側守備隊もこれに対抗し、要塞では従来の備砲に加え北方稜角間に大砲を増備して激しい応射を行うのでした。
この砲撃によってノイ=ブライザッハに対した第1~3号砲台の備砲は要塞のコルマール門とストラスブール門(それぞれ北西と北東門)付近に火災を発生させますが、ヴォルフガンツェン南の1号砲台には要塞からの砲弾が直撃し、カノン砲1門が破壊され砲兵3名が負傷しました。
ブライザッハ北方の3砲台によるこの日のモルティエ堡砲撃は失敗に終わりました。これはライン河畔に置かれた砲台から堡塁までの距離が2,000m強と、厚い堡塁の隔壁を破るには遠かったことと、厚い雲に覆われた暗い一日だったため、見通しが悪く着弾観測が困難となったためでした。
ブライザッハ要塞都市とモルティエ堡塁(手前)1660年
同じ2日の夕刻、前線に配されていたゴールダプ後備大隊の2個中隊は、仏守備兵の隙を突いて要塞のストラスブール門に向かい突進し、門付近の要塞斜堤に取り付くことに成功します。ここで仏守備隊と銃撃戦になると、両中隊は夜間ここに踏み留まって、隔壁に潜む仏兵に対し散発的な嫌がらせの銃撃を続けました。
シュメリング将軍と攻城砲兵首脳陣は、ストラスブールでも降伏を早めるために有効だった「一般市街の砲撃」(当時の独軍は「一般市街」も降伏を拒絶する要塞「内」にあるため砲撃しても構わない、と判断しています)を実行することに決し、目標を要塞中央に絞った独攻囲兵団の砲撃は一晩中続き、要塞市街では遂に大きな火災が発生するのでした。
防戦下のヌフ=ブリザック要塞
第1平行壕掘削作業の方は、要塞からの射界が開けていたため、仏兵から頻繁に銃撃を浴びることとなり、夜間雲間から月明かりも差し込んで作業が捗らなくなったため中止となりました。
しかし砲撃は3日に入っても継続して行われます。
ライン東岸のBa要塞砲兵は昨日の失敗を修正するべく、見通しのよいシュロスベルク山上の観測所からライン河畔の3砲台まで電信線を仮設して観測情報を共有し、また、北方の仮橋や渡船により渡河した8門の攻城砲(9センチカノン砲6門と12センチカノン砲2門)を山上の砲兵陣地に運んでモルティエ堡を目標とする砲撃を始めました。これはたちまち大きな効果を発揮し、モルティエ堡の要塞砲は全く反撃して来なくなりました。
ビースハイムの南でこの状況を観察していたゴールダプ後備大隊長のフォン・ノルマン少佐は、味方の砲撃が止むのを見ると第1中隊を直率して前線最左翼(東)から出撃し、ライン川に沿って流れるビースハイム川の岸辺を突進すると、奇襲でモルティエ堡を占領しようと謀ります。少佐と部下は堡塁の外濠に達しますが、入り口の跳上橋が引き上げられていたためこれ以上堡塁に入れず、必死に銃撃を繰り返す敵を目前にやむを得ず銃火の中を前線まで後退したのでした。
ブライザッハのシュロス山(ベルク)上 砲撃を行う独軍攻城砲兵
仏側守備隊はここまでバーデン領の砲撃を控えていましたが、ヌフ=ブリザック市街が直接狙われたため報復的にブザイザッハ市街を狙った砲撃を開始します。この砲撃も数日間に渡って散発的に行われましたが、これは専らヌフ=ブリザック要塞からの遠距離砲撃(最も近くで3,600mほど)で、至近のモルティエ堡からは思い出したように数発の榴弾が発射されるだけでした。
独側の砲撃はこの2日以後、ヌフ=ブリザック要塞・モルティエ堡に対し昼夜を問わず断続的に行われました。
砲撃5日目となった11月6日。すっかり「大人しく」なっていたモルティエ堡を偵察した独攻囲兵団の斥候は、「堡塁入口の跳上橋が降りている」と報告します。この時攻囲兵団では堡塁の入口を破壊するための工作を思案している最中でしたが、この作戦を実行しようとした矢先の同日夕方、孤立していたモルティエ堡の隊長は白旗を掲げて使者を派遣し、降伏を申し出たのです。
独攻囲兵団は翌7日早朝、モルティエ堡とその南側にあるフォルゲルスハイム部落(モルティエ堡の南南西1.7キロ)に進駐し、約220名の仏守備隊(殆どが急遽召集された地元の護国軍兵)は捕虜としてバーデンのラシュタット要塞へ護送されました。そして任務を完了したブライザッハ周辺の砲兵は活動を停止するのでした。
この間もヴォルフガンツェンとビースハイムの独攻囲兵団砲台はヌフ=ブリザックへの砲撃を続け、翌7日夜間には更にヴォルフガンツェンの第1、2号砲台間に第4号砲台が、ビースハイム西郊外第3号砲台の西南西500m付近には第5号砲台がそれぞれ新設され、両砲台共に重臼砲数門が置かれて翌8日に砲撃を始めました。
この激しく正確な砲撃により要塞の砲兵は次第に応射砲撃の間隔を空けるようになり、10日の午前中には「やけっぱち」になったものか、照準も定めずただ前方に向け乱射するだけとなります。
この日(10日)午後1時30分。要塞は遂に白旗を掲げます。
戦争が始まる約2ヶ月前の5月6日に要塞司令官となったばかりのロスティエ・ケロール砲兵中佐は副官と二人、夕暮れ時に白旗を掲げてビースハイムへ向かいました。ここでシュメリング将軍らと話し合った結果、ヌフ=ブリザックはセレスタ要塞と同一条件で開城・降伏することになったのです。
シュメリング将軍はセレスタ要塞より「長く・激しく抵抗した」ケロール中佐以下の仏守備隊に敬意を払い、一晩要塞内で身辺整理することを認め、翌11日の午前8時に彼らが要塞のバーゼル門を出る際には、士官の帯剣を許して兵士たちにも「正々堂々と武器を持って行進すること」を許可しました。セレスタと同じく9月以降臨時徴集された地元出身の護国軍兵士は武装解除の後に釈放となり、正規軍兵士と戦前徴集の護国軍兵士たちは整然と行進を行った後、静かに武器を置くと独本土に向けて護送されて行きました。
ロスティエ=ケロール
独攻囲兵団は仏守備隊の出城と入れ替わりにヌフ=ブリザックへ入城し、要塞ではレッツェン後備大隊と普第25連隊第2大隊の半分(2個中隊)、そして要塞砲兵と工兵2、3個中隊が最初の守備に就きます。
要塞は頑丈な石積やベトンによる本郭こそしっかりと残っていましたが、木製部分は多くが焼け落ちるか砲撃により吹き飛び、煉瓦とモルタルで覆われた部分も方々ではげ落ちているのが発見されました。
コルマール門付近の火薬庫は完全に焼失しており、バーゼル門の門扉は無くなり、コルマール門とストラスブール門の上屋や3号、5号稜角上の監視塔は崩壊していました。
更に酷かったのは市内の一般家屋で、その多くは焼け落ち、あるいは砲撃により激しく破壊されていました。これは市中にあった280棟の家屋中125棟が完全に焼失か崩壊し、140棟が半壊するという全滅に等しい損害(無傷は僅か15棟)でした。後の調査で要塞のモルタル壁には9,330ヶ所に大小様々な弾痕があったそうです。
モルティエ堡塁も建造物は殆ど砲撃により破壊され、備砲も唯1門が使用可能で残っていただけで、ストラスブールに続き、再び独軍攻城砲の威力が確認されたのでした。
独攻囲兵団のヌフ=ブリザック要塞とモルティエ堡における鹵獲品は、各種大砲108門、小銃6,000挺、弾薬類多数で、糧食も大量に発見され、それらは全てが押収されました。
攻囲による人的損害は、独軍側が約70名で、仏軍側は不詳となります。
70年11月11日のヌフ=ブリザック市場広場(現・市役所広場)
☆ ベルフォール要塞攻囲に向かう普予備第1師団
パリ近郊ベルサイユ在の普大本営は10月初頭、普予備第4師団がラインを渡河し、ヌフ=ブリザックとセレスタの攻囲を開始すると同時にベルフォールの包囲を発令しました。
当時はアルザス地方最南端の要衝だったベルフォールは、ヴォージュ山脈で蜂起した住民義勇兵の強力な後方支援地となっており、エピナルからブズールを経てディジョンへ進んだフォン・ヴェルダー将軍率いる独第14軍団主力の後方を脅かす存在ともなっていました。
この要塞の包囲には、ストラスブールのエルザス総督府配下にあった普予備第1師団が充てられることとなり、この他に同予備第4師団の中でヌフ=ブリザック攻囲に参加していなかった部隊も加えられることとなりました。
この処置により予備第1師団を「奪われ」、後方連絡線や支配地の警備が手薄となってしまうエルザス総督府のビスマルク=ボーレン将軍には、オーデル河畔のグローガウ(現・ポーランドのグウォグフ。ベルリンの南東206キロ)で編成されるシュレージェン地方の後備歩兵12個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊からなる兵団が送られ、ストラスブールや要所の警備に回されました。
普予備第1師団は10月下旬にストラスブール近郊からセレスタ近郊まで前進し、セレスタの陥落を見届けた後の10月30日、本隊がコルマールへ入城しました(正確にはこの日を以て独第14軍団配下となります)。セレスタ攻囲に参加した後に南進した師団前衛は同日、義勇兵や国民衛兵の集団を駆逐しつつヴォージュ山脈麓のゲーバーシュヴィア(独名ゲーバーシュヴァイアー。コルマールの南南西10.2キロ)に至っています。
この時、エンシスハイムにあった普予備第4師団(10月23日より独第14軍団配下)の「アルザス南部警戒隊」中、普第25「ライン第1」連隊の第1大隊・オルテスブルクとオステローデの両後備大隊・予備槍騎兵第3連隊の3個(第2,3,4)中隊・師団「混成」砲兵の軽砲第3,4中隊も大本営の命令により、ベルフォールに向かう普予備第1師団の行軍に合流しました。
※10月末の普予備第1師団
☆前衛支隊 (フォン・オストロウスキー大佐)
*ポンメルン後備混成第2連隊
◯イノヴラツラウ後備大隊
◯ブロンベルク後備大隊
◯ドイツェ=クローネ後備大隊
*普予備槍騎兵第2連隊・第4中隊
*第9軍団・予備軽砲第1中隊
*第2軍団・要塞工兵第2中隊
☆師団本隊 (ハンス・ルートヴィヒ・ウード・フォン・トレスコウ少将)
○シュナイデミュール後備大隊(ポンメルン後備混成第1連隊)
○コーニッツ後備大隊(ポンメルン後備混成第1連隊)
*ポンメルン後備混成第3連隊
○シュテンダール後備大隊
○ブルク後備大隊
○ノイシュタット後備大隊
*予備槍騎兵第2連隊(1個中隊欠)
*第9軍団・予備軽砲第2中隊
☆エルザス総督府各地の警護に残留(後にシュレージェンの後備部隊と交代し師団に復帰)
○グネーゼン後備大隊(ポンメルン後備混成第1連隊)
○ハルバーシュタット後備大隊(ポンメルン後備混成第4連隊)
○ノイハルデンスレーベン後備大隊(ポンメルン後備混成第4連隊)
○スタルガルト後備大隊(ポンメルン後備混成第4連隊)
*第2軍団・予備軽砲第1中隊
こうして彼ら普王国東部(ポンメルンにオストプロイセン州、一部普ザクセン州)の後備兵を主体とする部隊は、ストラスブール、セレスタ、ヌフ=ブリザックという名高い独仏国境の要塞を比較的短期間に攻略してアルザス地方のほぼ全域を制圧し、自信満々でヴォージュ山脈南端に位置するベルフォール要塞・アルザス地方で「最後に残った砦」を目指しました。
しかし現在「テリトワール・ドゥ・ベルフォール(ベルフォール領土)県」と呼称される当時のオ=ラン県南西端・ベルフォールの地はその後、彼らドイツ人にとっては苦々しく、そしてフランス人にとっては誇り高い「忘れられぬ」土地となる運命にあったのです。




