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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
371/534

普予備第4師団参戦~セレスタの攻囲


 フォン・ヴェルダー将軍率いる独第14軍団がストラスブールを発つ3日ほど前(9月末)のこと。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将率いる新設「普予備第4師団」は遙か普王国東部(部隊はオストプロイセンやポーゼン地方の後備兵主体でした)から集合指定地・バーデン大公国のブライスガウ地方(バーデン南部フライブルクを中心とする地域)に向かい、編成集合を完結しました。師団はノイェンブルク(・アム・ライン。フライブルクの南西29キロ)でボート多数を使用してライン川を渡り仏オ=ラン県に侵攻しました。


挿絵(By みてみん)

 シュメリング


 この中で、10月2日早朝までに先行しラインを渡河した前衛*は所々で嫌がらせの銃撃などを行う仏義勇兵を排除しつつ前進し、まずはオ=ラン県南部の中心都市で蒸気機関車等の製造で名高い重工業の街・ミュルーズ(独名・ミュールハウゼン)を目指します。当時ミュルーズでは9月来の国政混乱とストラスブールの陥落により急進左派が暗躍し、煽られた労働者が一斉蜂起して暴動に発展しており、これを鎮圧して重要な西への幹線鉄道を遮断することが前衛に課せられた第一の任務でした。


※10月2日における普予備第4師団前衛支隊

○普第4師団「混成」歩兵旅団

 ・普第25「ライン第1」連隊(3個大隊)

 ・普「オストプロイセン」後備混成第1連隊(4個大隊)

○普予備槍騎兵第3連隊(騎兵4個中隊)

○軽砲第2中隊(4ポンド砲6門)


 旅団クラスの強力な前衛支隊は10月3日、ミュルーズ東方から市街に接近すると、その日の午後、市内から白旗を掲げた役人たちが現れ、「労働者と左派に手を焼いており、市政は維持不能となっている」と訴えたため、普軍は「保護占領」のため直ちに市内へ侵攻し、暴れる労働者を次々に捕縛しては武器を押収し、「無政府状態」の市街を鎮圧、占領したのです。


 その頃、渡河を終えた師団本隊はノイェンブルク対岸のバンツェンハイム(ノイェンブルクの西北西3.5キロ)に再集合し、まずはこの「橋頭堡」からベルサイユ在の普大本営により攻撃命令が下されたヌフ=ブリザック(独名・ノイ=ブライザッハ。オ=ラン県都コルマールの南東14.3キロ)へ斥候を派出し、前衛を支援するためミュルーズに普「オストプロイセン」後備混成第2連隊(4個大隊)を増派しました。また、ラインの渡河を容易にするため川の砂州を利用し、ノイェンブルクの西に舟橋と架柱橋(木柱数本を垂直に立て、そこに横桁を括り付け板を渡して容易に取り外し可能とした仮設橋)を設置するのでした。


 フォン・シュメリング将軍はミュルーズの部隊に対しアルザス最南の地方から義勇兵を掃討する作戦を実施させて、5日にはアルトキルシュ(ミュルーズの南南西15.9キロ)でベルフォールへ向かう幹線鉄道を破壊・切断しました。

 同日、ヌフ=ブリザック南の数ヶ所の部落で武器の押収を行っていたゴールダプ後備大隊(オストプロイセン後備混成歩兵第3連隊所属)がおよそ2,000名に上る仏正規軍戦列歩兵と護国軍の混成部隊により攻撃されました。

 この仏軍はヌフ=ブリザック要塞に駐屯していた守備隊の主力で要塞から出撃すると途中二つに分かれ、一隊はライン~ローヌ運河(ヌフ=ブリザックの東を回り込んで南西方向へ走っています)に沿い、一隊はスイス・バーゼルへの街道(現・国道D468号線)を行軍してエイトレン(ヌフ=ブリザックの南5.3キロ)に達したもので、この部落にいたゴールダプ大隊の1個中隊は銃撃を行いつつバルゴー(エイトレンの南4.6キロ)まで後退したのです。急を聞いてブローデルスハイム(バルゴーの南4.7キロ)から駆けつけた師団砲兵の重砲第1中隊がバルゴー付近で砲列を敷いて急進する仏軍を砲撃すると、仏軍はたちまち四散して急ぎヌフ=ブリザックへと逃走したのでした。


 前述通り普大本営から「セレスタ(シュレットシュタット。コルマールの北北東21.5キロ)とヌフ=ブリザック両方の要塞」攻略を命じられていたシュメリング将軍でしたが、両方共に重厚な本格稜堡式要塞都市であり、これを同時に攻囲するほど師団は大きくないため、将軍はまず、「両要塞を包囲するだけに留めて、入念な偵察を行った後にどちらを先に攻撃するか決定」しようと考えるのです。


 そこでシュメリング将軍は、ミュルーズに在る部隊から2個歩兵連隊に普予備槍騎兵第3連隊と師団砲兵隊の軽砲第2中隊をセレスタ包囲に充てることとして、ミュルーズ在の残りとバンツェンハイム橋頭堡に残っていた部隊でヌフ=ブリザックを包囲することに決めました。


 諸隊は10月6日に行動を開始し、ヌフ=ブリザック包囲部隊の内オストプロイセン後備混成歩兵第3連隊は、宿営地のバンツェンハイムからバルゴーへ前進して同地からライン川までの地域を封鎖し、翌7日には要塞の西側を迂回してカステン・ヴァルド(ヌフ=ブリザック北西5キロを中心に広がる大きな森。現存します)から森の東縁となるヴォルフガンツェン(ヌフ=ブリザックの北西2.3キロ)、その東ビースハイム(同北北東2.8キロ)を経てライン河畔までに前線を築きました。

 ミュルーズからエンシスハイム(独名エンジスハイム)を経由して到着したオストプロイセン後備混成歩兵第1連隊は、ヌフ=ブリザック南方の諸部落に宿営して前哨をアルゴルスハイム(ヌフ=ブリザックの南東2.6キロ)とヴェコルスハイム(同南南西2キロ)まで前進させて要塞を監視し、普予備槍騎兵第1連隊と野戦砲兵5個中隊は包囲網に平均して分散配置されました。要塞の仏軍は接近する普軍に対し一時激しい砲撃で応じましたが、普軍側には殆ど被害は発生しませんでした。


挿絵(By みてみん)

 ヌフ=ブリザック周辺図


 現在は「ヴォーバンによる要塞施設群」の一部として世界遺産となっているヌフ=ブリザック(新ブライザッハ)要塞は、17世紀末、仏王国と英・蘭・墺・西そして神聖ローマ等「アウクスブルク同盟」との間で戦われた「大同盟戦争」の結果、ライン東岸のブライザッハ(仏名・ブリザック)要塞を失った仏王ルイ14世が「要塞建築の名人」セバスティアン・ドゥ・ヴォーバンに命じてブライザッハ(仏名ブリザック)対岸に建設させた「ヴォーバン式稜堡(星形)要塞」の傑作と呼ばれる要塞都市でした。

 この普仏戦争当時の要塞は、乾壕を外周に配置して障壁で固められた八角形の内郭に突出する半月堡を均等に配置し、各正面には全て横楼があって攻撃する敵の銃砲撃を防護、幾つかの半月堡には攻城砲弾に耐久する厚い防壁を備えた待避所がある、という重厚な姿となっていました。

 しかも要塞都市の北東約3キロには、ライン川に接して水濠を巡らせた三角形のモルティエ堡塁(南西側突角部分のみ現存)があり、高度が高い対岸のバーデン領ブライザッハから見下ろされているものの、ヌフ=ブリザック要塞と同じく単独で防御持久可能となっており、ヌフ=ブリザック要塞の北・東・南側に向かう者は側面から銃砲撃を加えられる厄介な存在となっていました。しかし、同じくヌフ=ブリザックの外堡でライン川中島に渡る橋を管制していたビースハイム堡(モルティエ堡の北西1キロ。現存しません)には、この時守備隊が存在せず放棄されていました。


 これら要塞施設の司令官は砲兵士官のルイ・シャルル・フランシス・ロスティエ・ケロール中佐で、当時56歳。守備隊は戦列歩兵連隊の第4大隊(後方警備部隊)とその補充大隊を中核としますが、残りは全て現地の護国軍部隊と戦時徴兵で馳せ参じた護国軍の新兵となっており、兵員総計5,500名と旅団クラスに達していました。


 ヌフ=ブリザックを包囲したシュメリング将軍は10月7日、重砲2個中隊をヴォルフガンツェンとヴィダンソラン運河(ヌフ=ブリザックの北北西6.3キロのヴィダンソランへ通じる運河。現存します)との間に、軽砲3個中隊を要塞南方のバーゼル街道(現・国道D468号線)とライン~ローヌ運河間にそれぞれ布陣させ、要塞に籠もるケロール中佐に宛て降伏勧告の使者を送りますが拒絶されます。これを受けた普軍砲兵たちは砲撃方向や距離を確認後、午後9時15分から約2時間に渡って夜間砲撃を行いました。対する要塞も反撃の応射を行い、要塞では2、3ヶ所で火災も発生しますが、双方共に損害は微々たるものに終わります。

 翌朝、シュメリング将軍はケロール中佐に対し再び降伏勧告を行いますが回答は「否」でした。将軍は直ちに「ヌフ=ブリザックへの攻撃は一時中断する」として、次にセレスタ要塞の様子を窺うことを決め、ヌフ=ブリザックの包囲を麾下の普予備騎兵第4旅団長、エミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将に命じて自身は幕僚と共にセレスタへ急ぐのでした。


 セレスタの攻囲を担当する部隊は同7日、前衛がミュルーズを発し、このミュルーズからベルフォール(ミュルーズからは西南西へ37.5キロ)に掛けてのアルザス最南部とヴォージュ山脈方面警戒のため、普第25連隊の2個大隊と騎兵2個中隊がマイエンハイム(ミュルーズの北18.2キロ)に残って駐留しました。

 命令によりヌフ=ブリザック包囲から抜けた師団砲兵の軽砲第3中隊は急ぎセレスタに向かい、同じく軽砲第4中隊はマイエンハイムの「南部警戒隊」の下へ向かいました。同時に後備歩兵の1個大隊は、部隊がいなくなったバンツェンハイムを経由してノイェンブルク付近のライン渡河点守備に就きます。


 セレスタ攻囲の本隊は10日、セレスタ南南西9キロのゲマールに達し、ここから要塞都市の南東及び西方へ進んで諸部落を占領し包囲の第一歩としました。

 翌11日には要塞の北を流れるギーセン川を越えてシャーヴィラー(セレスタの北西4キロ)部落を占領し、攻囲部隊の前哨はストラスブールから出撃した普予備第1師団の前衛とエバースハイム(同北北東6キロ)で連絡を取り合うのでした。この普予備第1師団はこの時、未だエルザス総督府の管轄部隊でしたが、総督のビスマルク=ボーレン将軍がシュメリング将軍への応援としてセレスタ北部の監視に差し向けたものでした。


挿絵(By みてみん)

 セレスタの光景


※10月11日における普予備第4師団の部隊配置


*ヌフ=ブリザック包囲(歩兵8個大隊・騎兵4個中隊・砲兵3個中隊)

◇オストプロイセン後備歩兵旅団

 ○オストプロイセン後備混成歩兵第1連隊

 ○オストプロイセン後備混成歩兵第3連隊


○普予備槍騎兵第1連隊

○師団「混成」砲兵・重砲第1,2、軽砲第1中隊


*セレスタ攻囲(歩兵4個大隊・騎兵2個中隊・砲兵2個中隊)

○普第25「ライン第1」連隊・第2大隊

○オストプロイセン後備混成歩兵第2連隊・3個大隊(オステローデ/グラウデンツ/トールン)

○普予備槍騎兵第3連隊・第1,4中隊

○師団「混成」砲兵・軽砲第2,3中隊


*マイエンハイム「アルザス南部警戒隊」(歩兵2個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊)

○普第25連隊・第1、F大隊

○普予備槍騎兵第3連隊・第2,3中隊

○師団「混成」砲兵・軽砲第4中隊


*ノイェンブルク渡河点守備隊(歩兵1個大隊)

○オストプロイセン後備混成歩兵第2連隊・オルテスブルク後備大隊


挿絵(By みてみん)

 セレスタ要塞全景(1851)


 フォン・シュメリング将軍は10日、要塞に対し降伏の使者を送りますが要塞側はこれを拒否、直後に激しい砲撃を普軍前哨に浴びせました。将軍は11日、ヴィダンソラン(コルマールの東9.3キロ)に本営を置き、自らセレスタ要塞を観察しました。


 セレスタ(独名シュレットシュタット)は当時1万人の人口を擁するバ=ラン県最南の要衝です。ストラスブールへ至るイル川上流の平野にあり、要塞は川に沿って軽く鉤形を成していました。普仏戦争当時の正面稜堡は9個、属する半月堡は6個あり、3つの主要門が要塞都市への出入り口でした。これら半月堡の外には12個の外堡があり、主に高地となっていてイル川による氾濫地を作れない西・北・東側を管制していました。この氾濫地となる要塞南西郊外にある第11外堡と第12独立堡(現/メゾン・フォレスティ・エール・ドゥ・ラ・ルドゥテ。横を流れるドレウ川を使ったカヌーやカヤックのレンタル、教室になっています。要塞南端ブライザッハ門から南南西900m)は氾濫地唯一の通路となるマルコルスハイムへの街道(現・国道D159号線)を管制し、氾濫用の築堤を警護していました。この要塞南郊には多くの小川が流れ、イル川を氾濫させていたために普軍が到着した時には既に深い沼沢地に変わっていました。

 要塞本体及び半月堡は全て厚い障壁と斜堤に囲まれ、その外濠は半月堡を含めて全て水を湛えていました。しかしセレスタの要塞施設はこの外壁部分のみと言え、市内には砲弾から身を防ぐ施設が少なく、守備隊の宿舎すら木と土で覆っただけの防御でした。

 このように要塞は、北側に流れるギーセン川と東から南西に流れるイル川により接近する「敵」から守られていましたが、その弱点はヴォージュ山脈の裾野に広がるブドウ園がある西側で、密集したブドウの樹と南北に走るストラスブール~ミュルーズ鉄道の築堤は理想的な攻撃側掩蔽に成り得ます。

 セレスタ要塞は当時約120門の砲を備えていましたが、守備隊は1,200名の護国軍大隊と約700名の各種砲兵だけでした。


挿絵(By みてみん)

セレスタ(シュレットシュタット)要塞の初期プラン(1693年)


 フォン・シュメリング少将はヌフ=ブリザック要塞とセレスタ要塞の現況を直に観察し比較した結果、セレスタ要塞を先に攻略することを最終決定とします。

 この理由としては、セレスタ要塞の方がヌフ=ブリザック要塞より容易に攻略可能との判断もありましたが、セレスタはストラスブールに近くアルザス総督府に待機する攻城砲兵・工兵部隊の行軍到着が早いこと、ストラスブールからコルマール方面の連絡・通行を早期に安全としたかったことなども上げられます。

 この頃、ノイェンブルク付近に設置されていた仮橋は撤去され、新たにブルクハイム(ブライザッハの北8キロ)の北方郊外に舟橋が設置されており、ヌフ=ブリザック包囲部隊から後備歩兵1個中隊が派出されこれを警備していました。これはヌフ=ブリザック、セレスタ両要塞の包囲に必要な物資をバーデンから送り込むため、運搬距離を短縮する処置でした。

 シュメリング将軍は更にセレスタ包囲強化のため、オストプロイセン後備混成歩兵第1連隊から2個大隊と、ノイェンブルクの橋梁守備を行っていた1個大隊をセレスタまで呼び寄せました。


挿絵(By みてみん)

 セレスタ市内下町の情景


 10月17日。シュメリング将軍はキンツハイム(セレスタの西4.5キロ)に前進し、セレスタ攻撃の陣頭指揮を執り始めます。


 将軍はまず攻囲部隊を三群に分けました。

 主力となる歩兵5個大隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊は要塞南面と西面に配され、前哨をストラスブール~ミュルーズ鉄道の爆破されたギーゼン川鉄橋(セレスタ・サント=フォワ教会の北北西1.5キロ)から要塞南西側斜堤至近の「南墓地」(同南西1キロ付近・現存しません)南方250mまでに配置します。

 歩兵3個大隊・騎兵半個中隊・砲兵1個中隊はギーセン川北方のシャーヴィラーから東方イル川までの間に布陣し、イル川北岸のラートシャムハウゼン(・ル・バ。小部落。セレスタの東3.2キロ)、南側のミュシグ部落(同南東5.8キロ)、シュネルンブールの農家(現在はホテルになっています。ミュシグの南西2.6キロ)付近には歩兵1個大隊と騎兵半中隊が分散配置されました。

 また、この間にストラスブール攻囲に活躍した要塞砲兵12個中隊・要塞工兵4個中隊が攻城砲、攻城資材と共にストラスブールより順次鉄道でセレスタ近郊まで運送されています。


※10月17日における普「セレスタ攻囲兵団」の配置


◇要塞西方地域

*シャトノワ(独名ケステンホルツ。セレスタの西北西4.3キロ)在

 ◯オステローデ後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊)

 ◯普予備槍騎兵第3連隊・第4中隊の1個小隊

*キンツハイム(セレスタの西4.4キロ)在

 ◯第25「ライン第1」連隊・第2大隊

*オルシュヴィラー(セレスタの南西5.8キロ)在

 ◯トールン後備大隊の半数(2個中隊/オストプロイセン後備混成第2連隊)

*サンティポリット(独名・ザンクト・ピルト。オルシュヴィラーの南南西1.3キロ)在

 ◯トールン後備大隊の半数(2個中隊)

 ◯グラウデンツ後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊)

*ゲマール在

 ◯ティルジット後備大隊(オストプロイセン後備混成第1連隊)

 ◯普予備槍騎兵第3連隊・第4中隊の3個小隊

 ◯師団「混成」砲兵大隊・軽砲第3中隊

◇要塞北方地域

*シャーヴィラー在

 ◯オルテスブルク後備大隊(オストプロイセン後備混成第2連隊)

 ◯イノヴラツラウ後備大隊(普予備第1師団/ポンメルン後備混成第2連隊)

*エバースハイム在

 ◯ブロンベルク後備大隊(普予備第1師団/ポンメルン後備混成第2連隊)

 ◯普予備槍騎兵第3連隊・第1中隊の2個小隊

◇要塞東方地域

*ラートシャムハウゼン、ミュシグ、シュネルンブールに分散

 ◯ヴェーラウ後備大隊(オストプロイセン後備混成第1連隊)

 ◯普予備槍騎兵第3連隊・第1中隊の2個小隊

◇北方及び西方警戒

*バール及びその周辺

 ◯ドイツェ=クローネ後備大隊(普予備第1師団/ポンメルン後備混成第2連隊)

 ◯普予備槍騎兵第2連隊・第4中隊

 ◯普第9軍団・予備軽砲第1中隊


※セレスタ攻囲に参加した独軍要塞砲兵と要塞工兵


◯セレスタ攻城砲兵(指揮官/フォン・セリハ中佐)

 ・要塞砲兵第10連隊第1中隊

 ・要塞砲兵第7連隊第2中隊

 ・要塞砲兵第7連隊第3中隊

 ・要塞砲兵第7連隊第6中隊

 ・要塞砲兵第7連隊第16中隊

 ・要塞砲兵第6連隊第1中隊

 ・要塞砲兵第6連隊第2中隊

 ・要塞砲兵第6連隊第4中隊

 ・要塞砲兵第6連隊第6中隊

 ・要塞砲兵第6連隊第16中隊

 ・バイエルン王国野砲兵第3連隊第2中隊

 ・バイエルン王国野砲兵第3連隊第3中隊

◯セレスタ攻城工兵(指揮官/ザンダー中佐)

 ・第7軍団要塞工兵第1中隊

 ・第10軍団要塞工兵第2中隊

 ・バーデン大公国(以下Ba)要塞工兵中隊

 ・バイエルン王国(以下B)要塞工兵第4中隊(9月22日、本国よりストラスブールに到着)


挿絵(By みてみん)

 セレスタ要塞(1870年)


 ストラスブールから攻城砲兵と共にやって来たのはカノン砲38門、臼砲18門*で、これらを管理する砲厰はサンティポリット付近に設置され、攻城工兵の大型土木工具や資材を管理する工厰はキンツハイム付近に置かれます。

 工兵指揮官のザンダー中佐は到着後麾下に対し塹壕用の堡籃(ガビオン。木の枝を筒状に編んだ籠に土砂や石を詰めた物。蛇篭の短い物)や束柴(ファシネ/粗朶。木の枝を束ねた物)の製造と待避壕掘削を命じ、攻囲歩兵に対する対壕掘削の訓練を開始するよう命じました。


挿絵(By みてみん)

堡籃


挿絵(By みてみん)

束柴


※セレスタ攻囲に用意された攻城砲

 ・15センチカノン短(砲身)砲x12門

 ・12センチカノン砲x20門 

 ・9センチカノン砲x6門

 ・28センチ短臼砲x4門

 ・23センチ臼砲x8門

 ・15センチ臼砲x6門

 

 10月19日夜間、イル・ヴァルド(セレスタの南東側、イル川の南岸に広がる大きな森)縁のカペル水車場(セレスタの南東3.2キロ。現存しません)付近に「第1号砲台」が築造され、設置されたカノン砲4門はセレスタ南部にある兵営と倉庫が目標と指示されます。この砲撃は本格的な攻城砲撃ではなく、仏守備隊の注意を南側に集めることを目的とした欺瞞でした。

 この砲台工事は守備隊の目を盗む形で密かに行われ、20日早朝、守備隊が気付いた頃には殆ど完成しており、慌てた守備隊は水車場の2キロ北西にある第12独立堡から長距離銃撃を浴びせましたが「後の祭り」でした。午前9時には砲撃準備が完了し、独攻城砲兵は前述の第12独立堡や要塞南部の氾濫地堰堤脇にある第11外堡、そして主目標の要塞南部に対して砲撃を開始します。この砲撃は一定の効果を上げますが要塞側の砲兵も猛烈に応射したため速成の砲台肩墻は崩れ始め、正午には危険となったため一時砲撃を中止せざるを得なくなります。その後独工兵と砲兵は急ぎ砲台を修理して砲撃は午後4時に再開され、これは夜間に及びました。

 独攻囲兵団前哨は砲撃が続く夕刻、仏守備隊の隙を突いて要塞の西側斜堤から300mまで接近して塹壕を掘り、ここに居座りました。仏守備隊も必死で銃砲撃を繰り返しますが、夜には市内に最初の火災が発生するのです。


挿絵(By みてみん)

 セレスタの砲撃


 一方、シュメリング将軍と攻囲兵団首脳陣はセレスタの西側をじっくりと観察した結果、南側の墓地北方に突出する第2眼鏡堡に向かって正攻法による対壕掘削を行うことに決しました。これにより「第1平行壕」は大方南北に延びる鉄道線に沿って掘削されることが決まり、掘削工事はこの鉄道堤を防御として、平行壕の右翼(南)端を「南墓地」西側に、左翼(北)端は仏軍が破壊した停車場に至ることとなりました。


 20日夜間。平行壕掘削用の資材を一時集積するための作業場が工兵により開設され、資材の搬入作業が始まります。22日午後には掘削作業の準備が完了し、夕暮れ時には普第25連隊第2大隊が鉄道堤に沿って展開し要塞に対して前哨を派遣しました。同時に対壕作業の手順を訓練されたグラウデンツ、トールン、ティルジットの3個後備大隊に、B第4、Ba両工兵中隊がキンツハイムから作業地区まで前進し、午後8時、第1平行壕の掘削が開始されました。ほぼ同時にその後方で砲台6個の築造も始まります。この砲台築造の護衛と前進部隊の予備としてキンツハイムへの街道(現・国道D35号線)脇にドイツェ=クローネ後備大隊が前進し、警戒に当たっていました。この間、カペル水車場付近の第1号砲台は要塞の西部に対して砲撃を繰り返し、味方の作業を支援するのでした。

 仏軍も攻城作業を発見すると作業地に対し猛砲撃を行いましたが、照準が拙くこれらの榴弾は全て作業地後方遠くに落下し、独攻囲兵団の作業には全く影響を与えることが出来なかったのです。


 23日早朝。独軍の第1平行壕は計画通り幅1.5m、深さ約2.7mで完成し、その左翼(北)側後方に砲台6個(第2~7砲台)も完成して、ここには臼砲8門、重カノン砲20門が運び込まれ砲撃準備中にありました。

 仏守備隊は、黎明時に独軍の作業が完成しているのを確認するや砲撃を開始します。独攻城砲台も準備の終わった砲から順次砲撃を開始し、ここに激しい砲撃戦が起こりました。これにより仏守備隊側は多数の大砲並びに胸郭に開いた砲門を破壊され、市内南部の各所に火災が発生しました。対する独攻囲兵団側は砲台の位置が要塞から丸見えで、要塞砲の射程内にあったものの損害は少なく、砲撃戦はストラスブール攻囲で鍛えられた独側砲兵の圧倒的優勢で推移して行きます。仏守備隊砲兵は夕刻になると次第に発砲する砲を減らして行き、夜になって暴風雨が襲来すると砲撃を全く中止してしまいました。しかし悪天候も独攻囲兵団の妨げとはならず、その攻城砲兵は弾薬補給の間のみ砲撃を中断するだけで、ほぼ間断なく要塞への砲撃を続行したのです。

 独工兵にも休みはなく、平行壕の拡張作業を行うと同時に、停車場の南側と南墓地の南側にそれぞれ砲台を築造(第8,9砲台)する作業を一晩中続けるのでした。


挿絵(By みてみん)

 セレスタ攻囲図


 10月24日早朝。

 セレスタ要塞からは散発的な砲撃がありましたがそれも直ぐに収まり、午前7時30分、要塞西側の堡塁上と市内教会の尖塔上に白旗が揚がりました。直ちに使者が差し向けられ、守備隊と攻囲兵団との間で降伏条件が話し合われ、仏軍は全て武器弾薬と共に投降し、午後3時に独軍が市内へ入城と定められます。

 ところが、降伏を知ってやけになった一部市民と「捕虜になる前に」と痛飲した兵士らは暴徒と化し、略奪と公共施設の破壊に走り回りました。

 数軒の建物は放火され、軍の火薬庫の一つは爆破されてしまいます。危険極まりない状態に慌てた市長と守備隊長は急ぎ独軍に対し「入城を1時間前倒しするよう」要請するのでした。

 シュメリング将軍は直ちに3個大隊の歩兵を市内へ送り込み、暴徒を鎮圧して秩序を回復させます。捕虜となった仏守備隊(義勇兵や護国軍の追加徴兵者は解放されました)は歩兵3個中隊・槍騎兵1個中隊の護送隊によりゲマールを経由してブルクハイムの仮軍橋によりラインを渡河、バーデン領に入るとリーゲル・アム・カイザーシュトゥール(ブライザッハの北東18キロ)まで護送され、この地から鉄道で独本土の収容地へ送られたのでした。


 要塞市街ではその日(24日)夜に再び火災が発生し、シュメリング将軍は工兵数個中隊を送り込んで消火活動を行いますが、兵舎の殆どと軍需倉庫に一般家屋も多数が焼け落ちてしまいました。

 要塞本体については独攻囲兵団による砲撃で多少の損害こそありましたが、まだまだ防御には十分な強度を保っており、独軍側には仏守備隊の降伏は些か早かったとのでは、との感想も出ています。

 要塞では各種大砲100門余の他、およそ7,000挺の小銃に大量の弾薬、そして独軍にはありがたい大量の小麦粉が鹵獲されました。この「セレスタ攻囲戦」における独軍の損害は僅か20名程度で、仏軍側の損害は捕虜1,000名前後、戦死傷者は不詳です。


挿絵(By みてみん)

 セレスタ サン=ジョルジュ教会


 10月25日。セレスタ攻囲兵団に参加していた普予備第1師団所属のイノヴラツラウ、ブロンベルク、ドイツェ=クローネの3個後備大隊は守備隊としてセレスタに入城し、普予備第4師団所属の諸隊は要塞周辺の部落で休息した後、一部はヌフ=ブリザックの攻囲に加わり、一部はコルマールへ前進してマイエンハイムから移動した「アルザス南部警戒隊」と合流しました。


 この「アルザス南部警戒隊」は南部ヴォージュ山脈の麓、ゲブビレル(マイエンハイムの西11キロ)で目立つ仏義勇兵部隊と交戦した後、孤立を避けて17日にコルマールまで後退していました。

 シュメリング将軍は26日、コルマールを拠点とする諸隊に対し、サント=マリー=オー=ミーヌ(独名マールキルヒ。セレスタの西20キロ)、プレンフェン(コルマールの西北西27.6キロ。サン=ディエ=デ=ヴォージュからは南南東13.2キロ)、ジェラールメ(独名ゲラードマー。コルマールの西35.8キロ)へ続く各山道に斥候を派遣させ偵察を行わせます。結果、斥候たちは山道の隘路に鹿砦やバリケードなどの障害物を発見しますが、まとまった数の敵兵を見ることはありませんでした。この頃、仏「ヴォージュ(東部)軍」はフォン・ヴェルダー将軍の独第14軍団と「オニヨン河畔の戦い」を行った直後で、ベルフォール及びブザンソンに集中していました。ヴォージュ山中に散開していた義勇兵を中心とする部隊も山地から両拠点へ去った後だったのです。


 このコルマールに集合した部隊*は歩兵4個大隊・騎兵3個中隊・砲兵2個中隊と強力で、10月中に拠点をコルマールから再びミュルーズ北方のエンシスハイムへと移すのでした。


※10月27日頃の「アルザス南部警戒隊」序列

○普第25連隊(3個大隊)

○オルテスブルク後備大隊

○普予備槍騎兵第3連隊・第2,3,4中隊

○師団「混成」砲兵・軽砲第3,4中隊





 普予備第4師団戦闘序列

(1870年10月上旬時点/歩兵15個大隊・騎兵8個中隊・砲兵6個中隊36門・工兵1個中隊)

 

 師団長 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュメリング少将

 参謀 フォン・クレッチマー少佐


◇ 師団「混成」歩兵旅団

旅団長 ユリウス・クナッペ・フォン・クナップシュタット大佐

◯ 第25「ライン第1」連隊 (フーゴ・エドウィン・フォン・ロース大佐)

 ・第1大隊 (クリース少佐)

 ・第2大隊 (エンゲルハルト中佐)

 ・F大隊  (スパンゲンベルク少佐)

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第2「第4/第5」連隊 (フランツ・ヨセフ・フォン・クラネ大佐)

 ・オステローデ後備大隊(アマデウス・エミール・フォン・ヴッソウ少佐)

  *現・ポーランドのオストルダ(ワルシャワの北北西177キロ)

 ・オルテスブルク後備大隊(メシュケ大尉)

  *現・ポーランドのシュチトノ(オストルダの東70キロ)

 ・グラウデンツ後備大隊(フォン・フィードラー少佐)

  *現・ポーランド・ヴィスワ河畔のグルジョンツ

 ・トールン後備大隊(フォン・カイザーリンク少佐) 

  *現・ポーランド・ヴィスワ河畔のトルン

◇ オストプロイセン後備歩兵旅団

旅団長 ロベルト・フォン・ツィンメルマン大佐

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第1「第1/第3」連隊 (フリードリヒ・アルベルト・ハインリヒ・レオポルド・フォン・ショルレマー中佐)

 ・ティルジット後備大隊(フォン・フェルゲンハウエル少佐)

 *現・ロシア(カリーニングラード)のソヴィェツク

 ・ヴェーラウ後備大隊(カリッツキー大尉)

 *現・ロシア(カリーニングラード)のスナメンスク

 ・インスターブルク後備大隊(フォン・ケルン大尉)

 *現・ロシア(カリーニングラード)のチェルニャホフスク

 ・グンビンネン後備大隊(フォン・オルスチュヴスキ少佐)

 *現・ロシア(カリーニングラード)のグセフ

◯ オストプロイセン後備混成歩兵第3「第43/第45」連隊 (フォン・ウゼドン大佐)

 ・レッツェン後備大隊(キンチェル大尉)

 *現・ポーランド北東部のギジツコ

 ・ゴールダプ後備大隊(フォン・ノルマン少佐)

 *現・ポーランド・ロシア/カリーニングラード国境のゴウダプ

 ・ダンツィヒ後備大隊(フォン・ゴツチーヴスキ少佐)

 *現・ポーランドのグダニスク

 ・マリーエンブルク後備大隊(フォン・ハルダー大尉)

 *現・ポーランド・グダニスク南東のマルボルク

◇ 予備騎兵第4旅団

旅団長 エミール・ユリウス・フォン・トレスコウ少将

◯ 予備槍騎兵第1連隊(フォン・ヴルフェン中佐)

◯ 予備槍騎兵第3連隊(フォン・シュミット大佐)

◇ 師団「混成」砲兵大隊(フォン・シャペル少佐)

 ・軽砲第1,2,3,4中隊、重砲第1,2中隊

 ※この諸中隊は普第4、第6両軍団の予備砲兵中隊から再編成したものです。

◇ 第7軍団要塞工兵第2中隊(ヤコブ中尉)


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