仏東部軍とガリバルディ軍の西進とヴェルダー軍団のディジョン集中
11月頭初。独第14軍団長のアウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将は、グレ近郊のバトラン(グレの南東4キロ)で押収した仏の公文書によって遂にメッスが開城したことを知ります。将軍は3日に普大本営より正式に「メッス開城」を通知する電文を受領しました。同時に、元帥に昇進したカール王子の独第二軍が西に向けて出発したこと、8日にはトロワとシャティオン=シュル=セーヌ付近に到達する予定であること等が知らされます。
更にベルサイユの普大本営は、ヴェルダー将軍にとって甚だ迷惑なことにまたもや作戦命令の変更を通達し、それによれば「独第14軍団はブザンソン要塞に対して『相応』な兵力でこれを監視、出来れば攻略すると同時に、ドールとドゥー県南西端のアルク=エ=スナン(王立製塩所が有名です。ドールの東南東22.6キロ)付近にある鉄道分岐点を目標に前進し、更にディジョンからコート=ドール県北端のシャティヨン=シュル=セーヌに向け一隊を派遣しカール王子の第二軍と連絡することを希望する」との主旨でした。
これまで見て来たように、ベルサイユ在の大本営はヴェルダー将軍に対してかなりの「無茶振り」を行って来ましたが、今回の命令はその最たるものと言えるでしょう。
これは「あの」ストラスブールを比較的短期に攻略し、その後の戦闘でも勝利を重ねるヴェルダー将軍とその配下を評価した結果、とも言えそうですが、さすがの独公式戦記も白状するように「当時、大本営は仏南東部に仏軍がこれほど巨大な兵力を集合させていた事実を知らなかった」ことが主な原因でした。
当時(11月上旬)、ブザンソン周辺には既に戦闘要員45,000名、砲兵7個中隊に達した「ヴォージュ軍」本隊が集合しており、これを11月に入ってセダンの負傷が癒えず体調が優れないカンブリエ将軍に代わったミシェル将軍が率いていました(交代は体調不良が原因とされますが、カンブリエ将軍がトゥール派遣部・ガンベタの前進命令に反抗した事が遠因となったのかも知れません)。このミシェル将軍にしても数日でジョセフ・コンスタン・クルーザ将軍に交代させられています。
また、「ヴォージュ軍」本隊の左翼(西)側となるペスム~オーソンヌ~ドールを結ぶ三角形地帯には闘志満々の「ガリバルディ軍」がいました。
イタリア人義勇兵を中核とし、外国人義勇兵に仏南部の義勇兵を加えてこの地に至ったガリバルディ軍は、その後急速にトゥール派遣部が送り込んだソーヌ川下流やローヌ川、そしてロワール川上流域からの義勇兵諸中隊や護国軍兵と国民衛兵の志願兵部隊、そして野砲中隊(6門)などにより短期間の内に戦闘要員12,000名に達していました。
更にその後方・ソーヌ下流の渓谷内には、ロワール河畔ヌベールを中心に編成途上の1軍団が先発として戦闘要員18,000名、砲兵3個中隊を送り込んで来ました。そして未だ堅牢に護られているラングルからは、護国軍とその新兵、そして義勇兵からなる12,000名の兵力が出撃しており、エピナルからブズールに至る独の後方連絡線を脅かしていたのです。
ブザンソン北郊サン=クロードで作戦会議を行うカンブリエとガリバルディ
これに対するのは、既にディジョンからグレ、ブズール、リュールへと広範囲に兵員を分散している独第14軍団(の一部)約18,000名だけで、その兵力差は数字上戦闘正面だけでも三倍に至るのです。
相手は殆ど訓練もままならない新兵中心の部隊ばかりであり、諸戦闘によって鍛えられた「ヴェルダー軍団」の敵ではないとは言え、この兵力差は脅威以上のものでした。ヴェルダー将軍にとっての慰みは、ベルフォール要塞付近の20,000名に達するかと思われる敵が、普予備第1師団の接近によって要塞周辺に留まっているという情報だけでした。
しかし当のヴェルダー将軍も、確かにブザンソンの敵は強力でベルフォールの敵やコート=ドール県南方とドール付近に目立つ敵がいることは知っていますが、敵との兵力差がこんなに開いていたと知っていた様子はありません。もし知っていたのであれば大本営に対し直ぐに報告し、増援を強く要望する等していたはずであり、その後の将軍の行動を見ても、ますます「知らなかったのでは」との疑いが強くなるのです。
いずれにせよヴェルダー将軍は、「上層部に期待されているのであればきっちり結果を残そう」とばかり、グレとブズールに落ち着いたばかりの兵力をドールに向け再度反転させようと考え、その前にイタリア(以下「伊」)の英雄ガリバルディが率いるという面前の敵の状況を明らかにしようと決するのでした。
11月5日。ヴェルダー将軍の意を受けた偵察部隊複数がディジョンとグレから放たれます。
ディジョンからはBa擲弾兵第2連隊の第1、2大隊がボーヌ(ディジョンの南南西36.5キロ)とブルゴーニュ運河のソーヌ側入口・サン=ジャン=ドゥ=ローヌ(同南南東29.6キロ)、そしてソーヌ河畔の要衝オーソンヌへ、同様にグレからは普第30「ライン第4」連隊の2個中隊がドールに向けて出撃し、各所で仏軍と遭遇、交戦に至りました。
この日、ボーヌに向かったBa軍偵察隊はニュイ=サン=ジョルジュ(ディジョンの南南西21.7キロ)を抜いてボーヌへ至りますが、道中(現・国道D974号線)仏軍を見ることなく、沿道の部落や市街は防備もされていないことを確認します。しかしその東側街道(現・国道D996号線)を進んだ偵察隊は、ソーヌ川に近いオヴィラール(=シュル=ソーヌ。ディジョンの南28.7キロ)付近で所属不明の大きな武装集団と遭遇して引き返しました。
また、サン=ジャン=ドゥ=ローヌへ向かった偵察隊の前哨斥候は部落の北にかなりの兵力が布陣しているのを発見し、ブルゴーニュ運河のソーヌ川船溜となるサン=ユザージュ(サン=ジャン=ドゥ=ローヌ北郊外)に架かる運河橋には強力な守備隊がいるのが確認されました。しかも、この運河の両岸を仏軍が遡上し始めるのも斥候により確認され、この偵察隊(砲兵小隊を隷属)本隊のBa擲弾兵第2連隊・第7,8中隊はブラゼ(=アン=プレンヌ。サン=ジャン=ドゥ=ローヌの北西5キロ)付近でこの仏軍を迎撃することに決し、第8中隊はブラゼ部落南郊外で砲兵小隊と、第7中隊は部落東郊外の運河徒渉点で、それぞれ迎撃戦を行いました。両中隊とも多少の損害を受けたものの仏軍の攻撃を跳ね除けて撃退し、その後攻撃されることなく運河沿いに後退し、ブルトゥニエール(ディジョンの南南東10.5キロ)まで下がることに成功しています。
オーソンヌへ向かった偵察隊のBa擲弾兵第2連隊・第5,6中隊はこの5日夕刻、帰還中にジャンリ(ディジョンの南東16.5キロ)で仏義勇兵の集団と交戦します。この義勇兵たちはジャンリのディジョン~オーソンヌ鉄道停車場を警備していたBa軍前哨を襲撃し駆逐して部落内に侵入していた所で、Ba擲弾兵たちは短時間の激しい銃撃戦で義勇兵を四散させました。
この日、Ba軍の偵察・巡視・斥候各隊は他にもミルボー(=シュル=ベーズ)、エトゥヴォー(ディジョンの東20.8キロ)ポンタイエ(=シュル=ソーヌ)の周辺で仏軍に襲撃され、多少の損害を被っています。
サン=ジャン=ドゥ=ローヌのブルゴーニュ運河
一方、グレから南方ペスムへの街道(現・国道D475号線)を進んでドール方面へ向かった普第30連隊の2個中隊は、ペスム遙か手前のル・トランブロワ(グレの南6.9キロ)の南郊外で優勢な仏軍部隊(ガリバルディ軍の一部です)と遭遇し、この仏軍部隊は数の有利を活かして半数をダムの森(ボワ・ラ・ダム。ル・トランブロワ南南西に広がる森林。現存)に展開して普軍の南進を抑え、半数をその西側から回り込む形で北進させて普軍右翼(西)側から片面包囲を仕掛けて来ました。
これまでの仏義勇兵達とはひと味違う「戦慣れ」した行動に際し、普第30連隊の第6中隊はジェルミニュエ(ル・トランブロワの西南西2.3キロ)から突進して来たおよそ300名の仏軍を落ち着いて迎撃して撃退すると、普軍両中隊は仏軍が怯んだ隙に一気に街道を後退してエスムーラン(ル・トランブロワの北北西2.3キロ)の東側郊外まで下がり集合しました。ここでアプルモン(同西北西2.8キロ)へ進んで来た仏軍集団の攻撃を待ち受けますが、仏軍はここで前進を止め、やがて深い森へと下がって消えたのです。
仏軍はこのようにグレ以南のソーヌ下流域で活発な動きを見せ、捕虜や住民への聴取、そして斥候と諜報から盛んに入って来る情報から「ドールからディジョン及びグレへ向かう『ガリバルディ軍』の攻撃機動」が危惧されるのでした。
この状況からBa師団司令部では、「南方よりの仏軍による脅威」に備えるため警戒防御態勢を取ることに決します。
11月6日。独第14軍団は、味方前線より突出していたため周辺に敵が跋扈していたポンタイエ(=シュル=ソーヌ)の前哨部隊をミルボー(=シュル=ベーズ)まで下げ、ディジョンの南でブルターニュ運河を抑えていたブルトゥニエール在のBa軍前哨に増援を送り、更にオーソンヌへの街道(現・国道D905号線)上のフォヴェルネ(ディジョンの南東10.7キロ)へ強力な歩騎兵部隊を配置、これら部隊に対し常に戦闘態勢を取らせました。
しかしこの6日、南方へ派出された斥候からは口々に「仏軍はソーヌ西岸から東岸へ渡って退却した」との報告がなされ、休みなく警戒させ続けては貴重な兵員が疲弊してしまうため、Ba師団は前哨諸部隊を再度ディジョン近郊まで後退させて宿営させ、ディジョン市街の南方と南東方7、8キロ付近に改めて前哨を置いて南方を警戒させたのです。
ところが、今度はディジョン市西側のウシュ川渓谷内で義勇兵の出現情報が相次ぎ、更にブザンソン北方の状況を調べるため、ブズールからオニヨンとドゥー両河川流域へ派出された騎兵斥候からは、「仏軍の目立つ部隊がヴォルレ=シュル=ロニヨン(ブザンソンの北11.5キロ)やイル=シュル=ル=ドゥー(ブズールの南東37キロ)に進んでいる」との報告がありました。このイル方面へ進んだBa第2旅団の偵察隊はこの日(6日)、ジュネ(イルの北4キロ)にて約180名の護国軍部隊と遭遇し、これを撃破して若干の捕虜を引き連れ帰還しています。
この6日以降の数日間は、ディジョン南東のジャンリとソーヌ河畔ポンタイエ(=シュル=ソーヌ)間に広がる森林地帯で斥候同士の小戦闘が数回発生しただけで比較的静かに経過しました。
ブズールに本営を構えていたヴェルダー将軍は、ディジョンとグレから矢継ぎ早に入る情報から「グレ南方のオニヨン川方面から敵に圧迫されることが確実となった」と悟り、グレの防衛にはもっと多くの部隊が必要と痛感して、ブズールの西方ポール=シュル=ソーヌとセ=シュル=ソーヌ(=エ=サン=タルバン)の両渡河点を守備していたBa軍部隊から歩兵1個大隊・騎兵2個中隊・砲兵1個中隊を抽出し、6日遅くにグレへ向け前進させます。この支隊は翌7日グレに到着しました。
11月9日。グレ在の普混成兵団支隊(普第30連隊と騎兵2個中隊・砲兵1個中隊)は複数の斥候から「ポンタイエに進んでいた仏軍が後退した」との報告を受け、強力な偵察隊を組織するとソーヌを渡河させ、この偵察隊はエッセルネンヌ(=エ=スセ)からタルメを越えて南下し、ポンタイエへ急進しこれを占領しました。更に普軍部隊は一気にラマルシュ(=シュル=ソーヌ。ポンタイエの南南西4.4キロ)まで進み、ここにいた100名程度の仏兵を駆逐するのです。この後ポンタイエにはミルボーとグレから守備隊が送り込まれ、この前哨部隊は交代しつつ以降数日間ソーヌの重要な渡河点を護りました。
同じ9日、ブズールに届いた複数の情報によると「ブザンソン付近の仏軍では南西方面への移動が認められ、これはドール付近にいる『ガリバルディ軍』と合流する動きと見られる」とのことで、ソーヌ下流を偵察した斥候は「サン=ジャン=ド=ローヌでは以前より強力な前哨陣地が構築された」と報告し、数日前までは敵が存在しなかった「ボーヌとシャニー(ボーヌの南南西14キロ)にも新たな仏軍部隊が到着した」との情報も届きます。
これを聞いたヴェルダー将軍は10日、軍団主力をドールに向けて前進させるよう命令を下し、「出来る限り敵の側面に進出して、敵が更に兵員を集中させるのを妨害せよ」と訓令するのでした。
※11月9日における独第14軍団の配置
○ディジョンとその周辺
*Ba擲弾兵第1「親衛」連隊
*Ba擲弾兵第2「普王」連隊
*Ba第5連隊
*Ba第6連隊・第1大隊
*Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊
*Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊・第2,3,5中隊
*Ba軽砲第2,3中隊
*Ba重砲第1,2,3中隊
○ミルボー=シュル=ベーズとその周辺
*Ba第6連隊・F大隊
*Ba竜騎兵第2連隊・第4中隊
*Ba軽砲第1中隊
○グレとその周辺
*普第30連隊
*普予備竜騎兵第2連隊・第3,4中隊
*普第3軍団予備軽砲第2中隊
*Ba第4連隊・F大隊
*Ba竜騎兵第1「親衛」連隊・第1,3中隊
*Ba軽砲第4中隊
○ポール=シュル=ソーヌとセ=シュル=ソーヌ
*Ba第4連隊・第1大隊
○ブズールとその周辺
*Ba第3連隊・第1、F大隊
*Ba竜騎兵第1連隊・第2,5中隊
*Ba騎砲兵中隊
*Ba重砲第4中隊の1個小隊(砲2門)
*普フュージリア第34「ポンメルン」連隊
*予備驃騎兵第2連隊
*第1軍団予備重砲第1中隊
*第3軍団予備軽砲第1中隊
○サン=ルー=シュル=スムーズ
*Ba第4連隊・第2大隊
※11月9日以降命令によりポール=シュル=ソーヌとブズールに前進
○リュール
*Ba第3連隊・第2大隊
*普予備竜騎兵第2連隊・第1,2中隊
*Ba重砲第4中隊の2個小隊(砲4門)
○ラシュタット要塞(バーデン大公国内)
*Ba第6連隊・第2大隊
ヴェルダー将軍が「南方からの脅威」に対抗策を講じていた頃。仏本土南東側の仏軍属も「北方からの大いなる脅威」が迫って来ることに対し警戒態勢を取る事必死となっていたのです。
それはメッスの陥落と「バゼーヌ(ライン)軍」の降伏により、20万と号されるフリードリヒ・カール親王元帥の軍(ここでは独第一と第二軍による『メッス攻囲軍』です)が「メッスという頸城」から解放されて南下し、現在の敵Ba軍と旅団クラスの普軍を吸収してリヨンを目指し南仏へ侵入するのでは、と言う「悪夢」によるものでした。
仏軍幹部の中には、「カール王子の軍全てが南下するとは考えられず、その大部分はパリか北仏へ向かうはず」と唱える者も居たはずですが、カール軍の一部でもソーヌ川に沿ってリヨン方面へ向かえば非常に厄介な事となるのは目に見えていました。これは現在「仏(=パリ)の希望の炎」と言える錬成中の「ロワール軍」右翼(東)への脅威でもあり、このソーヌ沿岸を抑えられるとロワール上流の防衛も連鎖的に崩壊し、最終的には今は「大人しい」オルレアンの敵・B軍と連携した独軍の攻撃で、現在仏「第二の首都」となっているトゥールへも敵が迫る可能性すら生じるのです。
そこでトゥール派遣部の軍事指導部は、メッス陥落の報を知ると、幾分狼狽気味にブザンソンの「ヴォージュ軍」に対し「必要十分な守備隊をブザンソンに残し、コート=ドールとソーヌ=エ=ロワール県境のシャニーへ進め」と命じ、リヨン方面で集合・錬成中の護国軍や義勇兵に対し急ぎ北上を命じたのでした。
ブザンソンから出撃する仏軍
命令を受けたブザンソンの「ヴォージュ軍」は11月8日、シャニーに向けて行軍を開始し、12日にその殆どがシャニー周辺に到達してリヨン方面からやって来た「新勢力」と合同しました(これにより兵力はおよそ5万となります)。また、「ガリバルディ軍」もこの「ヴォージュ軍」の運動を受けて行動を起こし、同じ8日、ソーヌ=エ=ロワール県のオータン(ボーヌの西南西41キロ)を目標に移動を始めます。
この行動は、ボーヌの南側でソーヌ川の西岸を護ることとなる「ヴォージュ軍」の左翼と連絡しつつロワール川方面・ヌベールやブールジュへ至る諸街道を護るという意味がありました。なお、「ガリバルディ軍」の後衛は本隊や「ヴォージュ軍」の後方を警戒するため11月12日までドールに留まっています。
この大移動前後から、それまで漠然と「ヴォージュ軍」と呼ばれていたクルーザ将軍率いる軍勢は「東部軍」と呼ばれるようになり、ガリバルディ率いる独呼称「第2ヴォージュ軍」は正式に「ヴォージュ軍」と呼ばれるようになります(今後も混同を避けるため一部を除き今まで通り「ガリバルディ軍」と記述します)。
方や独第14軍団は、リュールやサン=ルー(=シュル=スムーズ)に分散していた左翼諸隊が10日にブズール周辺へ集合し、前衛はドールに向けて進発しました。
このブズールから進んだ前衛はグレから出立した部隊と合流して、12日にペスム周辺へ集合しました。この軍団の約半数となる兵力は、軍団長直率としてヴェルダー将軍が率います。軍団の残りは大部分がディジョンにあり、多くがブズールに、一部がグレに残留して後方連絡線を守備し跋扈する義勇兵に対しました。
この時のヴェルダー将軍の計画は、「13日にペスムの東でオニヨン川を渡河してドールに向かい、同時にディジョンのバイヤー将軍麾下のBa軍がサン=ジャン(=ド=ローヌ)かポンタイエを経由してドールへ向かう分進合撃を謀る」というものでした。
この命令を受領する前後で、フォン・バイヤー将軍はソーヌ川が悪天候により増水しており渡河には下流より上流の方が困難がより少ないことを知り、麾下諸隊にはポンタイエへの行軍路を命じるのでした。
ところが、ヴェルダー将軍は「バイヤー支隊」の行軍路はより南側を通ることで敵の情報を得、同時に敵の一部を捕捉・撃破する可能性もある「サン=ジャン」ルートが適している、と考えており、12日早朝、ディジョンのバイヤー将軍に宛てて訓令書簡を送りました。これによれば、「その後の情報によれば、敵はドールよりシャロン=シュル=ソーヌ(ボーヌの南26.7キロ)方面へ撤退したので、バイヤー将軍はこの敵を追撃するためにもサン=ジャンへ向かって進んで欲しい」との主旨でした。しかしこの書簡がディジョンに届いた時には既にバイヤー将軍はポンタイエのソーヌ川に仮設軍橋の工事(既述通りポンタイエやラマルシュの既設橋は仏軍が破壊しています)を始めており、麾下部隊もポンタイエへの行軍を開始していたため、バイヤー将軍は「命令を変更すれば混乱を招きドール到着も大幅に遅れる」として命令を変更しませんでした。
これによりディジョンのBa軍(第1と第3旅団の殆ど)は12日中にポンタイエに達し、Ba第3旅団の前衛は同日中にソーヌ左岸(ここでは東岸)に渡っていました。
同じ頃。ヴェルダー将軍は、進撃目標のドールから敵が消えた(12日のガリバルディ軍後衛の撤退)との報告を受けます。
将軍は以前からソーヌ河畔に残る「障害」、オーソンヌの小要塞を占領したいと考えていましたが、「ガリバルディ軍」の存在により困難であり実行を諦めていました。
ドールが簡単に手に入ることを知ったヴェルダー将軍は、ドール占領の前に孤立したオーソンヌを奇襲によって奪取しようと考えを改め、その実行を麾下に命じます。この拠点を獲得することが出来れば、今後西と東の敵が再びドール方面に現れても、グレやディジョン南方のソーヌ川を管制することが可能となり、ヴェルダー将軍としては是非にも欲しい拠点でした。
13日の早朝、命令を受けたポンタイエのバイヤー将軍は、ソーヌの西岸沿いに麾下2個旅団を進め、Ba第1旅団は右翼(西)後方警戒のためにジャンリへ、Ba第3旅団はヴィレ=レ=ポ(オーソンヌの北西3.3キロ)へ進みました。同時に普混成兵団とその後方を行くBa第2旅団はペスムを発してオーソンヌの東郊外へ接近し、普軍の予備驃騎兵2個中隊はドールへ偵察に向かいました。
バイヤー将軍はBa第3旅団を直率してヴィレ=レ=ポへ接近し、ここで仏軍の小部隊を蹴散らすと将軍自ら近くの高地からオーソンヌ要塞を観察し、仏側が「十分な守備隊を持って要塞砲も備え、攻撃に対し準備万端整えている」ことを確認します。同要塞守備隊は、要塞前にある障害物を廓壁から750mに渡って全て撤去しており、要塞に接近する者は射界の開けたこの場所で十字砲火を覚悟しなくてはならなかったのです。
ストラスブール攻城戦を経験し本格的攻囲のことは身に染みて知っているバイヤー将軍は、直ちに状況をヴェルダー将軍に伝え、両将軍は「予備弾薬縦列も到着していない現状では野砲による砲撃も無理」と結論し、オーソンヌ攻略はしばらくの間お預けとなったのでした。
オーソンヌのソーヌ堰と鉄道橋(現存します)
さて、ドールに向かった普軍予備驃騎兵2個中隊はその途上、住民等を捕まえては情報を仕入れ、それによれば「ドールには現在僅か2~300名の護国軍部隊しか駐屯していない」とのことで、また押収した「ボーヌ市長の署名がある書簡」から「仏『東部軍』はシャニーを発してディジョンへ北上する」とのことが判明しました。因みに、この時点(11月13日)において、仏東部軍やガリバルディ軍はディジョンに対する攻撃など企てておらず、この「ボーヌ市長の手紙」なるものは仏側の欺瞞によるものでは、と言われています。
ヴェルダー将軍は、この「ボーヌ市長の手紙」に敏感に反応し、ドール進撃を中止して急ぎディジョン防衛に全力を上げることを決め、軍団をソーヌ川とディジョンとの間に集合させるよう命令を下します。
13日夕刻。将軍はオーソンヌの東側に迫っていた軍団の半数を率いポンタイエへ行軍させて集合させ、工兵はこの地で大量の軍需物資が蓄積されていた火薬工場を爆破し、万が一この地が仏軍に奪われても憂い無きようにしました。
Ba第3旅団はオーソンヌ監視のため一支隊(Ba第5連隊第1、F大隊・Ba竜騎兵第3連隊第1中隊・Ba軽砲第2中隊)をヴィレ=レ=ポに残し、残りはバイヤー将軍が率いてジャンリに留まるBa第1旅団と連携するためソワン(オーソンヌの西7.7キロ)へ進みました。
この日、Ba第1旅団の騎馬斥候はサン=ジャン=ドゥ=ローヌの北で銃撃を受け、また同地でソーヌに架かっていた木橋は仏軍により放火され無惨に焼け落ちているのを発見しています。
サン=ジャン=ドゥ=ローヌのソーヌ橋(普仏戦後)
翌14日。ヴェルダー将軍は敵の脅威を南方に限定させるため、前日夜に報告のあったサン=ジャンの敵を駆逐するようBa師団に命令し、Ba第3旅団はヴィレ=レ=ポとソワンそれぞれの宿営を発してサン=ジャンに向かいました。
サン=ジャンには4~500名の護国軍と義勇兵からなる部隊がいましたが、Ba軍が急進して来るのを発見すると直ちに前哨は北郊外のサン=ユザージュから撤退し、Ba軍の重砲第1中隊が砲列を敷いてサン=ジャン市街を砲撃し始めると、市街地からも撤退するのです。
仏軍が用意してあった川舟でソーヌ川を渡って去るのと同時に、Ba第3旅団主力はほぼ無血でサン=ジャン=ドゥ=ローヌを占領しました。
ポンタイエに集合していた普軍とBa第2旅団は同14日、ディジョンに向かって行軍し、市街地と東郊外に宿営します。Ba第1旅団はロンジュクール(=アン=プレンヌ。ジャンリの南西7.2キロ)へ移動して宿営し、ヴェルダー将軍の本営はポンタイエからディジョン市内へ移動しました。
ディジョンへ向かうヴェルダー将軍
翌15から16日に掛けて、ディジョン南方郊外に展開していたBa軍諸隊はディジョン西側に聳えるコート=ドール高地に向かって前線を延伸し、Ba第1旅団は騎兵6個と砲兵2個中隊と共に、高地とブルゴーニュ運河間へ展開するとディジョンに南方から至る諸街道を監視し、前哨はジリ=レ=シトー(ディジョンの南南西17.2キロ)まで派出されてボーヌ方面を警戒しました。この部落とその南にあるニュイ=サン=ジョルジュは15日まで仏軍前哨がいましたが、Ba軍が至る直前の16日に撤退したとのことでした。
一方、ディジョンからは8日に独第二軍と連絡するため一支隊(Ba第1連隊F大隊の2個中隊・Ba竜騎兵第2連隊第5中隊の半数・Ba軽砲第3中隊の1個小隊2門)が北西方へ進みますが、11日、シャティヨン=シュル=セーヌ(ディジョンの北北西69.2キロ)付近に到着したものの味方は未だ存在せず部隊は孤立を避けるためやむなく引き返しました。その後退中、コート=ドール高地内の街道筋は仏義勇兵によって遮断され妨害物を設置されたため、支隊は大きく東へ迂回してイス=シュル=ティユ(ディジョンの北23キロ)からディジョンへ帰還しています。
サン=ジャン=ドゥ=ローヌからソワンに戻っていたBa第3旅団は、騎兵2個、砲兵4個中隊と共にオーソンヌ街道(現・国道D905号線)に沿ってジャンリまでの各部落に宿営しました。その一支隊(Ba第6連隊F大隊の2個中隊・Ba竜騎兵第3連隊第1中隊の半数・Ba軽砲第2中隊)はエトヴォー(ポンタイエ=シュル=ソーヌの西北西7.5キロ)を拠点に周辺の森林地帯とオーソンヌ要塞を監視しました。
ディジョンの周辺に集合したその他の軍団諸隊は、宿営地域を市東郊外だけでなく西側や東側ティユ沿岸まで拡大し、Ba第2旅団は市街北郊外に進出して北側ラングル方面も警戒しました。
ブズールに残っていたこの旅団の一支隊(Ba第3連隊第1、2大隊・Ba竜騎兵第1連隊第5中隊・Ba重砲第4中隊の1個小隊2門)は広く展開してフレンヌ=サン=マメス(ブズールの南西23.5キロ)とグレにまで守備隊を送っていました。
同旅団中、ブザンソンの南西に向け鉄道破壊や交通妨害任務を受けて行動していた一支隊(Ba第4連隊F大隊の2個中隊・Ba竜騎兵第1連隊第3中隊の半数・Ba軽砲第4中隊の1個小隊2門)は、ペスムを過ぎてオニヨン川とドゥー川の間で武装した現地住民と衝突を繰り返しつつ南下して、14日にはブザンソン西郊外のドゥー河畔・サン=ヴィ(ブザンソンの西南西17.3キロ)に達します。しかし既に爆薬と弾薬に工具類も損耗していた部隊は任務遂行が十分に出来なくなっており、やむを得ず撤退して15日にポンタイエに現れます。この支隊は翌16日にグレの守備に加わるよう命令され、同地に至りました。
フォン・ヴェルダー将軍は一向に攻撃して来ない仏軍に対しても警戒を怠らず、市街南に展開する軍団主力には半恒久的な防御施設の工事を命じました。ヴェルダー将軍は市街地南面のおよそ1個師団の兵力を中核としてディジョン固守し、シャティヨン=シュル=セーヌに来るというカール王子軍はあてにせず、アルザスからセレスタやヌフ=ブリザック要塞を抜いた後に前進して来るはずの普予備第4師団が到着するまでの間、積極的行動を控えることに決します。そしてこの「時間」を利用して出来る限り南面する仏東部軍・ガリバルディ軍を牽制し、同時に後方連絡線を確実に防衛して、エピナル~ブズール~ディジョンの鉄道線を完全復旧させようと考えるのです。
既に11月中旬にはエピナル~ブズール~グレ間の電信線は開通しており、グレ~ディジョン間でも急速に工事が進んでいました。
未だ独軍が占領していないラングル周辺から出没する仏護国軍兵や義勇兵のゲリラ攻撃に備え、ヴュルテンベルク王国の兵站部隊はエピナルからBa軍部隊の去ったサン=ルー(=シュル=スムーズ)まで前進し、ヴェルダー将軍の後方連絡線の安全を確保しようとしたのです。
しかし、ヴェルダー将軍の目論見も虚しく、仏軍は程なく新たな攻勢を仕掛けるのでした。
エピナル近郊で独輸送隊を襲う仏住民




