第一次ディジョンの戦い
☆ 独第14軍団への命令変更(10月29日)
独第14軍団中ソーヌ川を渡河し西岸に移った部隊は、グレの北西に広がる森林内で仏護国軍部隊に遭遇し、これを撃退した後10月27日、ディジョンに向けて複数の強行偵察隊を放ちます。
これら強力な偵察隊は、ヴァンジャンヌ川(ラングルの南方、オート=マルヌ県ノワダン=シャンノワ付近を源流に南へ下り、コート=ドール県の東部を流れてタルメの東でソーヌに注ぐ支流)の東岸数ヶ所で仏軍と出会い交戦しています。
Ba擲弾兵第2「普王」連隊F大隊の2個中隊に重砲第3中隊の2個小隊(4門)からなる偵察隊はオートレイ=レ=グレ(グレの北西9キロ)を出発して、ファイー(=レ=オートレイ。オートレイの北3キロ)とプイイ(=シュル=ヴァンジャンヌ。同北西7.5キロ)周辺の森林にいたおよそ600名の仏護国軍部隊を攻撃し、仏護国軍はモルネ(プイイの北北東2キロ)とサン=セーヌ=レグリーズ(現・サン=セーヌ=シュル=ヴァンジャンヌ。同南2キロ)へ退却して行きました。Ba部隊は追撃に移り、サン=セーヌ東の高地森で1時間半に及ぶ戦闘後、護国軍部隊を更に後退させ、一気にサン=セーヌ部落を落としたBa軍はこの仏護国軍大隊の行李全てと約60名の捕虜を獲るのです。
フランク・ティラール 義勇兵
一方、ヴァンジャンヌ川下流域には諸処に仏軍前哨が置かれていましたが、特にソーヌ支流のベーズ沿岸ミルボー(=シュル=ベーズ。ディジョンの東北東22.5キロ)とソーヌ河畔ポンタイエ(=シュル=ソーヌ。同東28キロ)へそれぞれ通じる街道(現・国道D70号とD476/976号線)の分岐点周辺、オート=ソーヌとコート=ドール県境のエッセルネンヌ(=エ=スセ。グレの南西10キロ)に有力な仏軍がいました。Ba擲弾兵第1「親衛」連隊の第2大隊(Ba軽砲第3中隊の1個小隊/砲2門とBa竜騎兵第3連隊の第5中隊半数/100騎前後が追従していました)はこのエッセルネンヌを攻撃し、仏軍はたちまち駆逐されて部落と西側の鹿砦を設けていた林から早々に撤退しました。Ba大隊の第5,8中隊はこの林を抜けて追撃に移ると、タルメ(エッセルネンヌの南南西5.5キロ)から街道をルネーヴ(旧名ルネーヴ=レグリーズ。同西5.3キロ)へ向けて行軍中の護国軍大隊の縦列およそ1,200名に遭遇し、警戒の緩かった仏軍部隊はBa軍の襲撃に驚き慌て、半ばヴァンセンヌ川を越えて西へ、半ばタルメへ引き返しますが、この時タルメには既にBa大隊の第6中隊が到達しており、部落で包囲された仏軍およそ2個中隊は士官15名・下士官兵430名という目立つ数の捕虜を出したのです。
この後Ba擲弾兵第1連隊第2大隊の「戦闘団」はエッセルネンヌ付近の「前」仏軍陣地を改修して拠点とし、タルメには前述の1個中隊を前哨として置きました。
ところが、タルメの第6中隊は程なく「仏軍が再びヴァンセンヌ川に向かって行軍して来る」と報告し、また前日諜報により「ディジョンでは『コート=ドール軍』と呼ばれる部隊が編成中で市街地は堅固に防衛されている」と聞かされていたBa師団は、この時捕虜の口からこの情報の裏付けを得たので、同27日午後、ソーヌ河畔マントッシュ(エッセルネンヌの西南西4.8キロ)にあった部隊をエッセルネンヌへ増援として進ませます。
また、Ba第3旅団本隊はこの日、グレ周辺に到着するのでした。
こうして27日中にグレ付近まで至った独第14軍団は、翌28日、Ba第2旅団のみグレ周辺に残すと、Ba第3旅団はタルメへ、普混成兵団はルネーヴへ、「新」騎兵旅団はダンピエールへとそれぞれ進み、ヴァンセンヌ川に達します。Ba第1旅団は軍団前衛としてミルボー(=シュル=ベーズ)まで進みました。
この日、各旅団は騎兵斥候を放ちますが、そのどれもが「敵を見ず」と報告し、やがてディジョン東側の仏軍はポンタイエやラマルシュ(=シュル=ソーヌ。ディジョンの東南東26.6キロ)のソーヌ橋梁を破壊して落とし、多くがディジョンへと撤退し、一部だけがオーソンヌ方面に残っていることが判明しました。
また、諜報ではブザンソン付近にいる仏ヴォージュ軍は前衛部隊をBa諸隊が消えたオニヨン川まで進め、また南方からは強力な増援がドールに接近しつつあるとのことでした。
10月29日。ヴェルダー将軍は独第14軍団のディジョン行軍を続行させ、全部隊をティユ川(ディジョンの北34キロのサリーヴ付近を源泉に、オーソンヌの南、レ・マイイー付近でソーヌに注ぐ支流)の線まで進める気でいました。
ところがこの日早朝、ベルサイユの大本営からモルトケ参謀総長の名で書簡命令が届くのです。
これは「メッスの陥落が近いため、次の独軍全体の方針を定めた」23日発の重要な命令の一部で、カール王子のメッス攻囲軍に同日出された命令と対になるものでした。
「1870年10月23日 ベルサイユにおいて
メッス要塞はここ数日中に落城するだろう。従ってその後メッス攻囲軍は再度野戦軍として行動することとなる。
この場合、フリードリヒ・カール親王の独第二軍、即ち第2、3、9、10軍団と普騎兵第1師団はトロア(メッスからは南西へ178キロ)を経由しロアール川に向かって前進することとなる。
従って、貴官(フォン・ヴェルダー将軍)の任務は以下の通り変更される。
独第14軍団は新たに予備第1、予備第4師団を隷下に加え、新任務としてシュレットシュタット(仏名セレスタ)、ノイ=ブライザハ(仏名ヌフ=ブリザック)、ベルフォールの各要塞を攻囲して、同時にエルザス(アルザス)総督府と(メッスから南西へ進む)独第二軍の左翼側とを警戒援護することと、貴官の兵力と同等の敵を南に牽制し北上出来なくすることが以降の命令となる。そのため貴軍団は、敵がブザンソンに強力な兵力を集中する間は、現に貴官が掌握する兵力(Ba師団と普混成兵団)によりブズール付近に留まり、同時にディジョンを占領してこれを死守し、ラングル、ブザンソン、ベルフォールの各要塞に対し自らの安全を確保せよ。
貴軍団が自ら護るべき後方連絡線は、再度エピナルを通過するものとなるため、ブランヴィル(=シュル=ロー)~エピナル~ブズールに至る鉄道線の修理を出来る限り速やかに実施完了させ、同時にブズール~ディジョンの鉄道線をも修繕し、敵の破壊作業を警戒阻止せよ。
貴官に隷属する野戦鉄道隊の作業進捗は常に大本営の鉄道輸送担当官まで報告せよ。他の線区における敵の鉄道線路と諸材料を撤去しこれを転用することは、やむを得ぬ場合に限り戒めよ。何故ならば、これを率先して行えば他線区の復旧を遅らせる原因となるからである。
貴軍団前進のため敵の弱小な部隊を攻撃することは、躊躇せず実施して宜しい。特に11月6日以降ベルフォール周辺へ到着する筈の予備第1師団が要塞を包囲するまでの間、貴官はベルフォール要塞都市周辺の監視を強化し、敵が要塞より出撃してヴォージュあるいは上エルザス(オ=ラン県)の友軍に対し攻撃を企てることがあればこれを阻止せよ。これらの事態が生じた場合、貴官は他方面を差し置いてでもベルフォールに対し大兵力を用いることを躊躇せず行うようにすべきである。
普予備第1師団はコルマールに到着した時点より貴官の麾下となる。同師団のコルマール着は(分かり次第)直ちに報告せよ。現シュレットシュタット(セレスタ)付近にある普予備第4師団に対しては、既に貴官の麾下となることを通告済みである。察するところ、貴官は既に同師団の状況を(相互連絡により)熟知の事と思う。
貴官はこの作戦進捗に関し今後も従前の如く大本営へ詳細報告を行う他、カール親王に対しても絶えることなく同報することを願うものである。また、貴官が第一に行うべき任務遂行の妨げにならぬのであれば、作戦地域を更に南方へ拡大し、ブザンソンを攻略し南進しても構わない。
貴官にはエルザス(アルザス)、ロートリンゲン(ロレーヌ)、ランスの各総督府に対しても絶えず連絡を維持することを望むものである。これは貴官の作戦状況が、これら地方の経営に重大な影響を与えることとなるからである。
フォン・モルトケ
第14軍団長歩兵大将フォン・ヴェルダー殿」
(筆者意訳。この書簡命令と同内容の電文命令も発信されましたが、途中電信の不通によりヴェルダー将軍の下まで届きませんでした)
この命令を一読するやヴェルダー将軍はBa師団と普混成兵団を率いてまずはブズールに戻ろうと考えます。しかし、同29日午後、Ba第1旅団斥候からの報告が届き、それによれば「ディジョンから仏軍が撤退した」とのことで、ヴェルダー将軍はBa師団長代行のバイヤー将軍に対して「Ba第1、Ba第3の2個旅団を率いて明日(30日)中にディジョン市を占領せよ」と命じます。しかし、ブズールにも兵を戻さねばならないヴェルダー将軍は、ディジョンに大きな増援を割くことが出来ないことを踏まえ、続けて「我が軍有利とならない場合には本格的な戦闘は避けるように」と付け加えたのでした。
バイヤー将軍(バーデン大公国陸相時代)
☆ 10月30日ディジョンの戦い(第一次ディジョン戦)
軍団の前衛としてミルボー(=シュル=ベーズ)にいたBa第1旅団は、バイヤー将軍からの命令により30日午前7時30分、マニー(=サン=メダール。ミルボーの西南西5.3キロ)に向けて行軍を開始し、Ba第3旅団も師団命令により第1旅団の左翼(南)側を前進しようとしますが、タルメからエトヴォー(ミルボーの南8.5キロ)へ向かう街道(現・国道D25号線)は仏軍により諸処で破壊工作が行われたため通行困難で、仕方なくルネーヴを経由し、まずは第1旅団のいたミルボーを目指しました。
午前9時30分。Ba第1旅団の騎兵斥候は「アルク(=シュル=ティユ。ミルボーの南西11.3キロ)において敵銃火を浴び、その西方ノルジュ川(ディジョンの北、ノルジュ=ラ=ヴィル付近からディジョンの東郊外を流れロンジョー付近でティユ川に合流する支流)に沿って仏軍がいる」と報告しました。これは前日の情報と相反しており、仏軍がディジョンに舞い戻ったのかのようでした。
これには理由があり、ディジョンでは28日、タルメからサン=セーヌ(=シュル=ヴァンジャンヌ)に掛けての戦闘結果を受けて混乱が発生し、慌てた県と市当局、そして市民代表から成る共和派主導の軍事委員会(10日前に発生したシャトーダンの事件を聞いていました)は、召集したばかりで新兵訓練も未了のままだったディジョン市の国民衛兵部隊を解散させ、市の周辺にいたコート=ドール県護国軍連隊と義勇兵の集団(独軍の言う「コート=ドール軍」)は南方ボーヌに向けて後退して行きました。
しかし市の軍備が取り払われて不安になった市民たち、そして「独に抵抗を」と呼び掛ける愛国的な市民たちは市役所や県庁に押し掛けて猛烈な抗議を行い、これに「独軍の兵力は大したことが無い」という「出所不明」の情報も加わり、市の首脳陣は仏軍に戻って来るよう嘆願したため、29日、ディジョンではタルメやサン=セーヌから逃げ延びた部隊の生き残りとラングルやオーソンヌから来た南仏ロゼール県(県都マンド)やドローム県(県都ヴァランス)の護国軍部隊、ローヌ県の義勇兵、スミュール(=アン=ノーソワ。ディジョンの西北西56キロ)の護国軍大隊、そして仏第6猟兵大隊の生き残り60名に市内の国民衛兵が集まり、この日夕刻にはヨンヌ県から来た護国軍大隊にマルシェ連隊に加わっていた正規軍の戦列歩兵第90や第71連隊の一部が到着し、併せて約8,000名の「俄防衛隊」が編成され、27日にオーソンヌから護国軍を引き連れてやって来て、市全体の防衛を任されていたパリ防衛隊出身のベテラン士官、アドリアン・フランシス・ルイ・フォコネ大佐(当時56歳)が全部隊の指揮権を掌握しました。しかしこの日午後8時、大佐は県と市当局の軍事委員会から「市街を戦火に巻き込まぬよう」厳命されてしまい、仕方がなく防衛隊をそれぞれの小グループ毎にヴァロワ(=エ=シェーニョ。ディジョンの北東7.3キロ)からティユ川に掛けて展開させたのでした。
出撃する護国軍部隊
コート=ドール県都ディジョンはローマ時代から続く由緒ある都市として栄え、中世ではブルゴーニュ公国の首都としてこの地方の中心地でした。コート=ドール高地の東麓にあって公国時代には立派な城壁が築かれていましたが、この1870年には既に城壁は各所で分断されて本来の役には立っておらず、城壁とその前地の一部は史跡として公園化され、新市街(フォーブル/郭外・衛星部落)と旧市街の境界線になり果てていました。シュゾン川(ディジョン西方のコート=ドール高地からディジョン市内へ流れる川)は北方からこの新市街へ入り深い濠となって城壁「公園」の東側を巡りオーソンヌ街道(現・国道D905号線)にぶつかると南方の新市街地へ流れて行きました。
市街地の西郊外は直ぐに高地へ連なり、岩石が剥き出しの山麓や円錐状の山々が市街地からも望見されました。市北方から東方に掛けても高地から丘陵が続いて尾根を作り、起伏ある地形を成していました。
グレに通じる街道(現・国道D70号線)と市街地の間には先程の「境界線」となっている広大なモンミュザール公園(およそ600mの長さです)があり、公園南方には平野が広がりその多くはブドウ畑となっていました。
この日のBa第1旅団前衛は、Ba擲弾兵第1連隊の5個(第1~4,11)中隊・Ba竜騎兵2個中隊・Ba軽砲2個中隊からなる支隊で、アルク(=シュル=ティユ)東郊に展開し、続行した歩兵1個大隊に砲兵小隊(2門)は更に北方のアルソー(アルクの北4.5キロ)に向かって前進しました。すると、Ba軍を発見したオルジュ(アルクの北西3.2キロ)を拠点としティユ川に沿って展開していた仏軍諸隊は一斉に後退を始め、ディジョン郊外のサンタポリネール(ディジョン中心から東北東に3.5キロ)まで下がります。
この仏軍後退を見たBa前衛からは、第1中隊を先鋒として第1大隊が飛び出し、一気に川を渡るとサンタポリネールへ突進して襲い、この部落を短時間の戦闘で占領すると、追って川を渡った砲兵両中隊は部落南側に砲列を敷きました。
後退した仏軍はディジョン新市街から前進して来た新たな部隊と合流し、ディジョン東郊の丘陵に再展開すると猛烈な銃撃をBa軍に浴びせました。しかし銃撃戦の末の午後12時半、Ba軍は一斉突撃を敢行して白兵戦により高地から仏軍を駆逐したのです。
この戦闘の間、Ba第1旅団本隊はサンタポリネール周辺へ集合し、街道両側に砲列を敷いたBa砲兵3個中隊は前衛の攻撃を支援し始めていました。
ディジョン市街を見下ろす高地を占領したBa前衛は、休むことなく市街へ逃走する仏軍を追撃し、散兵戦を行いつつ北東側の衛星市街・サン=ニコラへ進撃しました。続行したBa擲弾兵第1連隊の第2大隊は大きく開いた縦列横隊で第1大隊の左翼(南)を行き、その前線をグレへの街道(現・国道D70号線)南方まで延伸するのです。
同連隊の第9,12中隊は市中ミランド街へ向かう街道(現・国道D107号線)に沿って前進し、東側の衛星市街・サン=ピエールへ進みました(連隊残りの第10中隊はこの時騎兵旅団に隷属しています)。
サンタポリネールには Ba擲弾兵第2連隊が進み、第1、2大隊の先鋒2個中隊はディジョン市北郊を抑えるためラングルへの街道(現・国道D974号線)へ進み、3個中隊はサン=ピエール攻略増援として東へ進みました。
この頃、アルクに到着したBa第3旅団の砲兵3個中隊も師団長命令でディジョン東郊外へ急行し、午後3時少し過ぎに一部がサンタポリネールへ、一部がモンミュザール公園の南側に砲列を敷き戦闘に加入しました。
※午後3時・ディジョン東郊のBa軍砲兵中隊
右翼(北)より
○サンタポリネールの西、グレ街道の北
・Ba重砲第3中隊
・Ba重砲第2中隊
・Ba重砲第1中隊
・Ba軽砲第1中隊
○モンミュザール公園の南高地上
・Ba軽砲第3中隊
・Ba軽砲第2中隊
Ba竜騎兵諸隊が砲列の両側で護衛しました
サンタポリネールから撤退した仏軍はディジョン東郊のブドウ園やそれを経営する数軒の農場、そして隔壁のあるモンミュザール公園と防御側に有利な土地で戦う気配を見せますが、Ba軍諸隊は追う者の勢いで仏軍が防御態勢を整える時間を与えず前進を継続し、砲兵6個中隊36門の集中砲火は市の周囲を守る仏兵に頭を下げさせ反撃を封じます。これによってBa軍は東と北から一気に衛星市街に突入しました。
ところが、いざ市街に入るとそこは至る所に「罠」が待ち構える凄惨な市街戦の場でした。あのセダン戦、バイエルン(B)軍にとって忘れることが出来ない傷を残した恐ろしい「バゼイユの街」と同じ光景がそこにはあったのです。
郊外市街では多くの住民が武器を取って自宅を砦と化し、義勇兵や護国軍と肩を並べて銃撃を行いました。バゼイユのB軍と同じくBa軍も、一軒毎に白兵でこれを奪取する危険で凄惨な戦いをせざるを得なくなるのです。
それでも戦いはBa側有利に進行し、Ba軍は夕暮れ迫る午後4時前には市街南西へ流れウシュ川に注ぐシュゾン川の線まで到達するのでした。しかしBa師団長を代行するバイヤー将軍は「更に旧市街や中心街の新市街を占領するには時間も掛かり犠牲も大きい」として、朝、軍団長から受けた「本格的な会戦は避ける」との訓令によって本日中のディジョン占領を諦めたのです。
指揮を執るフォコネ大佐
午後4時。Ba師団司令部は戦闘中止を発令し、砲兵が夕闇で目標が見えなくなるまで援護砲撃を続ける中、Ba歩兵各大隊は順次占領した地区から後退し、ディジョン市北郊外で戦っていたBa擲弾兵第2連隊の2個中隊などはラングル街道脇に待ち構えていた仏護国軍の集団による一斉射撃を浴びながらも果敢に突撃を敢行しこれを突破して後退するのでした。
しかしこの時、ディジョン市側も停戦を決め、白旗を県議事堂の屋上に掲げていたのですが、夕暮れに紛れてBa軍は認識出来なかったものと思われています。
こうしてBa第1旅団はモンミュザール公園の東側に出て集合し、サンタポリネールとヴァロワ(=エ=シェーニョ)まで下がって宿営を始め、Ba第3旅団はその南方、クウェッティニー(サンタポリネールの南東3.5キロ)やクテルノン(同東5キロ)で宿営するのでした。
このBa第3旅団のBa第5連隊第2大隊はこの日、ディジョン南郊のコロンビエール公園に潜んでいた仏軍散兵を駆逐し、この公園西側にあったウシュ川対岸の鉄道分岐点でBa工兵たちが行った破壊工作を支援しました。
この10月30日のディジョンの戦い(第一次ディジョン戦)におけるBa軍の損害は、戦死が士官1名・下士官兵62名、負傷が士官10名・下士官兵184名、行方不明が下士官兵3名、合計260名で、他に馬匹の負傷13頭でした。
一方の仏軍は、戦死者が200名、捕虜100名余り、市民を含む負傷者は不詳です。
フォコネ大佐は午後4時前後、モンミュザール公園の隔壁前で陣頭指揮中に戦死しました。皮肉なことに、大佐はこの10月30日付けで准将に昇進していました。
この日の深夜。ヴァロワに置かれたBa師団司令部にディジョン市当局から白旗を掲げた使者が訪れます。使者は市の降伏を伝え、住民の保護と2万名分の糧食を供給して欲しいと嘆願しました。住民が仏軍に混じって戦ったと非難するバイヤー将軍に対し、使者は「住民には今後一切刃向かうことをさせない」と約束するのです。この降伏交渉は早朝午前3時にまとまりました。
翌31日朝。Ba軍はディジョン市に入城し、すっかり大人しくなった市民が隠れて見守る中、仏軍が消えた市街や拠点に進駐して前哨をウシュ川沿いに出し、南方へ続く鉄道を切断して警戒を厳とするのでした。
ディジョン(1870年10月30日)
ディジョンで激しい戦闘が行われていた頃、独第14軍団の残りはブズールに向けて出立していました。
ディジョンで戦う師団から離れていたBa第2旅団はこの30日、グレからソーヌ川に沿って北上し、翌31日、ブズールに入りました。
普混成兵団は30日にグレに入りますが、ここで「ディジョンの戦い」第一報が入り、兵団は騎兵と砲兵中隊を急ぎディジョンへ送り出します。しかしこの増援は戦闘に間に合わず、アルク(=シュル=ティユ)から11月1日になってグレへ戻りました。
31日にはバトラン(グレの東南東4キロ)付近に派出されていた前哨が義勇兵の集団と遭遇し、これをクルゼンセ(同南東7.5キロ)方面へ撃退します。
普軍兵団は若干の諸兵科連合による支隊をグレに残留させると、本隊はブズールに向けて出発し、11月3日、同地に到着しています。
ヴェルダー将軍はミルボー(=シュル=ベーズ)とポンタイエ(=シュル=ソーヌ)に少数のBa軍前哨を配置して南方にいる「ガリバルディ軍」に備えさせ、ブズールに落ち着いたBa第2旅団は西側ソーヌの近隣渡河点へ守備隊を送り、後方連絡線上のサン=ル(=シュル=スムーズ。ブズールの北31キロ)にも守備隊を派遣しました。同旅団はこれと別に諸兵科混成の一支隊をリュール(ブズールの東北東キロ26.5キロ)へ派出し、この隊はベルフォール付近に迫った普予備第1師団と連絡を取り合います。
独第14軍団本営は11月2日よりブズールに駐在し、軍団輜重はブズールに全て集合して倉庫群を建造し始め、工兵の電信隊はブズールから各方面への電信線を修理するのでした。
束の間の平和




