オニヨン河畔の戦いと英雄ガリバルディの登場
☆ オニヨン河畔の戦い
10月22日。独第14軍団本営は麾下諸隊をオニヨン川*の沿岸に至るまで前進させて渡河地点を確保することとし、そこで敵の情報が集まるのを待ってから次の行動に移ることとします。
※オニヨン川
ヴォージュ山脈の南端付近にあるバロン・ドゥ・セルヴァンス山(ベルフォールの北22キロ。標高1,216m)北西側にある尾根を水源に、セルヴァンス~リュールを経てボナル(ブザンソンの北東39キロ)付近からオート=ソーヌ/ドー県境となり、更に下流のソルネ(同西北西25キロ)付近でオート=ソーヌ/ジュラ県境となってアイエ=シュル=ソーヌ(ディジョンの東31キロ)でソーヌ川に合流する支流です。
午前9時、この日早朝から軍団右翼(西)として行軍を開始したBa第1旅団はオートレイユ(ブザンソンの北西22キロ。ギーの南方)に到達し、旅団の前衛は仏軍と遭遇することなくオニヨン河畔のマルネー(オートレイユの南南西9.3キロ)やパン(同南南東6.6キロ)に至り、付近の橋梁を抑えます。
Ba第3旅団の前衛となったBa第5連隊のF大隊は、リオ(ブザンソンの北21キロ)を過ぎた南側の森林地帯で仏義勇兵の集団による激しい銃撃を受け、一時銃撃戦となりますが次第に義勇兵を圧倒し、民兵はグループ毎に散ると森林内部へ逃走しました。F大隊は散兵隊形となって警戒しつつ前進し、付近に潜む義勇兵を排除しながらオニヨン渓谷の北縁に到達します。
この渓谷縁のペルーズ部落(リオの南7.2キロ)では、F大隊に同行したBa竜騎兵第1「親衛」連隊の第5中隊が仏軍の散兵線を越えて渓谷に入りました。この少し後に付近の仏軍は逆襲に転じ、ビュティエ(ペルーズの南西2.1キロ)から出撃するとBa軍F大隊の正面と側面を包囲すべく進みました。しかしこれは旅団長のフランツ・アントン・ケラー少将の命令によりペルーズの西側高地に砲列を敷いていたBa重砲第1中隊が発見して砲撃を開始し、仏軍の縦隊はたちまち四散してBa砲兵から死角となる渓谷の底まで待避するのでした。
この砲兵中隊は射程内となったビュティエ、ヴォルレ(=シュル=ロニヨン。ビュティエの西南西1.3キロ)、ボネー(同南東1.8キロ)の各部落を次々に砲撃し、各所に火災を発生させます。F大隊は午後2時30分に炎上するビュティエを占領し、後方からやって来た同連隊の第2大隊は午後3時30分、ヴォルレ部落とその南郊外のオニヨン橋梁を確保しました。
歩兵たちが周辺地域を占領すると、Ba重砲第1中隊も高地から移動し、ビュティエとヴォルレ間の渓谷縁に陣取り、南へと退却する仏軍と、撤退援護に砲撃を開始した仏軍重砲兵(後述)に対し繰り返し榴弾砲撃を行いました。
こうしてBa第1、第3両旅団はオニヨン河畔で前衛を留め、以降の命令を待ちました。因みにBa第3旅団所属のBa第6連隊F大隊は本隊と別動し、軍団最左翼となって街道が集中するモンボゾン(ブズールの南南東19キロ)部落で電信線(オニヨン川北方とベルフォール、ブザンソンへの連絡に使用されていました)を切断し、オニヨン川に架かる橋梁を破壊する任務を受けて同所に行軍して行きました。
軍団の中央を行くBa第2旅団の前衛となったBa第3連隊第1大隊とBa竜騎兵第1連隊の半個中隊(2個小隊)、そしてBa軽砲第4中隊の2個小隊(4門)はエテュ(ブザンソンの北北西14キロ)を目標に進み、この部落郊外で激しい銃撃を浴びました。
Ba砲兵は直ちに部落に対する砲撃を行い、数発の榴弾で仏軍を沈黙させるとBa歩兵が突撃してエテュは陥落します。この際、Ba第3連隊の第3中隊がオニヨン川を渡河して逃げて行く仏兵を追撃し、対岸のキュセ(=シュル=ロニヨン。エテュの南1.1キロ)に進みますが、この時、仏軍の新たな部隊が渓谷北岸東側のブロ(同東キロ1.6キロ)に現れ、ルソーの森(ボワ・ドゥ・ルソー。エテュの北東2キロ周辺の森。現存します)へ進んでBa旅団前衛の左翼(東)と更に後方に進む気配を見せたため、前衛左翼となっていたBa第3連隊の第4中隊は森へ進む敵に対して銃撃を浴びせて行軍を留め、Ba前衛はキュセとエテュ部落を放棄してロン・クーの森(エテュの北1.5キロ周辺の森。同じく現存)南端まで退いて再集合しました。
Ba第2旅団長、男爵フォン・デーゲンフェルト少将はこの日午前中、旅団本隊を直率してヴロレイユ(小部落。エテュの北5.4キロ。更に西のヴロレイユ=レ=ショワとは違います)に到着し、午前11時には「オニヨン川北岸に残る敵を一掃せよ」とのフォン・バイヤー中将の命令を受け、重砲第4中隊を前衛のいるロン・クーの森へ送り、Ba第4連隊の第1大隊をボヌヴァン(現ボヌヴァン=ヴロレイユ。ヴロレイユの南900m)を経て南東へ進ませてルソーの森南端からエテュに展開した仏軍を攻撃させました。
午後1時。砲兵に援護されたBa軍の総攻撃を受け、仏軍はエテュを放棄し、Ba軍は歩兵2個中隊でエテュを再占領するのです。
Ba師団がオニヨン川に向かって進撃を行っていた頃、フォン・ヴェルダー歩兵大将は普混成兵団を直率して行軍し、午前11時にはオワゼレ=エ=グランショー(エテュの北8キロ)に到着しました。
ここでBa前衛諸隊から「オニヨン川到達」の報告を受けた将軍は、正午過ぎに命令を発し、これによりBa第1旅団はピン付近からオニヨンを渡河、キュセ(=シュル=ロニヨン)周辺に集合する仏軍の背後に回って攻撃することとなり、Ba第2旅団は同じロニヨン南岸の敵の注意を引くために牽制攻撃を行うこととなります。
この命令でエテュ付近のBa軍とキュセ付近の仏軍は川を挟んで銃撃戦を始め、仏軍はキュセから度々出撃してエテュを奪還しようとしましたが、Ba第2旅団前衛にはBa第3連隊からの第7,8中隊も加わって防御力を増し、エテュの東方高地上にはルソーの森とブロから仏軍を一掃したBa第4連隊の第1大隊も集合して銃撃戦に加わりました。旅団本隊もモンボイヨン(エテュの北北西2.8キロ)まで進んで、いつでも参戦出来るように待機するのでした。
キュセ=シュル=ロニヨンの橋で戦う仏オート=アルプ県護国軍
しかし仏軍もキュセに増援を送り、午後3時、反撃に転じます。
仏軍は再度川を渡ってオニヨン川北岸に進出しエテュのBa軍と戦いますが、Ba第2旅団は同第3連隊で残った2個中隊を自軍右翼(西)に前進させ、砲兵2個中隊がオニヨン川の橋梁周辺を激しく砲撃したため仏軍は再度守勢に転じ、Ba軍の時期を得た突撃によってキュセに後退しました。この機会を逃さず、Ba軍は仏軍後衛の直後を進んでキュセに総攻撃を敢行し、キュセはたちまち陥落して多くの仏兵が捕虜となるのです。
この時に追撃を行ったBa竜騎兵第1連隊の第1中隊はキュセの南に広がる森林縁まで仏軍を追って残敵を掃討し、午後4時、キュセ周辺は完全にBa第2旅団が支配することになりました。
キュセで銃声が収まると、Ba旅団は部落の南郊外に集合し、ほぼ同時刻、普混成兵団の前衛となった普第30連隊第1、2両大隊はビュシエール(エテュの東南東2.9キロ)を占領すると、南西郊外のオニヨン橋梁を抑えて渡河点を確保し、更に橋頭堡として南のジュヌイユ(ビュシエールの南1.6キロ)も占領するのです。この普軍前衛と行動を共にしていた普予備竜騎兵第2連隊の2個中隊は、エテュに向かっていたBa軽砲第2中隊と合流して川を渡りキュセまで進み出ました。
キュセ=シュル=ロニヨンの攻防戦
軍団長ヴェルダー将軍はキュセ(=シュル=ロニヨン)とジュヌイユの占領後、ジュヌイユ西の高地に登って敵の消えた南方を観察し、「直ちにキュセ~ジュヌイユ南方の森林地帯と、更に南方のオクソン=デシュ(ジュヌイユの南2.4キロ)とオクソン=デス(現・レ・ゾクソン。キュセの南4.6キロ)を占領せよ」と命じました。
ヴェルダー将軍がなぜ夕方近いこの時間、下手をすれば夜間に及ぶかも知れない危険な交戦を命じたかと言えば、この時将軍はBa第3旅団前衛からの情報により、仏軍はこの時間(午後3時半)に至ってもヴォルレ(=シュル=ロニヨン)付近で第3旅団と交戦中であり、Ba第2旅団と普軍部隊が、ブザンソンへ至る街道(現・国道D108号線)が夜陰に閉ざされる時間までに接近することで、敵のブザンソンへの退路を絶とうとしたのでした。
しかし、事はそう簡単ではありませんでした。
仏軍はキュセとヴォルレ近辺のオニヨン渡河地点とブザンソン要塞都市を結ぶ街道(前述の現・国道D1号線とD108号線)が交差するヴァロンタン(ブザンソンの北北西4.8キロ)の周辺高地に防御線を構築しており、予め相当数の歩兵をジュヌイユに向かって下る高地斜面(ボワ・ドゥ・ヴォヴェレイユ/ヴォヴェレイユの森)とオクソン=デシュの部落に守備隊として配備しており、この高地両翼には北側の森林とオニヨン川南岸までが射程に入る砲台を構築して野砲中隊複数を配置に付け、特に右翼(東)のシャティヨン=ル=デュック(ブザンソンの北7.9キロ)付近には重砲を配備していました。
夕暮れ時に更なる前進を命じられたBa第4連隊の第1大隊はキュセから出撃し、南郊の森林縁に到達した途端に激しい榴弾砲撃を浴びてしまいます。同連隊第1中隊はそれでも命令通りオクソン=デシュ最北端の家屋まで前進しますが、部落からは激しい銃撃を受け、出撃した仏兵によりたちまち郊外まで駆逐されてしまいました。Ba第3連隊の第1大隊も間を置かずに続き、この増援を受けた第4連隊の第1中隊はオクソン=デシュの仏軍左翼(西)の猛攻に耐えてキュセ南の森林南縁を死守するのでした。
この歩兵たちが砲撃されたのを見たキュセとビュシエールのBa軍砲兵3個中隊(軽砲第2,4、重砲第4)は、急ぎジュヌイユ周辺高地に進んで砲列を敷き、主に仏軍右翼(東)の砲兵と砲撃戦を繰り広げます。砲撃相手となったシャティヨン=ル=デュックの砲兵が強力なことを知ったヴェルダー将軍は、普第30連隊第2大隊をシャティヨン=ル=デュックに向けて前進させました。
大隊はジュヌイユの南に続く草原低地を進み、南側の高地より撃ち下ろす仏軍の弾幕に耐えて前進を続けて高地際まで達し、ここで態勢を整えるとシャイヨーの森(ボワ・ドゥ・シャイヨー。オクソン=デシュ南東800mの森林高地)へ突撃を敢行して、最左翼(北東側)となった第8中隊はヴォルレ(=シュル=ロニヨン)から進撃して来たBa第3旅団の同第5連隊2個中隊と共同して一気に高地周辺を席巻しました。
キュセとビュシエールから前進した以上の部隊の間では、普第30連隊の第1大隊とBa第3連隊の3個中隊が前進し、午後5時にはジュヌイユを経由し仏兵が死守するヴォヴェレイユの森へ突進します。既に自分たちの右翼から高地斜面の南側にあるシャイヨーの森周辺にまで独軍が至ったことを知った仏軍守備隊は、森とオクソン=デシュから一気にシャイヨーの森まで撤退しました。
しかし、ここで戦闘は「時間切れ」となります。
太陽は既に沈み辺りは夕闇に閉ざされました。夜間戦闘までは望まなかったヴェルダー将軍は、銃撃が次第に収まって行くのを確認すると、普混成兵団の前線部隊にオニヨン川を渡河して北岸まで後退するよう命令し、Ba前線諸大隊にはキュセとジュヌイユまでの後退を命じました。ただ、Ba第3と第4連隊の各第1大隊だけは各部隊の後退警戒としてオクソン=デシュ部落の北森南縁に散兵線を敷き留まったのです。
軍団右翼(西)側のBa第1旅団は前述通りこの日(22日)午前中からマルネーとパンそれぞれのオニヨン川橋梁を抑え、何時でも渡河出来るよう備えていましたが、午後2時になって昼過ぎに発せられた「渡河して南岸を東に進み仏軍の後背に進出せよ」との趣旨の軍団長命令を受領しました。
旅団長となったヴィルヘルム大公子は、旅団本隊に命じパン南の橋梁から対岸のエマニー(パンの南1キロ)へと前進させ、本隊は川沿いの街道(現・国道D14号線)を東へ進んで、モンクレ(パンの南東2.5キロ)で川を離れてキュセ南の森林高地へ西側から接近しましたが、この時には既に戦闘は終了していました。
この少し前。Ba擲弾兵第1「親衛」連隊長フォン・ヴェマール大佐は第1大隊を中心とする連隊の半数を直率してエマニーから本隊を離れ、南側(旅団右翼)の警戒隊としてショセンヌ(エマニーの南東3.9キロ)に至り、ここから東に転じてオクソン=デス(レ・ゾクソン)に進みますが、午後7時頃、東側のオクソン=デシュ方向から銃撃を浴びます。前衛となっていた第1中隊は直ちに反撃し、オクソン=デシュへ突撃を敢行しますが激しい銃撃に食い止められてしまい、ヴェマール大佐は第1大隊の残りを率いて攻撃を開始、前線で警戒中だったBa第2旅団の2個大隊もこれに応じてオクソン=デシュを攻撃したため、部落に戻っていた仏軍は再び南側の高地森林方向へ撤退するのでした。
この後、第2旅団の2個大隊とヴェマール隊は、これ以上夜間戦闘を拡大させたくはないヴェルダー軍団長によりそれぞれジュヌイユとエマニーまで後退させられています。
この10月22日の諸戦闘は後に「オニヨン河畔の戦い」と呼称されました。
この戦いにおける独第14軍団の損害は、戦死が士官1名・下士官兵26名、負傷が士官3名・下士官兵88名と合計118名で、仏軍は250名の戦死・負傷と200名余りの捕虜を出しています。
この日の夜、ヴェルダー将軍と軍団本営は普混成兵団と共にオワゼレ(=エ=グランショー)で宿営し、Ba第3旅団はヴォルレ(=シュル=ロニヨン)とビュティエ(ヴォルレの北東1.4キロ)で宿営、Ba第2旅団はジュヌイユ、キュセ(=シュル=ロニヨン)、ビュシエール、そしてエテュに、Ba第1旅団はパンとエマニーまで戻って宿野営しました。
男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将が率いる「復活した」Ba騎兵旅団はこの日も軍団右翼(西)側にあり、午後にはおよそ400名の義勇兵が守るオニヨン川下流のペスム(パンの西23キロ)を襲って義勇兵を蹴散らすと部落を占領しました。
前日にこのBa騎兵とソーヌ河畔のボージュ(Beaujeu/山脈と県名はVosges)・エ・キタールで遭遇し行動を共にした普「後方別働隊」は、前日の午後遅くにBa騎兵と別れ、ソーヌの川辺を下ってオート=ソーヌ県南西端の主邑グレ(ディジョンの東43キロ)へ進み、付近の鉄道を破壊していました。
また普「右翼支隊」(16日に西側・後方警戒として普フュージリア第34連隊の7個中隊を中核として作られた部隊。前項参照)はこの22日、ポール=シュル=ソーヌ(ブズールの北西11.2キロ)まで南下しています
夕刻の奇襲(アルフレッド・エミール・ゴボー)
☆ ガリバルディ登場
10月23日。ヴェルダー将軍はオニヨン川の南方と北西方向に偵察隊を送り、Ba各旅団の斥候たちは前日と同じくシャティヨン=ル=デュックからオクタン=デス南の高地に掛けて仏軍が防衛線を張っているのを確認しました。
早朝よりジュヌイユから出撃し再びオクソン=デシュを越えたBa第2旅団前衛、Ba第4連隊の第1大隊はシャイヨーの森高地から仏軍前哨を追い払います。同じ前衛のBa第3連隊第1大隊の方は高地際を抜けてヴァランタンに突進し、この部落と西隣のエコールを占領しますが、この先には仏軍の重厚な防御陣地があり、仏軍からの猛銃撃を浴び続けるBa大隊はこれ以上ブザンソン要塞都市へ近付くことが出来ませんでした。
一方、これも早朝から行動を再開したBa騎兵旅団は、昨日占領したペスムから鉄道を破壊する任務を遂行するためドゥー河畔のドール(ペスムの南21.4キロ)とソーヌ河畔のオーソンヌ(同南西16.3キロ)へ別れて向かいましたが、その途中、まとまった数の仏軍部隊に遭遇し暫し交戦した後、双方撤退しました。この際に敵から奪った書簡には、独軍士官たちが思わず眉を顰める内容が書かれていたのです。
この書簡からはガリバルディ将軍が指揮する新たな軍がドゥー河畔に集合中で、これは現在の所「第2ヴォージュ軍」と呼ばれていること、Ba騎兵たちが出会った敵は、この軍の前衛だったことが判明するのです。
イタリア近代史上ムッソリーニと並んで有名と言っても良いジュゼッペ・ガリバルディについては以前にも言及し、また日本の教科書にも載る歴史上の人物ですので来歴は省略しますが、この70年10月末時点で63歳。この英傑もこの頃は老いが隠せなくなり、リューマチに悩まされて一人で馬に跨がることも出来なくなっていましたが、その情熱は衰えてはいません。
ガリバルディは長年の「敵」、ナポレオン3世のフランス「帝国」と4年前には「友軍」だった普王国が戦うと聞き、教皇領をイタリアへ編入するチャンスとばかりに「ローマ教皇の廃止と領土を私物化(教皇領)するカトリック教会への批判」を繰り広げて来ました。
教皇領は、守備隊のバックボーンとなっていた仏軍の教皇領派遣部隊が本土の危機により去り(教皇領を守っていた部隊は仏第13軍団やロアール軍に参加)、セダン会戦の結果によって一気に状況が変わります。
9月11日。ラファエル・カドルナ将軍麾下のイタリア軍約5万が教皇領に侵入してローマを目指し、19日にローマを包囲しました。翌20日、イタリア軍のベルサリエーリ(イタリア軍の軽歩兵・狙撃兵)がローマを囲うアウレリアヌス城壁のピア門付近で砲撃により壁を破壊し市内に突入しました。既に敗北を覚悟していた教皇ピウス9世は教皇軍(13,157名)に象徴的な抵抗を命じ、イタリア軍との間に戦闘が始まります。結局イタリア軍はローマ全域を占領、最後に残った「イタリアというジグソーのピース」を回収し、ここにイタリア統一が完成しました。この後、ローマ教皇庁とイタリア王国との関係は断絶してしまい、「教皇のローマ捕囚」「バチカンの囚人」と呼ばれる状況が1929年まで続きました。
ピア門近くの砲撃の穴「ポルタ・ピア・ブリーチ」からローマ市内へ
突入するベルサリエーリ
ガリバルディの方は、セダンでナポレオン3世が捕虜となり仏帝政が崩壊し、パリでは「共和派」が実権を握った事を知ると態度を豹変させます。
「これまで私はフランスを、ナポレオン3世を倒せと叫んで来た。しかし今は違う。フランスの自由を救うのだ」
反仏から「救仏」に衣替えしたガリバルディは、2人の息子や長年彼を慕って後に従った「赤シャツ隊」の同士と共に義勇兵を募り、これはイタリアばかりでなくスペインや反普感情の強いポーランド、遠くアメリカからも志願者が集まり(総勢2,000から3,000名前後と言われます)、9月中旬、ニースから仏本土へ入りました。
ガンベタらトゥール派遣部は、少人数のゲリラ戦術に長けカリスマでもあるガリバルディの参戦を一応は歓迎しますが、内心困惑したことでしょう。
仏は根強いカトリック信者の国であり、メキシコ出兵や教皇領を保護していたことはナポレオン帝政の思惑と言うよりは仏の国民感情からとも言えます。直前までの「敵」で反教皇の先鋒だったガリバルディが「助太刀」すると馳せ参じて来ても「手放しで」喜べないのは当然の事だったでしょう。
ガンベタらは表面上ガリバルディの「軍隊」を指揮下に組み入れますが、その実、国防政府(と言うよりトゥール派遣部)の対応は「淡泊」で、反カトリックの大物を前に地方の官憲・住民たちも冷淡、と言うより非協力的でした。
ガリバルディ「軍」は人員と物資の補充に苦しみながらも行軍を続け、熱狂的に共和主義、自由主義を信奉する少数の義勇兵中隊(実質50から多くて150人程度のグループです)を加えつつ、およそ4,000名規模の部隊となってドール付近に進んで来たのでした。
ガリバルディ
この一週間ほど前の10月18日。ガンベタはブザンソンを来訪し、周辺の防備を視察し、連敗して士気が低迷する「ヴォージュ軍」を激励しました。ガンベタと会見したカンブリエ将軍は、「もう一度ヴォージュ県まで前進しろ」と要求するガンベタに対して真っ向から反論し、話し合いの結果、ヴォージュ軍はドゥー河畔とブザンソン要塞を死守することに決しました。
一方のヴェルダー将軍としても、ここは考え時でした。
軍団の総力を挙げてオニヨン川を渡り、ブザンソンを攻囲するなどということは本来の計画の主目的ではなく、その後の情勢変化によっても堅牢な要塞都市を正面から攻めることは利が薄い行為であることなど、ストラスブールで苦労したヴェルダー将軍にとって自明の理でした。
どんなに敵が衰退していてもこのような攻撃は損害多くして効果を得ることが難しく、当然ながら包囲に付き物の士気の後退や疫病も怖いものです。将軍は迷わず「軍団をソーヌ河畔へ向かって方向転換し、グレからディジョンに進んで、大本営の命じる通り西へ進もう」と決心するのでした。
10月24日。独第14軍団はヴェルダー将軍の決定により西へ方向転換し、普混成兵団本隊はラ・シャペル=サン=キャン(グレの東17キロ)に進み、ここで歩兵7個中隊・騎兵1個中隊・砲兵1個中隊による前衛支隊を編成するとソーヌ東河畔のスヴー(グレの北東17キロ)と西岸サヴォユー(スヴーの南1キロ)にあるそれぞれの架橋を抑えました。
普混成兵団本隊は既にベル・ヴェヴルの森(ラ・シャペル=サン=キャンを取り囲む様に存在する大森林)南縁で武装した農民の集団と遭遇し、これら「俄仕立て」の民兵たちは森と周囲に鹿砦を設けて普軍の前進を妨害し、周辺の小部落とスヴー部落に籠もって抵抗しましたが、普軍は銃砲火で「素人兵」を怯えさせ駆逐・四散させました。
この日、Ba騎兵旅団は普兵団の左翼(南)にあり、ガリバルディ軍と接触した前哨を含め全部隊がペスムからグレに到着しました。
Ba師団はBa第1旅団を先頭に全部隊が西進し、各旅団はそれぞれヴェレーム(=エシュヴァンヌ。グレの東南東8.7キロ)、エトレル=エ=ラ=モンブルーズ(同東20.3キロ)、ブルギニョン=レ=ラ=シャリテ(同東北東29キロ)に到達しました。
翌25日から26日に掛け、独第14軍団はソーヌ河畔まで行軍しグレ周辺に集合します。
軍団右翼(西)側警戒としてソーヌ川上流にいた普軍右翼支隊はこの間、ポール=シュル=ソーヌを発してフレンヌ=サン=マメス(ラ・シャペル=サン=キャンの北北東8.6キロ)を経て本隊に復帰合流し、兵団はグレに達しました。
この間にBa騎兵旅団を中核に編成を変えた軍団「混成騎兵旅団」はグレの郊外にあって、ディジョンへの街道(現・国道D70号線)、シャティヨン=シュル=セーヌへの街道(現・国道D2号線)、ラングルへの街道(現・国道D67号線)と西側三方の街道を警戒しました。
※10月26日の独第14軍団「混成騎兵旅団」
○Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊
○普予備驃騎兵第2連隊
○Ba騎砲兵中隊
○Ba擲弾兵第1「親衛」連隊・第10中隊
○普第30「ライン第4」連隊・第9中隊
・それまでBa騎兵旅団に属したBa竜騎兵第3「カール親王」連隊は半数(2個中隊)ずつに分割され、Ba第1と第3旅団に配属されました。
Ba第2旅団はダンピエール(=シュル=サロン。グレの北北東14キロ)付近でソーヌ川に達し、この期にブズールに留めていた部隊もソーヌ河畔のポール=シュル=ソーヌとセ=シュル=エ=サン=タルバン(ソーヌ西岸。ポール=シュル=ソーヌの南西6キロ)の両渡河点守備に進みました。
Ba第3旅団は軍団最左翼(南)に進みシャントネとヴィルランコンでドール及びブザンソンの敵を警戒します。
こうして軍団全てが西方を向き、予備部隊までソーヌ河畔に呼び寄せたことで、エピナルまでの後方連絡線防衛は一時少数の遊動「機動」部隊に任されることになります。
しかしこのオート=ソーヌ県南西部(ブズールの南西、現・国道D474号線からソーヌ川までの地域)では前述通り住民の多くが武装して義勇兵が跋扈し、諸街道は諸処で障害物により封鎖されており、斥候や連絡、そして輸送など少人数の独軍は頻繁に攻撃を受けることになったのです。
独軍輸送隊を襲う仏の住民




