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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
367/534

ヴェルダー軍団エピナル、ブズールを攻略す

☆ ヴォージュ県都・エピナルの占領(10月12日)

 

 ブリュイエールの戦闘後、11日夜間に放たれたBa竜騎兵第3連隊の斥侯たちはバルバ(モセル支流ヴォローニュ川の支流)河畔のフォコンピエール(ブリュイエールの南南西8.8キロ)とシャンドゥレ(同南南東8.7キロ)までに達して引き返し、翌12日早朝ブリュイエールに帰還して「敵はブリュイエール南方の陣地帯を放棄して撤退し、ルミルモン(モセル河畔。ブリュイエールの南南西23.5キロ)やジェラールメ(ヴォージュ山脈内の主要市。同南東19.5キロ)方面へ向かっている」と報告しました。


 仏カンブリエ将軍の軍勢がこれ以上独第14軍団と戦うことを避けたことは明白となり、フォン・ヴェルダー将軍はこの敵の追撃を止め、当初の大本営命令(9月30日付)に従ってモセル河畔のエピナルを経由してセーヌ川方面(トロア及びシャティヨン=シュル=セーヌ)へ進撃することを決し、最も北(軍団右翼のランベルヴィレ)にいた普混成兵団に対し更なる前進を命じ、普兵団を代理指揮するカール・フリードリヒ・ロベルト・ヴァーレルト大佐はこの日、麾下部隊をジルクール(=シュル=デュルビオン。ランベルヴィレの南11.4キロ)へ向けて進撃させてエピナル方面へ向かい、午後にはBa師団も右翼(西/エピナル方面)側へ転向し進み始めました。

 このBa師団では第1旅団がブリュイエールから普軍が通過したジルクール、第3旅団はブリュイエール、第2旅団はデシモン(ブリュイエールの南西6.9キロ)をそれぞれ目標に進みます。


 普軍の前衛、普第30連隊の第1大隊はジルクールからエピナルを臨むドゥヴィエ(エピナルの北東5.8キロ)を通過し、ここで初めてエピナル東郊の諸部落に仏軍の前哨部隊を認め、普軍大隊は街道(現・国道D420号線)南方の森林高地に沿って展開し銃撃を浴びせて来る仏義勇兵部隊と戦ってこれをエピナルへ退却させ、後方から追い付いた砲兵2個中隊による援護射撃を受けつつエピナル市街の北東側郊外にあった公園と墓地に進み出ました。

 ところが、エピナルの仏軍はこの普軍の進撃を阻止することもなく、急ぎ郊外の陣地を放棄すると市街地からも撤退を始め、午後4時、普軍はエピナル市を完全に占領しました。この時追撃に出動した普軍騎兵は約30名の捕虜を得ています。


 この日(12日)Ba師団の方は仏軍の抵抗を殆ど受けることなく先述の目的地に到達しますが、Ba第2旅団のみは行軍中、バルベイ=スルー(ブリュイエールの南東11.6キロ)付近で退却中の仏軍後衛と遭遇しこれを四散させています。


挿絵(By みてみん)

 19世紀のエピナル


☆ 独第14軍団のオート=ソーヌ県侵攻


 10月13日。Ba第1と第2旅団はそれぞれエピナルとアルシュ(エピナルの南東8.4キロ)へ、Ba第3旅団はドセル(同東南東12.9キロ)へそれぞれ前進して、普軍部隊はエピナルを防衛するため強力な前哨部隊をモセル川左岸(ここでは西岸)に進めました。

 普フュージリア第34連隊の第1,2中隊はレ・フォルジュ(エピナルの西4.6キロ)へ向かう際、砲兵中隊からの援護射撃を受けつつ前進し、部落周辺にいたおよそ300名の仏軍部隊は大損害を受けて南方へ退却しました。


 この13日には痛風に悩まされBa師団長を降りたグスタフ・フリードリヒ・フォン・バイヤー中将と、バーデン大公国のヴィルヘルム大公子がエピナルにやって来ます。


 前バーデン大公(4代目)レオポルト公の四男で、1870年時点の6代目大公フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ(フリードリヒ1世)公の3歳下の弟君、ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・アウグスト・フォン・バーデン大公子は当時40歳。国王の四男として「大貴族の伝統」に則り軍人の道を歩んで来ました(とは言っても長兄は夭折、次男は5代目大公となりますが精神を病んで急逝、3歳年上の兄が現大公という「ひょっとしたら国を継ぐかも知れない」位置にいました)。因みにドイツ帝政最後の宰相にしてヴィルヘルム2世を退位させ帝政に幕を引いたマクシミリアン・フォン・バーデンは、このヴィルヘルム公の長男です。

 ヴィルヘルム公は18歳でBa軍に少尉として任官、20代は普軍に勤務して普近衛第1連隊の中尉からスタートし瞬く間に昇進を重ね、少佐で近衛砲兵連隊に移ると最後は近衛軍団の砲兵部長(旅団長少将)となり、33歳で結婚を機に中将位で普軍を退官します。66年の普墺戦争では兄大公(普王の義理の息子でもありましたが)に従い、オーストリア(独連邦)側に立って連邦第8軍団のBa師団長となりますが敗戦。終戦の際に兵士たちを無駄死させるまいと普王に直訴した逸話を残します。

 戦後、存続を許された大公国にあって軍の再建と「普軍化」を推進した後、37歳で軍を辞めました。

 大公国は普墺戦争で敵となり北独連邦に参加しない南独諸侯にあっても普王国に近い立位置にありましたが、中でもヴィルヘルム公は兄が普王の長女(ルイーゼ・マリー・エリーザベト妃)と結婚していたことや自身が普軍で「青春」を過ごしたこともあって、南北ドイツの融和・「ドイツ統一」を強く願う人でした。

 普仏戦争が勃発すると、大公家でも目立つ軍歴を持つヴィルヘルム公も黙っているわけに行かず、軍の動員・出征準備と国内安撫に尽力した後、Ba陸軍中将として現役復帰すると、満を持して戦場へと出立したのでした。


挿絵(By みてみん)

ヴィルヘルム・フォン・バーデン


 この13日、フォン・バイヤー将軍は痛風の具合が良かったため一時的にBa師団の指揮権を掌握しました。

 これは独第14軍団の編成直後にBa師団長となった前・第13師団長、ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将がメッス包囲陣で勤務中、赤痢に罹り入院中だったための処置で、バイヤー中将がストラスブールを去った8月末からこれまでは師団の古参旅団長が代わる代わる指揮を代行していたのです。

 同時にヴィルヘルム大公子は同じく病気療養中の男爵カール・ドゥ・ジャリス・フォン・ラ・ロッシ中将の代理としてBa第1旅団の指揮を執り始めました。


 独第14軍団はエピナル周辺に集合後、後方連絡線をモセル川に沿って北上させるものに変更して、その北端をナンシー近辺のロートリンゲン総督府管区に接続します。その後、軍団の前進によって連絡線はリュネビルから直接エピナルに向かうルートに変更され、同時に仏軍によって分断されていたエピナルからモセル川沿いにシャルム(エピナルの北北西24.9キロ)を経てブランヴィル=シュル=ロー(リュネビルの南西7.7キロ)でムルト川に至る鉄道線の修復が始まりました。このシャルムからナンシーに至る電信線も随時開通して、ランベルヴィレへ進んでいた輜重もエピナルに到着し、市内に設けられた糧秣倉庫も周辺から徴発を行ったこともあって次第に満杯となって行きました。


 この際に後方連絡線の警備分担も定められ、ロートリンゲン総督府はブランヴィルからエピナルまでの鉄道線警護を引き受け、更に独第14軍団の去ったバカラには総督府からヴュルテンベルク王国(以下W)兵站部隊の歩兵2個大隊と騎兵1個中隊が派遣されました。このW後方部隊は独第14軍団の命令に従うよう訓令され、以降第14軍団の後方部隊と協力して任務を遂行しました。


※独第14軍団の後方部隊(10月14日)

○10月12日からシャテル=シュル=モセル(エピナルの北16キロ)を拠点に後方諸部落から武器を押収する任務に就いていた部隊

・普第30連隊・第9,10中隊

・普予備驃騎兵第2連隊・第1,3中隊

○兵站部隊の到着までラオン=レタップで後方任務に就いていた部隊

・普フュージリア第34連隊・第6,7中隊

・普予備驃騎兵第2連隊・第4中隊の1個小隊

○輜重援護隊 バカラからランベルヴィエを経てエピナルへ

・Ba第6連隊・第1大隊

・Ba竜騎兵第3連隊・第1中隊


 このようにフォン・ヴェルダー将軍は着々とヴォージュ県北部の支配を固めて行きましたが、ブランヴィルからの鉄道線の破壊は、特にヴィルクール(エピナルの北33.5キロ)の東方、ラングレ(同北北西22.7キロ)、そしてエピナルの北郊外で激しく、軍団が前進後に修理を要するエピナルの南側でも、エルティニー(エピナルの南14.7キロ)付近やアイユヴィエ(=エ=リヨモン。同南南西29.3キロ)で橋梁が落とされ線路が撤去されていました。このため復旧にはかなりの時間と資材を必要としたため、フォン・ヴェルダー将軍は大本営の命令にある「ストラスブールから重砲を搬送してショーモンへの鉄道を阻塞するラングルを砲撃」するのは不可能と断じます。


 これによりヴェルダー将軍はベルサイユ在の普大本営に対し「セーヌ上流域に向かう行軍はラングル経由ではなくヌシャトー(エピナルの西北西59.5キロ)を経由しショーモンへ向かうルートで行いたい」と請願するのでした。

 トゥール~ヌシャトー~ショーモン~サン=ディジエへと至る鉄道線と街道は、パリ包囲網に至る独軍後方主要連絡線にも近く、ロートリンゲンとランス総督府隷下部隊の後援も期待出来るため、比較的安全に行軍出来る可能性が高かったことによる合理的な判断と言えます。

 ところが普大本営はこれを却下しました。普参謀本部によれば「敵は少数の正規軍を中核とした護国軍や国民衛兵、義勇兵の寄せ集めに過ぎず、今の独第14軍団の兵力だけでこれを壊滅させることは可能だ」ということで、当時ヴェルダー軍団と同等かそれ以上の兵力を持っていたカンブリエ将軍の仏ヴォージュ軍の能力を、独大本営は明らかに過小評価していたことが分かります。

 大本営のヴェルダー将軍に対する回答は「直ちに直近の敵を攻撃せよ」という厳しいもので、将軍は顔を曇らせながらも命令に従うのでした。


 独第14軍団がヴォージュ県を席巻している時、対するカンブリエ将軍は上アルザスの情勢に目を向けていました。


 「ミュルーズとベルフォール間に独軍部隊が侵入し始めた」との情報を聞いたカンブリエ将軍は、「ヴォージュばかりを気にすると背後(オート=ソーヌやドゥー県)を突かれ、リオンへの連絡路を絶たれる」と考え、「ブリュイエールの戦闘」後にルミルモン(エピナルの南南東20.2キロ)付近へ後退させていた部隊を13日の夜、サン=ルー(=シュル=スムーズ。同南南西34.5キロ)とリュクスイユ=レ=バン(同南40キロ)に向けて更に後退させます。このため14日の早朝、ルミルモンへ偵察に出たBa第3旅団の前哨は全く抵抗を受けることなく市街へ侵入し、程なく到着した本隊はこの部落を簡単に占領したのです。


挿絵(By みてみん)

仏軍の散兵 エデュワルド・デタイユ


 このように仏軍が急速にヴォージュ地方を後にするのを知ったヴェルダー将軍は10月15日、大本営の命令に従って「直近の敵」を追い、一気にブズール(オート=ソーヌ県都。エピナルの南南西65キロ)まで前進することに決めました。将軍はこの行動をベルサイユの普大本営へ報告すると、同日中にBa第1旅団に対し「エルティニーへ前進せよ」と命じ、部隊が無事にエルティニーを占領し、これによって南方の安全を確認すると翌16日、軍団全部を南方に向けて進発させたのでした。


 この日、Ba第3旅団はルミルモン、同第2旅団はリュクスイユ=レ=バンを経由、残りの諸隊はエルティニーやサン=ルー、コンフラン=シュル=ランテルヌ(サン=ルーの南南西9キロ)を経由してブズール地方を目指しました。

 普混成兵団は三兵種混成の支隊を編成し、軍団の右翼(西)側の警戒に辺り、この支隊は17日ヴォヴィレー(エピナルの南西38.2キロ)付近に達しています。


※10月16日の普軍支隊

○普フュージリア第34連隊・第4,5,8中隊

○同連隊・第3大隊

○普予備竜騎兵第2連隊・第2中隊、第4中隊(1個小隊欠)

○普第1軍団予備重砲第1中隊


 これらの諸部隊に先行した騎兵たちは殆ど仏軍に邪魔されずベルフォール~ラングル鉄道の沿線まで到達し、この沿線上リュール(エピナルの南54.3キロ)とジュセ(同南西56.2キロ)の線を越えました。彼ら騎兵斥候は「行きがけの駄賃」としてこの線路を所々で破壊しています。


 10月18日にはBa第1旅団がブズールに接近、全く抵抗を受けずにこのオート=ソーヌの県都を占領しました。

 同第2旅団は第1旅団後方に着けてリュクスイユに至り、旅団前衛は友軍斥候が越えたリュールの部落に入ります。しかしオニヨン川に架かるベルフォールへの鉄道橋梁は爆破されていました。

 Ba第3旅団は第2旅団の右翼を進んでコンフラン=シュル=ランテルヌに到着し、普混成兵団はサン=ルーとヴォヴィレー付近に留まって西方を警戒しました。


 フォン・ヴェルダー将軍は前日の17日とこの日の夜、続けてベルサイユ大本営から電信命令を受領し、それによれば「以前の命令を破棄し、ヴェルダー軍団は敵を追撃してブザンソン(ドゥー県都。エピナルの南108キロ)に至り」「ブザンソンよりはディジョンを経由しブールジュ(オルレアンの南南東98.5キロ。ディジョンからは西へ200キロもあります)を目標に西へ転進せよ」とかなりの「無茶振り」を行います。

 これはこの頃、オルレアンの戦い(第一次。10月11日)の後にフォン・デア・タン将軍の兵団が分割され、普軍部隊がシャトーダンとシャルトルへ向かったため、弱体化したフォン・デア・タン兵団を南側から助ける意味合いがあったものと思われます。


 ヴェルダー将軍ら軍団本営は斥候や諜報などの諸報告に因り、「ラ・ブルゴンスとブリュイエールから退却した仏軍部隊が休まずに後退行軍を続け、独第14軍団からかなり離れてしまっており、どんなに急いでも敵がブザンソン要塞に入った後でなければ追い付けない」と判断していました。このため、ヴェルダー将軍はブザンソンを「後回し」にして「直ちにディジョンへ進む」ことを決するのです。


 10月19日、将軍はBa第1旅団を再び軍団前衛に指定し、旅団をベル=ル=シャテル(ブズールの西8.5キロ)まで先行させると軍団の残り部隊もソーヌ河畔に接近させます。

 この日、Ba第2旅団はブズールに入り、Ba第3旅団はポール=シュル=ソーヌ(ブズールの北西11.2キロ)でソーヌ河畔に達し、普混成兵団主力はファヴェルネ(同北16.7キロ)で、右翼側の支隊はジュセ(ブズールからは北西に29.6キロ)にそれぞれ至りました。


 ところが、ブズールに進んだヴェルダー将軍と本営はこの日、新たな諜報情報を得るのです。

 これによれば、「仏軍はブザンソン周辺に新軍団創設のため兵力を集合させており、この援護のため、後退しつつあったヴォージュ県の仏軍部隊はオニヨン川の線で停止しエテュ(ブザンソンの北北西14キロ)やマルネー(同西北西20キロ)を宿営地としている」とのことで、この情報はヴォルレ(=シュル=ロニヨン。同北11.4キロ)に向かって前進中だったBa第1旅団斥候の偵察報告とも一致したのです。当時Ba第1旅団のBa竜騎兵斥候はリオ(ブザンソンの北21キロ)付近で仏軍の数倍する騎兵部隊と遭遇し、戦いながら帰還したものでした。


 報告を受けたヴェルダー将軍は、「戦闘しながら後退し士気も喪失したであろう敵を、未だ軍の体裁が取れていない新軍もろとも一気に撃破してしまおう」と考えを改めるのです。


 これに対する行動は翌10月20日に始まり、将軍はまず、最も北に離れていた普混成兵団をコンボーフォンテーヌ(ブズールの北西22キロ)まで前進させた後、21日になって全軍をパン(ブザンソンの北西15.3キロ)、エテュ、ヴォルレに通じる諸街道(それぞれ現・国道のD11、D3、D33号線)に乗せてオニヨン川に向かい前進するよう命じるのでした。


 この21日。Ba師団は第1旅団を右翼(西)、第2旅団を中央、第3旅団を左翼(東)として並列し前進を開始、それぞれの前衛はビュセ=レ=ギー(ブザンソンの北北西24.7キロ)、オワゼレ=エ=グラショー(ビュセ=レ=ギーの東6.9キロ)、クルブー(ブズールの南14.6キロ)に達しました。このBa師団後方に普混成兵団が続く形となり、この日はヌヴェル=レ=ラ=シャリテ(同南西17.8キロ)に至ります。同時に普右翼支隊はジュセを発つと更に西のファイユ=ビヨ(ブズールの西北西45キロ)へ到着し、ラングル要塞からやって来たと言う護国軍と義勇兵の集団を攻撃して駆逐し、軍団の後方を警戒しました。


 これとは別に、ディジョン~ブズール~ベルフォール鉄道線とディジョン~ブザンソン鉄道線の破壊を目的としてBa騎兵旅団が再結成され、このBa竜騎兵第2、第3連隊からなるBa騎兵旅団(騎砲兵1個中隊とBa擲弾兵第1連隊の第10中隊が隷属しています)は同日(21日)、ボージュ=エ=キタール(ブズールの西南西38.2キロ)の北方でシャテル=シュル=モセルから進んで来た普軍別働後方隊(普第30連隊の第10中隊のみは輜重警護のため後方連絡線上に残留しました)と邂逅し、合流しています。



※独第14軍団戦闘序列

 (1870年10月初旬時点/歩兵23個大隊・騎兵20個中隊・砲72門・工兵1個中隊)


 軍団長 伯爵カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー歩兵大将

 参謀長 パウル・スタニスラス・エデュアルド・フォン・レシュツィンスキー中佐(バーデン大公国参謀長)

 砲兵部長 伯爵フォン・シュポネック少将(バーデン大公国将官)

 工兵部長 アルブレヒト少佐(普工兵第2方面本部所属)


☆バーデン大公国(Ba)師団


◇師団本営

師団長 ハインリッヒ・カール・ルートヴィヒ・アドルフ・フォン・グリュマー中将

 ※10月3日付で普第13師団長から転任しますが、メッス包囲中に赤痢に罹患して療養中だったため、10月20日までは古参旅団長や元師団長のフォン・バイヤー中将が代行しました。

参謀長(代理) 男爵フォン・テーツ=アメロンゲン少佐

野戦砲兵連隊長 ベルトホルト・ミハエル・フォン・フライドルフ大佐

◇Ba第1旅団

旅団長 男爵カール・ドゥ・ジャリス・フォン・ラ・ロッシ中将

 ※病気療養中に付き10月13日までバイヤー大佐、12月18日までBa公子ヴィルヘルム中将、以降終戦まで男爵ヴェマール大佐がそれぞれ代行

◯ Ba擲弾兵第1「親衛」連隊(男爵カール・ハインリヒ・ルドルフ・フォン・ヴェマール大佐)

◯ Ba擲弾兵第2「プロシア王」連隊(カール・フリードリヒ・ヨセフ・フェルディナント・フォン・レンツ大佐)

◇Ba第2旅団

旅団長 男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将

◯ Ba第3連隊(カール・アウグスト・フリードリヒ・ミュラー大佐)

 ※負傷のため10月7日以降クラウス中佐(第6連隊F大隊長)が代行

◯ Ba第4「ヴィルヘルム親王」連隊(バイヤー大佐)

◇Ba第3旅団

旅団長 フランツ・アントン・ケラー少将

 ※10月13日までザックス大佐が代行

◯ Ba第5連隊(フリードリヒ・カール・ヴィルヘルム・ザックス大佐)

◯ Ba第6連隊(パウエル大佐)

 ※第2大隊はラシュタット要塞守備隊

◇Ba工兵中隊・野戦軽架橋縦列(リヒテンアワー大尉)

◇Ba騎兵旅団

旅団長 男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将

 ※11月11日から12月13日まではヴイルト大佐が、以降終戦までは普軍の男爵フォン・ヴィルリゼン大佐が代行

◯ Ba竜騎兵第1「親衛」連隊(男爵フォン・シェッフェル中佐)

 ※病気療養中に付きフォン・メルハルト少佐が代行

◯ Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊(ヴイルト大佐)

◯ Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊(男爵フォン・ゲンミンゲン中佐)

◯ Ba騎砲兵中隊(男爵フォン・ステッテン大尉)

◇ 師団砲兵隊(Ba野戦砲兵連隊・第1大隊/フォン・テオバルト中佐)

 ・軽砲第1,2中隊、重砲第1,2中隊

◇ 予備砲兵隊(Ba野戦砲兵連隊・第2大隊/フォン・ロッホリッツ少佐)

 ・軽砲第3,4中隊、重砲第3,4中隊

◇ Ba兵站縦列(爆薬大隊/エングラー少佐) 

 ・第1,2,3砲兵弾薬縦列、第1,2歩兵弾薬縦列、架橋縦列

◇ Ba輜重兵大隊(フォン・セリウス少佐)

 ・馬廠、野戦製パン縦列、第1,2,3糧食縦列、第1,2,3,4,5補助糧食縦列、架橋縦列、輜重援護隊、第1,2,3,4,5野戦病院


☆ 普独立混成歩兵旅団


旅団長 フェルディナント・ハインリヒ・ロベルト・フォン・ボズウェル少将

 ※10月11日からはヴァーレルト大佐が代行

◯ 第30「ライン第4」連隊 (オスカー・ハインリヒ・アレクサンドル・ナハティガル中佐)

◯ フュージリア第34「ポンメルン」連隊 (カール・フリードリヒ・ロベルト・ヴァーレルト大佐)


☆ 普独立混成騎兵旅団


旅団長 クルーグ・フォン・ニッダ少将

 ※11月8日からフォン・ヴァルター少佐が、71年1月26日から終戦までは伯爵ツー・ドーナ少佐が代行

◯ 予備竜騎兵第2連隊(フォン・ヴァルター少佐)

◯ 予備驃騎兵第2連隊(伯爵ツー・ドーナ少佐)


◇ 普独立混成砲兵大隊(ウルリヒ少佐)

 ・第1軍団予備重砲第1中隊(ウルリヒ大尉)

 ・第3軍団予備軽砲第1中隊(リーメル大尉)

 ・第3軍団予備軽砲第2中隊(フィッシェル大尉)

◇ 普独立兵站縦列(爆薬大隊/グロシュケ少佐)

 ※11月中旬から軍団に参加

 ・第1,2,3,4砲兵弾薬縦列、第1,2歩兵弾薬縦列、衛生隊



挿絵(By みてみん)

アントン・フォン・ヴェルナー「捕虜(1870年10月)」

油彩1886年製作(106 x 157 cm)


 1886年。アントン・フォン・ヴェルナーは普仏戦争後アイデアとしてずっと温めていた「捕虜」の絵を完成させようと決心します。

 メッス近郊のジェイ=オー=アルシュで彼が遭遇した心温まる逸話を再現しようとしたのです。


 後にこの絵の説明を求められたヴェルナーはこう答えています。


 この絵の印象は今日(1880年代)では「エピソード」または「フィクション」としても(国民感情として)受け入れがたい(「憎き敵」仏に対して寛容な独の姿)と思われるかもしれない。事実はこうだ。ジェイ=オー=アルシュの若い庭師の男は予備役として徴兵されメッス要塞で勤務していた。結婚したばかり、しかも妊娠していた妻から引き裂かれていた彼は、捕虜となり護送される途中、故郷のジェイ=オー=アルシュを通ることを知り、どうにか妻に一目合わせてと監視に頼み込んだ。独軍はこれを許し、夫が捕虜として護送されると知らさた彼の妻は生まれたばかりの子供を抱いて路傍で待っていた。そこに夫が護送兵と現れ、思わず駆け寄った妻は腕に幼子を抱いていたため抱きつくことが出来なかった。護送のポメラニア兵は妻を促して幼子を受け取る。妻は愛しい夫の胸に飛び込んだ。この絵はその雰囲気を写実的に再現したというだけだ。


 この絵には背景に特徴的なローマ時代からの水道橋が描かれており、この場所がモーゼル河畔のジェイ=オー=アルシュだと知れます。また、肩章等から「ポンメルンの護送兵」との話通り、周囲の将兵はフランセキー将軍麾下の普第2軍団所属と分かります。


挿絵(By みてみん)

「捕虜(1870年10月)」部分


 アントン・フォン・ヴェルナーは従軍画家として戦場ばかりでなく後方の様子も活写しています(但し、全てドイツが不利にならぬよう気を付けて)。描きはしませんでしたが「お偉いさん」の滑稽な様子も記録しており、特にモルトケを記録したものは、普段無口で真面目な参謀総長の人間らしさを示します。


「ある夏の日の前線。特に暑かったこの日、馬上のモルトケ総長がピッケルハウベを脱ぐと一緒にかつらも脱げて地面に落ちた。総長はそれに気付き、また周囲の副官や参謀たちも気付いた。堅苦しい総長は馬上でハゲ頭を晒し周りの空気は一瞬凍りついてしまう。このまずい空気を救ったのはメクレンブルク=シュヴェリーン大公殿下で、殿下は自分のピッケルハウベを脱いで自分の若ハゲを指差し、こう告げた。『私はいつでも準備が出来ている』(大公はかつらを使用せずそのハゲ頭は有名だった)」


 宮廷お抱え画家としても活躍したヴェルナーは宮廷内でもモルトケを「活写」しています。


「ある外国の貴賓が皇帝を表敬訪問した時、高官たちは皇帝から授けられた黒鷲勲章を正しく左肩から右へリボンを流して軍服に付けていたが、ヴィルヘルム皇帝と同席していたモルトケ元帥は同じ黒鷲勲章を右から左に流して掛けていた。皇帝は明らかに顔を顰めてモルトケを見ていた。これに気付いたローン軍事大臣がモルトケに声を掛ける。『貴官は黒鷲を誤って付けています』するとモルトケ元帥は何事かという顔をした後、誤りに気付いたが、頑固な元帥は幾分茶目っ気に『ああ、そうだね。他の方々が誤っているようだ』」


挿絵(By みてみん)

ベルサイユのモルトケ(ヴェルナー画)


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