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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
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海軍の戦い(1870年9月以降)


 1870年の9月上旬。クーデターに等しく成立した仏穏健共和派主導の「国防政府」は、仏国の全力を以てパリの防衛とその救済に当たることを宣言し、それは各所に(戦後にも及ぶ)大きな影響を与えました。

 第二帝政下において英国に次ぐ世界第2位の規模・戦力を誇っていた仏海軍も例外ではなく、特にヴルト戦やメッス周辺三会戦(コロンベイ、マルス=ラ=トゥール、グラヴロット)とセダン会戦によって正規陸軍が「瀕死」の状態になると、戦時はおろか通常の海上艦隊勤務や軍港維持任務もほぼ放棄される状況に陥り、多くの海軍将兵が慣れない陸戦任務に振り分けられ多くは前線へ駆り出され、パリ防衛や新軍団編成に加えられて行きました。


 セダン会戦の前、レオン・マルタン・フリション海軍中将率いる仏北海第二艦隊(装甲艦8隻・その他4隻)は8月中旬に北独沿岸の北海海上に遊弋して、その多くはヘルゴラント島(ヴィルヘルムスハーフェンの北75キロ)近海にいましたが、9月4日の政変により「新政府」から帰還命令を受け、9月10から11日にかけ戦隊毎にシェルブール軍港へ帰港して行きました。

 この9月11日、ヤーデ湾(ヴィルヘルムスハーフェンに面した巾着状の内湾)から普海軍(正式には「北ドイツ連邦海軍」ですが実態から以降も「普海軍」とします)の装甲フリゲート3隻がヘルゴラント島へ偵察行に出ると、そこには全く敵艦影はなく、同じ頃、バルト海(独では「東海」と呼びます)ではルイ・エドゥアール・ブーエ=ウィヨーメ海軍中将率いる仏北海第一艦隊(装甲艦7隻・その他4隻)も北独沿岸をただ威圧するためだけに遊弋するのみでした。

 ブーエ=ウィヨーメ提督は9月5日にセダン会戦結末の通報を受け、麾下艦船を大ベルト海峡付近に集合させます。提督としてはこの後の展開が大いに気になり、バルト海の封鎖をどうするか考えねばなりませんでしたが、2、3日後に中立国(但し親仏で中立義務違反スレスレの行為もありました)デンマーク王国を通じて本国より「対敵行動は継続せよ」との命令が届きました。


 提督は9月13日になって再び艦隊をヤーデ湾方面とバルト海沿岸封鎖のため2つに分け、「バルト艦隊」は手始めにコルベルク(現・ポーランドのコウォブジェク。シュチェチンの北東106.7キロ)を砲撃するためバルト海を東へ進みます。しかしアルコナ岬(リューゲン島北端。コペンハーゲンの南南東123キロ)沖を航行中、北東からの強風(ほぼ向かい風です)に遭遇し、これ以上東へ進むことが出来ず目的を果たすことは出来ませんでした。艦隊は空しく根拠地とするデンマークのケーエ湾(コペンハーゲンのあるシェラン島東の湾)に退きます。

 次第に秋の気配が見え始め、海上が常時荒れ始めたためウィヨーメ提督はバルト艦隊の全てをケーエ湾からキール軍港が監視可能なデンマーク領ランゲラン海峡(コペンハーゲンの南西132キロ)へ移動集合させますが、暫く後の9月下旬、国防政府は「ウィヨーメ艦隊」に対しても本国への帰還を命令し、艦隊は戦隊毎にシェルブールに向けて順次出航して行きました。

 ヘルゴラント島南方海上を仏艦隊が西進する姿は9月26日、オルデンブルク公国の北海沿岸から望見され、同じく26日、大ベルト海峡やズンド(エーレ)海峡に偵察に入った普海軍の徴用偵察船「ホルザティヤ」や通報艦「グリレ」、汽帆走コルベット「ニンフ」が仏艦隊の海峡通過を視認しました。

 この仏艦隊の撤退により、バルト海沿岸における航行の安全は普海軍によって保証されました。各港湾の湾口は防船張鋼や機雷などの阻塞物によって封鎖されたままでしたが、艦船用の通行関門が通商にも解放され、バルト海における北独の商用海運は9月28日から再開されるのです。


 以降、普仏戦争の終了までバルト海では仏海軍の活動を見ることはありませんでしたが、北海沿岸では度々仏艦船の目撃情報が寄せられ、実際に仏海軍は陸戦に奪われ続ける将兵を何とか遣り繰りし、最低限の艦艇も維持してシェルブールやダンケルクから北海を巡視する艦船を派遣し続け、その多くは今まで通りヘルゴラント島沖で遊弋しました。

 シェルブールに帰還したフリション提督は、「新政府」より海軍大臣に任命されたものの、既にパリが独軍により包囲寸前であることを知り、「トゥールに政府の派遣部が創設されるのでそちらに向かえ」との訓令を受け、9月16日にトゥールへ至ります。同じく帰還したブーエ=ウィヨーメ提督は風浪激しいバルト・北海勤務に疲弊し病に倒れて入院、残った艦隊はこの後、海軍委員の伯爵ルイ・アンリ・デュ・ゲイドン海軍大将とパノアット海軍少将(後、陸戦に回され仏第18軍団の第2師団長になります)が取り仕切ることになるのです。


挿絵(By みてみん)

デュ・ゲイドン


 北海を巡航する仏艦の目的は、主としてヤーデ湾に逼塞する普海軍艦隊の同行を探り、万が一普艦が出航を計ればこれを撃破することにありました。

 仏海軍は8月末より北海とバルト海上の悪天候に悩まされ続けますが、激しい風雨は小艦艇の多い普海軍にも等しく降りかかり、定点に常泊する小艦は内海にいるとは言え風雨が強まり潮位が高くなれば浸水し沈没の恐れも出て、暴風雨時には港に帰って係留され耐え忍ばねばならないこともしばしばありました。


 秋が深まり寒気が増すと、最早仏海軍から北独沿岸が攻撃を被る恐れはなくなりました。しかし一切手を抜かない頑固なフォーゲル・フォン・ファルケンシュタイン第1防衛管区総督(バルト海と北海沿岸の防衛責任者です)は、北独沿岸の防御工事を中断させずに続行させ、沿岸防衛は開戦時とは比較にならないほど強固なものに生まれ変わって行きます。

 反対に普海軍の警戒態勢は緩められ、任務を外されドック入りする艦、別任務を与えられ北海へ向かう艦など様々に別れて行きました。


 北海に向かったのは汽帆走コルベット「エリザベト」、通報艦「グリレ」そして2~3隻の汽帆走砲艦で、この小艦隊は仏艦に出会うことなくカテガット海峡を越え、10月9日にヤーデ湾に入ります。

 このヤーデ湾を監視する仏艦は交代時を除きヘルゴラント島沖から殆ど動くことはなく、北独海岸に接近することも例外を除けば戦争終了までありませんでした。このため、懸案となっていたヴィルヘルムスハーフェン軍港に設置する艦船修理用の大型「浮きドック」も、製造されたテンニング(ハンブルクの北西109キロ)の工廠から無事に軍港へ回漕されるのでした。


☆ 汽帆走コルベット「アガスタ」


挿絵(By みてみん)

アガスタ


 1870年9月末。ダンツィヒ(現・ポーランドのグダニスク)では、

単艦で要所を護っていた汽帆走コルベット「ニンフ」が任を解かれ、各所に修繕を要したために「予備艦扱い」となって工廠入りし、その乗組員は10月26日、キールで修繕が完了した「ニンフ」より優れた航行性能を持つ汽帆走コルベット「アガスタ」(「アガスタ」級ネームシップで1864年竣工)にそっくり移乗しました。


 ところで、仏の不利が決定的となる9月以降、米や英国から仏へ「密かに」兵器・軍需物資が送られていました。これは無償供与ではなく有償で、所謂「武器商人」たちの商売でしたが、特に米では仏の「新政権」が「共和派」であり、それまでメキシコの件もあって潜在的に「親独」だった流れが「仏への同情」に変化したことも大きく、また米政府も南北戦争後に大量に余剰となった武器弾薬を処分したい思惑もありました。

 戦場に英国や米国製の武器(例えばエンフィールド銃やガトリング砲など)が現れる前から、既にビスマルクら普政府はこの状況に気付いていましたが、彼らは英米政府からの反発を恐れて抗議を控え「見て見ぬ振り」をしていたのです。

 しかし、戦争も終盤に差し掛かり、仏の全面降伏に時間が掛かれば掛かるほど独が不利となって行く(仏への同情と強い独への警戒心の高まり)状況から独首脳陣は遂に「厳密には中立国違反」となる行為を少しでも抑制しようと、11月末、違反船を検査・拿捕する許可を海軍に出すのです。

 この普海軍が沿岸に留まっていることを良いことに公然と行われている「密貿易」を阻止するため、艦長のヨハネス・ヴァイクマン少佐率いる230名の乗員は、「アガスタ」と共に大西洋へ出撃することになりました。


挿絵(By みてみん)

ヨハネス・ヴァイクマン


 12月12日。キールを出航した「アガスタ」は北海を北へ進み、仏海軍の目を盗んでスコットランド沖のオークニー諸島を回り込み大西洋に出ます。「アガスタ」はアイルランド西部で密かに石炭や水を補充した後、仏ブルターニュ半島先端のブレスト沖へ向かいました。仏海軍も「アガスタ」が出航し北海に出たことを探知しますが、捜索に向かった仏フリゲート各艦は「アガスタ」を発見することが出来ませんでした。

 12月26日、「アガスタ」はブルターニュ沖で2隻の中立国商船を臨検しますが禁制品は発見されませんでした。直後、ヴァイクマン艦長は仏海軍の目を逃れるため「アガスタ」をビスケー湾へ進ませます。

 年が明けて1月4日、大胆にもジロンド河口に進んだ「アガスタ」はロシュフォールの沖合で3隻の商船を臨検しました。最初に発見したのは仏の帆走ブリッグ「サン=マルク」で、これは仏軍用の糧食を積載しボルドーに向かっていたため直ちに拿捕し、回航要員(士官候補生を回航指揮官に水兵5名)が移乗しスコットランド廻り(海峡を避けます)で北独に向かいます。次に仏のバーク(3本以上のマストを有し後檣が縦帆の帆船)「ピエール・アドルフ」を発見、これも仏軍用の糧食を積載していたため拿捕、同じく6名からなる回航要員が移乗して北独に向かいました。その直後に「アガスタ」は武器を満載していた仏海軍所属のの汽帆送輸送船「マース」を発見し停船させますが、これ以上回航要員を割くことが出来なかったヴァイクマン艦長は、船員を捕虜にすると「マース」の水密弁を開き水線下を狙って砲撃し撃沈しました。


 3隻の輸送船が到着しなかったことで「アガスタ」が「玄関口」で臨検活動をしていることが仏海軍に知られ、ヴァイクマン艦長はたちまちにして現れた仏艦の追及を逃れるため更に南下し、スペインのフェニステレ岬(リスボンの北465キロ)沖に進むと、アゾレス諸島に停泊しているはずの普海軍汽帆走コルベット「アルコナ」との合流を図りました。しかし1月7日、石炭が底を尽き始めたためスペインのビーゴ港(フェニステレ岬の南南東87キロ)に入港せざるを得なくなり、直後、港外に現れた仏1級装甲フリゲート「ヒロイン」(プロヴァンス級)によって1月末の休戦まで港内に閉じ込められることとなりました。

 因みに北独へ向かった「サン=マルク」と「ピエール・アドルフ」では6人の回航チームが仏船員を監視し運航させましたが、「ピエール・アドルフ」は北海で仏の監視艦に発見されノルウェーの海岸に逃げ込み、2月13日にこの海岸で座礁して沈没、回航員と仏乗組員はノルウェーの漁師たちに救助され無事でした。仏の乗組員は5月のフランクフルト講和条約により釈放され、「サン=マルク」で仏に帰還しています。

 戦後、ヴァイクマン艦長は第2級鉄十字章を授与されます。


挿絵(By みてみん)

ヒロイン


☆ 汽帆走コルベット「アルコナ」


挿絵(By みてみん)

横浜港に錨を下すアルコナ(1860年暮)


 男爵エミール・グスタフ・フォン・シュライニッツ海軍大尉は1869年3月、海軍少佐に昇進すると日普通商修好条約締結のため日本にも来航したことがある汽帆走コルベット「アルコナ」(「アルコナ」級ネームシップで1859年竣工)の艦長に就任します。

 「アルコナ」は同年11月17日スエズ運河の開通式に参加しました。この時式典に参加するため、普王国フリードリヒ皇太子が同乗しています。「アルコナ」はその後、翌70年6月までカリブ海と北アメリカ周辺海域で演習航海を行い、最後はニューヨークへ入港しました。

 同年7月末、ニューヨークからの帰国の航海中、アゾレス諸島のオルタ(ファイアル島)に寄港すると同地在留の普軍人から普仏戦争開戦を知らされ、フォン・シュライニッツ艦長は帰国するには有力な仏海軍が支配する北大西洋を仏本土に向けて航海するしかないため、しばらくはこの地に留まり戦況を見守ることに決めました。

 11月に入り、戦争が独有利に進行していることがはっきりすると、シュライニッツ艦長は帰国を決心して「アルコナ」はオルタを出航します。ところが、港を出て間もなく「アルコナ」は仏2級装甲フリゲート「モンカルム」(アルマ級)に遭遇し、シュライニッツ艦長は歯が立たない敵を前に、急ぎ「アルコナ」をオルタへ引き返させました。「モンカルム」は港口に留まって「アルコナ」の監視を始めます。

 数日後の11月16日、今度は仏の汽帆走フリゲート「ベロン」(砲38門艦)が到着して「モンカルム」と共にオルタ港を封鎖し、「アルコナ」はこの強力な仏艦により中立港に完全に封じ込められてしまいました。

 ところが20日、ハリケーンがアゾレス諸島に接近し、波浪によって「ベロン」が損傷を負ったため、「モンカルム」と「ベロン」は暴風雨が酷くなる前に急ぎスペイン本土のカディス港へ避難して行きました。

 危機を脱した「アルコナ」はハリケーンが通り過ぎた直後、仏艦が戻って来る前にアゾレス諸島を発ち、帰国のため英仏海峡に向かいます。「帰りがけの駄賃」とばかり、シュライニッツ艦長は仏の商船を襲うため「アルコナ」を海峡口付近に巡航させますが、商船を拿捕するまでには至りませんでした。

 しかし北海には仏海軍艦艇が多数遊弋しており、無事にキールやヴィルヘルムスハーフェンに帰るのは不可能だったため、「アルコナ」は再び南下し、71年1月14日、ポルトガルのリスボンに寄港しました。ところがポルトガル沖で哨戒任務に就いていた仏1級装甲フリゲート「マグナニウム」(ゴロワーズ級)と外輪推進フリゲート「マゼラン」に発見され、「アルコナ」は2月の休戦まで港に封じられてしまったのです。


挿絵(By みてみん)

マグナニウム


☆ 汽帆走コルベット「メデューサ」と「ヘルタ」


挿絵(By みてみん)

アルコナ級コルベット「ヘルタ」


 1864年竣工のニンフ級汽帆走コルベット「メデューサ」は1868年10月20日南米経由で東アジアへ向け出航し、以降普仏戦争終了時まで東アジアで活動しました。

 艦長のマリヌス・ストルーベン海軍大尉は表向き、東アジアにおける北独(普王国)の利権のため、既に英仏蘭西米が進出している東南アジアや中国大陸沿岸で活動しますが、今後独が東アジアに進出する際の足がかりとなる海軍基地を設ける場所を探索する任務も帯びていました。

 「メデューサ」は69年4月、香港で普王国の総領事館を「北独」の総領事館に昇格させた後、日本の五島列島、長崎、対馬と巡航し、6月に入って「キリスト教徒が迫害されているので威嚇してほしい」との日本駐在北独公使マクシミリアン・アウグスト・スキピオ・フォン・ブラントからの要請により日本列島を巡回して多くの港に石炭と水・食料の補給と称して入港し、未だ尊皇攘夷派が騒動を起こす日本で、北独居留民の安全と貿易や権益保護のため、出来たばかりの明治政府に圧力を掛けています。「メデューサ」は8月下旬、初めて東京と横浜に入港しました。この時は台風の被害にあった商船の救助にも当たっています。

 同年11月15日より「メデューサ」は中国沿岸で各国海軍の小艦艇と協力して海賊退治に出動し、この時ストルーベン艦長はベルリンへ「香港、マカオ、広州において北ドイツ連邦も他国の例に倣い砲艦を派遣すべき」との報告を上げています。

 翌70年1月下旬にはシャム王国国王の葬儀のためバンコクに行き、メコン川で沈没した北独帆船の補償について交渉を行って来ました。「メデューサ」は4月10日にサイゴン(現・ホーチミン)で香港への航海を準備し、数日後に出航しますが直後、深刻な機関部の故障を起こし、帆走のみで航行する羽目になります。

 仏領コーチシナの官僚はストルーベン艦長にサイゴンでの修理を許し、「メデューサ」の傷病水兵数名は仏船で普に帰国することとなりました。

 この機関部修理はサイゴンの貧弱な施設では全く不可能だったため、ストルーベン艦長は比較的設備の整っていた横浜の造船所で修理をすることに決め、「メデューサ」は帆走で北上し始めました。


 6月23日に「メデューサ」は、極東方面の普海軍最高階級士官、ハインリッヒ・ケラー海軍大佐座乗のアルコナ級汽帆走コルベット「ヘルタ」と九州沖で合同します。

 この「ヘルタ」は前年11月、東アジアで「メデューサ」のみが活動する実態を改善するため日本へ派遣されることとなり、途中、「アルコナ」と共にスエズ運河の開通式に参加、この運河を初日に通過した艦船の1隻となりました。

 「ヘルタ」は長崎に向かい、「メデューサ」は7月上旬横浜に入港します。


 8月15日、「メデューサ」の士官たちは横浜に入港した仏海軍東アジア戦隊の装甲フリゲート艦長からナポレオン1世の生誕記念日パーティに招待されます。両国の海軍士官たちは母国を遠く離れた異国の港で友誼を交わしますが、この時、両者は普仏が7月19日から戦闘状態にあることを知りませんでした。その数日後、彼らは地球の裏側から遙々伝えられた連絡により、普仏が戦争状態にあることを知り驚愕するのです。

 その後、「ヘルタ」は長崎で、「メデューサ」は横浜で、それぞれ仏海軍東アジア戦隊の艦船にマークされ、日本の領海外へ出れば「袋叩き」になる運命に陥ってしまいました。特に「ヘルタ」は、長州藩と英仏蘭米4ヶ国との下関戦争や堺事件等によって、日本史にも登場する仏のコルベット「デュプレクス」(16cm砲10門)により完全に長崎港へ閉じ籠められてしまいます。

 仏艦船はそれぞれ港内や沖合に常泊して2艦を24時間監視しますが、「ヘルタ」は長期航海後で、艦底に厚く付着した貝殻や海藻を取り除くことや索具や機関の大規模な修繕を必要とし、また「アルコナ」も機関の故障修理にかなりの日数を必要としており、仏艦を振り切って脱出することなど不可能でした。

 幸いにも極東を航行していた独の商船は、多くが中立港に逃げ込んで拿捕を逃れますが、「権益保護のために」派遣されていた2艦が「不甲斐なく」抑留状態となってしまったことは、一部本国で批判の的となってしまいました。


 普仏戦争が休戦となったことが伝わった翌71年4月、この間に機関修理を完了した「メデューサ」は横浜を出航し、8月26日に南アの喜望峰を廻ると大西洋を北上し10月10日、懐かしいキール軍港へ帰着しました。

 ケラー海軍大佐の「ヘルタ」も休戦により、それまでしぶとく付きまとっていた仏コルベット「デュプレクス」から解放され、こちらは72年に任を解かれて極東を発ち、その後しばらくの間は新任士官用の練習艦として運用されました。


挿絵(By みてみん)

メデューサ


☆ 休戦時(71年2月末)における仏海軍の普海軍に対する状況


 大西洋やインド洋、太平洋における仏の拠点・植民地は、全て独側に脅かされることなく通常通り運営されており、海運も維持されていました。

 仏海軍は主要泊地から各種フリゲート、通報艦(アビソ)、コルベット・砲艦等を多数巡航させて航海路を守護し、最終的にはフリゲート34隻、通報艦32隻、砲艦・コルベット他10隻が世界各地に分散していました。 

 また21隻の専用輸送船が仏本土とアルジェリアのアフリカ植民地間の地中海を往来し、これは戦争中独側から一切の妨害を受けませんでした。

 キューバ島のハバナ、日本の長崎、横浜、ポルトガルのリスボン、スペインのビーゴの各港では独艦に対する封鎖が実施され、普海軍「アルコナ」「ヘルタ」「メデューサ」「アガスタ」そして「メテオール」の各艦が中立港に「幽閉」状態となっていました*。

 同時に普海軍の新しい根拠地・ヤーデ湾は最後までヘルゴラント島近海に置かれた仏海軍のピケット(哨戒艦艇)によって監視され、独側にその気はなかったものの、万が一普海軍の装甲艦艇が出撃した場合に備えていました。

 また、数少ない例外を除き、独の海外海運は途絶えた状態に陥り、戦争直後に海外にあった独船舶は、休戦時まで中立港に留まらざるを得ない状態でした。


挿絵(By みてみん)

仏軍輸送船「マース」を撃沈するアガスタ


※普海軍各艦の要目は「プロシア・ドイツの軍備(中・海軍)」を、仏海軍は「普仏戦争/フランスの軍備(三・海軍)」をご覧ください。


☆ 砲艦「メテオール」と仏通報艦「ブーヴェ」・「ハバナの海戦」


 エルンスト・フーゴ・エデュアルド・ヴィルヘルム・ハインリッヒ・クノール普海軍大尉(ザールルイ出身で当時30歳)はカメレオン級砲艦「メテオール」艦長として、同艦と共に69年末からカリブ海海域に派遣されていましたが、70年8月中旬「普仏開戦」の報に接すると、それまで巡航していたベネズエラの沖合から離れ(付近には仏領の島が数多く存在します)、ジャマイカを経てフロリダ半島沖のキー・ウエストまで進みました。

 しかし本来、バルト海や北海の沿岸航行を想定して建造された小さな「メテオール」は、巨大なハリケーンが襲うこともあるカリブ海の風浪に耐えられるものではなく、特に風浪の激しいこの季節、キー・ウエストから動くことが出来ませんでした。


挿絵(By みてみん)

クノール


 11月に入り風浪が収まってくると、クノール艦長は6日に「メテオール」をキー・ウエストの向かい側となるキューバ島のハバナ港に向けて出航させ、翌7日、無事ハバナへ入港しました。

 すると港には仏郵便船「ヌーボー・モンデ」が停泊しており、間もなく出航すると知れました。クノール艦長はこの船が出航した後、追いかけて公海上で拿捕しようと考えますが、ここで衝撃が訪れます。

 間もなく三色旗を翻した仏の通報艦「ブーヴェ」が入港し、「メテオール」の反対側に碇を降ろしたのです。


 このハバナ(キューバ島全体)は当時総督府を置くスペイン領で、この時もスペインの官憲が「メテオール」を訪れ、意外にも「スペインは中立国であるので国際法を遵守し、24時間以内に貴艦の出航を求める」と言い渡したのです。

 そもそもスペインが新国王にと独の侯子を選出したことがこの戦争の発端です。その前には独人のポルトガル前王父を国王にしようとしたスペインですから、多少普側に甘いところがあっても良さそうなものなのに、全く頭の堅い役人気質の総督府でした。しかしクノール艦長は黙ってこれを受け入れます。すると同7日の昼前、仏の郵便船が急ぎ港を出て行きました。「メテオール」もこれを追うため午後1時少し前に港を出航しますが、捕捉されると考えた「ヌーボー・モンデ」はスペインの領海内で引き返し、港に逆戻りしました。しかしクノール艦長は「ブーヴェ」が出て来る事を期待し、そのまま公海へと出て仏艦の出現を待ったのです。


 ここで「メテオール」の要目を記せば、カメレオン級汽帆走1等砲艦(メテオールは独語で「流星」の意)で、1865年リューベックで製造された比較的新しい艦、排水量は422t、全長約43m・最大幅員約7m、喫水は2.7m、3本マストとしては小さな艦でした。320馬力のエンジンを積んだ「メテオール」は1軸のスクリューにより静水面を9.3ノットで進むことが出来、71名の乗組員により運用され、主要兵装はクルップ社製口径15cm24ポンド施条砲を甲板旋回式に1門、同12cm12ポンド施条砲2門を持っていました。


挿絵(By みてみん)

メテオール


 対する仏海軍のブーヴェ級汽帆走通報艦「ブーヴェ」(仏の探検家・南極に近いブーベ島の発見者から命名)の要目は、1866年ロシュフォールで建造、排水量は約760トン、全長約56m・最大幅員約8.5m、喫水は約4m、3本マストで700馬力のエンジンを積み、1軸推進のスクリューにより静水面を10ノット強で進むことが出来、乗組員は約90名、主要兵装は口径16.3cm施条砲1門を甲板に旋回砲として置き、同12cm施条砲4門を両舷に配しました。


挿絵(By みてみん)

  通報艦ブーヴェ


 このように一回りも大きく兵装も強力、速度も上の敵艦に対し、クノール艦長は果敢に挑むことを決心し外洋へ躍り出ました。

 しかし「ブーヴェ」の艦長、アレクサンドル・フランケ海軍中佐(当時42歳)はこの「挑戦」に乗らずハバナから出航しなかったため、クノール艦長はしかたなく夕方5時に至り艦を再びハバナへ入港させたのです。

 すると再びスペイン総督府の官憲が来艦し、「ブーヴェは24時間規定により出航するが、貴艦はブーヴェ出航後24時間を過ぎて出航するように」と指示して来たのでした。


 フランケ艦長の「ブーヴェ」は8日午後1時に出航し、「メテオール」も24時間条項を守って翌9日午後1時15分に港を出ます。港は普仏軍艦の「決闘が必至となった」ことを知った野次馬で溢れ、「メテオール」の後を2隻のスペイン艦「エルナンド・コルテス」と「センチネラ」が「領海内で無謀な戦いを始めぬよう」監視するために距離を置いて付いて行きましたが、この軍艦には「滅多にお目に掛かれない催し物」である単艦同士一対一の決闘を見届けようと、スペイン人の高官始め有力者たちの見物人が大勢乗っていました。

 そんなことにはお構いなしのクノール艦長は港外に出ると「ブーヴェ」を探すため「見張りを厳とせよ」と命じました。すると午後1時30分、北方約8海里(およそ14.5キロ)、キューバ島から10海里離れた付近に北東方向へ航行する「ブーヴェ」の艦影が認められ、「メテオール」は「ブーヴェ」に向けて直ちに変針し両艦は急速に距離を縮めます。「ブーヴェ」はそのまま舷側を「メテオール」に向けたまま直進を続け、両艦の距離が2海里(約3,700m)になると戦闘旗を掲揚します。「メテオール」もまた戦闘旗を掲揚すると両艦の間が3,000mを切った午後2時30分過ぎ、まずは「ブーヴェ」が発砲し、殆ど同時に「メテオール」も発砲、面舵(右)を切って並走状態になり、ここに2時間に及ぶ海戦が始まりました。


挿絵(By みてみん)

ハバナの海戦


 海戦はキューバの海岸から7海里(12キロ強)で行われ、これは島の高所からも望遠鏡で観戦出来る距離でしたが、当日は曇天で北東の風が強く、島からは海戦を見物することは出来なかったと伝えられます。距離を隔てて文字通り安全地帯から「高みの見物」をするスペイン艦のみを「証人」として、両艦の戦闘はエスカレートして行きました。


挿絵(By みてみん)

メテオールとブーヴェの軌跡(70.11.9)


 最初、両艦の砲撃は距離があったため相手に届くことは無く、砲弾は全て近弾となり波間に消えました。すると「ブーヴェ」は「メテオール」に向かって面舵を一杯に切って右旋回を始め、両艦の距離が急速に縮まると「ブーヴェ」は更に2回発砲しましたが外れ、900mほどに接近すると「メテオール」も連続発砲しましたがこれも当たりませんでした。

 すると突然、「メテオール」の右舷側にあった「ブーヴェ」が更に面舵を一杯に切って「メテオール」へ直進し始め、一気に距離は400mを切ります。「敵の衝角攻撃」と感じたクノール艦長は続いて発生した砲撃や敵甲板からの銃撃を浴びつつ「ブーヴェ」の舳に向けて取り舵を切りながら発砲しました。

 双方の砲撃は小銃の有効射程程度だったためほぼ全弾命中し、凄まじい破壊音が双方の艦内から響きました。「ブーヴェ」のフランケ艦長が試みた衝角攻撃と衝突後に行おうとした切り込み隊攻撃は、「メテオール」のクノール艦長と鍛えられた舵手により外されます。両艦は舳を絡ませるようにして擦れ違うかと思われましたがここで衝突が発生し、両艦は数秒間交錯した後に離れました。

 「メテオール」は更に取り舵を切って「ブーヴェ」の描いた航跡に乗ります。そこに「ブーヴェ」が発砲した砲弾が艦を叩き、「メテオール」もまた応射して「ブーヴェ」を叩きました。


挿絵(By みてみん)

 メテオールと接触するブーヴェ


 この接触により双方のマストが衝突し、また至近距離からの砲撃によって小さな「メテオール」のメイン(中央)とミズン(後方)両マストが折れて倒れ、2門の旋回砲の台座が歪んで持ち上がりました。「ブーヴェ」もメインのトップスル(下から二番目の帆)の横桁が普艦のマストに絡んで折れてしまい、ジブ(フォワ/前方マストからスプリット/艦首に突き出したマストに張られた綱索)が切断されて落下します。また砲撃による損傷で盛んに蒸気と排煙を噴き上げていました。

 接近している間、両艦の舷側には水兵たちが小銃を持って構え、目に入る目標を次々に狙撃しました。この銃撃戦は舷側の高い「ブーヴェ」側が有利で、普側の負傷者は殆どがこの時の小銃によるものでした。

挿絵(By みてみん)

ブーヴェの甲板を射撃するメテオール乗組員


 この時「メテオール」の放った24ポンド榴弾の内の一発は幸運にも「ブーヴェ」の艦体を貫いて機関部に飛び込み、そこを走っていた蒸気パイプを切り裂きます。このおかげで水兵2名が火傷を負い、「ブーヴェ」は機関の全力発揮が不可能となってしまいました。

 これによりフランケ艦長は戦闘を切り上げる決心をして、午後3時15分頃、「ブーヴェ」は破壊されていないマストに帆を揚げると一転、ハバナに向けて帆走を始めるのです。


 「メテオール」のクノール艦長はこれを見ると、直ちに追撃を命じましたが、「メテオール」では折れたマストが航行の邪魔をして、しかも落ちた索具類がスクリューに巻き付くという不運な状況となります。

 しかしクノール艦長は冷静に対処して部下にマストを切り離させ、スクリューシャフトに絡んだロープを外させると、機関が不調らしい仏艦を追って午後3時45分頃ハバナへ向かいました。

 しかし、ここで失った30分間は大きく、「メテオール」は機関を最大出力にして追い掛け、時折発砲もしますが「ブーヴェ」の逃走を止めることは出来ず、遂に午後4時40分頃、「メテオール」と「ブーヴェ」の間に割り込んだスペインの「監視艦」、コルベットの「エルナンド・コルテス」から号砲が鳴り響き、「ブーヴェ」がスペインの領海(当時は陸地から3海里/約5.4キロ)に入ったので追撃を中止するよう「メテオール」に合図したのでした。


挿絵(By みてみん)

メテオール(手前)とブーヴェ(奥)右遠方にスペイン艦


 逃げ切った「ブーヴェ」のフランケ艦長は、例の頭の堅いスペイン官憲から「我が領海内で戦闘継続を前提とした修繕を行うのであれば許可されない」と申し渡されますが、「大人しくハバナ港に入るのであれば、今後の航海に先立つ修理や補給、そして負傷者の手当につき相談を受けましょう」と「勇敢に戦った戦士」にふさわしい扱いを受けるのでした。

 その後「ブーヴェ」はスペイン船により曳航されて午後6時過ぎに入港し、その1時間後には「メテオール」もまた自力で入港しました。


 この戦闘により「メテオール」では舵手1名と水兵1名が戦死し、水兵2名が負傷、うち1名は後日息を引き取っています。

 「ブーヴェ」では水兵10名が負傷し、内1名が重傷で機関故障時に水兵2名が火傷を負いました。

 「メテオール」は2本のマスト喪失の他、多数の榴弾を艦体に受けますが機関部は無事で、激しい戦いの割には修理可能な状態にありました。

 「ブーヴェ」はマストの損傷の他10発の砲弾が命中(「メテオール」は22発を発射しています)し、その内の1発が例の蒸気パイプ破損を引き起こし、機関停止に至らしめていました。

 海戦翌日の10日には両艦共に修理を開始し、普側の戦死者2名の葬儀も執り行われています。


挿絵(By みてみん)

ブーヴェに挑むメテオール


 この単艦同士の一騎打ちは、戦史上「海上における最後の紳士的戦闘」とも称され、母国だけでなく見届けたスペイン人の(多少脚色された)話により双方の艦長と乗組員は各国で大いに誉め称えられました。

 「ブーヴェ」艦長フランケ海軍中佐(カピタン・ドゥ・フリゲト)は12月17日に海軍大佐(カピタン・ドゥ・ヴァッソ)に昇進しました。

 「メテオール」に対する褒賞は更に大きく、クノール海軍大尉は翌71年1月1日付で海軍少佐となり、クノール少佐、艦の士官全員、甲板長、2名の選ばれた水兵は全員第二級鉄十字章を授けられました。


挿絵(By みてみん)

戦うメテオールの水兵(独の海戦記表紙絵)


 海戦後、修理中の「メテオール」は港内や港外に常泊する3隻の仏軍艦により監視され、これは普仏戦争の休戦が伝わる71年4月まで続きました。

 4月13日、「メテオール」は晴れてハバナ港を離れることが出来、北米大陸に沿ってカナダのニューファンドランド島まで航行した後、島の東端セント=ジョンズ港で長期航海に備えると大西洋を横断し、6月13日、英国のプリマス軍港に入港しました。その12日後の6月25日、「メテオール」はキール軍港に帰還し、盛大な歓迎を受けるのでした。


 一方、「ブーヴェ」は損傷を修理すると再びカリブ海の哨戒任務に戻って行き、大・小のアンティル諸島や南米沿岸を巡航しましたが、71年の9月17日、イスパニオラ島西部・ハイチの南側にあるア・ヴァッシュ島近海で突風に煽られてサンゴ礁に乗り上げ、酷い座礁を引き起こしてしまいます。乗組員は全員落ち着いて避難し、大破した艦は放棄されました。


挿絵(By みてみん)

ハバナに入るブーヴェと追うメテオール(イメージで史実とは違います)




※「24時間条項」


 「メテオールとブーヴェの決闘」以外、普海軍の艦艇が閉じ込められた「中立国」の港湾では、当時も生きていた習慣国際法による「24時間条項」(交戦国の艦船は中立港に24時間以上碇泊出来ない・交戦国同士の艦船が同一の中立港に入った時、一方が出航後、他方は24時間以内の出航を禁止する、など)が適用されていない様に思えます。

 これは普艦船が「故障と破損」を理由に碇泊を伸ばした(故障や破損で走行困難な場合は碇泊延長が認められます)のではないか、と想像します。仏側もこれら艦艇を封じ込めてしまえばいい訳で、自身も傷付く可能性がある海戦で撃破することを積極的に望まなかったのでは、と思われ、又、別の理由としては、日本を除く中立国(スペインやポルトガル)が「普寄り」だったから、と思われるのです。

 習慣国際法はあくまで文明国同士の「紳士協定」で、当時は中立国義務違反に対する罰則も相手を非難すること位で特にありませんでした。日本については当時「世界デビュー」直後であり、欧米から三流国扱いされていたので「中立国」とは思われていない=どうとでも都合が良いように扱える、と解釈されていたのではないでしょうか?

 「海戦における中立国の権利と義務に関する条約」(陸戦協定とは別の「ハーグ協定」)が実効となるのはこの戦争の40年後ですが、有名なポケット戦艦(装甲艦)「アドミラル・グラーフ・シュペー」が自沈する羽目となったモンテビデオ港の出来事(1939年12月)は、英国寄りのウルグアイ政府により、艦が燃料加熱蒸気パイプの損傷などにより長期航海不可能な「深刻な損傷」状態にあったにも関わらず「72時間以内の出航」を通告されたことを見ても「どうにでもなる協定」だったことが分かります。



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