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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
362/534

メッス包囲戦(後)/ベルヴューの戦い(後)

 午後1時過ぎ、プレノワ東の前線上にあった普擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊の第1大隊諸中隊は、ヴォワピーの森北西端から現れた仏グルニエ師団の先鋒散兵群と銃撃戦を開始、攻防の焦点は例の煉瓦工場にありました。

 旅団命令で前進した普第48「ブランデンブルク第5」連隊第2大隊はこの煉瓦工場の救援に向かい、連隊残りの第1、F大隊はラ=フォレ林の西、ポワン・デュ・ジュール(交差点と農家。プレノワの東860m。現存します)から予備第3師団の管区に入り戦闘に加入しました。この2個大隊はラ=フォレの林とその南西側にあった雑木林(煉瓦工場の北方になります。現存)に侵入中の仏ジボン旅団の先鋒を側面から襲撃し、これを駆逐します。この仏散兵群は普連隊の3個中隊から追撃を受け、ヴォワピーの森とサン=タンヌ方向へ逃走しました。普軍3個中隊はそのままヴォワピー森への侵入を謀りますが、これは仏グルニエ師団の反撃を受け失敗してしまいます。

 また、ジュリエールの森に籠もった仏軍はラ=フォリの林から突進した普猟兵第10「ハノーファー」大隊第1,4中隊によって駆逐されるのでした。


※午後2時前における「ヴォワピーの森」に対面する普軍諸隊の位置


○普擲弾兵第8連隊・第1,2中隊

 プレノワ南郊外の森東縁

○普擲弾兵第8連隊・第3中隊、普第48連隊・第5,6,7中隊

 プレノワ南東の煉瓦工場とその周辺

○普擲弾兵第8連隊・第6中隊、普第48連隊・第2,4中隊

 同煉瓦工場の北にある雑木林内

○普擲弾兵第8連隊・第5,7中隊

 ポワン・デュ・ジュール付近

○普擲弾兵第8連隊・第4,8中隊、普第48連隊・第1,3中隊

 ラ=フォレの林から逃走した仏軍を追撃中

○ゲルリッツ後備大隊・第2中隊

 ラ=フォレの林内

○普猟兵第10大隊・第1,4中隊

 ジュリエールの森林内


 戦闘は午後1時から午後2時までの間、暫く持久戦の様相を見せますが、午後2時を過ぎると普第9旅団では予備扱いとなっていた両連隊のF大隊を投入することを決し、6個(擲弾兵第8連隊第9~11、第48連隊第9,11,12)中隊が前線に進んで戦闘に参加しました。残った2個中隊中、第8連隊第12中隊はヴィレ=ル=プレノワへ進んで予備となり、第48連隊第10中隊はオー=プレ風車場(ムーラン=オー=プレ。製粉所。ノロワの北東580m。風車はありませんが建物は現存します)で待機し予備となっています。


 普第9旅団長のフォン・コンタ大佐は、旅団のほぼ全力で仏軍を押し返す決心をすると、普第48連隊の諸中隊をジュリエールの森からラ=フォリの林までに展開させ、普擲弾兵第8連隊の諸中隊をラ=フォリの林周辺から前進させると、擲弾兵たちは付近の友軍諸中隊と連携してヴォワピーの森北西端に侵入、森の西側にいた仏グルニエ師団兵はノロワ~ヴォワピー街道(現・国道D50号線)よりも東へ下がり、煉瓦工場の普軍もこれを知ると一気に街道筋の森を占領するのでした。


挿絵(By みてみん)

メッス~森の中の戦闘


 これ以降(午後2時半頃)、仏グルニエ師団はヴォワピーの森からヴォワピー方面へ撤退し、午後4時には普第9旅団右翼(南西)側の戦闘も終了しました。しかし左翼(北東)方面での戦闘はサン=タンヌとベルヴューに対する銃砲撃戦が収まらず、継続して行くのでした。


 普第5師団もう一つの旅団、普第10旅団は戦闘が開始されると後方宿営地(ロンクール周辺)より普第9旅団の右翼(南)後方まで進みます。その前哨はヴィーニュルの森(ヴォワピーの西3キロ)まで進んで来たフランソワ・グルニエ少将(仏第4軍団第2)師団の1個旅団先鋒散兵群と遭遇し午後3時頃まで散発的な銃撃戦を行いましたがそれ以上戦闘は拡大することがありませんでした。普第3軍団他の部隊(普第6師団ほか)はマレンゴ(農場。サン=プリヴァの東南東1.5キロ。現存します)やアマンヴィエで戦闘態勢のまま待機を続け、出動することはありませんでした。


 モーゼル左(西)岸での戦闘開始とほぼ同じ頃(7日午後1時過ぎ)、右(東)岸においても仏第3軍団のエドゥアール・アルフォンス・アントワーヌ・エマール少将(軍団第4)師団の1個旅団がマルロワとシャルリ二方向に向かって前進を開始し、師団もう一つの旅団もファイイへの街道に沿って東進を始め、その先鋒散兵群はグリモンの森縁に沿って展開しました。しかし、シャルリ付近の陣地に設けられた普軍砲台より放たれる榴弾は正確無比で仏軍の前進方向に落下して爆発し、仏部隊軍は前進することが叶いません。同時に普軍砲兵(普第10軍団所属野戦砲兵第10連隊軽砲第4と重砲第4の両中隊)の砲弾はシェールの西に砲列を敷いた仏軍砲兵2個中隊にも損害を与え、仏軍砲兵は何も出来ずに後退したのでした。

 この様子を観察していた普第10軍団長、フォン・フォークツ=レッツ大将は「これら仏軍の動きは積極性に欠けており、陽動に違いあるまい」と信じ、午後2時30分、モーゼル東岸ではこれ以上戦闘は拡大しないと考え、西岸の後備兵達を救援するため普第38旅団に対し「アルガンシー付近の軍橋からモーゼル西岸へ渡る」よう命令するのです。


 この普正規軍旅団の応援を受ける前、モーゼル西岸の普後備第6旅団では失った前哨拠点(レ=タップの2つの農家やサン=レミなど)を奪還するため、後退したノイトミシエル後備大隊の残存兵と、予備になっていたノイシュタット(ドレスデンの東33キロ)後備大隊を前線に投入することに決し、両大隊はアマランジュからレ=グランド=タップに向かい前進しました。しかし、仏近衛第1師団兵たちはレ=プティット=タップ、フランクロンシャン、そしてレ=グランド=タップから猛烈な銃撃を行い普後備兵の前進を阻止、普後備両大隊は付近の下水溝や散兵壕へ隠れるしかありませんでした。この苦戦の最中に前述の普第38旅団がモーゼルを渡ってアマランジュに到着し、増援を待ち望んでいた普予備第3師団長のルドルフ・フェルディナント・フォン・クンマー中将は普後備第6旅団だけでなく同第5旅団にも前進を命じ、レ=タップ~ベルヴューに掛けての前線は再び活発な攻防戦の様相となったのでした。

 この後備兵たちの右翼(西)には師団虎の子の「混成歩兵旅団」から正規兵2個大隊が前進して加わり、左翼(東)のモーゼル河畔には普第38旅団が前進することになるのです。

 普第38旅団の前衛は普第57「ヴェストファーレン第8」連隊第1、2大隊で、梯陣を組んでアマランジュの南方に広がる荒野を急進しました。その第一陣は第2大隊と第2中隊、第二陣は第1,3,4中隊で、レ=グランド=タップへ直向しますが、この突進も仏近衛兵の猛射撃で成功せず、普軍諸中隊は地面に伏せて付近の遮蔽物の陰から農場へ銃撃を繰り返すだけとなります。


 この窮状から普第38旅団は後衛の普第16「ヴェストファーレン第3」連隊第1、F大隊も前進させます。旅団残りの普第16連隊第2大隊は大切なオーコンクール(アマランジュの北2.5キロ)のモーゼル軍橋の守備、普第57連隊のF大隊は予備槍騎兵第5連隊第2,3中隊と共にアマランジュ南東へ進んだ第10軍団の重砲第5中隊の援護に入っており、これで旅団は全力を出し切ることになりました。

 普第16連隊第1、F大隊はアマランジュの西から大きく迂回してレ=グランド=タップに向かいます。この時、普第16連隊の右翼(西)にはノイトミシエル、ノイシュタット両後備大隊が、左翼(東)フランクロンシャンの北には普第57連隊、その東のモーゼル河畔にはコステン後備大隊の1個中隊が戦っており、これでようやく仏軍と対等な前線が形成されたのです。


 しかし仏軍はこの頃より自ら銃撃を止め、特に右翼(東)側では退却が始まっていました。普軍左翼諸隊は銃撃戦が止むと、この仏軍右翼側の後衛に接する形で追撃に移ります。普軍は午後5時過ぎにレ=グランド=タップとフランクロンシャンから仏後衛を駆逐し、普第38旅団は奪還した諸農場と、この間に仏兵が消えたレ=プティット=タップ農場を占拠、普後備第6旅団諸隊はアメランジュへ後退して再集合・点呼に入りました。


 同時刻、普予備第3師団の右翼(西)側部隊は、強力な砲兵援護の下、午後5時からベルヴューへの攻勢を強め、準備砲撃の後、攻撃を開始しました。


 この際、ザムター後備大隊はベルヴューの北へ、普第19「ポーゼン第2」連隊第1、F大隊は部落南西側とサン=タンヌ小部落に向かい、カロンブール農場から進み出たポーゼン(現・ポズナニ)後備大隊とジュリエールの森に進んでいた普猟兵第10大隊第1,4中隊は攻撃3個大隊の援護射撃を行います。更に右翼(西)側では、普第9旅団所属の数個中隊がラ=フォレの林より、普第48連隊F大隊がヴォワピーの森西側よりそれぞれベルヴュー方面へ進み、この攻撃は普軍による包囲の態勢となりました。迎え撃つ仏ル=ヴァッソール・ソルヴァル師団兵と仏近衛猟兵大隊兵はシャスポー銃の銃身が焼けるまで猛射撃で抵抗しますが、それも比較的短時間で切り上げ、開いていた南方に向け一斉に退却して行きました。同時にサン=レミからも仏兵は消え、午後6時にはベルヴュー、サン=タンヌ、サン=レミの諸部落は普軍の手に戻りました。ベルヴュー付近の戦闘はこれで終息したのです。


 ベルヴュー方面の戦闘が最高潮に達していた頃、モーゼル東岸の普第1、第7軍団の管区にも仏第3軍団が攻勢を仕掛けました。


 仏第3軍団のジャン・ルイ・メトマン少将(軍団第3)師団は午後3時、ロヴァリエールとノワスヴィルに向かって前進を開始し、目標を東に変えたサン=ジュリアン分派堡塁の援護砲撃を受けた先鋒散兵群は、午後1時以来戦闘警戒態勢にある普第1軍団の前哨と銃撃戦を始め、同時に普第7軍団も待機から戦闘態勢に移行しました。


挿絵(By みてみん)

 メトマン


 普第1軍団長のフォン・マントイフェル騎兵大将(将軍は9月6日に落馬し足を挫いていましたが、この日も乗馬して勤務していました)は既にベルヴュー方面で戦闘が発生した午後1時、前哨に戦闘警戒態勢を取らせると普第4旅団と普槍騎兵第8連隊をサント=バルブ西側の谷へ集合させ、いつでも前哨を助ける用意を成しました。しかし将軍は最初の戦況報告を受けると「敵の本日の狙いはモーゼル西岸地区にあり、この場合は西隣の普第10軍団を援助するのが妥当」と考え、その旨をコルニーの攻囲軍本営へ電信にて伝えます。カール王子はこれに対し、「第10軍団の1個師団全てをモーゼル西岸に送る必要が生じた場合には、貴官の部隊によってフォークツ=レッツ将軍を助けて貰いたい」と返答するのです。

 マントイフェル将軍はこれを受け、普第38旅団が川を渡り始めたことで先手を取って普第2旅団と普胸甲騎兵第3「オストプロイセン/伯爵ヴランゲル」連隊をシャルリへ向け行軍させたのでした。


 普第10軍団及び普第1軍団と対峙していた仏エマール、メトマン両師団は午後4時に後退を始め、普第41「オストプロイセン第5」連隊の第3,8中隊は仏軍後衛に接する形でヴァニー、ヴィレ・オルムを経由しグラモンの森まで追跡しました。ところがすっかり油断していた普軍両中隊は、突然グラモンの森から出撃して来た仏軍部隊によって攻撃され、両中隊は急ぎ後退しヴァニーとヴィレ・オルムの南側に籠もって応戦しました。仏軍はヴィレ・オルムの北側部分を確保すると、更にメやベルクロワ交差点付近からも出撃し、こちらの部隊はノワスヴィル南方の普軍前線を襲い、普軍前哨を蹴散らしました。この時、普第1軍団の野戦砲兵8個中隊が各陣地より砲撃を開始し、仏軍のこれ以上の前進を阻止しました。


※午後4時過ぎの仏第3軍団攻勢に対抗した普第1軍団砲兵(野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊)


○重砲第3中隊、騎砲兵第2,3中隊

 ポワ付近

○軽砲第3,4、重砲第4中隊

 セルヴィニー付近

○重砲第6中隊

 ノワスヴィル付近

○重砲第5中隊

 ビール工場南方


 普第7軍団は1個旅団に騎兵、砲兵若干を付けた「戦闘団」をノワスヴィル南郊のビール工場とモントワ間に進めて仏軍と対します。これ以上の進撃は無理と悟った仏軍はサン=ジュリアン、レ・ボルド、クールの各分派堡から援護射撃を受けつつ後退を始め、午後6時30分過ぎにはメッス要塞の従前陣地へ引き上げたのでした。


 フォン・フォークツ=レッツ大将はカール王子の訓令(マントイフェル将軍への回答と同時に送られたほぼ同じ内容のもの)を受け、更にマントイフェル将軍が応援に1個旅団を送って来るとの報告を受けると、普第37旅団に砲兵と騎兵数個中隊を付け、モーゼル西岸に送り出しました。これに同行したのは第19師団長のフェルディナント・エミール・カール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュワルツコッペン中将で、対岸に渡った将軍は、先に戦闘に関与していた麾下普第38旅団だけでなく付近の予備第3師団の諸部隊も一時的に指揮しました。


 この時、予備第3師団長のフォン・クンマー中将もカール王子から命令を受けており、それによると「午後に遺棄した諸部落ばかりでなく、以前から占領されているラドンシャン城館も合わせ奪還せよ」とのことで、将軍は水濠が廻り防御工事も適宜施され強固に防衛されているラドンシャンの攻略は後備兵だけでは困難と判断、師団最強の「混成歩兵旅団」、即ち普第19、第81「ヘッセン=ナッサウ第1」両連隊で予備として残っていた11個中隊をメジエール(=レ=メッス)から召集することにして、午後6時30分、命令を受けた攻撃諸隊は前進を開始します。しかし、攻撃に先立ち激しい砲撃で城館を叩こうと考えていた将軍は、既に日没を迎え、正確さを欠くだけでなく同士討ちの可能性もあったために、やむを得ず砲撃を諦めるのでした。


 この攻撃隊は、普第19連隊の第5,6中隊に普第81連隊の第1,2,3,6,7、そしてF大隊からなり、第81連隊第1、2大隊の5個中隊はティオンビル街道(現・国道D953号線)に沿って前進し、残り6個中隊はベルヴューへ向かいます。

 ティオンビル街道を行く5個中隊は妨害されることなく奪還されたばかりのサン=レミを過ぎましたが、ここでラドンシャンから猛烈な銃撃を浴び(距離にして600m余り)、普将兵は急ぎ展開して銃撃戦となります。しかしドライゼ銃では最大射程付近での射撃で、ここは倍する射程を持つシャスポー銃を扱う仏近衛兵たちが勝り、それでも普軍は犠牲に目を瞑って城館の北面に向けて突撃を敢行しますが失敗、諸中隊はサン=レミ部落内へ後退しました。

 一方、ベルヴューに到着した6個中隊には、付近で戦闘を終了し待機していた普第19連隊の第3中隊が加わります。この7個中隊は5個中隊の攻撃失敗を見るとベルヴュー南の小川(コート・サン=タガット川)を渡ってアルデンヌ鉄道線を越え、闇の中を南西側から城館に接近しました。午後8時、この内の4個(第19連隊第3,5,6、第81連隊第10)中隊が城館の南西側から銃撃を始めましたが、仏軍はびくともせずに激しい銃撃で応戦し、助太刀とばかりに城館の南東側に進み出た普第57連隊の第5,8中隊も闇の中で突撃を敢行しましたがこちらも失敗して退却するのです。

 ここにおいてクンマー将軍も今夜中のラドンシャン奪取を諦め、この夜の戦闘は遂に終了するのでした。


挿絵(By みてみん)

 ラドンシャン城館付近の仏軍


 「ベルヴューの戦い」における普軍の損害は、8月下旬からのメッス攻囲戦中、9月初頭の「ノワスヴィルの戦い」に次いで大きく、総計で1,700名を越え、この中には軍医4名と捕虜500名余りが含まれます。

 高級指揮官にも負傷者が目立ち、普後備第6旅団長のフォン・ブランデンシュタイン大佐、普第16連隊長のハーン・フォン・ドルシェ大佐、普第48連隊大隊長のフォン・シュミーデン少佐、第81連隊大隊長のフォン・ハンネケン少佐、野戦砲兵第10連隊(第10軍団)のクラウゼ少佐らが負傷、擲弾兵第8連隊の大尉4名は、ラ=フォレからヴォワピーの森に掛けての森林戦で重傷を負ってしまったのでした。

 仏軍はこの戦いで士官64名、下士官兵1,193名の損害と記録されています。


※「ベルヴューの戦い」普軍損害詳細

☆第1軍団

 戦死/士官1名・下士官兵13名

 負傷/士官3名・下士官兵34名

☆第3軍団

 戦死/士官6名・下士官兵75名

 負傷/士官10名・下士官兵186名

 行方不明/下士官兵4名

☆第10軍団

 戦死/士官3名・下士官兵44名

 負傷/士官14名・下士官兵142名

 行方不明/下士官兵17名

☆予備第3師団

 戦死/士官14名・下士官兵122名

 負傷/士官24名・下士官兵566名

 行方不明/士官4名・下士官兵500名


☆損害計

 戦死/士官24名・下士官兵254名

 負傷/士官51名・下士官兵928名

 行方不明(殆どが捕虜)/士官4名・下士官兵521名

 馬匹・42頭

※損害の士官には軍医士官4名を含みます。


挿絵(By みてみん)

 メッス~遭遇戦の後


 戦後、仏ライン軍司令官バゼーヌ大将の語ったところによれば、将軍は仏近衛第1師団によるレ・タップとベルヴューの勝利を受け、「夜の闇に乗じて全軍北方に突破する」との考えを固めました。ところが、助攻の仏グルニエ師団と仏第3軍団の攻撃は大して進捗せずに「両翼」を固めることが出来ず、その内に前線にも普軍増援(普第10、第3軍団)が現れて占領した部落も取り返されてしまい、その計画を諦めました。同時にベルヴュー戦線の反対(南)側、アル(=シュル=モセル)でも牽制攻撃を命じましたが、結局「時間切れ」未遂に終わります。

 しかし、この話も後の裁判を通じて多くの関係者から否定され、「バゼーヌは突破のことなど些かも考えてはいなかった」とされています。


 いずれにせよ、この日の戦いは普軍にとって手痛いものとなり、ラドンシャンでの強烈な抵抗と捕虜たちが口を揃える「仏軍は必ず北上する」との供述により、カール王子ら攻囲軍首脳は「明日もバゼーヌは出撃を命じるだろう」と考えるのでした。そこで「ベルヴューの戦い」で戦った諸隊はこの7日戦闘終了直後、全てが現在地に留まって警戒態勢のまま待機を命じられ、北独第9軍団の第25「ヘッセン大公国」師団と軍団砲兵隊は翌8日早朝、グラヴロットとルゾンヴィルとに集合待機するよう命じられたのでした。


 10月8日朝。カール王子の予想通りにサン=ジュリアン堡が普第1軍団の前線に向けて猛烈な砲撃を開始し、仏第3軍団は数個の歩兵縦列をグリモンの森へ進め、別の縦列がヴェリエール渓谷からノワスヴィルの方向へ動き始めます。モーゼル西岸でもサン=テロワ農場に展開する仏軍砲兵がレ=タップ両農家に向けて砲撃を開始、これに応じてスメクール北の高地から普予備第3師団の重砲兵諸中隊が、ラドンシャンの城館を砲撃しました。しかし仏軍は自軍前線から進み出ることはなく、独攻囲軍側も前線へ主力を送る必要がなくなり、昨日から前線に残っていた普軍諸部隊は殆どが元の部署へ戻って行ったのでした。

 但しモーゼル西岸へ渡ったシュワルツコッペン将軍の普第19師団の主力はそのまま西岸に残り、普第57連隊と普竜騎兵第9連隊のみ東岸に帰ってアルガンシーとシャイイ(=レ=エネリー。アルガンシーの北東2.7キロ)に駐屯しました。

 シュワルツコッペン将軍は後備兵に代わって前線展開することになった「混成歩兵旅団」と協力してノロワからモーゼル沿岸までの地帯を守備し、「後備」第3師団の将兵は一部が予備となって後方に駐屯し、一部は他の任務を与えられてメッスを去るのでした。


※10月8日に整理された普「後備」第3師団(予備第3師団内師団)


○ムスカウ(現・ドイツ南東部バウツェン東郊外の地区)後備大隊

 モーゼルを渡河してエネリー(アルガンシーの北北東3.5キロ)で普第19連隊第2大隊と宿営駐屯地交代(第2大隊は西岸残留)

○ザムター後備大隊

 ティオンビル要塞監視に就く第91「オルデンブルク」連隊第2大隊と任務を交代。(第2大隊は第19師団本隊に帰還・合流)

○ノイシュタット後備大隊

 戦闘で減員したため、三分の一が捕虜となったノイトミシエル後備大隊を併合し定数を維持

○ラヴィッチュ後備大隊

 三分の一が捕虜となり、戦闘で減員したコステン後備大隊を併合し定数を維持

○シュプレータウ(チューリンゲンのエアフルト北東20キロ)後備大隊

○オストロヴォ(現・ポーランド、ヴロツワフ/ブレスラウ北東のオストルフ・ビエルコポスキ)後備大隊

 両大隊ともティオンビル要塞監視の「ハルトマン支隊」所属


挿絵(By みてみん)

 サン=ジュリアン分派堡塁


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