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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
361/534

メッス包囲戦(後)/ベルヴューの戦い(前)

 9月27日の仏ライン軍による「前哨地帯糧秣強奪作戦」の後、最前線を「焦土」と化して「今後の憂い」を取り除いた独攻囲軍本営は、以降「メッス北部とティオンビル要塞」の情勢に注視して行くことになります。

 これはティオンビル要塞の仏守備隊がルクセンブルク大公国方面(北)に進出し、一部は国境を越えて活動しているとの斥候・諜報報告によるもので、要塞を監視している普ストランツ少将支隊は予備騎兵を中心とする僅か2,000名程度の部隊のため、独軍にとって比較的脅威の薄い要塞北~西部での活動は殆ど行うことが出来ず、これは全般に包囲ではなく監視状態に過ぎないことが仏守備隊に自由を許している理由でした。


 仏ティオンビル守備隊やモーゼル川沿いの義勇兵らは9月に入ると独軍にとって相当厄介な存在となり、9月6日にコエニヒスマッカー(ティオンビルの東北東9.1キロ)で普王国郵政省電信部の役人が数騎の仏騎兵により襲撃される事件が発生し、9月中旬には独攻囲軍に参加していた原隊へ行軍中のある補充隊がバッス=アム(ティオンビルの東北東6.3キロ)で仏軍や義勇兵に包囲されて捕虜となるという事件も発生しています。ザールブルク(独トリールの南17.7キロ)を発したある補給隊は、少数とはいえ護衛兵を連れていたにも関わらずティオンビルの東郊で仏軍に襲撃されて50輌の輸送馬車が捕獲されティオンビルへ持ち去られ、あわや全滅かと思われた時に来援した普予備驃騎兵第3連隊の1個中隊により救われる、という事件も9月21日に発生しました。

 独軍の妨害が無いことで大胆になった仏守備隊は、ティオンビルからルクセンブルクへ延びる国際鉄道を修繕して運行を開始し、9月24日夜にはルクセンブルクを発し糧食を満載した列車80輌が要塞に入線するという信じられない事態にまで発展していたのです。


 これに同調する動きはメッス要塞北部でも見られ、9月29日には独軍監視哨がサン=ジュリアン堡の西でモーゼル川に舟橋が掛けられたのを発見し、同時に川中島のシャンビエール島にも新たな架橋工事が進捗していることも認められました。「糧秣強奪作戦」時にも見られたメッス~ティオンビル間の発光信号による交信はこの29日夜に頻発し、翌30日朝、プラップヴィル分派堡塁とサン=カンタン堡塁からは時折発せられていた砲撃とは異質の激しい砲撃が普第3軍団と第10軍団の守備管区に浴びせられたのでした。


 また、攻囲軍司令官カール王子は普大本営より「仏軍が大量の糧食を仏北部独軍未占領地で収集し、ベルギー経由でティオンビルへ輸送するとの計画が進行中」との情報を得ており、ちょうどこの頃(9月28日)ストラスブール要塞都市が降伏し、これでバゼーヌ大将は南下しても有力な味方と合流することが叶わなくなったことで、カール王子は「バゼーヌはティオンビルへの突破を計画しているに違いない」と断じ、9月30日、「包囲陣南部を薄く北部を厚くするため」包囲網の再構築を命令するのです。


 この命令は翌10月1日に実行されます。主な部隊の移動・配置転換は以下の通りです。


○普第10軍団・普予備第3師団

 お互いの任地をそのまま交換。予備第3師団右翼(西)端は従前第10軍団の陣地より後退してノロワ(=ル=ヴナール。サン=プリヴァの東5キロ)南東郊外となりました。

 以後、普予備第3師団は普第10軍団長コンスタンティン・ベルンハルト・フォン・フォークツ=レッツ歩兵大将の統一指揮下に置かれます。

○普第1軍団

 ノワスヴィル南郊ビール工場~ファイイ北高地際まで(従前と同じ)

○普第7軍団

 北へ移動しアル=ラクネイー~モントワ(=フランヴィル)北郊までの「短厚」区間に移動。

○普第8軍団

 マルリー東郊~アル=ラクネイー西郊外のクールセル=シュル=ニエ街道(現・国道D999号線)までの「長薄」区間に移動。

○普第2軍団

 後述の一部を除きモーゼルを渡河して従前の普第8軍団の区間へ前進移動(モーゼル~セイユ両河川間)。但し1個旅団をモーゼル西岸ジュシーの陣地帯(前北独第9軍団の任地)に置きました。

○普騎兵第3師団

 普第8軍団の新任地右翼(東)後方、ポントワより西側のメッス大街道周辺諸部落に待機・宿営。

○北独第9軍団

 ロゼリユ陣地帯~シャテル=サン=ジェルマンまで。ジュシーの陣地帯を普第2軍団に渡し、シャテル=サン=ジェルマンの北側陣地帯を普第3軍団に渡した以外従前とほぼ同じ(従前より前線は短い)です。

○普第3軍団

 シャテル=サン=ジェルマン北郊~ノロワ南郊まで

○普騎兵第1師団

 1個旅団を普第1軍団の後方で待機状態にすると同時に、1個旅団を騎砲兵中隊と共にティオンビルへ送り出します。この旅団には師団長のユリウス・ハーツゥング・フリードリヒ・フォン・ハルトマン中将が同行し、以降将軍はティオンビルに対する作戦の責任者となって、ストランツ将軍の支隊を併せ「ハルトマン支隊」として活動します。


挿絵(By みてみん)

 メッス包囲の独軍(10月1日)北側


挿絵(By みてみん)

 メッス包囲の独軍(10月1日)南側


 この配置転換で目立つのは焦点となったメッス北部のモーゼル両河畔における守備任地「交換」で、普予備第3師団と普第10軍団の入れ替えはカール王子の本営が9月頭の「ノワスヴィルの戦い」同様バゼーヌ将軍が「モーゼル東岸を中心に事を起こすのでは」と考えた(=老兵や質の落ちる兵士中心の後備兵を主戦域から下げる)結果なのかも知れませんが、この決定は直後に発生した戦闘に大きな影響を与えることとなったのです。


 仏ライン軍司令官バゼーヌ大将は9月末、「再度ティオンビル方面へ突破作戦を行う」ことを決定し、その準備行動を開始させます。


 バゼーヌ大将は最初にメッス北部モーゼル西岸地域で一部の前哨部隊を独攻囲軍の前線に接近させて再配置し、プラップヴィル前面に展開していた仏軍は10月1日、北独第9軍団の新任地前面で8月中旬以来無人となっていたレシー(シャテル=サン=ジェルマンの東1キロ)に兵を進めると、その北でシャテル=サン=ジェルマンの北東1.4キロにあったシャレー=ビヨーデル(農場。現在は目立つ空き地です)に突出して派遣されていた普猟兵第9「ラウエンブルク」大隊の前哨兵を追い払いここも占拠しました。この時、仏軍はシャテルの森(ボワ・ドゥ・シャテル。シャテル=サン=ジェルマン周辺に現存)東縁で警戒していた普猟兵第9大隊本隊に普第84「シュレスヴィヒ」連隊の1個中隊と短い時間ですが交戦しています。その後仏軍はプラップヴィル方面から北上する際にその左翼を援護するため、レシーとシャレー=ビヨーデルを確保しつつ防御工事を行うのでした。

 同夜、9月30日・即ち前日にモーゼルを渡河して新任地に着いたばかりの普予備第3師団所属、ノイトミシエル(現・ポーランド・ポズナンの西55キロにあるノビ・トミシル)後備大隊の前哨がラドンシャンの城館(ヴォワピーの北北東2キロ)で監視任務に就いていると、突然数倍する仏軍(仏第6軍団の部隊)に襲撃されて駆逐され、後備兵たちは命辛々サン=レミ(同北北東2.7キロ)在の本隊へ退却しました。同時に無人だったサン=タガット(同北1.8キロ)にも仏軍が侵入して居座るのです。普ノイトミシエル後備大隊は面子に賭けてラドンシャンとサン=タガットを回復しようと夜間再三再四に渡って両地に突撃を敢行しましたが全て失敗、仏軍もまたサン=レミを落とそうと数回攻撃を企てましたがこれも失敗に終わりました。このため、前哨戦は次第に拡大して払暁時からヴォワピー周辺の前線で激しい銃撃戦となり、スメクールの普攻城要塞砲兵や前線後方の予備第3師団砲兵数個中隊は仏軍前線へ砲撃を行い、仏軍もまたプラップヴィル分派堡塁に加えサン=テロワ農場やヴォワピー周辺の野戦砲兵中隊数個もこれに応戦するのでした。

 普予備第3師団は後備兵数個大隊をベルヴューからサン=レミ間に展開させ銃撃戦を強化しますがラドンシャンとサン=タガットの仏軍は後退せず、結局10月2日午前11時までに銃撃戦は終了し、砲撃戦は日没時まで延々続いたのです。このため、普後備兵が死守するサン=レミ部落とフランクロンシャン農場は仏軍の砲撃で炎上し廃墟に近い状況となりました。

 この10月1日の戦闘では普軍側20名、仏軍側約80名の損害が発生し、続く10月2日払暁から夕までの戦闘では普軍側240名、仏軍側約90名の損害が発生しています。


 翌10月3日。仏第6軍団はラドンシャン城館の拠点化を確実とするため防御工事の援護を行う目的で前日に続き出撃を行い、数個の梯団が北上を始めました。

 これを発見した独攻囲軍は砲兵を中心として前線に猛銃砲撃を行い、仏軍も撤退と前進を繰り返したため以降数日間に渡って断続・限定的な前哨戦が続き、仏軍も各分派堡塁から要塞砲砲撃で前線部隊を援護するのでした。普軍側も負けずに再三仏軍前哨線にある小部落や農場を焼き払おうと砲撃や少数の襲撃隊を出撃させますが、前線の仏軍は既に可燃物を全て移動させるか滅却し、石造りの家屋は拠点として残り続けたのでした。


 バゼーヌ大将は10月4日に将官会議を開き、総軍モーゼル沿岸を下ってティオンビルに向けて突破するとの決意を述べます。

 将軍はメッス要塞に残留する部隊を決定すると「強行軍に耐えられる健康で頑強な下士官兵」だけで突破作戦を行いたいと希望し、突破作戦に従事する各軍団の下士官兵全員を軍医によって診察させました。そして10月6日には各軍団に対し「出発準備は如何か」と質問するのでした。


 ところがバゼーヌ将軍は北進突破決定後の10月5日に「メッス南東方向のクールセル=シュル=ニエ方面へ物資糧秣を収集する強奪作戦を計画、実施せよ」との不可解な命令(本人は陽動のつもりだったのかも知れませんが余計な動きです)を下し(結局未実施)、6日午後になると突破作戦自体を中止させ、単なるメッス北部に対する「物資糧秣強奪作戦」に切り替えてしまったのです。この理由として一説に因ると「バゼーヌ将軍は作戦開始直前パリ発行の新聞を手に入れ、それにフェリエールにおけるファーヴルとビスマルクの会談とその決裂が記事として載り、同じくパリ近郊のモントルイユ分派堡塁が陥落したとの記事(全くの誤報です)を読み、パリの終わりが近いと判断して作戦実行を控えた」とされます。


 どのような理由だったにせよ、この突然の計画変更によってバゼーヌ大将は10月7日早朝、メッス北部の独軍占領地域から物資糧秣を強奪し帰還する作戦実施を命令し、ティオンビルへの突破用に準備されていた馬車400輌はそのまま強奪する物資を運ぶ車輌として空荷とされ、この物資収集隊の直接援護には再び仏第6軍団と軍団長「不在」の仏近衛軍団から仏近衛第1師団が選ばれ、助攻として仏第4軍団の一部がヴォワピーの北西側森林地帯へ侵攻し、モーゼル東岸では仏第3軍団が沿岸を北上しマルロワへ進んで「強奪収集隊」の両脇を援護する事になりました。


 この作戦発動は同7日午前11時の予定でしたが、命令の伝達が遅れたために漸く午後1時となって仏軍の攻撃隊は起動します。

 攻撃はいつものようにサン=ジュリアン堡の猛砲撃から始まり、ヴォワピーの森(ボワ・ドゥ・ヴォワピー)からモーゼル河畔までの前線から仏軍が一斉に動き出しました。


※10月7日「ベルヴューの戦い」における仏軍攻撃隊の布陣

 左翼(西)~右翼(東)へ

○フランソワ・グルニエ少将(仏第4軍団第2)師団の1個旅団

 ヴィーニュルの森(ヴォワピーの西3キロ付近の森)を目標に前進

○グルニエ師団の1個旅団

 ヴィレ=レ=プレノワ(プレノワの南東郊外550m)を目標に前進

○ル=ヴァッソール・ソルヴァル少将(仏第6軍団第4)師団のエミール・アルマン・ジボン大佐旅団(大佐はマルス=ラ=トゥールの会戦で戦死したジュール・リシャールソン・ドゥ・マルグナ准将に代わって指揮を執っています)

 ヴォワピー森東縁を進んでサン=タンヌ(ベルヴューの西隣にある小部落)を目標に前進

○ル=ヴァッソール・ソルヴァル師団本隊

 ラドンシャン城館を経て北上前進

○仏近衛猟兵大隊

 ベルヴューを目標に前進

○仏近衛歩兵第2旅団

 サン=レミとレ=プティット=タップ(農家。サン=レミの北東800mに廃屋として現存)を目標に前進

○仏近衛歩兵第1旅団

 フランクロンシャン農場とレ=グランド=タップ(レ=タップ農場のこと。フランクロンシャンからは北北西へ770m。現在廃墟)を目標に前進

○仏猟兵第9大隊(仏第6軍団ティクシエ少将/第1師団)

 モーゼル西河畔を前進し、近衛旅団の右翼と連絡

○仏第6軍団主力

 ラ=メゾン=ルージュ(ヴォワピーの東北東580mにあった家屋。現存しません)とヴォワピー周辺に予備として待機


挿絵(By みてみん)

 ジボン


 この攻撃を正面で迎えるのは、移動したばかりの普予備第3師団です。

 その第一線には「師団内師団」普後備第3師団が展開し、メッス~ティオンビルのアルデンヌ鉄道線より東側を普後備第6旅団、西側を普後備第5旅団の任地としてそれぞれ前哨を置き、この日(7日)には後備第6旅団のラヴィッチュ(現・ポーランド・ポズナン近郊のワヴィツァ)、コステン(現・ポーランド・カトヴィツェ西のゴシチェンチン)両後備大隊と後備第5旅団のゲルリッツ後備大隊が第一線前哨陣地に配備されていたのです。


※10月7日「ベルヴューの戦い」発生時における普軍前哨の布陣

 右翼(西)~左翼(東)へ

○ゲルリッツ後備大隊・第2中隊

 ラ=フォレの林(ベルヴューの西北西1.5キロ。現存します)内部

○ゲルリッツ後備大隊・第3中隊

 ジュリエールの森(ボワ・ドゥ・ジュリエール。ラ=フォレの東、ベルヴューの西北西750m。現存します)内部

○ゲルリッツ後備大隊・第1,4中隊、普猟兵第10「ハノーファー」大隊・第2中隊の数個小隊*

 ベルヴュー周辺

○ラヴィッチュ後備大隊・第1中隊、コステン後備大隊・第1中隊

 サン=レミ周辺

○ラヴィッチュ後備大隊・第2,3中隊

 レ=プティット=タップ周辺

○コステン後備大隊・第2,3中隊

 レ=グランド=タップ周辺

○コステン後備大隊・第4中隊、ラヴィッチュ後備大隊・第4中隊

 レ=タップからモーゼル河畔まで


※普猟兵第10大隊は普第20師団・第40旅団所属で第10軍団配下ですが、普予備第3師団との「任地交換」の際にモーゼル西岸に残留とされ、普後備第5旅団の将兵たちと共にヴォワピー北の戦線を守っていました。


挿絵(By みてみん)

 ベルヴューの戦い戦場図


 この内、モーゼル河畔からレ=タップまでに前哨線を敷いていた後備2個中隊は、対岸の普第10軍団砲兵による臨機の援護射撃によって仏猟兵第9大隊の攻撃を防ぎ、やがてはこれを撃退することに成功します。

 ところが、残りの普後備諸中隊は数倍の仏軍に被られて防戦一方となり、やがては後退せざるを得なくなるのでした。


 仏大軍の攻撃を受け、前哨線から急ぎ引き上げレ=タップの両農家に籠もった4個中隊の内、レ=グランド=タップの2個中隊は仏近衛第1旅団の素早い展開で北を除く三方向を囲まれ、それでも普後備兵たちは弾薬が尽きるまで戦い抜きましたが、農場の隔壁に仏近衛戦列歩兵が張り付いて近接銃撃戦となった状況では長く保つことは出来ず、北に開いた勝手口から僅かな将兵だけが脱出したのでした。

 こうしてレ=グランド=タップでは多くの普後備兵が逃げ遅れて捕虜となり、後方から届いたばかりの弾薬車一輌も鹵獲されてしまうのです。捕虜を免れた一部の兵士は、農場北方の下水溝に飛び込んで暫しの間銃撃戦を行いますが、仏近衛兵は直ぐに側面へ回り込んで攻撃を仕掛けて来たため、彼らも虚しくアマランジュ農場(ラ・マックスの北3.3キロ。現存します)へ逃走するしかありませんでした。

 この間、仏近衛第2旅団はサン=レミを襲って普軍前哨を蹴散らすと、これを追って北上を続けました。仏近衛兵は勢いそのままにレ=プティット=タップ農家を襲い、ここでも普後備兵は弾薬が尽きるまで戦いましたが力の差は歴然で、午後2時30分に農家は陥落します。ここでも脱出に成功した兵は少なく、過半数の兵士が捕虜となったのでした。


 ほぼ同時進行でゲルリッツ後備大隊が守備するベルヴュー付近にも仏ル=ヴァッソール・ソルヴァル師団と仏近衛猟兵大隊が進み、ラドンシャン城館、サン=タガット、ヴォワピー森からそれぞれ前進して包囲の形勢となります。こちらの普後備兵たちは部落確保に拘らず直ぐに家屋へ放火すると混乱に乗じ一気に撤退しました。この撤退に際し後方からザムター(現・ポーランド・ポズナン北西のシャモトゥウィ)後備大隊と普猟兵第10大隊の第2,3中隊から数個小隊が救援に駆け付け、これら普軍必死の銃撃により仏軍はスメクールに至る中間地帯で進撃を食い止められたのでした。

 その西側ではラ=フォレ林とジュリエールの森でも仏ジボン准将旅団による攻撃があり、ジュリエールの森では普ゲルリッツ後備大隊兵が一旦後退しますが、ラ=フォレの林では後方のカロンブール農場(ノロワの東1.1キロ。現存します)に待機していた普猟兵第10大隊の第1,4中隊が救援に進み出て、林で戦うゲルリッツ後備大隊第3中隊と共に東側のジュリエールの森に進んだ仏軍に側面から銃撃を浴びせ、その進撃を阻止するのでした。


 友軍前哨が後退したことで敵味方が離れ、同士討ちの心配なくなった普予備第3師団の全砲兵中隊と普第10軍団の砲兵数個中隊は、順次進撃する仏軍に対し砲撃を開始し、フェーヴに駐在していた普第3軍団の重砲第2中隊も戦闘に参加しました。またスメクール北高地上の攻城砲10門も午後1時からラドンシャンの城館を目標に砲撃を開始しています。


※ベルヴューの戦線で戦闘に参加した普軍砲兵諸中隊

○普第5軍団予備重砲第1,2中隊(普予備第3師団所属。以下「予3師」)

 戦闘開始直後、前哨兵の後退を見た後にスメクール南方からベルヴューを砲撃

○普第11軍団予備軽砲第3中隊(予3師)

 午後1時過ぎにアマランジュから砲撃開始

○普第10軍団軽砲第3、重砲第3中隊

 午後1時30分にオルジー部落の南北郊外から砲撃開始

○普第5軍団予備軽砲中隊(予3師)

 午後1時45分にメジエール(=レ=メッス)の墓地付近から砲撃開始

○普第11軍団予備軽砲第1,2中隊(予3師)

 午後2時にレ=プティット=タップの北方から砲撃開始

○普第10軍団重砲第5中隊

 午後2時にアマランジュの南東に進出し砲撃開始

○普第10軍団重砲第6中隊

 午後2時30分にオルジー部落郊外、軽砲第3中隊の左翼隣から砲撃開始

○普第10軍団騎砲兵2個中隊

 午後3時過ぎにオルジーとビュイ城館(オルジーの東北東2.4キロ。現存します)の間に進んで待機、一部は軽砲第3中隊と並んで小時間砲撃

○普第10軍団軽砲第6中隊

 午後4時30分にオルジー部落郊外、軽砲第3中隊の右翼隣から砲撃開始


 この普軍砲兵による激しさを増すばかりの砲撃に対抗するため、仏軍はラドンシャン城館に野砲数個中隊を前進させて対抗射撃を行わせ、サン=タガットにも仏第6軍団の砲兵3個中隊が前進しますが、予め掩蔽陣地を持たなかったサン=タガットの砲兵は45分間の砲撃戦で散々に叩かれてほぼ壊滅状態となり、以降普軍砲兵はベルヴューその他で物資糧秣を運び出そうとする仏軍の行動を妨害する砲撃を繰り返しました。


挿絵(By みてみん)

ラ・マックス周辺で糧秣を漁る仏第6軍団の兵士


 普軍砲兵による猛砲撃下、同時に普第3軍団配下の第5師団も戦闘に加わります。


 普第3軍団の管区左翼(北東)を担う普第5師団では、最前線に展開する普第9旅団が仏軍の攻撃を察知し、戦闘開始時点で普第48「ブランデンブルク第5」連隊の第1大隊がヴィレ=レ=プレノワ周辺に、残り2個大隊がノロワ(=ル=ヴナール)の陣地線に進出しました(但し第8中隊は師団砲兵の重砲第1,2中隊護衛としてフェーヴに残留)。当時前哨任務に就いていた普擲弾兵第8「親衛/ブランデンブルク第1」連隊のF大隊諸中隊はこれと入れ替わる形でフェーヴまで後退します。この普擲弾兵第8連隊の本隊中第1大隊がプレノワ周辺の森林東縁とその東にあった煉瓦工場(プレノワの南東1・3キロ。農場として現存します)を拠点として展開し、第2大隊は予備としてプレノワの部落付近で待機していました。

 普第9旅団は予め師団長ヴォルフ・ルイス・フェルディナント・フォン・シュテュルプナーゲル中将から「もし仏軍が北進することがあれば命令を待たずに独断で普予備第3師団を援助せよ」との訓令を受けており、ちょうど前線を騎乗視察中だった師団参謀のアルフレート・アウグスト・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・レヴィンスキー少佐*は、仏グルニエ師団の行動を目撃し、急ぎ旅団長のカール・ベルンハルト・フォン・コンタ大佐(大佐はバルト沿岸に残った第17師団傘下の第76「ハンザ第2/ハンブルク」連隊長として参戦しますが8月22日、マルス=ラ=トゥール戦中ゴルズ高地で戦死したフォン・デューリング少将の後任として普第9旅団長となっています)下に駆け付けると、敵の攻撃に対応する行動を指示したのでした。


挿絵(By みてみん)

 コンタ


※余談ですが普第5師団参謀(長)フォン・レヴィンスキー少佐の2歳上の兄、エドゥアルド・ユリウス・アウグスト・ルートヴィヒ・フォン・レヴィンスキー少佐(当時は第一軍本営の筆頭参謀で弟と同じメッスの戦場・モーゼル東岸にいました)は第二次世界大戦で活躍したエーリッヒ・フォン・マンシュタイン将軍の実父です。マンシュタイン将軍が「最高の智謀」と呼ばれるようになったのもこの血筋からなのでしょう。


挿絵(By みてみん)

 レヴィンスキー弟


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