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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
360/534

メッス包囲戦(後)/糧秣強奪作戦とブルバキ将軍の離脱

 9月22日正午頃。

 メッス要塞北東の分派堡塁・サン=ジュリアン堡から猛烈な砲撃がノワスヴィルやセルヴィニーの普第1師団陣地に向けて開始されました。同時にメッス北東郊外に展開していた仏第3軍団の部隊はヌイイ、ロヴァリエール、コロンベイの普軍最前線に侵入し、普軍前哨が対処不能な規模の仏軍の前進時に定められた訓令通り本陣地へ後退すると、これら諸部落を占領します。仏軍は、各部落の家屋や納屋に残されていた糧秣を馬車や牛車に詰め込むと急ぎ撤退しました。

 この間、ブゾンヴィルへの街道(現・国道D3号線)にも強力な仏軍部隊が現れ、街道に沿って進み出ると9月11日の夜間に仏軍前哨が去ったヴィレ・ロルムへ再度侵入し、メッス南東部でもクール分派堡塁の砲撃援護の下、大部隊が南下してラ=グランジュ=オー=ボワやメルシー=ル=オーを占領、更にペルトルを窺う様相を見せるのです。

 これらメッス東部の包囲網を形成していた普第1、第7の両軍団前哨部隊は、多勢に無勢の中、無理をせずに銃撃を行いつつ第二線の本陣地まで後退し、本陣地では計画通り本隊が進出し仏軍の前進を待ち受けました。

 普第1軍団の本陣地では、野戦砲兵第1「オストプロイセン」連隊の軽砲第5,6中隊がヌイイ、ロヴァリエール、コロンベイ、ヴィレ・ロルム等仏軍が進出した部落を砲撃します。

 この日の仏軍は前述通り最前線にあった糧秣を出来る限り奪取すると、午後4時半、従前の陣地へと引き上げて行きました。


挿絵(By みてみん)

メルシー=ル=オー・糧秣を運び出す仏軍


 翌23日。前日の成功に味を占めた仏軍は午後4時、仏第3軍団の1個師団が普予備第3師団麾下の混成歩兵旅団が守備するヴァニーとシユを襲い、別の1個師団が再びヌイイとヴィレ・ロルムへ侵入しました。


 ヌイイの北では、更に別動隊が東側の高地帯へ侵入を謀ります。このファイイ北方のブドウ畑に覆われた高地では、普擲弾兵第3「オストプロイセン第2」連隊の第2大隊と、普猟兵第1「オストプロイセン」大隊の1個中隊が展開していましたが、この陣地帯はサン=ジュリアン分派堡塁の東端に砲列を敷いた仏軍野戦砲兵数個中隊からも狙われて榴弾砲撃を受けたのでした。

 昨日は不意を突かれたメッス北東部包囲陣の普予備第3師団と普第1軍団は、攻撃を受けると直ちに当直部隊が本陣地で戦闘態勢を取り、その配下にあった野戦砲兵も順次敵陣に向け砲撃を開始します。

 この猛砲撃によってヌイイとヴィレ・ロルムへ侵入した仏軍1個師団は、殆ど何も出来ないままに退却を始めますが、普予備第3師団の管区へ北上した仏軍は、シャルリ(=オラドゥール)郊外に砲列を敷いた野戦砲兵第5連隊の予備軽砲第1中隊による砲撃を物ともせずにヴァニーとシユそれぞれの小部落を占領しました。

 この仏軍部隊は更に北上する気配を見せますが、普混成歩兵旅団(普第19、81連隊)必死の防戦でこれら部落から一歩も北上することが出来ません。この北上攻撃に同道した仏軍の1個砲兵中隊は、ヴァニーとシユに至った歩兵の援護射撃に当たろうとアンティリーへの街道(現・国道D2号線)脇に砲を並べようとしますが、マルロワ南郊の本陣地に入った普第19「ポーゼン第2」連隊の本隊により猛烈な銃撃を浴びてしまい、サン=ジュリアン方面へ退却して行きました。別のミトライユーズ砲中隊の援護射撃を得てルピニーへ進もうとしたシユの仏軍は、ルピニー小部落周辺に散兵壕や防御物を設えて構えていた普第81「ヘッセン=ナッサウ第1」連隊F(フュージリア)大隊の銃撃で前進を阻止されます。

 結局、普軍の強力な砲兵による榴弾砲撃は全戦線で仏軍の前進運動を挫き、「柳の下のドジョウ」を狙った仏軍は、貴重な馬匹や牛に曳かせた食糧運搬車輌を空にしたまま引き返すしかなく、午後5時には援護の歩兵たちも自軍の本陣地へ引き上げて行ったのです。


 その後、仏軍の恨めしげな砲撃が夕暮れ日没時まで続きました。午後7時には普竜騎兵第1「リッタウエン」連隊の2個中隊が出撃し、要塞北東の全線を一巡して偵察を行います。この竜騎兵たちがサン=ジュリアン高地麓のグリモン森に接近すると、森縁にあった仏軍前進壕から銃撃を受けましたが、その他の地域では敵の強力な部隊を見ることがなく、最前線は再び静まり返ったのでした。


 この23日午後には他の地域でも仏軍の出撃がありましたが、これは仏第3軍団の行動に対する支援陽動攻撃と思われました。


 モーゼル西岸のメッス北郊外で仏軍と対峙する普第10軍団は、対岸の普予備第3師団に対する攻撃に対し援軍を差し向けようと動きますが、その援軍の渡河中、対面する仏第6軍団の部隊がマルロワ対岸ラ・マックス付近の普軍前哨線に対し銃撃を開始しました。

 メッス南郊方面でも午後4時過ぎにクール分派堡塁の援護砲撃下、ペルトルに向かって強力な仏軍部隊が南下を始めます。

 しかしこれは対面する普第7軍団と普騎兵第1師団による素早い戦闘態勢展開により、牽制された仏軍はペルトルまで達することが出来ず、午後6時には要塞へ撤退して行くのでした。


 この9月22、23両日の仏ライン軍の損害は戦死・負傷合わせ183名と言われ、普攻囲軍側は22日が戦死・負傷47名、23日が同54名でした。


 仏ライン軍司令官アシル・バゼーヌ大将は、22日の奇襲が成功して糧秣を獲る事が出来たものの、23日の失敗で「1勝1敗」だったため、「再度大規模な襲撃を要塞の北から東にかけて行う」ことに決め、目標をペルトル、コロンベイ、ラ・マックスに定めました。これも前線各地に残る糧秣をメッスまで輸送することが作戦目的でした。


 普第10軍団管区マランジュ=シルヴァンジュ近郊のオリモン山にあった独攻囲軍監視哨は9月26日の夕刻、メッスとティオンビルの仏軍間で発光信号が交わされていることを発見、本営に報告しています。

 翌27日の午前9時、クール分派堡塁は後方のデュ・パテ堡塁と共にペルトルやメルシー=ル=オーに対し猛烈な砲撃を開始、その北方のレ・ボルドとサン=ジュリアン堡の要塞砲は、普第1軍団と普予備第3師団の前線陣地を叩き始めました。

 この砲声が鳴り響いたと同時に、クール堡東のグリジー方面から仏軍の先鋒散兵群が渓谷を伝って前進を始め、その後方からは仏デュプレシ准将旅団(仏第3軍団第2師団第2旅団)と戦上手な仏ラパセ准将旅団(旧仏第5軍団第2師団第1旅団)が縦隊を作って続きます。

 デュプレシ旅団はメルシー=ル=オーに向け前進し、ラパセ旅団はペルトルを目指しました。このペルトル前面の前線には普第26旅団(第15・55連隊)が展開しており、薄く展開する旅団前哨は急速に迫る仏散兵群と衝突する前に本陣地方向へ引き上げ、その右翼(東)側の部隊は前線に近い場所に進んだ普第15「ヴェストファーレン第2」連隊本隊と合流しました。

 この普第15連隊は、クール分派堡の砲撃が開始されると、一早く付近で控えていた普野戦砲兵第7「ヴェストファーレン」連隊の重砲第6中隊と共にメルシー=ル=オーの南東側森林縁まで進んでいたのです。

 また、普第26旅団の前哨左翼(西)側部隊はペルトルとクレピ(ペルトル南西郊外の小部落)に向かって後退し、これら部落を守備していた普第55「ヴェストファーレン第6」連隊のF大隊に吸収されました。

 この普第55連隊の第2大隊は、砲声が鳴り響くと普野戦砲兵第7連隊の軽砲第5中隊と共にボワ・ドゥ・ロピタル森北端に向かって前進を始めており、同連隊第1大隊は半数がシニー北方のメッス本街道(現・国道D955号線)脇まで、残り半数がアル=ラクネイーの南方森林で普第15連隊の戦線右翼に連なりました。


挿絵(By みてみん)

 デュプレシ


 仏デュプレシ旅団は普第15連隊の前哨が後退するのと入れ替わりにメルシー=ル=オーを占領し、同行した野戦砲兵2個中隊を部落西の高地上に上げ、この砲兵たちはクール分派堡塁によるペルトルとクレピの砲撃に同調して砲撃を行います。

 ペルトルへ向かったラパセ旅団は、仏軍砲兵による砲撃が終了するまで待機した後に一気に進み出て、旅団所属の仏猟兵第14大隊と戦列歩兵第97連隊はペルトルへ、戦列歩兵第84連隊はクレピへとそれぞれ突進しました。これと同時に仏猟兵第12大隊(仏第2軍団所属)は、メッス郊外からミトライユーズ砲を積んだ無蓋貨物列車に乗ってペルトル西郊外まで進み、独軍によって線路が破壊分断され、それ以上南下出来ない箇所で列車を降りると、クレピの南郊外とサン=ピエール川の橋梁に迫りました。その西側のマニーでも南下して来た仏第2軍団の部隊に最前線が席巻され、クレピは西側からも脅威を受けることになったのでした。

 こうなるとペルトル、クレピ両部落を守る普第55連隊のF大隊は包囲される恐れが高まり、南側のボワ・ドゥ・ロピタル森北端に構える友軍陣地線まで撤退を開始します。しかし、ペルトル北郊の散兵線に入っていた同連隊の第11中隊は、仏軍が西側のクレピからも接近して来たことを関知出来ず、また、後退命令も受領し損ねた(伝令が戦死または負傷したものと思われます)ため、気付いた時には仏ラパセ旅団に完全に包囲されてしまい、血路を開いて帰還出来たのは中隊長始め僅か30名のみで、その他の将兵は弾薬も尽きて武器を捨て白旗を挙げるしかありませんでした(当日の第55連隊の行方不明/捕虜は士官1名・下士官兵122名)。

 ラパセ准将は急ぎ付近に隠して集積してあった糧秣や使えそうな物資を収集させ、その間、前哨は南からの普軍反攻に備えたのでした。


挿絵(By みてみん)

ペルトル付近で貨車に積んだミトライユーズ砲を使用する仏軍


 このペルトルで戦闘が始まった頃、普第26旅団の右翼(東)側には普第25旅団に属する普猟兵第7「ヴェストファーレン」大隊主力と普第13「ヴェストファーレン第1」連隊、そして普野戦砲兵第7連隊の軽砲第6中隊がアル=ラクネイーの陣地帯に展開します。

 この普第13連隊の第8中隊はこの日早朝、ラ=グランジュ=オー=ボワの最前線陣地にいましたが、その正面北側と東側、やがてはメルシー=ル=オーが仏デュプレシ旅団の手に落ちたため西側からも銃撃を浴び、この小部落内に蓄えてあった藁に火を点けると南面の雑木林に撤退していました。すると北側のコロンベイに向けて仏軍の大集団が進み出るのを望見したため、中隊はこの林に潜むことを決し、その西縁で散開し敵を待ったのです。

 これ以外の普第13師団部隊(普フュージリア第73「ハノーファー」連隊・普驃騎兵第8「ヴェストファーレン」連隊の2個中隊・普野戦砲兵第7連隊の重砲第5中隊)はシュヴァル・ルージュの農場近辺に集合し、その南方メクルーヴ近辺のメッス本街道沿いには普第14師団傘下の第27旅団と軍団砲兵隊、そして急ぎ北上して来た普騎兵第1師団が集合し、その西側プイイ周辺には同じく普第14師団の第28旅団が集合し戦闘準備態勢に入っていました。この旅団の一部(歩兵5個中隊)は既に北上してボワ・ドゥ・ロピタル森に進んでおり、仏ラパセ旅団の前哨と銃撃戦を始めていました。


 普第7軍団の左翼(西)側では、普第8軍団所属の第16師団が午前10時には戦闘態勢を整えマルリー周辺で仏軍を待ち受けていましたが、このサン=プリヴァ「未完」堡塁前面の戦線ではこの日両軍の衝突をみることはありませんでした。


 仏ラパセ旅団はペルトル及びクレピで、同じく仏デュプレシ旅団はメルシー=ル=オーで、それぞれ糧秣を奪取するという「強盗作戦」の目的を達成すると午前11時30分、占領地より一斉に撤退し、午後に入ると普軍前哨部隊は再び無人となった前哨第一線陣地へ戻ることが出来たのでした。


挿絵(By みてみん)

ペルトル付近の戦闘(9月27日)


 この27日朝のサン=ジュリアン堡やレ・ボルド堡からの砲撃は、普第1軍団傘下の第2師団管区にも降り注ぎました。


 コロンベイやその北の普軍第一線には普第44「オストプロイセン第7」連隊の第8と第4中隊が、同じくラ・プランシェット(ロヴァリエールの南南東600m)付近には普擲弾兵第4「オストプロイセン第3」連隊の第3中隊がそれぞれ配置に就いていました。仏軍からの砲撃が始まると、その後方のオービニー城館とコワンシーの第二線本陣地には普第44連隊本隊と砲兵2個(普野戦砲兵第1連隊軽砲第5、重砲第5)中隊が進み、普擲弾兵第4連隊はモントワ周辺に集合、師団残りの2個砲兵(普野戦砲兵第1連隊軽砲第6、重砲第6)中隊はモントワ南郊の街道(現・国道D603号線)両側に砲を並べました。

 この普第3旅団の後方(東)、サン=タニャン周辺では普第4旅団と普竜騎兵第10「オストプロイセン」連隊が集合を始めました。


 午前10時。ラ=グランジュ=オー=ボワを襲い普第13連隊の第8中隊を後退させた仏モントードン少将師団の前衛は、前述通りコロンベイをも襲い、師団残りの部隊はボルニーとベルクロワ交差点から発して東進しました。これら仏軍はコロンベイとラ・プランシェット間で前述の普第3旅団前哨を蹴散らし、普軍前哨3個中隊はコロンベイ川を越えて東の第二線陣地へ後退します。


 この方面の普軍も、味方前哨が後退し同士討ちの危険性がなくなると砲兵を使用し始めました。

 モントワ南郊の2個中隊12門とアル=ラクネイー北東に砲列を敷いた普野戦砲兵第7連隊軽砲第6中隊の1個小隊2門は、仏軍が侵入したコロンベイ周辺を猛烈に砲撃し、正午頃にはコロンベイの家屋は皆燃え盛っていました。しかしこの地の仏軍は、渓谷に沿って展開した散兵群の援護によって砲撃を物ともせずに糧秣や物資を運び出し続けたのです。

 また、ベルクロワ交差点から前進したモントードン師団の一部は、ロヴァリエールへ突進し渓谷を越えて進んだため、普第1師団は前哨を強化するために普擲弾兵第1「オストプロイセン第1」連隊をノワスヴィルとビール工場の陣地線に送りました。

 しかしこの時点で仏軍の作戦目的(前線に残る糧秣の強奪)は完遂しており、仏モントードン師団はそれ以上進むことなく、午後1時にはコロンベイやロヴァリエール周辺を棄ててメッス要塞へ引き上げたのです。


 こうしてモーゼル東岸の仏軍は午後1時には殆ど元の陣地線へ引き上げますが、モーゼル西岸では午後になって仏軍の動きが活発化していました。


 普第10軍団管区のヴォワピーからラ・マックスに掛けては正午前、仏軍の砲兵数個中隊が前進して砲列を敷き、目標を東から北西に変えたサン=ジュリアン堡の要塞砲と協力し普第10軍団の前線を叩き始めます。

 同時に仏第6軍団に属するティクシエ少将師団とル=ヴァッソール・ソルヴァル少将師団が前進を開始、ティクシエ師団はラ・マックスに南面するチュリー農場とサン=テロワ農場(それぞれラ・マックスの南1.2キロと南西850m。両方ともに現存)から突進してラ・マックスとフランクロンシャン農場(ラ・マックスの北北西850m。現存)を襲い、ル=ヴァッソール・ソルヴァル師団はヴォワピー周辺の森林から飛び出して北上を始めました。

 ラ・マックスとフランクロンシャンには普第56「ヴェストファーレン第7」連隊F大隊が配置に就いていましたが、仏軍の砲撃によりフランクロンシャン農場が炎上し、仏ティクシエ師団の前進でラ・マックスが包囲され掛かるとラ・タップ農場とサン=レミ(それぞれヴォワピーの北東3.6キロと北北東2.8キロ)へ後退しました。

 その西側で北へ走るアルデンヌ鉄道線の西側でも、午後1時過ぎに仏ル=ヴァッソール・ソルヴァル師団の散兵群が森林から出てサン=タガット(一軒農家。ヴォワピーの北1.8キロ。現存しません)を占拠し、その援護に入った仏軍野戦砲兵はベルヴュー(同北2.4キロ)を砲撃しました。ヴォワピー周辺に展開していた普第19師団前哨の普猟兵第10「ハノーファー」大隊第1,4中隊と普第91「オルデンブルク」連隊第2,3中隊は、押し寄せる仏軍を銃撃で足止めし、突撃を阻止して時間を稼ぐと一気に本陣地へ向け後退して行きました。

 仏軍2個師団はこうしてフランクロンシャンからベルヴューまでを占領し、その後方(南)となった諸部落から急ぎ糧秣や物資を運び出すのです。


 これに対し独軍砲兵は前哨部隊の去った前線諸部落・拠点に猛砲撃を加え始めました。

 スメクール付近高地上に構えた普軍要塞砲兵(10門)は、スメクールの南郊に砲列を敷いた普野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊軽砲第1中隊と共にベルヴューとサン=タガット農家を狙って砲撃を繰り返し、午後1時を過ぎるとモーゼル対岸(東岸)より普予備第3師団の砲兵4個中隊もアルガンシー~オルジー間に砲列を敷き、ラ・マックスやフランクロンシャンを砲撃しました。

 仏軍は午後2時になると、奪取した物資・糧秣を満載した馬車や牛車を最大限の速度で動かし、元の陣地線内まで帰って行きます。護衛の兵士たちも広く散開して独軍の追撃を警戒しつつ戦場を後にするのでした。


 この普第10軍団を対岸より砲兵によって援助した普予備第3師団は、サン=ジュリアン堡の要塞砲が火を吹くと速やかに前哨を下げて前衛を本陣地に送り、砲兵を砲撃位置まで進めると共に歩兵3個大隊をアルガンシー周辺に集合させ、万が一普第10軍団が危機に陥った場合速やかに川を渡れるよう備えました。同時に23日のように仏兵が北上する場合にも備えますが、この方面の仏軍は、その前線正面のグリモンの森付近で多少の動きが見えた程度で前進はなく、午後3時には対岸の「騒動」も収まったため、前哨は再び前進して第一線の通常勤務に戻りました。


 独メッス攻囲軍司令官カール王子は、午前中に本営のコルニーへ達した諸報告によって仏軍の意図を察知します。結果的に最前線には未だ多くの糧秣や仏軍の欲する資材が眠っていることが判明し、「以降仏軍によるこの種の出撃を根絶させるため」王子は戦闘終了直後の27日夕、「前哨線付近とその周辺においては、前哨の管制が及ぶ範囲にある諸部落、独立農場などから直ちに馬匹と糧秣を搬出し、それが不可能な場合にはこれを全て滅却するか使用不能とせよ」との主旨の緊急命令を全軍に発しました。


 この命令を受けた前線諸隊は、27日夕刻から深夜(一部は28日にも及びます)に掛けて「手っ取り早く」ケリを付けてしまいました。


 独攻囲軍諸隊は、この日の戦闘で焼け落ちたコロンベイやラ=グランジュ=オー=ボワ、そしてメルシー=ル=オーの各部落で残存した建物の他、ペルトル、バッス・ブヴォア(農場。ペルトルの北北西1キロ。現存します)、モーゼル西岸のラ・マックス、そして今回仏軍が侵入しなかったマニー部落の一部にも一斉に放火し、同時にプイイとシユにあった糧秣やめぼしい物資を安全な後方へ運び出しました。

 この処置によって普第7軍団管区の前線が変更され、独攻囲軍はそれまでクレピ、ペルトル、メルシー=ル=オーにあった前哨線を、これら部落が焦土と化してしまい拠点とならないため全般に南東方向へ下げ、メッス本街道とメッスへの鉄道線の交差部分を中心として東西に延びる陣地線を新たに構築するのでした。


 この9月27日の戦闘における普軍側の損害は、戦死が士官4名・下士官兵52名、負傷が士官5名・下士官兵142名、行方不明(捕虜)が士官1名・下士官兵141名(先述通り多くが普第55連隊の第11中隊将兵)、合計345名の損害とメッス攻囲戦でも目立つ損害を出しました。仏ライン軍の損害は不詳です。


挿絵(By みてみん)

9月27、28日に前線の部落を焼く普軍兵士


☆ ブルバキ将軍のイギリス行


 9月20日。ちょうどファーヴルとビスマルクが密かに会談を行っていた頃。普大本営在の富豪ロチルド(ロスチャイルド)家所有の広大なフェリエール城館に、ヴィクトル・レニエと名乗る一般人の男性がやって来ます。

 レニエは歴とした仏国人で、応対した本営の士官に「自分は仏皇后ウジェニーの信を受け、和平交渉の一助となるべく参上した」と告げました。

 この「胡散臭そうな」レニエは48歳になる英国在の商人で、妻も英国人でした。中々弁が立ち立派な出で立ちの金持ちでしたが、ウジェニー皇后の信を受けたと言う割に皇后の信任状や紹介状すら持っておらず、一体何の利害でこのような調停役を名乗り出たのか分からないところがありました。

 しかし大真面目に帝政下での独仏の和平を語るレニエは、「信任状はないがこれがある」と、ルイ・ナポレオン皇太子の署名がある英国はヘースティングズ(ドーバー海峡沿岸。ロンドンの南東88キロ)の風景を描いた絵葉書を差し出したのです。


 レニエは祖国の不幸を憂い、9月中旬に仏「前」皇后と「前」皇太子が滞在するヘースティングズのホテルに行き、皇后との面会を求めましたが、唯一皇后と行動を共にしパリを脱出した侍女のルブルトンから面会を断られてしまいます。諦め切れないレニエは、それではとルイ皇太子に接近し、皇后と皇太子の様子を独に捕らわれているナポレオン3世「前」皇帝にお知らせしましょう、と請け負いました。喜んだ皇太子(まだ15歳です)は疑いもせずに絵葉書に「陛下。ここにヘースティングスの風景をお送り致します。お慰みに。ルイ」と自著してしまうのでした。


 これを聞いたビスマルク宰相はレニエと会談し、ビスマルクは「これは使える」とばかりにレニエに独軍の通行証を与え、英国在の仏人商人は籠城するバゼーヌへの使者としてメッスに赴くことになるのです。

 9月23日(仏軍の前線襲撃が失敗した日)、レニエはコルニー在の攻囲軍本営を訪れカール王子と会見、説明を受けたカール王子はレニエのメッス行きを許可しました。

 その日夕刻、普軍の白旗同行の下、レニエはメッス要塞に入りバゼーヌと会談します。当然バゼーヌはレニエ某を知りませんでしたが「皇太子の絵葉書」はここでも効力を発揮し、レニエはバゼーヌに「独は帝政となら直ぐにでも和平交渉を行う用意がある、とビスマルクが語った」と伝えるのです。バゼーヌもこれには反対ではなく、但しメッス開城は「上官」の命令なくしては出来ない、と答えるのでした。

 レニエはメッス要塞を退出すると翌24日に再びカール王子を訪問、バゼーヌが「上官」の命令なら開城すると言っている、と告げます。「上官」とは「帝政」ならば即ち皇帝か摂政だった皇后と言うことになります。カール王子は「皇帝は捕虜となっているため、英国に亡命中の摂政皇后に(メッス開城を含む)和平交渉を頼むべきであろう」と伝えました。レニエはその足で再びメッスにバゼーヌを訪ね、カール王子の意見を伝えます。バゼーヌとしてもメッス要塞と16万の軍というとてつもなく重い「荷物」を皇后に肩代わりして貰えるのなら、即ちメッス降伏と言う「歴史的大敗」の責任を皇室に押しつけることが出来る(バゼーヌとしては命令に従ってメッスを開城した、と主張出来る)なら、英国に使者を差し向けよう、とするのです。


 この使者役には仏近衛軍団長のブルバキ中将が指名されました。ブルバキは仏軍中でも才気ある将軍とされてウジェニー皇后とも親しく、皇后に何か訴えるとしたらバゼーヌ配下の将官中最も適任と言えました。

 しかし首将自ら和平交渉のお膳立てを始めた等と将兵や市民に知られると一大事だったため、このことはほんの数名以外秘密とされ、ブルバキ将軍は9月27日、軍服を脱ぎ平服を身に付けてちょうどメッスを来訪していたルクセンブルク大公国の赤十字団の医師数名に紛れメッスを脱出するのでした。


 このブルバキ将軍の「メッス離脱」はやがて大きな問題に発展しますが、それはバゼーヌ将軍が秘密裏に事を進めようとした結果起きたこと(バゼーヌは発覚を恐れてかブルバキに口頭のみで命令を与え、命令書を与えませんでした)で、その一つはブルバキ将軍の不在に対する説明がなかったため「仲の宜しくない」とされるバゼーヌに「粛正されたのでは?」「いや、拘束され要塞の地下牢に閉じこめられたのだろう」等という不穏な噂になったことでした。ブルバキ将軍にとって幸いだったのは、その真面目な性格故にか敵前逃亡を疑われなかった事です。

 いずれにせよ、部下を粛正したのでは等と疑われるほどバゼーヌ人気が下がっていたことは、メッス「籠城」軍の士気を貶める不幸なことでした。


 「パリ(トロシュ)」と「メッス(バゼーヌ)」を両天秤に掛けているビスマルクは、その分断を高めるため「バゼーヌが勝手に和平交渉をしている」という「噂」をパリ国防政府筋に届くよう流します。トロシュらはこの「噂」を信じ、また元よりトロシュら国防政府に心からの忠誠を誓えないでいるバゼーヌは9月29日、フェリエール在普大本営からの「和平交渉をする気になっているか否か」の督促に対し、「メッス要塞を本官の意志で開け渡すのは無理な話で、また仏ライン軍の投降も、自由退去の形(即ち捕虜にはならない)でなければ和平条約に署名することは出来かねる」と回答するのでした。


 その後ルクセンブルクからベルギーへ入ったブルバキ将軍は海峡を越えて英国へ渡り10月2日、9月下旬にチズルハースト(ロンドンの南東18キロ)へ引っ越しした皇后を訪ねます。

 メッスに籠城したと聞く近衛軍団長の突然の訪問に皇后は文字通り驚愕しました。驚いたのはブルバキも同じで、頭の良いブルバキはウジェニー皇后の態度から直ぐにこの脱出行と訪問は「聞かされた事実と異なる大失態」だったことを悟るのです。皇后の「何故ここにいる?」との詰問にしどろもどろとなってしまったブルバキは、何とか自分が英国にまで参上した経緯を説明しました。これを受けたウジェニー皇后は、「レニエなる人物に会って和平交渉の委任などしたことはないし、和平交渉を許可する権限も要望も持たない」と一切拒絶の態度を示したのでした。


 傷心のブルバキ将軍は皇后の下を去ると、仕方がなくロンドンに向かい、バッキンガム宮殿のヴィクトリア女王に謁見を求め、許されると「普大本営に掛け合って自分がメッスに戻れるよう」取り計らいの仲介を願い出ました。しかし、英国政府が普大使館に掛け合った結果、これは認められず、途方に暮れたブルバキは仕方なく大陸に渡ってメッスやパリへの帰還の機会を探りましたが、既述通り叶わずに最終的にはトゥール派遣部のガンベタの命に従って「北部軍」司令官に収まったのでした。


※この項、松井道昭先生の「普仏戦争/メッスの戦い」を大々的に参照しております。

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