表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・ロアール、ヴォージュの戦いとメッス陥落
359/534

メッス包囲戦(後)/カール王子とバゼーヌ・我慢比べ

☆ 独メッス攻囲軍(独第一・第二軍)


 9月6日。ノワスヴィルの戦い後、初めて「白旗の交流」があり、ここでの捕虜交換において独メッス攻囲軍司令官カール王子は、わざとセダンから独本土へ移送途中の捕虜100名程を他の捕虜に混ぜてメッスへ送り届けます。これは解放された捕虜の口からセダンの詳しい顛末と、護送途中に聞かされた帝政の転覆と穏健共和派主導による仏「国防政府」の誕生とを仏ライン軍司令官バゼーヌ大将の耳に届けさせ、これによってバゼーヌ将軍が開城の意志に傾くのでは、との希望によって行われた計略でした。


 この「心理戦」を援助するため、カール王子は9日早朝、仏軍の前哨を襲って捕虜を獲ると、メッス城外の市街地と仏軍の前線陣地を砲撃するよう命じます。

 この砲撃は夕闇沈む午後7時から8時まで、要塞の三方(南、西、北)から野戦砲兵19個中隊(114門)と10門程の攻城砲により行われますが、この日は雨で夜になるほど激しく降り続けたため、真の闇の中、全く着弾観察が出来ず砲撃効果判定も行えないままに終わりました。

 このように夜間砲撃を行ったのは、昼間に行えば砲数と着弾量において数倍も優勢な仏軍から対抗砲撃を受けて損害が膨大になることが確実だったからで、独軍の各野戦砲兵中隊は闇の中、急ぎ目標を射程に捕らえる位置まで進み砲を並べて速射を行った後、対抗砲撃が激しくなる前に後退したものでした。


 カール王子が失望したことに、この「心理作戦」や砲撃は、表面上全くと言って良いほど効果を表しませんでした。

 バゼーヌ大将は戻って来た捕虜から得たセダンやパリの情報を知ってもこれを伏せ、「勝った」「負けた」様々な噂が蔓延し不安に包まれていたメッス市内(逃げ出せなかった市民ばかりでなく逃げ込んだ近隣住民も大勢いました)に対しては、「何があっても我がライン軍の任務は変わらず、依然として本官は外国軍の侵攻に対し祖国防衛の任を果たすつもりである」と宣言するのです。


挿絵(By みてみん)

フランソワ・アシル・バゼーヌ


 しかしカール王子の心理戦は、実は効果を上げていました。「見かけ」はともかく、バゼーヌの本心は大きく揺らいでいたのです。


 将軍はナポレオン3世が捕虜となり帝政が崩壊したことに動揺し、穏健共和派によってトロシュ将軍を首班とする「国防政府」が成立したことに嫌悪感を抱いた、とされます。この「軍・政共にライバルだったトロシュ」(戦前は両者共に民衆から人気を博していました)が首班の「新政府」に忠誠を誓うことは、第二帝政下で一兵卒から大将までに成り上がったバゼーヌにはどうしても出来なかったのでは、と推察されるのです。


 そこでバゼーヌは、和平を急いでいると思われるビスマルク(この情報をどこで得たのか、ひょっとしてカール王子かどうかは不明ですが)に対し、降伏すると共に普軍の力を背景に帝政を復活させることを夢見たのではないかと思われるのですが、バゼーヌに「パリ国防政権を潰す」までの意志(勇気)があったかどうかは不明で、少なくとも「トロシュ政権」に協力する意思は薄弱だったのではないでしょうか。一応、バゼーヌは事情を知るとパリ陸軍省宛に情報の要求と命令を仰ぐ内容の書簡を送っています。


 バゼーヌには余り時間もありませんでした。バゼーヌは隠しておきたかったのかも知れませんが、確実な情報を持った者が包囲された城内に入れば、その情報が漏れ広がるのも時間の問題でした。

 「セダンでマクマオンが大敗した」「皇帝が捕虜となった」「パリで共和党政権樹立された」等のニュースは12日、メッス市内を駆けめぐり市内は騒然となりました(前線で拾われたパリの新聞から情報を得たとの話もあります)。包囲下でぎくしゃくし出した市民と軍との関係も冷えて行きます。


 焦ったバゼーヌ将軍は9月16日、白旗を掲げた2名の士官をカール王子の下に送り、表向きは「仏国の現状につき確かな情報を与える」よう要求し、その実「ライン軍投降の落とし所を探ろう」としたのでした。

 カール王子はバゼーヌの使者から密かに「降伏条件の相談」を持ち掛けられると、直ぐにフェリエール在の大本営へこれを機密事項として打電し、指示を仰ぐのでした。

 これに食いついたのが北独宰相ビスマルクでした。なんと偶然にもこの16日にビスマルクは、国防政府外相のファーヴルが「和平について話し合いたい」と言って来たことに対し「フェリエールにて会談する」との回答を発していたのです。

 ビスマルクとしては共和派のファーヴルと旧帝政派のバゼーヌ、同時に和平について打診された訳で、条件が整えばこれ以上無駄な戦いをしなくとも仏が降伏する可能性が出て来たのでした。この時点では、パリがあくまで戦うと言うのなら、「メッス」と和平を結び仏を「二分」させて帝政を(傀儡として)復活させ、こちらと和平条約を結ぶこともあり得ました。

 この「見極め」は、パリがまだ完全に包囲されていないこの段階では不可能なため、ビスマルクは「どちらにも道を残し今後の情勢次第でどちらか有利な方と交渉しよう」と「二兎を追い」始めるのでした。


 ビスマルクは方針を急ぎ定めるとカール王子に対し「現在のバゼーヌの心理状態を慮れば、かなり弱気となり帝政復活を望んでいると思われるので、メッスの開城とバゼーヌ軍の降伏を本気で考えているのであれば交渉を始めても良いだろう」、と回答するのです。

 カール王子は表向きの「要求」に対しては、ほぼ正確に状況(独軍はパリを包囲寸前で、仏国防政府は戦うと宣言しているが、今や仏軍は護国軍中心でしかないこと)を伝えました。カール王子はビスマルクら大本営側の態度が定まるまでは動けない、として降伏条件に関しては言質を与えなかったのでした。


 カール王子は、和平が話題となってもその交渉はまだまだ先で、包囲はしばらく続くものと考え、また、その前に交渉を有利に運ぼうと仏軍が出撃に及ぶ可能性もあることを踏まえ、包囲陣の全域に厳戒態勢を取らせて防御施設と工事を充実させることに決します。

※注・以下の部落や農場の位置は、「メッス包囲戦(前)/8月22日・本格包囲の開始」を参照願います。


挿絵(By みてみん)

メッス包囲網の普軍宿営


 メッス包囲陣でモーゼル東岸北部を占め、ノワスヴィルの戦いで主戦場右翼となった普予備第3師団は、マルロワ~リュピニー間に敷かれた散兵線を増強し、その後方に平行して設えた本陣地線にも数個の土製肩墻を築造しました。また、後備第3師団に残った将兵(予備第3師団中核のこの「師団内師団」はティオンビルや普第1軍団へ多くの部隊を割いています)の一部はモーゼル川に沿って沿岸を警戒しました。

 同じくノワスヴィルの戦いで主戦場となった普第1軍団は、担当戦域右翼(北)側となるファイイ~ノワスヴィル間に増強工事を加えて、二度と仏軍に突破されぬよう頑強な防御を備えさせます。それまで騎兵の巡回等で凌いでいた左翼側のブレ=モセル街道(現・国道D954号線)以南の戦線にも防塞施設を設け、特にノワスヴィル南のビール工場やモントワ(=フランヴィル)、コワンシーの部落にも防御工事を行って、近隣には散兵壕を掘り巡らせました。この本陣地線の西側には、メッスから放射状に各地へ延びる主要街道を制するため多くの砲台を築造し、同時にノワスヴィルの戦いにおいて仏の侵入路となったヌイイの渓谷は鹿砦線でこれを封じました。


 カール王子が「長期戦」を覚悟した9月中旬以降、この北東部戦域以外でも補強工事が推進され、これは新たにメッスの南東域を担当する普第7軍団の戦線にも及びました。

 この軍団右翼となるオービニー城館やアル=ラクネイーの部落、同じくジュリー、シニー、プイイの各部落では防御工事が急速に施され、右翼最前線後方にある重要拠点、クールセル=シュル=ニエ周辺の森林地帯とボワ・ドゥ・ロピタルの森(シニーとフルーリー間にある森林。現存します)で仏軍前哨と対峙する北側部分(ペルトルの南に当たります)の林端には新たに散兵壕と砲台を築造し、ロピタル森西端からプイイ南郊の本街道までに第二線の散兵壕を設けました。

 軍団の前哨拠点となるメルシー=ル=オー(ペルトルの北東1.6キロ)とペルトルの部落は、本格攻勢に耐えられないとして、いざと言う場合は放棄が認められます。普第7軍団の本陣地線はオルニー部落(ペルトルの南6キロ)を中心とする丘陵地帯で、この地域の防御工事は重点的に推進されメクルーヴ付近には強力な砲台が築造されました。この本陣地線でメッスから南方への2つの本街道(現・国道D913号線とD955号線)を制し、陣地の最左翼はボワ・ダヴィジー森(オルニーの西4キロ)の西側でセイユ川に達していました。


 普第7軍団管区西のセイユ川とモーゼル川の間は、普第8軍団の担当域でした。

 既にノワスヴィルの戦い以前から前線の強化が始まっていた包囲網のこの部分は、南西側に高地を控えて防御側有利な地形となっており、本陣地はマルリー~オニー~オルリ農場(オルリ・フェルム)に至った後、ジュイの森(ジュイ=オー=アルシュの北東側に広がる高地森林)北端を巡ってポルカ・フェルム農場でモーゼル川に至りました。

 軍団の前哨線ではトゥルヌブリッドの家(オルリ農場の北1.2キロ付近にあった農家。現存しません)とフレスカティ城館に防御を施して拠点化し、オート・リヴ農場(キュヴリーの北西1.1キロ。現存します)付近とオニー~マルリー間に築造された肩墻砲台からはセイユ河畔とポンタ=ムッソン街道(現・国道D657号線)を制することが出来ました。


 モーゼル西岸地区では、ヴォー~ジュシー~ロゼリユ~シャテル=サン=ジェルマンの前線が強固な防衛線に変貌し、それまでは防衛施設が存在しなかったヴォーからモーゼル河畔までにも陣地線が構築され、普第9軍団が配置に就いていました。

 普第3軍団はこの北側、モンティニーとアマンヴィエ両高地に防御陣地を設け、その前方に突出してロリ=レ=メッスへの街道(現・国道D51号線)脇に肩墻を設えて仏軍前哨と対峙しました。

 その先、モーゼル西岸包囲網北端となる普第10軍団の管区では、ノロワ(=ヴナール)~フェーヴ間に鹿砦線を設け、モーゼル河畔のメジエール(=レ=メッス)南方に複数の散兵壕を縦横に掘削して仏軍の北上を阻止していました。


 8月末から9月初旬に掛けて普本国より到着した要塞攻城砲(12ポンド砲中心)50門は、順次要塞を睨む高地上に運ばれ、予め用意された堅固な掩蔽壕を備えた砲台に設置されて行きました。


※メッス包囲網の攻城砲

◇当初から固定配置された30門

○ ジュシーの西高地(第9軍団管区)・10門(9月9日設置)

○ スメクール北方高地(第10軍団管区)・10門(9月9日設置)

○ アマンヴィエ南西高地(第3軍団管区)・10門(9月17日設置)

◇移動した20門

*9月初旬

○ モン・サン・ブレース山(ジュイ=オー=アルシュの南東1.6キロ)

○ アル停車場付近高台

○ ジュイ=オー=アルシュ付近

○ オニー付近

  以上に分散配置

*9月下旬

○ オニー西方砲台(第8軍団管区)

○ シャトー=サラン街道(現・国道D955号線)脇、シュヴァル・ルージュ農場(シニーの南東1.5キロ)北方(第7軍団管区)

  以上に分散配置


挿絵(By みてみん)

 普軍の要塞砲兵


 この包囲網構築中に、緊急警報発令用の狼煙烽火信号所が各所に設けられ、同時に通信所と電信線が増設されて各司令部・本営間の電信網が完備されました。第3軍団では旧式の機械式「手旗」信号機(テレグラフ)も設置され、これは軍団本営と両師団間との昼間連絡を行いました。この頃、メジエール(=レ=メッス)から北に向けて電信線も敷設され、ティオンビルを監視する支隊との通信連絡も始まっています。

 一方、セイユとモーゼル両川で連絡用の橋梁も増設され、待望されていた補給端末駅のレミリーからポンタ=ムッソンへの新設野戦鉄道線も9月末に開通し、西部戦域への物資輸送がかなり楽になりました。同時に第10軍団工兵がメジエール以北の各所で寸断されていたアルデンヌ鉄道を修繕し、短い区間ではありましたがメッス攻囲軍とティオンビル監視支隊用に運用を開始しています。


 しかし、攻囲軍はかなり劣悪な環境下での任務を強いられ、衣食住は最低限度で我慢しなくてはならない状況が続いています。


 特に糧食状況は最悪の状態のまま推移していました。これは既述通り普本土で発生し猛威を振るっていた口蹄疫による肉不足の影響が大きく、大本営は生鮮食肉用の家畜をオランダとベルギーから輸入しましたが全く数量が足りませんでした。このため、既述のタンパク質不足を防ぐための努力の他にマインツとベルリンの食品工場をフル稼働して輸入肉によるコンビーフの缶詰を大量生産させました。

 この70年の天候不順は馬匹用の藁や乾し草の欠乏を招いていましたが、追い打ちを掛けるような口蹄疫発生で貯蔵していた藁や乾し草も廃棄処分となり、これも燕麦を大量に集めて輸送し、圧搾乾草(生の牧草を圧搾し短時間で製造した乾草)を導入して何とか馬匹の栄養不足を防ごうとしました。


 連日連夜降り続く雨は外哨任務の兵士を病弱にし、疫病の危険が増したため、カール王子は既述通り軍の野営を避けて宿営させるために宿舎の増設を続けさせます。結果的に四分の三に当たる将兵が「屋根のある建物」で就寝することが出来るようになりました。しかし、秋が深まると恐れていた将兵の健康状態悪化が始まり、赤痢患者の入院数は10月中旬までに延べ4万人を数えるという最悪の衛生状態に陥りました(この下りは「メッス包囲戦(前)/メッス包囲・壮絶な実態」も参照願います)。


挿絵(By みてみん)

普第59連隊(第10軍団)の宿舎


 メッス攻囲軍と独本土との後方連絡は、主輸送路をザールブリュッケン~レミリー間の鉄道により、レミリーからは新設の野戦鉄道を利用するか諸街道を辿ってポンタ=ムッソンに至りました。メッス東側の戦区ではザールルイからブレ=モセル街道等も併用して兵站物資輸送を行っています。この独第一軍(普第1、7、8軍団、予備第3師団、騎兵第1師団)の兵站総監部本営は、軍主力の第7、8軍団が東へ動いたため、当初のコルニー(=シュル=モセル)からバゾンクール(レミリーの北北西4.7キロ)へ移動し、物資の集積地もクールセル=シュル=ニエからエルニー(レミリーの東6.4キロ)へ後退移転しました。

 この間、第二軍の兵站総監部本営や関連施設の移動は一切行われませんでした。


 カール王子ら攻囲軍本営は、自分たちの任務がバゼーヌ軍の封じ込めにあることを重々承知して事に当たりました。

 20万近い軍勢を率いる軍司令官としてはかなり若い王子(当時42歳)は、ともすれば結果を急いでメッスへ総攻撃を掛けることも夢見ましたが、そこはぐっと我慢して、バゼーヌが焦って出撃し「最後の会戦」に至るか、住民共々飢餓に陥り手を挙げるまで待ち続けようとしたのです。


 これはバゼーヌ軍が弱体化したとはいえ、正規軍だけでも12、3万以上の兵力が残っている上、メッス要塞という分派堡塁多数を備えた本格要塞に籠城している事を踏まえた慎重策でした。グラブロット会戦におけるシュタインメッツ第一軍やカール王子自身配下の普近衛やS軍団が陥った「防御上手の仏軍がしっかり準備した陣地に正面からぶつかれば大損害を被る」という教訓からでもあります。

 要塞に正面から挑む強攻策に出てカール王子軍19万が衰退もしくは敗れた場合、仏本土地方に残る百万に及ぶ潜在的な兵力と将来的に戦う場合に戦争の行く末が不透明となってしまうため、カール王子としてはこのメッスの地で貴重な戦力を絶対に減らしてはならなかったからでした。


挿絵(By みてみん)

フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン


 これは普参謀本部も同意見で、モルトケ参謀総長はパリ包囲網や周辺から増援を求められても、その「源泉」をメッス攻囲軍に求めることを一切拒絶していたのです。

 モルトケもカール王子と同じく、ガンベタらの尽力で急速に育って行く仏「新軍」の様子を横目にしながら、ひたすらバゼーヌ将軍の「決定」を待ったのでした。


☆ 仏ライン(バゼーヌ)軍


 ノワスヴィルの戦い以降、メッス要塞庇護下で形を潜めた仏ライン軍総司令官フランソワ・アシル・バゼーヌ大将は、「ノワスヴィルの戦い」の報告をナポレオン3世(バゼーヌ将軍はこの時点でセダンの顛末を知りません)に宛て送りますが、その中では未だ強気に「目下の苦境を転換すべく粉骨砕身努力する」と誓っていました。ところが前述通りセダンの捕虜とカール王子の書簡からセダン戦の顛末を確認すると、ライン軍の先行きに大きな不安を抱くようになるのです。

 バゼーヌが心中頼りにしていたマクマオン大将のシャロン軍は消滅し、最早仏本土にメッスの解囲を早急に行える軍勢は存在しませんでした。もしも乾坤一擲、ライン軍がカール王子の包囲網を破って突破に成功しても、既に糧食がかき集められ不毛の地となり果てているであろう数百キロ四方の地を、独軍の追撃を振り切りながら進まねばならないのです。それはバゼーヌ将軍にはとても無理に思え、結局戦闘を避けつつメッス要塞の庇護下で逼塞せねばならなくなったのでした。

 皇帝も捕虜となって帝政が終わり、パリも「あの精悍な独軍」に包囲されようとしている……パリは時節を経ずに多分陥落することだろう、そうバゼーヌらライン軍首脳部が考えたとしても不思議ではありません。とは言え、メッスのバゼーヌ配下は15万以上(元来の要塞守備隊・護国軍や義勇兵を含みます)、このまま何もせずに降伏すれば歴史にセダン同様の屈辱を記してしまうのは間違いありません。気に入らないものの、このメッスで耐乏すれば、やがては各地で「新軍」が立ち上がり、形勢が逆転するかも知れない。バゼーヌ将軍はそんな「甘い他人任せ」の考えで軍をメッスに拘束することに決するのです。


 この「後ろ向きの考え」から、バゼーヌ将軍は前哨線の一部を更に要塞側へ後退させました。同時に8月から綿々と行って来た防御施設の新設や補強の完成を図り、諸分派堡塁の補強と新設工事は9月末、サン=プリヴァ堡を除く全ての外堡で竣工したのです。

 これら新たな小堡塁と小要塞と化した部落、そして拠点となった農場や一軒家などは散兵壕や連絡壕で繋がれ、要塞都市を完全に一周したため、防御に関してはバゼーヌ将軍も一息吐いたのでした。


挿絵(By みてみん)

資材を要塞から運び出す仏兵士


 しかし問題だったのは糧食です。

 これは包囲下に置かれた軍が真っ先に考えるべき、誰の目にも明らかな問題でしたが、既述通りライン軍は完全に包囲下へ置かれるまで備蓄に力を入れていません。

 気付けば「底」が見え始めた軍の兵站部は、急ぎ住民から余剰の食品を買い取って備蓄の足しにしましたが焼け石に水で、9月中旬を過ぎると糧食問題は深刻の度を増し、少なくなった食獣を病院や住民優先に配給したために、早くも9月7日からは馬匹が屠殺されて食肉として軍に配給され始めました。この馬匹の食材化は9月中旬に小麦の不足でパンの供給量が僅かとなると、その代わりとして馬肉が増量されたため、騎兵用戦闘馬匹の著しい減少に至ります。既に8月中より天候不順と糧食不足で多くの馬匹は衰弱しており、騎兵中隊は次々に解隊され、9月末には僅か2個中隊しか組織化出来ませんでした。

 包囲当初(8月下旬)には要塞守備隊(1万ほど)のため5ヶ月、市民と避難民7万人のために3ヶ月半分の糧食を貯蔵していたと言われるメッス要塞ですが、ライン軍14万のためには僅か41日分の糧食と25日分の馬匹飼料(藁・乾草)しか備えていなかったための「当たり前に過ぎる」結果でした。乾草は9月1日に配給停止となり、法外な値段で闇売買されることになります。一部将官を除く多くの士官たちは、泣く泣く愛馬を食肉用の民間屠殺場へ売り払ったものでした。


 このような状況下、将兵はノワスヴィルの戦い以来積極策を放棄してしまったかに見えるバゼーヌ将軍に希望を見出せなくなって行きます。

 将軍は本営をモーゼル西岸でメッス要塞を東に、プラップヴィル分派堡塁を西に仰ぎ見るル・バン=サン=マルタンに置いてここに居住しましたが、部下と連絡を取り合うことはせずに報告だけを受け、ふらりと前線視察に出掛けても仏頂面で兵士たちへの激励もありませんでした。それは配下の将官たちも同じで、各本営に張り付いたまま、無益な一日を過ごしているばかりでした。


挿絵(By みてみん)

ル・バン=サン=マルタンのバゼーヌ軍本営(遠くにメッス大聖堂)


 こうなると焦燥感は民間人ばかりでなく将兵にも広がります。兵士たちはあからさまに不満を口にするようになり、喧嘩も絶えず士官にも反抗の態度を示すようになって行きました。

 この困窮から脱し、地に落ちた士気を回復するため、バゼーヌ将軍は再び要塞からの出撃を考えます。しかしそれは包囲網を破っての脱出行ではなく、独軍前哨線周辺に存在するだろう糧食・物資を強奪するための、いわば「強盗の出撃」なのでした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ