メッス包囲戦(後)/待望されるメッス要塞都市の陥落
☆ 10月末における仏西部戦域の状況(パリ攻囲・前半戦のまとめ)
仏軍がロワール軍を立ち上げ、またパリ北と西方向のアミアン、ルーアンでも北部軍が立ち上がったことで、独軍のパリ包囲は危機に陥ります。
開戦時の仏正規軍が8月の諸会戦とセダン会戦により半減し、残り半数もメッス要塞に封じられた9月、モルトケ始め普参謀本部と独大本営はパリを包囲した(9月19日)ことで戦争は終盤に入ったと判断しました。
確かにパリは巨大で、「革命の都」でもあったため事(=パリ攻囲)は慎重に運ばねばなりませんでしたが、独軍としてはまさか急速に地方で仏「新軍」が立ち上がるとは考えもしなかった節があります。それは錬成もままならず、武器も人間も文字通りの「寄せ集め」ではありましたが、ガンベタを始めとするトゥール派遣部の覇気と尽力を背景に、後備に残されていた貴重な戦力を中核として、ベテランと植民地の士官を中心とした「新軍」の首脳部は、可能な限りの速度(=独が驚嘆した速度)で「素人の集団」を軍の「かたち」に整え、10月中旬頃、パリの南と北西方向の独軍の前に現れたのです。
これにより、200万都市パリを囲むので精一杯だった独軍主力18万は、いつ後方から数万、十数万の敵に襲われるか分からない危険な状況となりました。
パリの後背地は当初より普騎兵師団複数で警戒されていました。しかし10月に入ると義勇兵や国民衛兵によるゲリラ的襲撃が広範囲且つ日常的に行われるようになり、広大な任地をカバーするには全くの兵力不足に陥りました。
これで包囲網から歩兵や砲兵も引き抜かれ、まずは急速に「育つ」パリ南方の仏「新軍」を抑えることになります。これが「フォン・デア・タン兵団」で、アルトネとオルレアンで生まれたばかりの仏ロワール軍を痛撃した兵団は、その後ロワールを越えて橋頭堡を築きました。フォン・デア・タン大将は次第に成長して行く仏第15軍団(ソルドル川流域)と仏第16軍団(ジアンとブロア)に対し攻勢は取らず防御態勢を敷いたのです。
○B第1師団
・B第1旅団 オルレアン市街
・B第2旅団 オルレアン対岸のオリヴェ周辺
○B第2師団(B胸甲騎兵旅団含む) オルレアン西方
○普騎兵第2師団
・第3旅団 オルレアン西方
・第4旅団 オルレアン対岸のロワール南岸一帯
フォン・デア・タン兵団を離れ、パリ南西方へ向かった普第22師団と普騎兵第4師団は、シャトーダンを陥落させた後にシャルトルへ移動し、この地を占領すると西方に向いて布陣し、シャルトル戦に助太刀した普騎兵第6師団はその北、ウール川下流に駐在して西方ノルマンディとブルターニュ方面からの脅威に備えます。
○普騎兵第4師団 シャルトルとその周辺
○普第22師団 シャルトルとその周辺
○普騎兵第6師団 マントノンとその周辺
このウール中流域で西と南とを警戒する3個師団の北には、普騎兵第5師団がいました。
彼らはセーヌ川までの間に布陣しその先に布陣する独マース軍のエプト方面支隊やオアーズ方面支隊と連絡を通します。先述通りこの普近衛槍騎兵旅団とS騎兵師団を中心とする諸隊は、北方及び西方で存在感を示し出した仏北部軍と対面していました。
○普騎兵第5師団
ベルサイユの西、ランブイエの北側からセーヌ河畔マント=ラ=ジョリーまで
○普近衛第2「槍騎兵」旅団ほか
エプト川流域(ジゾー、マニーなど)
○北独騎兵第12「S」師団ほか
オアーズ県(ボーヴェ、クレルモン、クレイユなど)
パリの包囲網は9月19日の包囲戦開始以来、幾度も解囲を謀るパリ防衛軍の攻撃に晒されましたが、その都度仏軍を撃退し痛手を負わせて来ました。
独マース軍と第三軍はその間も防備を固め、包囲陣地は常に強化されて10月中旬から下旬には南部や西部、北東部に一ヶ所数万の兵力が押し寄せても耐えられるような強力な包囲網が完成しました。また、パリ市街を砲撃し南西部で正攻法による攻城作戦が可能となる攻城砲や攻城資材が続々と独本国から届き、弾薬が集積備蓄されていました。
徴発帰りの普軍槍騎兵
セーヌ右岸とマルヌ右岸との間(パリ北西~東)は独マース軍の担当で、その右翼(西)は普第4軍団が担い、面するコロンブ半島の仏堡塁群に対しました。普近衛軍団はその左翼(東)に続き、サン=ドニとドーベルビリエ堡塁に対面し、第12「S」軍団はウルク運河を挟んでマルヌ河畔までを担って、モントルイユからノジャン(=シュル=マルヌ)までのバンセンヌ周辺堡塁群に対しました。
○普第4軍団(普第7、8師団)
アルジャントゥイユ半島からピエールフィット付近まで
○普近衛軍団(普近1、近2、普近衛騎兵師団)
スタンからル・ブールジュまでとビルパント周辺
○北独第12「S」軍団(第23「S第1」、第24「S第2」師団)
ウルク運河沿いのスブランからマルヌ河畔シェルまで
W師団と普第17師団はマルヌとセーヌ合流点周辺に布陣し、S軍団と緊密な連絡を取りました。この左翼(西)セーヌ左岸からは独第三軍主力が並び、パリ南部の分派堡塁群に対しました。第三軍最左翼の普第5軍団とマース軍最右翼の普第4軍団との間、セーヌ河畔にはストラスブール攻囲の後にパリへ参戦した普後備近衛師団が入り、マース、第三両軍を結んでいたのです。
○W師団
ノアジー=ル=グランからボヌーイ=シュル=マルヌまで
○普第17師団
ボヌーイ西からショアジー=ル=ロアのセーヌ対岸まで
○普第6軍団(普第11、12師団)
ショアジー=ル=ロアからライ=レ=ローズまで
○B第2軍団(B第3、4師団、B槍騎兵旅団)
フレンヌからクラマールまで
○普第21師団
ムードン周辺からセーブルまで
○普第5軍団(普第9、10師団)
サン=クルー一帯からブージバルまで
○普後備近衛師団
サン=ジェルマン=アン=レー周辺
家族へ手紙を書く普軍兵士
この独野戦軍の四割強に相当する巨大な軍勢の後方・兵站路は、9月中旬以降にシャンパーニュ地方へ進んだ後備第2師団と、ロートリンゲン、ランス両総督府管轄部隊により守備されていました。
しかし、この長大な連絡路を守備するには慢性的な兵力不足に陥っており、しかもベルダン、ティオンビルなどの要塞は未だ仏軍が籠城して陥落せず、ストラスブールは落としたものの、その南側ライン上流にも仏「新軍」が立ち上がっていた(仏ボージュ軍)以上、対抗する兵力は必要(独第14軍団)で、これら「二次的戦線」にも兵力増が期待されていました。
既に独本土には十数万の仏軍捕虜が存在し、この監視や本土治安にも兵力は欠かせず、東方(ロシア)・北方(デンマーク)・南方(オーストリア=ハンガリー)辺境も「ガラ空き」と言う訳にも行きません。新たに徴兵した新兵の訓練も怠らぬようにしなければならないため、最も消耗頻度の高い中・下級士官やベテラン下士官も一定数を後方に確保しなくてはなりませんでした。このため、前線で消耗する兵力の補充も困難となり始め、定数を確保する前線部隊は少なく、どこもかしこも人手不足に喘いでいました。
この状態で、先の仏「新軍」がパリ解囲に向かった場合、独軍が持ち堪えるかどうかは次第に未知数となっていったのでした。
これを解決する方法はたった一つしかありません。
それは北独第1、2、3、7、8、9、10軍団に予備第3師団(=独野戦軍の四割強でパリ攻囲軍とほぼ同等)が包囲するメッス要塞を一刻も早く陥落・降伏させ、その独第一、第二両軍をパリ攻囲や仏「新軍」と対決させる、という事だったのです。
※10月31日における独第三軍、マース(独第四)軍の兵力数
□ 独第三軍
○パリ攻囲に参加する部隊
*普第5軍団
・歩兵工兵/19,713名
・騎兵(戦闘馬匹)/1,156頭
・各種砲数/84門
*普第6軍団
・歩兵工兵/22,762名
・騎兵(戦闘馬匹)/1,279頭
・各種砲数/84門
*普第11軍団(普第21師団・軍団砲兵)
・歩兵工兵/10,158名
・騎兵(戦闘馬匹)/497頭
・各種砲数/48門
*B第2軍団
・歩兵工兵/20,973名
・騎兵(戦闘馬匹)/2,732頭
・各種砲数/102門(砲兵1個中隊を加増)
*普第17師団(一部除く*)
・歩兵工兵/10,111名
・騎兵(戦闘馬匹)/1,166頭
・各種砲数/36門
(*ナンシー西のトゥールに歩兵1個大隊・後備第2師団に騎兵1個連隊を派遣中)
◇ 総 計
・歩兵工兵/106,792名
・騎兵(戦闘馬匹)/8,467頭
・各種砲数/426門
○パリ以外で従事する部隊
*B第1軍団(オルレアン方面以外も含む*)
・歩兵工兵/20,329名
・騎兵(戦闘馬匹)/2,154頭
・各種砲数/118門
(*本国より歩兵2個大隊・騎兵4個中隊を加増。普騎兵第5師団に歩兵2個大隊、普騎兵第6師団に歩兵1個大隊、普第22師団に砲兵3個中隊、捕虜輸送任務に歩兵1個中隊を派遣中)
*普第22師団
・歩兵工兵/7,622名
・騎兵(戦闘馬匹)/565頭
・各種砲数/36門
(*10月末、野戦砲兵第11連隊の重砲第4中隊と軽砲第6中隊が加入)
*普騎兵第2師団
・騎兵(戦闘馬匹)/3,063頭
・各種砲数(騎砲)/12門
*普騎兵第4師団
・騎兵(戦闘馬匹)/2,725頭
・各種砲数(騎砲)/12門
*普騎兵第5師団
・騎兵(戦闘馬匹)/4,736頭
・各種砲数(騎砲)/12門
*普騎兵第6師団
・騎兵(戦闘馬匹)/2,711頭
・各種砲数(騎砲)/6門
◇ 総 計
・歩兵工兵/27,951名
・騎兵(戦闘馬匹)/15,954頭
・各種砲数/196門
□ 独マース(第四)軍
○パリ攻囲に参加する部隊
*普近衛軍団
・歩兵工兵/20,938名
・騎兵(戦闘馬匹)/3,410頭
・各種砲数/90門
*普第4軍団
・歩兵工兵/19,368名
・騎兵(戦闘馬匹)/1,103頭
・各種砲数/72門
*第12「S」軍団
・歩兵工兵/21,589名
・各種砲数/84門
◇ 総 計
・歩兵工兵/61,895名
・騎兵(戦闘馬匹)/4,513頭
・各種砲数/246門
○パリ以外で従事する部隊
*普近衛軍団のうち
・歩兵工兵/2,327名(オアーズ県方面)
・騎兵(戦闘馬匹)/1,129頭(エプト川方面)
*普第4軍団のうち
・歩兵工兵/1,649名(エプト川方面)
・各種砲数/12門(エプト川方面)
*第12「S」軍団のうち
・歩兵工兵/816名*
・騎兵(戦闘馬匹)/3,268頭(オアーズ県方面)
・各種砲数/12門(オアーズ県方面)
(*この歩兵1個大隊はソアソンとその南西、ヴィレ・コトレに駐屯)
◇ 総 計
・歩兵工兵/5,792名
・騎兵(戦闘馬匹)/4,397頭
・各種砲数/24門
※この他、W師団(大本営直轄)と普後備近衛師団(第14軍団)がパリ攻囲に参加しており、その総兵力は歩兵2万数千、騎兵千数百、砲60門前後となります。
普第32連隊のカザール突入(セダン70.9.1)
☆ セダン会戦後(ノワスヴィルの戦い直後)のメッス攻囲軍
メッス攻囲軍司令官、フリードリヒ・カール・フォン・プロイセン親王騎兵大将は、仏ライン軍司令官バゼーヌ大将が「ノワスヴィルの戦い」で敗れたことにより北~北西方向への突破を断念したと信じ、包囲の重心をそれまで薄い兵力分布だった要塞南面に移すことに決し、9月7日、軍本営をマランクール(サン=プリヴァの北北東4キロ)からコルニー(=シュル=モセル。メッス/大聖堂の南南西12.7キロ)へ移転しました。
ノワスヴィルの戦い最中から着手されていた普第8軍団と普第7軍団の右翼(南)方移動はそのまま続けられ、その第一線部隊はモーゼル川西岸のジュシー(メッスの西南西6.9キロ)から東岸のサン・ティエボー・フェルム(農場。同南6.5キロ)までに陣を構えました。
この右翼(東)側ではシニー(同南東8.8キロ)とラクネイー(シニーの東北東5.7キロ)に分かれて集合する普第13軍団(普第17師団、普後備第2師団)があり、その前哨はコロンベイ(メッスの東南東6.3キロ)まで派遣され、その北に普第1軍団が変わらず構えて左翼(南)端はルトンフェ(同東9.5キロ)に進みました。
ノワスヴィルの戦い終了後にモーゼル西岸へ戻った普第9軍団はグラヴロットへ進んで、その1個師団は普第8軍団の去ったジュシー~シャテル=サン=ジェルマン(同東6.8キロ)の陣地線に入ります。この軍団左翼(北)側にはヴェルネヴィル周辺に集合した普第3軍団から1個師団が進んでソルニー(同北西6.8キロ)までの地域を守備し、その北に連なる普第10軍団と連絡を付けました。この包囲網南西側後背には、北西方向への行軍から戻った普第2軍団が進み、配下の普第4師団はルゾンヴィル周辺で、同第3師団はゴルズ~ノヴィアン(=シュル=モセル。同南22.2キロ)間でそれぞれ陣を敷きました。
焼け落ちたモスクワ農場(グラヴロット会戦後)
ところが普大本営は、9月10日に落ち着く間もない普第13軍団に対して「トゥール要塞討伐とシャンパーニュ地方進出を行え」と命じ、メッス攻囲軍は9月11日から18日に掛けて更に包囲網の再構築を行ったのです。
この移動により、包囲網北東の普第1軍団は、その北側を担当していた普予備第3師団より後備歩兵3個大隊を迎え入れ、軍団の任担範囲は普第13軍団の抜けた穴を埋めるため更に南のアル=ラクネイーからメッス大街道(現・国道D955号線)までに延伸されました。
このメッス大街道から西側が新たな普第7軍団の任担地で、街道からセイユ川までを担当しました。その西に展開した普第8軍団は、9月18日には右翼(東)端がセイユ川を越えてマルリー(メッスの南南東18.5キロ)東の高地尾根へ進み、これに従って普第7軍団の右翼も10日前まで第13軍団前哨のいたコロンベイまで進み、些か戦線が延び切っていた普第1軍団の前衛と交代したのでした。
モーゼル西岸地区では、普第8軍団が完全にモーゼル東岸へと去ったため、ジュシーとアル(=シュル=モセル)の陣地帯には普第9軍団の第25「ヘッセン大公国」師団が入りました。
それまでモーゼル西岸地区後方に控えていた普騎兵第1師団は、その頃仏バゼーヌ軍の集成騎兵集団がメッス南郊外のモンティニー(=レ=メッス)からモーゼル沿岸を南下する気配を見せたため、カール王子に命じられてモーゼルを渡河しフェ(メッスの南21.3キロ)に進みましたが、9月中旬過ぎに警戒が解け、その後は普第7軍団に隷属してセイユ川も渡り、メッス大街道脇のポントワ(同南東27.4キロ)周辺で宿・野営しています。
同じく普騎兵第3師団は9月5日以来コアン=レ=キュヴリー(同南9.7キロ)にあって普第8軍団後方を警戒し、3個大隊を第1軍団に渡して小規模となった普予備第3師団は、そのままメッス北方のモーゼル東岸地区で陣を敷き続けました。
会戦後17日のサン=テュベール農場(遠方にグラヴロット)
普仏開戦直後(70年7月下旬)、普70「ライン第8」連隊と同第68「ライン第6」連隊はそれぞれザールルイ要塞とコブレンツ要塞の守備隊として配置されていました。これがセダン会戦後の9月上旬、普第8軍団に編入され、入れ代わりに第72「チューリンゲン第4」、67「マグデブルク第4」の2個連隊が軍団を離れ、捕虜が急速に増加した独本土警備を命じられて帰国します。
第68、70両連隊への命令と同時に、ケルン守備から後方連絡線守備に廻っていた第65「ライン第5」連隊も第8軍団への編入命令を受けますが、こちらはそれ以前に別任務(後述のボートマー支隊参加)を受けたため、その任務終了後にメッスへ向かうことになりました。
8月下旬から9月上旬に掛けてメッス攻囲軍に到着した独本土からの補充部隊は、8月中旬の大会戦で員数を減らした各部隊を定員近い兵力にまで復活させましたが、セダン会戦の結果、十万を軽く越える捕虜の輸送と本国警護という大問題がメッス攻囲軍にも降りかかり、モーゼル川以東(ポンタ=ムッソンからサルグミーヌ、ザールブリュッケンを経てライン川付近まで)の捕虜護送という一大プロジェクトは攻囲軍の兵力を長時間拘束し減衰させたのでした。
※この9月4日から始まった捕虜護送に従事した兵力は歩兵14個大隊・騎兵6個半中隊に及び、最後の部隊が原隊復帰したのは9月25日となってしまいます。
※メッス攻囲軍の9月末における総兵力
・士官/4,429名
・下士官・兵卒/192,897名
・馬匹(牽引・輸送含む)/33,136頭
・各種砲数/658門
このメッス攻囲軍以外に、メッス北のティオンビル(独名・ディーデンフォーフェン)とメッス西のベルダン2つの大要塞都市を監視・攻撃する部隊が用意されていました。
開戦時はケルン要塞と市街防衛の責任者だったルートヴィヒ・フリードリヒ・エルンスト・フォン・ボートマー中将はティオンビル攻撃の命令を受け、支隊を率いてティオンビル周辺に到着しました。ところがその直後の9月3日、命令が大きく変更され、将軍はセダンとメッス攻囲軍との間を連絡し、ベルダン要塞を攻略するよう改めて命令されたのです。
ティオンビル要塞都市は、同じく要塞攻撃を目前としていた予備騎兵第3旅団長カール・テオドール・フォン・ストランツ少将率いる支隊に任されるのでした(ここに至るまでの経緯は「メッス包囲戦(前)/バゼーヌ軍包囲突破を謀る」参照)。
なお、8月下旬にベルダン監視の任を受けていた普槍騎兵第9「ポンメルン第2」連隊は9月中旬、原隊の騎兵第1師団に復帰し、一時同師団に預けられていた普驃騎兵第3「ブランデンブルク/ツィーテン」連隊が普騎兵第6師団に原隊復帰となってパリ包囲陣へ進んでいます。同じくメッスの包囲初期、マース軍新設の際に独第二軍へ残留していた第12(S)軍団と普近衛軍団の架橋縦列と所属工兵大隊は、これも原隊復帰を命じられて普驃騎兵第3連隊と同行しパリに至っています。
ロンクール近郊 散兵線に使用された石積の境界壁
※ ボートマー支隊(9月上旬)
〇普歩兵第65「ライン第5」連隊
・第1・第2・F大隊
○後備歩兵第28「ライン第2」連隊
・「ジークブルク」大隊
・「ブリュール」大隊
○後備歩兵第68「ライン第6」連隊
・「ノイス」大隊
・「ドイツ」(ケルン市ライン東岸地区)大隊
○予備驃騎兵第4連隊
○第7軍団・予備重砲中隊
※ストランツ支隊(原隊は予備第3師団/9月上旬)
〇予備驃騎兵第3連隊
〇予備重騎兵第2連隊
〇後備歩兵第59「ポーゼン第4」連隊・「オストロヴォ」大隊
なお、独第一軍兵站総監部麾下の戦闘部隊だった後備歩兵第25「ライン第1」連隊のユーペン後備大隊は、10月中旬以降ストランツ支隊へ参加しています。
セダン会戦後(即ちノワスヴィルの戦い後)。メッス攻囲軍では、目立つ将官の人事異動が発令されました。
独第一軍司令官としてメッス攻囲の一翼を担っていたカール・フリードリヒ・フォン・シュタインメッツ歩兵大将は9月15日、ポーゼン州総督(知事)を命じられて包囲網を去る事になります。後任はシュタインメッツ将軍を煙たがっていたカール王子で、これで第一と第二軍の司令官を兼任することになりました。
この異動はいわゆる「誰もが見て見ぬ振りをする」人事で、開戦からこれまで、時に参謀本部の「期待」を裏切り、時にカール王子やマントイフェルら同僚将官との諍いを演じた老将軍、普墺戦争直後に再婚した52歳も年下の妻に「骨抜き」にされた、との陰口も囁かれていた「ナーホトのライオン」に対し、普軍首脳部が「引導」を渡した、と言うことだったのです。
既に同期は全て野戦軍を去って名誉職に就いているか引退後の余生を送っている(当時73歳。モルトケの3歳年上です)老将軍は、この「左遷」を受けて国王に宛て辞表を提出しています。しかし、普墺戦争において「ひとりで3個軍団を撃破した」将軍を大好きだったヴィルヘルム1世(シュタインメッツは国王の戴冠時にケーニヒスベルクの第1師団長であり、式典では閲兵隊長を務めました)は、この辞表を受け取ると、自ら返答を認め辞任を許可しませんでした。国王はこの中で「朕は貴官の功績と奉公に報いるため、このような次第より貴官を護る責務を負う」と記し、カール王子を筆頭として若手のエリート士官を中心に巻き起こっていた悪評や非難から老将軍を庇っています。怒りと傷心を秘めたシュタインメッツ将軍は9月26日、戦場と正反対方向のポーゼンに向け旅立って行きました。
シュタインメッツ将軍は普仏戦争終戦時(71年4月8日)に元帥へ昇進しますが、再び退役を願い出て認められ、引退生活に入ります。
1877年の夏、シュタインメッツは湯治に訪れたニーダー・シュレジエンのバート=ランデック(現・ポーランドのロンデク=ズドルイ)で心臓発作を起こし死去しました。享年80歳。その場所は奇しくも11年前に普第5軍団を率いてボヘミアへ侵攻する前に待機したグラーツ(現・ポーランドのクウォツコ)の近く、「ナーホトのライオン」との渾名が付いたナーホトの街から、東に僅か50キロの場所でした。
シュタインメッツ将軍(1870)




