パリ包囲網の後方事情(10月末まで)
☆ パリ包囲網南東側後方・セーヌ川流域の事情
フォン・デア・タン兵団によるオルレアンの攻略とそれに続いたシャトーダン、シャルトルの占領が行われていた頃。その反対側となるパリの南東方地方フォンテーヌブローの森(パリ・シテ島の南南東56キロ、フォンテーヌブローを囲む形で存在する大森林地帯)から東側セーヌ河畔においても独軍と義勇兵を中心とする仏兵力の衝突がありました。
普驃騎兵第13連隊のある斥候隊は9月30日、シャンダイユ(フォンテーヌブローの北24キロ)付近で仏義勇兵の一団と遭遇し攻撃を受けますが、被害ゼロで襲撃を切り抜け帰還しています。
10月に入ると、更に東側セーヌ河畔のモントロー(フォンテーヌブローの東18.8キロ)とノジャン=シュル=セーヌ(モントローの東北東42キロ)付近でも所属不明の「武装集団」が出没し、彼らは北上して独第三軍の後方連絡線を脅かし、単騎や少数の斥候、巡視、輸送の各隊を襲撃しました。
10月21日には、後方連絡線防衛強化のためナンジ(モントローの北19.5キロ)に向かって行軍していたヴュルテンベルク王国(W)師団の部隊(W第3連隊第1中隊とW騎兵第3連隊第2中隊からの1個小隊)が、グランピュイ(=バイイ=カロワ。ナンジの北西4.8キロ)に差し掛かったところ、仏護国軍と義勇兵の混成集団が襲来し乱戦となり、W部隊はこれに落ち着いて対処して、仏側は死傷者・捕虜併せて約50名の損害を被り後退して行きました(W部隊側は10名が死傷)。
このW部隊が捕らえた捕虜は尋問の結果、「仏軍の一大部隊がナンジに集合し北上しようと企てている」ことを白状しました。
至急報で事態を知った第三軍本営は、ナンシーからの鉄道端末・ナンテイユ(=シュル=マルヌ)よりビルヌーブ(=サン=ジョルジュ)のセーヌ渡河点まで後方連絡線上を輸送中のパリ砲撃用攻城砲が危険に晒されることに気付き、W師団に対し「一支隊を至急、後方連絡線付近まで派遣せよ」と命じました。
これを受けてW師団司令部は、W第3連隊第2大隊長のフォン・シュレーダー中佐を長とする支隊*を設けて21日の夕刻、主要後方連絡線上のトゥルナン(=アン=ブリ。ナンジの北西27.5キロ)へ出発させました。
胸甲騎兵に護られる普軍の糧食補給部隊
※10月21日のフォン・シュレーダー支隊
○W第3連隊・第2大隊
○W騎兵第3連隊・第2中隊の半個(2個小隊)
○W砲兵第7中隊の1個小隊(2門)
シュレーダー支隊は22日、まずは義勇兵を中心とする仏武装集団がいると言われていたナンジに到着しますが、敵は既に去った後でした。
支隊は「義勇兵の巣窟」と考えられたセーヌ河畔に向かって南下することとなり、翌23日にはマロール(=シュル=セーヌ。ナンジの南19キロ。モントローの東側近郊)付近でセーヌを渡河、バリケードなど障害物に囲まれたモントローに進み、南側から侵攻しますが、ここにも仏武装集団は存在しませんでした。
支隊は、抵抗こそなかったものの武器を隠し持っていた市民たちから武器を押収し、更に敵を求めてセーヌ川沿いに東へ進みます。
25日にノジャン(=シュル=セーヌ)近郊に進んだ支隊は、ここで初めて仏護国軍部隊の散兵線に衝突し、一時激しい銃撃戦となりました。しかし、W支隊が2門の砲でこの散兵線を榴弾砲撃し始めると、砲兵のいなかった仏軍は急ぎ市街へ撤退し始め、これをW騎兵が襲撃して四散・潰走させました。
ノジャンを守備する仏軍は、市街西郊に点々とする小部落に拠点を設けて防衛線を築いています。W将兵はこの拠点に向け突撃を敢行し、猛烈な銃火を冒して拠点を一つずつ占拠して行きました。
続いてW砲兵は市街南郊の墓地を囲む隔壁に頼る仏兵を砲撃し、W歩兵はここにも突進して仏兵を駆逐すると墓地を占拠しました。
こうして周辺部の拠点を次々に失った仏護国軍部隊は、市街家屋に籠もって頑固に抵抗しましたが、W支隊の容赦ない攻撃で死傷者が続出し、やがては順次トロア(ノジャンの南東47キロ)方面へ撤退して行ったのです。
一連の攻撃で仏護国軍は約600名の捕虜・死傷者を出し、W支隊は陣頭指揮中に負傷したフォン・シュレーダー中佐始め約50名の損害(戦死9名・負傷45名・不明1名)を出しました。
この攻撃を最後にシュレーダー支隊は西へ向かい、10月27日、ポントー=コンボー(ビルヌーブ=サン=ジョルジュの北東14キロ)のパリ包囲網W師団管区へ帰還しました。この遠征6日間におけるシュレーダー支隊の踏破距離は、200キロを軽く越えています。
☆ パリ包囲網北西側後方・オワーズ、エプト、アンデル川流域の事情
同じ9月末から10月に掛け、パリの北、オアーズ川(ベルギーの南部から仏北部へ流れ、パリ北西のコンフラン=サントノリーヌ付近でセーヌに合流する支流)流域でも仏義勇兵の集団が跋扈し、独マース軍によるパリ包囲網の後方を脅かしたため、こちらでも各地で独仏軍隊の衝突が相次ぎました。
基本的にパリから北西方向に流れるセーヌ川下流域(主要都市はコンフラン=サントノリーヌ 、マント=ラ=ジョリー、ベルノン、ルーアン、ル・アーブル)とその北方|(ボーヴェ、アミアン)方面に対する独軍の「スタンス」は「警戒」で、10月末まではモルトケらにとって「包囲網の後方・糧食調達地域」に過ぎず二次的な戦線でした。
そのため、斥侯・巡視隊が巡回し、徴発隊や補給部隊が行き来するだけのこの地域(ピカルディ西部からノルマンディ)では、9月下旬より多数の義勇兵部隊(エクレルール/斥候兵やテュライヤール/狙撃兵を名乗る諸部隊)が出現し、これらの部隊は地方を守備する護国軍や国民衛兵部隊と肩を並べて行動し、独の斥侯や補給隊を襲います。
特にマース軍を悩ませたのは、リスル=アダン(サン=ドニの北北西22.2キロ)付近の森林地帯と、更にオアーズを上流に行ったクレイユ(サン=ドニの北北東37キロ)方面に出没する義勇兵たちで、彼らは独軍の斥候や糧食徴収隊を襲って度々損害を与えており、これに手を焼いていたマース軍司令官アルベルト・ザクセン王太子は「オアーズ下流域(セーヌとの合流点からクレイユ付近まで)を占領して、サン=ドニからクレイユ付近まで延びる鉄道の修理を開始し、安全な運行を可能とせよ」と命じるのです。
義勇軍猟兵
この頃(9月下旬)、既にシャンティイ(サン=ドニの北北東30キロ。凱旋門賞で有名な競馬場があります)に進出して同地に設けられた軍の糧食・器材倉庫を警護していた普近衛第2連隊フュージリア(F)大隊は9月26日、同じ命令を受け前進して来たザクセン王国(S)騎兵師団(北独第12騎兵師団)と合流するとクレイユに向けて発ちました。
翌27日、その前衛はほぼ無抵抗でクレイユ、クレルモン(クレイユの北北西14キロ)を次々と占領し、S騎兵師団は前哨支隊を一気にボーヴェ(クレイユの北西37キロ)まで進め、このピカルディ地方オアーズ県の県都も無血占領するのです。
その後S騎兵と普近衛歩兵たちは、順次シャンティイやクレイユ、クレルモン、ボーヴェといった主要都市に守備隊を置くと、仏のゲリラ的攻撃から包囲網後背地を防衛しますが、このままでは到底兵力が足りず、やがて普近衛第2連隊の残り(第1、2大隊)とS騎砲兵第2中隊が加わったのでした。
このS騎兵師団の左翼(南西)側では、普近衛槍騎兵第3連隊が9月26日、オアーズ川下流域とその東方森林地帯を捜索し、翌27日ショヴリー(サン=ドニの北北西14.8キロ)に進んでいた普第71「チューリンゲン第3」連隊第1大隊(普第15旅団所属)の援護を受けて周辺の国民衛兵や義勇兵部隊と戦い、これを駆逐しつつリスル=アダンに達します。
リスル=アダンの街は、この普槍騎兵たちが去った直後に戻って来た義勇兵により解放されますが29日、ボーモン=シュル=オアーズ(リスル=アダンの北東6キロ)目指して行軍して来た、普近衛槍騎兵第1連隊・普第27「マグデブルク第2」連隊第1大隊・野砲兵1個小隊(2門)・工兵第4大隊の1個中隊による混成支隊から攻撃を受け、義勇兵たちは勇敢に抵抗しますが結局は付近の森へ逃走し、リスル=アダンは再び普軍の支配下に入りました(普軍の死傷は21名)。
リスル=アダンを確保したこの支隊は、S騎兵師団の左翼側と連絡しつつエプト川(ルーアンの北西側山地を水源にベルノン付近で合流するセーヌ川支流)下流域を確保するべく進んで来たもので、10月に入ると前述の普近衛槍騎兵第3連隊も支隊に合流し、これ以降、普近衛騎兵第2旅団長のヴィルヘルム・アルブレヒト・プロイセン親王少将(普騎兵第4師団長の子息・国王の甥)が指揮を執ることになります。
仏護国軍と義勇兵の戦い
※ヴィルヘルム・アルブレヒト親王率いる「エプト方面」支隊
◇普近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団
○普近衛槍騎兵第1連隊
○普近衛槍騎兵第3連隊
○普第27「マグデブルク第2」連隊・第1大隊
○普野戦工兵第4大隊・第1中隊
○普野戦砲兵第4連隊・騎砲兵第3中隊の1個小隊(2門)
独マース軍はこのように強力な「機動部隊」をオアーズ河畔に配置し、その斥候・巡視隊はポントアーズ(サン=ドニの北西23キロ)からルザルシュ(サン=ドニの北20キロ)に至るまで広範囲に足繁く警邏を行ったため、役人や住民は独軍の報復を恐れて義勇兵や国民衛兵らと関係を断ち、独軍に対し恭順となって行きました。10月中旬にはゴネス(サン=ドニの北東8.6キロ)~シャンティイ~クレイユ~クレルモン~ボーヴェと結ぶ鉄道が復旧して運行を開始、各地ではそれまで閉ざされていた市場も開きます。
この市場では独軍も大量の糧食を購入し、生真面目な独軍は支払いも滞りなくしかも高額で買い入れたため、ますます住民たちは「大人しく」なり、独軍監視下とはいえ普段の生活へと戻って行きました。こうしてピカルディ地方南部・オアーズ県からは義勇兵の姿も次第に消えて行ったのでした。
しかしルーアンやアミアン(パリの北115キロ。ルーアンの北東100キロ)を中心とする独軍支配地域の直ぐ外側では、義勇兵と国民衛兵が混在した武装集団が変わらず徘徊を続けており、独軍の斥候たちは至る所でこれら武装集団と交戦し、また、未だ独支配圏外のピカルディ地方北西部・ソンム県(県都アミアン)からノルマンディー地方(ルーアン、ル・アーブル、カーン、シェルブール等)に掛けて、仏軍の大軍団が形成されつつあるとの根強い噂や兆候が見え隠れしていたのです。
10月1日。ブルタイユ(アミアンの南29キロ)の南方に野営していた仏武装兵2,000名余りは、長距離偵察に及んだS近衛ライター(軽)騎兵連隊第1中隊の姿を見ると戦わずにアミアン方面へ撤退し、翌2日にはこれも長距離偵察に進んだ槍騎兵第18「S第2」連隊第2中隊は、グルネー(=アン=ブレイ。ボーヴェの西26.3キロ)で仏軍の驃騎兵部隊と義勇兵の集団に遭遇し、短時間ですが交戦状態となり損害が大きくなる前に退却しています。
10月初頭。マース軍司令官アルベルト・ザクセン王太子は「戦況は我に有利で、無理せずもっと支配領域を広げられるはずだ」と踏み、オアーズ流域の全部隊に対し、「更に西へ進出するよう」命じました。
この命令を受け、ボーモン=シュル=オアーズ付近のヴィルヘルム・アルブレヒト親王率いる諸隊はメリュ(ボーモン=シュル=オアーズの北西15キロ)を経由してエプト川下流域に向け前進し、10月9日、ジゾー(ボーヴェの南西28キロ)とマニー(=アン=ヴクサン。ジゾーの南14キロ)に到着してこれを直ちに占領、同地に宿営しました。
このジゾー周辺の森には義勇兵が潜んでいましたが、普軍はジゾー郊外へ到着した折りに気付いて数発榴弾を発射しただけで追い払いました。
翌10日にはS騎兵師団も前衛がボーヴェから出立し、敵の接近を知って国民衛兵や義勇兵が去ったグルネーの街へ向かい、一時占領に成功します。しかしこちらは些か独軍支配地から遠過ぎ危険だったため、S騎兵たちは数日でボーヴェへと帰還しています。
前進した諸隊は今までと同じく、強力な偵察斥候隊を西と北に向けて放って仏軍の状況を探り続けました。
こうした中、S騎兵師団長でオアーズ川流域クレルモンとボーヴェを抑える伯爵フランツ・ヒラー・フォン・トゥール・リッペ中将(セダン後に昇進しました)は、「仏護国軍部隊がソンム/オアーズ県境のブルタイユとモンディディエ(ブルタイユの東19.5キロ)に進出した」との情報を得ると、10月12日、これに先制攻撃を掛けるため、まずはブルタイユに向け二方向から攻撃隊を出撃させました。
クレルモンから出立した諸兵科混成の「フンケ支隊」*は、先行してブルタイユを襲撃します。不意を突かれた仏護国軍部隊は一旦市街を捨てて郊外へ下がりますが、やがて態勢を整えて逆襲に転じ、ブルタイユ市街に攻撃を仕掛けました。ここにタイミング良くボーヴェから出撃した強力な「ピルサッハ支隊」*が到着し、両支隊はその砲兵が協力して、襲い来る仏護国軍部隊に対し至近距離から砲撃を見舞い、また歩兵や騎兵は集中射撃を行ってこれを撃退するのでした。
これで北向する街道(現・国道D1001号線)をアミアンに向け逃走に転じた仏護国軍部隊は、ブルタイユ市街を東へ迂回し全速力で北上したS近衛ライター騎兵連隊第1中隊による側面襲撃を受けて潰走し、逃げ遅れた約30名は捕虜となったのです。
この「ブルタイユの戦闘」で仏軍側は約70名を失い、独軍側の損害は負傷者わずか6名でした。
※10月12日「ブルタイユの戦闘」における独軍部隊戦闘序列
◇フンケ支隊(S近衛ライター騎兵連隊長代理フォン・フンケ少佐指揮)
○普近衛歩兵第2連隊・第3,4中隊
○S近衛ライター騎兵連隊
○S騎砲兵・第2中隊の2個小隊(4門)
◇ピルサッハ支隊(騎兵第24「S第2」旅団長ゼンフ・フォン・ピルザッハ少将指揮)
○普近衛歩兵第2連隊・第2大隊
○槍騎兵第18「S第2」連隊
○Sライター騎兵第3連隊・第5中隊
○S騎砲兵第1中隊
10月17日には再びクレルモンからフンケ少佐が支隊*を率いて出撃し、今度はモンディディエを襲います。
こちらの仏護国軍部隊は先のブルタイユの部隊より戦意が乏しかったのか、フンケ少佐が砲兵に命じて発した数発の榴弾だけで街から逃走し、これも同様に追撃を行ったS近衛ライター騎兵連隊第2中隊により約180名が捕虜となっています。
※10月17日・モンディディエにおけるフンケ支隊戦闘序列
○普近衛歩兵第2連隊・第3中隊
○S近衛ライター騎兵連隊・第2,3,5中隊
○S騎砲兵・第2中隊の2個小隊(4門)
一方、エプト川下流域では、ジゾーとマニー(=アン=ヴクサン)に駐屯する普近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団が、セーヌ河畔のマント=ラ=ジョリー(セーヌ河畔。マニーの南南西19キロ)に前哨を置く普騎兵第5師団と連絡を付け、ルーアン方面を警戒していました。
このルーアン方面への偵察行は度々試みられていましたが、10月中旬に西方偵察の強化を命じられた旅団長のヴィルヘルム・アルブレヒト親王は斥侯隊をエクイ(ジゾーの西25キロ)からガニー(セーヌ河畔。マニーの南西15キロ)へ送り、この隊は同地で仏武装集団と接触して少時銃撃戦となりました。義勇兵を中心とする仏軍は西側アンデル川(ルーアン北西方セルキュー付近を水源にリヨンの森を経てセーヌに注ぐ支流)方面と南東のベルノン(セーヌ河畔エプト河口。マニーの西南西23キロ)方向の森林地帯へ逃走し、普槍騎兵斥侯隊はこれを追いましたが、それぞれの方向には仏軍のまとまった集団がおり、追撃を断念しました。
10月19日になると、ジゾーから発した別の斥侯隊がエトレパニー(ジゾーの西北西12.3キロ)で銃撃を受け、報告を受けたヴィルヘルム・アルブレヒト親王は「西方の仏軍を掃討する」として翌20日、歩兵や砲兵を含めた「エプト方面支隊」のほぼ全力を率いて出撃します。
エトレパニー前面のラ・ブロッシュの農場(エトレパニーの東北東2.3キロ。現存します)とラ・エロヌリーの農場(ラ・ブロッシュの北1.6キロ。現存します)周辺の林には仏軍の前哨がいましたが、普軍によりたちまち駆逐され、勢いに押された仏軍はエトレパニーからも撤退しました。
この仏軍は北西方向へ後退し、ノジョン=ル=セック(現・ノジョン=アン=ヴェキシン。エトレパニーの北西4.5キロ)で救援に駆け付けた仏軍部隊に収容されます。エプト方面支隊は翌日、ジゾーとマニーへ帰還しました。
エトレパニーの市街(19世紀末)
ヴィルヘルム・アルブレヒト親王は22日、歩・騎兵2個中隊ずつと砲兵1個小隊でベルノンに対し偵察を行い、仏軍がこの方面のセーヌ川橋梁を全て爆破し落としており、仏軍は全て対岸(この地では南岸)に引き上げている事を知りました。対岸では義勇兵が気勢を上げて普偵察隊に銃撃を行いますが、川を渡る気配はなく、「エプト川方面が南方から攻撃される心配はない」と確信するのです。しかしこの偵察隊は油断したのか帰途、深いベルノンの森(ベルノンのセーヌ対岸北西方向に現在もあります)で仏義勇兵により襲撃され、4名の死傷者を出してしまいました。
ところが、10月下旬に入ると、独斥侯各隊と諜報等により仏軍がアンデレ川方面に集中し、ボーヴェやエプト川方面へ攻勢を取るのでは、と思われる報告が相次ぎ、10月20日、ヴィルヘルム・アルブレヒト親王の「エプト方面支隊」へ増援として、普第27連隊残り2個(第2、F)大隊や普野戦砲兵第4連隊の騎砲兵第3中隊残2個小隊(4門)と同重砲第2中隊がポントアーズからジゾーに向けて出発するのです。
※10月下旬・マース軍のオアーズ~エプト沿岸派遣部隊戦闘序列
◇トゥール・リッペ支隊(S騎兵師団長フォン・トゥール・リッペ中将指揮)
※クレイユ、クレルモン、ボーヴェに駐屯
□北独騎兵第12「S」師団
*北独騎兵第23「S第1」旅団
○S近衛ライター騎兵連隊
○槍騎兵第17「S第1」連隊
*北独騎兵第24「S第2」旅団
○Sライター騎兵第3連隊
○槍騎兵第18「S第2」連隊
○S騎砲兵・第1,2中隊(12門)
□普近衛歩兵第2連隊・第1、2、F大隊
◇エプト方面支隊(普近衛騎兵第2旅団長ヴィルヘルム・アルブレヒト親王少将指揮)
※エプト川下流域・ジソー、マニーに駐屯
□普近衛騎兵第2「槍騎兵」旅団
○普近衛槍騎兵第1連隊
○普近衛槍騎兵第3連隊
□普第27「マグデブルク第2」連隊・第1、2、F大隊
○普野戦工兵第4大隊・第1中隊
○普野戦砲兵第4連隊・騎砲兵第3中隊
○普野戦砲兵第4連隊・重砲第2中隊
ボーモン=シュル=オアーズとポントアーズにあったオアーズ川橋梁は仏軍退却の折に爆破されていましたが、独軍工兵は9月末ボーモン=シュル=オアーズに軍舟橋を仮設した後、固定木橋を架橋しました。ポントアーズでは10月21日になって軍舟橋が架かります。このポントワーズの舟橋は、エプト方面支隊とパリ包囲網とを結ぶ重要な橋となりました。
エトレパニーでの戦闘後しばらくは、仏軍側は義勇兵を中心とする斥侯・騒擾部隊をエプト川方面へ出撃させる程度で、エトレパニーの北方では度々斥侯同士の遭遇戦が発生しました。しかし10月以降ルーアン(ポントアーズからは北西に85キロ)周辺に集合を始めた仏護国軍部隊(セーヌ=アンフェリウール、ウール、オルヌ、カルヴァドス、マンシュの各県部隊)はこの10月中旬で約14,000名となり、主力はジゾーへの街道(現・国道D6014~D181~D10号線)とグルネー(=アン=ブレイ)への街道(現・国道N31号線)に進んでフルーリー(=シュル=アンデル。ジゾーの西北西31.6キロ)やラ・フイリー(ボーヴェの西41.2キロ)周辺に宿営し、ルーアンと大西洋岸セーヌ河口のル・アーブル(ルーアンの西72キロ)に各2個大隊が駐屯して堡塁の築造が始まりました。
ピカルディ地方で独軍支配下にないソンム県では、ブルタイユとモンディディエ2つの戦闘後しばらくは、仏北辺部の仏護国軍部隊(ソンム、パ・ド・カレー、ノール、エーヌ県)のアミアン集合に傾注し、部隊編成を急ぎました。こちらも10月末になるとS騎兵師団の偵察と諜報などから「アミアン~ルーアン鉄道沿いに展開して主要部落に拠点を設けて宿営している」ことが知られ、この仏北辺境の部隊とルーアン、ル・アーブルの部隊の統括司令官に前・仏近衛軍団長のブルバキ将軍が任命されたと知れたのです。
ブルバキ将軍はメッス包囲下でバゼーヌ将軍らの要請を受け、ルクセンブルクの赤十字訪問団に紛れてメッスを脱出、ルクセンブルクからベルギーを経て英国へ渡り、前皇后と会談して独との和平交渉を探りますが失敗、再び海を渡ってルクセンブルクに戻りました。この地で一度はメッスへ戻るよう画策しますが失敗し、それではとパリへ赴こうとしますがこれも失敗、諦めてトゥール派遣部へ出頭し、ガンベタらによって「北部軍」司令官に任命され10月20日にリール(ベルギー国境に近いノール県都。アミアンの北北東98キロ)へ到着したのでした(詳細はメッス要塞の顛末と共に後述とします)。
ブルバキ将軍
10月25日。北方の仏軍が気になるトゥール・リッペ将軍は、ボーヴェのピルサッハ将軍に対しグランヴィリエ(ボーヴェの北北西27.8キロ)方面への偵察行を命じます。この偵察斥侯はグランヴィリエの西、セーヌ=アンフェリウール(現・セーヌ=マリティーム)県とオアーズ県の県境の街フォルムリー(ボーヴェの北西35.3キロ)に仏護国軍と驃騎兵の大部隊が駐在しているのを発見し報告を上げました。
これによりピルサッハ将軍は支隊*を率いて10月27日にマルセイユ=アン=ボーヴェジ(ボーヴェの北北西18.3キロ)へ進出し、翌朝、折からの冷雨の中北西方向へ行軍を開始しました。
※10月27日のピルサッハ支隊戦闘序列
○普近衛歩兵第2連隊・第1,2,8中隊
○槍騎兵第18「S第2」連隊
○Sライター騎兵第3連隊・第3中隊
○S騎砲兵第1,2中隊から選抜した3個小隊(騎砲6門・中隊同等)
この行軍列先頭を行くS槍騎兵がミュローモン(マルセイユ=アン=ボーヴェジの北西14キロ)に達すると、突然現れた仏軍の驃騎兵部隊に襲撃されますが、S槍騎兵は果敢に迎撃し、短時間でこれをフォルムリー方面(ミュローモンからは北西へ4キロほど)へ駆逐します。S槍騎兵は仏軍騎兵を追いますが、このフォルムリー郊外に達すると銃火を浴びたので追撃を中止しました。
S騎兵は直ちに本隊から騎砲兵を呼び、駆け付けた1個小隊2門はフォルムリー市街に榴弾砲撃を実施し、続いてやって来た普近衛歩兵第2連隊第1中隊が市街南へ回って銃火を浴びながらもフォルムリーの市場へ突入します。
最初は比較的少数だったフォルムリー市街の仏軍は、普軍近衛兵の攻撃を受けると急速に増加し、護国軍2個大隊に海軍歩兵部隊、そして砲兵も数門の大砲を持って駆け付けたのです。
敵の増加を見たピルサッハ将軍は、普近衛兵第2中隊を市街東の入り口付近へ前進させると、市場の第1中隊を後退させて第2中隊と合流させ、第8中隊には東郊を迂回させ北東に進ませます。同時に砲兵によって市街の砲撃を開始させました。
ところが、仏軍は東側にも強力な部隊を進め、ピルサッハ支隊の包囲殲滅を狙っていたのです。
仏のアミアン方面兵団は、27日、鉄道輸送で部隊をポワ=ドゥ=ピカルディ(フォルムリーの北東23キロ)へ送り、翌28日の早朝、この部隊はグランヴィリエに到着し、午前11時に西方から砲声が轟いたため、急ぎフキエール(フォルムリーの東8キロ)を経てブヴレス(同東北東1.6キロ)に至り、ここから半大隊(500名程度)の歩兵と砲数門をミュローモン(フォルムリーからは南東へ4キロ)へ進め、フォルムリーの東から南東側に包囲態勢を築いたのでした。
この仏軍の動きにフォルムリー北東面に向かっていた普近衛第2連隊の第8中隊が気付き、ブヴレス付近で戦闘となります。ほぼ同時に南東側を警戒していた槍騎兵の1個小隊も「敵がミュローモンに迫る」とピルサッハ将軍に報告するのです。
フォルムリー市街では普近衛歩兵の2個中隊が、倍する敵と戦って有利に戦闘を進めていましたが、ピルサッハ支隊は東側の退路を殆ど塞がれ、また降雨のために付近は泥濘に沈み騎兵や砲兵にとっては最悪の状況となっていたため、午後2時、将軍は戦闘を中止させ、未だ仏軍が出現していない南方への脱出を命じました。
普近衛の3個中隊は6門のS騎砲兵による援護射撃を頼りにカンポー(フォルムリーの南南東3.8キロ)へ向かい、S槍騎兵連隊は総力でミュローモンに到着したばかりの仏軍を襲撃、これを一旦後退させた後に撤退に入り、早駆けでソンジョン(フォルムリーの南東14.3キロ)の道路交差点まで進むと支隊残部の後退を援護しました。
歩兵や砲兵、ライター騎兵も槍騎兵に続行し、後衛となった近衛歩兵第8中隊の小隊はフォルムリーから撃って出た追撃の仏護国軍兵をもう一度食い止め撃退した後、急ぎ本隊を追って行ったのです。
ピルサッハ支隊はこの日午後9時30分には全てボーヴェへ帰還しました。この日の損害は戦いの危うさに比して少なく死傷者23名でした。
フォルムリーの広場にある1870年戦闘記念碑
ピルサッハ将軍が遭遇した仏軍は、これまでの義勇兵や国民衛兵による「行き当たりばったり」の攻撃と違い、歩・騎・砲の三兵を使いこなす優秀な士官により指揮されている気配が濃厚で、きちんとした訓練を受けた兵士を中心とした兵力による攻撃であったとされます。前線にあった独軍兵力が、「地獄のサン=プリヴァ」や「栄光のセダン」を経て来た「独軍でも強兵」であったため、損害少なく脱出出来たものと言え、これが後備兵力であったなら全滅してもおかしくはない状況だったと考えられます。
これは戦争に入ってメッス周辺では冴えない指揮を執っていたものの、平時ではモルトケも認めていた仏軍のエリート将軍ブルバキの手腕によるものかも知れず、仏軍が独軍の戦法を勉強し出した証拠であるかも知れません。
実際、仏「北部軍」はこの「フォルムリーの戦い」直後、アミアンから出撃してモンディディエ~グルネー=アン=ブレイ街道(現・国道D930号線)上の重要拠点に次々と進出し、同時にルーアンからもアンデル河畔からガンボン川(セーヌ支流)河口付近のレ=ザンドリ(ルーアンの南東31.7キロ)へ進んで、その前哨隊はエプト川方面へ接近して配置に就いたのです。
独マース軍本営は「エプト川に対し総攻撃が行われる可能性が増した」として、エプト川に残していた橋梁を全て破壊して落とし、クレイユからボーモン=シュル=オアーズに至るオアーズ川の橋梁も同様に破壊する準備を整え、防衛態勢に移行しました。
この後、ジゾー、ボーヴェ、クレルモンに駐屯していた部隊は常に臨戦態勢を解かずに勤務を強いられることとなり、独マース軍はサン=ドニで暴れるベルマーレ将軍だけでなく、背面のブルバキ将軍にも目を光らせねばならなくなったのでした。




