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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
356/534

シャトーダン、シャルトルの陥落(10月22日まで)

 10月12日。前日の激戦で疲弊したフォン・デア・タン兵団は、周辺地域で跋扈するフラン=ティラール(仏義勇兵)からアルトネに進んだ各師団の輜重縦列を守るため、歩兵1個大隊をアルトネへ送った後、B第2師団はオルレアン市街東部、普第22師団は市街西部で宿営し身体を癒しました。

 B第1師団はロワールを渡河すると衛星市街のセン=マルソー(ジョルジュ・サンク橋南側の地区)を占領、前衛部隊をロワール支流のロアレ河畔に進め、オリヴェ(オルレアンの南4.2キロ)も占領させました。

 昨日はオルレアンの森を警戒するだけで特に大きな動きはなかった普騎兵第2師団と、これも普第22師団に追従するだけで戦闘のなかったB胸甲旅団も、午後に入ってロワールを渡り南岸に進みます。


 フォン・デア・タン兵団の騎兵たちはその後2日間に渡ってロアレ川一帯を捜索し、ラ・フェルテ=サン=トーバン(オルレアンの南20.4キロ)やジュイ=ル=ポティエ(同南南西18.7キロ)で仏軍を発見し「小競り合い」を引き起こしました。しかし15日になると仏軍は両方の街からすっかり消えてしまうのです。

 翌16日、騎兵斥候隊は更に西方のブロア街道(現・国道D951号線)を西へ行軍する一隊を発見し、これを急ぎ騎砲で砲撃して四散させました。


 フォン・デア・タン兵団は、仏軍が破壊・崩落させたサン=ドニ=ド=ロテル(オルレアンの東17キロ)のロワール川橋梁とオリヴェのロアレ川橋梁を修理して通行可能とすると、オルレアン付近の鉄道橋にも大砲が渡れるほどの補強を行いました。逆にオルレアン~トゥール鉄道は、ボージョンシー(同南西24.5キロ)付近の鉄橋を爆破・崩落させ使用不能とするのです。

 兵団の右翼(西)側を警戒する普騎兵第4師団は、歩兵大隊を増派されてパテ(同北西22.4キロ)とクルミエ(同西北西18.2キロ)を占領、開戦以来、本隊を離れた前哨任務が多い竜騎兵第5「ライン」連隊は、歩兵中隊と砲兵小隊を加えられてロワール河畔に向かい、ムン(=シュル=ロワール。同南西17.7キロ)とサン=エ(ムンの北東5.5キロ)を占領し警戒・斥候任務に入りました。


 この普騎兵第4師団は、シャトーダン(オルレアンの北西46.7キロ)を偵察するため盛んに西へ斥候を放ちますが、その内の一隊はマルシュノワール(シャトーダンの南27.8キロ)北の森林で武装した住民から銃撃を受け、その際、いつもなら反撃すれば直ぐに逃げ去る住民や義勇兵が直ぐに逃走せず、反抗して罵声を浴びせて来た、と報告します。強気な住民の様子を聞いた師団長のアルブレヒト・プロイセン親王は「それは強力な『後ろ盾』があるからで、シャトーダン付近には仏軍がいるに違いない」と踏むのでした。


☆ 仏ロワール軍


 一方、仏第15軍団はオルレアンでの敗戦(モン=ルージュ将軍にとっては後衛戦闘であって元からオルレアンは放棄するつもりでしたが)後、第1師団に属した部隊のみ本隊のいるジアン(オルレアンの南東58キロ)に向かうと、残りは既述通りラ・フォルテ=サン=トーバンに集合します。

 10月12日。アルトネとオルレアン敗戦の責任を取ってモン=ルージュ将軍が罷免され、後任のロワール軍司令官にはルイ・ジャン・バプティスト・ドーレル・ドゥ・パラディーヌ中将が任命されました。


挿絵(By みてみん)

 パラディーヌ


 パラディーヌ将軍は当時66歳。この年の1月、定年に達し予備役に回っていましたが、普仏戦争が始まり戦況も不利となって現役士官が不足したため、8月中旬に現役復帰しています。アルジェリア植民地軍で軍隊生活の過半を過ごした将軍は、かのマクマオン将軍やバゼーヌ将軍等と共にクリミア戦争に参戦しアルマの戦いで殊勲を挙げ、その後イタリア独立戦争にも参加しています。

 植民地軍は一般的に、少数部族の反乱やゲリラ掃討、暴動の鎮圧を少数の部隊で手際よく行うことを得意とするもので、将軍もその手の戦闘に長けていました。反面、師団以上の大規模な部隊を率いたことがなく、しかも予備役に達する大ベテランであることから、ガンベタらトゥールの若い首脳陣から見れば「慎重過ぎて歯痒い」こともしばしばある将軍でした。しかし、過酷な植民地で現地人を一から叩き上げ、一端の軍人に仕立てて来た実績は、「生まれたばかりの」ロワール軍を育て上げるには適任者で、血気に逸り軍事知識に劣る新しい軍を率いるには最適だったと言えるでしょう。


 パラディーヌ将軍はロワール軍の最上級指揮官として、仏第15軍団と編成途中の仏第16軍団の指揮系統を自らの下に一本化すると、「錬成を一からやり直す」として第15軍団をサルブリ(オルレアンの南54キロ)とその周辺地域に集合させ、第16軍団をジアンとブロア(同南西55.5キロ)に分けて集合させました。

 そして数少なくなった現役士官や、植民地からやって来た士官、そして予備役から復帰したベテランらを駆使して兵士の教練を開始します。

 その訓練は厳しく徹底的であったと伝えられていますが、灼熱の植民地で長らく過ごしたパラディーヌ将軍は自らも教練の場に立ち会い、新兵ベテラン問わずシゴキにシゴかせました。そして獰猛な植民地兵をも黙らせた威厳を以て将兵に語りかけ、仏の再生は諸君等の努力如何、勇気と忠誠心にかかっているとして、時には熱く時には静かに将兵の愛国心に訴えたのです。


「本官は、独軍を前に怖じ気付いた将兵に対して、力尽くでも前進させようと考えている。逆に諸君らは、本官が職務を全うしていないと感じたならば、本官を射殺しても構わない」(ドーレル・ドゥ・パラディーヌ)


挿絵(By みてみん)

 ロワール軍の教練


 数週間の猛訓練でロワール軍は多少なりにも「シャン」となって行きましたが、その間も「いつ独軍が南下して来るのか」がパラディーヌ将軍最大の懸念事項でした。


 将軍は第15軍団に10月15日から17日にかけてトゥール付近でロアールへ注ぐシェール川の支流、ソルドル川を渡河させ、ビエルゾンとブールジュ(それぞれサルブリの南22.7キロと南東46.3キロ)両主要都市の防衛を手配し、第1師団に騎兵1個旅団をアルジャン(=シュル=ソルドル。同東北東33キロ)へ、第2師団をピエールフィット(=シュル=ソルドル。同北東12キロ)へ、残りをサルブリに後退させて訓練に入り、同時に独軍侵攻に備えたのでした。

 トゥール派遣部からは再三ガンベタを始めとする高官が訪れ、訓練中の将兵に檄を飛ばしますが、将軍に対しては「サルブリを絶対に死守して独軍南下を阻止せよ」と命じます。

 こうしてパラディーヌ将軍は錬成途中のロワール軍をソルドル流域に展開させ、その中央に第15軍団、両翼に第16軍団を置いて独軍を待ちます。しかし独軍本隊(=フォン・デア・タン兵団)がソルドル流域まで現れることは遂になかったのです。


☆ フォン・デア・タン兵団


 独第三軍司令官フリードリヒ皇太子はオルレアン占領の報告に接すると、「勝ちに乗じてブールジュとトゥールへ進撃し、前者からは集積された砲兵用諸物資を鹵獲(ブールジュには軍需工場がありました)、後者では仏政府派遣部を駆逐」することを夢見ました。10月13日にはフォン・デア・タン大将に宛てて「この作戦が可能かどうか」を問う訓令を発し、同時に「兵団を南下させるために必要となる権限を委譲」します。


 ところが現地のフォン・デア・タン将軍は、フリードリヒ皇太子の「夢」を叶えることは到底不可能、と断じてしまうのです。


 それは、仏ロワール軍は退却したとは言え兵力が次第に増加傾向にあること、斥候と諜報報告によれば、目標とされるブールジュやトゥールでは強力な防御工事が施され、市民もまた独に対する敵意が強く頑強な抵抗が予想されること、兵団は2万程度の兵力でしかなく、たとえ錬成がならずとも10万に達しようかという「ロワール軍」と正面から戦う術もないこと等が理由でした。このためフォン・デア・タン将軍は「積極策は控えてしばらくはロワール川の線を維持し敵と対峙したい」とする回答を第三軍本営へ送ったのです。


 フォン・デア・タン将軍の「不可」回答を受けた第三軍本営は、ロワール川の線を維持するだけなら、今のところ仏ロワール軍が積極的攻勢に無いことから「比較的少数の兵力で事足りるだろう」(普皇太子の願望を撥ねつけたバイエルン将軍への意趣返し?)として10月16日、普第22師団と普第4騎兵師団を兵団から抜き、「独パリ攻囲軍の南西方背後で跋扈し、度々独軍騎兵や補給部隊に損害を与えている義勇兵を駆逐しつつ北上し、パリ包囲陣まで復帰せよ」と命じました。これにより歩騎兵2個師団はシャトーダンとシャルトル(オルレアンの北北西68キロ)に向かい進撃することとなるのです。


 2個師団を抜かれてしまったフォン・デア・タン将軍は、普騎兵第2師団主力(普騎兵第3旅団主幹)を普騎兵第4師団と入れ替わりにロワール右(北)岸サン=エからクルミエにかけて再展開させ、普騎兵第4旅団をロワール左(南)岸に残留させました。この騎兵旅団はロワール南岸に残るB第1師団と連携してオルレアン南面の「橋頭堡」を防衛し、仏ロワール軍の北上に備えてロワール、ロアレ両河川の主要橋梁爆破を準備し、川の浅瀬の徒渉場を破壊すると、渡し船全てを右岸(北側)川辺に係留させたのでした。

 また、「ブロアに新たな敵兵団」(仏第16軍団の左翼部隊)との斥候報告を受けたフォン・デア・タン将軍は、10月20日にB第4旅団とB砲兵4個中隊をオルレアン北西部の拠点オルム~サン=ペラヴィー(=ラ=コロンブ。オルムの北西10.5キロ)~クルミエ間の各地に展開させ、B第3旅団をオルレアン西郊外のサン=ジャン=ド=ラ=ルエルとその周辺に待機させます。

 同じくB第1旅団をロワール右岸へ戻してオルレアン市街防衛へ充てると、左岸に残ったB第2旅団をロワール、ロアレ両河川間に再展開させました。また、ポン・オー・モワンヌ(オルレアンの東14.8キロ。現・ドンヌリー付近)のサン川運河と、ルリー(同北東17.5キロ)のグランド・エッス川両渡河点には前哨を置き、ジアン方面にいると思われる仏軍(仏第16軍団右翼部隊)と、広大過ぎて目の届き辛いオルレアンの森に潜む義勇兵部隊に備えました。

 なお、普騎兵第2師団各隊は従来位置のまま動かず、B胸甲騎兵旅団は兵団西側の補強としてサン=ペラヴィー周辺で宿営するのでした。


 フォン・デア・タン兵団(実質B第1軍団と普騎兵第2師団)がこの態勢になって以降、10月22日にロアール左岸のライイ(=アン=ヴァル。オルレアンの南西21.8キロ)に現れた仏軍部隊を、B第2旅団と普騎兵第4旅団の一部隊が右岸のボージョンシー方面へ撃退するという小戦闘があったのみで、オルレアンの戦線は暫くの間静かな状態になりました。


 オルレアン周辺に孤出したフォン・デア・タン兵団への後方連絡・兵站物資補給は、オルレアン~アルトネー~トゥーリーを経てエタンプへ至るパリ本街道を使用し、エタンプからはロンジュモーへ至る後方連絡線とコルベイユ(=エソンヌ)へ至る独第三軍の後方連絡線によって実行されます。またB軍の野戦鉄道隊は、この後方連絡を楽にするため10月~11月にかけてセーヌ河畔のビルヌーブ=サン=ジョルジュからオルレアンに至る幹線鉄道の修理に全力を尽くすのでした。


☆ シャトーダンの戦い(10月18日)


 普第22師団は第三軍命令に従い、10月17日にオルム周辺から出立してシャトーダン街道を進み、トゥルノワジ(オルレアンの北西23.4キロ)に至ると、クルミエから行軍して来た普騎兵第8旅団と合流します。普軍歩騎兵集団は翌19日、シャトーダンに向けて行軍を続けました。


 シャトーダンは9月末、既述通り普騎兵第4師団の前哨部隊によって席捲され、糧食や物資を供出させられますが、10月7日、仏ロワール軍の先遣隊と義勇兵の手によって奪還され、シャトーダンを監視していたオルジェール(=アン=ボース。シャトーダンの東北東27.8キロ)の普騎兵第4師団とB「親衛」連隊の前哨が急襲され独兵19名が捕虜となっています。

 また、10月9日にはパリからやって来たエルネスト・ドゥ・リポフスキ大佐率いる義勇兵と国民衛兵部隊(大隊規模)が「アブリの勝利」で獲得した普軍捕虜を連れて到着(「フォン・デア・タン兵団とロワール軍の始動」参照)し気勢を上げており、ボース平原一帯の諸部落・市街では最も反独気運の高い状態にありました。

 その後のアルトネとオルレアンの敗戦により元々の守備隊(護国軍部隊)がブロアへと去り、その東側から脅威を受けることになったシャトーダンの街は、リポフスキ部隊と周辺から参集した義勇兵や国民衛兵によって守備され、市街は南と東側で防御を固めて独軍を待ち受けます。この時、市街と周辺にはおよそ1,200名の義勇兵と国民衛兵がいたとされます。


 普第22師団がシャトーダン郊外に到着すると、師団行軍列の前衛となっていた普驃騎兵第13連隊は、市街を取り巻く隔壁から銃撃を浴びました。最初に行軍列の先頭に立った普騎兵第8旅団は、この時、歩兵師団の左翼(南)側を警戒しつつバンドーム街道(現・国道D35/N10号線)を監視するためニヴヴィル(シャトーダンの南東2キロ)へ進んでいます。

 この時、騎兵旅団に属した野戦砲兵11連隊騎砲兵第2中隊は、仏義勇兵が散兵線を敷く鉄道堤(ニヴヴィレからは西へ800mほどの場所に南北に走っています)に向けて砲撃を行いましたが、逆に銃撃を受けて損害を被り、排除するまでには至りませんでした。


挿絵(By みてみん)

シャトーダン 市街戦


※10月18日・普第22師団の行軍序列


○普驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊

◇普第43旅団

 ○普第95「チューリンゲン第6」連隊・1個大隊

 ○師団砲兵1個中隊

 ○第95連隊・2個大隊

 ○師団砲兵3個中隊

 ○B砲兵第1連隊・6ポンド砲第9中隊

 ○第32「チューリンゲン第2」連隊・3個大隊

 ○野戦工兵第11大隊・第3中隊

◇第44旅団(第83「ヘッセン第3」連隊・第94「チューリンゲン第5」連隊)


*普驃騎兵第13連隊第4中隊と普第83連隊第1中隊は輜重護衛。

*野戦工兵第11大隊・第2中隊はオルレアン残留。

*第1次オルレアンの戦い(10月12日)以降、第83連隊の3個中隊と第94連隊の5個中隊が師団に復帰しました。従ってこの日師団は歩兵7と1/3中隊・騎兵1個中隊の欠となります。


 普第22師団長のフォン・ヴィッティヒ少将は、市街が堅く護られていることを感じ取り、歩兵の攻撃に先立ってセオリー通り砲撃を行うこととします。


 正午過ぎ。将軍は驃騎兵第13連隊の援護下で師団砲兵の重砲第3中隊をオルジェール街道(現・国道D927号線)の北側へ、残り3個中隊をオルレアン(シャトーダン)街道(現・国道D955号線)の南側へ振り向けて砲列を敷かせ、砲撃を開始させました。

 砲列線の右翼(北)では普第95連隊が市街の隔壁と街道を塞ぐバリケードに向けて銃撃を行い、普第32連隊は鉄道堤の義勇兵と戦ってこれを撤退させ、堤を越えて市街南端へ向かいました。

 同連隊のF大隊は工兵第3中隊と共にネルモン煉瓦工場(シャトーダン市街南にありました。現在は公園広場となっています)を襲撃してこれを占拠し、工兵は急ぎ防御を施します。この工場西隣にあり防御を施された「モンドゥセの家」(フェルム・ドゥ・モンドゥセ。農家。現存します)は仏義勇兵の銃撃拠点となっていましたが、銃火を浴びつつ前進し砲列線の最左翼(南側)に加わったB6ポンド砲中隊が集中砲火を浴びせ、たちまち炎上させました。燻ぶる「モンドゥセの家」は仏兵が去った後、ネルモン煉瓦工場から普歩兵の一部が進み出て占拠されます。

 しかしこの先の市街地に進むには、周辺のブドウ園を囲む隔壁(銃眼が開けられていました)と街道に設けられた頑丈な石造りのバリケードに潜み銃撃を繰り返す義勇兵や国民衛兵、そして銃を手に積極参戦した住民たちを排除しなくてはならず、市街周辺の戦闘は一時混沌とした様相となるのでした。


挿絵(By みてみん)

シャトーダン・広場の戦闘


 歩兵の前進がくい止められたことを知ったヴィッティヒ将軍は、ならば砲撃で、とばかりに市街を取り巻く仏陣地の砲撃を再開させ、市街地が炎上し始めると予備となっていた第94連隊の2個大隊を最前線まで進ませて前線兵力を増強し、日没間際に北、東、南の三方から全軍一斉に突撃を敢行させるのでした。


 最初こそ市街入り口のバリケードを占拠し、市街地へ雪崩込んだ普軍でしたが、その先では義勇兵と国民衛兵、住民が渾然一体となって激しく抵抗し、一時はセダン戦のバゼイユを彷彿とさせる一軒毎に勝敗を争う凄惨な市街戦が発生しました。このため戦闘は延々と午後9時までに及び、砲撃時点で炎上し始めていた市街地は、更に家屋から敵を焙り出すため放火が繰り返されて燃え広がり、逃げ遅れた市民の多くが犠牲となりました。

 奮戦したものの兵力差が大き過ぎたリポフスキ大佐は、生き残った300名の義勇兵や国民衛兵と共に辛うじて市街地を脱出、シャトーダンから北西47キロにあるノジャン=ル=ロトルーへと一気に後退して行きました。

 戦闘後、約150名の仏戦闘員が捕虜となり、戦闘では約100名が死傷したと言われます。残りの義勇兵や国民衛兵は、夜の闇に溶け込むようにして姿を消したのでした。


 普軍側も市街戦で110名の損害*を出し、多くの市民が銃を手にして戦う姿が目撃されていたため、怒り心頭のヴィッティヒ将軍は戦闘後で気の立った部下の乱暴狼藉を黙認してしまいます。

 既に市街の殆どが焼け落ち、無抵抗だった多くの市民にも犠牲が出ていましたが、鬼の形相の普軍兵士らは更に家々から焼け残った貴重品を強奪し、絶望して無抵抗だった住民にも暴行を加え、制服を着用せずに銃を手にした住民の多くは問答無用で即刻処刑されました。


挿絵(By みてみん)

民間人を裁く普軍


 普軍による「残虐行為」は一晩中続き、夜が明けると我に返ったかのように収まります。

 ヴィッティヒ将軍はシャトーダンを「公式に懲らしめる」ため、生き残った市長や役人たちに対し金銭と物資の供出を命じました。それによって集められた物資は、目立つものでも毛布1,500枚、塩100キロ、コーヒー豆100キロ、カルヴァドス(リンゴ)酒400リットル、オート麦2万リットル、そして多額の現金や貴金属でした。

 シャトーダンでは一晩で263軒の民家が焼失したとされ、市役所と郡庁舎は白旗を掲げた後にも銃砲撃を加えられて全壊し、病院、マドレーヌ教会、学校、憲兵隊舎、中央広場(現・10月18日広場)の噴水、サン=ヴァレリアン教会の尖塔、鉄道停車場など、ありとあらゆる公共施設が罹災しています。


※シャトーダンの戦いにおける独軍損害

○B砲兵第1連隊・6ポンド砲第9中隊

戦死/下士官兵1名・馬匹8頭

負傷/下士官兵6名・馬匹8頭

○普第22師団

戦死/士官2名・下士官兵20名・馬匹2頭

負傷/士官3名・下士官兵71名・馬匹2頭

行方不明/下士官兵2名

○普騎兵第4師団

戦死/下士官兵2名・馬匹1頭

負傷/下士官兵3名・馬匹15頭

○総計

戦死/士官2名・下士官兵23名・馬匹11頭

負傷/士官3名・下士官兵80名・馬匹25頭

行方不明/下士官兵2名


挿絵(By みてみん)

シャトーダン 中心街の戦闘


 シャトーダンの経緯を聞き及んだモルトケ参謀総長は「住民が戦闘に関与した証拠をしっかり保存するように」と命じますが、それ以上この問題について論じることはありませんでした。しかし側近には「とんでもない事をしでかしたものだ」と嘆き、仏国民がこの「事件」で燃え上がらなければ良いが、と心配しました。

 モルトケが恐れた通り、シャトーダンの「英雄的抵抗」は仏国防政府にとって格好の反独宣伝材料となり、トゥールの派遣部は早速この事件をニュースとして広め「シャトーダンを手本にせよ」と各地に檄を飛ばしました。海外でもロンドンのタイムズ紙を始め多くの新聞で「シャトーダンの英雄的抵抗」はトップ記事となったのです。


☆ シャルトルの戦い(10月21日)


 シャトーダン「事件」で脚光を浴びてしまうことになったフォン・ヴィッティヒ将軍と普第22師団は、戦い翌日の19日シャトーダン周辺に残って隊を整え、奪取した金品物資の整理を行いました。

 次の目標シャルトルに向け行軍する街道沿いを確認するために先行した前衛はこの日、マルブエ(シャトーダンの北4.8キロ)とボヌヴァル(同北北東13キロ)に進出してロワール川渡河地点を警戒し、普騎兵第8旅団は数個騎兵中隊をシャトーダンの西と南へ派出し、仏軍の反撃がないか確認しました。

 午後に入ると斥候より「クロイエ(=シュル=ロワール。同南西10.7キロ)より敵義勇兵と驃騎兵が進み出る」との警報が入り、普騎兵第4師団は一時緊急集合を発令します。これにより騎兵第10旅団はノットンヴィル(シャトーダンの東北東14キロ)に進み、前日18日からバゾッシュ=アン=デュノワ(ノットンヴィルの東南東4.5キロ)周辺で集合していた普騎兵第9旅団と合流しましたが、この時は仏義勇兵がシャトーダンに現れることはありませんでした。


挿絵(By みてみん)

 シャトーダンの夜間戦闘


 10月20日。普第22師団はシャルトルに向け出立します。

 この日早朝には、オルレアンよりB軍砲兵2個中隊*が増援として到着し師団に合流しました。

 師団本隊は夕刻までにヴィトレ=アン=ボース(シャルトルの南19.7キロ)に進み、前衛はル・タンプル(同南南西14.1キロ)に至ります。

 普騎兵第4師団はシャルトル街道(現・国道N10号線)の西側に普騎兵第8旅団を、東側に残り2個旅団を進ませ、本街道を行く歩兵師団を援護させるのでした。


※10月20日に普第22師団へ配属されたB軍砲兵

○B砲兵第4連隊6ポンド砲第10中隊

 *この中隊はB第1軍団に配属が決定し、10月15日に本国よりオルレアンへ到着していました。

○B砲兵第3連隊12ポンド砲第12中隊


 この20日夜、ヴィッティヒ将軍はシャルトル方面へ放った斥候報告により、「シャルトルの南8キロ付近では本街道が破壊され、市内では6,000から10,000名の仏軍が駐屯している」と知り、「師団主力で市街弱点と思われる南東方向から全力攻撃を仕掛ける」ことを決します。


 翌21日早朝。ヴィッティヒ将軍は普第83連隊のF大隊に驃騎兵第13連隊第4中隊からの約30騎と工兵1個小隊を付けて前哨隊とし、これをティヴァール(シャルトルの南南西8.1キロ)へ進ませます。工兵は前日報告のあった街道の破壊を調べ、直ちに修繕を始めました。

 師団本隊は本街道から右翼(東)側に逸れてウドゥエンヌ(同南7.8キロ)に進み、ここからウール川(セーヌ支流)の右岸沿いを北へ進み始めました。

 師団は正午過ぎに戦闘隊形を作り、砲兵7個中隊を連れた普第43旅団が第一線となってル・クードレイ(同南南東3キロ)とアンジェヴィル街道(現・国道D939号線。クードレイからは北東方2.8キロ)との間に展開しました。

 市内からは精強とされる駐留仏海軍歩兵部隊と護国軍部隊が迎撃に出ましたが、待ち構えた独軍7個砲兵42門の猛砲撃で攻撃をくい止められ撃退されてしまいます。

 普第43旅団の右翼(東)側には普騎兵第10旅団が進み、スール(シャルトルの東南東9キロ)からアブリ街道(現・国道D910号線。スールからは北へ6キロ)間を捜索して普軍歩兵の背後を護りました。

 普騎兵第9旅団は南方のダマリー(ティヴァールの南東5キロ)付近に集合し予備となり、普騎兵第8旅団は午前中ウール川を越えてショネ(小部落。同北北西3.4キロ)付近まで進んでシャルトル市街の南西方面を警戒すると共に一隊をアミリー(シャルトルの西6.8キロ)方面へ派遣して付近を走るル・マン鉄道線を破壊したのです。


 この日はランブイエ周辺にいた普騎兵第6師団も市街北東方に到着し、普第22師団のシャルトル攻略戦を後援しました。


 普騎兵第6師団のこの行動は、ヴィッティヒ将軍が第三軍本営に宛てた報告における増援要請に応えたもので、師団は19日、普驃騎兵第3連隊をランブイエに、普槍騎兵第15連隊の2個中隊をモルパ(ベルサイユの西南西13.6キロ)に残すと、本隊はオノー(シャルトルの東北東21.2キロ)で集合、21日の早朝、普槍騎兵第3連隊の2個中隊をウール河畔のジュイ(同北北東8.6キロ)へ向けて先発させると、本隊は午前中にウヴィル(=ラ=ブランシュ。同東11.3キロ)を通過して午後には市街北部のウール川方面目指して前進しています。


 こうしてシャルトルは四面を普軍に囲まれた形となりました。

 アブリやシャトーダンの運命を既に知らされていた市当局は、強力な砲列が東側に現れたことで市街に同じ運命が降り係るのではと恐れ慄き、戦意は一気に萎んでしまいました。

 市長ら市とシャルトル郡の幹部は庁舎や大聖堂に白旗を掲げさせるとヴィッティヒ将軍に降伏の使者を送って交渉を開始します。午後3時には降伏交渉がまとまって、結果、海軍歩兵や護国軍など仏軍に属する部隊は西方へ退却する事が許され、国民衛兵は武器・制服等を投棄して解散することになりました。

 こうしてシャルトル市の城門が開き、普第22師団は順次市内へ入城し、宿営を始めます。入れ替わりに武器を投棄した「元」国民衛兵たちは自宅への帰途につき、退去を許された仏軍将兵は隊列を維持して西へ去りましたが、この際、普騎兵第8旅団と共に市街地南西郊外のショネ付近にいた騎砲兵中隊から暫くの間砲撃を受けてしまいました。これは降伏条約の内容が騎砲兵中隊に伝えられなかったためのミスですが、これも後に尾ヒレが付いて「普軍暴虐の証拠」と喧伝されてしまいました。


挿絵(By みてみん)

ヴィッティヒ


 この夕方、普騎兵第4師団は普騎兵第8旅団をシャルトルの西郊外へ送って宿営させ、他の2個旅団は市南東郊外のウール川とアンジェヴィル街道との間に宿営地を見つけました。

 市街地の北へ進んだ普騎兵第6師団は、前衛がジェイに近付くと居残っていた仏軍から銃撃を受け、更に南のサン=プレスト(シャルトルの北北東6キロ)からも銃撃を受けます。

 師団はシャルトルが降伏したことで無理をせずに予定のユール河畔へ進まず、この夜はガスヴィル(=オワゼム。同北東6.5キロ)周辺で宿営しました。


 独第三軍本営は、シャトーダン市街での激しい抵抗と、シャルトルの西側ウール河畔における状況から「パリを攻囲する独軍包囲網の西側でも不気味な兵力の増強が進んでいる」と判断します。

 この結果、普フリードリヒ皇太子は普第22師団と普騎兵第4師団に対してパリ包囲網帰還の命令を変更し、「暫くはシャルトル方面で西方と南方を警戒せよ」と命じ、普騎兵第6師団もまた西方警戒のため付近に残留するよう命じました。


 各師団は翌日から命令を実行し、普第22師団と普騎兵第4師団はシャルトルとその周辺に駐屯し、普騎兵第6師団はウール川沿いに北方へ移動してマントノン(シャルトルの北北東17キロ)へ進みました。

 このパリ包囲網の外側を警戒することになった3個師団は、シャルトルとマントノンを拠点に周辺地域へ強行偵察を兼ねた「遠征斥候隊」を複数送り出しますが、これらの部隊は一切正規の仏軍(護国軍を含みます)と接触することは無く、出会う仏住民の態度は敵意に満ちていたものの、表立って抵抗することはありませんでした。

 しかし、これが単騎の斥候や少人数の輸送隊となると、以前と変わらず各地で国民衛兵や義勇兵の襲撃・銃撃を受けることとなり、これは最早当たり前の情景となったのでした。


挿絵(By みてみん)

 シャトーダンの戦い


仏第15軍団戦闘序列(1870.10.12時点)


 軍団長 ルイ・ジャン・バプティスト・ドレル・ドゥ・パラディーヌ中将

 参謀長 ボレル准将

 砲兵部長 エティエンヌ=ガブリエル・ドゥ・ブロア・ドゥ・ラ・カランド准将

 工兵部長 ドゥ・マルシュイ大佐


◯第1師団 シャルル・ガブリエル・フェリシテ・マルティン・デ・パリエール少将

◇第1旅団 マリエ=エティエンヌ=エマニュエル=ベルトラン・ドゥ・シャブロン准将

 *マルシェ猟兵第4大隊

 *戦列歩兵第38連隊

 *ズアーブ歩兵第1連隊

 *護国軍第12連隊(ブルゴーニュ地方ニエーヴル県の護国軍部隊)

 *海軍歩兵第1大隊

◇第2旅団 ベルトラン准将

 *アルジェリア・ティライヤール兵部隊(大隊規模)

 *マルシェ歩兵第29連隊

 *護国軍第18連隊(ボルドーの北にあるシャラント県の護国軍部隊)

*師団砲兵隊(野砲14門・ミトライユーズ4門)

 ・砲兵第13連隊第1中隊

 ・砲兵第2連隊第18中隊

 ・砲兵第6連隊第18中隊

*工兵第3連隊第19中隊第1分隊


◯第2師団 エミール=フィリップ・マルティノー・デ・シェネ少将

◇第1旅団 ダリエス准将

 *マルシェ猟兵第5大隊

 *戦列歩兵第39連隊

 *護国軍第25連隊(ボルドーを県都とする仏本土最大の県、ジロンド県の護国軍部隊)

 *外人部隊(大隊規模)

◇第2旅団 ルビヤール准将

 *ズアーブ歩兵第2連隊

 *マルシェ歩兵第30連隊

 *護国軍第29連隊(ナントの東、旧アンジェ地域・メーヌ=エ=ロワール県の護国軍部隊)

*師団砲兵隊(野砲8門・騎砲6門・ミトライユーズ4門)

 ・砲兵第9連隊の1個中隊

 ・砲兵第12連隊の1個中隊

 ・騎砲兵混成1個中隊(旧・近衛騎砲兵連隊第14中隊基幹)

*工兵第3連隊第19中隊第2分隊


◯第3師団 ペタヴァン少将

◇第1旅団 ペタヴァン少将直率

 *マルシェ猟兵第6大隊

 *戦列歩兵第16連隊

 *マルシェ歩兵第33連隊

 *護国軍第32連隊(フランス中央部オーヴェルニュ地方、ピュイ=ド=ドーム県の護国軍部隊)

 *外人部隊(3個大隊規模)

◇第2旅団 マーティネス准将

 *マルシェ歩兵第27連隊

 *マルシェ歩兵第34連隊

 *護国軍第69連隊(トゥールーズ南、スペインとの国境・アリエージュ県の護国軍部隊)

*師団砲兵隊(野砲14門・ミトライユーズ4門)

 ・砲兵第7連隊第18中隊

 ・砲兵第10連隊第18中隊

 ・砲兵第14連隊第18中隊

*工兵第2連隊第19中隊第1分隊


◯騎兵師団 レオー少将

◇第1旅団 ルネ・オーガスティン・ガラン・ドゥ・ロングリュー少将

 *竜騎兵第6連隊

 *驃騎兵第6連隊

◇第2旅団 侯爵ギヨーム・ジョセフ・ブレモン・ダール少将

 *胸甲騎兵第9連隊

 *マルシェ胸甲騎兵第1連隊


◯独立騎兵旅団 ミシェル少将~ドゥ・ボエリオ准将

 *槍騎兵第2連隊

 *槍騎兵第5連隊

 *マルシェ竜騎兵第3連隊


◯独立騎兵旅団 ダステュグ大佐~ドゥ・ナンスティ准将

 *猟騎兵第11連隊

 *マルシェ猟騎兵第1連隊


◯軍団砲兵隊(野砲16門・騎砲24門・ミトライユーズ8門) シャップ大佐

 *砲兵第3連隊

 ・第13,14,15,16中隊

 ・砲兵第2連隊第19中隊

 ・砲兵第6連隊第11中隊

 ・砲兵第18連隊第14中隊

 ・砲兵第19連隊第14中隊


◯混成師団

◇歩兵旅団 モーリス准将

 *猟兵第2大隊/同第17大隊の各1個中隊

 *マルシェ歩兵第31連隊

 *護国軍第22連隊(ボルドーの東・ドルドーニュ県の護国軍部隊)

◇騎兵旅団 トリパール准将

 *マルシェ驃騎兵第1連隊

 *マルシェ混成騎兵第2連隊


※セダン脱出組の騎兵

・猟騎兵第11連隊(ダステュグ大佐) 前・第1軍団騎兵師団第1旅団

・槍騎兵第2連隊(ドゥ・ランドゥルヴィル大佐) 前・第1軍団騎兵師第2旅団

・槍騎兵第5連隊(マリエ・ポール・オスカー・ドゥ・ボエリオ大佐) 前・第5軍団騎兵師団第2旅団

・驃騎兵第6連隊(ギヨン大佐) 前・第7軍団騎兵師団第2旅団 

・竜騎兵第6連隊(ティヨン大佐) 同

・胸甲騎兵第9連隊(ヴォーグ・ドゥ・シャントクレール大佐) 前・第13軍団騎兵師団第2旅団


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