第1次オルレアンの戦い(10月11日)・後
☆ 独軍左翼(東)
B第1軍団主力はこの日、旧シャルトル(サラン)街道(現・国道D102号線)に沿ってB第4旅団が、パリ本街道に沿ってB第3旅団がそれぞれオルレアンを目指し南下しました。
B第4旅団がジディ(オルムの北北東5.4キロ)に達した時に砲声が南から轟き、前後して「敵の大軍オルムにあり」との報告もあったことから、旅団長の男爵フーゴ・カール・ルートヴィヒ・フォン・デア・タン少将(兵団長の弟です)は歩兵3個大隊と砲兵1個中隊を割いて支隊とし、普第22師団と連絡し共闘するために南側の森林へ送り出しました。
※B第4旅団のジディにおける行軍序列
○サラン街道(現・国道D702号線)をオルレアン北部に向かう本隊
*B第10連隊・第2大隊
*B砲兵第1連隊/6ポンド砲第8中隊
*B第10連隊・第3大隊
*B第13連隊・第2大隊
*B第13連隊・第3大隊
*B砲兵第3連隊/6ポンド砲第5中隊
*B砲兵第3連隊/6ポンド砲第6中隊
*軽騎兵第4連隊(1個中隊半欠)
○サリ(農場。オルムの東北東3キロ。現存)方向へ別動する支隊
*B猟兵第7大隊
*B砲兵第1連隊・4ポンド砲第4中隊
*B第10連隊・第1大隊
*B第13連隊・第1大隊(1個中隊欠)
※軽騎兵第4連隊の第3中隊と第4中隊の半分はパリ攻囲に参加、B第13連隊の第3中隊はパリ攻囲軍攻城厰の警護。
サリ農場へ向かった支隊はB第10連隊長の伯爵ヨセフ・フォン・ヨナー=テッテンヴァイス中佐が率い、午前10時頃その先鋒の猟兵が森(現在は伐採されていますが当時はオルレアンの森がこの付近まで広がっていました)を越えサリ付近で開墾地へ出ると、サランの西郊外の森林とその周辺の農家数軒(サリからは南東へ1キロほど)から銃火を浴びました。ヨナー中佐は猟兵大隊に続き進み出た4ポンド砲中隊に命じて仏軍が籠る一番近くの農家を砲撃し、銃撃が途絶えた瞬間を見計らって猟兵大隊の第1,2中隊を突撃させました。猟兵はこの家屋を占拠しますが、更にその東の農家群から猛烈な銃撃を浴びてしまいます。
ここに激しい銃撃戦が巻き起こり、お互いに死傷者が続出しました。この銃撃戦にはB4ポンド砲中隊も参加し近距離から砲撃を繰り返しますが、砲兵もまた銃撃を受けて死傷者を多く出してしまいました。
サランに陣を敷いた仏軍は戦意が比較的高く、幾度もB軍に対して突撃を敢行しました。しかし後続したB第10連隊の一部が参戦すると孤立した農家で戦う仏軍は次第に不利となります。B軍将兵は一気に農家へ突撃すると激しい白兵戦の後に仏軍を制圧しこれを占拠するのでした。
他の「ヨナー支隊」諸中隊(B猟兵第7大隊・第3,4中隊、B第10連隊・第3,4中隊)はこの農家の戦いの最中にサランから死角となる西の森林縁に集合した後、退却を始めた仏軍の追撃を開始します。この追撃には旅団本隊からB第10連隊の半大隊(第7~12中隊)も加わりました。
追撃隊は付近の林間を捜索しておよそ200名の捕虜を得、B第10連隊の第8中隊は午後1時30分に更に南へ遁走する敵を追って先行したのでした。
この間、サラン街道を行くB第4旅団の本隊はB第10連隊の第5,6中隊を前衛として前進し、ラ・ティト・ノアール(家屋群。現在のサラン市街北部分です)とサラン部落の墓地(ラ・ティト・ノアールの南側)を占拠しました。サラン部落内に籠る仏軍に対してはB砲兵第1連隊6ポンド砲第8中隊の1個小隊(2門)が部落東郊外まで進んで砲撃を行い、B第13連隊の第3大隊が郊外農家や砂利採取場を占拠した後、部落内の教会目指して突進し、遂にサランを落とします。仏軍はこの部落周辺からもオルレアンに向かって急速に後退し、B第13連隊第2、3大隊はその追撃に向かって逃げ遅れた仏兵を捕虜とするのでした。
早朝シュヴィイから出立したB第3旅団は、歩兵5個中隊をオルレアンの森方面警戒のため左翼(東)へ分遣して森林内を進ませ、本隊はパリ街道上を直進しました。本隊は敵影を見ないままラ・モンジョア(一軒農家。サランの教会から東北東へ1.2キロ、鉄道と街道が離れ始める部分にありました。現存します)付近に達します。
※B第3旅団のシュヴィイにおける行軍序列
○パリ本街道をオルレアン北部に向かう本隊
*B猟兵第1大隊
*B第3連隊・第1大隊
*B砲兵第1連隊/4ポンド砲第2中隊
*B第3連隊・第2大隊
*B砲兵第1連隊/6ポンド砲第6中隊
*B第3連隊・第3大隊
*B第12連隊・第2大隊
○オルレアンの森を通過する左翼警戒隊
*B第12連隊・第3大隊(1個中隊欠)
*B第12連隊・第1大隊(2個中隊欠)
※B第12連隊の第3,4中隊はセダンの捕虜護送任務中。同連隊第12中隊は輜重警護任務中でしたが、この日夕方遅くに戦場へ到着しました。
B第3旅団本隊は、ラ・モンジョアでこの日初めて仏軍の銃撃に遭い、行軍が止まりますが4ポンド砲中隊が急ぎ砲列を敷いて砲撃すると、仏軍前哨はラ・プティ・スージ(ラ・モンジョアの直ぐ南側の家屋群)を抜けて南へ退却しました。
旅団はこのまま本街道に沿って南下を続け、次第にオルレアン北郊外へ接近し、またサランでの戦闘によって退却する仏軍の退路を遮断する形になって行きます。この時、街道の東側を警戒するため、B猟兵第1大隊は半分ずつに分かれ、片割れの2個中隊は街道の東側に並進するパリへの鉄道堤を越えた東側で本隊左翼を警戒しつつ並進したのです。
このパリ本街道では当時、ベル・エール(オルレアンの北4.5キロ)からオルレアン市北縁までの間に民家が両脇を固めるように続いていました。
B軍の行軍列がこの家屋列に接近すると猛烈な銃撃が開始されます。このように街道両脇が民家で固められていたため、B軍側は中隊による砲列を作ることが出来ません。しかし、B砲兵第1連隊の6ポンド砲第6中隊は銃撃を冒して2個小隊(4門)を前進させ、街道の路傍や街道西に目立つ風車場へ砲を敷くと、民家に立て籠もる仏軍を砲撃しました。この援護射撃を以てB軍歩兵はベル・エールへ突入しますが、仏軍の抵抗もまた激しく、ここで膠着状態に陥るのです。
それもそのはず、ここに展開していた仏軍は、仏第15軍団でも精鋭と思われる各隊で、戦列歩兵第39連隊の第3大隊、マルシェ猟兵第5大隊、アルトネでは敗走したものの雪辱を期すニエーヴル県の護国軍連隊とマルシェ猟兵第8大隊、午前中にオルレアンの森から撤退して来たローマ教皇領ズアーブ兵護衛隊、そして戦意の高い外人部隊第5大隊(アラゴ少佐指揮)でした。
ローマ教皇領のズアーブ兵
B第3旅団を率いたアルベルト・フォン・ロート大佐(前B第1連隊長でセダン戦後に昇任)は、B猟兵第1大隊の第4中隊に街道を直進させ家屋群中央での戦闘を継続して仏軍を拘束すると、B第3連隊第1大隊を右翼(西)へ、B猟兵第1大隊第1中隊を左翼(東)側で視界を遮るブドウ園へとそれぞれ送り出し、更にB第3連隊第2大隊に対し街道と併進する鉄道堤の両側を進むよう命じました。
これにより銃撃と白兵戦を交えた更に激しい戦闘が発生しますが、犠牲を厭わず進んだB第3旅団はじわじわと仏軍を押して行き、遂にベル・エールの家屋群を占領、鉄道沿線のラ・カーヴと呼ばれた農家(ベル・エールの南東側にありましたが現存しません)を奪取しました。しかしこの戦闘中B第3連隊第2大隊長だったライツェル少佐が突撃の先頭に立って戦死し、旅団は他にも多くの死傷者を出しています。
ロート大佐は拠点確保に成功したとはいえ、パリ街道の両側に広がるブドウ園や南へ続く家屋列に潜んだ仏軍の銃撃は衰えることがなく、これを排除するには更に多くの犠牲が必要と予測されます。しかも日は西に傾き、夜までにオルレアンを占領したいと考えていた前線指揮中のB第2師団長、イグナス・シューマッハ少将は午後4時、ラ・プティ・スージを経由して前進して来たB第3旅団の後衛2個大隊(B第3連隊第3大隊、B第12連隊第2大隊)に対し、「最前線に進み参戦せよ」と命じます。これで手近の部隊を使い切ったシューマッハ将軍は、新参2個大隊の突撃により戦線に孔が開くのを期待しますが、B軍2個大隊は最初の突撃こそ成功して仏軍の先鋒を排除することに成功するものの、必死で抵抗する仏軍によってそれ以上進撃することが適わず、ここに午後5時までおよそ1時間に及ぶ激しい銃撃戦が発生しました。
B第3旅団はベル・エールの家屋群とその付近で持久戦に入り、仏軍もレ・アイド(街道沿いの家屋列街区。ベル・エールの南900m付近)とその周辺ブドウ園を前線としてB軍の進撃を阻止したのです。
シューマッハ
これより以前、サランを占領したB第4旅団長のフーゴ・フォン・デア・タン少将は、自旅団左翼(東側)南のベル・エール付近でロート大佐の旅団が敵と衝突し激戦が開始されたことを知り、旅団に属した6ポンド砲3個中隊を集合させてサランからレ・アイド方面を砲撃させ、B第10連隊の半大隊(第1~6中隊)をロート大佐への増援として送り出しました。
この増援隊の先頭を行く第5中隊は、前線に先着するとB第3連隊兵と共同してレ・メリニエールの農家(ベル・エールの西、サラン街道の西側にありました。その地点は現在家屋が建ち並び、現存するか不明です)から仏軍を追い出し、ここを拠点に集合すると午後4時30分、サラン街道に沿ったレ・アイドの農家群と周辺の家屋に向かい突撃を敢行しました。しかし、これはたちまち阻止されて持久の銃撃戦となってしまいます。するとここにフォン・デア・タン少将が追加で送ったB第13連隊の第3大隊が到着、レ・ボルドとレ・ミュランの家屋群(それぞれレ・アイドのサラン街道とパリ街道との分岐点から西へ1キロと南南西へ1キロ付近)から仏軍を駆逐するとレ・アイドを北・西・南の三方向から包囲する態勢を築きました。因みにこの大隊長の子爵フォン・グッペンベルク少佐は重傷を負って後送され、同じく負傷したものの「傷は軽い」として後送を拒否したハーグ大尉が代わって大隊の指揮を採っています。
退路(南東)を塞がれることを恐れた仏軍は、遂に耐え切れず鉄道堤を越えてレ・アイドの東側へ退却して行きました。なお、外人部隊を率いていたアラゴ少佐はサラン街道とパリ街道との分岐点の戦闘で戦死を遂げています。
レ・アイド/アラゴ少佐の死
昼過ぎから戦い続けたB軍諸隊*は、こうして犠牲を重ねオルレアン北郊外の家屋群を占領し、頑強に抵抗していた仏軍を後退させました。
B第4旅団本隊は午後5時にグランジュ・デ・グルエ(レ・ミュランの南側、鉄道堤付近にあった家屋。現存しません)とその西側のサン=ジャン=ドゥ=ラ=ルエル(郊外部落。レ・ミュラン家屋群の西南西1.5キロ)東郊へと進み、オルレアンの街を囲むように延びる鉄道堤に陣取る仏軍散兵と再び激しい銃撃を交わすのでした。
※レ・アイドに進んだB軍諸隊
○B第3旅団
*B猟兵第1大隊・第1,4中隊
*B第3連隊・第1大隊
*B第3連隊・第3大隊
○B第4旅団
*B第10連隊・第5,6,7,11中隊
*B第13連隊・第3大隊と第5中隊
一方、B第3旅団でオルレアンの森を通過することとなったB第12連隊長ナルシス大佐率いる左翼警戒隊5個(B第12連隊の第1,2,9,10,11)中隊は、午前中にセルコット(シュヴィイの南4.8キロ)の東側で仏軍のズアーブ兵部隊に遭遇します。これはつい最近までローマに駐留していた部隊(前述した教皇領部隊)でしたが、ナルシス隊から攻撃を受けると短時間で防戦を切り上げ森から退却します。
午後に入り森を抜けた部隊はラ・フロヌリー(農家。サランの東2.8キロ。現存しません)を経由して前進し、ラ・カーヴで戦うB第3旅団の左翼部隊(B第3連隊第2大隊、B猟兵第1大隊第2,3中隊)と連絡しつつ鉄道堤に沿って南下を継続しました。この後、部隊はB軍の最左翼として仏軍右翼(東)に圧力を加えつつレ・アイドの戦闘を少しでもB軍有利にしようと奮戦するのです。
この鉄道堤に続くレゾブレ停車場(レ・アイドの南東800m付近。現・オブレ=オルレアン駅)には仏軍が急ぎ防御工事を行い、また多くの兵士を置いていたため、ここでも暫く持久の銃撃戦となりましたが、およそ7個中隊のB軍(B第12連隊第3大隊、B第3連隊第8中隊、B猟兵第1大隊第2,3中隊と第1中隊1個小隊)による攻撃で陥落します。
ナルシス大佐は、左翼警戒隊のB第12連隊5個中隊と途中ラ・カーヴから同道したB第3連隊第7中隊の先頭に立ち、レゾブレの南側鉄道分岐点にあったガス局(ガス供給ポンプ場)に突撃してこれも奪取しました。
それ以前に軍団予備となったB第3連隊第1大隊と左翼警戒隊の間に開いた空間を埋め、両者と連絡するために進んだB第2旅団前衛のB猟兵第4大隊(結局B第2旅団で戦闘に参加した唯一の部隊となります)は、ガス局でナルシス隊に合流します。
ところが、このガス局と鉄道分岐点はオルレアン防衛の仏軍にとっても重要な場所だったため、仏軍は再三再四突撃を敢行して来ました。ナルシス大佐らは必死で防戦に努めますが死傷者もまた多く発生し、B第12連隊第3大隊長のフォン・タイン少佐が戦死、同連隊第1大隊長のクレス・フォン・クレッセンシュタイン少佐も重傷を負ってしまいます。ナルシス大佐は弾薬が残り僅かとなったとの報告を受けると、全滅を免れるためにも後退を決意し、諸中隊をレゾブレ停車場まで下げました。
しかしこの後退を「B軍崩壊の兆し」と見た仏軍が一気果敢に停車場まで押し寄せたため、レゾブレ停車場でも銃撃戦に続く凄惨な白兵戦となります。ここではB軍も一歩も退かずに正規軍戦列歩兵や外人部隊を主体とする仏軍精鋭の攻撃を防ぎ、やがて勢いが衰えた仏軍に対し逆襲を行うと一気にガス局と鉄道分岐点、そして周辺に広がるブドウ園を占拠し仏軍を駆逐したのです。
鉄道堤で防戦する仏軍
☆ 独軍右翼側・午後5時から午後8時
このB軍左翼(東)側のレ・アイドからレゾブレに掛けての激戦が行われていた時、フォン・デア・タン大将は自軍戦線最右翼(西)でも攻勢を仕掛け、日没前にオルレアンを陥落させると決意しました。
午後5時。大将はビルヌーブのB第1旅団に対し「ル・グラン・オルムの普第43旅団とサン=ジャン=ドゥ=ラ=ルエルのB第4旅団との間に進出せよ」と命じ、最前線近くまで進んだ普軍の軽砲第5中隊に「ル・グラン・オルム付近のブドウ園に進んで砲列を敷き、仏軍のオルレアン最終防衛線を砲撃せよ」と命じました。
普軍軽砲中隊が砲撃を開始すると同時に、B第1旅団を率いるカール・リッター・フォン・ディートル少将は部隊と共にシャトーダン街道から沿道に続くブドウ園を経てル・グラン・オルムに到着します。この時B第4旅団は前進命令を受け、既にその右翼(南西)側が目前に延びる鉄道堤へ突撃を敢行していました。この突撃にはB第1旅団から先行していたB猟兵第2大隊も参加しています。しかしこれは堤に散兵線を敷いた仏軍の猛射撃で挫折し、やって来たB第1旅団の目前で再集合となりました。
フォン・デア・タン大将に命じられ前線で右翼攻撃の調整を行っていたB第1軍団参謀長のアドルフ・フォン・ハインレト中佐は、鉄道堤の仏軍から死角となる遙か西側の道路から堤を越えることを提案、これを普第32連隊が実行に移して鉄道堤を越えました。すると仏軍の左翼端が包囲を恐れて退却を始め、鉄道堤に構える仏軍全体も一気にサン=ジャン(=ド=ラ=ルエル)のB第4旅団右翼端をすり抜けるようにオルレアンの外周道路方向へ退却してしまうのです。
これを見た普第95連隊は鉄道堤へ到達し、その左翼ではB第1と第4旅団も急進して堤に達しました。
鉄道堤へ突撃するバイエルン兵
「今がオルレアンに攻め入る機会」と感じたフォン・ハインレト参謀中佐は、これまで軍団予備としてシャトーダン街道上で待機していたB第1連隊に駆け寄ると「我に続け」とばかり連隊を街道へ導きます。
駆け足で進んだ連隊はサン=ジャンを抜けると一気に仏軍防衛線に迫り、オルレアン市の入り口でシャトーダン街道を封鎖していた税関の防柵前に至りました。しかし護る仏軍も必死で、ここでB第1連隊は激しい銃撃と次々に投じられる手榴弾のために前進を妨げられ、1時間に渡る激しい攻防戦が始まりました。
既に街道を行く際に負傷していましたが後送を拒絶して指揮を採り続けていたB第1連隊長のフォン・リューネシュロス少佐は、ハインレト中佐や大隊長・中隊長らと共に連隊の先頭に立って士気を鼓舞し、仏軍の抵抗が弱まったと見るや連隊は大声を上げて最後の突撃を敢行します。
先兵がオルレアンを囲む外周道路に沿った隔壁に開いた小門の一つを破壊することに成功すると、B軍はオルレアン市になだれ込み、将兵は平行して市の中心部へ走る2本の通りを疾走して背走する仏軍と戦い、その先頭に立っていたB第1連隊は午後7時、遂に市街中心部のマルトロワ広場(真ん中にジャンヌ=ダルクの騎馬像が聳えます)に達するのです。
ハインレト
これで勝敗は決しました。
普第43旅団とB第1、B第4旅団の各中隊はロワールに架かる大橋(現・ジョルジュ=サンク橋)目指し一気に退却する仏軍を追撃して、サン=ジャンとバニエ(オルレアン市北の衛星部落)を通過すると市を囲む外周道路に到達します。
これに先立ちフォン・デア・タン大将とヴィッティヒ中将は、共にB第1連隊に後続してオルレアン市に入城しますが、既に日没間際となったため、大橋や他の渡し場からロワールを越えて急速に撤退する仏軍の追撃を諦めました。
大将はB第1旅団と普第43旅団に命じ、夕闇が迫る中、急ぎ市内の重要な建物と仏軍の消えたロワール大橋の占領を行わせます。
両旅団は哨兵を各拠点に配すると市の広場や河畔の空き地などに野営を始め、残りの兵団各隊も戦闘終了時点で確保した各地で宿営地を見つけ、長い一日を終えました。
仏第15軍団の先発した主力は、夜遅くまでにラ・フォルテ=サン=トーバン(オルレアンの南20.4キロ)周辺で集合し、独軍が直ぐ背後に迫る中、辛うじてロワールを渡ることが出来た後衛残兵も翌日以降ぽつぽつと主力の下に到着します。仏軍はこのまま14日までこの地で野営を続けました。
オルレアンの戦い/鉄道堤の攻防
「第1次オルレアンの戦い(10月)」における独軍の損害は総計932名となり、その半数近くは市の北部で激戦を繰り広げたB第3旅団のものになりました。
※「第1次オルレアンの戦い」独軍の損失
○B第1旅団
戦死/士官1名・下士官兵8名
負傷/士官2名・下士官兵14名
行方不明/下士官兵3名
○B第2旅団(B猟兵第4大隊)
戦死/下士官兵3名
負傷/下士官兵6名
*軽騎兵第3連隊
戦死/馬匹2頭
○B第3旅団
戦死/士官14名・下士官兵133名・馬匹1頭
負傷/士官10名・下士官兵231名・馬匹2頭
行方不明/下士官兵15名
○B第4旅団
戦死/士官3名・下士官兵57名
負傷/士官11名・下士官兵143名
行方不明/下士官兵21名
○B第1軍団砲兵隊
戦死/士官1名・下士官兵3名・馬匹20頭
負傷/士官1名・下士官兵20名・馬匹31頭
○普第22師団
戦死/士官5名・下士官兵47名・馬匹21頭
負傷/士官11名・下士官兵179名・馬匹13頭
行方不明/下士官兵5名
○普騎兵第4師団
戦死/馬匹1頭
負傷/下士官兵3名・馬匹1頭
行方不明/下士官兵2名・馬匹1頭
○総計
戦死/士官24名・下士官兵248名・馬匹45頭
負傷/士官35名・下士官兵579名・馬匹47頭
行方不明/下士官兵46名・馬匹1頭
仏軍は戦死300名・負傷400名、戦闘中とオルレアンからの退却で1,800人余りの捕虜を出しています。
フォン・デア・タン兵団が鹵獲した物資の中には各種小銃5,000挺以上、鉄道機関車10輌と貨車・客車およそ60輌が含まれていました。
レ・アイドの三叉路にあるアラゴ少佐の記念碑




