第1次オルレアンの戦い(10月11日)・前
「アルトネの戦い」終了後、独軍分遣兵団を率いる男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将は、仏軍がアルトネから潰走状態で後退したことにより「このままロワール川へ進んでも仏軍の強力な抵抗に遭うことは少ないだろう」と考え、「明日(11日)、兵団は広く横に展開してオルレアンへ進撃せよ」と命じました。
アルトネの戦い・バイエルン胸甲騎兵の追撃
この方針により、普第22師団はレ・バール(オルレアンの北西11.7キロ)付近でオルレアン~シャトーダン街道(現・国道D955号線。以下シャトーダン街道)へ達し、B第4旅団はジディ(同北北東10.9キロ)を経由してオルレアンへ、B第3旅団と後続するB第1師団(B第1旅団、B第2旅団の順)はオルレアン~パリ街道(現・国道D2020号線。以下パリ街道)をそのまま南下してオルレアンへ、それぞれ向かうよう命令が出されます。
同時に、普騎兵第4師団には「シャトーダン方面を警戒しつつ1個旅団をムン(=シュル=ロワール。オルレアンの西南西17.6キロ)付近に送り、ロワール川を渡河する用意を成せ」と命じ、普騎兵第2師団には「兵団左翼警戒を成し、アシェール=ル=マルシェ(同・北北東24キロ)から警戒部隊をオルレアンの森に侵入させよ」との命令が下りました。
また、B第1軍団砲兵隊より5個中隊が普第22師団へ送られ、同じくB両師団に2個中隊ずつが派遣されました。
B胸甲騎兵旅団は普第22師団に転配されますが、その騎砲兵2個中隊は普騎兵第4師団に残されました。
※10月11日におけるフォン・デア・タン兵団の砲兵力
○普第22師団(9個中隊/52門)
*師団砲兵隊
・普野戦砲兵第11連隊/重砲第3中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第3中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第4中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第5中隊(第11軍団砲兵)
*B第1軍団砲兵
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第7中隊
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第8中隊
*B第1軍団付砲兵(10月上旬~8日までに本国より到着)
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第9中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第11中隊(1個小隊欠・4門)
・B砲兵第3連隊/12ポンド砲第12中隊
○B第1師団(6個中隊/36門)
*師団砲兵
・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第2中隊
・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第4中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第6中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第8中隊
*B第1軍団砲兵
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第3中隊
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第4中隊
○B第2師団(6個中隊/36門)
*師団砲兵
・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第1中隊
・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第3中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第5中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第7中隊
*B第1軍団砲兵
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第5中隊
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第6中隊
○普騎兵第4師団(3個中隊/18門)
*師団砲兵
・普野戦砲兵第11連隊/騎砲兵第2中隊
*B胸甲騎兵旅団砲兵
・B砲兵第3連隊/4ポンド騎砲兵第1中隊
*B第1軍団砲兵
・B砲兵第3連隊/4ポンド騎砲兵第2中隊
※普野戦砲兵第5連隊/騎砲兵第1中隊は別動支隊配属
○普騎兵第2師団(2個中隊/12門)
*師団砲兵
・普野戦砲兵第2連隊/騎砲兵第1中隊
・普野戦砲兵第6連隊/騎砲兵第3中隊
仏ロワール軍(この時点では仏第15軍団主体。仏第16軍団の編成完了間近)司令官ドゥ・ラ・モット=ルージュ将軍は、アルトネでの敗北を受けて「訓練不足と疲弊、そして戦意にも疑問符が付く将兵の有様では、まともな戦闘は無理」と考え、一旦後方に下がり立て直すこととして「全軍ロワールを渡河して南方に後退する」よう麾下に命じます
モット=ルージュ
オルレアン近郊に集中していた諸部隊は10月11日早朝よりロワール渡河を開始し、この後退援護のためにおよそ15,000の兵力からなる後衛が準備され、これら後衛に指定された部隊はシャトーダンへの街道とパリへの鉄道線の間、街道沿いに民家が密集しその周囲にはブドウ園を中心とする果樹園が広がる一帯に展開し、シャトーダン街道ではオルム(オルレアンの北西8キロ)付近に堡塁が造られ封鎖されました。
※10月11日・仏ロワール軍のオルレアン市後衛
○第15軍団 第3師団
◇第1旅団(一部)
*マルシェ猟兵第6大隊
*マルシェ第33連隊
◇第2旅団(一部)
*マルシェ第27連隊
*マルシェ第34連隊
○第15軍団 第2師団
◇第1旅団
*マルシェ猟兵第5大隊
*戦列歩兵第39連隊
*護国軍第25「ジロンド県」連隊
*外人部隊(「第5大隊」1,300名)*
○戦列歩兵第4連隊・数個中隊
○ローマ教皇領ズアーブ兵護衛隊(数個中隊規模?/ローマに駐屯していた部隊)
○護国軍第12「ニエーヴル県」連隊
○マルシェ猟兵第8大隊
○騎兵(部隊数など不明)
○砲兵(同)
外人部隊のラッパ手
※高名なフランス外人部隊/レジィヨン・エトランジェールは、士官は純粋な仏国軍人で、下士官兵のみ仏国に忠誠を誓った外国籍兵士で構成されています(例外として、忠誠心と優れた成績を上げた外国人が士官登用される事があります。人員構成は現在も同じです)。
よく勘違いされますがこの部隊は「外国人傭兵部隊」ではなく「フランス陸軍」の歴とした正規部隊で、1831年、ルイ=フィリップ王政初期に「仏国人の手を汚さぬため」創設されました(植民地獲得で仏人戦死者が急増し世論が沸騰したので批判をかわすためだったと言われています)。
1870年当時は4個大隊(1個大隊は2個中隊)の「連隊規模」(兵員2,800人前後)で構成されていましたが、普仏戦争が勃発するとドイツ系の兵士が多かった(約半数と言われます)ため「同胞と戦えと命じることは出来ない」として単独での戦闘行動を禁じられアルジェリア植民地に止め置かれていました。
しかし9月に入って帝政が倒されると、「猫の手も借りたい」新・国防政府は「非ドイツ系」2個大隊を本土へ送るよう命じます。
部隊はドイツ系兵士全てを含む2個大隊と軍楽隊、そして大切な連隊旗を本部のあるシディ・ベル・アッベス(アルジェリアのオラン南56キロ)に残し、独との戦いに「違和を感じない」兵士による2個大隊(士官60名・下士官兵1,457名)は南仏トゥーロン港で仏本土に上陸した後ロワール軍に編入されました。
また、トゥール派遣部により別個「第5大隊」が編成されますが、これは仏本土で募集された「フランスを第二の故郷とする外国人ボランティア」たちによる部隊でした。彼らは急遽オルレアンに送られ、この10月11日にオルレアン北郊外でB軍相手に死闘を繰り広げました。
その後ロワール軍の外人部隊は10月26日に合同して正規連隊規模(2,700名)となりますが、12月に掛けての諸戦闘で消耗して行きます。その補充は訓練未了の者たちばかりで影が薄くなって行き、最後は「東部軍」に属して戦うことになります。
外人部隊の兵士(1870年)
☆ 独軍右翼(西側)・オルムの戦闘(午後3時過ぎまで)
この日、歩兵が6,000名余り(約14個中隊を別任務で欠き、傷病兵も多くあり定員のおよそ半数となっていました)のみで出陣した普第22師団は、空が白み始めると活動を開始してダンブロンを発ちました。その先鋒は驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊で、通過目標のブレ(=レ=バール。オルレアンの北西12.5キロ。現在部落の北西には第123「ブリシー=オルレアン」空軍基地が広がっています)に達すると仏軍の2個騎兵中隊と衝突します。多勢に無勢の仏軍騎兵はたちまちレ・バール部落へ後退し、この部落を守備していた歩兵と共に抵抗しますが、普第22師団に配属されたB軍砲兵が到着して午前9時15分に砲撃を開始し、接近した連隊規模の普第44旅団がアルディ(小部落。ブレの南東1キロ余り)で突撃の準備を始めたのを見ると仏軍は一斉にレ・バールからも後退して行きました。
普第44旅団はB砲兵5個中隊を引き連れ、仏軍と入れ替わる形でレ・バールに達し、ここでシャトーダン街道に至ると街道に沿って南東側のオルムに向かい前進を始めます。
同じくB胸甲騎兵と師団砲兵4個中隊を引き連れた普第43旅団はブレに至ると第44旅団の左翼(北)側を同じくオルム目指して進み始めました。
戦意に乏しかったこの方面の仏軍は、午前10時頃レ・バールから退却した友軍から独軍の接近を知ると、せっかく迎撃拠点として防御工事を施してあったボワ・ジラール(オルムの北北西1キロにある農場。現存)とその周辺の陣地も放棄してオルム堡塁後方へ逃げ込みました。接近する普第22師団に対しては、堡塁の西側に砲列を敷いていた仏軍砲兵1個中隊が猛然と砲撃を開始したのです。
※10月11日朝・普第22師団の戦闘序列
○第43旅団
*第32「チューリンゲン第2」連隊
・第1、2、フュージリア(F)大隊
*第95「チューリンゲン第6」連隊(2個中隊欠)
・第2大隊、第1~3,10~12中隊
○第44旅団
*第83「ヘッセン第3」連隊(3個1/3中隊欠)
・第1大隊、第5,6,10,12中隊、第11中隊の4個小隊(2/3中隊)
*第94「チューリンゲン第5/ザクセン大公国」連隊(9個中隊欠)
・第1,2,4中隊
○驃騎兵第13「ヘッセン第1」連隊
○野戦砲兵第11連隊の4個中隊(中隊名は前述)
○第11軍団野戦工兵大隊
・第2,3中隊
○軍団第2衛生隊
○B胸甲騎兵旅団
*B胸甲騎兵第1「カール王子」連隊
*B胸甲騎兵第1「アダルベルト王子」連隊
*Bシュヴォーレゼー(軽)騎兵第6「伯爵コンスタンティン・ニコラエヴィッチュ」連隊
○B軍砲兵の5個中隊(中隊名は前述)
普第22師団長男爵フリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッティヒ少将は行軍中に「オルムに敵の大軍あり」との斥候報告を受けていましたが、これに対抗するため普B混成の砲兵7個中隊をボワ・ジラールとレ・マジュール(農場。オルムの北西950m。現存)付近で遺棄されていた仏軍の散兵壕に沿って展開させ、まずはオルム堡塁西で独り砲撃を続けていた仏軍砲兵中隊を叩いて後退させました。
※オルム堡塁前面の独砲兵列
右翼(南)から
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第8中隊
・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第7中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第5中隊
・普野戦砲兵第11連隊/重砲第3中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第3中隊
・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第9中隊
・普野戦砲兵第11連隊/軽砲第4中隊
しかし、いくら精悍な独軍砲兵を以てしてもオルム堡塁とその周辺からは猛烈な銃撃が続いたため、普第44旅団歩兵はオルムに接近することはおろか自らを守るためにも遮蔽物から動くことが出来ません。
3個中隊だけの普第94連隊はレ・マジュールに、普第83連隊はシャトーダン街道沿いの雨水溝を散兵壕代わりにしてオルムの仏軍と散発的な銃撃戦を行ったのです。これを見たヴィッティヒ将軍は仕方なく後続を待ったのでした。
その後続の普第43旅団は、主力である第32連隊のF大隊を前衛としてボワ・ジラールの東を抜けて仏軍右翼(北)へ接近しました。
新たな敵が現れるとオルムの仏軍右翼は動揺し、レ・シャバス(ボワ・ジラール東南東750m付近の家屋群)やラ・ボルデ(同東南東1.3キロ)と呼ばれる地区から撤退を始めたように見えました。これに乗じたF大隊は、後方から進んだ第1大隊を迎え前進を続行してオルムへ向かいましたが、部落郊外に達すると掌を返したような猛烈な銃砲撃が開始され、2個大隊の将兵は慌ててその場に伏せ銃撃戦を開始します。これは持久戦の様相を見せ始めたため、左翼(北)に増援として普第95連隊の大部分も迎え入れるのです。後方には予備として普第32連隊第2大隊が残りました。
オルムの戦闘はこのまま午後1時までだらだらと続き、ここで漸く仏軍右翼側の銃撃が弱まり、この状況変化を見たヴィッティヒ将軍は普軽砲第5中隊とB6ポンド砲第8中隊に前進を命じ、両中隊はオルムの堡塁まで600mにまで迫って急ぎ砲を並べ、至近から速射を行ったのです。
第83連隊を率いるアルトゥール・マルシャル・フォン・ビーバーシュタイン大佐は援護砲撃の下、頑強に抵抗する仏軍陣地に向けて突撃を敢行しました。連隊はこの突撃で多くの死傷者を出しますが仏軍陣地を攻略して仏将兵を駆逐し、完全装備のまま放棄された大砲の前車や弾薬を満載した弾薬馬車数輛を鹵獲したのでした。
仏軍はオルムと急造堡塁を棄ててオルレアン市内へ退却します。この時、普第43旅団はオルムの南東でシャトーダン街道へ到達しますが、ここで逃げ遅れた仏将兵800名の捕虜を得るのです。
オルムの戦い
午後2時にオルムが陥落した後、普第22師団はシャトーダン街道とその北側をオルレアンに向かい前進しました。普第83連隊第1大隊は街道上で第44旅団の先頭に立ち、その北側では第95連隊がほぼ並進して第43旅団の先頭に立ちました。
しかしオルムから南東オルレアン郊外までは小部落や農場、開墾地や麦・甜菜などの畑、そして視界を遮るブドウ園がモザイク状に広がっており、そこかしこの遮蔽の陰に仏軍の散兵が隠れている可能性もあって普軍師団の行軍は慎重でゆっくりとしたものでした。このような場所では騎兵の集団使用は危険となるため、驃騎兵第13連隊はオルム近郊のラ・ボルデやビルヌーブ(オルムの南東1.7キロ)に留め置かれたのです。
普軍とB砲兵の縦列2本は午後3時、ル・グラン・オルム(オルレアンの北西4.5キロ)付近に集合し、普第95連隊のみは仏軍の前哨兵を駆逐しつつ先行してル・プティ・サン=ジャン(ル・グラン・オルムの南東860m)近郊まで進みました。
師団長のヴィッティヒ将軍は、師団の戦力規模(通常の3分の2)を考えてオルレアン市内突入を「B軍が左翼(北東)に並ぶまで」待とうと考え、この部落を最前線に一時待機に入ったのでした。
フォン・デア・タン歩兵大将は、普軍師団が前進を始めるとその側方援護のために計画を変更し、B第3旅団の後方を進んでいたB第1旅団をシュヴィイで南西方へ転進させ、旅団はポミエ(農場。オルムの北東3.2キロ。現存)を経由して普軍の動きに合わせオルムへと向かい、最終的にビルヌーブへ至りました。
普騎兵第4師団(シャトーダンの東で警戒する普第9旅団を除く)は追加命令によって普騎兵第10旅団をサン=ペラヴィー=ラ=コロンブ(オルムの北西10.7キロ)から転向させ仏軍左翼(南)方向へ進みますが、前述通りオルムの南方は騎兵の運動を妨げる地形のため、その先へ進むには歩兵の同行が欠かせなくなり、停止を余儀なくされていました。
また別動する普騎兵第8旅団はジェミニー(ラ=コロンブの南4キロ)部落と付近の森林に潜む仏軍歩兵から銃撃を浴びせられ、目標のムン(=シュル=ロワール)へ進むことが出来ませんでした。
師団長のアルブレヒト親王は、やむを得ず両旅団をラ・マルティニエール(農場。オルムの南西2.4キロ。現存します)付近まで進ませて集合させ、こちらも待機に入ったのです。




