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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
353/534

アルトネの戦い(10月10日)

 10月8日夜。エタンプのフォン・デア・タン歩兵大将の下にベルサイユの第三軍本営から参謀士官が1名、軍命令を持って訪れます。

 士官は本営の命令書と口頭で今後の方針を伝え、それに因れば「フォン・デア・タン将軍は麾下全部隊を率い西方シャルトルから南方オルレアンに至る地方より敵を掃討、オルレアン市を占領する。機会があれば敵の本営があるトゥールへ向かい追撃を行う。騎兵両(第2,4)師団は将軍の隷下で兵団の両翼を進み並進せよ」との命令でした。

 この8日夕刻までに集まった情報では、アンジェヴィル(エタンプの南西18.3キロ)とメレヴィル(同南南西14.4キロ)付近、並びにオルレアン~パリ街道(現・国道N20号線)の西側に出現した仏軍は大した数でなく、前哨や斥候隊もしくは義勇兵の類と思われました。このため、命令を受けたフォン・デア・タン将軍は、敵に向かう3つの縦隊を組織して同時に両騎兵師団を両翼から進撃させ、オルレアンで敵を大きく包囲しようと謀るのでした。


※9日のフォン・デア・タン兵団の行軍

○右翼(西)隊・B第4旅団

○中央隊・B第1、第2旅団

○左翼(東)隊・B第3旅団

○後続・普第22師団

○右翼外・普騎兵第4師団(B胸甲騎兵旅団含む)

○左翼外・普騎兵第2師団


 翌9日午前6時30分。フォン・デア・タン兵団は行動を開始します。


 中央の縦隊先頭はB第1旅団でオルレアン街道を南下しました。

 街道の西側を警戒しつつ本隊に先行したB猟兵第2大隊は、まずアンジェヴィル近郊の「レトレヴィルの家」(フェルム・ドゥ・レトレヴィル。アンジェヴィルの北北東3.1キロにある農場。現存します)を占拠しました。ここでアンジェヴィルの様子を窺うと、部落は多数の義勇兵により守備されていることが分かりました。

 同道したB軽(シュヴォーレゼー)騎兵連隊第3連隊は仏軍の退路を断つため部落の南側に回り込みます。B猟兵は街道を疾駆し到着したB砲兵第1連隊4ポンド砲第1中隊の1個小隊(2門)の援護砲撃を待ってから東と南2面よりアンジェヴィルへ突撃を敢行し、仏の義勇兵たちはたちまち捕虜となってしまうのでした。アンジェヴィル西郊外のドメルヴィル小部落にいた義勇兵はとっくに離散していました。

 街道を進んだ旅団本隊はモンヌヴィル(アンジェヴィルの北東5.3キロ)とアンジェヴィル郊外に達した時にそれぞれ仏軍前哨と遭遇しこれを撃破して進みます。旅団はこの日これ以上仏軍に遭遇することなくバルマンヴィル(トゥーリーの北北東7.9キロにある農場)に至りました。


 街道の両脇を進んだ中央縦隊のB第2旅団も敵に遭遇することなく、この日はB第1旅団の両脇を抜けて先へ進み、オワンヴィル=サン=リファール(トゥーリーの北北西4.4キロ)とサン=ペラヴィー=エプルー(同北東4.5キロ)で野営しました。

 普第22師団はB軍の後方を進んでアンジェヴィルで宿営しています。

 右翼縦隊となったB第4旅団はオルレアン街道のはるか西を進み、この日はボードルヴィル(アンジェヴィルの西北西7.2キロ)で宿営となりました。

 騎兵第4師団は前日に配属が決まったB胸甲騎兵旅団と共にB第2旅団後方のヌヴィー=アン=ボース(トゥーリーの北北西9キロ)に到着しています。


 左翼縦隊のB第3旅団はエタンプからジュイーヌ川の渓谷を進み、昨日普騎兵第2師団が戦ったサクラを経て南下し、「ラ=ヴァレ=ノワールの家」(農場。サクラとメルヴィルの間にあったものと思われます。現存しません)で義勇兵の一団と戦いこれを駆逐すると、この日はメレヴィルとアランヴィル=アン=ボース(トゥーリーの北東10キロ)の間の諸部落で宿営しました。

 騎兵第2師団はその前方を進んでこの日はウタルヴィル(同東北東6キロ)に至ります。

 この騎兵師団斥候はギヌヴィル(ピティヴィエの北西6.8キロ)付近で仏軍前哨と小時間戦闘を交えて帰還しましたが、彼らは「諸兵科混成の大部隊がピティヴィエにいる」と重要な報告を上げるのです。


 この「兵団左翼前方に敵の大部隊」との報告は当然フォン・デア・タン大将の下にも届きました。しかし将軍は「あくまで目標はオルレアン」として左翼側から「被られる」危険に目を瞑り、以下の通り翌日の命令を発するのです。


 「B第1軍団は翌10日、トゥーリー、アルトネ(トゥーリーの南南西13.4キロ)、ス二ー(同南南西19.2キロ)へ向かいそれぞれ前進せよ。普第22師団はB軍団の後方を進みトゥーリーの南郊外まで前進せよ。普騎兵第4師団は兵団右翼を進んでオルレアン~シャトーダン街道(現・国道D955号線)に向かい、その中間地点(トゥーリーの南西30.8キロのトゥルノワジ付近)まで進出せよ。普騎兵第2師団はピティヴィエ付近の敵に対応しギヌヴィル付近で布陣し警戒せよ」


 仏ロワール軍司令官ドゥ・ラ・モット=ルージュ将軍は10月8日の夕刻、迫り来る独軍に対応するためトゥールにおいて派遣部を含めた会議を開催し、今後の方針を定めました。この後急ぎオルレアンに戻った将軍は翌朝、市内外に集合した仏第15軍団主力*をアルトネへの街道へ、ルオー将軍の騎兵師団をその左翼(西)へ前進させ、ロアレ県の護国軍師団をオルレアンの森(オルレアンの北東方に広がる大森林)に送り展開させました。


※10月9日の時点で、仏第15軍団はヌベールに集合後オルレアンに向け移動した第1師団がジアン(オルレアンの東南東58キロ)に残した一隊と、「東部(ボージュ)軍」に増援として送られた第3師団の1個旅団を欠いていました。実際にアルトネまで進んだのはそれぞれの部隊の前衛となります。


※10月10日早朝・アルトネ周辺で配置に就いていた仏軍

○ミシェル准将騎兵旅団

・槍騎兵第2連隊

・槍騎兵第5連隊

・マルシェ竜騎兵第3連隊

○ガランド・ドゥ・ロングリュ准将騎兵旅団

・竜騎兵第6連隊

・驃騎兵第6連隊

○護国軍第12「ニエーヴル県」連隊

○シェール県護国軍の大隊

○マルシェ猟兵第4大隊

○マルシェ猟兵第8大隊

○マルシェ第29連隊

○アルジェリア・ティライヤール兵大隊

※ズアーブ兵2個連隊はアルトネ南郊外で待機


 B第1旅団*は10月10日の午前6時、全軍前衛としてバルマンヴィルを発し、午前9時過ぎにダンブロン(アルトネの北3.6キロ)の東側で仏ロワール軍の前哨部隊と衝突しました。


※10月10日早朝のB第1旅団行軍序列

○軽騎兵第3連隊・第2,3中隊

○B第1連隊・第1大隊(1個中隊欠)

○B砲兵第1連隊・4ポンド砲第1中隊の1個小隊(2門)

○B第1連隊・第2大隊(1個中隊欠)

○B砲兵第1連隊・4ポンド砲第1中隊の2個小隊(4門)

○B砲兵第1連隊・6ポンド砲第7中隊(6門)

○B「親衛」連隊(2個中隊半欠)

○B猟兵第2大隊


※B第1連隊・第2,5中隊はセダンの捕虜護送で、B親衛連隊第9中隊と第10中隊の半分は徴発隊として、同第12中隊は(軽騎兵第3連隊第4中隊と共に)輜重援護隊としてアルパジョンで、それぞれ任務に就いていました。


アルトネの戦い・戦場北部

挿絵(By みてみん)


 ダンブロンの東側、オルレアン~パリ街道付近で構えていた仏軍は街道筋の一軒家や鉄道堤に陣を敷いてB軍先頭を行くシュヴォーレゼー騎兵に撃ち掛けます。

 B第1旅団を率いるフォン・ディートル少将は、軽騎兵を街道西に見えた仏騎兵と対戦させてこれを駆逐すると、自身は歩兵4個大隊を率いてダンブロンより南へ進んで仏軍前哨と対陣し、本街道を越えて西側にB親衛連隊第2大隊と第3大隊(前述通り1個中隊半のみです。第11中隊と第10中隊の半分)そしてB第1連隊の第1大隊を、街道の東側にB第1連隊の第2大隊を、それぞれ展開させました。

 同時に砲兵2個中隊は護衛のB親衛連隊第1大隊と共に前線後方に砲列を敷き、B猟兵第2大隊は予備として後方北側に留まりました。


 しかし、B軍が展開する間に仏軍前哨は前進陣地を棄てて街道と東側のアッサス(小部落。アルトネの北北東2.2キロ)間に敷かれた本陣地へ後退し、逆に南側のアルトネ北郊外には仏軍の諸兵科混成集団が前進し現れました。同時に仏軍砲兵はアルトネの北750mに砲列を敷き始め、本格的な会戦へ移行する気十分に見えました。


 街道の東に展開するB第1連隊第2大隊は、アッサスの敵の側面を突くため東側に広がりましたが、ここで更に東側のヴィルシャ(小部落。アルトネの北東4キロ)から激しい銃撃を浴びせられます。アッサスからも側面に銃撃を受けた大隊は援護射撃を要請し、パリ鉄道の堤(パリ~オルレアン幹線鉄道は、本街道の東側に沿って走っています)を越えた東側に進んだ6ポンド砲第7中隊がヴィルシャに集中砲撃を行いました。砲兵援護のB親衛連隊第1大隊も第3,4中隊と第1中隊の半分を6ポンド砲列の前に展開し、ヴィルシャと対面しました。


 午前11時過ぎ、この戦場にB第2旅団が到着し、同行していたB第1師団長フォン・シュテファン中将は、同道した軍団砲兵2個中隊をドマルヴィル(小部落。ヴィルシャの北1.5キロ)の西側に進ませて砲列を敷かせ、アッサスへの砲撃を行っていた4ポンド砲中隊の砲撃を倍加させました。

 B第2旅団からはB猟兵第9大隊と数日前にバイエルンから到着したばかりの歩兵補充中隊が左翼(東)側に進んで戦線を強化し、街道の西へはB猟兵第4大隊とB第1旅団の予備だったB猟兵第2大隊が進んで戦線に加わり、入れ替わりでB第1連隊第1大隊は後方へ下がって予備となりました。


※10月10日のB第2旅団戦闘序列

*前線へ

○B猟兵第9大隊

○B猟兵第4大隊(1個中隊欠)

○B第2連隊・補充中隊

*後方予備

○B第11連隊・第2大隊

○B砲兵第1連隊・4ポンド砲第3中隊(6門)

○B砲兵第1連隊・6ポンド砲第5中隊(6門)


※B第2連隊・第1、第3大隊とB第11連隊・第1大隊は普軍騎兵師団へ派遣、B第2連隊・第2大隊とB猟兵第4大隊の第1中隊はセダンの捕虜護送で、それぞれ任務に就いていました。従ってこの日、B第2旅団は半分以下の3個大隊しか存在しませんでした。

本来ならB第2連隊の各大隊に配分されるはずの補充中隊は、連隊全てが出動中で合流出来ず、旅団直属としてそのままの中隊単位で戦闘に参加しました。


 B軍が増援を得て銃砲撃を倍増させたため、仏軍は徐々にアルトネ市街へ退却して行きます。その北郊外では仏軍は急ぎ独立した農家に防御工事を施し、散兵線が敷かれてB軍を待ち受けるのです。


挿絵(By みてみん)

アルトネの戦い・戦う仏第15軍団兵


 行軍当初から前衛のB第1旅団に同行したフォン・デア・タン将軍は、アルトネ周辺の敵情を観察すると、「敵はこの地で徹底抗戦するだろう」と予測、「両翼の友軍騎兵師団が攻勢位置に着くまで、まずは砲兵で徹底的に敵を叩く」とします。

 この命令により、B軍砲兵5個中隊はオルレアン~パリ街道の西側に砲列を敷き、午後2時にはオルレアン~シャルトル街道を進撃して来た右翼縦隊のB第4旅団付属砲兵と軍団砲兵隊も現地に到着し、この砲兵4個中隊が先程の5個中隊右翼(西)側からププリー(アルトネの北西3.5キロ)の南東郊外に至るまで砲を並べます。これらB軍砲兵9個中隊は、用意の出来た中隊より随時アルトネ周辺の仏軍に対し砲撃を開始しました。

 砲列右翼後方には砲兵の警護として軽騎兵第3連隊の第2,3中隊と同第4連隊の第1,2中隊が進み、これにはやがて到着した普第22師団の先鋒、普驃騎兵第13連隊が加わりました。


 オルレアン~パリ街道の東では、B第1連隊第2大隊がアッサス部落の仏軍を追い出してアルトネへ後退させると、そのまま敵を追ってアルトネの北東郊外に進んで展開しました。するとB砲兵第1連隊の6ポンド砲第7中隊がアッサスの南側高地に上って砲列を敷き直し、アルトネに対する砲撃を再開しました。

 このB軍左翼側の諸歩兵中隊は徐々に東側へ前線を延長し、アルトネの東側を包囲する態勢となります。


 轟く砲声を聞き及んだ左翼縦隊のB第3旅団は、クロット(=アン=ピティヴレ。アルトネの東北東14.8キロ)まで南進すると方向を西に変えてアッサス付近まで来援し、ここでフォン・デア・タン将軍の命令で総予備となって待機に入りました。この旅団に付属していた2個砲兵中隊は、アッサス南高地上の第1連隊6ポンド砲第7中隊の左翼側に進んで砲を敷き、砲撃を開始しています。

 この砲撃最中、普第22師団はダンブロンに到着し、B第4旅団本隊はオルレアン~シャルトル街道(現・国道D954号線)を急進中でした。


※午後2時~3時過ぎにおけるB軍諸砲兵中隊

 右翼(ププリ郊外)から順に東へ

○オルレアン~パリ街道の西側

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第6中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第5中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第8中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第4中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第1中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第4中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第3中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第5中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第3中隊


○オルレアン~パリ街道の東側

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第7中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第2中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第6中隊


挿絵(By みてみん)

アルトネの戦い・戦場へ急ぐバイエルン砲兵


 普騎兵第4師団とB胸甲騎兵旅団は、このフォン・デア・タン兵団右翼外をオルレアン~シャトーダン街道目指し南下しますが、途中トゥリフォー(アルトネの北西15.4キロ)南西の森林に潜んだ仏義勇兵から銃撃を受け、これに対し騎砲兵を使って義勇兵を排除した後、ロワニ=ラ=バタイユ(アルトネの西北西11.7キロ)に至ります。ここで東側からの砲声を聞き及んだ師団長アルブレヒト親王は、「オルレアン~シャトーダン街道へ至れ」との軍命令を無視して直ちに主力を率いて東へ転向するのです。


 この頃、師団の右翼別動隊として命令にあったシャトーダン(オルレアンの西北西47キロ)方面を警戒するため、騎砲兵1個中隊を連れ本隊の西を進んだ普騎兵第9旅団は、ヴァリーズ(ロワニの西南西16.5キロ)に達し、13キロほど西のシャトーダンへ斥候を送りました。

 この斥候は、「シャトーダン市街には仏軍がおり、市街及び周辺部落の住民が武装していて銃撃を受けた」、と報告しました。


 一方、アルブレヒト親王率いる騎兵3個旅団は、アルトネで戦うフォン・デア・タン兵団の左翼側に出るとウヴァン(農場。アルトネの西5.2キロ。現存します)付近でアルトネに向いて展開し、騎砲兵3個中隊が砲を並べると、オヴィイエ城館(同南南西2.3キロ。現・救世軍の施設)とオートロッシュ(同西1.4キロ)に構える仏軍を狙って砲撃を始めました。この地の仏軍は強力な諸兵科混成部隊で、その砲兵2個中隊が北方のB軍に対し砲火を開いていました。


※アルブレヒト親王がアルトネで率いた騎砲兵

・普砲兵第11連隊/騎砲兵第2中隊

・B砲兵第3連隊/騎砲兵第1中隊

・B砲兵第3連隊/騎砲兵第2中隊


 普騎兵第2師団は、斥候からピティヴィエの仏軍が撤退したとの報告を受けると、アルトネへ向け転進しました。午後2時には先行した騎砲兵2個中隊がトリネ(アルトネの東5.6キロ)に達すると、直ちにビュシー=ル=ロワ(同南東3.7キロ)北方の高地へ前進し、既に同高地上で砲撃を行っていたB砲兵第1連隊の6ポンド砲第6中隊の左翼(南)へ砲を敷きます。師団本隊は順次その後方に到着し、待機するのでした。


挿絵(By みてみん)

アルトネの戦い・バイエルン兵とズアーブ兵


 このようにアルトネを三方から包囲した独軍は、更に普軍騎兵が南側へ回り込みオルレアン本街道を窺います。

戦意は高いものの訓練未了の護国軍兵を主体とし、遥かアルジェリアから行軍を続けて到着間も無い植民地兵と、お互い顔も知らないのに集成されて大隊単位とされた僅かばかりのマルシェ兵たちはこの「恐怖」に耐えることは出来ませんでした。

 完全包囲を逃れようと、仏軍は午後2時過ぎにアルトネ市街から撤退を始めるのです。


 これを見たB第1師団の各中隊はアルトネへ前進を始め、鉄道堤の西側にあった部隊は市街北部に侵入して、鉄道堤東側で展開していたB第1連隊第2大隊は市街東の鉄道停車場を先に占領し、第8中隊を割いて市街地の南側へ廻り込ませました。この中隊は激しい銃撃を冒して南郊外にあった仏軍の本営テントを奪っています。


 独軍左翼側ではB第2旅団所属のB第11連隊第2大隊が戦闘に加わり、この増援を得たB猟兵第9大隊は東郊外の仏軍拠点となっていたラ・メゾン・ブルレ(停車場の南西にあった邸宅。現存しません)を占拠しました。

 市街を進んだB軍諸隊は南側へ市街を掃討して市街地南端に至ると、後退した仏軍が急遽構えていた南へ進む鉄道堤とその東側にあったラ・グランジの家(農場。アルトネの南南東1.5キロ。現存)とアルブレの家(農場。同南南東2.5キロ。こちらも現存します)に対面しました。


 この時点で仏軍は既に潰走の様子を見せ始めており、仏軍左翼側(西)にあった騎兵2個連隊は、側面(西)に大規模な普軍騎兵の姿を見ると急ぎ南東側のオルレアンの森へ退却を始め、この「普軍騎兵」の長・アルブレヒト親王は普騎兵第10旅団に命じてこれを追撃させました。しかし仏軍騎兵の逃げ足は速く、森へ姿を晦ませたのでした。普騎兵第10旅団はクルジーの家(農場。アルトネの南南西3.1キロ)付近で追撃を諦め、街道を挟んで南へ逃走する仏軍歩兵や砲兵たちへの追撃に切り替えると南へ転進しました。


アルトネの戦い・戦場南部

挿絵(By みてみん)


 味方が総崩れとなった後もアルブレの家西側に残って独軍へ砲撃を続けていた仏軍砲兵中隊は、目標が遠ざかったことで目標が無くなり始めたB軍砲兵から集中砲火を浴び、また、普竜騎兵第5「ライン」連隊の2個中隊から迫られて、馬匹が死んで動かすことの出来なくなった1門を置いて退却して行きました。

 普驃騎兵第2「親衛第2」連隊は連隊長のテオドール・ハインリッヒ・フリードリヒ・ヴィクトル・フォン・シャウロート大佐が3個中隊を直率して仏軍の退却行軍列に乱入し、馬匹が牽引していた砲1門と弾薬馬車1輌を奪い取ります。このように仏軍の後退を追撃した普騎兵第10旅団はおよそ250名の捕虜を得るのです。

 騎兵第10旅団に遅れて南西側へ敗残兵を追った普騎兵第8旅団とB胸甲騎兵旅団は、遠くロワール河畔のボージョンシー(アルトネからは南南西38キロ余り)郊外にまで達します。ここに至ってようやく踵を返した普B両騎兵旅団は帰還の途中、シュビィイ目指して後退中の仏兵を多数発見して捕虜としています。


 一方、普騎兵第2師団では、ビュシー=ル=ロワ北方高地に砲列を敷いた師団騎砲兵の援護をしていた普槍騎兵第2「シュレジェン」連隊のフォン・ブリュッヒャー大尉が、仏軍の総退却を目撃し、自身の中隊を率いて鉄道堤の東沿いにシュヴィイ(アルトネの南5.9キロ)を目指し突進しました。しかし、誰よりも早く南側に進んだ大尉の中隊は、仏軍の後退収容部隊が構えるオルレアンの森縁から猛銃撃を浴びせられ、危ういところで転回しボーヴェの家(農場。アルトネの南南東3.6キロ。現存します。)に待避しました。すると大尉たちは後退中の仏軍砲兵小隊(2門)と邂逅し、同時に後退中の仏軍歩兵から猛烈な銃撃を浴びますが、その1門を奪取する事に成功するのでした。


 完全な仏軍の後退局面となると、アルトネ市街を確保したB第1旅団の歩兵たちも午後3時過ぎにはアルトネを発して仏軍の追撃に入ります。しかし、この時には既に仏軍はアルトネの南部拠点から全て逃走した後で、仏軍の後ろ姿すら見ることはありませんでした。

 その東側を進んだ3個大隊のみのB第2旅団は、更に先へと進みラ・クロワ・ブリケ(アルトネの南3.4キロ)に至ります。するとこの部落には殆ど戦意を喪失した600名ほどの仏兵がおり、短時間勢いのない抵抗を示した後、その全員が手を挙げたのでした。


 敗送兵追撃が一段落すると、後方から進んだB第3旅団はラ・クロワ・ブリケで捕虜を監視していたB第2旅団と合流します。

 B第4旅団は午後4時頃にアルトネ西郊のオートロッシュに到着し、小休止の後クルジーの家に進みました。

 B第1旅団はアルトネ南方に置かれていた仏軍の陣地に駐留しています。


 B軍と普軍の諸砲兵は、クルジーとラ・クロワ・ブリケの南側に11個中隊で大砲列を敷き、その左翼端はパリ~オルレアン鉄道を越えて東側に延びていました。


※午後2時~3時過ぎにおけるB軍諸砲兵中隊

 右翼(「クルジーの家」南西郊外)から順に東へ


・普砲兵第11連隊/騎砲兵第2中隊

・B砲兵第3連隊/騎砲兵第1中隊

・B砲兵第3連隊/騎砲兵第2中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第6中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第5中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第8中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第4中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第5中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第7中隊

◯「ボーヴェの家」付近

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第2中隊

・B砲兵第1連隊/6ポンド砲第6中隊

◯後方待機

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第1中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第3中隊

・B砲兵第1連隊/4ポンド砲第4中隊

・B砲兵第3連隊/6ポンド砲第3中隊


 フォン・デア・タン兵団がアルトネの南側へ進み、砲兵がその威容を見せると、一旦はシュヴィイ南方に踏み止まっていた仏軍後衛もオルレアンの森へ逃げて行ったのでした。フォン・デア・タン将軍はこれで追撃中止を命じたのです。


 「アルトネの戦い」では、独フォン・デア・タン兵団が歩兵21,500名・騎兵6,700名・砲80門前後で戦い、仏軍は総計15,000から最大でも20,000名と伝えられます。


 この戦いにおける独軍の損害は、以下の通りです。


◯バイエルン第1軍団 

 戦死 士官1名・下士官兵32名・馬匹12頭

 負傷 士官4名・下士官兵157名・馬匹26頭

 行方不明 下士官兵1名・馬匹2頭

◯普騎兵第2師団 

 戦死 士官1名・馬匹12頭

 負傷 下士官兵5名・馬匹17頭

 行方不明 馬匹1頭

◯普騎兵第2師団 

 戦死 士官1名・馬匹12頭

 負傷 下士官兵5名・馬匹17頭

 行方不明 馬匹1頭

◯普騎兵第4師団 

 戦死 下士官兵5名・馬匹8頭

 負傷 下士官兵13名・馬匹32頭

 行方不明 下士官兵5名・馬匹9頭


総計 戦死 39名 負傷 179名 行方不明6名


 仏軍の損害は死傷者・捕虜を併せ900名前後と言われていますが、独の公式戦史に従えばその殆どが捕虜となってしまう計算ですので、これは捕虜のみの数字で、死傷者を加えれば実際はもっと多いものと思われます。


 10日夜。独軍は戦闘終了時の位置に前哨を置き、以下の各地で宿野営しました。


◯B第1旅団 アルトネ市街

◯B第2旅団 ラ・クロワ・ブリケとその周辺

◯B第3旅団 ラ・クロワ・ブリケ。前衛をシュヴィイへ。

◯B第4旅団 クルジーの家とその周辺

◯普第22師団 ダンブロンとティヴェルノン(アルトネの北北東9キロ)

◯普騎兵第2師団 アシェール=ル=マルシェ(同東北東10キロ)

◯普騎兵第4師団 スニー(同南西7.3キロ)とパテ(同西南西14.1キロ)


 しかし、フォン・デア・タン将軍が仏軍の「弱々しい」様子を見て追撃を中止させ、兵を一晩休ませてからオルレアンへ進んでも遅くないだろうと考えた事で、その「明日」は兵団にとって長い一日となってしまうのです。


挿絵(By みてみん)

アルトネの戦い・普驃騎兵第2連隊の追撃


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