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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
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独フォン・デア・タン兵団と仏ロワール軍の始動

☆ 普騎兵第6師団「アルヴェンスレーヴェン」支隊の機動


 9月下旬に入ってパリ西郊外ベルサイユの包囲網西側を警戒していた普騎兵第6師団は、その正面西側に広がる森林地帯に隠れ潜む多くの義勇兵を炙り出すため、9月28日、援護のため配属されていたB歩兵第11連隊第1大隊をランブイエ(ベルサイユ宮殿の南西28キロ)へ進めました。

 このB軍歩兵は10月2日、ランブイエ西側に広がるランブイエの森南端のル・ビュイソネ(ランブイエの西3.7キロ。ガゼラン部落の北側部分)付近で仏護国軍と国民衛兵の混成部隊と衝突します。この仏軍部隊はシャルトル(同南西33キロ)で行われていた護国軍部隊の集合を援護するためエペルノン(同西南西11.3キロ)へ進んでいた部隊前衛でした。B軍歩兵は交戦を短時間で切り上げ、ランブイエへ引き上げました。

 10月4日。騎兵師団配下の普騎兵第15旅団長グスタフ・ヘルマン・フォン・アルヴェンスレーヴェン大佐(コンスタンティンとグスタフ2人の軍団長の親戚です)は、旅団(驃騎兵第3「ブランデンブルク/ツィーテン」連隊第1中隊はランブイエ残留)とB第11連隊第1大隊の2個(1,3)中隊、そして師団騎砲兵1個中隊(第3軍団騎砲兵第2中隊)を率いて西方へ強行偵察を行いました。

 アルヴェンスレーヴェン支隊はサンティラリオン(ランブイエ西南西7キロ)にいた仏軍前哨を駆逐すると、仏軍が集結していたエペルノンへの街道(現・国道D906号線)北側に広がる森へ騎砲兵らの援護射撃下で突進し、仏護国軍混成部隊を西側の高地へ追い払いました。この時ガゼラン(同西南西3.5キロ)にいた驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の2個中隊は、南西方面へ突進するとドルー(=シュル=ドルエット。エペルノンの東1.6キロ)で下馬して騎銃を手に付近の仏護国軍や国民衛兵と戦い、これをエペルノンへと駆逐しています。この驃騎兵に続いた騎砲兵2個小隊(4門)はドルーに砲を並べると北方の高地に砲撃を加え、この援護によりB軍歩兵は一斉に高地へ突撃し、仏軍は多大の犠牲を出すとエペルノンを越えて西郊外のアンシュ(エペルノンの西南西2.7キロ)まで撤退して行きました。エペルノンの東高地には護国軍大隊長(少佐待遇)1名を含めた28名の遺体が残されており、負傷者47名は捕虜となりました。


 翌5日にアルヴェンスレーヴェン大佐は騎兵2個中隊をアンシュへ送り、居残っていた仏護国軍兵を蹴散らすと南方のユール支流ヴォワーズ川沿岸まで偵察を行い、潜んでいた国民衛兵や義勇兵を掃討しています。

 アルヴェンスレーヴェン大佐はこれを以て同日中に支隊をランブイエまで帰投させました。

 この期間、「アルヴェンスレーヴェン支隊」は戦死7名・負傷22名・馬匹の損出10頭と報告しています。


挿絵(By みてみん)

 護国軍の新兵たち


☆ ロワール川中流域の地象


 セーヌと並び仏を代表する大河の一つロワールは、その延長が1,000キロを越え、中流域でも水深は2mあり、平底川船が貨物を積んで上流のロアンヌ(オルレアンの南東265キロ)まで(一部運河を使用して)運行可能なほどの水量に恵まれていました。

 この中流域で大きく西に向かって湾曲する最北頂点部分に「ジャンヌ=ダルク」でも有名なオルレアンの街があります。この地はジャンヌが活躍する以前より南仏・地中海方面からパリへ至る軍隊がまず通過しようと考える軍事上も重要な土地でした。

 この地でロワールはフランスを南北に分かつだけでなく、その北側(右岸)と南側(左岸)ですっかり地勢に変化をもたらしています。


 オルレアンの北側はボース高原と呼ばれる平均標高140mの台地になっており、いくつかの高地尾根と緩斜面が北側のセーヌ川に向かっていました。その土地は実り豊かで一大穀倉地帯が広がっています。

 その田園風景に見え隠れする石造りの家屋や目立つ農場の家屋群は小さな集落を幾つも作り、それを繋ぐ街道や農道が縦横に延びていました。耕作地の間には変化に富む森林も多くあり、その中を下るセーヌの数多い大小の支流は時に深い渓谷を作り、セーヌ川付近に至ると土地は細長い草原に湿地帯と運河が続く風景へと変化するのです。

 逆にオルレアンの南は砂礫で出来た中州が続き、縦横に延びる街道は整備されて軍隊の行軍には都合の良い場所でした。しかし、その南にはロワール支流のロワレ川が流れ、大小様々な池や沼沢地が原野の中に点在し、その川岸や湖沼の周囲には低い針葉樹が生い茂っていて、騎兵や砲兵が好む広い視界を得ることが出来る場所は非常に限られていました。

 このロワール南岸(左岸)に点在する家屋は、北側に比べて貧相なものが多く、その粘土造りと茅葺きの屋根は防御拠点とするには不向きな建物でした。


☆ 普騎兵第4師団と仏第15軍団の前哨戦


 普王ヴィルヘルム1世の末弟、騎兵大将アルブレヒト親王率いる普騎兵第4師団は、9月25日にバゾッシュ=レ=ガルランド(オルレアンの北北東30.8キロ)の南西で諸兵科混成の仏軍と遭遇しますが、短時間交戦しただけで仏軍はアルトネ(同北20キロ)方向へ遁走しました。

 翌26日、師団はこのままオルレアンを窺う勢いでパリ~オルレアン本街道(概ね現・国道N20号線)に出ようと普槍騎兵第10「ポーゼン」連隊を先頭に立てて前進したところ、槍騎兵連隊はアルトネを越えた南郊外で仏軍騎兵の襲撃を受けます。普槍騎兵はこれを正面で迎撃し騎兵戦となりますがこれも短時間で普側が押し切り、仏軍騎兵は逃げ去りました。

 槍騎兵はこれを追撃しますが、オルレアンを望見するシュヴイイ(同北14キロ)部落に迫ると、突然部落の農家や前方(南側)の大森林から激しい銃撃が普騎兵に浴びせられます。先頭を進んでいた騎兵は次々に負傷し部隊は一時危機的状況に陥りますが、何とかアルトネまで撤退することが出来ました(この日連隊の損害は死傷者16名・馬匹31頭)。


 この後普騎兵師団は多数の斥候を放ち、その結果、オルレアンとボーヌ=ラ=ロランド(オルレアンの東北東43.3キロ)間に広がる大森林(総称し「オルレアンの森」と呼ばれます)北縁に仏軍が散兵線を敷いて歩兵を展開しており、騎兵のみでこれに当たれば苦戦は免れないことを知るのです。

 アルブレヒト親王は直率していた普騎兵第8、10旅団を全てトゥーリー(オルレアンの北32.8キロ)周辺に集合させると、最後にセダンを後にして師団合流を目指して進んでいた普騎兵第9旅団に対し、ピティヴィエ(同北東39.5キロ)で留まるよう命じたのです。

 その後師団は9月末までその地に留まり、トゥーリーの南西方面へ糧食徴発とロワール沿岸の偵察を行うため斥候隊を送り出しました。この隊はついでとばかりにシャトーダン(オルレアンの西北西47キロ)とボージョンシー(ロワール沿岸。同南西24.8キロ)付近で幹線鉄道線路を破壊しています。

 それまでこの騎兵師団を援助するためフォンテーヌブローの森を経て後方に待機していたB第1軍団の分遣隊は、9月28日に命令を受けて軍団に帰還していました。10月に入るとB「ライブ(親衛)」連隊第1、2大隊がそれぞれピティヴィエとトゥーリーに到着し、アルブレヒト親王の隷下となります。


 独の強力な騎兵集団がボース高原に出現したとの警報はトゥールにいち早く届き、仏軍は新設第15軍団から出動可能な部隊を次々に送り出します。

 その第一陣として、正規軍の猟兵2個中隊に当時一般には「トゥルコ兵」と呼ばれたズアーブ兵1個大隊、マルシェ第29連隊、護国軍第12「ニエーヴル県」連隊、それに砲兵2個中隊がオルレアンにある護国軍「ロアヌ県」師団の増援として送られ、これもオルレアン付近のロワール沿岸を警備していたルオー将軍が統一指揮を執ることになりました。


 10月5日、トゥール派遣部は第15軍団司令官のドゥ・ラ・モット=ルージュ将軍に対し「本営をオルレアンに進め、麾下をロワール右岸に集めて直接指揮を執れ」と命じます。

 モット=ルージュ将軍はビエルゾンとブールジュに集合していた麾下第2と第3師団を急ぎオルレアンへ移動させ、既に第一陣がオルレアンに向かっていたヌベール在の第1師団本隊をジアン(オルレアンの東南東58キロ)まで鉄道輸送させました。

 モット=ルージュ将軍はオルレアンに着任するなり「普軍騎兵がトゥーリーに集積しつつある周辺部落から徴発した糧食を取り返す」と宣言し部隊の前進を命じます。将軍麾下のルオー将軍は既に10月3日、オルレアン北側の森林地帯にあった仏軍前哨線に増援を送ってこれを強化し、この7日には分遣隊をシャトーダンに送って市街地を確保すると、その北西側のオルジュール(=アン=ボース。オルレアンの北北西32キロ)にいた竜騎兵第5連隊の1個中隊とB「親衛」連隊第2大隊の1個中隊を急襲して19名を捕虜にし、残りをアレーヌ(トゥーリーの西8.4キロ)まで後退させました。

 ルオー将軍はモット=ルージュ将軍の命により5日、諸兵科混成の数個旅団を率いるとアルトネ経由でトゥーリー目指し北上を開始するのです。


挿絵(By みてみん)

 モット=ルージュ


 普第4師団長アルブレヒト親王は前哨・斥候からの「仏軍迫る」の警報を受け、同5日午前7時にトゥーリーの北郊外に野営していた普騎兵第10旅団に対し南郊外の小部落シャペル=サン=ブレース(現在はスーパーマーケットになっています)へ、ジャンヴィル(トゥーリーの東4キロ)に宿営していた同第8旅団に対しポアンヴィル(トゥーリーの南西3.3キロ)方向へそれぞれ行軍させ、目的地で敵を待ち対戦せよと命じました。

 両旅団はボワセ部落(同南西郊外)を挟んだ形で並列し、追従したB軍歩兵1個中隊はこの小部落の守備に就きました。

 仏軍は普軍騎兵の集団がトゥーリーの南を東西に延びる街道(現・ジャンヴィル道路。国道D927号線)に沿って展開するのを認めると、オルレアン本街道の西に砲列を敷き砲撃を開始します。これに対し普軍2個騎砲兵中隊(第11軍団騎砲兵第2中隊と第5軍団騎砲兵第1中隊。1個小隊欠の10門)は急ぎ街道沿いに砲を並べると応射を行い、短時間の砲戦は砲撃術と砲の性能に勝る普軍が勝利して仏軍砲兵はティヴェルモン(トゥーリーの南4.5キロ)へ退却しました。

 ところが、普軍砲兵がボワセを越えて街道の南方まで砲列を前進させると、仏軍は本隊の前進を開始し、その兵力は1個師団以上(歩兵12個大隊・騎兵3個連隊・砲兵3個中隊)であることが普軍側にも知れたのです。

 その一部は普軍騎兵の両脇をすり抜けるようにポアンヴィルとショシー(トゥーリーの南東4.3キロ)を攻略して前進を強め、これは正しくトゥーリーを包囲する運動で、アルブレヒト親王は「劣勢のまま戦うのは愚策」と思い切り良くトゥーリーを棄て、急ぎ両旅団に退却を命じてアンジェヴィル(同北北東13.5キロ)まで一気に後退するのでした。

 親王はほぼ同時にピティヴィエの普騎兵第9旅団に対しても後退を命じ、同旅団は5日中にセルメーズ(ピティヴィエの北北西14.3キロ)へ後退し、6日には他の2個旅団とB軍歩兵も後退したエタンプで師団は合同となったのでした。


 この6日。ルオー将軍はトゥーリーと周辺の諸部落を解放し、更に前衛を北上させました。しかしトゥーリー付近に普軍が設えていた糧食の集積所には羊や牛、豚など150頭が残っていただけで、小麦や燕麦などの穀類や芋類はことごとく普軍が持ち去っていたのでした。


挿絵(By みてみん)

義勇兵の混成隊


☆ フォン・デア・タン「兵団」の始動


 独第三軍司令官・普皇太子フリードリヒ親王は大本営より、「アルジェリアから植民地軍の一隊が本土に戻ってロアール川に向かい植民地兵と後備兵が一軍を編成した」との通報を受け、更に叔父の師団がその軍と衝突し後退したとの報告を受けると直ちに大本営へ上奏し、第三軍の一部を包囲任務から割いて南方の「新たな敵」に対応する許可を得ました。

 これにより10月6日の午前11時、第三軍本営はB軍首将フォン・デア・タン歩兵大将以下に対し、次の命令を発したのです。


「1870年10月6日午前11時 在ベルサイユ第三軍本営命令


 各騎兵師団からの報告により仏「ロワール軍」がオルレアンを発して北上することが確実となったため、軍本営は次の命令を発する。


1・B第1軍団は本6日中にアルパジョン(ベルサイユ城の南南西25.8キロ)に向かい前進して集合せよ。尚、輜重はロンジュモー(アルパジョンの北北東12キロ)付近に留めること。

2・普第11軍団の第22師団はビルヌーブ=サン=ジョルジュ、エピネイ(=シュル=オルジュ。ビルヌーブの南西10.8キロ)経由でモンテリ(アルパジョンの北北東5.8キロ)及びその北郊外まで前進せよ。以降同地でフォン・デア・タン将軍の予備となりその命に服せ。

3・普騎兵第2師団は7日朝、ヴィルモワッソン(=シュル=オルジュ。エピネイの南1.6キロ)付近に集合しル=プレシ=パット(アルパジョンの東北東6.3キロ)を経由してマロール=ザン=ユーロポア(同南東4.6キロ)方面へ行軍し、フォン・デア・タン将軍と連絡を通して命に服し、以降将軍の左翼(東)を警戒すること。

4・普騎兵第4師団は、強力な敵により(エピネルに対し)攻撃を受け圧迫された場合にパリ~オルレアン本街道(現・国道N20号線)に沿って北上しボアシー=シュル=サン=ヨン(アルパジョンの南西4.5キロ)を経てエグリ(アルパジョンの西南西2キロ)方向まで退却し、概ねフォン・デア・タン大将の右翼側に位置するようにせよ。もし、戦闘に至らなかった場合はフォン・デア・タン将軍の命に服せよ。

5・普騎兵第6師団は臨機を以て行動し、アルパジョンより西の地において敵の前進を警戒し阻止せよ。特にリムール(アルパジョンの北西14.2キロ)~ドゥルダン(同西南西18.6キロ)の街道(現・国道D838号線)を常に警戒し、諸情報はフォン・デア・タン将軍に通報せよ。


 各師団は徴発のために発進させている諸隊につき、(帰隊させず)そのまま任務を続行させよ。出来る限り徴発は継続することが重要である。

 (各本営・司令部よりの)電信線は可能な限りアルパジョンまで延伸せよ。


 第三軍参謀長中将 フォン・ブルーメンタール」


挿絵(By みてみん)

バイエルンの歩兵たち


 男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将は第三軍命令を受領すると6日午後、アルパジョン郊外のオルジュ川北岸にB第1軍団主力を集合させ、前衛を先行させてエトレシー(アルパジョンの南南西11.5キロ)へ進めます。しかしB第1軍団はセダンの捕虜護送任務に未だ歩兵9個中隊を「奪われ」ており、歩兵3個大隊が普騎兵第5、6師団へ派遣されていました。

 逆に普騎兵第2、4師団へ派遣されていた歩兵部隊はこの日を境に軍団へ復帰し、本国に残留していたB第12、第13両連隊の第3大隊と砲兵2個中隊は10月上旬に軍団へ加入していました。従って軍団戦力は1割強の減となります。

 普騎兵第4師団のアルブレヒト親王は、仏軍がトゥーリーを越えて北上しているとの情報を得るとエタンプから1個旅団をアンジェヴィルへ戻し、別の1個旅団にはシャルトル方面(西側)を監視させるためオートン(=ラ=プレンヌ。エタンプの西15.2キロ)へ、更に別動支隊をマルゼルブ(同南東24.2キロ)へそれぞれ送って仏軍の情報を得ようとしました。因みに普騎兵第4師団は槍騎兵第1「ヴェストプロイセン」連隊の2個中隊以外、全て師団に復帰しています。


 前・第49「ヘッセン第1」旅団長で普軍少将のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ルートヴィヒ・フォン・ヴィッティヒ男爵は、9月20日、正式に第22師団長となりました(それまでの代理師団長ベルンハルト・フォン・シュコップ少将は中将に昇進し第21師団長となります)。

 ヴィッティヒ将軍は同6日、命令通り師団主力を率いるとセーヌ~マルヌ「巾着部」南の包囲網を離れてセーヌを渡河し、午後10時にモンテリへ到着しました。

 この時、包囲網に穴をあける訳にはいかないシャハトマイヤー将軍は、ヴィッティヒ将軍に歩兵8個中隊・騎兵半個中隊・師団砲兵の重砲第4中隊を残置させています(代わりに軽砲第5中隊が第22師団に同行)。また第22師団はこの時点(10月6日)でセダンの捕虜護送任務に歩兵6個中隊半を充てたままでした(師団戦力はおよそ3割減となります)。


 翌10月7日。普騎兵第2師団は命令通り「フォン・デア・タン兵団」の東側へ進出し、アルパジョンの南東側に騎幕を張りました。この日、師団は驃騎兵第6「シュレジェン第2」連隊の3個中隊を糧食徴発任務に送り出しており、リムールに駐屯していた驃騎兵中隊は任務を同騎兵第6師団に渡して本隊へ復帰しています。

 その普騎兵第6師団はリムールとランブイエ付近に集合して南方の監視任務を開始しました。この日フォン・デア・タン将軍より伝令が到着し、これは大本営より命令されているリムール~ドゥルダンの線より更に西側を警戒して欲しいとの要請でした。

 これを受けて臨時師団長のカール・ヨハン・フォン・シュミット少将*は驃騎兵第16「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊の第4中隊にB第11連隊第1大隊の1個中隊を加えて支隊とし、ランブイエの南にあるアブリ(ドゥルダンからは西へ13キロ)へ送り出しました。


 この支隊は7日深夜に街へ到着し、初めは抵抗なく市街を占領しました。

 市街の東西出入り口となるエタンプとシャルトルへの街道(現・国道D168号線)にはそれぞれバリケードが築かれており、B軍歩兵はこれをそのまま利用し市街の出入り口を塞ぎました。驃騎兵中隊は斥候を東西に放つと残りは市内3つの厩舎に馬匹を収容し、騎兵たちは仮眠を取りました。

 ところが翌朝午前4時過ぎ、アブリは突如義勇兵の集団に襲撃されたのです。

 この集団はドゥノンヴィル(アブリの南14キロ)にいた義勇兵たち(パリから指示なく出撃したエルネスト・ドゥ・リポフスキ大佐の指揮する部隊と伝えられます)で、アブリから知らせを受けて夜陰に紛れ密かに北上して来たものでした。この襲撃と時を合せて市内でも武器を隠し持っていた多数の市民が蜂起し、厩舎を襲い繰り返し銃撃しました。

 普軍驃騎兵たちは止むを得ず愛馬を放ち、乗馬を失った騎兵たちはその多くが捕虜となったのです。B軍歩兵たちは多勢に無勢とばかりランブイエへ退却し、その多くは無事に脱出出来ました。

 この朝、驃騎兵第16連隊第4中隊は戦死6名・負傷2名・行方不明(即ち捕虜)57名を報告し、馬匹114頭(うち99頭は生きたまま義勇兵の手に落ちました)を失っています。B第11連隊第1大隊の損害は負傷4名・捕虜11名でした。


 運良く馬を捕まえ脱出に成功した数名の驃騎兵は、ランブイエへ疾走しフォン・シュミット将軍に報告します。部下の悲劇に怒った将軍(マルス=ラ=トゥールの戦いまでは同連隊長でした)は直ちに師団集合を掛けるとアブリに進撃しました。しかし昼前に到着した将軍が見たのは怯える住民が家屋に籠る人っ子ひとり見えない市街で、既に仏義勇兵は独軍の捕虜を連れて去っていたのでした(南方のシャトーダンへ連行。後述します)。

 シュミット将軍は「住民が事件に関与したのは明らか」として、9月27日の大本営令(前段参照)に従い、住民を家屋から追い出すと「賠償金」を請求し金品を収奪した後、住民を一人残らず市外へ追放し街に火を放ちました。アブリの街は無残にも全焼し、焼け野原となったのです。


※師団長のヴィルヘルム・メクレンブルク=シュヴェリーン公(シュナップス殿下)は、既述通りランでの負傷によりシュミット将軍に任を譲っています。一時は強引に部隊と同道しましたが傷は重く10月16日にはベルサイユ宮殿の臨時独陸軍病院で再度療養に入っています。


挿絵(By みてみん)

 アブリの悲劇


 同じ7日。B第1軍団はアルパジョンで待機していましたが、フォン・デア・タン将軍の下に騎兵第4師団長のアルブレヒト親王から「アルトネ付近に敵が大軍を集結中との情報を得た。これを攻撃したいので歩兵を前進させて欲しい」との要請が送られて来ました。

 軍の命令系統では自分の下となるものの、普王の実弟ともなると「格」は違って無視や即却下する訳にも行かず、しかも親王はトゥーリーでの「屈辱」を晴らそうと前のめりになっており、その心情も理解出来ます。

 フォン・デア・タン将軍はこの要請を「師団長の甥」に送って判断を仰ぐことにしました。

 騎兵師団長の「甥」、第三軍司令官フリードリヒ皇太子は7日深夜電信で回答をよこし、それは「フォン・デア・タン将軍は部隊と共にエタンプへ前進せよ」との命令だったのです。


 B第1軍団は翌8日朝宿営地を発ち、同日中にエタンプ西郊外へ進出すると右翼(西)側警戒としてオートン(=ラ=プレンヌ)へB第2師団騎兵のシュヴォーレゼー(以下「軽」)騎兵第4連隊とB胸甲騎兵旅団を送ります。この強力な騎兵の配置は、この日朝の「アブリの悲劇」直接の影響と思われます。

 普第22師団はB第1軍団に追従して、この日はエトレシーに至りました。


 この8日、B軍団の前進によって行動を起こした普騎兵第2師団は午後3時、マロール=アン=ボース(エタンプの南南東7.3キロ)付近でエタンプ目指して退却中の普騎兵第4師団の部隊と遭遇します。これはマルゼルブから西側のセルメーズに向かっていた別動支隊の一部で、強力な仏軍に遭遇して追撃されたものと判明しました。

 この時、付近のボワシー=ラ=リヴィエール(エタンプの南6.6キロ)には前日、コルベイユ=エソンヌ(同北東30.3キロ)の兵站端末地より普騎兵第2師団の応援に駆け付けた第三軍兵站総監部麾下の戦闘部隊、アッシャースレーベン後備大隊に予備竜騎兵第3連隊の第1,2中隊が展開して警戒していました。

 また偵察の結果、普軍騎兵を追って仏軍部隊が直ぐ南方のジュイーヌ川(セーヌ支流エソンヌ川の支流)とエクリモン川の合流点付近の渓谷、サクラ(エタンプの南南西8.5キロ)とサン=シル(=ラ=リヴィエール。サクラの東南東1.7キロ)まで進んだことが分かりました。

 普第2騎兵師団長伯爵ヴィルヘルム・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ中将は、師団騎砲兵(第2軍団騎砲兵第1中隊と第6軍団騎砲兵第3中隊)に命じてメニル・ジロー小部落(エタンプの南南西5.8キロ)南西の高地に砲列を敷かせ、サン=シル渓谷の入り口となるクール・パンの農場(サン=シルの東北東1.3キロ。現存)を砲撃させます。砲撃の援護でアッシャースレーベン後備大隊から1個中隊が前進して川の合流点から渓谷に侵入すると、仏軍部隊はすっかり動転して短時間の銃撃戦で後退を始め、アベヴィル(=ラ=リヴィエール。サン=シルの南東1.7キロ)を経由して更に南へと退却して行ったのでした。この攻撃で仏軍は30名の損害を出し、普軍側の損害は軽微でした。


 普騎兵第2師団は8日夕刻、ピティヴィエへの街道(現・国道D921号線)を監視するためマロール=アン=ボース周辺で野営しました。またB第1軍団前衛は1個大隊をサクラへ送り、夜間仏軍に渓谷を下って接近されぬよう警戒を密としました。B軍部隊がやって来るまで普軍騎兵を大いに助けた兵站総監部の部隊は、翌9日朝にボワシー=ラ=リヴィエールを発ってコルベイユの兵站基地へと帰って行ったのです。



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