ガンベタのパリ脱出
1870年9月中旬、独軍が首都パリに迫り包囲寸前となったため、「国防」政府はパリの権力を維持しつつ、地方を指導し中央政府の機能を補完する「政府派遣指導部」を中仏のトゥールに設置し、法相のイサーク=ジャコブ・アドルフ・クレミューを代表に、アレクサンドル・オリヴィエ・グレ=ビゾワンとレオン・マルタン・フリション海軍中将らによる「派遣部」首脳が地方に指令や要求を出していました。
当初パリとの連絡は電信で交わされ、トゥールから独軍が達していない西仏ルーアンへ送られた電文は、ここからパリに至る間セーヌ川に沿って隠されていた電信線を使用し送られましたが、これも9月下旬普軍に発見されて切断され、以後、伝書鳩と当時流行の気球が連絡を保つことになります。
気球の出発
1783年にモンゴルフィエ兄弟が熱気球を飛ばすことに成功し、タッチの差でジャック・シャルルがガス気球を成功させると、ヨーロッパでは一大気球ブームが巻き起り、その後幾多の改良を経て飛行船の登場(1852年)を迎え、その利用は既に軍事(偵察と着弾観察)に及んでいます。
当時の気球は、現在と違い防炎加工が未発達なため引火し易く球皮が劣化するため再利用が難しい熱気球より、再利用が可能な水素ガスや石炭ガスを充満したガス気球が主流となっており、この引火爆発し易い危険な乗り物は40年ほど後の飛行機がそうであったように、飛行は冒険に近い不安定で確実性に欠けるものでした。
気球の操作員は限られた軽荷物と書簡(そしてパリへの返信に使う伝書鳩)を積み込み、比較的穏やかな天候の日中にパリを脱出します(後に普軍が気球追跡に慣れ、上昇時や下降着陸時を狙って銃撃を行うようになると危険な夜間飛行に変わりました)。飛び立つと同時に出来る限り高度を稼ぎ、独軍の包囲網上空を越えると、時に独軍から銃撃を受け、また巡察の騎兵に発見されて追跡されるなど、危険を冒して文字通り「風任せ」で「独軍のいないどこか」に向かい、安全が確認されると着陸してそこから馬や鉄道を乗り継ぎトゥールまで書類を運びました。
因みに独軍側は小銃の射程(ドライゼ銃は500m前後)では打ち落とせず、大砲では仰角が大きく取れずに狙うことも出来ない小癪な気球を撃ち落とすため、クルップが「対気球砲」なる高射砲の元祖のような砲を製造し使用しますが、この高射砲の射程は高度800m程度で、1,000m以上を飛行可能なガス気球に対して思ったような効果を発揮出来ませんでした。
クルップの対気球砲
9月23日に初飛行したこのガス気球は、包囲中にパリ市内2ヶ所の駅舎内で66機製造され、貨物重量11トン・250万通の郵便をパリの外へ送り出したと言われます。
しかし、「風任せ」の気球はまずパリに帰ることが出来ませんでした。パリ帰還も何度か試されますがほとんどが失敗に帰しました。トゥールや周辺の町々にはパリからやって来た多くの気球が保管されますが、帰る事が出来ず溜まる一方となります。
トゥールからパリへは伝書鳩で書簡を送る以外、ほとんど連絡の方法はありませんでした。
野営地の上を通過する気球に撃ち掛ける普軍
派遣部のクレミューら首脳部とその補佐たちは、何も知らされず用意も協力者も少なかったトゥールで、全て一から準備を行い手探りで地方の統治を開始しなければなりませんでした。
やがて包囲されたパリからは英国大使リヨン卿やオーストリア=ハンガリー帝国大使メッテルニヒなど外国の外交官もトゥールへ「引っ越し」て来ます。正規の外交官がやって来ればそれは「派遣部」が「一部なりとも政府機能を持っている」証拠で、やがて人の波がトゥールに押し寄せ、その多くは新聞記者や通信社特派員など報道陣でした。
当然のように新軍の結成以前から義勇兵や「さまよえる敗残兵」たち、そして商人たちもこの街にやって来ており、宿や食堂はどこも満杯のありさまとなります。
しかし「地味でおとなしい」派遣部首脳の威信はたいしたものではなく、その存在も「やがては消え去るもの」と多くの地方有力者に思われていました。
9月から10月に掛けて、パリから「切り離された」南仏では過激な思想が売り物の左翼主義者が躍動し「南部同盟」を作ってあからさまに国防政府と対立しました。同じくパリの「共和国宣言」に対し協力を拒絶、独との休戦を模索していたのは、西仏に勢力基盤があるカソリックと王党派でした。唯一、北仏は伝統的に共和派が多い土地で期待が持たれましたが、ベルギーとイギリスに面した北仏の地は些かトゥールから離れ過ぎでした。
つまりトゥール派遣部は9月末ともなると、地方から孤立し掛けていたのです。
この危険な兆候を憂慮したパリ国防政府は、内閣で最も民衆に人気のあるレオン・ガンベタ内相をトゥールに派遣することとします。
ガンベタ
10月7日の午後3時。肖像写真家であり風刺画家で舌鋒鋭い文筆家、そして気球乗りでもあった友人のナダール(史上初めて空撮に成功し、普仏戦ではパリで気球部隊を組織し活躍)が用意した石炭ガス気球「アルマン・ベルベス号」でガンベタはパリを脱出しました。
気球は独軍包囲網の上を無事に通過しますが、当日の風は逆風の南風で、サン=ドニ戦線を越え北上したアルマン・ベルベス号は、パリの北90キロのモンディディエ近郊に着陸してしまいました。ガンベタ一行は付近を跋扈する独軍騎兵の偵察隊を回避しつつアミアン(モンディディエの北西34キロ)に達し、ここからルーアンに出てル・マン経由の鉄道で9日、無事トゥールに到着しました。ガンベタは到着早々トゥールの市庁舎で群衆を前に一席ぶち、そのカリスマ的な雄弁と自信に満ちた堂々とした姿は、ともすれば政治不信と亡国の予感に顔を曇らせていたトゥールの市民に大歓声を上げさせるのでした。
ガンベタの出発
「ガンベタの気球によるパリ脱出」は直ちに国内外で華々しい「尾ひれ付き」で報道され、「ガンベタがトゥールで祖国救済を開始した」との記事は、それまで厭戦か臨時政府への反駁を示していた地方にも「反独」と「希望」を与えることになったのでした。
これはパリでも同様で、人気者のガンベタがパリを離れたことで政府が攻撃されることを恐れていたトロシュら政府首脳は、民衆が「ガンベタが地方から大軍を引き連れパリ解放に進撃して来る」との希望を抱いたことで士気が回復しほっと胸をなで下ろしたのです。
一方、トゥールではガンベタが精力的に行動を開始、10日にトゥール派遣部「首班」ガンベタの名前が記された最初の命令書が出されました。
これは「新軍の編成」と「武器や弾薬の製造」に関する重要なもので、独軍に対抗する兵力の整備を加速度的に高めようとする命令でした。
翌11日には派遣部の軍代表フリション海軍中将が退任し、後任にガンベタの友人、技術畑の官僚でタルヌ=エ=ガロンヌ県知事のシャルル・ルイ・ドゥ・ソルス・ドゥ・フレシネ(非軍人。後の共和制下で首相)が任命されます。これは解任ではなくフリション自らの辞任で、その理由として提督は、派遣部内で自身の権威が低いことに嫌気が差したから、とも言われています。
フリション
こうしてトゥール派遣部も俄に地方の「締め付け」と「軍の再建」に力を注ぐこととなりましたが、「セダン後」の「新軍隊」に関しては既に9月中旬から編成と教練、武器と物資の供給がスタートしていました。
トゥール派遣部は帝政最後の摂政政府(パリ=カオ政権)の施策を廃止せずそのまま利用、各県で最低1つの護国軍連隊を創設することにします。帝政崩壊の混乱と戦時の物資不足で編成はなかなか進みませんでしたが、軍編成の責任者だったグレ=ビゾワンを補佐していた数名の准将や将軍たちによる尽力で何とか形になりつつありました。
当初(9月中旬)派遣部の下に集まった歩兵部隊は、正規野戦軍で僅かに残った数個連隊と、既に多くが前線に出て残り少なくなって来たマルシェ歩兵大隊を併せた5個連隊、同じく猟兵が3個大隊、軍刑務所でかき集めた懲罰兵や各地から脱走し捕まった兵士らによる部隊(およそ3個大隊)だけでした。派遣部はパリと協議して植民地、特にアルジェリアにいて治安に関係のない部隊をほとんど本国に引き上げることに決し、これで地中海を渡って貴重な砲兵や工兵が到着しました。独軍が包囲するシャルルヴィル=メジエールやセダン戦を逃れた騎兵、同じくセダンから脱出したアルジェリア=テュライヤール兵も集まります。これら正規軍は合計して13,500名でした。
また、努力の末に生み出された新規護国軍兵も47,000名、69年に徴兵され70年に登録されていた新予備役兵約80,000名が待機状態にあり、これに戦闘には参加していない国民衛兵22万、既に戦い始めている者もいる義勇兵3万、70年徴兵の訓練未了新兵16万らを併せるとかなりの数となります。しかしこれらを指揮・訓練する士官は絶対数が足りず、この先「素人に毛の生えた軍隊」が「あの」独軍と戦うのかと考え、絶望する数少ない高級士官たちの姿は全く哀れとしか言いようのないものでした。
これに対し、武器弾薬や常に不足気味の糧食以外の軍需物資供給に関しては明るい展望がありました。
当時の仏国は世界一を争う技術と工業の大国で、その基礎工業力は「成り上がりの」普と比して勝るとも劣るものではありませんでした。
まずは各地の軍需倉庫に眠っていた大量の武器弾薬が確認され、既に前線へ運ばれ絶対数が不足していた輜重荷馬車や弾薬運搬車、砲架などの製造が各地の工場に発注されます。軍服に靴、背嚢に軍用毛布なども足りません。なかでもシャスポー銃の弾薬包や撃針はパリに主要な工場があったため、多少の在庫はありますが訓練だけで直ぐに無くなってしまいます。
これを救ったのは、陸上の苦戦をただ眺めているしかなかった海軍で、トゥーロン、ロシュフォール、サン=ナゼール、ブレスト、ル・アーブル等の海軍倉庫から大量の武器弾薬や物資が運び出され、当面は出撃のあてがない艦艇からも多数の物資弾薬や大砲が降ろされたのでした。同時に海軍根拠地に置かれた工廠では、シャスポー銃とその部品・弾薬包が製造され始め、既にパンク気味の陸軍工廠を助けました。銃器と軍需物資の発注は民間の工場に対しても行われ、技術力と発明工夫に優れた仏工業界は複雑な武器や軍用装備の製造にもたちまち慣れ、材料の続く限り大量製造を続けたのです。
また、ガンベタは仏に同情する中立国にも兵器や物資の購買を持ち掛け、特にアメリカは南北戦争で大量に余剰となっていた弾薬や小銃の供給に「もっけの幸い」と同意するのでした。
後にロワール軍を指揮するマルタン・ドゥ・パリエール中将は戦後の手記に「トゥールが手配出来た徴兵数は休戦までに100万名、軍艦備砲を含めた4、8、12ポンド砲が2,000門、シャスポー銃40万挺、他輸入品を含めた小銃100万挺」と記しています。
こうして急がれた「新軍隊」の編成は、まずロワール川一帯で集合編成が始まり、指定された護国軍部隊は三々五々ロワール川南方沿岸地域に集まりました。この集合支援と不意の独軍襲来に備え、ロワレ県(県都はオルレアン)の護国軍連隊と国民衛兵、そしてレオー将軍率いる騎兵師団はオルレアン周辺に宿営し警戒しました。
集合命令を受けた護国軍兵や各地に駐屯していたマルシェ大隊の第一陣はニエーヴル県のヌベール(トゥールの東南東192キロ)、シェール県の県都ブールジュ(同東南東134キロ)、同じくシェール県のビエルゾン(同東106キロ)に集合を終え、これは新規軍の中核として予備役中将のジョセフ・ドゥ・ラ・モット=ルージュ将軍が率いて、やがて正式に仏ロワール軍(その中核の第15軍団)となります。
この軍団は順次集合した護国軍やマルシェ部隊、アルジェリア=テュライヤール兵に独軍から脱走した兵士などを加えて日に日に増えて行き、9月末までには歩兵3個師団と前述のレオー騎兵師団やパリから送られた騎兵旅団等を加えた6万名に上る大軍となりました。しかしここでも兵員数に比して士官の数が足りず、老齢の退役士官やアルジェリアから帰国した士官らを加えて何とか体裁を保つのです。
仏北西部では、「西部軍」と呼ばれる軍の「雛型」が誕生しました。
これは予備役のフィエレック将軍がル・マンを拠点に周辺7県の護国軍部隊を集積したもので、主力はセーヌ下流域のルーアンとエルブフに集合を終えた後、フィエレック将軍配下のギュダン将軍がその主力であるマルシェ歩兵2個大隊、護国軍12個大隊、騎兵2個連隊(セダンから脱出した騎兵が中心です)およそ14,000名を率いてアンデル川(ルーアン北西方セルキュー付近を水源にリヨンの森を経てセーヌに注ぐ支流)流域のリヨンの森(ルーアンの東25キロ付近に広がる大森林)やグルネー(=アン=ブレイ。同東45キロ)からヌフシャテル=アン=ブレイ(同北北東41キロ)に至る地域を守備しました。
残る4,000名余り(護国軍1個連隊にセーヌ・エクレルール/義勇軍「先鋒兵」1個連隊)はデラリュ将軍が率いてベルノン(同南東48キロ)からエブルー(同南46キロ)周辺に駐屯してルーアン~ル・マン鉄道を警護しています。
西部軍部隊には当初砲兵が存在せず、騎兵もセダンからの逃走後で質が低下し、全体の士気は比較的高かったものの独軍と戦うには情けないほどに準備不足でした。それでもセーヌ・エクレルール兵を始めとする一部部隊は積極的に行動して偵察活動に勤しみ、パリ北西郊外に展開していた普軍騎兵やバイエルン歩兵と戦うことになります(後述)。
10月に入ってフィエレック将軍から指揮を代わったアフリカ帰りのドレル・ドゥ・パラディーヌ将軍は状況を把握した後、「本格的な戦闘に至る行動はこれを禁じる」として仏側からの攻勢を禁止しました。将軍がほっとしたことに、独軍は10月中旬までの小競り合い以降深追いせずにルーアン方面にはしばらく進撃を行わず、西部軍(後のブルターニュ軍)は本格的戦闘が勃発する翌年まで軍を鍛錬する時間的猶予が出来たのでした。
ストラスブールの落城とほぼ同時に、仏「東部軍」も誕生しました。
セダンで戦い(第12軍団グランシャン師団の第1旅団長准将)、ギリギリでモルトケの「ネズミ捕り」から逃れることが出来たイッポリト・アルベール・カンブリエ少将(会戦帰還後に昇進)は、その戦いの最中独軍の砲撃による榴弾の破片を頭部に受けて負傷しており、陣頭指揮を執るには随分と無理がありましたが、折からの高級士官不足で静養中に任命され、南部アルザスを死守するこの軍の指揮を託されます。
東部軍(後のヴォージュ軍)はヴォージュ県の県都エピナル(ナンシーの南南東60キロ)、ドゥー県の県都ブザンソン(スイスのベルンの西北西112キロ)、オート=マルヌ県のラングル(ナンシーの南西112キロ)などを集合地とし、主力は護国軍部隊と僅かな正規軍敗残兵でした。
この軍はヴェルダー将軍率いるストラスブール攻囲軍から発展した「新軍団(独第14軍団)」と戦い、ヴォージュ山脈とその南端にある要衝ベルフォール要塞を死守することになります。
これら「新軍」に大きな力を付与したのがフラン=ティラール、義勇兵でした。
9月29日、国防政府は「各地義勇兵部隊は全て陸軍大臣の管轄下に置かれることとなった」との通達を発しますが、これは全くの「画餅」で、義勇兵たちは変わらず勝手に行動して好きな時に独軍を襲い、神出鬼没で独軍後方連絡線を脅かし続けていました。確かに独軍はこれに手を焼きますが、その攻撃は無計画のほとんど成り行き任せ、行き当たりばったりで行われ、独軍に深刻な打撃を与えた訳ではなく、それは言わば「蚊に刺される」程度でした。
しかし、いつ襲われるかと緊張し続ける後方連絡線を護る兵士や輸送兵たちへの心理的影響は大きく、独大本営は9月27日付で「制服を着用しない『賊』は即決裁判で銃殺に処してもよい」「『賊』を匿う部落は反抗分子と見なし相応の報復処置を行うよう」に命じています(仏政府29日の命令は、義勇兵を「軍の一部」として扱うことで独軍の報復を防ぐことも目的のひとつと思われます)。
しかしこの通達によって義勇兵の一部は軍に取り込まれ、護国軍や国民衛兵と並んで各軍団・師団の所属部隊となり、士気の高い貴重な戦力として行動することになって行くのです。
フラン=ティラール(義勇兵)のプレッセ(混成隊)
☆ 普騎兵第5師団「ブレドウ支隊」の機動
普第騎兵5師団は9月中旬からサン=ジェルマン=アン=レー(パリ/シテ島の西北西19.5キロ)方面に進み、セーヌ川下流域からの仏軍反攻を警戒していますが、その斥候隊は9月末にレ・ザリュエ=ル=ロワ(サン=ジェルマン=アン=レーの西13キロ)付近でセーヌ・エクレルール部隊(1,000名程度?)に遭遇し、短時間の戦闘後、普軍騎兵が撤退しています。
この仏軍は前述「西部軍」デラリュ将軍配下の部隊で、エブルーからマント=ラ=ジョリー(エブルーの東41キロ)へ進み、ここで国民衛兵数隊を伴うと南東に向かい、ムル(マント=ラ=ジョリーの南東13キロ)を経て東へ長距離強行偵察に及んだものでした。
斥候から仏軍部隊がセーヌ河畔に出現した、との報告を受けた師団司令部は、パリの包囲網を北西側から脅かす勢力の実力を確かめ、機会あればそれを排除するために、直ちに出動可能な騎兵10個中隊と師団騎砲兵2個中隊、そして師団に増援として派遣されていたバイエルン王国(B)歩兵2個大隊を支隊に仕立てて、これを騎兵第12旅団長(あの「ルゾンヴィル死の騎行」の)フォン・ブレドウ少将が率いて9月30日、モルドル川(ベルサイユの西・ランブイエの森を水源に真北へ流れエポンヌ付近でセーヌに注ぐ支流)方面へ出撃させました。
※9月30日に出撃した騎兵第5師団とB軍歩兵
○右翼縦隊(普騎兵第13旅団所属部隊)
*驃騎兵第10「マグデブルク」連隊・第2,4中隊
*驃騎兵第11「ヴェストファーレン第1」連隊・第4中隊
*驃騎兵第17「ブラウンシュヴァイク」連隊・第2中隊
*野戦砲兵第10「ハノーファー」連隊・騎砲兵第2中隊
○左翼縦隊(騎兵は普騎兵第12旅団所属部隊)
*B歩兵第2連隊・第1大隊
*同・第3大隊
*竜騎兵第13「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊
*槍騎兵第16「アルトマルク」連隊の2個中隊
*野戦砲兵第4「マグデブルク」連隊・騎砲兵第1中隊
驃騎兵第10「マグデブルク」連隊
右翼縦隊の驃騎兵先鋒隊が、斥候隊が敵と遭遇したレ・ザリュエ=ル=ロワに近付くと、部落から銃撃が始まります。驃騎兵たちは直ぐに騎砲兵を呼び、急ぎ砲列を敷いた騎砲兵が一斉に砲撃を開始すると、部落では僅か数分で火災が発生し、仏軍部隊は消火することなく撤退して行きました。
ほぼ同時刻に左翼縦隊もエルブヴィル(レ・ザリュエの西南西2.4キロ)で敵部隊を発見し、こちらは第4軍団の騎砲兵が榴弾砲撃を行って仏軍を後退させました。
左翼縦隊はB軍歩兵2個中隊を先行させてモルドル河畔のムルへ進み、部落前面にいた仏軍はB軍と銃撃戦を行った後、部落内へ退却します。B軍歩兵2個大隊は集合すると先鋒中隊に続いてムルへ侵入し、部落入り口のバリケードに立て籠もった仏軍を駆逐すると部落全体を短時間で制圧しました。
後退した仏軍はなおも付近の森林に隠れ様子を伺っていましたが、これも独軍が攻撃すると西方へ脱出し、夜にはベルノン(ムルからは北西に33.5キロ)方面へ退却して行きました。
フォン・ブレドウ将軍はまとまった数の敵がパリ包囲網の後方に現れたため、「その兵力がどれ位の規模か」を確かめるため、師団長のフォン・ラインバーベン中将に許可を得るとそのまま支隊を西へ進めました。
ブレドウ支隊は10月第一週目にマント=ラ=ジョリーを占領して大量の糧食を発見・鹵獲し、その先のボニエール(=シュル=セーヌ。マント=ラ=ジョリーの北西11.4キロ)ではセーヌ川沿いに走る鉄道本線を徹底的に破壊して使用不能とします。ここまでは抵抗もなく進んだブレドウ支隊ですが、セーヌを離れて西へ進んだウール川(オルヌ県ロンニー=オー=ペルシュ付近を源流としてウール県ポント=ドゥ=ラルシュでセーヌに注ぐ支流)河畔のパシー(=シュル=ウール。ベルノンの南西11・5キロ)で初めてまとまった数の仏軍に遭遇しました。これはウール県の護国軍1個大隊でしたが、普軍騎砲兵が数発の榴弾を発射しただけで慌てて部落の陣地を捨てエブルー方面へ逃走してしまいました。
普軍の侵攻を受けたデラリュ将軍は、訓練が足りない部隊をエブルー及びベルノンから一気にセルキニー(エブルーの西北西33.2キロ。鉄道分岐点があります)まで後退させました。
目前の敵が消えたブレドウ将軍は、自隊の南側の様子も確かめようと強力な分遣隊をウーダン(同南東42キロ)へ送り、この隊は10月8日にウーダンを無血で占領しました。
翌9日、分遣隊はB歩兵1個中隊に騎兵3個中隊と騎砲兵1個小隊(2門)を西南西18キロのドルーへ送ります。
この偵察隊はウール河畔のシュリジー(ドルーの東北東4キロ)で仏護国軍部隊に遭遇しますが、これを簡単に追い払って部落を占領しました。ところがこれは蜂の巣を突いたようなもので、たちまちドルーから強力な仏軍部隊が川を渡って前進し、シュリジーの部落を包囲しようと謀ったため、偵察隊はウーダンへ引き上げました。
強力な仏軍がドルー周辺にあることを知ったブレドウ将軍は、残った全部隊を率いて南下し、ドルーの分遣隊を合流させると10月10日、全力でシュリジーを襲いました。
シュリジーには護国軍1個連隊とドルー在の国民衛兵がおり、前日の独軍接近で急ぎ部落の防御を整えて待ち受け、前哨を鉄道沿線のマルシュゼ(ウーダンの西南西7キロ)に派出していました。
前衛となったB軍歩兵はマルシュゼの仏軍を一蹴すると付近の林を抜けて前進し、騎砲兵2個中隊は射程にシュリジーを捉えると砲を並べ部落を砲撃しました。
シュリジーは12門の騎砲による榴弾砲撃で炎上し始め、仏軍は素早く陣地を捨てるとウール川を渡って後退しました。この後、しばらくは川を挟んでの銃撃戦となりますが、これも夕方を迎えて収まって行きました。
友軍から100km以上も離れ、弾薬なども乏しくなったブレドウ支隊はこれを最後に帰還することになります。
将軍は後退途中、騎兵1個連隊・騎砲兵1個中隊・B軍歩兵4個中隊に対しベルサイユ~ドルー街道(概ね現・国道N12号線)の監視を命じてヌフル=ル=シャトー(ベルサイユ宮殿の西16.2キロ)に残留させ、サン=ジェルマン=アン=レーへ無事帰着しました。
全くの余談ですが、ブレドウ将軍がエブルーの東側で目を南へ転じた頃(10月6~7日頃)、ガンベタは気球に乗ってパリを脱出し、ルーアンに達すると汽車でル・マン方面へ向かっています。もしブレドウ将軍がそのまま西へと進み、ルーアン~ル・マン鉄道の分岐点セルキニーに後退していたデラリュ将軍部隊を攻撃したとすれば、ガンベタのトゥール行きは相当な時間を要し、最悪の場合普軍騎兵に捕らえられていたかもしれません。
仏西部軍はブレドウ支隊がパリ方面へ去ったことを確認すると、再びドルーに戻り、この後はウール河畔の要地を護国軍6,000名に若干の義勇兵と貴重な野砲1個中隊とによって堅守しました。更にエブルーにも帰還すると、パシーとベルノンへ守備隊を送り、ほぼ以前の警戒線を回復したのです。
気球(模型)に乗るナダール
※今回の節に関して、横浜市立大学・松井道昭名誉教授の普仏戦争に関する諸研究を参照させて頂きました。特に「鳩と気球 ―― パリ籠城期(1870 ~ 71年)における郵政事情」は他に類を見ない研究文献で、大変参考になりました。松井先生は19世紀フランス史の権威として普仏戦争の政治的側面と市民たちの葛藤を非常に鮮明かつ 詳細に記述されています。今までも度々部分的に外国文献の補完として参照させて頂いております。深く感謝申し上げます。
サンピエール・ド・モンマルトル教会の広場から飛び立つ気球・ネプチューン号
ナダール撮影。気球から延びるガス供給ホースに注意。
気球に乗り込むガンベタ
強風に流される気球を追う普軍驃騎兵
パリの駅舎で製造される気球




