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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
350/534

ソアソンの攻囲

ソアソン周辺


挿絵(By みてみん)


 仏ピカルディ地方エーヌ県のソアソン市は、仏本土がガリアと呼ばれたローマ時代に遡る由緒ある城塞都市です。

 市内北を流れるエーヌ川とその支流クリーズ川の合流点にあり、エーヌが造る広い谷中央に位置して、当時はヴォーバンが造った要塞都市の形を残していました。市街は10個の稜堡を持つ塁壁で囲まれ西側には外堡2個が見られます。エーヌ川に面する東面は多数の銃眼を設えた郭壁となっていました。

 この要塞東側のエーヌ川には石橋が架かり、その対岸にはフォーブール(郭外市)=サン=ヴァーストと呼ばれた街区があります。サン=ヴァーストには3個の稜堡が造られており、エーヌ右岸(ここでは東岸)にしっかりとした橋頭堡を築いていました。


挿絵(By みてみん)

ソアソンのエーヌ川石橋


 要塞の塁壁は平均して高さが7~8m、所々に守備兵が待機する小部屋が設けられており、要塞の周囲にはエーヌの橋梁側(東)にある水門やクリーズ川から引かれた水路により引水し水を湛えた濠が巡っていました。

また近郊のエーヌ、クリーズ両川には堰が設けられ、土手を越えた水はソアソンの谷に流れ込んで氾濫地帯を造り出し、特に要塞の南東側は水深があって要塞への接近を困難にしていました。この氾濫地帯でない場所は南西側で、壕も高度があって水が届かず乾壕となっていました。


 1870年9月下旬において要塞の攻略は唯の野戦軍では困難と見られ、攻城砲や時間の掛かる対壕掘削を用いる正攻法のみが有効と思われていました。

 当時の要塞指揮官はドゥ・ヌ中佐で、守備隊は正規軍戦列歩兵第15連隊の2個大隊規模となる補充隊とエーヌ県の護国軍2個大隊を中核(合計して4,000名)に、独軍が占領した地方で徴兵され、行き場を失い辿り着いた護国軍兵士と市内や周辺地域から集まった国民衛兵や義勇兵を加えて5,000名余りを数えました。


挿絵(By みてみん)

サン=ジェルヴェ・サン=プロテ大聖堂(ソアソン中心地)


 ソアソン要塞都市を攻略するために重要となるのは、エーヌ川左岸の要塞南郊外で、この地域にはクリーズ川が南北に流れて地域を二分割しており、城壁から直線距離で2,000乃至2,500m付近には高地があってここは要塞の最高地点より上にありました。この内、サン=ジュヌヴィエーヴ(城館。要塞内サン=ジャン=デ=ヴィーニュ教会から南東へ2.5キロ。現存します)の高地は要塞の第8稜堡より77m、ヴォクビヤンの北高地(別名モン=マリオン/山。同じく南西へ3キロ)は第7稜堡より90m高い場所となります。これらの高地も要塞市内の南にあるサン=ジャン=デ=ヴィーニュ教会の尖塔からは見下ろすことが出来、監視兵の眼を逃れることは出来ませんでした。

 要塞前を流れるクリーズ川は渓谷となって両岸は切り立つ崖となっていました。この川を渡河出来る地点は街道のある数ヶ所に限られますが、川沿いには雑木林があり、また畑地となって作物が伸びていたため陰潜して要塞外郭まで300m余りの川岸へ接近することもまた可能でした。


 これまでソアソンに対する独軍の攻撃は、マース軍がパリへの進撃中に「気の乗らない」野砲砲撃(9月14日の普第4軍団による)を行っただけで、軍の行軍縦列はこの街を避けて先を急ぎ、また後方連絡線も迂回路を採っていました。要塞に一番近い部隊は後方連絡線上のフィム(エーヌ河畔。ソアソンの東南東27キロ)に駐屯したザクセン(S)ライター騎兵第1連隊の1個中隊で、要塞の守備隊が「悪さ」をしないよう警戒するために時折斥候巡察隊を要塞付近まで派遣していました。


 ソアソン要塞の本格攻囲が発令され、メッスの包囲網から予備第2師団がランス総督府に招聘されると、ランス総督となったメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ2世(普軍の歩兵大将でもあります)は、師団に前衛支隊編成を命じ、師団長レオンハルト・ルドルフ・モルディアン・フォン・ゼルホーフ少将はオットー・フォン・ステュルプナーゲル中佐(第5師団長の親戚です)を長とする支隊(後備歩兵3個大隊・竜騎兵1個中隊・要塞工兵1個中隊)を編成し、9月23日、ランスからフィムへ移動させました。ステュルプナーゲル中佐は翌24日、支隊を率いてソアソンを望むエーヌ河畔のヴニゼル(ソアソンの東5.3キロ)まで前進しSライター騎兵の前哨と連絡を付けました。

 支隊の前衛がこのヴニゼル西方の雑木林を抜けると、要塞方面から銃撃を受けてしまいます。ポンメルンの後備兵たちはこれに怯まず、幾度かに分けて果敢に要塞前まで突進したものの、激しい銃砲撃は止まずに止むを得ず後退し、結局は要塞を垣間見ることが出来るヴィルヌーヴ(=サン=ジェルマン。ソアソンの東2.4キロ)の南郊外500mにある丘とサン=ジュヌヴィエーヴ城館の高地北麓に沿って走る鉄道堤を占拠して拠点とするのでした。


 砲兵を連れていないステュルプナーゲル中佐は、これ以上の無理はせず、ヴィルヌーヴの丘と鉄道堤を押さえたフランクフルト・アン・オーデル後備大隊に命じてエーヌとクリーズ川との間に前哨を配置させ、要塞が撃ち出す榴弾が唸りを上げて落下する中、工兵は剥き出しの前哨のために徹夜で掩蔽壕を掘削するのでした。また、ヴァルデンブルク後備大隊はサン=ジュヌヴィエーヴ城館とその周辺を警戒し、部隊の残り(ランツベルク・アム・ヴェルテ後備大隊と竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊の第2中隊)はビリー(=シュル=エーヌ。ソアソンの南東5キロ)とヴニゼルに宿営しました。

 この後、支隊はこの配置を動かさずに要塞を監視しますが、ステュルプナーゲル中佐はソアソン西側にも包囲拠点を得るべく歩兵1個中隊に竜騎兵数騎を付けて翌25日にヴォクビヤン部落を占領させ、別の1個中隊を26日、メルサン(=エ=ヴォー。ソアソンの西3.5キロ)へ送り本隊到着を待ちました。

 工兵は時折狙って榴弾砲撃を行う要塞重砲に気を付けながら、昼間は前哨陣地の防御物を構築し、夜になると増援として到着した第10軍団(野戦砲兵第10連隊)の予備軽砲第1中隊のためにサン=ジュヌヴィエーヴの高地上に肩墻を設けて砲台を作りました。

 26日の午後には要塞から出撃した仏軍が、ヴィルヌーヴの丘近くの普軍前哨線を襲いましたが、これはこの日前線勤務に就いていたランツベルク後備大隊が冷静に対処して撃退し、ランツベルク大隊は遁走する仏守備兵を要塞の南西側まで追撃して要塞へ追い返します。以降、要塞の仏守備隊は斥候偵察や小規模の攻撃を企てるだけとなりました。


 この間、普大本営はトゥール要塞攻略後に待機していた攻城砲をランス総督府の管轄下へ移し、同時にフォン・ゼルホーフ少将が「ソアソン攻囲兵団」の司令官に任命されました(10月1日)。

 ゼルホーフ将軍は後備第2師団のほぼ全力を掌握すると、準備の出来た部隊から順次ソアソンに向け前進させました。


挿絵(By みてみん)

 ゼルホーフ


 攻囲兵団は1週間ほどで包囲網を整えます。

 到着した攻囲兵団本隊からは、ブランデンブルク後備大隊の2個中隊が重騎兵ライター第1連隊の1個中隊を帯同して10月3日、エーヌを渡河して右岸(概ね北側)に進み、要塞の北側に陣地を構築しようとしました。ところが、午後に入って要塞の突出部、サン=ヴァースト地区から大隊規模の歩兵が出撃して攻撃され、普軍部隊はクルイ部落(ソアソンの北東3.5キロ)の東側まで追いやられてしまいます。しかし翌4日には再び前進してクルイの南西側へ進出し、外部からサン=ヴァーストへの交通を遮断しました。


 10月6日には要塞包囲網が完成します。

 この包囲網の概要は、歩兵3個大隊と騎兵1個中隊からなる「左岸守備隊」は、クルーズ川とエーヌ川の要塞下流域(概ね西側)を担当し、包囲当初から配置に付く前衛支隊による「右岸守備隊」はその位置を変えないまま、10月10日に本隊より歩兵2個中隊、砲兵1個小隊(2門)の増員を得ました。

 エーヌ沿岸のポミエ(ソアソンの西北西4キロ)付近には、普第17師団から応援に駆け付けた第9軍団野戦工兵第1中隊が帯同する野戦軽架橋縦列により舟橋が設けられ、「左岸守備隊」と増援が加わった「右岸守備隊」との連絡を通しました。


 エーヌ川左岸(概ね北側)に敷かれた前哨線は、ヴィルヌーヴ付近のエーヌ鉄道橋に始まり、鉄道堤に沿って少々北へ進み、クルイの西で街道(現・国道D91号線)に沿って西へ進むと、「ラ・ビュリー」や「プレル」「モルパ」の家(どれも街道沿いの一軒家)を拠点として経由しル・ボワ・ロジェ(小部落。ソアソンの北西2キロ)に至ると、この先ポミエまでの間はエーヌ川を前線とし前哨を配置しました。

 右岸の前哨線は前述通りのステュルプナーゲル中佐が決めた前線をそのまま利用しました。ゼルホーフ将軍の後備第2師団司令部は、サン=ジュヌヴィエーヴ城館の南2.6キロにあったフェルム・ドゥ・ラ・カリエール・レヴェック(邸宅。現在はホテルとなっています)に置かれます。


挿絵(By みてみん)

ソアソン ラルクビューズリー門(要塞西部)


 ゼルホーフ将軍は現地に到着すると、攻城指導のため現地に先着していたランス総督府の砲兵部長ヴィーペ中佐(砲兵第1旅団長。この偵察中に負傷します)の意見を聞きつつ麾下部隊が揃うまで偵察と観察を続けましたが、その結果、「砲撃は要塞南西側の高地から行う」ことを命じました。同時にクリーズ渓谷の縁にも砲台建設に有利な場所を定めて数ヶ所砲台を設置することも命じます。

 これに従い、まずは要塞の第7、8稜堡間の郭壁を破壊する目的で攻城砲台をヴォクビヤン北の高地に設置することを決しました。

 10月11日にはランス総督となったフリードリヒ・フランツ大公が総督府の幕僚を伴ってビュザンシー(ソアソンの南7.7キロ)へやって来ました。


 ソアソン攻略のための要塞攻城砲は大量の砲弾・弾薬と共に、トゥールから一旦ランスへ鉄道輸送され、36門が現地徴発された馬車によってクルメル(ソアソンの南南西4キロ)付近に設けられた攻城厰に運ばれました。同じく攻城のための資材(塹壕用の材料や砲台の材料など)は、トゥール攻囲で余った資材とシャロン大演習場で放棄されていた仏軍の資材を運び入れ利用しています。


※ソアソンの攻城砲

○普軍要塞攻城砲 26門(1門に付470発前後の弾薬)

・15センチカノン砲10門

・12センチカノン砲16門

○トゥール要塞で鹵獲した臼砲 10門

・28センチ重臼砲4門

・23センチ重臼砲6門


 10月11日夕刻、昼間の大公到着に続き待望の要塞砲兵4個中隊が到着し、早速歩兵の護衛と補助作業の協力で砲台の構築が始まりました。

 この要塞砲兵は、トゥール攻囲を終えて10月4日にソアソンへ移動開始した第2軍団の要塞砲兵(要塞砲兵第2連隊)第3,4中隊と第4軍団の要塞砲兵(要塞砲兵第4連隊)第9中隊に、セダンから10月5日にソアソンに向けて出発し先着した第11軍団の要塞砲兵(要塞砲兵第11連隊)第8中隊でした。攻城砲兵の指揮はトゥール攻囲に引き続きバルチュ大佐が執り、砲台構築や対壕など工兵作業の指揮は大公直属の工兵部長ブラウン大佐が執りました。 


 砲台の築造は、月夜にも関わらず要塞から脅しの2、3発が発せられただけで他には仏軍の妨害らしい妨害もなく順調に進み、11日たった一晩で完成します。

 翌朝12日午前6時にはモン=マリオン山に設置された「第5砲台」の12センチカノン砲が火を吐き、競うようにサン=ジュヌヴィエーヴ付近に造られた2砲台、ベル(ソアソンの南南東2.6キロ)北方の1砲台、そしてモン=マリオン山(ヴォクビヤンの北高地)北東端の残り4砲台が一斉に要塞に向けて砲撃を開始するのでした。


※ソアソン攻城砲台 位置、任務、備砲

○サン=ジュヌヴィエーヴ付近

*第1号砲台 /要塞正面外壁前掃射・制圧

 ・6ポンド野砲x6(第10軍団予備重砲中隊)

*第2号砲台 /要塞正面外壁前掃射・制圧

 ・15センチカノン砲x4

○ベル北方

*第3号砲台 /第7並びに第8稜堡砲撃

 ・28センチ重臼砲x2

 ・23センチ重臼砲x4

○モン=マリオン山

*第4号砲台 /第7から第8稜堡間本郭壁砲撃

 ・15センチカノン砲x6

*第5号砲台 /第7稜堡自体と第7から第8稜堡間本郭壁砲撃

 ・12センチカノン砲x6

*第6号砲台 /第8稜堡砲撃

 ・12センチカノン砲x6

*第7号砲台 /第7稜堡自体と要塞西側正面外壁前掃射・制圧

 ・12センチカノン砲x4

*第8号砲台 /要塞西側正面外壁の左側稜堡砲撃と外壁前掃射・制圧

 ・4ポンド野砲x6(第10軍団予備軽砲第1中隊)


挿絵(By みてみん)

クルップ製15cmカノン砲


 対する要塞からは南面に指向する備砲が激しい闘志を見せて対抗射撃を行いますが、普軍要塞砲兵等は冷静に砲撃を続行し、午前中には正面に向いた仏軍砲兵を沈黙させ、しばらくは普軍攻城砲のみ砲声を轟かすのでした。午後4時になってようやく要塞は東西の備砲により砲撃を再開しますが、それも短時間に過ぎませんでした。

 市内では何ヶ所かで火災も発生しますが、市の消防隊と市民たちの努力によって延焼少なく鎮火します。しかし、対抗して発射された要塞重砲の榴弾は、その多くが普軍攻城砲台を飛び越して無人地帯で爆発しており、砲台の損害は軽微なものでした。

 その夜(12日夜間)、普軍砲台は要塞に対し騒擾効果を狙って時折榴弾砲撃を行い、夜が明けた13日午前6時、本格的な攻城砲撃を再開し、要塞の仏砲兵もまた対抗射撃を開始しました。

 しかし仏軍砲兵は、またもや短時間で制圧されてしまい沈黙し、第7と第8稜堡間の本郭壁には重カノン砲の連続着弾によって破孔が開き始め、それは望遠鏡で観察するフリードリヒ・フランツ2世大公らの眼には「人間が通り抜けられそうな位に」開いていたのでした。

 そこで大公は午後に入ると使者を要塞に送り、開城を勧告しますが、要塞司令のドゥ・ヌ中佐は断固拒否の態度を示し、逆に使者に対し「貴殿等の攻撃はヴォーバンの攻城法則(要塞の弱点に集中継続して砲撃を加え、対壕で郭壁に迫る)に従わず、ただ砲撃を無闇に繰り返し(市街に砲弾を落として民間にも被害を与えるので)無法で粗暴である」と断罪するのでした。

 メクレンブルク大公は使者が持ち帰ったドゥ・ヌ中佐の「開城拒否」の書簡に目を通すと「砲撃を開始しろ」と命じ、午後5時に攻城砲撃は再開され、要塞の対抗射撃も直ぐに始まったのでした。


 この日(13日)の夜間、砲撃が弱まった要塞では「恐るべき破壊力を持つ」独軍攻城砲に対抗するため、使用していない砲を全て南側本郭へ運び、早朝の普軍砲撃再開に併せて猛烈な対抗射撃を始めました。この砲戦は第7と第8稜堡に置かれた砲は短時間で沈黙させられたものの、第8稜堡からサン=ヴァースト地区までの要塞南東側に増加された砲は奮闘して、サン=ジュヌヴィエーヴ付近の第1と第2号砲台では被害が続出し、一時は危険な状況になりました。

 14日も夜になると要塞では軍属が総出で第7~第8稜堡間の本郭壁に開いた穴を埋め、崩壊し始めた郭壁に土嚢などを積み重ねて修繕し、更に大砲も運び込んで破孔への独軍の突進を防ぐようにしました。仕上げに守備隊は崩れた郭壁上端に鹿砦を重ね置いたのです。


 15日早朝からは濃霧がソアソン一帯を覆ったため、普軍の攻城砲撃は日が昇ってしばらく後に開始されます。

 仏守備隊が夜間に頑張った「印」を発見したバルチュ大佐らは、目標を修繕補強が行われた第7~第8稜堡に絞り、徹底的に郭壁を叩きました。このため、午後になると再び壁が崩壊し始め、破孔上の鹿砦はすっかり吹き飛ばされ、以前の破孔は更に広がって周囲の郭壁は崩落して唯の土砂の山になり果てます。

 しかし仏守備隊は南東側から激しい砲撃を続け、その砲数は却って増えたようにも思えました。

 大公とフォン・ゼルホーフ将軍は状況を確認すると「砲台を前進させて威力を増し、仏軍の砲兵を完全に圧倒すると同時に破孔から歩兵を突入させる準備をし、一気に決着を付けよう」と決心するのです。


 命令を受けたバルチュ大佐とブラウン大佐は、要塞南面に対するクリーズ渓谷とパリへの街道(現・国道N2号線)の間、郭壁まで700m付近に更に2個の肩墻砲台(第9、10号)を構築し、ここへ第1と第8号砲台にいた野戦砲兵両中隊を配置することにしました。ブラウン大佐は同時に新砲台付近の前哨用散兵壕に工兵と作業補助兵を送り込み、幅を広げ掩蔽を高く設えた重対壕に改造するよう命じるのでした。


 同日(15日)午後8時、すっかり暮れた闇の中、バルチュ大佐らは第9と第10砲台の築造を開始しました。すると夕刻より攻囲兵団の動きを観察していたドゥ・ヌ中佐ら守備隊首脳陣は「最早ここまで」と開城することに決し、対抗砲撃や銃撃一切を中止させ、白旗を掲げた使者をメクレンブルク大公の本営へ送り出しました。

 攻囲側も白旗を見ると直ちに砲撃を中止し、開城交渉の行方を見守ります。


 交渉は全権を託された大公の参謀長パウル・カール・アントン・フォン・クレンスキー大佐(普墺戦争ではあのフランセキー師団参謀長)がドゥ・ヌ中佐らと行い、夜半過ぎ(16日早朝)開城条件が合意されました。降伏条項は数日前に普大本営から大公に宛てて送られた訓令に従い、セダン、トゥール、ストラスブールの各要塞開城の条項と全く一緒となりました。

 降伏した仏軍兵はおよそ4,800名となり、士官は例の「紳士協定」で直ちに釈放、既に独軍の占領地となった各地から参集していた護国軍兵士約1,000名もまた「戦争中再び武器を取らず独に反抗しない」との一筆を以て帰郷を許すのでした。

 その他の兵士らは全て捕虜となりましたが、降伏条項で定められた刻限である16日の午後早くにソアソン要塞の「ランス(Reims)門」(要塞第9と第10稜堡間にあった門)から出て来た兵士たちは多くが泥酔状態で足取りも覚束ず、僅かに残った「不戦の誓い」を拒否した士官や下士官の言うことも聞かず、秩序は無いも同然でした。

 この捕虜たちは直ちにユーターボーク後備大隊が護送部隊となってシャトー=ティエリに向かいますが、夕暮れ時、護送の縦列がフォン=ジャンの森(シャトー=ティエリの北14キロ)に差し掛かった時、仏義勇兵が襲撃を行い、護送隊と交戦している間におよそ300名が脱走に成功しています。


挿絵(By みてみん)

ソアソン ラン門(Porte de Laon/第1と第11稜堡間にあった門)


 16日午後、フリードリヒ・フランツ2世大公はソアソン要塞へ入城します。

 一緒に入城した普後備部隊は、要塞の第7、第8稜堡間の郭壁がすっかり崩落しているのを見、その後方にあった市街地にも大きな被害が及んでいるのを見て、改めて普軍攻城砲の破壊力を知るのでした。攻城砲榴弾が原因の火災は兵営や公共施設を焼失、破墻孔は幅が30mもあり、前述通りその後方の防御諸施設も破壊と火災で機能不全となっていて、もし要塞が降伏しなくても普軍はこの「穴」から要塞に雪崩れ込むことが可能となっていたのです。


 9月24日から10月15日までの「ソアソン攻囲兵団」の損害は、戦死が下士官兵10名・馬匹4頭、負傷が士官7名・下士官兵95名・馬匹7頭、行方不明が下士官兵6名となり、合計で118名・馬匹11頭でした。

 また攻囲兵団は、大砲各種128門、各種小銃約8,000挺、大量の弾薬と糧食を鹵獲し、これら武器・軍需物資はその一部がパリの包囲陣に送られて攻囲に使用されるのでした。


 管轄区域内の後方連絡線上に障害となるソアソンを陥落させた大公は10月17日、ランスへ帰還しますが、その直後、普大本営はフリードリヒ・フランツ2世大公に対しパリ包囲陣へ加わるように命じ、大公は10月28日にパリ包囲網の南東、ル・ピプル城(ビルヌーブ=サン=ジョルジュの北東6キロ)へ移動し、第17師団とヴュルテンベルク王国(W)師団の指揮を執り始めました。

 後任のランス総督にはアドルフ・ルイス・フォン・ローゼンベルク=グルシュティンスキー中将が任命されました。


挿絵(By みてみん)

ローゼンベルク=グルシュティンスキー


※仏ソアソン要塞守備隊(8月~)

要塞指揮官 ドゥ・ヌ中佐

工兵指揮官 モスバ少佐

砲兵指揮官 ロケ=サルヴァザ戦隊指揮官(少佐相当)


*戦列歩兵第15連隊の補充隊(2個大隊相当/ドゥニ少佐以下1,600名)

*エーヌ県護国軍第2大隊(オヴィニー少佐少佐以下1,200名)

*エーヌ県護国軍第6大隊(ドゥ・フィッツ=ジェイムス少佐以下1,200名)

・野戦砲兵第8連隊第1中隊 (115名)

*ノール県護国軍砲兵隊 (3個砲兵中隊・計230名)

・第12中隊

・第13中隊

・第16中隊

・ソアソン要塞守備隊砲兵 (50名)

・デクゼア=デュメルク少将師団(第13軍団第1師団)工兵 (キャロン中尉以下30名)

◯正規軍と護国軍の総計4,425名

◯他・義勇兵や国民衛兵、落伍兵などの混成隊(M・フェリクス・カルパンティエ中佐以下数百名)


挿絵(By みてみん)

陥落後のソアソン要塞城壁


※独ソアソン攻囲軍(普後備第2師団第4旅団ほか)


◯先遣隊(9月24日~)

 指揮官 オットー・フォン・ステュルプナーゲル中佐(ブランデンブルク後備混成第1連隊長)

*ブランデンブルク後備混成第1(第8「ブランデンブルク第1/親衛擲弾兵」/第48「ブランデンブルク第5」)連隊

 ・フランクフルト・アン・オーデル後備大隊

 ・ランツベルク・アム・ヴェルテ後備大隊

 ・ヴァルデンベルク後備大隊

*竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊 第2中隊

*第9軍団要塞工兵第2中隊


◯本隊(10月3日頃から順次)

 指揮官 レオンハルト・ルドルフ・モルディアン・フォン・ゼルホーフ少将

*後備混成第8/第48連隊

 ・キュシュトリン後備大隊

◇後備歩兵第4旅団

*ブランデンブルク後備混成第4(第24「ブランデンブルク第4」/第64「ブランデンブルク第8」)連隊

 ・ブランデンブルク後備大隊

 ・ルッピン後備大隊

 ・プレンツラウ後備大隊

*ブランデンブルク後備混成第3(第20「ブランデンブルク第3」/第60「ブランデンブルク第7」)連隊

 ・ユーターボーク後備大隊

*予備重騎兵ライター第1連隊(元・予備槍騎兵第4連隊)

*第10軍団予備重砲中隊

*第10軍団予備軽砲第1中隊

*第9軍団野戦工兵第1中隊(第17師団所属)

 ・第9軍団野戦軽架橋縦列


○攻城砲兵隊 バルチェ大佐(10月11日~)

・第2軍団要塞砲兵第3中隊 

・第2軍団要塞砲兵第4中隊

・第4軍団要塞砲兵第9中隊

・第11軍団要塞砲兵第8中隊


◯攻囲戦中及び要塞降伏後に到着した諸隊

*10月4日にトゥールからソアソンへ向けて出発

・第3軍団要塞砲兵第4中隊

・第3軍団要塞砲兵第6中隊

*10月5日にセダンからソアソンへ向けて出発

・第11軍団要塞砲兵第6中隊

・第11軍団要塞砲兵第7中隊

・B要塞砲兵第1中隊

*10月7日にエペルネーからソアソンへ向けて出発

・後備混成第20/第60連隊のポツダム後備大隊


ソアソン攻囲詳細図


挿絵(By みてみん)


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