パリ攻囲/ル・ブルジェの戦い(10月28~30日)
パリ北郊外の衛星都市・サン=ドニの北から東方向に包囲網を築いた普近衛軍団は、10月下旬まで陣地構築を続行して包囲陣の強化に励みました。この間、仏軍からの妨害は殆どなく、前哨もまた斥候の遭遇戦闘や短時間の銃撃戦ばかりで終始します。
包囲網の東側最前線となっていたル・ブルジェ(サン=ドニの東5キロ)では、10月14日になって部落南郊外の停車場に放置されていた35輌の貨車や客車が、大勢の普近衛軍団や第12「S」軍団の兵士らによって人力でスブラン(ル・ブルジェの東8キロ)まで移動されます。このように、時折サン=ドニの堡塁群やドーベルビリエ分派堡塁などから砲撃を受ける以外、普近衛軍団の前哨たちにとって10月は、比較的平穏な月だったのです。
ところが10月27日の夕暮れ時、ル・ブルジェの南600m余りの場所に突然大勢の工夫や仏軍歩兵が現れ、大急ぎで土盛堡塁の築造を始めたのでした。普軍前哨に緊張が走る中、翌28日明け方午前5時、普近衛擲弾兵第4「国王」連隊第7中隊がル・ブルジェ部落の前哨任務を同僚中隊から交代した直後、部落中央を抜けパリへ向かう街道(現・国道N2号線)を塞ぐ部落南端のバリケードにいた哨兵は何の前触れもなく猛烈な銃撃を浴びたのです。
サン=ドニ方面の野戦軍を指揮する仏将アドリアン・アレクサンドル・アルフォンス・ドゥ・キャリー・ドゥ・ベルマール准将は前日、トロシュ将軍らパリ防衛軍に諮らず独断でル・ブルジェ攻撃を目論み、鉄道線の南に「収容陣地(部隊後退時に援護・収容を行う拠点)」となる土塁を設け始めました。夜も更けると「パリ義勇兵団」のプレッセ(混成)義勇兵数個中隊(アメデ・ロラン少佐率いる300名)は土塁工事の脇を抜け、暗闇の中をル・ブルジェの停車場付近まで密かに接近します。ベルマール准将は後続としてドゥ・レスト分派堡塁に駐屯していた海軍歩兵大隊(ジャン=マリエ・ジョセフ・テオドール・セセ代将指揮)をドランシーまで進ませて直接援護を命令し、更にアーネスト・バロッシュ少佐率いるセーヌ県護国軍第12大隊とフランシス・ブラサール少佐の護国軍大隊ほか1個大隊を指定すると、この3個大隊もル・ブルジェ郊外に進ませました。またサン=ドニから要塞重砲を運搬し、ラ・クールヌーヴ(ル・ブルジェの西南西2.2キロ)部落に据えて前進する部隊の左翼(北西)側を援護したのです。
アーネスト・バロッシュ
突然の急襲を受けた普近衛擲弾兵中隊は急ぎ拠点から離脱すると部落北部に集合しました。これに対し仏軍は最初の銃撃以降慎重な行動を取り、じわじわと支配領域を広めます。これは普近衛兵に落ち着く時間を与えますが、太陽が昇り始めるとバロッシュ大隊、ブラサール大隊など3個歩兵大隊が攻撃に加わり、仏軍の攻撃はたちまち加速して部落北西側を包囲するに至りました。危うく包囲殲滅され掛けた近衛兵は二手に分かれ、ル・ブラン=メニル(ル・ブルジェの東北東3キロ)とイブロン橋(部落から街道沿いに北東へ2.7キロ)へと急ぎ退却して行ったのです。
これでル・ブルジェは仏軍支配下に戻り、ベルマール准将は直ちに部落内の防御を固め、拠点の防衛工事(攻守逆転すれば防御する方向も逆となります)を始めさせました。これと同時に野砲兵の一部が前進して部落南西郊外の鉄道堤沿いやラ・クールヌーヴの北郊外に砲列を敷くと、普近衛擲弾兵第4連隊F大隊が常駐するイブロン橋に向け砲撃を開始しました。しかし野砲同士の砲戦においては普軍側有利で、イブロン橋の袂に集合を終えた普近衛重砲第6中隊と同騎砲兵大隊(第1,2,3中隊)が対抗射撃を行うと仏軍砲兵は砲撃を止め遮蔽物に退避します。この状況を受け、前線の野砲兵に代わってサン=ドニの堡塁群が対抗砲撃を開始すると、双方目標が異なる(仏は普近衛砲兵、普はル・ブルジェや近郊の歩兵)この砲撃戦は延々と続き、午後4時に普軍側が中止命令を受けるまで続いたのです。
なお、ベルマール准将はル・ブルジェ占領後パリのトロシュ将軍に伝令を送り、「ル・ブルジェを奪還しモレ川に橋頭堡を築いたので、直ちにパリ市内より援軍を派遣して欲しい」と促しました。しかし事前に相談もなかったこの勝手な行動に眉を顰めていたトロシュ将軍ら(指摘して来た通りパリ防衛軍は、サン=ドニ方面ではあくまで耐久し、攻撃はパリ北西側で行う腹積もりでした)は何の行動も起こそうとはしなかったのです。
増援要請に梨の礫の准将は、仕方なくサン=ドニから数個の混成マルシェ歩兵大隊を呼び寄せると、部落の頑丈な家屋の拠点に全ての将兵を籠らせたのでした(この時の仏軍部隊数は計8個大隊といいます。マルシェ大隊の定数はおよそ800名ですが、この頃になると仏軍の部隊定数は「あってないようなもの」となっていたため、総計はおよそ3,500から多くても5,000名程度でしょう)。
仏軍がル・ブルジェを確保したとの報告を受けた普近衛第2師団長、ルドルフ・オットー・フォン・ブドリツキー中将は、部落を占拠した仏軍の様子を確かめるため前線まで騎行し偵察を行った結果、ル・ブルジェを奪還するためボンヌイユ(=アン=フランス。ル・ブルジェの北4.3キロ)からイブロン橋まで前進させた普近衛擲弾兵第2「オーストリア皇帝フランツ」連隊第2大隊に「今夜部落を攻撃して敵を追い出せ」と命令します。
これを受けて大隊は午後7時30分、前衛として2個中隊に街道上を進ませ、残り2個中隊は部落南側へ迂回させる「合撃作戦」を開始しました。しかし仏兵たちは既に部落の攻守方向を入れ替えて元より丈夫な建物を半要塞化しており、街道の部落北口には巨大なバリケードを築き上げていました。特に部落北側を縁取る厚い隔壁には銃眼が穿たれ、街道を行く普近衛擲弾兵は次々に狙撃され大損害を被ったのです。
フォン・ブドリツキー将軍は「ベルマール攻撃隊」の実力を見誤り、義勇兵や護国軍主体とはいえ数倍する敵が籠もる「堡塁のような部落」へ大隊を送ってしまったのです。
とても適わないと見たF大隊長は南側へ迂回中の半個大隊も呼び戻し、一旦攻撃を中止してイブロン橋まで引き上げたのでした。
仏ベルマール准将の部隊がル・ブルジェへ「居座る」ことが確実となると、普近衛軍団は砲兵力でなんとか仏軍を追い出そうとします。
明けて29日午前。普近衛軍団長アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク騎兵大将は麾下砲兵に命じ、イブロン橋北東の陣地線に設けられた砲台に入った5個中隊(30門)がル・ブルジェに対する砲撃を行いました。しかし、前述通りル・ブルジェには頑丈な家屋や隔壁が多く存在し、このために仏軍の損害はさほどでもなく、砲撃後に観察してもなお活発に活動していたためアウグスト王子ら軍団首脳を失望させました。
逆に仏軍はこの日午後3時にサン=ドニの「二重王冠」堡塁から攻撃縦隊を出撃させ、ピエールフィットとヴィルタヌーズ(それぞれサン=ドニの北3.6キロと北北西3.2キロ)を狙いました。これはこの日の軍団右翼(近衛第1師団の戦区)前哨部隊(近衛歩兵第1連隊と近衛フュージリア連隊の一部)が食い止め、仏軍は短時間の銃撃戦で諦めてサン=ドニへ退却しています。
独マース軍司令官、アルベルト・フォン・ザクセン歩兵大将は包囲当初より「ル・ブルジェはモレ川の橋頭堡であり、サン=ドニ東部の戦線において絶対に確保しておかねばならない拠点」と見なしており、「どのような手段を執ってでもル・ブルジェの支配を取り戻さなくてはならない」と決断します。
このため、28日午後遅くにはアウグスト王子ら近衛軍団に対し「ル・ブルジェの奪還を急ぎ行う」よう訓令していました。しかし、アウグスト王子は29日の野砲砲撃が効果薄だったことにより、ル・ブルジェ奪還に悲観的となるのです。
アウグスト王子はアルベルト王子と違い、ル・ブルジェの確保が敵首都包囲に「絶対必要」とは考えていませんでした。サン=ドニの敵を牽制し抑える事はこの「突出部」がなくても可能であり、また、ル・ブルジェはただでさえサン=ドニ堡塁群やドーベルビリエ分派堡塁の要塞砲射程内にある「危険な場所」で、「犠牲を増やしてまで確保すべき重要な拠点ではない」と考えていたのでした。
そのため、アウグスト王子はアルベルト王子の奪還命令に「真っ向からの異議」を唱えるのです。
「ル・ブルジェはサン=ドニ方面の敵要塞重砲の射程圏内にあり、大口径の榴弾砲撃を受け続けるため、(今までもそうだが)その維持には犠牲と困難がつきまとう。(既に地歩を固めてしまった仏軍のいる)ル・ブルジェへの攻撃は百害あって一利なし。中止すべきである」
こうしてアウグスト王子は「直球」でアルベルト王子に「攻撃断念」を要求しました。ところが、アルベルト王子にはアウグスト王子とは「別の絵」が見えていたのです。
ザクセン王太子はヴュルテンベルク王国の「異端児」親王による「異議」を退け、「今後の作戦のため、どんな犠牲を払ってでもル・ブルジェは取り返さなくてはならない」と諭し、「即座にル・ブルジェの奪還を行うように」と強い口調で攻撃実施を迫ったのでした。
ル・ブルジェを前にしたアウグスト王子はひょっとして、2ヶ月半前、真夏のサン=プリヴァで起った「悪夢」を思い起こしていたのかも知れません。
あの時、「近衛の申し子」パーペ近衛第1師団長が必死に願った「サン=プリヴァ攻撃の延期」を即座に断り、結果恐ろしいほど多くの部下・友人を失った自身の呆然とした姿を思い浮かべたのではないでしょうか?
「落日に照らされた荒れ野の緩斜面に多くの知人が斃れている姿」や「部隊が半減することが分かっていても攻撃を命じなくてはならなかったパーペ師団長の絶望」を今度は自分が体験し、その「地獄図」は直ぐ目前にある。アウグスト王子が憂鬱になったことは想像に難くありません。
どのようにアウグスト王子が感じたとしても、上官の命令は命令です。「あの時」にパーペ師団長が部下へ命じた心情と同じく、王子は心を鬼にして犠牲続出が必至の作戦実施を近衛第2師団長フォン・ブドリツキー中将に命じたのでした。
当のブドリツキー将軍がこの「恐ろしい」命令を受けてどう考えたのかは残念ながら分かりませんでした。ただ、将軍は命令を受けると前哨陣地にある諸隊を除く歩兵9個大隊と砲兵5個中隊による「ル・ブルジェ攻撃隊」を組織させ、これを3つの縦隊に分けると翌30日早朝、イブロン橋、デュニー(ル・ブルジェの北北西2.1キロ)、そしてル・ブラン=メニルからル・ブルジェに向けて急進し部落を包囲攻撃するよう麾下に命じた、と伝えられます。
ブドリツキー師団長
この攻撃に連動してフォン・パーペ少将率いる近衛第1師団も警戒態勢に入り、近衛第1旅団は近衛第2師団砲兵隊を同行して軍団前哨線右翼後方に進み、ガルジェ(=レ=ゴネス。ル・ブルジェの北北西3.6キロ)とアルヌヴィル(ル・ブルジェの北4.8キロ)周辺に集合すると、万が一仏軍がクル川(現シャルル・ド・ゴール空港北からゴネスを抜けル・ブルジェの西を通りサン=ドニの南でセーヌに達していた支流)を渡河して進出するのを阻止しようとしました。
同じくウールク運河南側に戦線を延ばすS軍団でも第23「S第1」師団が戦闘準備を整え、いつでも介入可能なように備えるのでした。
イブロン橋に展開する近衛騎砲兵3個中隊とル・ブラン=メニルの野砲2個(重砲第4、軽砲第4)中隊は30日午前8時、ル・ブルジェに対する砲撃を開始、3つの攻撃隊のうち最も遠くから進む左翼隊が先発してル・ブラン=メニルを発し、30分後、残りの中央、右翼両攻撃隊もデュニーとイブロン橋を出発しました。
ブドリツキー師団長は中央の縦列に同行し、普近衛第2師団はサン=プリヴァ攻撃以来の「死闘の地」となるル・ブルジェへ突進するのでした。
※10月30日午前8時の普近衛第2師団ル・ブルジェ攻撃隊戦闘序列
◯右翼隊(デュニーから進発)
指揮官/オットー・フォン・ダーエンタール少佐(近衛擲弾兵第2連隊長代理)
*近衛擲弾兵第2「墺皇帝フランツ」連隊
・第2大隊
・F大隊
*近衛槍騎兵第2連隊の1個小隊
◯中央隊(イブロン橋から進発)
指揮官/伯爵ルドルフ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・カーニッツ大佐(近衛歩兵第3旅団長代理)
*近衛擲弾兵第3「英女王エリザベス」連隊
・第1大隊
・第2大隊
・F大隊
*近衛擲弾兵第4「王妃アウグスタ」連隊
・F大隊
*近衛工兵第2中隊
*近衛槍騎兵第2連隊の2個小隊
*近衛砲兵連隊・騎砲兵第1,2,3中隊
◯左翼隊(ル・ブラン=メニルから進発)
指揮官/カール・ルートヴィヒ・バルニム・フォン・ツォイナー大佐(近衛擲弾兵第1連隊長)
*近衛擲弾兵第1「国王」連隊
・第1大隊
・第2大隊
*近衛シュッツェン大隊・第1,2中隊と第4中隊半個
*近衛槍騎兵第2連隊の1個小隊
*近衛砲兵連隊・重砲第4、軽砲第4中隊
*近衛工兵1個小隊
カーニッツ
普近衛第2師団によるル・ブルジェ攻撃の主力、中央隊の先鋒は近衛擲弾兵第3連隊第1と第2大隊で、部落を貫く本街道(現・国道N2号線。現在のル・ブルジェ市内では第二次大戦でのパリ解放を記念して「(フィリップ・)ルクレール師団通り」と呼ばれます)の両側に広がる開墾地を進みました。彼らは部落と分派堡塁から激しい銃砲撃を受けつつも部落北辺目指して突進し、午前9時、遂に部落北口のバリケードを乗り越えて部落内への侵入に成功します。また同行していた近衛工兵第2中隊の尖兵たちは部落北側の隔壁に複数の穴を開け、この穴からも多くの兵士が部落へ入りました。
しかし部落の家屋に籠った仏軍は激しく抵抗し、普近衛兵たちは凄惨な白兵戦で虱潰しに一軒一軒家屋を勝ち取らねばならなくなり、双方の死傷者は短時間でうなぎ上りに増えるのでした。この初期の市街戦で指揮を取っていた近衛擲弾兵第3連隊長のコンラート・フォン・ツァルスコウスキー大佐は胸に銃弾を受け後送されてしまいます(翌31日に野戦病院で死去)。
激戦中、同連隊の第2,8中隊は街道東側の家屋で戦い、残り6個中隊は戦いつつ部落を南西へ進み、サン=ニコラス教会付近でデュニーから部落西へ突入した右翼隊の近衛擲弾兵第2連隊第2、F両大隊と接触しました。
ル・ブルジェ~バリケードを越えて行く近衛擲弾兵
この右翼隊の先頭に立った2個大隊は前進中、斥候として縦隊前に広く散って進む近衛槍騎兵第2連隊の1個小隊が察知したラ・クールヌーヴ付近に集合していた仏軍に対するため、第6中隊と第10中隊の一部を側衛として右翼(西)に派出した後ル・ブルジェの北西角に到着します。
この内F大隊右翼(第9中隊と第10中隊の一部)は先にル・ブルジェ西縁にある公園へ突入、同左翼先頭を進んだフォン・オブストフェルダー大尉率いる第11中隊はデュニーからの街道(現・国道D50号線)口に設けられたバリケードへ突撃し、先頭に立っていた大尉は頭に銃弾を受けて戦死しました。その後方からは第12中隊が左翼側へ進んでサン=ニコラス教会へ向かい、ここに籠る仏義勇兵や護国軍兵から猛烈な抵抗を受けつつも教会堂の壁をよじ登って高窓から堂内へ侵入、激しい白兵戦の末仏兵を教会から追い出すことに成功します。
ここに前述の近衛擲弾兵第3連隊の6個(第1,3~7)中隊が到着し、以降近衛擲弾兵第2と第3連隊を合わせた10個中隊は部落南部に向けてじわじわと支配領域を増やして行くのでした。また、近衛擲弾兵第2連隊F大隊の後方を進んだ同連隊第2大隊は、部落西郊外の墓地と西端の公園を確保し、ラ・クールヌーヴ方面(西側)を警戒するのです。
サン=ニコラス教会の戦闘
部落の東側では仏軍は高い隔壁に守られた家屋や農家に籠り、西側以上の激しい抵抗を見せました。
中央隊後方左翼を進んだ普近衛擲弾兵第4連隊長の伯爵ゲオルグ・エルンスト・フランツ・ハインリッヒ・フォン・ヴァルダーゼー大佐は、先に部落へ突入した諸隊の激戦を目撃すると、中央隊後方を進む近衛擲弾兵第3と第4連隊の両F大隊を直率し、この内近衛擲弾兵第3連隊の第9中隊と第10中隊の一部を、普軍有利に戦いを進めている部落西部への増援に向け、残った6個中隊強の兵力で部落東側へ侵攻しました。
この時に近衛擲弾兵第3連隊F大隊残部(第11,12中隊と第10中隊の一部)は部落北部から隔壁を越えて既に戦闘中だった同連隊の第2,8中隊と合流、部落東部の農家に籠る仏軍を一軒一軒掃討しつつ前進して、遂にサン=ニコラス教会の真東部分までに至りました。
ル・ブルジェ~サン=ニコラス教会の陥落
近衛擲弾兵第4連隊のF大隊は、ル・ブルジェ北東側の脇道から部落に向かいますが、既に街道の東沿いを進んでいた時に部落からの激しい銃撃に晒されており、士官数名を含む多くの損害を出していました。しかし員数を減らしたこの大隊に東側から援軍が現れます。これがル・ブラン=メニルから進み来た左翼隊の先鋒となっていた近衛シュッツェン大隊の第2中隊と第4中隊の半分で、第4連隊F大隊は伝統の「近衛銃兵(軽歩兵)」らと共に部落北東部の隔壁を越え部落に突入しました。
しかしここでも仏軍の抵抗は熾烈で、激しい白兵戦は普仏両軍に多くの犠牲を生みます。この攻撃の先頭に立った近衛擲弾兵第4連隊長伯爵フォン・ヴァルダーゼー大佐と同連隊F大隊長カール・ハインリッヒ・フォン・トロータ大尉は共に胸に銃弾を受けて戦死してしまいます。
トロータ大尉はサン=プリヴァ攻撃でも戦線南部で仏軍戦線に穴を開ける手柄を上げ、サン=プリヴァ攻撃初期で戦死した高名な侯爵フェリクス・ツー・ザルム=ザルム少佐に代わって大隊長になっていた人物で、ヴァルダーゼー大佐はサン=プリヴァで突撃の先頭に立って腹部にシャスポー銃弾を受け重傷を負い、このル・ブルジェ戦の数日前に完治し連隊長に復帰したばかりでした。
ル・ブルジェ~ヴァルダーゼー大佐の突撃
これらの市街白兵戦により普仏両軍とも各隊が入り交じり、指揮官を失った隊は別の隊に吸収されて戦い続けました。しかし普仏共に戦意は高く、隊の区別を感じられぬほど共同して戦い抜いたため犠牲は大きくなって行きました。
結局のところ、戦意は高いものの訓練が不足する護国軍部隊と義勇兵による仏軍は、戦前から猛訓練を施されていた普軍のエリートたる近衛兵たちに押されて行きます。程なくル・ブルジェ北東部ではすべての家屋が普軍の手に落ちました。
一方、普軍第三の攻撃隊、ル・ブラン=メニルから出発した左翼隊は、近衛シュッツェン大隊諸隊をモレ川の北に送って先鋒とし、本隊である近衛擲弾兵第1連隊の2個(第1、2)大隊は最後にル・ブルジェ南東方面から接近しました。
まず先陣となった近衛シュッツェン大隊の1個中隊半(第2中隊と第4中隊の半分)が、前述通り中央攻撃隊の後方部隊支援に回って戦闘に加わると、縦隊左翼(南)側援護のため近衛擲弾兵第1連隊の第1,5中隊は最左翼に出て、モレ川沿いに部落南郊外へ向かいました。すると両中隊がモレ川を渡河した直後、南側の鉄道堤に展開する仏軍海軍歩兵大隊の前衛数個中隊とドランシーに砲列を敷く野砲から銃砲撃を受けたのです。同時にドーベルビリエ、ドゥ・レスト両分派堡塁からもモレ川岸に対して砲撃が開始されました。
砲撃を受けた近衛擲弾兵第1連隊の両中隊はモレ川を再渡河して猛然と鉄道堤に突撃し、堤に沿って散兵線を敷いていた仏海軍歩兵を襲います。勢いに押された海軍兵は、西側の散兵がル・ブルジェへ、東側の諸隊がドランシーへと撤退して行きました。普軍両中隊は以降この鉄道堤から南方を牽制し仏軍のドランシー方面からの接近を防いだのです。
ル・ブルジェ~鉄道堤を行く普近衛擲弾兵第1連隊
鉄道堤とモレ川の間を広く使って前進していた残りの近衛擲弾兵第1連隊諸中隊(第2,3,4,6,7,8中隊)は第1,5中隊が南面を守る中右側へ転回し、ル・ブルジェ南部へ突進しました。
このル・ブルジェ南部には南部の公園に接してあった牧羊場、ガラス工場、最南端には停車場や工場、ガス局(当時主流だったガス燈にガスを送るポンプ場などがある施設)など重要な拠点があります。
最初にモレ川の北から先行して接近したのは近衛シュッツェン大隊第1中隊で、彼らは川沿いの細長い公園を越えるとガラス工場南部の民家を占拠し、更に街道へ出ると部落南口を抑えていたバリケードを難なく占領しました。
近衛擲弾兵第1連隊の第2,3中隊はシュッツェン兵の後ろから部落に接近し、開墾地を西へ進んで最初の一軒農家へ突撃し、第6中隊はその南を進んで一軒農家南東隅にあった家屋を占拠しました。更に南では第4中隊が突進して本街道に面した家屋を裏側から襲って占拠するのです。
これにより牧羊場は完全に包囲され、一斉に攻撃を受けました。中にいた仏護国軍部隊も激しく抵抗しましたが、至近距離の猛銃撃は四方から浴びせられ短時間で制圧されてしまうのです。
ル・ブルジェ~農家争奪の死闘
牧羊場を奪った普近衛兵は3個(シュッツェン大隊第1、擲弾兵連隊第4,6)中隊でここを守り、2個(擲弾兵連隊第2,3)中隊は予備となってその屋外南面で集合待機となりました。
同連隊の第7中隊は東側から鉄道堤に接近し、潜んでいた仏軍野砲数門と歩兵を襲ってこれを駆逐すると停車場を占拠します。第8中隊は停車場の西にあった工場やガス局を占領しました。
こうしてル・ブルジェ南郊外の諸拠点は普軍の手に落ち、その間に点々と存在した農家や家屋に孤立して籠もっていた仏兵たちは、必死で見え隠れする普近衛兵を銃撃しますが、やがて建物に火が回り炎上すると観念し続々と投降するのでした。
既に部落をロラン少佐やバロッシュ少佐に任せて郊外で指揮を執っていたベルマール准将は、部落が次第に普近衛兵に制圧されて行くのを見ると部落救援の兵力を差し向けることにしました。
午前9時30分、オーベルビリエとドランシーより海軍大隊を含め数個大隊がル・ブルジェに向かい前進を開始しました。しかし、鉄道堤や部落南端を抑える近衛擲弾兵第1連隊の4個(第1,5,7,8)中隊は、急ぎ南下して加わった予備2個(第2,3)中隊の援軍と、ル・ブラン=メニルからモレ川まで前進していた砲兵2個(重砲第4、軽砲第4)中隊の援護射撃を得て防戦し、この近衛擲弾兵の激しい銃撃は開墾地を進んだ仏軍部隊の前進を止め、やがて救援隊は踵を返してサン=ドニ方面へ撤退し、砲撃はドランシーを守っていた海軍大隊をもサン=ドニへ撤退させるのでした。
午前10時までにモレ川より南側のル・ブルジェ部落は全て普軍が確保しますが、依然川の北側・部落北西部分は仏軍が死守しており、近衛第2師団長フォン・ブドリツキー中将は南部を固めたフォン・ツォイナー大佐に対し「南方より北西部の仏軍を攻撃し駆逐せよ」と命じます。
大佐はそれまで比較的に損害が少なく疲弊度も低い近衛擲弾兵第1連隊の第4中隊にこの攻撃を命じ、中隊は勇躍川を越えると西側公園に隣接し仏護国軍1個大隊が集合する農家を攻撃しました。
中隊に同行した工兵たちは農家の堅い塀を破壊し、この穴から近衛兵たちは農家敷地内へ突入し、待ち構えていた仏セーヌ県護国軍兵相手の銃剣や銃床を使った白兵戦が始まります。両者は正に死闘を繰り広げた後、員数では劣るものの自他共に普軍エリートを標榜する近衛擲弾兵の攻撃は容赦がなく、愛国心には劣る所がないものの練度では完全に引けを取る仏護国軍大隊は次第に圧倒され、この大隊を指揮していたバロッシュ少佐も戦死を遂げました。
因みにこのアーネスト・バロッシュ少佐は、第二帝政下で法務大臣を務めたピエール・バロッシュの闊達な子息で、セーヌ川パリ下流のマント=ラ=ジョリー(ベルサイユ宮殿の北西36キロ)選出の国民議会議員でもありましたが、普仏戦争の勃発でセーヌ県護国軍第12大隊の指揮官(少佐待遇)となり、この運命の日を迎えていました。
アーネスト・バロッシュ少佐の死
午前11時にはル・ブルジェ中央部で普軍の3個攻撃隊前衛は合流し、部落はほぼ全域が普軍に奪還されました。
しかし、未だ闘志衰えぬ仏兵たちは一部家屋や庭園に潜伏して銃撃を繰り返しており、普近衛兵が部落内を捜索しつつ掃討した結果、全ての仏兵が降伏するまでには数時間を要したのでした。
午後1時30分、ル・ブルジェが完全に普軍に奪われたことを知ったサン=ドニの堡塁群やドーベルビリエ、ロマンビル、ノアジーの各分派堡塁から激しい報復の榴弾が降り注ぐ中、フォン・ブドリツキー将軍は近衛擲弾兵第2連隊の2個(第2、F)大隊を部落に残し、残り全ての攻撃隊に宿営地への帰還を命じます。
鉄道堤付近で砲列を敷く野戦砲兵2個(重砲第4、軽砲第4)中隊の援護射撃を得て、近衛の誇り高き将兵は中隊ごとに集合を終えると毅然として宿営地へ帰って行ったのでした。
「ル・ブルジェの戦い」(独軍呼称。仏軍は「第一次ル・ブルジェの戦い」)の人的損害は、普軍が468名の死傷・不明者*、仏軍はバロッシュ、ロラン、ブラサール3人の少佐を含むおよそ1,800名の死傷者と1,200名の捕虜(行方不明)を計上しています。
ブラサール
※ル・ブルジェの戦い・普近衛第2師団の損害
戦死/士官18名・下士官兵128名・馬匹2頭
負傷/士官17名(内軍医1名)・下士官兵302名
行方不明/下士官兵3名
合計/士官35名・下士官兵433名・馬匹2頭
仏軍がル・ブルジェで今までにない闘志を見せたため、アルベルト・ザクセン王太子歩兵大将は「パリ側はル・ブルジェを殊更欲している」と確信し、以降近衛軍団に対し「常時歩兵2個大隊を部落に駐屯させること」を命じます。また、仏軍が再び来襲した場合これを素早く阻止するため、後方の本陣地(第二線)から短時間で増援を送れるよう、事前の段取りを定めました。アルベルト王子は、仏軍が万が一マース軍の包囲網全域に対する「総攻撃」を開始した場合にのみル・ブルジェを棄てることは可とし、「ル・ブルジェの死守」を内外に明確とするのでした。
ロラン少佐の墓所
戦闘後のサン=ニコラス教会




