パリ攻囲/パリ砲撃を準備せよ
普大本営と普軍参謀本部を中心とする独軍統帥部は、既述通りセダン戦の直後からパリを開城に至らしめるための作戦を練って来ました。
モルトケ参謀総長ら独軍の「頭脳」は最初から正攻法や正面からの攻撃を棄て、砲撃による攻城を有効と見ており、9月末には砲撃を実行するために独本土で準備の成った攻城砲や弾薬・諸材料を輸送するため、トゥール占領後に使用可能となった鉄道本線を優先利用するよう命令を下します。
9月下旬。パリ包囲陣では普大本営の砲兵総監グスタフ・エデュアルド・フォン・ヒンダーシン歩兵大将と同工兵総監グスタフ・フランツ・ヴィルヘルム・フォン・クライスト中将が部下を引き連れ、敵首都の周辺を巡って詳細な偵察を行いました。その結果、両首将が意見の一致を見たのが「この一大都市は単なる砲撃に因って陥落・開城する事はあり得ない」ということで、砲撃の実行と並行して「パリ北西郊外正面において一大攻撃を実施し、南部モンルージュ分派堡塁方面に牽制攻撃を仕掛けて敵の注意を分散させると同時に、ディッシー、バンブ両分派堡塁に正攻法攻撃を実施して奪取し、更にこれを足場としてパリ南西正面のティエールの城壁に取り付くこと」で敵を降伏に至らしめることが可能となる、と説いたのでした。
また、「普砲兵の父」ヒンダーシン将軍は砲撃について「パリ砲撃は現場に準備する攻城砲と砲兵の員数、そして弾薬を十分に備蓄した後に初めて開始することが重要」で「一度始めたら絶対に止めてはならない。砲兵は全力を挙げて24時間途切れなく砲撃を続けること」と力説したのです。
因みに、フランツ・フォン・クライスト中将は当時64歳の誕生日を迎えたばかりで幕僚・工兵畑一筋のベテランです。普墺戦争ではあのシュタインメッツ将軍の第5軍団参謀長という要職を大佐で迎え、精力的な軍団長を陰で支える功績を挙げました。フォン・クライストと聞くとミリオタさんならまず第2次大戦で活躍した「機甲将軍」エヴァルト・フォン・クライスト上級大将(最終階級は元帥)を思い出すことでしょうが、このクライスト工兵総監との血縁は認められませんでした。
ヒンダーシンとクライスト両将軍はこの主旨に沿った報告を9月30日、ベルサイユの普大本営に提出し、10月初旬にはこの目的に沿った計画書も提出しました。
大本営は検討の結果この方針を認可し、パリは四六時中砲弾の雨に晒されることが決定したのです。
なお、この間の独首脳陣による「葛藤」や「思惑の衝突」(特にビスマルクの「政治」とモルトケら参謀本部の「軍事」との意見の相違)は様々な史書・資料が豊富に存在しますのでここでは割愛します。是非ご自身で探して下さい。
この決定により、独第三軍はパリ南方から、マース(第四)軍はパリ北西方から砲撃作戦を実施することとされ、10月9から10日に掛けてそれぞれの方面に攻城砲兵司令官と工兵司令官が任命されました。
パリへ急ぐ独軍攻城砲列
パリ南方の攻城砲台は、ムードン、クラマール、ドゥ・ラ=トゥールの各高地丘陵(B第2軍団の管轄区域)に設置されることが決まります。これら高地は目標となるモンルージュ、バンブ、ディッシーの諸分派堡塁やその付属防御施設から高度にして60~75m高い位置にあり、砲撃戦では優位に立てます。
また、砲台群の左翼(北西)においては、サン=クルー付近に既存する砲台を強化して、コロンブ「半島」先端部ビヤンクール(セーブルの北東3.1キロ)にある仏軍の諸砲台やラ・ポワント・デュ・ジュール(同東3.2キロ)付近の防衛線を砲撃し、砲台群右翼(東)ではモンルージュ分派堡塁に対抗する諸砲台を整備しますが、分派堡より高台となるはずのバニュー周辺では砲台の設置を不可としました。これは仏軍が「バニューの戦い」以降に急遽カシャン~バニュー北方間に堡塁を設けたからで、バニューに砲を置くとこれら仏軍拠点より砲台側面に砲撃を浴びてしまうからでした。
更に仏軍のビルジュイフやビエーブル川付近の諸拠点を牽制するため、ライとシュビィ付近にも砲台を増設しました。
独第三軍はモンルージュ、バンブ、ディッシーの諸分派堡塁とその中間に存在する砲台に対し合計92門の攻城砲を用意させます。しかし、仏軍の分派堡塁や砲台に配置されている砲兵の能力は、9月中旬以来の戦闘(ソーの戦いからバニューの戦いまで)によって「侮れない」ことがはっきりしており、敵より高い位置にあるとは言え、殆ど遮る物のないドゥ・ラ=トゥール高地に設えた諸砲台では、仏軍砲兵力を弱体化させるまでの間、相当な損害と弾薬の消費を覚悟しなくてはならないと考えられていたのです。
フリードリヒ皇太子のパリ観察/シャティヨンにて
一方、マース軍がパリ北西方面のティエールの城壁とその前方に設えた諸防衛拠点、そして「邪魔な」サン=ドニと周辺堡塁を砲撃するための準備は、まず、第三軍とマース軍との連絡点を強固にすることから計画されます。
9月下旬、普大本営はマース軍に対し「軍右翼をコロンブ半島まで進出させるよう」命じました。
マース軍の総司令官アルベルト・ザクセン王太子は「モレ川の氾濫地帯が完成した(「マース軍とW師団の包囲網」参照)ので軍左翼(東側)の近衛軍団管区防衛は強化された」として「軍右翼に兵力を割いても包囲網全体を極度に弱めることにはならない」と判断し、また「大本営が描く攻撃方針に従うこの移動により、サン=ドニ堡塁群に対する包囲砲撃もまた容易になるだろう」と考えるのでした。
ところが、移動準備のために実施した斥候偵察の結果は厳しいもので、偵察報告をまとめた本営参謀からは「コロンブ半島を射程内に収め俯瞰する仏軍要塞砲兵の存在は侮れず、もし平坦で見通しの良いコロンブ半島に進出しようとすれば多大な犠牲を払わねばならない」との報告が上がって来たのです。
そこでアルベルト王子は「攻城砲到着まで軍の西方移転を中止し、万が一仏軍が現在手薄な軍左翼をブゾンやアルジャントゥイユから攻撃した場合、予備隊によってこれをフランコンビルの高地線で阻止する」との方針を打ち出しました。
マース軍参謀長のフォン・シュロトハイム将軍はこの方針を直接口頭で伝えるため、10月2日にベルサイユの普大本営を訪れました。熱心に説くシュロトハイム将軍の弁に納得したモルトケ参謀総長らはアルベルト王子の方針を概ね承諾し、「マース軍はコロンブ半島へ進出すべしという以前の命令は一時撤回する」としましたが、「コロンブ半島へ進出する準備だけは怠りなく完了せよ」と命じ、また「仏軍がコロンブ半島の支配領域をこれ以上に広げたり強固な防衛施設を建設したりすれば、可能な限りこれを妨害せよ」とも命じたのでした。
猶予を得たアルベルト王子は、第4軍団に対しアルジャントゥイユとその周辺の防備を高めるよう命じます。
第4軍団長グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン将軍は歩兵1個大隊と砲兵2個中隊を割いてアルジャントゥイユに進出させ、砲兵は歩兵の援助を受けて部落北東のオルジュモン高地斜面とル・マレ(アルジャントゥイユの南西郊外1キロ付近にあった城館。現在はサッカーと陸上競技のグラウンド)の低地部分に掩蔽壕と肩墻を設け、砲兵を護衛するため歩兵を常駐させました。またエピネー(=シュル=セーヌ。同東北東5.8キロ)に防御工事を行い、左翼側のオルムッソン(エピネーの北1.2キロ)にある前哨陣地と部落を交通壕で結びました。
同軍団はマース軍がセーヌを渡河してコロンブ半島へ進出する準備も任され、軍団の架橋縦列は近衛軍団から進み来た架橋縦列と一緒にサンノア(アルジャントゥイユの北北東2.9キロ)に集合し、ボートや大樽(樽橋用)多数をル・マレ城館周辺に集積するのでした。同時に仏軍が逆にアルジャントゥイユ半島へ進出する場合に備え、予想される渡河地点の川には水雷を沈め、既に爆破されていたアルジャントゥイユからブゾン、シャトウに至る諸橋梁の残骸に爆薬を仕掛け、仮橋の橋脚とされぬよう完全に破壊するのでした。
マース軍は攻城砲と攻城材料が到着し始めた10月11日、遂に右翼(西側)へ移転し始めます。
第12「S」軍団の右翼(北)はウルク運河を渡ってソセ川岸(現在のソセ州立公園付近)まで守備位置を拡張し、近衛軍団はやや西へ動くと右翼はグロレー(サン=ドニの北5.6キロ)まで進出しました。
第4軍団は第8師団の1個旅団をアルジャントゥイユ半島の南側セーヌ河畔に展開させ、師団の残りはサンノア~サン=グラティアン(アルジャントゥイユの北東4キロ)の間に宿営します。第7師団はモンモランシーの高地南西斜面に宿営し、軍団砲兵隊はサンノアとエルモン(同北4.8キロ)に宿営を得ました。
この第4軍団の「第一線」は半島先端のクロアジー(=シュル=セーヌ。アルジャントゥイユの南西10.8キロ)からシャトウ、キャリエール、ブゾン、アルジャントゥイユを経てエピネーに至り、ここからサン=ドニを睨みつつオルムッソンへ北上し最左翼はレ・カルノー(同東北東7キロ付近。モンマニーの南郊外)で近衛軍団と連絡しました。軍団本営はモンモランシー高地のソワジー(=スー=モンモランシー。同北東5.9キロ)に置かれました。
普近衛軍団は第4軍団の左翼に連なり、近衛第1師団はモンモランシーの高地東斜面からエクアン(サン=ドニの北9.6キロ)~サルセル~サン=ドニへの街道(現・国道D316号線)に至るまでの諸部落に宿営し、近衛第2師団はクルとモレ両河川とヴォデルラン(サン=ドニの北東11.9キロ)とル=ブラン=メニル(同東7.8キロ)間の諸部落に宿営しました。このうち、近衛第1師団の数個大隊はモンマニーとピエールフィットに派出され駐屯します。
近衛軍団の「第一線」はピエールフィットからスタンを経てル・ブールジェに至る従前と変わらぬものとなります。ル・ブールジェからは鉄道線に沿ってオーネー=スー=ボアへ達し、前哨線の中心となるル・ブールジェには変わらず1個中隊が駐屯し、これを後方から支援するためモレ川を渡るイブロン橋(ル・ブールジェを街道沿いに北東へ2.7キロ)付近には1個大隊が宿舎を建てて宿営していました。
近衛軍団本営はゴネスに置かれ、軍団砲兵隊と近衛騎兵第1、同第3旅団は従前通り東方のロアシー(=アン=フランス)とトランブレ(=アン=フランス)から動きませんでした。
マルヌ川から北上しサセ川に至るS軍団の新管区では、第23「S第1」師団がオーネー=スー=ボア(当時はオーネー=レ=ボンディと呼ばれていました)からリブリ(=ガルガン)まで、第24「S第2」師団がクリシー=スー=ボアからシェルまでとなりました。
軍団の「第一線」は従前と変化ありません。
軍団本営はそれまで軍本営のあったル・ヴィレ・ガランに置かれ、軍団砲兵隊はその東、ビルパリジ(オーネー=スー=ボアの東8.5キロ)近郊に駐屯しました。
マース軍本営は10月8日、モンモランシー高地西側のマルジャンシー(サン=ドニの北西9キロ)に進みました。
こうして独マース軍はアルジャントゥイユ半島にも侮れない数の兵力を進めましたが、大本営が願っていたコロンブ半島への進出は叶いませんでした。何故ならば、仏軍がマース軍西進の動きに対抗し10月中旬に入ってコロンブ半島へ入って来たからで、独軍の包囲当初は前哨部隊が素早く引き上げて無人地帯となっていたこの地域は、急速に仏軍支配下へと戻って行ったのでした。
仏パリ防衛軍はピュトー(アルジャントゥイユの南7キロ)付近のコロンブ半島橋頭堡から支配地域を拡大させる方針で、ピュトーからアニエール(=シュル=セーヌ。同南南東4.8キロ)に掛けての丘陵地帯に砲兵を配置して砲台を設置すると、アニエールには歩兵数個大隊を置いて一大拠点としました。その後アニエールからは数個中隊が派出されクルブボア(同南5.4キロ)から半島先端のビルヌーブ=ラ=ガレンヌ(サン=ドニのセーヌ対岸)までの間に展開します。同時に独軍来襲で工事が中断され放棄されていた未完の堡塁では工事が再開され、急ぎ体裁を整えると砲が配備され出したのです。この堡塁や肩墻には主にズアーブ兵が配属されました。
また、半島の前哨はナンテール(アルジャントゥイユの南西7キロ)からコロンブ(同南2.6キロ)に進み、普第4軍団のシャトウ~ブゾン~アルジャントゥイユ前哨線とにらみ合う形となり、仏軍は積極的にセーヌ河畔まで出没して対岸のアルジャントゥイユ方面を偵察しました。
対する普第4軍団は、10月8日にオルジュモン高地の砲兵がジャンヌビリエ(アルジャントゥイユの南東3.7キロ)周辺で工事を行う仏軍属の工夫や工兵に対し砲撃を行い彼らを待避させましたが、サン=トゥアン(サン=ドニの南西3キロ)付近にある仏要塞重砲から対抗砲撃を受け、次第に危険となったため普軍砲兵は高地からの撤収が決まります。元よりドゥ・モン=ヴァレーリアンからサン=ドニに至るパリ北部の仏防衛線には多数の要塞重砲が置かれ、対するマース軍には当初野砲しかなかったため砲撃戦では全くの劣勢となり、アルベルト王子は大本営と協議してアルジャントゥイユに進出した砲兵をサンノアへ撤退させ、同時に集結していた架橋縦列や資材も半島反対側のサルトルービル(アルジャントゥイユの東6.2キロ)まで退かせました。以降アルジャントゥイユ半島の独軍は歩兵のみが掩蔽壕に頼って陣地を保持し、対岸の仏軍を見張るだけに留まったのです。
普大本営はこの状況を見て、パリ北西部に対する砲撃と砲台建造のためにコロンブ半島へ渡るためアルジャントゥイユ付近で計画した架橋を全て中止としました。
アルベルト王子はコロンブ半島進出と攻城砲撃の代わりにサン=ドニ北面へ前進することを考えます。マース軍本営が構想した計画は、手始めにドゥ=ラ=ブリシュ堡塁を正攻法で攻撃して陥落させ、その東隣に続く「二重王冠」堡塁を根元「咽頭部」から攻撃してこれも占領、その後にサン=ドニ市街に入って砲台を造り、ドゥ=レスト堡塁を至近から砲撃で沈黙させ、更にサン=トゥアンの重砲やコロンブ半島の仏軍を「側面から」攻撃して撃退する、という壮大なものでした。
しかしパリ砲撃の計画が大幅に変更され、マース軍に割り当てられる攻城重砲の数が減ったため、この計画は「絵に描いた餅」で終わる運命にありました。
パリを望む独軍兵士たち
☆ パリ防衛軍
10月に入りパリ防衛軍は、独軍がただパリを包囲するだけで本格的に「ティエールの城壁」に向けて攻撃する素振りを見せないことで、「独軍はパリの飢餓を待っている」と判断します。
これによりパリ防衛軍では、首都の防衛軍相当数が独軍の包囲網を突破・脱出することで、これを追跡するために独軍が包囲を諦めるよう作戦を練ることとなったのです。
パリでは軍首脳や参謀たちが真剣に検討と研究を重ね、「突破作戦の発起地点として」ビルジュイフ(オート=ブリュイエール高地)、マルヌ「巾着部」北のジョアンヴィル(=ル=ポン)、サン=ドニの北西部、コロンブ半島などが「適している」とするのです。この理由としてパリ防衛軍は「これ以外の土地は全てパリより高地に独軍が重厚な包囲網を築いており、多大な犠牲を以てしても突破は不可能」と断じました。
いずれにしても、包囲突破「軍」は輜重を連れて行くことは出来ず、海軍が優勢なため独軍が封鎖することが出来ない北海や大西洋に面した海運が盛んな地方へ迅速に移動して地歩を固めることが肝要、とするのでした。
これら条件を吟味した結果、パリ防衛軍ではコロンブ半島からアルジャントゥイユ半島へ突破を謀ることに決定し、ブゾンとキャリエール(=シュル=セーヌ。ブゾンの南西3.5キロ)でセーヌを渡河し、アルジャントゥイユ半島北部へ急進してフランコンビルの高地を攻撃、同時にサン=ドニからも出撃して高地を南西側から助攻するという計画を立てるのです。
この突破攻撃が成功した暁には、突破「軍」はポントアーズ(アルジャントゥイユの北西16キロ)でオアーズ川を越えそのまま北西へ延びる本街道(現・国道D14号線)を直進してルーアン(パリの北西112キロ)に進み、ロアール川の仏政府「出張所」トゥールで編成された「ロアール軍」もル・マン(同南西185キロ)経由の鉄道輸送でノルマンディー地方へ送り込み、セーヌ河口からブルターニュ地方にかけて25万の大軍を集中させることを仏軍は夢見たのでした。
この壮大な計画は機密事項として少数の人間しか全貌を知らされず、密かに準備が進められます。
ところが、10月1週目を過ぎた頃から独軍はコロンブ半島の根元付近で活発な動きを見せ始め、その斥候がリュエイ(=マルメゾン。サン=クルーの北北西4.6キロ)周辺へ頻繁に出没するようになりました。これを、包囲網を縮めコロンブ半島南部のモン=ヴァレーリアン堡塁付近まで進めるつもりと見做したパリ防衛軍は、「このままではブゾンとキャリエールからアルジャントゥイユ半島へ進む場合に左翼側が攻撃に晒され、突破作戦の重大な障害となる」と心配するのです。
パリ防衛軍で北西部の防衛に責任を持つデュクロ将軍は、「この方面に展開する普第5軍団を攻撃してその第一線を後退させ、モン=ヴァレーリアン堡塁の北西麓にある見晴らしの良いデ・ジベ風車場(モン=ヴァレーリアン堡塁の北西1.3キロ。現レ・ジベ地区にありました。現存しません)に強固な堡塁を築くことで、北側セーヌ川谷のラ・マルメゾンからシャトウ、キャリエールに至るまでを俯瞰・制圧出来る」と進言し、この「予防」攻撃案は首脳陣から許可されました。
パリ防衛軍首脳はモン=ヴァレーリアン堡塁にやって来ると堡塁西の最前線掩蔽壕まで進んで普第5軍団の「第一線」を観察し、最終的に10月20日になって攻撃命令が下されるのです。
志願し出征するパリの学生たち




