パリ攻囲/10月上旬独軍の配置変更とバニューの戦い
☆ パリ防衛軍
仏パリ防衛軍は9月30日の「シュビィの戦い」でギレム准将始め2,000名に上る貴重な野戦軍兵力を失い、暫くは出撃を控えてパリ南方分派堡塁群周辺の防衛線強化に励みました。
まずはオート=ブリュイエール小堡塁を「ビルジュイフ堡塁」として強化増築し、その左右両翼に掩蔽壕や築堤、防御壁などを設けてこれをビトリまで延伸しました。以前から掘削されていた散兵壕はこれを本陣地の掩蔽壕と対壕で結び、このビトリ~オート=ブリュイエール高地線は10月中旬までに本格的な防衛線に生まれ変わりました。
戦死したピエール=ヴィクトル・ギレム准将に替わってブランシャール師団第2旅団を率いることになったのは、それまで戦列歩兵第35連隊を率いてギレム准将を支えて来たルイ・コンスタン・ローランド・デ・ラ・マウリーズ大佐で、この「マウリーズ旅団」は将兵の疲労回復と部隊整理が終わった後の10月8日に、カシャン(ソーの北東3.5キロ)周辺の警備を任じられました。
マウリーズ大佐は付近を流れる「アルクイユ水道」を利用してオート=ブリュイエール高地の陣地線から、モンルージュ分派堡塁の南側で防御が施されて半要塞と化していたラ・グランジュ・オリーと呼ばれた工場(カシャンの北西1.1キロ。現在はスーパーマーケットになっています)までの間に掩蔽交通壕を掘削しました。
10月10日には、それまでこの工場に配備されていた護国軍1個連隊がモンルージュからアントニーへの街道(現・国道D920号線)を進んでメゾン・ピション農場(カシャンの西950m。オリー工場からは街道を南へ550m)へ進出して拠点を作りました。この農家近郊には数日前までB第2軍団の前哨がいましたが、モンルージュ堡塁の要塞砲から執拗に狙われ榴弾を浴びたため撤退し、南方の鉄道線路(現在も当時と変わらないカーブを描いています)に張り付いていました。しかしここも前進して来た仏護国軍部隊に攻撃され、B軍前哨は仕方がなくこの10日夕方にブール・ラ=レーヌ(カシャンの南南西2キロ)まで退いています。
これでB軍より妨害を受けることがなくなったマウリーズ旅団と付近の護国軍部隊は共同してカシャンとメゾン・ピションで盛んに工事を行い、付近には複数の堡塁を築造してビエーブル川沿いの防衛を強化したのです。
シャティヨンの戦い後のパリ市内
☆ パリ南方包囲陣の任地交代
普第6軍団では10月中旬に、それまで「前後」に並べていた2個師団の配備を「左右」に変更しました。
これにより、それまでショアジー(=ル=ロア)からライ(=レ=ローズ)までに展開していた第12師団はその第一線を、シュビィ部落を中心とする西側へ圧縮し、後方オルリ周辺に待機していた第11師団は前進して、ショアジーからティエイの西までに展開しました。
この移動時に、軍団長のテューンプリング将軍はビトリ西で行われていた仏軍の防御工事を妨害しようと、野戦砲兵を全面使用して榴弾砲撃を行いますが、これは大した効果を生まなかったばかりか各分派堡塁や前進小堡から猛烈な対抗射撃を受けてしまうのでした。
パリ南方における独軍の包囲陣は、セダンの後始末を終えて駆けつけた第11軍団とB第1軍団の到着(既述)によってその兵力が三割増となりました。しかし同時に、南方ロアール川流域で仏軍が新規野戦軍を創出したことが確認されたため、普大本営は「パリの攻囲を南から脅かされぬため」にもこのロアール川方面へ一軍を送ることを決し、10月6日、B第1軍団と第22師団(第11軍団傘下)に対し「ロアール川方面へ進撃せよ」との命令を下しました。
このおよそ3個師団強の兵力が抜けた「穴」は、既に9月29日の大本営命令でパリへ移動中の大型師団・普第17師団と後備近衛師団が埋めることも同時に決まりました。
この頃、ソアソン(パリの北東92キロ)とシャロン(同東148キロ)を目標に分かれて移動中のフォン・シンメルマン中将率いる第17師団主力*は、命令変更によりパリへ進軍方向を変え、10月7日、クロミエ(同東54キロ)で合流すると10日、包囲網後方のビルクレーヌ(同南西20キロ)に達しました。
※10月上旬における普第17師団の状況
○当初シャロンからソアソンへ移動中
◇第33旅団
*第75「ハンザ第1」連隊
*第76「ハンザ第2」連隊
*師団砲兵隊より
・軽砲第5,6中隊
○当初トゥール(ナンシー西)からシャロンへ移動中
◇第34「メクレンブルク=シュヴェリーン大公国」旅団
*擲弾兵第89「メクレンブルク」連隊
*フュージリア第90「メクレンブルク」連隊
(同連隊第2大隊はトゥール要塞警備に残留)
*猟兵第14「メクレンブルク」大隊
*竜騎兵第18「メクレンブルク第2」連隊
*師団砲兵隊
(野戦砲兵第9「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊第3「メクレンブルク」大隊)
・重砲第5,6中隊
*予備重砲中隊
○その他
*槍騎兵第11「ブランデンブルク第2」連隊
ランス警備で残留
*野戦砲兵第9連隊・騎砲兵第1,3中隊
ランスで槍騎兵第11連隊と合流
*第9軍団工兵第1中隊
ソアソンで後備第2師団へ転属
*竜騎兵第17「メクレンブルク第1」連隊
ソアソンで後備第2師団へ転属
ベルヴュー城の普胸甲騎兵(ロンドン・イラストレイテッド・ニュース・1870.9.24)
この10日。マルヌ「巾着部」南端のボヌーイとセーヌ川間に展開していた第11軍団は第17師団と任務を交代しました。
この日から第17師団の第33旅団は、それまで第11軍団の第21師団が担当していた右翼(東)側、第34旅団は同じく第22師団が担当していた左翼(西)側のそれぞれ包囲網に展開します。
10月18日にはランスにいた槍騎兵第11連隊が騎砲兵3個中隊と共にビルクレーヌへ到着し、師団予備となってこの地に宿営を始めました。
南へ出撃する同僚第22師団を見送った第21師団と軍団砲兵隊は、任地を第33旅団に引き渡した直後にセーヌを渡河し、それまで第5軍団右翼が担当していたムードン~セーブルの包囲網へ進みます。
その主力はセーブル谷中ほどのシャビル(セーブルの南西2.2キロ)を中心として周辺部落に宿営し、軍団砲兵隊はサクレー(同南南西10.7キロ)周辺に駐屯しました。この軍団砲兵は所属部隊の変更があり、第22師団と共に南へ進んだ軽砲第5中隊に代わって重砲第4中隊が加入しています。軍団本営はベルサイユ市街に入りました。
第21師団が右翼側のセーブル谷を引き受けたため、フォン・キルヒバッハ将軍の第5軍団は包囲網の任地を短縮することが可能となります。
同軍団の第9師団はサン=クルーからフォーラン・コッペル牧場周辺までを担当し、第10師団はその左翼側でブージバルとラ・タルヌーの橋までを担当しました。
この左翼を担当する第10師団は前哨線の前、ドゥ・モン=ヴァレーリアン堡塁の麓にあるリュエイ(=マルメゾン。ブージバルの北東3.3キロ)の部落を焼き払おうと無人の部落に焼夷弾砲撃を行いますが、部落の建物はどれも石造りで非常に丈夫だったため、うまく行きませんでした。10月13日にはその面前にあった仏軍(第14軍団)がモン=ヴァレーリアン堡塁とその周辺から普軍前線に向けて猛砲撃を行い、この砲撃によりナポレオン3世の愛した由緒あるサン=クルー城が焼け落ちます。折からの強風に煽られて為す術はなく、普軍は城から僅かな美術品を持ち出しただけで消火を諦めました。これで多くの貴重な美術品が焼失したものと思われましたが、後日、ウジェニー皇后が摂政だった時に主だった貴重品を持ち出し、分散疎開させていたことが判明するのです。
サン=クルー城炎上(10.13)
ストラスブールの攻囲を終えてアルザスから西へ進んだ男爵フォン・ロエン中将率いる後備近衛師団は、道中フリードリヒ皇太子の配下となることが決定し、ナンシーまで鉄道で輸送されましたが、この先は線路が各所で分断され、鉄道隊が総力を挙げて工事を行っていました。そのため、ナンシーから先ではほとんど徒歩行軍で先を急ぎ、ナンテュイユ=シュル=マルヌ(パリの東北東65キロ)、クロミエを経由し大本営の目論見より大幅に遅れてコルベイユ(=エソンヌ。同南29キロ)に到達、前衛は10月16日にセーヌ左岸地区に至りました。ここで師団は手薄になっていた第5軍団の左翼側、アルジャントゥイユ半島の先端部分北側に進むよう命じられました。
本隊より先行した後備近衛歩兵第1連隊は同日、ベルサイユを経由してサン=ジェルマン=アン=レー(同西北西19.5キロ)に進み、同地を宿営地として周辺に展開します。前衛1個大隊はル・ポール=マルリー(サン=ジェルマン=アン=レーの南南東2.2キロ)に宿営し、それまでラ・タルヌーの橋を守っていた第5軍団第10師団と任務を交代しました。
師団本隊は18日から23日に掛けて順次ロンジュモー周辺へ集合し、行軍の疲れを癒した後、30日にサン=ジェルマン=アン=レーに進んで第1連隊と合流しました。
普大本営は10月5日にフェリエール城館を発ち、ベルサイユに入城します。しかし広大な宮殿は一大病院と化して部屋は空いておらず、また、第三軍本営と第5、第11の両軍団本営も市内にあったため、参謀たちと後方担当幕僚たちは宿舎の手配と引っ越しに奔走し、国王を始めとするお歴々と参謀本部はベルサイユ市街で一番立派で大きい建物の県庁に入ることが出来ました。
☆ バニューの戦い(10月13日)
パリ南部を包囲する独軍が、10月初旬以来活発な「運動」を行い、巡視斥候や展望監視所からの報告では「敵兵力の大きな移動と一部では減少が見られる」ことから「数日以内にパリに対する攻撃が発動されるのでは」と緊張しました。しかし、10月1週目を過ぎても何事も起こらず、逆に10月に入ってオルレアン方面から独軍との接触と交戦が報告されたことから、パリの防衛軍首脳たちは「独軍の有力部隊がロアール川方面へ向かった」ことを予想するのでした。このため、10月12日になってパリの仏軍首脳はヴィノワ将軍に対し「敵南部包囲線に対し攻撃を行い、敵包囲陣の配備と陣地を明らかにせよ」と命じました。
これを受けてヴィノワ将軍はその日の夜、麾下に命じて出撃準備を成し、翌13日午前9時に2つの強力な攻撃縦列をバニューとシャティヨンに向けて出発させ、その左翼(東側)援護のために1個旅団をブール=ラ=レーヌの独前哨と対面させ、右翼(西側)援護のために1個連隊強の兵力を使ってクラマールからフルーリ(クラマールの北西1.6キロ)に掛けてのムードンの森北東端に対し陽動作戦を行わせたのです。
これら「強行偵察」と陽動・援護にかり出されたのは、モンルージュからディッシー分派堡塁にかけて展開していたコート=ドール県(ブルゴーニュ地方。ディジョンを県都とする)とオーブ県(シャンパーニュ地方。トロワを県都とする)の護国軍部隊と、それを補強する目的でパリ北西に去った本隊から離れ居残っていた第14軍団コーサード少将師団のドゥ・ラ・シャリエール准将旅団、9月30日の傷を癒したブランシャール少将師団(男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル准将の旅団にギレム准将の後を継いだマウリーズ大佐旅団)に、オート=ブリュイエール高地からビエーブル川を越えてモンルージュへと動いたデュムラン准将旅団(第13軍団モーユイ少将師団)を加え25,000名の戦闘員・砲80門と「9月30日シャビィの戦い」以来の数となりました。
この日の戦闘は、後に独名称が「バニューの戦い」、仏名称が「第2次シャティヨンの戦い」となったように、戦場はB第2軍団の包囲網全域となりました。
平和な時代のバニュー市街公園
B第2軍団に属するB第4師団前哨はこの13日午前8時、ビエーブル沿岸の仏軍堡塁後方地区やバンプ分派堡塁後方に仏軍の大きな部隊が集合しているのを発見、更に数個大隊の仏軍歩兵が縦列を作ってモンルージュからラ・グランジュ・オリーの工場へ続く街道(現・国道920号線)まで前進し、別の数個大隊の縦列が同じく東のメゾン・ピション農場からバニュー方向(西)への機動を見せていることを報告しました。
午前9時になると、バンプ、ディッシー、モンルージュの3個分派堡塁が要塞重砲の砲撃を開始し、それはたちまち連射に継ぐ連射となってB第2軍団の第一線を襲いました。ラ・グランジュ・オリー西側の仏軍前哨線上に進んだ野戦砲兵2個中隊のライット砲からも砲撃が開始され、それはバニューとシャティヨン両市街に集中されました。
仏軍左翼となったドゥ・ラ・シャリエール旅団は、ビセートルとオート=ブリュイエールからの砲撃を援護にブール=ラ=レーヌ方面(南)へ進んでB軍前哨と銃撃戦が始まり、10月に入ってマウリーズ大佐旅団と行動を共にすることになった護国軍4個大隊は、このブール=ラ=レーヌへの機動で左翼(東)を「保障」されて、ウジェーヌ・アントナン・ドゥ・グランセ大佐率いるコート=ドール県護国軍3個大隊がメゾン・ピション農場を後にバニューに向かって前進し、アン・マリー・アンドレ・ピコ・ドゥ・ダンピエール大尉率いるオーブ県護国軍1個大隊はバニューの南東側高地を経由して部落南側へ回り込もうと企てました。同旅団の仏第35連隊はラ・グランジュ・オリー工場に入って前進機会を窺い、2週間前に大損害を受けて小規模となった仏第42連隊はシャティヨン攻撃隊の後方ラ・バラック(バンブ堡塁の東700mにあった一軒家。現存しません)の拠点で出番を待ちます。
バニューの戦い(戦後仏による図録)
迎えるB第4師団の第一線展開部隊は、敵襲来の警報を受けると、直ちに最前線の散兵壕や拠点に兵を送り込みました。
※10月13日におけるB第4師団
◇B第7旅団の「第一線」
○ビエーブル西河畔(カシャンの南郊外)~バニュー間前哨線
*B第9連隊・第1大隊
*B砲兵第4連隊・6ポンド砲第5中隊の1個小隊(砲2門)
○ブール=ラ=レーヌ
*B第9連隊・第2大隊
◇B第8旅団の「第一線」
○バニュー
*B猟兵第5大隊
○シャティヨン
*B第1連隊・第3大隊
○フォントネー=オー=ローズ
*B第5連隊・第3大隊
◇B第7旅団本隊
午前中に戦闘準備を終えてクロア=ドゥ=ベルニー(現・国道D920とD986号線の交差点)へ集合
*B第5連隊・第2大隊
ソー公園北端でB第8旅団と連絡
◇B第8旅団本隊
午前中に戦闘準備を終えてソーに集結
*B砲兵第4連隊・6ポンド砲第6中隊
ソー部落東端で馬車軽便鉄道の線路沿いに展開
*B第14連隊・第3大隊
ソーよりバニューへ増援として急行
◇軍団(予備)砲兵隊
シャトネー付近に集合
バニューで戦うB第2軍団将兵
バニューへ向かった仏コート=ドール県の護国軍3個大隊は、部落に籠もるB猟兵第5大隊の銃撃を浴びつつも前進を強行し、部落内の十字路まで侵入しました。B猟兵は折からフォントネーより来援したB第5連隊の第10中隊と共に激しい銃撃の中、何とか部落内の拠点を維持します。
しかし、仏軍の左翼(東)側から回り込んだオーブ県の護国軍大隊が、これも激しい銃撃を物ともせずにバニュー南東側丘陵の中腹にあった2、3軒の家屋を奪取して包囲の形を作り、午前11時には仏戦列歩兵第35連隊の1個大隊も戦闘に加入し、更に同連隊の残り2個大隊も部落西に現れて包囲が完成し掛かると、B猟兵第5大隊とB第5連隊第10中隊は部落を捨てて未だ「穴」のあった南西側へ急速に後退し、ちょうど部落南西郊外へ到着したB第14連隊・第3大隊が敷いた散兵線へと逃げ込んだのです。
ここで部落から追い出されたB軍と部落を占領した護国軍との間で激しい銃撃戦となり、30分後の正午前後にはB猟兵第10大隊(3個中隊。第4中隊はシャティヨンへ向かいました)も駆け付け、彼らB軍猟兵の持つシャスポー銃並に優秀なヴェルダー小銃で仏護国軍の前進を阻止するのでした。
バニューの市街戦・B軍と戦う護国軍ダンピエール大隊
やがてシャティヨン方面(北西側に1キロほど)からも銃撃を受け始めると、仏軍は南下を諦め、バニューで急ぎ防御工事を始めました。
バニューの後方(北)にはデュムラン准将旅団が控え、東側のメゾン・ピションにはドゥ・ラ・シャリエール旅団も前進して街道沿い南へ1.5キロのブール=ラ=レーヌを脅かしますが、これら仏軍部隊は陽動や援護の命令を受けていたものと思われ、本格的に侵攻する機動を見せることはありませんでした。
B第4師団長、伯爵フリードリヒ・ルートヴィヒ・カール・エルンスト・フォン・ボートマー中将は午後1時30分、バニューを奪還するべくB第5連隊第1大隊を後方第二線から呼び寄せ、ソー公園北縁で待機する同連隊第2大隊に合流させるとバニューへ前進させました。このうち、第6,7中隊は公園を発つとそのまま鉄道堤沿いに北上し、メゾン・ピションに迫ると仏シャリエール旅団らとしばらくの間銃撃を交わします。こうして第2大隊の半個大隊が後方の敵を抑えると共に、第1大隊はバニュー南東側高地へ登ると斜面の民家を占拠していた仏オーブ県護国軍大隊の一部を攻撃して追い出し、付近に陣取る仏第35連隊将兵へ猛銃撃を浴びせて牽制すると一部が部落内への侵入を果たしました。これを見ていたB猟兵第10大隊長、マクシミリアン・フォン・ヘッケル中佐は、フォントネー=オー=ローズへ至る街道(現・国道D128号線)両側へ展開する諸隊(B猟兵第5大隊、B第14連隊第3大隊、B第5連隊第3大隊の一部)を引率するとほぼ同時に部落への突撃を敢行し、同時に部下のB猟兵第10大隊に対し部落西側に回り込んで半面包囲の態勢を作り出すよう命じました。
B諸隊は仏軍が急遽設けていたバリケードや即製の鹿砦等を排除しながら部落内を北上して、部落北部で頑固に抵抗する仏護国軍部隊と交戦しつつじわじわと前進し続けたのです。
バニュー市街戦・護国軍部隊の奮闘
一方、バイエルン堡塁(旧シャティヨン小堡。正確にはこの戦闘後、周囲へ肩墻などを増設した後に「バイエルン」堡と通称されるようになります)のあるドゥ・ラ=トゥール高地北東斜面(バニュー方面)へ突如仏軍が出現し戦闘状態となった後、仏軍は反対北西斜面にも侵攻して来ました。
仏ドゥ・シュスビエル准将旅団は午前9時にバンブ分派堡塁横に砲列を敷いた野砲の援護射撃を背景に2個縦列となって前進し、その片方、マルシェ歩兵第14連隊の2個大隊と猟兵1個中隊はバンブから直接シャティヨンへ進んで部落の郊外にあった民家数軒を占拠すると部落のB軍と銃撃戦を開始しました。この時、シャティヨンは前述通りB第1連隊第3大隊が防衛して部落北部に展開し、フォントネーからはB第5連隊第9中隊がやって来るとその後方支援に回っていました。
仏軍はこのB軍シャティヨン守備隊と激しい銃撃戦を展開し、マルシェ歩兵に追従して来たライット野砲2門は至近距離から街道を塞いで防戦するB軍に対し散弾や霞弾を放ちました。更に後方より来着した仏軍工兵は付近で邪魔となる家屋を破壊し、そこにモンルージュから進んだコート=ドール県の護国軍2個大隊が到着するとその左翼(東)側から猛銃撃を浴びせられつつもシャティヨン部落東側へ突入しました。また、ラ・バラックで待機していた第42連隊の一部も戦闘に参加するに及ぶと、B軍は圧倒的不利となって拠点を捨て後退を始めたのです。
B第1連隊第3大隊とB第5連隊第9中隊はシャティヨン南部へ後退すると、しばらくはこの地を死守し、仏軍と銃撃を交わしました。
その後、B第8旅団が送り出した5個中隊(ソーからはB第11連隊の第11,12とB第7連隊の第1,3中隊。バニューからはB猟兵第10大隊第4中隊)が到着し、銃撃戦は弾丸同士が衝突するのではないかと思わせるほど濃密で壮絶なものへと変化するのです。
この銃撃戦は少しずつ仏軍の勢いが薄れて行き、B軍歩兵は隙を見て前進すると仏軍諸兵を圧倒して行き、やがては部落北部のバリケードを盾に抵抗する仏軍兵を包囲する構えを見せるのでした。
この頃、シュスビエル旅団のもう一方の縦列もクラマールに達して難なく部落を占領しました。この縦列はマルシェ歩兵第13連隊の2個大隊で、部落確保の後バイエルン堡塁高地の北斜面に取り付きました。
バイエルン堡塁にはディッシー、バンブ、モンルージュの3堡塁から激しい要塞砲砲撃が加えられ、クラマール市街とその周辺に進んだ仏ライット砲数個中隊は近距離からB軍陣地線に猛砲撃を加えます。
フルーリの小部落に進んだ仏オーブ県の護国軍1個大隊は、その西側に広がる広大なムードンの森を警戒し自軍右翼(西側)を援護しました。
このクラマール~フルーリ方面の前線にいたB第3師団前哨兵は、仏軍が猛砲撃後に前進を始めると第二線の本陣地線まで後退し、師団の本隊はこの第二線に集中配備されて仏軍を迎え撃ったのです。
※10月13日におけるB第3師団
◇B第6旅団の「第二線」配置
○ドゥ・ラ=トゥール高地
*B第15連隊・第1、2大隊
○「バイエルン」堡塁
*B第14連隊・第1大隊の2個中隊
○ムードンの森鹿砦線
*B第15連隊・第3大隊
○クラマール南方ムードンの森東縁
*B第14連隊・第2大隊
○午前11時以降前線に参入
*B第14連隊・第1大隊の2個中隊
*B猟兵第3大隊
◇B第5旅団の「第二線」配置
○ル・プレシ・ピケから午前11時以降前線に加入
*B第7連隊・第2、3大隊
○午前11時以降後方宿営地より前線に加入
*B第6連隊
*B第7連隊・第1大隊
*B猟兵第8大隊
*B槍騎兵旅団
戦闘準備を終えてドゥ・ラ=トゥール高地へ集合
*B砲兵第2連隊・6ポンド砲第5中隊
ドゥ・ラ=トゥール高地の肩墻で砲撃
男爵ヨハン・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴァルター・フォン・ヴァルターシュテッテン中将率いるB第3師団の厚い前線を、高地下から攻める仏軍は破ることが出来ませんでした。
クラマール~フルーリから前進出来ないマルシェ歩兵第13連隊の苦戦や、シャティヨンで押されるマルシェ歩兵第14連隊の様子を観察し、ソーやドゥ・ラ=トゥール高地に見え隠れする大兵力を見たヴィノワ将軍は午後3時、麾下に攻撃中止を命令します。
劣勢に陥り包囲され掛っていたバニューでは、メゾン・ピションの仏シャリエール旅団による援護射撃により、バニューの北ラ・グランジュ・オリー工場にいた仏第35連隊はオート=ブリュイエール高地へ後退し、バニューにいた護国軍4個大隊は最初に部落北東にあった公園の隔壁を破壊してこの方向へ脱出を図り、これに気付いたB軍諸兵から追撃を受けつつも後衛戦闘に奮戦して追撃を振り切り、モンルージュ堡塁の庇護下へ退却するのでした。
シャティヨンとクラマールを占領していたシュスビエル旅団もバンブ堡塁周辺へ後退して行きました。
黄昏時、仏軍の後衛も全て仏軍前哨線の中に消えて行き、B軍諸隊も警戒しつつ元の陣地線へ引き上げました。しかし今回の攻撃で焦点となったバニューでは、従前の守備隊が歩兵1個大隊から2個大隊に増員されたのです。
この日、仏軍の損害は戦死傷者400名(戦死30名、負傷80名、捕虜110名という少ない報告もあります)と言われ、B第2軍団は戦死が士官4名・下士官兵96名、負傷が士官6名・下士官兵199名・行方不明が下士官兵61名(その大部分は捕虜)、馬匹の死傷が16頭とされています。
翌14日。双方の前線間に横たわる戦死者回収と埋葬のため、このB第2軍団の戦域に限り6時間の休戦が行われました。
バニューにあった護国軍ダンピエール大隊顕彰碑




