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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
344/534

パリ攻囲/9月30日・シュビィの戦い

 9月23日における普第12師団と仏第13軍団ドゥ・モーユイ少将師団による前哨戦以来1週間、前線では斥候や巡視同士の衝突以外大きな戦闘は発生せず、独軍は順調に包囲網の強化に努めます。これに対し仏軍は9月末になり初めて大掛かりな反攻を企画するのでした。


 9月23日のビセートル分派堡塁前面の戦いにおける仏軍の「紛れもない」勝利は、早くも翳りの見え始めていたトロシュ国防政権にとって正に起死回生の一撃となります。パリ市民はこの勝利で19日の「ソーの戦い」における衝撃から立ち直り、折しも「フェリエール会談」の内容が伝えられた結果、一気に反独機運が盛り返すのです。


 これを受け、パリの東部と南部の防衛を受け持つジョセフ・ヴィノワ将軍は、23日の前哨戦に敗れた普第6軍団の任地となるセーヌとビエーブル両河川の間が独の包囲網の弱点と見なし、この部分で一大反攻を行い独の包囲網を破ってこれを大きく南へ後退させ、同時にセーヌ川のショアジー=ル=ロア(パリ・シテ島の南南東10.5キロ)付近に存在するはずの独軍東西連絡橋を破壊し、独の包囲陣に打撃を与えようと企てます。

 これにはトロシュ将軍始めパリの仏軍首脳陣も賛同し、ヴィノワ将軍に詳細な指示を与えました(トロシュ将軍は攻撃に懐疑的だった、との記録もあります)。これに則った将軍は第13軍団の内、東部ヴァンセンヌ方面守備に1個師団クラスの兵力(軍団第1師団主体)を残すと、軍団の残り全力でビセートル堡塁とビトリ(=シュル=セーヌ。ショアジーの北2.8キロ)の南部高地から出撃するよう手配したのでした。


 9月30日午前6時。モンルージュ、ビセートル、ディブリ、シャラントンの各分派堡塁、そしてオート=ブリュイエールとサケー風車場(ビトリの西1.2キロ)両小堡塁の重砲が一斉に火を噴き、1時間半に渡って前面の独軍包囲網を叩きました。その直後にヴィノワ将軍は1個旅団を予備としてオート=ブリュイエール高地東のビルジュイフ北方に待機させると3個旅団の兵力でショアジー=ル=ロア~ティエイ~シュビィ~ライ(=レ=ローズ。それぞれ現国道D160号線沿いの長さ6キロほどの前線)に展開する普第6軍団前哨に襲いかかりました。この時、東方のカルフール・ポンパドゥールの十字路(クレテイユの南西2.7キロ)と西方のクラマールにも陽動助攻作戦が敢行されるのです(後述)。


☆ ショアジー=ル=ロア~ティエイ戦線


挿絵(By みてみん)

 サケー風車場堡塁遠景


 ニコラス・ジャン・アンリ・ブレーズ准将率いる仏第13軍団第2師団第2旅団のうち、ドゥ・ラボーム中佐率いるマルシェ第12連隊は、ビトリから出撃すると南側の丘陵を越え、ショアジー=ル=ロアとティエイ間前面に侵攻しました。同じくネイ=デヴォー中佐率いるマルシェ第11連隊は、同じくビトリから南下してティエイの西郊外を通過し部落を片面包囲しようと試みます。師団長ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将はこの旅団に師団砲兵2個中隊を付け、このライット4ポンド砲12門はダルジャン=ブラン風車場(ビトリの南西1.6キロ)付近に砲列を敷くと、ショアジーとティエイの普軍前線を叩きます。


 この日、普第6軍団の前線右翼(東側)には普第23旅団が展開していました。


 仏軍の突発的な猛砲撃が始まると、旅団傘下で23日のビルジュイフにおける前哨戦に敗れた第22「オーバーシュレジエン第1」連隊は緊急集合を発令して仏軍に備えます。その半数となる6個(第1,4~8)中隊はショアジーに、3個(第2,9,10)中隊がショアジー~ティエイ間に、残り3個(第3,11,12)中隊がティエイにそれぞれ展開し戦闘配置に着きました。

 普第6軍団の第一線右翼となるショアジー~ティエイには師団砲兵の重砲第6中隊が前進して待機しており、かれらはティエイの東西郊外に造られた肩墻に砲を並べていました。

 この日、前線の後方には第62「オーバーシュレジエン第3」連隊と軽砲第5中隊に第6軍団工兵2個中隊が待機しています。


 普軍戦線最右翼となるショアジー方面の普軍前哨は、砲撃が止んで仏マルシェ歩兵の「波」が襲い来ると、銃撃戦を短時間で切り上げて敵の僅かな隙を突き、自軍の第一線陣地まで後退しました。前哨警戒線を越えた仏軍散兵群は、程なく普軍第一線から最初の一斉射撃を浴び、その場に伏せるとここから1時間程の長きに渡る銃撃戦が開始されました。

 この時、この普軍最前線には普第22連隊第4,6中隊が展開しており、両中隊は激しい銃撃を加える仏軍に対し一歩も退くことなく統制射撃を続けました。倍近い敵を前に全く怯む様子を見せない普軍に対し仏軍は途切れぬ銃撃を続けますが、およそ1時間後の午前8時、仏軍側は携行する弾薬が残り少なくなり、次第に銃撃を中止すると順次ビトリに向けて後退して行ったのでした。


 ティエイ方面では、薄く広がる第22連隊の前線を増強するため、後方から第62連隊が前進し、その第2大隊はティエイの部落東縁に沿って散兵群を成し、残2個(第1、F)大隊は反対側の西縁に沿って散兵群を形作しました。

 この時、ティエイ西郊外の肩墻には前述の重砲第6中隊のうち2個小隊(6ポンド砲4門)が入り、襲い来る仏軍に榴弾や榴散弾を浴びせていました。こちらにも増援として後方より軽砲第5中隊が前進し、西側肩墻の脇に急ぎ砲列を敷くと砲撃を開始しています。この砲兵たちを護るため、第62連隊の第10中隊は一時戦列を離れると肩墻と砲列の両脇に展開するのです。

 ところが、仏マルシェ第11連隊はティエイを直接狙わずにシュビイとの間を抜けようと西側肩墻の方向へ前進して来たため、わずか1個中隊の歩兵では砲10門を護ることが出来ず、このままでは砲を鹵獲される恐れもあったため止むを得ず重砲第6中隊の2個小隊と軽砲第5中隊は砲撃を中止し、大事に至る前に急ぎ部落南側のベルサイユ街道(現・国道D86号線)沿いに敷かれた本陣地線(第二線)へと後退したのでした。

 しかし、重砲第6中隊残りの小隊を率い、ティエイ北東隅にあった東側肩墻に6ポンド砲2門を置いていたディートリヒ中尉は後退を拒否し、この襲来する仏軍散兵群に立ち向かって砲身が赤黒く焼けるまで砲撃を続け、またティエイ部落に残った第22連隊の3個中隊と増援の第62連隊は猛銃撃を途切らせなかったため、仏マルシェ連隊は大きな損害を受けて前進を止め、やがて雪崩るように踵を返したのでした。


 このティエイの銃撃戦が衰えると仏ブレーズ准将旅団は順次退却を始め、午前9時には全ての仏軍歩兵は元の自軍前哨線まで引き下がったのでした。ダルジャン=ブラン風車場の高地にあった砲兵2個中隊も後退援護の砲撃を止めた後にビルジュイフの後方まで後退します。その後この方面では、ビセートルとディブリ2つの分派堡塁のみがショアジーに対して未練がましい騒擾砲撃を続けるだけとなりました。


☆ シュビィ戦線


挿絵(By みてみん)

 1870年戦争直前のシュビィ市街


 普第6軍団前線の左翼(西)側、ビルジュイフの街道(現・国道D7号線)より西側には、ブレーズ准将旅団と同時にビルジュイフ付近前線から、ピエール=ヴィクトル・ギレム准将が率いる旅団が南下を始めました。

 この旅団は、既述通りルテル付近における普第12師団の追撃を逃れてヴィノワ将軍共々パリに帰還した軍団第3師団(ジョルジュ・ウジェーヌ・ブランシャール少将指揮)の第2旅団で、普仏開戦時、イタリアはローマ教皇領の重要な港町チヴィタヴェッキア(ローマ西北西60キロ)に駐屯していた正規野戦軍戦列歩兵部隊です。


 この日早朝、旅団傘下の戦列歩兵第42連隊は野戦砲兵1個中隊を引き連れ、ビルジュイフ街道を南下してラ=ソセイユ(植物園のある庭園を持っていた邸宅。シュビィの北東1.6キロ)経由でシュビィの東側突破を狙い、戦列歩兵第35連隊はその右翼(西)側を同じく南下してライ部落東側を狙うかのような機動を見せました。

 この日のシュビィ~ライ(=レ=ローズ)の前線担当は第23「オーバーシュレジエン第2」連隊で、連隊第1大隊がシュビィ部落前面からライの北側の第一線に、ラ=リュ(ライの南郊外にあった小部落)にF(フュージリア)大隊、その右翼(東)後方とシュビィ部落内には同第2大隊と竜騎兵1個中隊、そして重砲第5中隊が待機していました。


 仏軍による攻撃前の準備砲撃が始まると、第23連隊も警戒態勢に入り、砲撃後に仏軍の南下を確認した第23連隊第1大隊長フォン・ベルケン中佐(この日は連隊右翼側指揮官としてシュビィの防衛責任者でした)はシュビィ部落内の第2大隊に前進を命じて部落北縁で散兵線を敷かせました。この内第6中隊が部落北東端の守備位置に着いた途端、ライに迫っていた仏第35連隊の右翼が普軍第一線上にあった普第23連隊第4中隊の前哨と衝突してこれを蹴散らすと、仏軍連隊は突如この前哨兵が退却する直ぐ後方に接して東へ方向転換し、一気にシュビィの北東端へ突撃を敢行するのでした。


 この仏軍の素早い動きに前線の普軍諸兵は不意を突かれ、普第6中隊は敵に銃撃を浴びせながら背走後退し、隣に陣を敷いていた第7中隊共々部落内の掩蔽壕へ引き上げ、銃撃を繰り返して仏軍の動きを必死で制しました。この際に第6中隊の一部は部落北東端にあった家屋に取り残されて包囲されてしまいますが、ここに榴弾砲撃を受けて家屋が燃え出すと、彼ら数十名の普兵は意を決して外に飛び出し、銃剣で血路を開くと部落南部へ脱出しました。この後、第23連隊第2大隊は部落北東端に居座った仏軍を排除しようと幾度も攻撃を仕掛けますが、その都度阻止されてしまうのです。


 一方、仏戦列歩兵第42連隊もビルジュイフ街道を進み、シュビィの東方で普猟兵第6大隊の前哨線に衝突するとここを守っていた少数の普軍猟兵を蹴散らし、この普軍前哨はラ=ベル=エピンヌ(シュビィの南南東1.8キロ付近)へと急ぎ退却しました。普猟兵第6大隊はこの時、ラ=ベル=エピンヌとライの南西郊外、そしてビエーブル川にある水車場(ライの南西900m付近)にそれぞれ守備隊を置いています。


 仏軍は普猟兵部隊と遭遇するとシュビィ東郊外に停止し、ティエイ方面(東)側にあった工場(ビルジュイフ街道東縁)を占領するとここに1個大隊を置いてティエイからの反撃に備えました。また、工場の北東側にあったティエイ街道沿いに目立つ貯水塔付近の十字路(シュビィの東南東1.3キロ付近)に砲兵2個小隊(ライット4ポンド砲4門)を配置し、普第23連隊の第2大隊両翼(第5,8)中隊が守備していたシュビィの庭園に榴弾の雨を降らせます。攻撃が順調に進行していると踏んだギレム准将は、第42連隊残りの2個大隊を率いるとシュビィの東から部落へ一斉突撃を敢行したのでした。


 この攻防は熾烈を極め、激しい銃撃戦が巻き起こります。

 ギレム准将は最前線で声を限りに督戦し続け、さすがはパリでも随一の正規軍戦列歩兵だけあって部下も勇戦しました。しかし、前回の戦い(23日)から1週間の猶予を得ていた普軍は、シュビィの庭園を掩蔽壕と鹿砦で包んだ重厚な砦に仕立てており、樹木一本もない(当然ながら並木や小林の木々は鹿砦の材料や射界を得るためほとんど切り倒されていました)荒野から攻める仏軍は、盛土を念入りに突き固めた掩蔽銃座から狙う普兵格好の的となっていたのでした。


 こうしてギレム准将の突撃は部落寸前でドライゼ銃の集中射撃により阻止されてしまいます。

 ラ=ベル=エピンヌからは付近の肩墻に入っていた重砲第5中隊が遮る物もない仏軍散兵群に砲撃を繰り返し、普猟兵第6大隊の一部も北上して仏第42連隊に側面より銃撃を浴びせました。これでさすがの仏戦列歩兵も次第に圧倒されて後退を始め、貯水塔十字路付近の砲兵援護と、ティエイを警戒していた工場の大隊による援護射撃で追撃を振り切った攻撃隊は、貯水塔十字路付近でようやく踏み留まります。


 部隊の先頭に立っていたギレム准将は重傷を負い、やがて息を引き取りましたが部下は後退時の混乱に紛れて遺体を運ぶことが出来ませんでした。

 准将の遺体は普軍に回収され丁重に保管された後、短時間の休戦時に仏軍に渡されます。トロシュ将軍は准将を英雄として称え、廃兵院で葬儀を執り行った後モンパルナス墓地に埋葬しました。


挿絵(By みてみん)

 ギレム


 遡ること午前6時。砲声を聞き及んだ普第6軍団長フォン・テューンプリング騎兵大将は、ラ=ベル=エピンヌとオルリ(ショアジーの南南西2.5キロ)間の丘陵上へ騎行すると、ここで仏軍が自軍団前哨と衝突するのを目撃しました。将軍は直ちに後方待機部隊の緊急集合を命じ、即座に応じた第11師団の第21旅団と軍団砲兵の一部に対し、「万が一仏軍が第一線を突破した場合に」前線の第12師団を援助せよ、と命じたのです。

 この少し以前。砲声で師団本部を飛び出した普第12師団長カール・グスタフ・フォン・ホフマン中将は、西方から聞こえ始めた銃声を追ってラ=ベル=エピンヌへ騎行し、ここで猟兵から「シュビィとライで前哨部隊が優勢な仏軍に襲撃されている」ことを聞かされ、同時に軍団長が後方部隊に緊急集合を掛けたことを知るのです。ホフマン将軍は「第11師団の助太刀前に事態を納めよう」と決心し、師団の残り全てを第一線に急進撃させるのでした。


 ホフマン将軍の緊急命令を受けたランジス(シュビィの南2.5キロ)の後方待機宿営地で休んでいた(予備とはいえ、ほとんどの者が包囲網の構築作業や数日前~前日まで前線で緊張を強いられる警戒任務に就いていました)第12師団の残り部隊*は、第24旅団長ヘルマン・ヴィルヘルム・アレクサンダー・フランツ・フォン・ファベック少将が率いて前進しました。


※9月30日の普第12師団予備部隊

◇第24旅団

○第63「オーバーシュレジエン第4」連隊

○竜騎兵第15「シュレジエン第3」連隊

○野戦砲兵第6連隊・軽砲第6中隊


 戦況を見極めたファベック将軍は第63連隊第1大隊をシュビィ東郊外のビルジュイフ街道十字路へ突進させ、残り2個(第2、F)大隊を西側のラ=リュへ派遣します。軽砲第6中隊はラ=ベル=エピンヌ北の肩墻で砲撃を繰り返す重砲第5中隊の増援とし、ここには更に後方から軽砲第4中隊も加わりました。

 この、ティエイとその後方にある砲兵2個(重砲第6、軽砲第5)中隊と併せ5個中隊(30門)となったクルップ砲の威力は次第に効果を現し、シュビィ東の貯水塔十字路にいた仏軍はシュビィからの銃撃に加え、南と東から砲火を浴びて損害が増加し、ここに普第63連隊第1大隊の突撃も受けて潰走状態に至ります。同時に工場にいた仏第42連隊の大隊も普猟兵と臨機に本隊を外れた第63連隊第3中隊の攻撃を受けて後退し、仏第42連隊は一旦ラ=ソセイユに引き上げました。


 この頃、シュビィ部落を巡る戦いも佳境を迎えます。

 仏第35連隊の猛攻に部落内の普第23連隊も良く耐え、部落北側では数十mをおいて敵味方が相対する一進一退の攻防が1時間余りも続きました。しかし、午前8時になると攻める仏軍側に衰えが見え、弾薬切れや精神的に耐え切れず戦線を離れる者が相次ぎ、やがてその主力はシュビィ北方の小樹林内へ後退しました。

 しかし、最初に部落北東隅に進んで農家を占拠した仏兵たちは頑強でした。

 幾度の攻撃にもびくともしなかった敵が遂に衰えを見せたため、勇んで反撃に転じていた第23連隊第2大隊長のロンネベルク少佐でしたが、第7中隊を直率してこの農家に突撃を敢行したところ猛烈な銃撃を返されて壮絶な戦死を遂げてしまいました。中隊はこの農家の入り口に張り付き最南部分の建物を占拠しただけで、農家の本屋には仏兵が籠もったままでした。

 ホフマン師団長はこの頃シュビィの庭園内に現れて第23連隊を督戦しますが、連隊将兵には疲労の色が見え隠れし始めており、仏軍も北部で頑強に抵抗して一旦林まで退いた仏軍も何時息を吹き返して襲来するか分からない状況となったため、強気の将軍も面子を捨てて一気にシュビィの敵を一掃しようと決心し後方に増援を求めたのです。


 午前8時30分。ホフマン将軍の要請に応じて真っ先に前線へ駆け付けたのは、パリに来て以来後方任務ばかりを受け持って来た第11師団第21旅団所属の擲弾兵第10「シュレジエン第1」連隊第2大隊でした。

 大隊長バウマイスター中佐は第5,6中隊を先行させ、両中隊は部落を抜けると北郊外へ達します。同第8中隊は部落の西へ進んでライ方面を警戒しつつ北上し、第7中隊はビルジュイフ街道へ抜けるとラ=ソセイユを目標に前進を始めました。

 ラ=リュからは第63連隊第5中隊も駆け付け、折から部落西へ回り込んだ擲弾兵第10連隊第8中隊と共同してシュビィ周辺に残る仏軍を掃討します。

 部落周辺と北の樹林に残った仏第35連隊は西と南から接近する普軍から十字砲火を浴びて潰走し、オート=ブリュイエール小堡の後方まで止まらず敗走しました。

 シュビィ北東隅の一大農家に籠もった仏兵も、普第10連隊第5,6中隊と第23連隊第7中隊の猛攻を受けて万事休す、100名程が降伏し捕虜となったのです。


 この結果、ラ=ソセイユに残っていた仏第42連隊も普第10連隊の第7中隊と第23連隊の一部が接近すると孤立する前にビルジュイフ西郊外の前線後方へと後退し、この後退援護のためシュビィ北郊外まで前進して来たクーザン准将の騎兵旅団も、普軍砲列から砲撃を浴び始めると後退して行ったのでした。


挿絵(By みてみん)

 反撃に出る普第6軍団


☆ ライ(=レ=ローズ)戦線


 普第6軍団の第一線最左翼(西)となるライには、19日にオート=ブリュイエール高地で勇戦したデュムラン准将旅団が押し寄せます。

 このうち、マルシェ第10連隊の2個大隊はライ部落の有名なバラ園と墓地(両方とも市街地南に現存します)を目標に前進し、マルシェ第9連隊の2個大隊と予備中隊からなる猟兵2個中隊はライ部落の北縁を狙って来襲しました。

 この時、マルシェ第10連隊の残1個大隊はカシャン(シュビィの北北西3キロ)からライへ向かう街道(現・国道D126号線)に進んで、「ライ攻撃隊」の右翼援護となり、その一部はビエーブル川を挟んで対岸のB第2軍団最右翼部隊と暫し銃撃を交わし、更に一部が川を渡ってブール=ラ=レーヌ(シュビィの西北西3キロ)のB軍前哨と対戦、これを駆逐し西側からの脅威を除くと帰還しています。マルシェ第9連隊の残1個大隊はオート=ブリュイエール小堡の守備に残留しました。


 ライ北辺に達した仏マルシェ第9連隊主力は、その北西隅で数軒の農家とブドウ畑を奪取し、付近の普軍前哨をライ部落の北縁へ追い払いました。しかしその先へ進もうとした連隊は、普第23連隊長フォン・ブリーゼン大佐が直率する7個(第1~3とF大隊)中隊が構える掩蔽壕と対面し、猛銃撃を浴びた仏マルシェ第9連隊はここで持久戦を強いられ、前進を阻止された仏軍は銃撃を交えるのみに留まります。

 同じ頃、マルシェ第10連隊もバラ園と墓地から200mを切った場所まで迫りますが、ここで園の前面に陣取っていた普第23連隊の第2と第9中隊による銃撃を浴び、公園や墓地の隔壁に隠れる普兵から、ドライゼ銃でも威力を発揮出来る200m前後で正確な射撃を受けたマルシェ兵たちは大損害を被ってビルジュイフへと潰走したのでした。


 ホフマン師団長の命令によりランジスから進んだ「ライ救援」の第63連隊2個大隊は、前衛がちょうどこの頃にラ=リュへ到着し、ブリーゼン大佐は午前8時頃、ライ部落の北縁で膠着する前線に使用するため第63連隊前衛の数個中隊をライへ呼び寄せます。

 この内、大佐から「敵の右翼(西)を包囲攻撃せよ」と命じられた同連隊第7中隊は急斜面を駆け足でビエーブル河岸まで下ると、ここから仏軍の死角を辿って北上した後、敵散兵群へ突撃しました。鬨の声を上げ思わぬ方向から殺到する普軍兵士に驚いた仏マルシェ兵は、同時に突撃を敢行した普第23連隊の兵士にも翻弄され、散を乱して潰走して行ったのでした。この時、ライ戦線の最前線右翼(東)にいた第23連隊の第9中隊は、ちょうどシュビィから追い払われる仏第35連隊の敗走を目撃し、暫くそちらを追撃して行きました。

 こうしてマルシェ第9連隊も潰走状態でオート=ブリュイエール小堡後方へ退却し、ライ部落の北縁では逃げ遅れて戦闘意欲を失った「無傷の」仏兵120名余りが捕虜となったのでした。


 普第6軍団の第一線攻撃が全て失敗に帰してしまったヴィノワ将軍は、オート=ブリュイエール小堡後方で「敗走兵」を再度集合させ、今一度前進させようと躍起になりましたが、死地を脱した将兵に気力はなく、再攻撃は諦めるしかありませんでした。

 この後は各分派堡塁やオート=ブリュイエール、サケーの両小堡がショアジー=ル=ロアに対し行ったものと同じく、午後10時に至るまで普第6軍団の前哨に対し延々と嫌がらせの砲撃を続けたのでした。


 結局、普第6軍団は「第一線」を守り抜き、包囲網はいささかも揺るぎませんでした。

 この日の普第6軍団の死傷者は、士官28名、下士官兵413名に昇りますが仏軍は普軍のおよそ5倍となる士官74名、下士官兵2,046名の損出を計上し、その多くはシュビィの東で凄惨な突撃を行い旅団長が倒れたギレム旅団の将兵でした。


☆ その他30日の「陽動」攻撃


 ヴィノワ将軍は、普第6軍団の前線に対する攻撃と同時に、その両翼側(東西)でも陽動・牽制攻撃を命じます。


 牽制作戦の西側を担当したブランシャール少将師団の第1旅団(男爵ベルナール・ドゥ・シュスビエル准将指揮)は、イッシーとバンブ付近に集合し、そのマルシェ第14連隊をB第2軍団前哨が構えるバニュー(ソーの北北東2.5キロ)とシャティヨンの監視に置くと、マルシェ第13連隊の1個大隊をクラマール(同北西3.2キロ)へ送り出しました。

 同じく連隊他の1個大隊は、バ=ムードン(ムードンの北1.2キロ。セーヌ湾曲部頂点南河岸)から発見することが困難な川沿いの低地を進んで、普第5軍団最右翼部隊前哨が警戒任務に当たるベルヴュー(バ=ムードンの西1キロ)へ接近し、折から援護射撃を加える仏セーヌ川艦隊のモニター(砲台艦)による砲撃に気を取られていたベルヴュー周辺の第5軍団前哨は、突如現れた仏軍により街道にあったバリケードから駆逐されてしまいます。

 この時、仏軍大隊は付近の農家を拠点にベルヴューの南側にあったムードンへ続く街道の十字路を掃射して独軍を牽制しました。これに対抗したのは当初前哨任務に就いていた普擲弾兵第7「ヴェストプロイセン第2」連隊第5中隊だけでしたが、この絶好の前線突破機会に対し「陽動任務」しか与えられていなかった仏軍部隊は前進することなく、だらだらと続いた銃撃戦の後に、セーブルからベルヴューへ駆け付けた同連隊第2大隊の2個中隊により仏軍大隊は側面を攻撃され、バ=ムードンへ後退して行ったのです。


 一方、パリ南方仏軍前線の左翼(東側)では、デクゼア=デュメルク少将師団第1旅団(ガストン・マタ准将指揮)がドゥ・ベルニ准将のマルシェ騎兵旅団と共に午前4時から5時に掛けてシャラントン分派堡塁後方のマルヌ川を渡河して護国軍の護るクレテイユ方面へ進出し、同時に前線に進んだライット砲兵2個中隊はノートルダム・ドゥ・メッシュと呼ばれた独立農家(クレテイユの西750m。現存せず)付近に砲列を敷くと、南に面する普第11軍団の前哨に対し砲撃を加えました。

 仏マタ旅団主力は普軍前哨が護るメスリー部落方向へ進み、他はクレテイユの西からカルフール・ポンパドゥール十字路を目指しました。


 砲撃を被った普第11軍団の前哨は、直ちに警戒態勢に入ります。

 この日、普第88「ナッサウ第2」連隊はボヌーイ水車場を守備する普猟兵第11「ヘッセン」大隊1個中隊の左翼(西)側からモン=メスリー高地までを守備しており、高地上には野戦砲兵第11「ヘッセン」連隊の軽砲第2中隊が砲を並べていました。

 また、第94「チューリンゲン第5」連隊のF大隊はカルフール・ポンパドゥールにあり、周辺の掩蔽壕やバリケードを守備していました。

 この十字路前には重砲第3中隊が砲列を敷いていましたが、ノートルダム・ドゥ・メッシの仏軍砲兵により集中砲撃を受け、一旦南東側の街道筋(現・ポンパドゥール道路)まで退却します。この街道際にはやがて重砲第4中隊が駆け付け、態勢を整えた第3中隊と共に反撃の対抗砲撃を開始しました。

 一時は有利に戦いを進めていた仏マタ准将でしたが、その目的は「あくまで牽制攻撃」で、旅団主力はメスリー部落に対し(シャスポー銃では届くがドライゼ銃では届かない)十分な距離を取って留まると、遠方から普軍前哨に撃ち掛けるだけに終わります。同時に行われた仏ベルニ騎兵旅団の襲撃も形ばかりで、仏騎兵は普軍から銃撃を浴びると直ぐに転向し去って行ったのでした。

 こうしてモン=メスリー周辺では本格的な戦闘に至ることなく、仏軍の攻撃も午前9時には終了し、マタ旅団、ベルニ騎兵旅団共にシャラントン堡塁前面のメゾン・アルフォール東郊外に展開するミトライユーズ砲の援護で再びシャラントン方面に引き上げました。

 この前哨戦当初から砲撃を続けたモン=メスリー高地の軽砲第2中隊は、後退する仏軍歩騎兵を狙って彼らがシャラントン堡塁の陰に消えるまで榴弾を放ち続けたのです。

 

 普第11軍団長フォン・シャハトマイヤー中将は前哨が砲撃を受けたとの報告を受けると、直ちに軍団主力に対しモン=メスリー高地からカルフール・ポンパドゥールの南方まで進み、場合によっては前線を支援するよう命じましたが、戦闘が程なく終了すると、昼前には主力を再び従前の本陣地線と宿営地まで引き上げさせたのです。


 9月30日のヴィノワ将軍による積極攻勢「シュビィの戦い」は仏軍の完全な敗北に終わります。


 前述通り仏軍は、貴重な正規野戦軍将兵が2,000名以上の損害を出し、パリ防衛軍は人的損害でも痛手を負いました。逆に普軍は450名程度の損害で済んで、一時は危なかったものの仏軍の前線突破を防ぎ切りました。


 この日パリでは興奮する市民により情報が誇張されて拡散し、その情報も真実とデマが入り交じったお陰で一般市民が正確な情報を汲み取ることは非常に困難となります。

 結局「仏の大勝」から「ヴィノワ軍の潰走」まで一体どれが本物か分からなくなる始末で、再び市民は悲喜交々、不安と期待で右往左往する羽目となるのです。

 その内に19日の「ソーの戦い」の時と同じ光景が市内に現れ、疲弊してとぼとぼと行軍する兵士や負傷兵の群に市民は「真実」を汲み取って意気消沈し、その兵士等が語る戦場の状況から、市民たちは再び「無能な将軍たちによってまたもや憎きプロシアに負けた」との怒りがくすぶり始めるのでした。


挿絵(By みてみん)

 シュビィの戦い


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