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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
343/534

パリ攻囲/第三軍の包囲網と騎兵師団

挿絵(By みてみん)

オート=ブリュイエール周辺(1870・9・23)


☆ 第11軍団


 セダン会戦で重傷を負った(数日後に死去)フォン・ゲルスドルフ中将に代わり、第21師団長から軍団長となったハンス・フォン・シャハトマイヤー中将率いる普第11軍団は、バイエルン王国軍のフォン・デア・タン歩兵大将の指揮下でセダン会戦の「後始末」を任されたため、本軍に遅れること約1週間後にセダンを発ち、9月22日からW師団左翼と連絡してマルヌ「巾着部」南端部から西へ、セーヌ川に至るまでの間にパリ包囲網を構築しました(しかし、未だ後方連絡線上に1個師団に相当する部隊を残しています)。


 9月21日。本隊がジョシニー(モーの南西16.3キロ)に到着した軍団は、普大本営の命令により少ない兵力の中から4個大隊を抽出して分遣(第32「チューリンゲン第2」連隊/3個大隊はフェリエールに進んで大本営の護衛隊、第82「ヘッセン第2」連隊第1大隊はラニーとモーに分かれ守備隊に)すると、残り(歩兵9個大隊半、騎兵5個中隊半、砲兵と工兵のほぼ全て)は23日までにリメイユ(=ブレバンヌ。「巾着部」の南。クレテイユの南5.5キロ)周辺でクレテイユ方面の仏軍と対峙していた第6軍団所属の第24旅団諸隊と交代(同旅団は本隊と合流するため同日中にセーヌを渡りました)してセーヌ川まで進みます。

 ここで正式に第三軍本営からクレテイユに面するセーヌ~マルヌ川間の包囲網一環を維持する任務を受けたシャハトマイヤー将軍は、第21師団をトロア(パリ南東141キロ)への街道(現国道D19号線)より東側、第22師団を同街道より西側にそれぞれ展開させ、その前哨線は4日前の「モン=メスリーの戦い」で第5軍団(第17旅団)が展開した線と全く同じとなり、ボヌーイ(=シュル=マルヌ。巾着部南端左岸)からフェルム・ドゥ・ロピタル(農場。クレテイユの南南西3.4キロ。現・浄水場管理事務所の位置)付近までに敷かれます。宿営地はシュシー=アン=ブリ(同南東4.7キロ)より西側からセーヌ河畔のビルヌーブ=サン=ジョルジュ(同南7キロ)に至るまでの諸部落となりました。

 また、軍団砲兵隊はビルクレーヌ(同南南東9キロ)周辺で宿営となり、軍団本営はグロ=ボア城(リメイユの東南東4.2キロ)に置かれます。


 軍団の前哨が展開する最前線は、前述通りボヌーイから始まってマルヌ左岸の谷に沿って西へ進み、クレテイユ(とその後方にある強力なシャラントン分派堡塁)を正面にして真っ直ぐにセーヌ河畔に至りました。

 前哨線最右翼(東側)となるボヌーイ水車場(ムーラン・ドゥ・ボヌーイ。ボヌーイ部落の北東1.6キロマルヌ河畔。爆破されていた鉄道橋西側にありました)には特に1個中隊を常駐させて東側のW師団と連絡を取り合い、「巾着部」の仏軍が独軍の「軍団境界線」を狙ってマルヌ川を越えることのないように警戒しました。

 前哨線で重要な拠点となったのは、この水車場西にあるボヌーイ部落とメスリー(クレテイユの南1キロ)小部落、そして前線中央となるモン=メスリーの高地でした。前哨線の左翼部分ではロピタル農場を堅固な防御拠点に設え、カルフール・ポンパドゥール(レテイユの南西2.6キロ。現国道N6とD86号線の交差点)付近の農家周辺に堡塁と防柵を施工し、セーヌ左岸のショアジー=ル=ロアと対面する右岸の家屋群にも防御工事を施して拠点に設えるのでした。


 マース軍の包囲網と同じく、第三軍の諸軍団も包囲網を「前哨線(第一線)」と「本陣地線(第二線)」とに分けて工事を行います。


 第11軍団の「本陣地線」はシュシー(=アン=ブリ)~リメイユ部落までの丘陵地に敷かれ、この高地北西斜面には多くの肩墻を築いて、リメイユの東と北西にあるブレバンヌとヴァロントン部落周辺では、掩蔽壕や銃撃拠点が設けられて「要塞化」されました。

 また、重要なセーヌ渡河点となるビルヌーブ=サン=ジョルジュの軍団橋梁には恒常的な橋頭堡が築かれ、セーヌ左岸に続く第6軍団の右翼と連絡を取りました。


 独軍のパリ包囲/マルヌ巾着部(第11軍団)

挿絵(By みてみん)


☆ 第6軍団(オート=ブリュイエール高地とビトリの前哨戦闘/9月23日)


 フォン・テューンプリング騎兵大将率いる第6軍団は、セーヌを渡河した後に激しい前哨戦闘(「ソーの戦い/~パリ南面包囲の開始」参照)に巻き込まれましたが、まずはこの前進位置をそのままに包囲網の一環を築くことになります。

 その任担地は、セーヌ川の左岸縁からビエーブル川の右岸縁まで(その正面にはディブリーとビセートル2つの分派堡塁があります)で、この左翼端には両軍にとって争奪の場となりつつあったオート=ブリュイエール高地(クレテイユの西8.5キロ付近を頂点に北はビセートル分派堡、南はライ=レ=ローズまで東西1キロ・南北3キロ余りの丘陵地)がありました。


 オート=ブリュイエール高地南端付近には仏軍の強固な拠点となっていた「オート=ブリュイエール小堡塁」があり、9月19日の戦闘結果により、仏軍は一時小堡を捨てて高地北にあるビセートル分派堡塁周辺まで後退していました。

 テューンプリング将軍は、この「無人地帯」にある未完成ながら邪魔な小堡を確実に占領しようと考えますが、その前に「二度と仏軍に利用されぬため」この小堡を徹底的に破壊することを命じました。すると、この命令と前後して斥候偵察等の情報として「19日の戦闘後、仏軍はビセートル堡塁よりその要塞砲を撤去し始めている」との「噂」が入り、将軍は高地際のビルジュイフ(ビセートル堡塁の南1.5キロ)方面へ強力な偵察隊を送り込み「噂」を確かめるよう命じたのです。


 この任務を受けたのは第22「オーバーシュレジエン第1」連隊第1大隊(第4中隊欠)で、3個中隊は9月22日正午過ぎ、僅かな仏護国軍部隊が残留していたビルジュイフ部落を襲撃し、護国軍兵を追い出すと部落の北端までを一気に占領しました。ところが、守備兵が消えると同時にビセートル堡塁の備砲が火を噴き、榴弾が部落と周囲に落下し始めたため、大隊は被害が発生する前に退却するのでした。

 ビセートル堡塁から砲が取り外された、との「噂」は虚報だったことがこれではっきりしましたが、第22連隊親部隊の第12師団長、カール・グスタフ・フォン・ホフマン中将は、「オート=ブリュイエール小堡の破壊作業を援護するため」ビルジュイフを確保せよ、と命じ、第1大隊は再び部落北端まで前進して遮蔽物に籠もったのです。


 このオーバーシュレジエンの尖兵は同22日薄暮時に仏軍が動き出すのを発見しました。


 ビセートル堡塁周辺に進み出ていた仏第13軍団のルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将率いる第2師団はこの日夕刻、オート=ブリュイエール高地を奪還せよ、との命令を受けてビセートル堡塁後方に集合すると、数個縦隊に編成されて前進を開始します。

 アンリ・ブレーズ准将率いる師団第2旅団はビトリ(=シュル=セーヌ。ビルジュイフの東2.2キロ)とサケー風車場(ビトリの西南西1キロ付近。現存しません)に完成したばかりの小堡へ前進し、パリでギヨーム・ゲラン准将からデュムラン准将へと指揮官が交代した師団第1旅団は、マルシェ第10連隊の1個大隊と砲兵2個中隊を予備としてビセートル堡塁後方に残置すると、ビルジュイフを奪還すべく部落北と西へ進みました。


 前線から仏軍の前進を知らされた普第22連隊長のオーガスト・テオドール・ヴィクター・ベルンハルト・フォン・クイストルプ大佐は、急ぎ前哨線の左翼(西)から連隊の半数6個中隊を引き抜いて直率しビルジュイフに向かいましたが、襲い来る仏軍が優勢なことを知ると、直率する半個連隊と部落の第1大隊に退却を命じ、主陣地拠点のシュビイ(=ラリュ。ビルジュイフの南2.7キロ)まで引き上げたのです。

 ビルジュイフには入れ替わりに北方からダムドア・ドゥ・モラス中佐率いる仏マルシェ第10連隊が入り奪還を達成しますが、部落西側から攻めていたミカエル・ドゥ・リウ中佐率いるマルシェ第9連隊の方は、オート=ブリュイエール小堡に向かっていた普第22連隊残りの第2大隊両翼(第5,8)中隊と衝突しました。普側第8中隊の散兵(先鋒)小隊長、フォン・ビューロウ少尉は仏軍の行軍縦列を発見すると小隊の先頭に立って突撃を敢行し、また、シュビイの北方およそ750m(オート=ブリュイエール小堡の南南東1.6キロ付近)まで急行し砲列を敷いていた重砲第5中隊が榴弾砲撃を開始したお蔭で、マルシェ歩兵は近くの遮蔽に逃げ込まざるを得なくなり、その進撃は阻止されたのでした。

 そんな乱戦の中、普第6軍団野戦工兵第2中隊は、付近の散兵線からの援護射撃を受けて密かにオート=ブリュイエール堡へ接近し、その南面に爆薬を仕掛けると一気に爆破、小堡の壁に4箇所の穴が開いたのを確認するとシュビイへ撤退したのです。


 セダン戦の直後、エーヌ河畔ルテルから追跡したもののパリへと逃げられてしまった「宿敵」、ヴィノア将軍の第13軍団と改めて対峙することになったフォン・ホフマン将軍は、ビルジュイフから第22連隊が撤退したとの情報を得る前(22日午後9時前後)、既にテューンプリング将軍の承諾を得てオート=ブリュイエール高地に対する総攻撃を命じていました。ところが直後にビルジュイフの失落を聞いて出鼻を挫かれてしまったホフマン師団長は、シュビイへ撤退したフォン・クイストルプ大佐に対し、「直ちに連隊を率いて引き返しビルジュイフを再占領せよ」と厳命するのです。

 しかしクイストルプ大佐が事前に危惧していた通り、ビルジュイフとオート=ブリュイエール高地は既に仏デュムラン准将旅団がしっかりと抑えてしまっており、ビルジュイフに接近した普第22連隊は猛烈な銃撃を浴び、負傷したクイストルプ大佐を始め多くの死傷者を出した後に退却、ティエイ(シュビイの東南東2.5キロ)から別動しサケー風車場を狙った同連隊第7中隊の突撃も阻止されてしまいます。

 オート=ブリュイエール小堡は同連隊第12中隊が工兵の開けた突破口から侵入に成功し、慌てた仏軍を追い出しますが、こちらも翌23日払暁時に仏マルシェ第9連隊の猛攻を受け、中隊は止むを得ず堡塁を捨てて撤退するのでした。


 攻撃がことごとく失敗に帰した、との報告を受けたホフマン将軍は、怒りを鎮めつつ「ビルジュイフとオート=ブリュイエール高地上にはどの程度の敵が進出しているのか」確かめるよう命じます。


 23日早朝。第22連隊の第1中隊と小堡から戻ったばかりの第12中隊は、オート=ブリュイエール小堡に対し危険な強行偵察を敢行しますが、両中隊が堡塁に近付くと突然榴弾砲撃が始まり、小堡からは続々と歩兵が出撃して来ました。仏軍は既に堡塁内へ大砲を運び入れており、歩兵も開戦時は後備任務に就いていたマルシェ部隊とは言え護国軍とは大違いの正規軍将兵であり、士気も比較的高い兵士たちでした。普軍の両中隊は危機に陥りますが、後方から砲兵が効果的な援護砲撃を行ったお陰で無事撤退する事が出来ます。


 この時、普第12師団砲兵(第24旅団に加わっていた軽砲第5中隊を除く3個中隊)は、まず2個(重砲第5と軽砲第6)中隊が夜明けと伴にライ(=レ=ローズ。ビルジュイフの南西1.8キロ)東郊の砲台に入って砲撃を開始し、更に重砲第6中隊もティエイから前進してこれに加わり、オート=ブリュイエールからビルジュイフに猛砲撃を加えました。

 対する仏軍もオート=ブリュイエール小堡やビルジュイフ東側の砲台から対抗砲撃を行い、また射程ぎりぎりの付近三分派堡塁の要塞砲・海軍重砲や、前線にあったミトライユーズ砲1個中隊も応射しましたが、普軍の正確かつ速射を受けた前線の仏軍砲兵は次第に圧倒されて沈黙し、要塞砲も無駄の多い盲目射撃を止めたため、午前9時頃、普軍砲兵も砲撃を中止して元の陣地へ引き上げたのでした。


 オート=ブリュイエール小堡の戦闘が終盤に差し掛かった23日の早朝、普猟兵第6「シュレジエン第2」大隊はビトリ(=シュル=セーヌ)に侵入、その左翼(西)では普第62「オーバーシュレジエン第3」連隊の第5,6中隊が猟兵を援護して仏軍前哨線と銃撃戦を開始しました。

 これに対し、前夜からこの地区に進んでいた仏ブレーズ准将旅団は前線を越えて突撃を敢行し、ビトリには分派堡塁の重砲やサケー風車場小堡から猛烈な砲撃も加えられ、普猟兵はビトリの占領に失敗して午前8時過ぎには撤退を開始し、同時に普第62連隊の2個中隊も交戦を中止して引き上げました。


 これら22日夜から23日朝に掛けての前哨戦闘により、普第23旅団(第22、第62連隊)は戦死が士官1名・下士官兵12名、負傷が士官4名・下士官兵47名、行方不明の下士官兵4名という損害を被ります(仏軍の損害は不詳です)。結果的にこの前哨戦闘は仏軍勝利となりました。


 仏ドゥ・モーユイ少将師団はこれによりオート=ブリュイエール高地とビルジュイフを確保し、サケー風車場からビトリまでの前哨線を固守することが出来ました。仏軍はオート=ブリュイエール小堡の南面に開いた「穴」を完全に塞ぐと、サケー風車場の小堡と伴に重砲を運び入れます。また、サケー風車場付近には新たに横一線の掩蔽壕が築かれ、ビルジュイフ西郊外の散兵壕後方にミトライユーズ砲中隊が前進して配備に就き、ここには胸壁が築かれ強固な防御拠点となりました。


 普第6軍団は、普第11軍団の着任で任地を交代してセーヌを渡河し23日夕方に軍団に復帰した第24旅団を併せ、セーヌ河畔のショアジー(=ル=ロア。ビルヌーブ=サン=ジョルジュの北北西5.1キロ)からシュビイ、ライに至る街道(現・国道D160号線)とフレンヌ(ライの南3キロ)に至る街道(現・国道D86号線)沿い、そしてオルリ(ショアジーの南2.5キロ)からランジス(同西南西4.5キロ)の間に展開し、この日より数週間掛けて多くの防御施設を築造します。

 この「包囲網」は地形に応じて肩墻、鹿砦、バリケード、散兵壕等で構成され、オート=ブリュイエール~ビトリ間に構える仏軍と対峙しました。


 第一線には第12師団が展開し、その内1個旅団と砲兵2個中隊がショアジー~ティエイまで、シュビイ~ライまでは1個連隊と砲兵1個中隊が常駐し、師団の残りはフレンヌとランジスに宿営して期日を決めたローテーションで守備を交代しました。

 この前哨間となるティエイ~シュビイ間は猟兵第6大隊が担当し、大隊主力はその後方ラ=ベル=エピンヌ(シュビイの南南東1.8キロ)に駐在します。

 第二線となるオルリ~ランジスには第11師団と軍団砲兵隊が展開し、両部落周辺の諸小部落に分かれて宿営しました。


 軍団は右翼(東)をビルヌーブ=サン=ジョルジュの軍橋で第11軍団と、左翼(西)はフレンヌ付近のビエーブル川に工兵隊が架橋した数本の軍橋でバイエルン王国第2軍団との連絡を取ります。フォン・テューンプリング大将の軍団本営はビルヌーブ=ル=ロア(オルリの南1.5キロ)にありました。


※普第6軍団本陣地線に築造された主な防御施設


○ティエイ北東前面

・肩墻砲台/1ヶ所 *肩墻両側東西に歩兵援護用の掩蔽壕線設置

○ティエイ南西郊外

・肩墻砲台/3ヶ所

○シュビイと東西郊外

・閉鎖(歩兵)堡/1ヶ所 ・肩墻砲台/2ヶ所

○ライ

・閉鎖(歩兵)堡/2ヶ所 ・肩墻砲台/1ヶ所

○ショアジー北方

・肩墻/3ヶ所

○オルリ周辺

・肩墻砲台/5ヶ所

○ランジス

・肩墻砲台/1ヶ所


独軍のパリ包囲/オート=ブリュイエール周辺

挿絵(By みてみん)


☆ バイエルン王国(B)第2軍団


 9月19日に「ソーの戦い」で仏第14軍団に勝利したヤコブ・フォン・ハルトマン歩兵大将率いるB第2軍団は、占領した地域に留まりビエーブル部落(ベルサイユ宮殿の南東8.9キロ)からシャティオン(同東12.3キロ)へ続く街道(現・国道D906号線)沿いに宿営します。

 B第4師団の前衛3個大隊は軍団砲兵と共に軍団最右翼に展開し、バニュー(ソーの北2キロ)、シャティオン(同北2.5キロ)、フォントネー=オー=ローズ(同北1.3キロ)に各1個大隊が駐屯しました。B第3師団の前衛はビラクブレー高地の北東尾根、ル・プレシ・ピケ(ソーの西2.9キロ)周辺に野営し、激戦の後に占領したシャティオン小堡塁(同北西2.4キロ。別名ドゥ=ラ=トゥール風車場堡塁)には2個中隊が入りました。


挿絵(By みてみん)

ソーの戦い/戦うB第2軍団


 同軍団の前哨線はビエーブル川西岸のブール=ラ=レーヌ(ソーの東北東1.8キロ)北郊外からバニュー~シャティオン北郊外~クラマール(同北西3.4キロ)南郊外~ムードンの森(クラマールの西側に広がる森)~ムードン城(ソーの北西5.4キロ。現・天文台)付近へ至ります。

 軍団本営はシャトネー(ソーの南西1.7キロ)に設けられました。


 ハルトマン将軍は、モンルージュ、バンプ、ディッシーの強力な三分派堡塁を面前とする守備位置に対し、これら数キロしか離れていない拠点から突然仏軍が出撃することも想定し、これに備えて前後に近距離で重複する防御網を構築させます。


 第一線は前述の前哨線となり、第二線はブール=ラ=レーヌ部落に始まり、ソー、ル・プレシ・ピケを経てトラヴォー農場(ソーの西4.3キロ付近。現存せず)に至るもので、第三線はクロア・ドゥ・ベルニー(第6軍団最左翼のいるフレンヌの西1.5キロ付近)からマラブリ(ソーの西3キロ)を経て鹿砦線を築いたヴェリエールの森(マラブリの南に広がる広大な森林。現存します)縁沿いにプティ・ビセートル(マラブリの西1.7キロ付近)へ至りビラクブレーまで延伸していました。

 これら線上の部落はほとんどが防衛工事を施されて拠点となり、散兵壕が各部落を結んで連絡されました。部落間には所々に肩墻が築造されます。特にビラクブレー高地上の歩兵用堡塁はプティ・ビセートルからパリに至る街道(現・国道906号線)を見下ろして管制し、クロア・ドゥ・ベルニー東郊外に置かれた二つの砲台はオルレアンに至る街道((現・国道920号線)とビエーブル河畔を管制する重要拠点でした。


 仏が必死に完成させようとしていた旧シャティヨン小堡は、B軍第一線における中心拠点となり、仏軍の工事に手を加えて改造が施され、防御方向を南から北へ変えると恒久的な営舎が複数建てられました。この堡塁は独軍から「バイエルン堡塁」と名付けられます。また、堡塁内に残されていた大量の建築資材は、B第3師団の前線部隊のためル・プレシ・ピケ付近に建築される廠舎の建材として使用されました。


独軍のパリ包囲/シャティヨン

挿絵(By みてみん)



☆ 第5軍団


 普墺戦争でも活躍し、この普仏戦争でも緒戦から大活躍のフーゴー・フォン・キルヒバッハ歩兵大将率いる普第5軍団は、独第三軍最左翼部隊としてパリ包囲網の南西~西部分を受け持ちました。


 同軍団の第9師団はベルサイユ部落に宿営し、9月20日にはフリードリヒ皇太子の第三軍本営もこの地に進出してベルサイユ宮殿に入りました。

 同師団は前衛としてセーブル谷を挟むシャビル(ベルサイユ宮殿の東5キロ)とヴィル=ダブレー(同北東5.6キロ)に各1個大隊を派遣しました。

 第10師団は第9師団の北方、ロカンクール(同北3.6キロ)の高地上に点在する諸部落に宿営を設けます。前衛としてはボークレッソン(同北北東5.4キロ)とブージバル(同北6.7キロ)に各1個大隊が進みました。


 軍団の前哨・第一線はB第2軍団と連絡するシャレー池(ソーの北西4.6キロにある六角形の人工池。現存)の畔に始まり、ムードン(ベルサイユ宮殿の東8.6キロ)とセーブル(同東北東8.9キロ)を経た後、セーヌ左岸に沿ってサン=クルー公園の北端に至り、ここで西へ折れ「コロンブ半島」を閉鎖する形でボークレッソン(同北東4.7キロ)からマルメゾンの森南縁を巡ってブージバルに至り、セーヌ対岸のマース軍と連絡しました。


独軍のパリ包囲/ベルサイユ

挿絵(By みてみん)


 第一線上にあるムードン、サン=クルーの両城館やベルヴュー小部落(セーブル東郊外のセーヌ河畔)とセーブル南郊外丘上にある未完の堡塁には守備隊が常駐し、最前線となるモンルトゥーの未完小堡(サン=クルー部落の北郊外)とマルメゾンの森東側にも前哨が置かれました。

 この第一線では線上の全ての部落が「半要塞化」を目指して防御工事の対象とされ、仏軍が未完のまま放棄していた各小堡は改造されて完成しました(セーブル南の堡塁は後に「皇太子堡」と呼ばれるようになります)。

 各部落間は出来る限り散兵壕で結ばれ、壕の掘削が不可能な部分には鹿砦線が敷かれました。拠点には当時出回り始めた初期の鉄条網が一部に設置され、バリケードや掩蔽壕が設けられます。このため、第5軍団の包囲網付近では東西の通行は完全に大きな街道数本に限られたのです。この街道にも所々に阻塞物が置かれて通行の障害となっており、また街道脇には街道を縦射可能なように数ヶ所砲台が築造されました。


 ラ・ベルジュリ高地(ボークレッソン北の高地)、ラ・セル(=サン=クルー。ブージバルの南郊外1.2キロ)、サン=クルーの高地を含む包囲網左翼側には、ホスピス・ブレザン(ボークレッソン部落内交差点から北東に700m付近。現カーズ通りとガルシュ通り交差点にあった小教会旅荘。現存せず)、フォーラン・コッペル(仔馬の飼育場。当時ボークレッソンの北にあり、現在はラグビー場やゴルフ練習場となっています)、メッテルニヒ森林公園(ブージバル部落東側にある森。現存)、そしてブージバル部落自体をそれぞれ拠点として防御工事を施します。これら拠点には当初より防御に向いた隔壁が付属していたので、工兵の作業は短時間で済みました。また、新たに築造された歩兵用の堡塁と肩墻砲台は、北東側の「コロンブ半島」やブローニュの森方面からの仏軍による解囲を阻止する強力な防衛施設となったのです。


※普第5軍団前哨第一線に築造された主な防御施設(仏軍の残した小堡を含まず)


○ヴィルヌーヴ(サン=クルー宮殿の西2.8キロ。現パスツール研究所施設付近)西方高地縁

・肩墻砲台/2ヶ所(独軍は街道を挟んだ南側砲台を「ヴィルヘルムスヘーエ」、北側を「ホスピス」と名付けます)

○ホスピス・ブレザン東方

・堡塁/1ヶ所 

○ラ・ベルジュリの高地尾根上

・堡塁/4ヶ所 ・肩墻砲台/2ヶ所

○フォーラン・コッペルの南端

・堡塁/2ヶ所

○ラ・セル=サン=クルーの高地尾根上

・堡塁/4ヶ所

○ブージバル北東方・メッテルニヒ森林公園鹿砦線後方

・肩墻砲台(砲4門)/1ヶ所

○クロアジー南のセーヌ川中島ショセ島の東端

・堡塁/1ヶ所


 また、軍団の主力が詰めるセーブル谷の南北に広がる高地や、サン=クルーからベルサイユ付近に向かって登る形の河岸段丘には多くの砲台が築かれ、これらは特に連絡されませんでしたが自然と複数の防衛線を形成していました。


※普第5軍団本陣地線に築造された主な防御施設


○サン・ミシェル(ブージバル南郊外)

・肩墻砲台/3ヶ所

○レ・グレセ(ブージバルの南1.9キロ。鉄道付近)西方高地尾根上

・肩墻砲台/1ヶ所

○ボールガール(ベルサイユ宮殿の北3.9キロにあった城館。現存せず)付近

・肩墻砲台/2ヶ所

○ジャルディ(同北東3.5キロにあった農場。現・乗馬クラブと小ゴルフ場で現存せず)の北方高地上

・肩墻砲台/2ヶ所

○ヴィル=ダブレーの西

・肩墻砲台/1ヶ所

○モントルイユ(同東1.8キロ付近)北東

・肩墻砲台/2ヶ所

○ムードンの森林内

・堡塁/1ヶ所(仏軍が放棄した小堡で「イェーガー」と名付けられます)


 軍団の最左翼となるラ・タルヌー(ブージバルの北西3キロ)の舟橋には2個中隊が配されます。サン=ドニ方面への重要な連絡路となるこの橋には橋頭堡が築かれ、両岸付近の数件の民家は銃撃拠点とされて防御工事が行われます。また、橋のあるセーヌの川中島(ロッジュ島)にも鹿砦が置かれました。この工事中にアルジャントゥイユ半島のシャトウに残っていた橋梁もコロンブ半島側からの侵攻を防ぐため爆破されました。


独軍のパリ包囲/サン=クルー西

挿絵(By みてみん)


☆ 騎兵師団


 セーヌ左岸(パリ周辺では概ね西側)に展開する独軍の後背地には4個の騎兵師団が散って警戒に当たります。


 普騎兵第5師団は2個旅団が西を向き、ポアシー(ベルサイユ宮殿の北北西14.8キロ)からベルサイユ後方のプレジール(同西12.7キロ)付近までを任地としました。

 普騎兵第3師団はサン=ジェルマン=アン=レー(同北10.4キロ)付近に宿営して第4軍団(マース軍)と第5軍団(第三軍)の後方で双方の連絡を通しました。

 普騎兵第6師団はル=メニル=サン=ドニ(同南西13.4キロ)とシュブルーズ(ル=メニル=サン=ドニの南東7キロ)に宿営して第三軍による包囲網南西側後背地を監視し、リムール(同南西13.6キロ)に駐屯していた普騎兵第2師団配下の驃騎兵中隊と連絡しました。

 この普騎兵第2師団主力は「ソーの戦い」終了後、サクレー(ベルサイユ宮殿の南南東9キロ)からセーヌ河畔まで戻る形で進み、第6軍団の後方となるオルジュ河口付近の諸部落(現オルリ空港南側。アティス=モンスやジュヴィジー=シュル=ロジュなど)に分散して宿営しました。


 これら独騎兵師団は、宿営地を拠点にパリの西及び南から首都に向かう街道筋を厳重に監視しつつ、既述通りかなり遠方まで徴発隊を派遣し糧食や物資を徴収し軍の倉庫に収めます。しかし、パリ郊外には義勇兵部隊が出没し、それは時に徴発隊より大規模な集団となっていることもあり、独軍騎兵は空しく引き上げることも多々ありました。

 この、パリ周辺に多くある森林地帯に潜む仏義勇兵と戦うため、9月下旬に暫時到着したB第1軍団の歩兵数個大隊が本隊から引き抜かれ、これら騎兵師団に配されるのでした。


☆ B第1軍団


 B軍の「主将」、男爵ルートヴィヒ・フォン・デア・タン歩兵大将が率いるB第1軍団は9月中旬に順次セダンを発ってパリへ向かい、ショーム(=アン=ブリ。ムランの北東19.5キロ)からコルベイユ(=エソンヌ。同北西15.7キロ)を経て9月22日にロンジュモー(ソーの南9.3キロ)に達します。この際、アルパジョン(ロンジュモーの南12キロ)に居残っていたB第2軍団部隊と任務を交代しています。

 フォン・デア・タン大将はこのB第2軍団兵より「南東側のフォンテーヌブローの森に強力な義勇兵部隊がいる」と聞き及び、歩兵3個大隊・騎兵1個中隊・砲兵2個中隊からなる前衛支隊を編成させ、これをフォンテーヌブロー(ムランの南15.2キロ)へ急行させました。しかしこの「掃討部隊」は現地に到着しても全く敵を見ることはなく、支隊はフォンテーヌブローに1個大隊を残留させると残りは23日にマルゼルブ(フォンテーヌブローの西南西24.4キロ)へ向かいました。

 これはロワール河畔・オルレアン方面の偵察を命じられた普騎兵第4師団長、アルブレヒト親王からの応援要請によるもので、マルゼルブに着いたB軍部隊は更に1個大隊をピティヴィエ(マルゼルブの南西18キロ)へ進め、この大隊はオルレアンに向けて進むアルブレヒト親王部隊の護衛となりました。


☆騎兵第4師団


 国王の弟で騎兵大将のアルブレヒト親王は、騎兵第4師団で先着しフォンテーヌブローの森西側に進み、仏義勇兵らと「接触」していた騎兵第10旅団を直率し、23日にはジロンヴィル(=シュル=エソンヌ。フォンテーヌブローの西24キロ)からピティヴィエへ進みます。

 25日、ロゾワ=ベルヴァル(モーの東42キロ)とナンジ(同南46キロ)からセーヌを越えて前進した師団残り(騎兵第8、9旅団)の一部を迎え入れると、親王はいよいよオルレアン方面への偵察活動を本格始動するのでした。


挿絵(By みてみん)

ソーの戦い/戦う仏第14軍団


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