パリ攻囲/マース軍とW師団の包囲網
9月20日からの数週間、独軍はパリ包囲の開始を受けて、妨害する仏軍と衝突しつつも包囲網の強化に励みます。
☆ 普第4軍団 (ピエールフィット付近の前哨戦闘/9月23日)
アルベルト・ザクセン王太子率いる独マース(第四)軍は本営をトランブレ(=アン=フランス。サン=ドニの東北東15.3キロ。現シャルル・ド・ゴール国際空港の南側)に置き、まずは普第4軍団(グスタフ・フォン・アルヴェンスレーヴェン歩兵大将指揮)の右翼(西側)をアルジャントゥイユの「半島」全域にまで進張させました。
9月21日。普フュージリア第86「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」連隊第3大隊はアルジャントゥイユ(サン=ドニの西8キロ)の市街を完全占領し、長らく普騎兵第6師団に帯同し、この度帰属した普猟兵第4「マグデブルク」大隊はブゾン(アルジャントゥイユの南西3.3キロ)からシャトゥ(ブゾンの南西5.6キロ)にかけてのセーヌ沿岸に宿営し、パリから北西方へ向かう交通を遮断しました。
同大隊最右翼の前哨は半島の先端部クロアジー(=シュル=セーヌ。シャトゥの南南西1.7キロ)に駐在します。このクロアジーは「ブージバルの渡し」に面しており、猟兵たちは第三軍第5軍団の最左翼(北)部隊と連絡を取り合いました(前回参照)。
普ヴィルヘルム1世国王の末弟アルブレヒト親王(騎兵第4師団長)の子息(国王にとっては甥)、ヴィルヘルム・アルブレヒト親王率いる近衛槍騎兵旅団(近衛槍騎兵第1、同第3連隊)は、既述通り第4軍団の増援として前進し、猟兵第4大隊の進出前にアルジャントゥイユ半島へ進みますが、ここで別命を受け、後を猟兵第4大隊に任せると包囲網の背面となる北方のオアーズ川方面に向かいました。
第4軍団の左翼(東側)はその右翼にある普近衛軍団と連絡するため、同日(21日)ピエールフィット(=シュル=セーヌ。サン=ドニの北3.3キロ)を占領します。
第27「マグデブルク第2」連隊第1大隊は同部落付近の鉄道堤に展開していた仏軍前哨と衝突し、サン=ドニ堡塁群からの猛砲撃を浴びつつも前進して部落南端まで占領します。大隊は午後に前線を左翼側(南東)のスタン(サン=ドニの北東2.9キロ)方向に延伸して、逆襲に転じた仏軍部隊と対決し、これを撃退することに成功しました。
この方面の仏軍は23日に拠点奪還を目指す本格反攻を行い、ピエールフィット~スタンを襲います。
ブリッシュと「二重王冠」両堡塁からの猛砲撃で開始されたこの反攻は、仏将アドリアン・アレクサンドル・アルフォンス・ドゥ・キャリー・ドゥ・ベルマール准将が指揮したもので、マルシェ第28連隊を密集した散兵群に設えた将軍は一気に普第4軍団左翼に迫ります。
ベルマール
この日、ピエールフィットは第27連隊第1大隊と交代したフォン・ハーゲン大尉率いる第93「アンハルト」連隊第2大隊が警備に就いていました。
大隊前哨となって部落南端にいた2個中隊はベルマール将軍の猛攻を受けて後退しますが、大隊残り2個中隊は後退する2個中隊をヴィルタヌーズ(ピエールフィットの西南西1.2キロ)に至る小道の分岐で迎え入れると、突撃して来た仏マルシェ連隊を猛銃撃で迎えてその進撃を阻止するのです。
ピエールフィットの危機を知った普第31「チューリンゲン第1」連隊第2大隊は、持ち場のモンマニー(ピエールフィットの西北西1.5キロ)部落から駆け付け、一部はピエールフィットの南端でハーゲン大尉の大隊を救援し、残りはヴィルタヌーズに展開して仏軍を迎えました。ほぼ同時に普フュージリア第86連隊第2中隊と第96「チューリンゲン第7」連隊第1中隊(両中隊とも軍団中央に展開していた第16旅団所属)も独断で持ち場を離れて銃声の方向へ進み、ヴィルタヌーズの西で銃撃に参加します。また第66「マグデブルク第3」連隊第2大隊もピエールフィットの北で戦闘準備に入りました。
この独軍の素早い反応でベルマール将軍の「反攻」は頭を押さえられてしまいますが、将軍は諦めずにピエールフィットを西側から片面包囲しようと考え、自軍左翼へ攻撃重心を移すと一気に突進を敢行させました。これにより第16旅団からの「助っ人中隊」は一部が敗れてモンマニーへ後退し、仏軍はモンマニー~ヴィルタヌーズ間を突破して包囲網を破ることに成功します。
ところが、この後方で銃声を聞きつけ警戒に入っていたフォン・ハイドヴォルフ中尉率いる第93連隊第5,8中隊と、パッシン少尉率いる第31連隊第6中隊の計3個中隊(500名前後)は、目前にひょっこりと現れた仏マルシェ部隊に対し銃撃戦には持ち込まずに一斉突撃を敢行しました。大胆な独軍の攻撃に不意を突かれたベルマール将軍のマルシェ兵は混戦の末に潰走し、サン=ドニまで一気に後退してしまうのです。
同時刻。ベルマール将軍の右翼部隊はスタンを狙いますが、スタンには普近衛フュージリア連隊第3大隊と近衛猟兵大隊第1中隊という「アマンヴィエ」と「サン=プリヴァ」で「血の洗礼」を受けたエリート部隊がおり、敵を充分に引きつけて放たれたドライゼ銃の一斉射撃は仏軍の攻撃を立ち所に頓挫させ、こちらのマルシェ将兵もサン=ドニへ後退するしかありませんでした。
戦闘は午後6時には終了し、一時全軍が戦闘態勢に入った第4軍団も午後7時には全て宿営に戻ったのです。
最終的に双方併せて8,000名の兵力が衝突したこの「ピエールフィット付近の前哨戦闘」で、仏軍は戦死が11名、負傷が86名という損害を出し、普軍は戦死が士官1名・下士官兵19名、負傷が士官3名・下士官兵83名の損害を受けています。
普軍はピエールフィット周辺への攻撃を知ると、後方待機の部隊を素早く前線へ送り込むことに成功し、マルシェ兵を率いたベルマール将軍の猛攻を凌いだのでした。
この方面では9月26日にもピエールフィットに対する小規模の仏軍反攻がありましたが、こちらは普第27連隊第9中隊の活躍で阻止され仏軍は撃退されました。
☆ 普近衛軍団
普近衛軍団長、アウグスト・ヴュルテンベルク親王歩兵大将はアルベルト・ザクセン王子の命に従い、9月19日の夕暮れ時、ル・ブルジェ(現・ル・ブルジェ空港南端。サン=ドニの東5キロ)の占領を謀ります。
この部落には仏軍の前哨がおり、南側を東西に流れるモレ川の橋頭堡となっていました。仏軍がこの部落の守備隊を増強し橋頭堡を拡大・強固にしてしまうと、これは付近に展開する近衛軍団にとってかなり「厄介なこと」となります。このためル・ブルジェを奪いモレ川の線を固守しようという目的でした。
軍団本営からの命令により、普近衛(以下「近」)擲弾兵第3連隊フュージリア(以下F)大隊は20日の早朝、北側よりル・ブルジェに接近し、部落に駐屯していた仏護国軍部隊を襲いました。短時間の戦闘で400名余りの護国兵は行李を棄てて南方へ脱出します。近擲弾兵たちは部落を占領すると、直ちに前哨が川を渡って部落南郊外の鉄道線路(ソアソン~パリの幹線鉄道)まで進み、逆に仏軍前線に面した橋頭堡を築きました。
以降数日に渡って仏軍はル・ブルジェの奪還を目指し攻撃を繰り返しますが、その攻撃は比較的小規模で、その対処は前線に展開していた部隊だけで可能でした。すると歩兵の攻撃では埒が明かないのを見た仏軍は砲撃に切り替え、ル・ブルジェはサン=ドニのドゥ・レスト堡塁やドーベルビリエ堡塁等から要塞砲の砲撃を浴び続けることとなりました。
この猛烈な砲撃を観察したアルベルト王子は、無益な被害が発生するのを憂慮し、部落の守備兵を少数に限定させると強固な掩蔽塹壕に籠もらせます。僅か1個中隊に制限された守備隊は、続く砲撃に神経をすり減らしつつ敵を警戒し続け、交代の時間をひたすら待つこととなり、これは半世紀後に起こる大戦の塹壕戦そのままの光景だったのです。
近軍団主力はゴネス(サン=ドニの北東8.5キロ)~オーネー=スー=ボア(同東10.1キロ)間に展開し、前哨はスタンからデュニー(同北東4.6キロ)、そしてル・ブルジェにかけて陣地を構築しました。
近騎兵第2旅団(槍騎兵旅団です)を別任務で割かれた近騎兵師団(第1、3旅団・4個騎兵連隊)は、万が一仏軍がオーベルビリエ~ドランシー方面(南側)から攻撃を仕掛けて来た場合に援軍となるため、ビルパント(ル・ブルジェの東北東9キロ)に宿営しました。
☆ 北独第12「ザクセン王国」軍団
アルベルト王子の忠実な弟、ゲオルグ・ザクセン親王中将指揮のザクセン王国(以下「S」)軍団は、第24「S第2」師団をモンフェルメイユ(ル・ブルジェの東南東11キロ)から南側のマルヌ河畔までに展開させ、第24師団の北に第23「S第1」師団左翼が連なり、最右翼部隊はスブラン(同東7.5キロ)でウルク運河に達すると、近第2師団や近騎兵師団と連絡を付けました。
9月下旬の数週間で、両軍前哨の間にあるラ・クールヌーヴ(ル・ブルジェの西南西2.1キロ)、ボビニー(同南南東3.2キロ)、ボンディ(同南東5.5キロ)などの部落は、ロマンビルやロニー分派堡塁からの砲弾が落下し、また両軍前哨の銃砲撃戦により多くの家屋が被災して廃墟と化します。
この頃はボンディ付近の旧・仏軍練兵場(ボンディ部落北東1.8キロ付近にありました)まで毎日のように仏軍が進出し、「ボンディの森」(フォレ・ドゥ・ボンディ。オーネー=スー=ボア~スブランの南を走る鉄道線路南側からモンフェルメイユの北にまで広がっていた森林ですが、現在では一部が残るのみです)から独軍前哨に向かって攻撃を行いましたが、S軍団の前哨部隊はリヴリ(=ガルガン。スブランの南南東2キロ)南西の街道(現国道N3号線)脇に設置された大砲2門の非常に効果の高い援護射撃もあって毎回これを撃退するのです(この砲兵拠点は後日堡塁となります)。
軍団本営は20日、クレイエ=スイイ(サン=ドニの東23.7キロ)からウルク運河沿いのル=ヴィレ=ガラン(スブランの東北東2.7キロ)へ移りました。
ミトリー(=モリー。現・シャルル・ド・ゴール空港南東端)に宿営していた第12「S」騎兵師団は9月26日、命令によってオアーズ川方面へ向かいました。
☆ マース軍の包囲態勢
独軍のパリ包囲/アルジャントゥイユ半島
9月20日前後に完成したマース軍のパリ包囲網は、その最前線をセーヌ河畔シャトゥからブゾン~ラ=バール(サン=ドニの北西4.7キロ。現ラ=バール=オルムッソン駅付近)~レ・カルノー(同北北西4キロ。モンマニーの南郊外)~ピエールフィット(=シュル=セーヌ)~スタン~デュニー~ル・ブルジェ~ボンディの森北端へと続くもので、これはウルク運河を渡ると南東に折れてボンディの森西縁沿いに南下し、ヌイイ(=シュル=マルヌ。同南東15.3キロ)付近でマルヌ河畔に至りました。
この前哨線はモレ川南方付近とS軍団任地を除いて所々で散兵壕が掘られ、道路には阻塞物が設置され、ボンディの森西縁には鹿砦が置かれます。また、最前線上の各部落では銃撃拠点や頑丈な掩蔽が設置されました。
但し、S軍団の任地であるウルク運河~マルヌ川間は仏軍側(西)が高く独軍側が見下ろされる形となっていたため、前哨は仏軍の本格攻撃時には耐久することが困難となることが予想され、早目に後方の「本陣地線」へ収容する必要がありました。
しかし、アルベルト王子はこの前哨線を死守する事など考えてはいませんでした。
軍事センスに秀でた王子は「ティエールの城壁」から測ることおよそ10キロ前後に「本陣地線」を構えます。
これは、アルジャントゥイユ北方のオルジュモン高地(サンノアから北西方向モンティニー=レ=コルメイユに至る小高い丘陵地帯です)からマルヌ河畔に至るもので、右翼(西)はサンノア(アルジャントゥイユの北3.3キロ)の南側オルジュモン高地南面に始まり、サン=グラティアン(同北東4キロ)とアンジァン(=レ=バン。同北東5.6キロ)両部落からモンモランシーの丘陵(同北東7.5キロにあるモンモランシーの南側丘陵地帯)を経てグロレー(サン=ドニの北5.6キロ)へ達し、ここから北のサン=ブリス(グロレーの北北東1.5キロ)へと向かい、この後は東へ方向を変えてサルセル(サン=ドニの北6.9キロ)とアルヌービル(サルセルの南東3.8キロ)を経た後にクル川に到達しました。
これら「北部本陣地線」の諸部落南郊には頑丈な防御工事を行って、部落と部落の間では小堡塁、肩墻、鹿砦、散兵壕等を築きました。これら防御施設は連続した線となるように計画されて施工され、万が一仏軍が前哨線を突破して解囲を謀った場合に備え、パリから北方へ抜ける街道や鉄道線路が備砲の有効射程内に収まるよう工夫されていました。
独軍のパリ包囲/サン=ドニ西
この本陣地線の右翼端となるアルジャントゥイユ北方の丘陵地帯には、遮蔽された肩墻が複数築造され、丘陵南斜面には数本の散兵壕線が重複するように掘られました。
他にもこの半島では仏軍の進出を抑えるため、爆破されずに残っていたブゾン西郊外の鉄道橋が爆破され落とされました。逆に半島反対(北)側サルトルービルの街道橋は仏軍が爆破したものの不完全なままで残っており、独軍工兵は不発で残留していた爆薬を取り除くと破壊箇所を修繕し、馬車の通行が可能なように直し、この橋は独軍が北方からアルジャントゥイユ半島へ入るための貴重な渡河点となりました。
ル・ブルジェ付近、モレ川の東側にある高地尾根はこの北側本陣地線の中心であり、前述通りこの部分を突破されると普近衛軍団の包囲網が崩壊する危険性があったため、普大本営はマース軍に対し「ウルク運河の水を引いてル・ブルジェ一帯を氾濫地帯にせよ」と命じました。
この工事は9月末から開始され、スブランの西に堰を造るとウルク運河を切開し、築堤を造って誘導すると水はデュニーの北方に至るまで流れてル・ブルジェの周辺は水深のある「氾濫地帯」となったのです。
この地域で少数残った街道には、デュニー、ポン=イブロン(ル・ブルジェの北東1.3キロ付近。現ル・ブルジェ航空宇宙博物館付近)、ル・ブラン・メニル(同東北東3キロ)付近にそれぞれ拠点を造って「関所」とし、付近に築造された砲台で通行可能な街道を管制しました。
この地域の南東側にはボンディの森もあり、これは双方の砲兵にとって目標の延長線上にある障害物となっていました。
マース軍の本陣地線は、この氾濫地帯でウルク運河を越えて「東部本陣地線」となり、オーネー=スー=ボア、スブランの両部落とリヴリ(=ガルガン)、クリシー(=スー=ボア。リヴリの南1キロ)、モンフェルメイユ、シェルの各部落では敵方向(西)の郊外にある数軒の民家を前哨拠点とし、更に小堡塁や肩墻を設えて大砲を設置しました。
この本陣地線最左翼部分は、シェルからボンディへ向かう重要な国際鉄道線(ナンシー~パリ線)の小高い堤を防御に利用し、この堤とボンディの森の中間地帯は、新造された砲台の射程圏内に収まるようになっていました。
独軍のパリ包囲/サン=ドニ東
☆ マース軍本陣地線に築造された防御施設(右翼西より)
◇北部(第4軍団)
○オルジュモン高地
・堡塁/1ヶ所 ・肩墻砲台/5ヶ所
○サン=グラティアン南方
・肩墻砲台/1ヶ所
○モンモランシー南方の高地尾根上
・肩墻砲台/6ヶ所 *前面に鹿砦線を設置
○グロレー西方
・肩墻砲台/1ヶ所
○サン=ブリス南方
・堡塁/1ヶ所 ・肩墻砲台/2ヶ所
○サルセル東西の高地尾根上
・堡塁/2ヶ所 ・肩墻砲台/3ヶ所 *前面に鹿砦線を設置
○アルヌービル南西の高地尾根上
・堡塁/2ヶ所 ・肩墻砲台/3ヶ所
◇北部(近衛軍団)
○ガルジェ(=レ=ゴネス)東方
・肩墻砲台/3ヶ所
○ポン=イブロン
・肩墻砲台/2ヶ所
○ル・ブラン・メニル両側
・肩墻砲台/3ヶ所
○オーネー=スー=ボア西方
・肩墻砲台/1ヶ所
○オーネー=スー=ボア東方
・堡塁/2ヶ所
○スブラン西方
・肩墻砲台/1ヶ所
◇東部(第12軍団)
○リヴリ(=ガルガン)南西方の街道脇
・堡塁/1ヶ所
○リヴリ(=ガルガン)~クリシー(=スー=ボア)間の高地尾根上
・堡塁/1ヶ所
○モンフェルメイユ西方
・堡塁/1ヶ所
○モンフェルメイユ~シェル間の高地尾根上
・肩墻砲台/3ヶ所
※その他、リヴリ郊外とモンフェルメイユ周辺には後日更に複数の砲兵陣地が設置されました。また、クールトリー(モンフェルメイユの北東3.3キロ)の北側高地尾根上にも目立つ肩墻砲台1ヶ所が築造されています。
独軍のパリ包囲/ボンディの森
☆ ヴュルテンベルク王国(W)師団
S軍団の任地左翼(南側)、マルヌ川を越えた地点から南側は独第三軍の守備範囲となります。
この第三軍最右翼部分は、それまで大本営直轄とされていたW師団が担当しました。
普軍の中将フーゴー・フォン・オーベルニッツ男爵率いるW師団の守備範囲は、このマルヌ川左岸からマルヌの大湾曲部分「巾着部」南方までの間となり、前哨線はマルヌ川左岸に沿ってノアジー=ル=グラン(シェルの南西4.6キロ)からノジャン(シュル=マルヌ。ノアジーの西南西4.9キロ)の南方に至り、ここから仏軍のヴィノワ将軍が橋頭堡を造るジョアンヴィル(=ル=ポン。ノジャンの南南西1.8キロ)と正対する部分まで突出部となると、シャンピニー(=シュル=マルヌ。ジョアンヴィルの東南東3キロ)を経由してボヌーイ(=シュル=マルヌ。シャンピニーの南南西4.8キロ)までマルヌ川左岸に沿って「マルヌ巾着部」を取り囲む形を作りました。
この前哨後方にある本隊は、W第1旅団がノアジーからシャンピニー間に、W第2旅団がクールイイ(シャンピニーの東2キロ)からノワゾー(同南東5キロ。シャトー・ドメルソン公園南側)間に、それぞれ宿営し、W第3旅団は総予備としてグルネー(=シュル=マルヌ。ノアジーの北東2.5キロ)とマルヌー(同南東4キロ)周辺で宿営しました。
師団司令部はラ=ランド城館(ノアジーの南南東3.8キロ付近。現存しません)に設け、本陣地の拠点としてはノアジー、ヴィリエ(=シュル=マルヌ。ノアジーの南2.4キロ)、クールイイを指定し防御工事を急ぎました。オーベルニッツ師団長は、実際に仏軍が解囲戦闘を強行した場合に、まずはシャンピニー~シュヌビエール(=シュル=マルヌ。シャンピニーの南南東2.4キロ)~オルムッソン(=シュル=マルヌ。同南南東3.8キロ)の前哨線を堅守するよう命令するのです。
このため、名前が挙がった前線の各部落には強固な防御拠点を設け、数ヶ所では散兵壕で連絡し合い、砲兵陣地はヴィリエの東西郊外と「マルヌ巾着部」を俯瞰するオルムッソン西方の高地に設営されました。
10月2日にW師団はシュヌビエール付近のマルヌ川に徒渉橋を設置し、前哨を中州に送ると仏軍が全体を支配下に置く「巾着部」の先端部分を至近から警戒するのでした。
独軍のパリ包囲/マルヌ巾着部(W師団)




