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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
341/534

パリ攻囲/200万都市攻囲の開始

 9月4日の政変から独軍がパリ周辺部に到達する9月中旬までの間、200万に届くパリの市民は陰鬱なナポレオン3世の帝政を倒した「余韻」に酔って「国防政府」を熱狂的に応援し、新たな国民衛兵の徴募には有無を言わず参加し、徴兵から外れていた男子は挙って義勇兵となりました。

 しかし、独第三軍とマース軍が近郊へ到着し「首都包囲網」を構築し始めると、血塗られた歴史を持つ「革命の都」の市民といえども熱が冷め始め、次第に現実を直視するようになります。


 19日にシャティヨンとソー周辺で敗れた仏第14軍団の将兵が市街まで撤退し、その姿をつぶさに見た市民たちは突然現実を突き突けられて不安に駆られます。同時に独が包囲を完成し郊外衛星都市との間の交通も遮断されるに及ぶと市民の不安・不満は爆発寸前となりました。

 常に左翼革命の機会を狙う社会主義者や極左勢力、更に過激な無政府主義者・アナキストたちはこの機会を捉えて暗躍し、貧困に喘ぐ市民が多く住むベルヴィル地区(パリ北東部、第19と20区の間の地域)では多くの支持と「同志」を集めてパリの東部は一時「再革命」の不穏な空気に騒然となりました。

 ところが、ビスマルクとファーヴルの間で当初極秘に行われた「フェリエール会談」が知れ渡るや、人心は再び一新されてしまうのです。


 9月20日に「国防政府は揺るぎない」との談話をパリ政府が発した4日後の24日、中仏トゥール(パリの南南西203キロ)に置かれた政府の地方派遣部も各地に向けて談話を発表しました。

 

「パリが包囲に至る前、外務大臣のファーヴルはビスマルクと会見を行い」「ビスマルクは休戦を認める見返りにアルザスとロレーヌの一部を普に渡すよう迫り、更にストラスブールやトゥール(ここではナンシー西方の要塞)、パリ西郊のモン=ヴァレーリアンの開城を要求した」「パリ市民と政府はビスマルクら独の傲慢な要求を拒絶し、断固として戦い抜くことを宣言した(20日の談話)」「仏は独の挑戦を受けて立つことになったので、我ら(トゥール政府派遣部)は全国民が戦いに参加することを願い、その愛国心に訴えるものである」


 こうして、疑い深いパリ市民から「独と密約を交わそうとした」などと言い掛かりを付けられるのではないかと恐れたため、フェリエール会談を隠匿したかったのではないかと思われるパリ国防政府の思惑は、トゥール派遣部の「勇み足」で脆くも崩れてしまいます。ところが、これにより初めて「独によるアルザス=ロレーヌの割譲要求」を知らされたパリ市民の怒りの矛先は国防政府を「通り越し」て再びビスマルクと独に向き、その戦意は一気に回復するのです。


挿絵(By みてみん)

「ザ・ウォー 国民衛兵・護国軍・共和国衛兵・義勇兵」

(ロンドン・イラストレイテッド・ニュース1870年9月3日)


 フェリエール会談は独でもトップニュースとして伝えられ、「失われた領土*の回復」と「好戦的な仏政府の態度」に世論が沸騰します。併せてビスマルクは談話を発表し、「ファーヴルは敵方の不正規な政府すら代表せずに会見に臨んでいた」ことを暴露すると「仏臨時政府の態度は常にあくまで戦い抜くの一点張りである」として、「死に体」なのに降伏しようとせず無益な戦いを継続しようと図る仏国防政府を非難したのです。


※宗教(30年)戦争の結果、メッス周辺やアルザス地方は1648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約により神聖ローマ帝国(ほぼ独)から仏王国に割譲されました。


 ファーヴルも負けてはいません。ビスマルクの談話に対抗して自身がどんなに仏のことを考えて行動しているかを訴え、こう結ぶのでした。

「我が国が勝利を収めることを私は確信するが、万が一敗北を喫することとなろうとも、我が国はその不幸な出来事を以てしても世界の同情と賞賛を得ることだろう。それこそが仏の実力であり、我らの復讐心は燃え上がることだろう」


 このファーヴルの談話は「実は敗北を既定のものと認識しており、良識を以て祖国の崩壊以前に諸外国が救いの手を差し伸べるよう同情を呼び起こそうとしたものだ」とも言われていますが、パリ市民を筆頭とした誇り高い仏人はビスマルクの「傲慢な領土要求」にいたく自尊心を傷つけられ怒りに目が眩んでおり、最早敗北が決定的な状況にも関わらず変わらず独を倒すことが可能だと信じてしまっていました。

 それは下層のパリ市民を筆頭に過激な行動を呼び起こし、ソーの戦いで「逃げ帰った」一部の兵士たちは熱した市民たちの手によって両手を縛られて「敵前逃亡者」と記された札を下げられて侮辱され街を練り歩かされます。またある者は「ティエールの城壁」の外へ出て、無謀にも油断した独軍歩哨を襲って殺害し勇名を馳せました。

 多少は冷静な中流階級も「例えシロウトに毛の生えた護国軍や国民衛兵主体の防衛であってもパリが簡単に落城するはずはなく、きっと普は巨大なパリの攻囲は無駄と悟って直ぐにでも和平へ動くだろう」との希望的観測に甘え、現実から目を背けていたのです。


 やがてパリ市民たちは「籠城」が進むにつれ政府の能力を疑い非難轟々となりますが、9月中は独の包囲に関心が寄せられ、またビスマルクの蒔いた「アルザス=ロレーヌ割譲の危機」という種は「挙国一致」の芽を吹いて暫くはトロシュ政権の維持に貢献するのです。

 結局のところパリは同床異夢の市民を抱え、その市民を恐れる国防政府の危うい指導の下、籠城の道を突き進むこととなったのでした。 


挿絵(By みてみん)

アニエール=シュル=セーヌの爆破された橋


☆ パリ防衛軍


 パリ政府首班でパリ防衛司令官のルイ・ジュール・トロシュ将軍は「ソーの戦い」の敗北により、パリ南郊前進堡塁地帯の南方高地確保を諦め、各堡塁を結ぶ防衛線内へ兵を引き上げさせました。但しパリ東部防衛の要となるヴァンセンヌの丘陵は放棄せず、アンソニー・アシル・デクゼア=デュメルク少将が率いる仏第13軍団第1師団を配備し、ノジャン(=シュル=マルヌ。パリ中央・シテ島の東10キロ)とジョアンヴィル(=ル=ポン。同東南東9.7キロ)、サン=モール(=デ=フォセ。同南東10.5キロ)のマルヌ湾曲部各重要拠点における防御工事を急いで完了させました。この地域にはアベル・クーゼン准将とフランソワ・ジュリアン・レイモン・ドゥ・ピエール・ドゥ・ベルニ准将率いる両騎兵旅団も配置されます。


 パリ北部では、コロンブ(サン=ドニの西8キロ)のセーヌ湾曲部「半島」に進出した独軍がアニエール(=シュル=セーヌ。同西南西6キロ)付近で渡河して「ティエールの城壁」へ向かうのでないかと読んだトロシュ将軍が、サン=ドニ以西~ブローニュ=ビヤンクール(同南西14.5キロ)までのセーヌ沿岸に「ソーの戦い」で敗れた仏第14軍団を転進させました。

 同軍団は命令を受けると20日以降順次、軍団第1師団(ジャン・ジェラール・ルイ・ブション・ドゥ・コーサード少将指揮)がクリシー(サン=ドニの南西5.4キロ)に、同第2師団(デューグ少将指揮)がヌイイ(=シュル=セーヌ。同南西8.8キロ)に、同第3師団(エルンスト・ルイ・マリエ・ドゥ・モーション少将指揮)がブローニュの森南方の「半島」先端部に、軍団砲兵隊がパリ乗馬憲兵連隊を付してサブロンヴィル(ヌイイ南東郊外、城壁付近)に、それぞれ野営地を造って配備に着きます。

 この軍団からはクルブボア(ヌイイの北北西1.6キロ。セーヌ対岸)付近の街道交差点へ1個マルシェ連隊が分遣され、この連隊は前哨警戒と共にモン=ヴァレーリアン分派堡塁(同西南西4.2キロ)との連絡を取っていました。

 このモン=ヴァレーリアン堡塁には20日午前中まで護国軍部隊が守備に着いていましたが、「ソーの戦い」の結果を知った「俄兵隊」たちはパニックに陥って持ち場を放棄しパリへ逃亡してしまったため、新たに正規軍の戦列歩兵2個大隊が前進しています。

 このパリ西部の防衛はデュクロ将軍に任され、第14軍団を主体に護国軍6個大隊を加算して「計算上の」兵力は1個軍団程度の3万人となっていました。


 独第三軍に迫られたパリ南部は、ジョセフ・ヴィノア将軍率いる仏第13軍団の2個師団が第14軍団に代わって担当します。

 仏第13軍団第2師団(ルイ・エルネスト・ドゥ・モーユイ少将指揮)と第3師団(ジョルジュ・ウジェーヌ・ブランシャール少将指揮)は、ティエールの城壁に沿った「軍事道路」とシャン・ドゥ・マルス(シテ島の西3.8キロ。当時は万博の跡地の広場。現エッフェル塔前の公園)に野営駐屯し、ヴィノア将軍は市内の護国軍部隊の指揮も任され、計算上の兵力は4万2千人となりました。


 残されたサン=ドニ等パリ北側の防衛に使用出来る正規軍部隊は残っていません。この方面にはいつ持ち場を放棄するか分からない護国軍部隊と国民衛兵が充てられたのです。


挿絵(By みてみん)

パリの街区を行くトロシュ将軍と国民衛兵


 こうして出来る限りの防衛態勢を固め、固唾を飲んで独軍の侵攻を待ったトロシュ将軍でしたが、独軍は20日以降も一向に攻撃へ転移する素振りを見せません。監視所や斥候からは「独軍は近郊に留まり、陣地の構築を急いでいる」との報告が多数上がり、トロシュ将軍も独軍当面の狙いが当面「包囲」にあることを知るのです。


 この思わぬ「時間」を得た将軍は直ちに支配下にある未完だった堡塁や防御施設の工事を再開させ、訓練未了の護国軍や国民衛兵の教練を開始させました。

 パリ防衛軍はこの「時間」を利用してパリ東部の防衛線強化を急ぎ、ジョアンヴィルのマルヌ東岸に新たな橋頭堡を築き、ヴァンセンヌの北、モントルイユ~バニョレ間に陣地線を新設しました。

 パリ西部、ティエールの城壁前ではブローニュの森縁とセーヌの各渡河点に多数の肩墻を築きます。ブローニュの森北西側のセーヌ川中島ピュトー島の南端と、サン=クルーとビヤンクールを結ぶ爆破された橋梁脇には装甲モニター(砲台艦)が係留されてブローニュの森西側のセーヌ川を制します。

 この日から最前線の砲台と堡塁は独軍の包囲網や宿営地に銃砲撃を浴びせ続け、防御工事の安全を図ると共に独軍の陣地構築を妨害し出しました。また、絶えず巡察隊を城壁の外に派出して独軍の奇襲を警戒させると共に、住民の脱出や独軍への内通者発見に努めたのです。


挿絵(By みてみん)

砲撃を受ける独軍工兵


☆ 独軍


 モルトケ始め独軍の首脳陣は大変な困難に直面しようとしていました。


 普参謀本部総長フォン・モルトケ歩兵大将は、9月12日前後には「パリを強襲ではなく砲撃を主体とした持久包囲によって陥落させる」方針を固めた、と言われています。

 その理由は極めて合理的で柔軟なモルトケの思考から導き出された答えでした。


 モルトケは集まった情報から「パリには30万の戦闘員がいる」が、その多くは護国軍や国民衛兵そして各地の敗残兵で、「野戦に撃って出ることが出来る者は6万程度」しかおらず、まずは巨大で複雑な構造を持つ首都街区での籠城に出るはず、と考えます。

 しかも200万を数える市民を食べさせねばならず、諸情報から人心も一体とは言えない不安定な状況にある、としました。

 こうなるとトロシュ将軍も思い切って城外へ撃って出ることはせず、時間を稼いで城内の一般民衆を徴募し兵隊として教練するしかない、とも考えます。時間が過ぎればこれは脅威となりますが、短時間(数週間から2ヶ月程度)ならば問題とはならず、また先ほどの食糧事情によって首都は飢餓状態に陥り、厭戦気分が高まって来るだろう、と読むのです。


 この士気の崩壊を早めるため、モルトケはストラスブールに続き攻城砲撃を準備させます。


 敵首都を陥落させ政体を崩壊させてこそ戦争の勝利と考えるモルトケでしたが、宰相ビスマルク同様、普のみならず独の「実力」や「世界の中での立ち位置」も常に意識していました。

 つまり「セダン」から時間を経れば経るほど、つまりは「直ぐにも終わるはず、と大衆が考えている戦争がグズグズと長引けば」、独のアキレス腱とも呼べる資源の枯渇が始まり、世論も好戦から厭戦へ傾き始め、また世界の同情も仏へと傾いて行き、独の相対的に有利な立場がどんどん薄れて行くのです。


 また、モルトケがパリの降伏を急ぐ背景には「メッス」の存在も大きなものでした。

 バゼーヌ将軍率いる「仏ライン軍」はセダン以降では仏最大の「野戦軍」でその数は悠々10万を越えていました。万が一包囲するカール王子軍がその対応を間違えれば、脱出に成功した一軍が後方連絡線を荒らしてパリの包囲に打撃を与え、その一部がパリ近郊に現れる可能性も捨て切れなかったのでした。同時にパリが陥落すればバゼーヌも降伏するに充分な理由を得るだろう、との思惑もあったはずです。


 しかし、メッスやパリのように分派堡塁のある要塞都市は簡単に落城させることは出来ない、ということも当時の軍事常識でした。


 ストラスブールには分派堡塁に類するものこそなかったものの、西部の一角に突出していたたった一つの小さな堡塁(第44眼鏡堡)がヴェルダー将軍を悩ませていました。攻囲軍はこの眼鏡堡を沈黙させた後、ようやく要塞を砲撃によって弱体化させ、正攻法で陥落させることが出来たのです。この例や分派堡塁のあるメッスの包囲を見ても、20に近い数の分派堡塁があるパリを攻め落とすには、正攻法も砲撃もストラスブールの数十倍大がかりで時間を浪費する作戦となることは明らかでした。しかしそれを嫌って損害も省みずに強硬手段へ訴えることは、例えパリを占領出来たとしても大損害を被った挙句、「シロウトの集団」とはいえ数万規模となる仏の新たな兵力と対決せねばならず、戦争はさらに長引き仏に逆転の機会を与えることともなりかねないのです。


 いずれにせよ、モルトケは20日、前日に得たソー周辺の陣地を恒久的な陣地線に構築し直し、包囲線全体をも長期に持久出来る態勢へ持って行くよう命じたのです。


 パリ郊外はかなり遠くまで規模の大きな部落が点在し、その住民たちは独軍の接近で身の回りの物を手にしただけでパリ市内へ避難するか地方へ逃走するかしていたため、独軍が屋根付きの宿営を獲ることは容易でした。従って野営に入ったのは最前線で警戒する者たちだけでしたが、独軍統率部は秋が深まる中、前線の兵士たちも出来るだけ雨露を凌げるよう考え、前線においても遺棄された豊富な資材によって営舎が多数建築されました。しかし、例の分派堡塁の存在は厄介で、前線近くの宿営地に指定されていた部落も多くがその要塞砲の射程内に入っており、不意に近くで爆発する榴弾は兵士たちを悩ませ続けたのです。


 このように20万に及ぶ軍が集中すれば、その糧食と物資補給が困難となるのは自明の理で、9月19日の包囲開始以来数日間は補給の全てを帯同していた輜重縦列に頼らざるを得ませんでした。宿舎を獲ることは簡単でしたが、そこには殆ど食料は存在しませんでした。逃げ出した住民は心得たもので、家具や運ぶに面倒な財産は破壊するか放棄しましたが食料は殆ど全てを運び出しており、運び出せなかった飼料等には火が放たれていました。街道沿いにはそうした「黒い山」が点々と存在し、それを見た独軍将兵は、これから先の困難を思いため息を吐くのでした。

 逆に仏人が愛飲するワインやブランデーは無事な物が多く残され、20万の軍勢をしても殆ど無尽蔵と呼べる状態の酒類を前に、輜重士官たちは喜んでいいのか保管の苦労(いつの世でも兵士と酒の問題は尽きません)を思って哀しむべきか迷うほどでした。

 独大本営は参謀本部の注進に従って包囲が長引くことも考慮に入れ、食料を意識的に高値で購入することを決定します。これは、当初は敵に「塩を送る」などとんでもないと考える近隣農民や商人たちの「欲」を引き出し、出し渋っていた食料を市場に放出させる方策でしたが、概ね成功を収めました。また、騎兵部隊は周辺各地を巡回して大量の物資を徴発しましたがこれだけでは到底足りるはずもなく、糧食物資はその多くを独本土からの輸送で賄うこととなります。このため、独大本営は後方連絡線の維持に尽力し、仏国内の鉄道をなるべく多く広範囲に活用することも迫られました。輸送力増強のための工事は至急手配され開始されるのです。


挿絵(By みてみん)

槍騎兵に護衛される独軍糧食縦列


 輸送と同時に、後方連絡として重要な電信線の工事も加速されます。

 大本営と両軍の本営間は直ちに電信連絡が確保され、続いて包囲網上の重要拠点まで電信線が架設されました。この拠点には電信中継所だけでなく常設の監視所も置かれ、独自慢の高性能な望遠鏡も運び込まれて分派堡塁や市街地を監視し続けました。同じく信号灯火による通信も試みられ、電信よりも素早く警報を包囲網全体に通達する事にも力が注がれます。


 包囲直後の命令で、マルヌ、セーヌ両河川に架設された軍舟橋によって、第三軍とマース軍はその両端で連絡を取り合うことが可能となります。

 9月19日、ヴュルテンベルク王国(以下W)師団はグルネー(=シュル=マルヌ。ヴァンセンヌ宮殿の東北東10.5キロ)付近に仮設した舟橋の強化を図り、これを架柱橋に改造して馬車も通行可能にすると、同時進行で仏軍が爆破した近くの常設橋を修理し歩兵なら通行可能に設えたのです。

 同日、北独第12「ザクセン王国(以下S)」軍団は、その上流のポンポンヌ(グルネーの東8.6キロ)付近に新たな舟橋を架けます。

 コルベイユ(=エソンヌ。シテ島の南南東28.4キロ)から下流のセーヌ川には、10月に掛けて開通させた5本の橋で通行が確保され、ショアジー=ル=ロア(同南南東10.7キロ)には綱を渡して渡し船を操る繰綱渡を設置しました。


※コルベイユ下流のセーヌ橋

・オルリー=ヴァロントン(シテ島の南南東13.6キロ付近)間のW師団軍舟橋(後に架柱橋へ改築)

・ビルヌーブ=サン=ジョルジュ北方(同南南東15キロ付近)の第11軍団架柱橋

・同地第6軍団の軍舟橋

・コルベイユ付近の2本の架柱橋


 独軍はショアジー=ル=ロアの仏軍により爆破された橋梁の残骸を撤去すると、仏軍の河川艦隊の遡上を防ぐため太い鉄鎖の阻塞物を川に渡し、先の5ヶ所の橋を防衛しました。


 独第5軍団はレ・タヌリ(セーヌ川中島ロッジュ島北端の西。ベルサイユ宮殿の北9.2キロ。)付近に舟橋を架け、ブージバル(同北7キロ)の爆破された橋の脇で渡船を運行し始めます。

 親王フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニコラス・アルブレヒト・フォン・プロイセン中将率いる近衛騎兵第2(槍騎兵)旅団は、9月19日にサン=ドニを迂回してコルメイユ=ザン=パリジ(サン=ドニの北西12.3キロ)へ進み、翌20日にアルジャントゥイユ(サン=ドニの西8キロ)のセーヌ川「半島」へ進んだことでマース軍の最右翼となります。これによりレ・タヌリとブージバル両渡河点は、第三軍とマース軍との境界連絡点となりました。


挿絵(By みてみん)

アルジャントゥイユの爆破された橋梁


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