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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
340/534

ストラスブール攻囲戦(後)/破墻砲撃と開城(終)

ストラスブール攻囲戦最終段階の要塞北西部(9月26日)

挿絵(By みてみん)


挿絵(By みてみん)

仏海軍の砲台(ストラスブール)



 ストラスブールの攻囲は、9月18日、独攻囲軍が掘り進める対壕が要塞本郭北西側突端の第11と第12綾堡前にある前進堡、第52と第53眼鏡堡の斜堤頂上に達した事で最終段階を迎えました。


 これ以前の14日には、工兵の工事と平行して攻城砲兵隊が旧第8号臼砲砲台を「破墻砲台」(綾堡等最も強固な目標を破壊又は突破口を穿つ役割を成す砲台のこと)に指定し改造しました。この「再利用砲台」には15センチ短(砲身)カノン砲4門が運び込まれ、この砲台だけに榴弾1,000発が用意されます。第8号砲台は「攻城砲術の専門家」ヴィルヘルム・グスタフ・ヘルマン・ミュラー大尉が指揮を執って翌日より毎日、午前7時から午後7時まで断続的に第53眼鏡堡右(東)側面一点を狙って砲撃を続け、砲撃3日目の17日に至って遂に隔壁を崩壊させ、内壁に破口を開くことに成功するのです。砲台からは目標を直接子細に観測することが出来なかったため、効果判定はレデブール工兵大尉が危険を省みず爆薬を撤去した例の「坑道地雷」のトンネル入口に観測員を置いて行われ、効果評価と着弾修正を行いました(ミュラー大尉の行ったカノン砲の観測間接照準射撃による堡塁の破穿は戦史上初めてのことと言われます)。

 眼鏡堡隔壁の崩壊後に残った柱状の残土は、後日歩兵の侵入前に第42号砲台による15センチ短カノン砲の一斉砲撃で崩落させました。しかし崩壊した厚さ1.5mほどの隔壁内側には、なおも数本の支柱が起立して残り通行の妨げになっていましたが、眼鏡堡の完全占領前に侵入した工兵らが周辺の土砂とコンクリート片等を取り除くことによって、どうにか破口を通り抜けることが可能となるのです。

 この「突破口」を狙う正面と側面の仏防衛隊砲兵の無力化は、第44号砲台から前進させた数門の9センチカノン砲が引き受けて効果を上げました。


挿絵(By みてみん)

独軍攻城砲台の激闘


 攻囲軍要塞工兵本部は斜堤頂上に築いた冠塞対壕を補強・拡幅して完成させると、続いて第52、53両眼鏡堡前に横たわる水濠に「徒渉堤」を渡す工事に取りかかります。


 この危険な任務を担うのは第8軍団要塞工兵第1中隊にBa要塞工兵中隊、そして補助作業員となった普後備近衛歩兵第2連隊のコトブス後備大隊将兵でした。

 工兵たちは19日夕方、第53眼鏡堡に対面する濠壁に爆薬を仕掛けて幅3.8m程の破口を造り水面まで坂道の通路を掘削すると翌20日、水濠に大量の土嚢と束柴を投げ込んで堤の基礎を作り始めました。この間、仏軍も必死で銃砲撃を繰り返し、作業を中止させようとしますが独工兵は最も危険な左翼(東)側面に土嚢を積み重ねて掩蔽を造り、かろうじて銃砲火を防いだのです。しかし作業の指揮監督に当たっていた攻囲軍工兵本部詰のBa軍士官、キルヒゲスナー大尉は重傷を負って後送されてしまいました。


 第53眼鏡堡に対する工事全般を指揮していた右翼工区監督のバイヤー少佐は、前述通り第53眼鏡堡側面の「突破口」周辺に散乱し降り積もる障害となった土砂や瓦礫を排除すると同時に、徒渉堤構築作業のスピードアップを謀るため眼鏡堡側からも作業を進めようと、20日正午頃に少数の工兵と歩兵の一団をボートで対岸へ渡します。

 この間、仏防衛隊の銃撃は止まず、土嚢を重ねた掩蔽は無数の銃弾を浴びて所々が崩れ、遂にその隙間から銃弾が飛び込んで来たため、工事は中止されてしまいます。しかしこの時(20日午後4時)には既に徒渉堤は完成の域にまで達しており、独軍はいよいよ本格的に要塞前進堡への足掛かりを得ることとなったのでした。


挿絵(By みてみん)

徒渉堤の築造


 工兵隊のフロベニウス中尉は、独り偵察のため先行して眼鏡堡直下へ渡ると突破口の瓦礫をよじ登り、眼鏡堡内へ一番乗りを果たします。しかし密かに狭間から内部を覗いた中尉の目には、全く無人となった眼鏡堡内部が映るのです。

 実は仏防衛隊司令ユーリッシ将軍は、独軍が破墻砲台を設けて突破口を穿つ砲撃を開始し、それを阻止することが不可能と知ると、16日の夕刻に命令を発し、同日の夜、第53眼鏡堡に決死の覚悟で籠もっていた将兵を撤退させ、眼鏡堡から本郭に通じる掩蔽交通壕も破壊して通行不能とさせていたのでした。


 第53眼鏡堡が無人であることを独軍が知った直後、夕暮れ時にも関わらず銃弾が飛び交う中をコトブス後備大隊の第2中隊先遣小隊が完成したばかりの徒渉堤を一気に渡って眼鏡堡に入りました。普軍の後備近衛兵は眼鏡堡に残置されていた要塞砲6門の火門に大釘を打ち込んで砲撃不可能にすると、放置されていた数個の火薬樽と数箱の小銃弾薬を鹵獲しました。

 第53眼鏡堡には夕方遅くフュージリア第34「ポンメルン」連隊の1個中隊と工兵1個中隊が前進して後備近衛中隊と交代し、この工兵中隊は降り注ぐ仏防衛隊の銃弾を冒して急ぎ遮蔽物を眼鏡堡内に設けました。更に工兵たちは眼鏡堡の裏側、三角形をした堡塁の要塞本郭側に開いた底辺部分(これを旧軍では「咽喉部」と呼びます)に単対壕を掘って要塞からの侵入を防ぎ、堡塁の地下を走る廊下を利用して濠の徒渉堤と「突破口」との連絡を確保、徒渉堤を防衛するため塁壁の外側斜面に散兵壕を掘り、固く縛った枝の束や土嚢を積んで遮蔽銃眼を設けるのでした。


 石造りの頑丈な土台上にベトンを巡らせて建造された第53眼鏡堡の攻略に比べ、ただの土塁を基礎とする第52眼鏡堡への接近作業は、当初容易に終わるものと思われていました。


 ところが19日の夕刻、攻路対壕が第52眼鏡堡前の水濠外岸に達し、攻囲軍工兵が濠に架橋しようとすると、左翼(東)側の第54眼鏡堡や第12稜堡前面にある堡障(城壁)に設けられた砲台から激しい砲撃を浴びてしまい、対壕内部が縦射されたため、攻囲軍工兵たちは架橋作業より前に土砂と土嚢をこれら要塞砲の方向に積み重ね、攻路を重対壕に設え直し、その掩蔽に後方から運び込んだ鉄道のレールを被せて砲弾の直撃をも防ぐ強力な「防壁」を築かねばなりませんでした。

 この、いつまでもうるさい仏の要塞砲を撃破し、また前進堡塁や堡障に打撃を与えるため、攻囲軍の攻城砲兵隊は19日夜に第53a堡塁東の冠塞内に第51号砲台(9センチカノン砲x4門)を、翌20日夜に第3平行壕中央付近に第49号砲台(15センチ滑腔臼砲x6門)を相次いで築造しました。


 第52眼鏡堡前の水濠は第53眼鏡堡前の水濠と違い幅が60m、水深も浅い所で1m70cm、深い所では2m70cmもあったため、攻囲軍工兵は柴束や土嚢を沈めて堤を造るのを諦め、シルティカイムのビール工場近辺に大量に残されていたビヤ樽を前線に運び込んで、これで「樽橋」を架けようと謀ります。


挿絵(By みてみん)

樽橋の構造


 21日の朝、レデブール大尉(普第6軍団要塞工兵第1中隊長)の部下だったブライター伍長は、着衣を脱ぐと第52眼鏡堡前の水濠に入り、泳いで対岸に渡ると幸いにも仏軍に発見されることなく測量を行って正確な濠の幅を計測した後、無事に帰還しました。その日の日没時、冠要に潜んでいた同第1軍団要塞工兵第1中隊が急ぎ水濠に入り、ブライター伍長の報告を参考に準備して持ち込んだビヤ樽を水面に浮かべると、補助兵が掲げる厚板の遮蔽(銃弾を防ぐことすら適わないただの板切れで、単に敵の視界を遮るだけです)の陰で必死になって作業を進め、午後10時、無事に樽橋を眼鏡堡直下まで架けることが出来ました。第2軍団要塞工兵第1中隊長のリューゼ大尉は、少数の部下を率いるとこの不安定な樽橋を渡って第52眼鏡堡へ一番乗りしますが、昨日(20日)夕刻時には確かに配置に就いていた筈の仏兵は、いつの間にか消え去っていたのでした。


 第53眼鏡堡の占領時と同じくフュージリア第34連隊の1個中隊と工兵1個中隊が要塞砲兵若干名を連れて前進し眼鏡堡内を捜索すると、6門の要塞砲の火門には既に大釘が打ち込まれて使用不能となっており、鹵獲可能な備品・火薬類は僅かでしたが、幸いにも坑道地雷の類は仕掛けられていませんでした。工兵中隊は直ちに放置されていた防護柵を並べて要塞本郭側に開いた「咽喉部」を塞ぎ、単対壕を掘って樽橋との間に交通壕を設けるのでした。

 ここまでの作業は厳しく律した静粛下で行われ、攻城砲兵の激しい砲撃もあったために仏防衛隊は物音に気付かず、第52眼鏡堡の失落に気付かずにいましたが、第34連隊兵に続いて樽橋を渡った後備近衛第1連隊の1個中隊が立てた樽橋を渡る物音には気付き、事情を察した仏軍は東側の第54眼鏡堡や第12稜堡前の堡障から銃撃を始め、十分な遮蔽のない樽橋や斜堤の頂上部分、そして水濠の外岸部分で被害が相次ぎました。この21日の夜だけで独軍の死傷者は49名に上り、その戦死者には混成工兵第2大隊長で左翼工区監督のフォン・クヴィッツォフ少佐が含まれていたのです。


 それでも攻城作業は着実に進行し、22日の明け方5時には運河や小河川から掻き集められたボートに15センチ滑腔臼砲数門が載せられて第52眼鏡堡へ運び込まれ、ここから要塞本郭に砲撃が開始されました(後に第57号砲台へ集約されます)。この臼砲砲撃は前進堡に残る仏軍砲兵を打ちのめし、午前8時頃になると本郭からの砲撃は完全に止み、危険だった第54眼鏡堡の要塞砲も、独軍攻城砲の集中射撃によってこの日午前中で沈黙するのでした。それでも要塞本郭上で頑張る仏防衛隊は、激しい銃撃を第52眼鏡堡へ浴びせ続けましたが、独軍工兵たちの作業は頑として続行されたのです。


 防衛側から丸見えの危険な樽橋は、その後も仏軍から狙われ続け、砲弾を受けた一部が粉砕される度に決死の覚悟で水濠に入った独軍工兵の手で修繕され続けました。このままでは第52眼鏡堡への安全な連絡は望めないため、攻囲軍工兵本部は樽橋の横に徒渉堤を造り始め、これまでにない多数の工兵と補助作業員の歩兵を注ぎ込み、遂に25日昼間に堤の完成を見ました。ここでお役御免となった樽橋ですが、砲撃と銃弾多数を受けて蜂の巣状にされた樽橋は徒渉堤の完成を待たずに沈んでしまったのです。


 要塞本郭に向かう攻路対壕の掘削を前に、攻囲軍の多くの工兵士官が要塞内部の諸施設・交通路の位置や状況を観察、偵察しました。

 特に最前線で危険を厭わず活動し続けていたレデブール大尉は、勇敢な部下たちと共に第53眼鏡堡後方の水濠を泳ぎ切って本郭に続く交通路を観察し、第52眼鏡堡後方の要塞本郭前まで肉薄して偵察を行って来ました。その結果、「第53眼鏡堡後方から第11稜堡前に続く交通路は幅員が狭く(7~8m)対壕掘削には向かない」ことを砲兵本部に報告するのです。多くの工兵士官がこれに賛同したため、攻囲軍は「第52眼鏡堡後方の交通路に攻路対壕を掘削し第51堡障(城壁)の突端に向かって進む」ことを決定しました。

 この作業を安全かつ円滑に行い、要塞内部へ突撃を敢行する部隊を一気に最前線へと送り込むため、斜堤頂上の冠塞を第54眼鏡堡前まで延伸させ、この先端付近から第3平行壕へ向けて単対壕の交通壕を開設しました。未だ危険と見なされていた第54眼鏡堡に対する攻城砲の砲撃は、工兵たちが満足する効果を上げられていなかったため、その正面には砲台2つが構築されることとなります。


 要塞本郭に向かう最後の攻路対壕の掘削は9月22日の夜に開始されました。

 攻囲軍工兵たちは、幅員およそ12mの第52眼鏡堡後方の交通路に対壕を掘り進め、その直ぐ後方ではそれを重対壕に設える工事が続きました。この作業は24時間休まずに続き、24日の夜には第51堡障前の斜堤頂上まで到達し、突撃隊の最終待機場所となる冠塞を構築しました。この困難な作業は第6軍団要塞工兵第1中隊とBa要塞工兵中隊が行いますが、左翼(東)側の第12稜堡やその堡障から猛銃撃を浴び、西側後方の第49前進稜堡からも狙撃されたため、工兵や補助作業員の歩兵に多少の死傷者が出ます。中でも痛かったのは、常に最前線で偵察活動と掘削作業に活躍して来た有能な第6軍団要塞工兵第1中隊長のレデブール大尉が負傷後送されたことで、大尉は懸命の治療も空しく10月に入り亡くなっています。


 第52と第53眼鏡堡を占領したことで、攻囲軍の攻城砲兵隊も要塞本郭への砲撃準備に入り、9月23日の夜、第53眼鏡堡内「咽喉部」には第56号砲台、第52眼鏡堡内には第57号砲台を新設します。第56号砲台には20日に完成したばかりの第49号砲台を廃止して第3平行壕から15センチ滑腔臼砲6門を搬入し、第57号砲台の備砲は15センチ滑腔臼砲4門となりました。この最前線臼砲砲台は要塞本郭の最終防衛線となる第51堡障とその後方にあるスタイン門前の半月堡へ砲撃を集中します。

 更に第54眼鏡堡前の冠塞右翼に第47a号砲台を新設、第2平行壕にある元来の第47号には臼砲4門を残し、15センチ滑腔臼砲6門を移転して第12稜堡とその前の堡障を砲撃しました。

 後方では第2平行壕に第50号、第59号2ヵ所の臼砲砲台を新設して、第50号砲台に23センチ臼砲2門、第59号砲台には28センチ臼砲6門が後方の臼砲砲台から前進し置かれました。

 また、第55号と第52号、そして第60号砲台を破墻砲台、第53号、第54号砲台を破甲砲台(ベトンや鋼鉄などの堅目標を貫通破損させるための砲台)として新造すると、攻撃の正面や側方にある建造物や障壁を目標に砲撃を集中し、その他の諸砲台は土嚢や土砂を積み上げただけの遮蔽から銃撃を繰り返す仏防衛隊の銃座を目標に砲撃を繰り返しました。同時にかなり後方となった攻城砲台は砲撃の観察が困難となり同士討ちの危険が高まったため、砲撃が中止されました。


挿絵(By みてみん)

第53眼鏡堡へ運ばれる攻城砲


 新設された最前線の諸砲台が仏軍の反撃を封じ始めると、攻囲軍攻城砲兵本部は第2平行壕中ほどから南西へ第3平行壕の右翼端を結んで走る交通壕に第58号砲台(15センチ短カノン砲x4)を新設し、第8号砲台で第53眼鏡堡東側面に突破口を穿つ成果を上げた砲術専門家のミュラー大尉に指揮を任せ、大尉は第58号砲台の目標を第12稜堡の西面、サン・テレーヌ墓地の東で砲撃を続けていた第42号砲台(15センチ短カノン砲x6)には第11稜堡の東面を目標とするように命じ、24日の朝、要塞本郭への突撃口を穿つ最後の破墻砲撃が開始されるのです。


 第11稜堡には厚さ1.3mの墻壁が聳えており、これは第42号砲台からも直接眺めることが出来、照準は比較的楽に出来ました。このため破墻砲撃は順調に進み、初弾から的確に目標を捕らえ、その榴弾は壁を砕いて瓦礫を吹き飛ばし、その「石弾」は前方で独工兵を狙い撃ちしていた堡障の仏兵を背後から襲ったため、防衛隊は止む無く第11稜堡の堡障(第11bis堡と名付けられていました)から撤退しました。破墻砲撃開始から僅か半日、24日の正午となると第11稜堡東側面の墻壁が崩れ始め、程なく突破口に十分な幅が崩壊しました。ここまで600発の榴弾を消費したミュラー大尉は、その後方に残った柱状の残土を歩兵の突撃直前に砲撃で崩すよう命じ、それまで砲撃を中止させました。


 しかし同時進行で始められた第12稜堡西面を狙う砲撃は困難な状況にありました。


 この墻壁は第58号砲台からの直接観察は不可能で、ミュラー大尉は間接照準射撃を試みるため第53眼鏡堡に観測所を設け、砲兵たちには墻壁の上に飛び出し覗いている部分を目安に砲撃せよ、と伝えていました。更に大尉は目標まで700mしかない第58号砲台へ、通常は目標から距離が遠く離れている場合に使用する貴重な長射程の15センチカノン「長」榴弾を運び込み、その威力で墻壁を崩壊させようとしました。その甲斐あってか26日の昼前、合計467発目の榴弾が目標に命中した直後、遂に轟音を上げて墻壁が崩落し、第12稜堡の西側側面には幅11m前後の破口が開きました。ミュラー大尉は満足げに頷くと、柱状の残土は歩兵の突撃前に集中砲撃により崩落させることで処理するよう命じたのでした。


挿絵(By みてみん)

第12稜堡の破口


※攻城最終段階における攻囲軍ライン川西岸攻城砲台


◯破墻砲台、破甲砲台

・第42号砲台 (サン・テレーヌ墓地東・15センチ短カノン砲x6)

・第58号砲台 (第3平行壕右翼側対壕・15センチ短カノン砲x4)

・第55号砲台 (第2平行壕右翼中央・12センチカノン砲x4)

・第52号砲台 (「半平行壕」右翼端・9センチカノン砲x2)

・第53号砲台 (第52眼鏡堡前冠塞左翼側・9センチカノン砲x2)

・第54号砲台 (第52眼鏡堡前冠塞中央・9センチカノン砲x2)

・第60号砲台 (第53眼鏡堡先端障壁上・9センチカノン砲x3)

◯通常砲台

*戦線右翼

・第1号砲台 (ケーニヒスホーヘン北・12センチカノン砲x6)

・第14号砲台 (ケーニヒスホーヘン北・12センチカノン砲x6)

・第39号砲台 (クローネンブルク・9センチカノン砲x4)

・第4号砲台 (クローネンブルク・23センチ滑腔臼砲x4)

・第35砲台 (クローネンブルク北・21センチ施条臼砲x2)

・第15号砲台 (郊外停車場西・12センチカノン砲x4)

・第16a号砲台 (郊外停車場北・12センチカノン砲x8)

・第20a号砲台 (郊外停車場北・12センチカノン砲x4)

*戦線中央

・第37号砲台 (郊外停車場東第2平行壕・15センチ滑腔臼砲x4)

・第5a号砲台 (郊外停車場東第2平行壕・28センチ滑腔臼砲x3)

・第17b号砲台 (郊外停車場東第2平行壕・12センチカノン砲x4)

・第21b号砲台 (第2平行壕右翼前・12センチカノン砲x8)

・第50号砲台 (第2平行壕右翼前・23センチ滑腔臼砲x2)

・第19b号砲台 (第2平行壕右翼前・12センチカノン砲x4)

・第48号砲台 (第3平行壕右翼側対壕・15センチ滑腔臼砲x6)

・第45号砲台 (第3平行壕右翼側対壕・15センチ滑腔臼砲x4)

・第44号砲台 (第3平行壕右翼側対壕・9センチカノン砲x6)

・第59号砲台 (第2平行壕中央・28センチ滑腔臼砲x6)

・第23号砲台 (サン・テレーヌ墓地後方対壕・12センチカノン砲x4)

・第25号砲台 (サン・テレーヌ墓地後方対壕・15センチカノン砲x4)

・第27号砲台 (シルティカイム南第1平行壕後方・12センチカノン砲x6)

・第33号砲台 ((シルティカイム南・15センチカノン砲x8)

*戦線左翼

・第38号砲台 (第1平行壕左翼屈曲部・9センチカノン砲x4)

・第41号砲台 (第1平行壕左翼屈曲部・9センチカノン砲x4)

・第28号砲台 (シルティカイム東端・12センチカノン砲x4)

・第30号砲台 (シルティカイム東端・12センチカノン砲x4)

・第43号砲台 (ヴァッケン島西端対岸・15センチカノン砲x8)

・第47号砲台 (第2平行壕左翼・15センチ滑腔臼砲x4)

・第46号砲台 (第2平行壕左翼・23センチ滑腔臼砲x6)

*最前線

・第51号砲台 (第52眼鏡堡前冠塞右翼側・9センチカノン砲x4)

・第47a号砲台 (第54眼鏡堡前の冠塞右翼・15センチ滑腔臼砲x6)

・第61号砲台 (第54眼鏡堡前の冠塞左翼・カノン砲配備前に開城)

・第56号砲台 (第53眼鏡堡内「咽喉部」・15センチ滑腔臼砲x6)

・第57号砲台 (第52眼鏡堡先端障壁上・15センチ滑腔臼砲x4)

◯9月23日以降砲撃が中止された攻城砲台

・第31号・第32号・第34号・第36号・第40号・第7a(以上臼砲砲台)

・第8a・第22号・第29号(以上カノン砲台)

◯それ以前に廃止された砲台

・第2号・第3号・第5号・第6号・第7号・第8号・第9号・第10号・第11号・第12号・第13号・第16号・第17a号・第19a号・第20号・第21a号・第49号


挿絵(By みてみん)

攻囲軍の第43号砲台(15センチカノン砲)見取り図


☆ 開城


 9月27日の明け方。ストラスブール防衛司令官、ジャン=ジャック・アレックス・ウーリッシ将軍(開戦時はジェネラル・ドゥ・ディビジョン、他国から見れば「少将」ですが、独軍の戦史では「中将」とされており、『総督』として中将扱いされたものと思われます)は工兵隊長のオーギュスト・サバティエ大佐とマリッツ中佐から、「敵の砲撃による稜堡の破口は通行が可能な程度の大きさがあり、おそらく敵は本日夕刻にも突撃を行うのではないか」との報告を受けました。

 ウーリッシ将軍は直ちに作戦会議を招集すると対策を協議しますが、疲弊し切った士官たちは口々に「敵の攻城砲による圧倒的な砲撃下にあって、稜堡の破口付近で敵の突撃を迎え撃つのは正に自殺行為」と訴え、「このような状況に陥った後は抵抗を続ける見込みはなく、開城交渉を行うことが緊要となる」との意見で全会一致を見るのです。


 この決定は後に仏側において「稜堡に破口を開かれてもその後方にはまだ水濠や防御施設が残っていた」「9月末でも糧食は十分に残っており戦力も十分にあったにも関わらず性急に降伏した」等とする意見もあって物議を醸しますが、既に市民は疲弊し尽くし、防衛隊側でも厭戦気分が蔓延していたことを考えれば、ウーリッシ将軍の判断「敵の要塞突入前に降伏」は(これ以上の惨事を避けるためにも)間違ってはいなかったものと思われるのです。

 ストラスブール防衛隊最後の会議録は開城に至った理由を、「防衛隊は限界に達し、砲兵は戦闘力を失い、堡塁や墻壁に想像以上の砲撃を受けたため、敵の突撃に備える将兵は戦わずして全滅の危機に瀕していたため」と結論しています。


挿絵(By みてみん)

降伏直後のステイン門と周辺の情景


 独攻囲軍は27日早朝、第51堡障前の冠塞を第53眼鏡堡後方の交通路まで延伸しますが、更に通路の拡張工事中の午後5時、警戒中の前哨兵は大聖堂の尖塔上に白旗が翻るのを発見します。程なく他の教会や家屋の屋根にも白旗が上がるのが見え、白旗は要塞北部の建物に次々と掲げられたのでした。

 これを見た攻囲軍は自然と銃砲撃を中止し、いつの間にか仏軍からも銃弾が飛んで来ることが皆無となっていました。銃声が止むと仏兵の姿がぽつりぽつりと城壁堡塁上に見え始め、それは第11と第12稜堡の「残骸」上ばかりでなく、既に無人となったと思われていたステイン門前の半月堡にも見られたのです。また、猛砲撃を受けても撤退しなかった第54と第55眼鏡堡の仏兵は、瓦礫と化した堡塁から這い出て来ると、ゆっくり本郭へ退く姿が独軍前哨から観察されたのです。

 掩蔽壕にしがみ付いていた独軍将兵たちも、恐る恐る立ち上がるとそれぞれの持ち場の掩蔽上や瓦礫の山に昇り、黄昏時のストラスブール周辺ではようやく現実を理解した独兵による歓声が四方から巻き上がったのでした。

 この夜、対壕掘削作業は全て中止されましたが、前線と対壕内の将兵はそのままの場所で夜明けまで過ごすこととなります。


 白旗が上がって数時間後の27日夜、ウーリッシ将軍の「開城宣言」が攻囲軍本営に届き、ヴェルダー将軍は参謀長フォン・レシュツィンスキー中佐に全権を与えて交渉を命じ、中佐は要塞の仏防衛軍に対しケーニヒスホーヘン部落内で協議を行うことを通告した後、全権を迎えます。

 ケーニヒスホーヘンで開かれた協議に参加したのは、独側がレシュツィンスキー中佐と攻囲軍本営副官の伯爵フォン・ヘンケル=ドンナースマルク騎兵大尉、仏側はストラスブール要塞司令官のデュカス大佐と防衛隊砲兵副司令のマンジェン中佐でした。


 話し合いは大きな問題もなく進み、翌28日午前2時、交渉は妥結しました。

 結果、要塞内にいた仏正規軍と護国軍の下士官兵17,000名余りと同士官にバ=ラン県とストラスブール市の役人およそ500名は捕虜となり、士官についてのみ、セダンの降伏文書を参照して「不戦宣言」をした者は即釈放に決まりました。義勇兵とストラスブール市民による国民衛兵については武装解除の後、士官らと同じく戦争中の対独不戦を宣誓することで釈放になります。また、国立銀行支店内にあった現金、市内の大砲およそ1,200門、同空の砲架800台、各種小銃およそ20万挺、大量の弾薬と軍施設に残っていた資材、糧食は全て攻囲軍に渡されることとなりました。

挿絵(By みてみん)

ストラスブール防衛隊の首脳たち

(左からトマス海軍大尉、フェヴィエ中佐、デュカス大佐、ウーリッシ将軍、ブロ大佐、エグゼルマン海軍少将)


 この「降伏条約」に従い、28日午前8時、攻囲軍は歩兵各1個中隊をフィッシャー門とナシオナル門へ、同2個中隊をオーステルリッツ門へ進駐させ、午前11時にはバーデン大公がナシオナル門外斜堤前に到着し、集合した攻囲軍高級指揮官たちを労いました。

 同時に市内の仏軍将兵は全員門外に出て護送される者、宣誓し解放され去る者様々な光景が各所で見られました。

 将兵の先頭に立ちナシオナル門外へ出て来たのは、ウーリッシ将軍とパラール将軍、エグゼルマン海軍少将やブロ大佐、デュカス大佐など防衛隊の高級指揮官たちで、大公とヴェルダー将軍は下馬して敬礼し、二言三言、労いの言葉を交わすのでした。

 その後ろに続いた正規軍や護国軍の下士官兵と宣誓を拒否した士官等捕虜たちは、列の先頭付近で高級指揮官たちが見守っている内は秩序を保ち整然と行進していましたが、やがて双方の指揮官たちがたち去ると、列内では密かに持ち込んだ酒を飲んだのか出城前に痛飲したものか酩酊する者多数が現れ、隊伍は乱れて宣誓せずに残った士官たちの命令も無視し、中には門外へ出たところで引き渡す手筈になっていた剣や小銃を破壊し、水濠に投げ入れる者まで現れました。


挿絵(By みてみん)

降伏後のナシオナル門


 この捕虜およそ17,000名は、独攻囲軍の歩兵2個大隊と騎兵2個中隊に護送され、28日中にヘルリスハイム(大聖堂の北北東20キロ。ライン西岸)付近に用意された野営地に到着すると一泊し、翌29日、ラインを渡河するとラシュタット要塞郊外へ到着します。彼らはその後独各地に分散されて捕虜生活に入りました。


 ストラスブールでは独軍の進駐が順調に開始され、普第30連隊はフィッシャー門から、Ba「親衛」連隊はオーステルリッツ門からそれぞれ市内へ入城し、ケール支隊中核のBa第6連隊第1大隊はラインを越え「城塞(シタデル)」地区に進駐します。これら先行部隊が市内を警戒捜索する中、更に普後備歩兵3個大隊、砲兵2個中隊、要塞砲兵5個中隊、工兵6個中隊が市内へ入り、これら部隊の統括と要塞都市の司令官としてフォン・メルテンス少将が任命されました。

 翌30日。ヴェルダー将軍と大公は諸兵科からなる衛兵と共に行進して正式に入城し、「189年前に仏から奪取された領土を取り返した」と述べるのです。市内は表向き平穏で、市民の態度も恭順を示していました。


挿絵(By みてみん)

ヴェルダー将軍のストラスブール入城


 ヴェルダー将軍ら攻囲軍将兵が見た市内の光景は、自らが行った結果とはいえ絶句する者が相次ぐ、正に惨状でした。


 近代攻城砲兵が成し得る「成果」は恐るべき破壊で、その主目標だった第11、第12の両綾堡は原形を辛うじて留めるだけで土砂と瓦礫が積み重なる「丘」と化し、直撃されたと思しき巨大な青銅製要塞砲が粉々の破片となって土砂に埋没する姿も各所で見られます。

 スタイン門は完全に埋没し、その後方にある北西市街地は榴弾砲撃と焼夷弾砲撃による火災によってほぼ平らになっていました。城塞地区も同様で、形を留めるのはベトンに覆われた城壁部分のみで内部はことごとく破壊の限りを尽くされていました。

 市内では歴史的価値を持つ多くの文化財や建造物が焼失または粉砕され、博物館、図書館、新教会、高等中学校、多くの兵舎に砲術学校、劇場等々は崩壊焼失し、公共の施設で無傷のものはほとんどありませんでした。市の象徴である「片側のみの尖塔」が美しいノートルダム大聖堂も崩壊こそ免れましたが内部と表面の破壊は目を覆わんばかりでした。

 ストラスブール市内では一般家屋448軒が全壊し、周辺部落から市内へ避難していた者を含め、家を失った者は降伏時点で1万人以上となっていました。

 周辺部落や街道も氾濫や砲撃によって痛めつけられ、特に激しい砲撃戦を交わしていた城塞とケールの間には、双方から発射され途中で落ちた榴弾や炸裂弾が醜い無数の傷跡を大地に刻んでいました。

 これらの被害を見た独軍は、それを噛みしめる時間を経た後、直ちに復興作業へ取りかかるのでした。


挿絵(By みてみん)

降伏後のストラスブール・ステインシュトラッセの情景


 ストラスブール攻囲戦における人的損害は、仏側が軍関係で2,500名の死傷者と発表し、市民を含めるとその数4,300名とされています。また、独軍側は士官39名、下士官兵894名の死傷者、行方不明者を出しています。


※ストラスブール攻囲戦の独軍人的損害詳細

〇Ba師団

戦死/士官3名・下士官兵43名、負傷/士官4名・下士官兵144名、行方不明/下士官兵29名、馬匹の損失(死傷・行方不明)72頭

〇後備近衛師団

戦死/士官2名・下士官兵31名、負傷/士官4名・下士官兵167名、馬匹の損失(死傷・行方不明)1頭

〇予備第1師団

戦死/士官1名・下士官兵57名、負傷/士官7名・下士官兵233名、行方不明/下士官兵13名、馬匹の損失(死傷・行方不明)5頭

〇要塞攻城砲兵とケールの砲兵

戦死/士官1名・下士官兵16名、負傷/士官5名・下士官兵102名

〇工兵本部と混成工兵連隊

戦死/士官5名・下士官兵18名、負傷/士官7名・下士官兵39名、行方不明/下士官兵2名


挿絵(By みてみん)

城塞(シタデル)の廃墟


 ストラスブール落城を知った普大本営からは祝電と共にヴェルダー将軍が27日に遡って歩兵大将に昇進したことを知らせ、予備第1師団がストラスブール守備、その他は近日中に他方面への移動を命じるとの予告がありました。

 ヴェルダー将軍は直ちに予備第1師団長フォン・トレスコウ将軍に命じ、師団を要塞守備と周辺部駐在へ振り向かせました。また、長らくケール支隊として本隊から離れていたBa第6連隊第1大隊も復帰し、同連隊第2大隊傘下の将兵は再びラシュタット要塞守備隊の任務を遂行するため去って行きました。その他のBa師団諸隊は市街地南方の各部落に宿営し、普後備近衛師団はオベルアウスベルジャンへの街道(現国道D41号線)とパリへの国際鉄道の間にある部落に宿営しました。


 9月30日。ヴィルムヘルム1世は「ストラスブール攻囲軍は新たに独第14軍団を編成し軍団長はフォン・ヴェルダー歩兵大将とする」との勅命を下します。

 同時に大本営はヴェルダー大将に対し、「トゥール落城で開通したパリへの鉄道を利用して後備近衛師団をパリの包囲陣へ輸送し、ストラスブール守備隊以外の軍団残部でセーヌ川上流のシャティヨン(=シュル=セーヌ。ランスの南南東160キロ)並びにトロア(同南106キロ)へ向かう」よう命令しました。

 ヴェルダー将軍は命令を受けると、旧「後備」第1師団だったポンメルン後備歩兵の2個旅団と予備槍騎兵第2連隊、予備砲兵3個中隊からなる新「予備」第1師団をストラスブールに残し、また、攻城部隊の大砲を全てファンデンハイム(大聖堂の北10.3キロ)に集合させ、要塞砲兵と工兵諸部隊もストラスブール郊外に残すと、「仏領に残る要塞に対する攻城攻撃に備え」準備を整えて待機するよう命じると、新設第14軍団の本隊を率い、新たな作戦へと旅立って行ったのでした。


※10月初頭、独第14軍団でヴェルダー将軍直率となりトロア方面へ向かった部隊

〇Ba軍野戦師団

〇普混成歩兵旅団(普第30、第34連隊)

〇普混成騎兵旅団(普予備驃騎兵第2連隊、普予備竜騎兵第2連隊)

〇予備第1師団砲兵分遣隊(3個中隊)


挿絵(By みてみん)

降伏後の市内駅



挿絵(By みてみん)

降伏後のストラスブール・ステインシュトラッセの橋


 ストラスブール要塞開城条約


 ストラスブール攻囲軍司令官プロイセン王国陸軍中将フォン・ヴェルダーは、ストラスブール防衛総督フランス国陸軍中将ウーリッシより発せられた、ストラスブール要塞に対する敵対行動の中止を求める請願を受け、同要塞守備隊の勇敢なる行動と名誉を鑑み、次の条約を締結するものである。


*第1条

 ウーリッシ中将は1870年9月28日午前8時を以て「城塞」とオーステルリッツ、フィッシャー、ナシオナル三城門の守備兵を持ち場より撤収させ、同時に独軍はこれら拠点を占領する。

*第2条

 フランス国の護国軍兵と国民衛兵を含む全ての要塞守備兵は同日(28日)午前11時にナシオナル門より城外へ出て、第44眼鏡堡と第37角面堡の間に進み個人武器を着脱せよ。

*第3条

 正規軍兵士並びに護国軍兵士は捕虜とし、個人行李を携行して即時目的地に出発する。国民衛兵と義勇兵は不戦の誓約書に署名の後解放とする。ウーリッシ中将は午前11時までに全ての武器を市庁舎に集め、また守備隊の士官名簿をヴェルダー中将に提出せよ。

*第4条

 ストラスブール守備隊の士官並びに士官相当官は、不戦の誓約書を提出することで各自決定した居住地へ出発することが出来るものとする。不戦の誓約書を提出しない士官は守備兵と共に捕虜となり独領へ出発する。軍医は全員後命あるまで現在の職務を続行せよ。

*第5条

 ウーリッシ中将は武装解除の後に速やかに一切の軍需品、金品を整理し主計官を通じて独軍の主計担当者に引き渡すものとする。


 双方の特命士官並びに官吏は28日正午12時を以てストラスブール市内ブログリ広場前に集合せよ。


 以上の開城条約を作製しこれに署名する全権委員、独軍側は攻囲軍参謀長フォン・レシュツィンスキー中佐、同副官伯爵フォン・ヘンケル=ドンナースマルク騎兵大尉、仏軍側はストラスブール要塞司令官デュカス大佐、同砲兵副司令マンジェン中佐とする。

 双方併読確認の上、各自署名し相違の無いことを証する。


(各自の署名)


 以上 これを認める

  ムンドルスハイムにて 1870年9月28日

  中将 フォン・ヴェルダー(署名)


挿絵(By みてみん)

降伏後の第52眼鏡堡


挿絵(By みてみん)

降伏後の第53眼鏡堡


挿絵(By みてみん)

降伏後の第12稜堡



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