ストラスブール攻囲戦(後)/攻囲線南部と後方の状況(8月末~9月下旬)
☆ 攻囲線南部
ストラスブールの攻囲南部を担当するバーデン大公国(以下Ba)師団がノイドルフ(大聖堂の南南東1.7キロ)とシャッヘン製粉所(ノイドルフ南西。大聖堂の南2.2キロ)に進出した後では、要塞の城郭に近付いたことにより仏防衛隊と小競り合いを繰り返すことになります。しかし勢いはBa側にあり、仏軍はその度に撃退され目前で監視する小うるさいBa軍を排除出来ませんでした。
このノイドルフを新たな拠点としたBa軍前哨は、それ以前の8月31日に南東側氾濫地域内で小島のような状態にあるポリゴン(ノイドルフの南南東2キロ)を越えてライン西岸へ到達し、リンツェン・コップフ(大聖堂の南東4.5キロのライン西河畔。現ヌーオフ飛行場の南東方)と呼ばれる湿地帯を占領していました。ここに哨戒隊を置いたBa師団は、川を下って攻囲を掻い潜り要塞都市へ食料や弾薬を補給しようとの試み、逆に遡上して要塞から脱出する試みを警戒したのです。
Ba師団は9月4日、ライン川の警戒を高めるためポリゴンへ1個中隊を送り込みましたが、7日、リンツェン・コップフの部隊は仏人が操りライン川を下って来る小舟2隻を発見し、これを拿捕しました。2隻の舟底には合計36,000発分の砲弾信管が搭載されており、捕虜とした船員が語るには「ブライザハ(バーデン領ライン東岸。ストラスブールの南62キロ)付近の仏側アルザス大運河出口からラインに入り、ストラスブールへ回航して来た徴用河船2隻」と判明したのです。
9月5日。Ba師団本部はムンドルスハイムの攻囲軍本営より「敵の部隊が攻囲南部に圧力を掛けるためアルザス南部から出撃した模様」との通報を受けます。
師団は直ちに警戒態勢を取り、要塞へ続く諸街道に鹿砦などの阻塞を設置して、街道を銃撃するための肩墻を複数箇所に設置します。
しかし攻囲線の遙か南まで偵察に出た斥候たちは、仏軍はおろか義勇兵すら見ることはなく、人員不足で駐屯出来ず巡回監視するに留めている諸部落でも「怪しい動き」は見られなかったのでした。
9月11日。Ba師団は北部の攻城正面作業への敵の注意を逸らすため、全軍を挙げて要塞への接近を謀りました。
歩兵たちはケールから要塞南縁を抜けて西へ走る国際鉄道線の堤へ達して散兵線を敷き、工兵はシャッヘン製粉所を強固な拠点とするため防御工事を行います。前哨の補強としてワーグホイザー(大聖堂の南3.5キロ)には1個中隊が進み出ました。12日夜にはノイドルフの前哨が更に要塞斜堤へ接近して配置に就き、最右翼(東)の1個中隊はシュポレン島西端を作るライン川支流に架かる国際鉄道鉄橋に達し、翌13日夜にケール駐在部隊がシュポレン島に進出したことにより東部と南部の攻囲前哨同士が連絡を取り合うのでした。
対する仏軍は12日、ホスピタール門(大聖堂の南700m。要塞の南門)直前まで前進して来たBa軍部隊に銃砲火を浴びせ始め、13日午後には歩兵2個大隊と野戦砲兵1個中隊による出撃が行われました。
攻囲以前の8月16日に行われたフィエヴェ大佐のイルキルシュ(大聖堂の南南西6.5キロ)遭遇戦以降、南部では最大の仏軍出撃となったこの日、Ba師団前哨は各所で猛撃を受けて後退し、鉄道堤は再び仏軍の手に戻りました。これで満足したのか仏軍は14日朝には撤退し要塞内へ引き上げますが、Ba前哨が鉄道堤へ近付くとすかさず猛銃砲火が浴びせられたため、Ba師団は前哨線を多少後退させるしかありませんでした。
砲撃下ヴィルヘルム橋を行くフィエヴェ大佐の葬列(9月上旬)
この状況を聞き及んだヴェルダー将軍は、「決戦を行うために待ち望んでいた仏解囲軍出撃の予兆かも知れない」と考え、薄い南部攻囲線を強化するためBa第2連隊第1大隊に砲兵2個中隊を付けていつでも出撃可能とさせると、イルキルシュ、ユルマット(大聖堂の西南西32キロ)、そしてルッツェルホウーゼ(ユルマットの西2.8キロ)にあった諸部隊をムツィグ(大聖堂の西22.5キロ)、オベルネ(同南西23.8キロ)、エルスタン(同南南西19キロ)に前哨隊として差し向けました。
Ba師団の野戦重砲諸中隊は、9月14日以降陣地転換を繰り返しつつ要塞内南部の諸施設、例えばオーステルリッツ門(大聖堂の南南東520m。ホスピタール門の東側)付近の砲兵兵営などを焼夷弾により砲撃して、多少の効果を上げています。
攻囲戦最終段階の9月25日夕刻に仏軍は再び出撃してノイドルフ東の鉄道堤を占拠しますが、これには前線で警戒中のBa擲弾兵第1「親衛(ライブ)」連隊第8、12中隊が反撃して仏軍は要塞内まで追い払われました。この時Ba擲弾兵は付近の仏軍監視哨となっていた家屋多数を焼き払っています。
同じ25日にはライナウ(ケールの北東13.7キロ)に架けられていたライン川軍舟橋が撤去され、上流(南)のプロープスハイム(同南南西13.3キロ)に転送されると架け直されました。翌26日には付近のアルトヴァッサー川(現・アルトライン川。本流の東岸沿いに流れるライン支流)にも橋が仮設され、要塞攻略後に予定される上(南部)アルザス地方への本格侵攻に備えました。
バーデン擲弾兵第1連隊の兵士
☆ 上アルザス地方
この上アルザス(オー=ラン県。独語では「オーバーエルザス」。オー=ランとはライン上流と言う意味)地方では攻囲中に既述通り度々仏軍出現の噂が飛び交い、ヴェルダー将軍はその都度対応を迫られました。
「仏軍が再びアルザス南部に出現し、バート・ベリンゲン(ライン東岸バーデン領。スイス・バーゼルの北19キロ)ではラインを渡河してバーデン領内への進入も見られた」との情報は8月下旬に攻囲軍本営へ届き、ヴェルダー将軍はケール支隊に対し「ブライスガウ地方(バーデン大公国南部、フライブルク周辺)に部隊を派遣せよ」と命じ、31日、Ba第6連隊の2個中隊と竜騎兵1個小隊、野砲4門は鉄道に乗せられブライスガウへ向かいました。ケールには代わりに普予備第1師団からブロンベルク後備大隊の2個中隊と予備竜騎兵第2連隊の一部が送られ、この部隊はローベルゾからラインを渡河してアウエンハイム(ケールの北北東4キロ)からケールに入りました。
Ba軍の「ブライスガウ派遣隊」がミュールハイム(大聖堂の南86キロ)に到着する時(9月1日)、付近のライン川諸橋梁には既に同僚大隊の諸中隊が配属されていました。このBa第6連隊第2大隊は元来ラシュタット要塞(ケールの北東43キロ)守備隊で、攻囲軍に達した同じ仏軍出現情報によりバーデン大公国陸軍省から直接命令を受けて要塞からブライスガウへ急行していたものでした。彼らに因れば、「バート・ベリンゲンに少数の仏護国軍兵が現れ、電信柱を倒し電信線を切断して去った」だけだったものを話に「尾ヒレ」が付いて大騒ぎになった、とのことでした。
このラシュタットから来た大隊はバーデン南部防衛を統括するBa軍のパウエル大佐傘下となり、一時ブライスガウ地方駐留となります。大佐は更に7日、フライブルク駐留のBa第5連隊の補充隊をミュールハイムへ前進させ、Ba軽砲第4補充中隊から砲4門と砲兵を呼び寄せました。
この処置は当時ブライスガウ地方に広がった「仏の義勇兵5千名が南仏リヨンを発ってライン方面へ前進し、ミュルーズで戦争により失業した労働者と合流しバーデン南部へ侵攻しようと企んでいる」との噂によってバーデン南部の住民が酷く動揺していたためでした。
しかしBa野戦軍を指揮下に置くヴェルダー将軍は、ミュールハイムに派遣した本営副官から「仏軍がラインを渡河するとの噂に根拠なし」との報告を受け、従来の命令を変更せず増援を送ることはありませんでした。
ミュールハイムのBa駐在部隊からライン河畔に出ていた警戒巡視隊は、時折対岸に現れる仏軍斥候隊と短い時間銃撃を交わしますが、これらは全て本格的な戦闘に発展することなく終わりました。
同じ頃、バ=ラン県(「ライン下流」。下アルザス)最南端の要塞都市セレスタ(大聖堂の南南西42キロ)を監視するためベンフェルド(大聖堂の南南西26.2キロ)やボオフツハイム(ベンフェルドの南東7.6キロ)に駐在していたBa軍部隊の方は平穏無事に過ごしていました。
8月31日にセレスタ~コルマールを監視するBa師団「南支隊」の騎兵旅団長、男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将はマルコルスハイム(セレスタの南東12.4キロ)周辺で馬匹の糧秣を徴発し、コルマールへの電信線とゲマール(コルマールの北12.6キロ)付近のバーゼル鉄道鉄橋を破壊する目的で歩兵2個大隊、騎兵9個中隊、砲兵2個中隊、工兵1部隊を直率してベンフェルドを発ち、セレスタ要塞を東に迂回してマルコルスハイムに至りました。ラ・ロッシ将軍はこの地で支隊を糧秣収集隊と鉄橋破壊隊とに分け、更に多くの騎兵斥候を放ちます。
これらの部隊は全て無事に任務を終えてベンフェルドへ帰還しましたが、敵から銃砲火を浴びたと報告したのはセレスタ要塞の斜堤に接近した斥候だけでした。
こうして8月下旬から9月上旬に掛けて伝播した「上アルザスで仏軍がラインを渡河する動きがある」との噂は全て誤報だったことが分かりますが、セダン戦の前後で普大本営に達した報告では、「仏国は各地で人民が武装し、大々的な徴募召集と部隊編成が行われている」とのことで、それは上アルザスと下アルザスの独軍非占領地でも同様であるようでした。
9月9日、ヴェルダー将軍は大本営参謀本部からの電信を受電し、攻囲軍の後方、特に上アルザスで武装住民を掃討して武装を解除、解散させるための「鎮圧作戦」を開始するよう命じられます。
攻囲軍本営はBa師団にこれを命じ、師団本部は歩兵4個大隊、騎兵8個中隊半、砲兵3個中隊による支隊編成を「南支隊」長(Ba混成歩兵旅団長)フランツ・アントン・ケラー少将に命じました。
※9日命令による「ケラー支隊」の編成
○Ba第5連隊・第1、2、3大隊
○Ba第6連隊・第3大隊
○Ba竜騎兵「親衛」連隊から2個中隊
○Ba竜騎兵第3連隊から3個中隊
○Ba軽砲第1,2中隊
○Ba騎砲兵中隊
ケラー(バーデン)
「ケラー支隊」には道中他に工兵の一隊と小架橋縦列、そしてバーデン領ミュールハイムに駐在していた「パウエル支隊」から一部隊が加わっています。
ケラー将軍はBa師団本部より「まずはコルマールへ向かい必要ならばミュルーズに前進せよ」と命じられました。ケラー将軍は支隊に参加する諸隊の集合地をベンフェルドとボオフツハイムに指定し準備を整えます。
9月11日朝、ゲルトヴィラー(ベンフェルドの西北西10.4キロ)駐在のBa軍前哨が発した斥候は、ベルナルトシュヴィラー(同北西13.3キロ)付近で200名ほどの義勇兵と護国軍兵の混成部隊に遭遇して損害を受け、念のためゲルトヴィラーから全員撤退しました。周辺の住民が語るには「まだ400名ほどの義勇兵がダンバッハ(=ラ=ヴィレ。同西南西13.5キロ)におり、その後方セレスタ要塞から1万人が進撃中」とのことでした。
この情報を受けたケラー将軍は12日、斥候をベルナルトシュヴィラーとダンバッハに派遣して敵の状況を偵察させ、前者には仏軍の姿を見ず、後者の仏軍はセレスタに去ったことを確認しました。
同じ12日、将軍は後備近衛師団所属・普予備驃騎兵第2連隊の3個中隊も指揮下に編入し、これをストラスブール南方包囲線と支隊との間に置いて、攻囲軍と連絡を保つようにと命じられています。
この時、攻囲軍本営はケラー将軍の南進により包囲線が貧弱となったため、Ba擲弾兵第1「親衛」連隊の第2大隊をそれまでの駐屯地ブロイシュヴィッカースハイム(大聖堂の西11キロ)からガイスポルスハイム(イルキルシュの西南西5キロ)まで南下させました。同じくBa師団包囲線の後方(西側)警戒は今まで通り攻囲軍の騎兵部隊が責任を負って行いました。
翌13日。ケラー将軍は義勇兵や守備隊が籠城すると思われるセレスタ要塞や、攻囲軍との後方連絡線を見張る最低限の部隊を残置*すると諸隊を率いコルマール目指して南進し、本隊はマルコルスハイムへ、前衛(Ba第5連隊第3大隊、Ba竜騎兵第2連隊の大部分)はイェプスハイム(コルマールの北東10.3キロ)とアルツェンハイム(同東北東14.3キロ)へそれぞれ到達しました。
※13日、後方に残ったケラー将軍麾下の部隊
◯Ba第5連隊の一部隊
ラインアウの軍橋警備
◯Ba第6連隊の第9中隊とBa竜騎兵第1連隊の第1中隊
ゲルトヴィラー(ベンフェルドの西北西10.3キロ)
◯Ba第6連隊の第12中隊
セレスタ近郊で予備驃騎兵第2連隊の援助
◯Ba竜騎兵第3連隊の1個中隊
後方連絡線で伝令任務
この13日、同じく上アルザスで仏軍が籠城する要塞都市、ヌフ=ブリザック(独名ノイ=ブライザッハ。コルマールの南東14.5キロ)へ向かったBa竜騎兵第2連隊の斥候隊はその帰路、仏護国軍の猟兵から銃撃を受け、クンハイム(ヌフ=ブリザックの北6.8キロ)付近の森林で戦闘に至りました。この竜騎兵の危機に駆け付けたBa第5連隊第3大隊の前衛中隊は、この森に潜んでいた仏護国軍兵と少時白兵戦となり、短時間の激しい戦いでBa側に下士官兵11名・馬匹19頭、仏側に下士官兵20名の死傷者を出した後、双方友軍の方向へ撤退しています。
9月14日。ケラー支隊の本隊はマルコルスハイムからオルブール(=ヴィヒエ。コルマールの東郊外2.6キロ)を目標に進み、前衛はアルツェンハイムとイェプスハイムからアンドルスハイム(同東南東4.6キロ)へ向かいます。
この時、左翼(南)側警戒のためヌフ=ブリザックへ向かったBa竜騎兵第2連隊の第4中隊とBa第5連隊第3大隊の馬車に乗った一部隊は、午前8時、昨日思わぬ激戦となったクンハイム付近に進むと、部落を守備していた50名ほどの義勇兵を蹴散らし、更にヌフ=ブリザック近郊のビースハイム(ヌフ=ブリザックの北北東2.8キロ)へ接近すると部落から猛銃撃を浴びますが、怯まず突撃を敢行し、およそ250名の守備隊を敗退させました。部落郊外へ廻った竜騎兵の1個小隊は部落の守備隊38名を負傷させ、残りをヌフ=ブリザック要塞とライン河畔のモルティエ分派堡塁(ヌフ=ブリザックの東北東3キロ)方向へ遁走させるのでした。
その後前衛は全く抵抗なくヴィダンソラン(コルマールの東9.2キロ)まで進出しますが、前衛より先行する形となった本隊の方は、その先鋒となったBa第6連隊第10,11中隊がオルブールを越えコルマール東郊のイル川橋梁に達すると、ここには約300名の義勇兵が守備していました。先鋒両中隊は本隊に砲撃を要請し、Ba軽砲第1中隊が砲撃を行うと橋へ突進し、浮き足立つ義勇兵を陣地から追い出すと一気にコルマール市内へ突撃を敢行しました。市内では民衆の抵抗はなく、両中隊は市内を抜けて西郊外まで義勇兵を追撃し、橋と市内にいた義勇兵たちは西側ヴォージュ山脈の麓へ散り散りとなって消えて行ったのでした。
バーデン第6連隊の兵士
この14日、ケラー支隊の本隊はオルブールとコルマール市内で家屋を接収し警戒しつつ宿営しますが、市内は平穏で、市民はおとなしく指示に従っていました。翌日に掛けてBa兵たちは市内と郊外を捜索しますが、ここでも(心の内はともかく)住民からの抵抗はなく、糧食の徴発や武器の押収、公金資産の押収も簡単に終わるのです。
また公金資産と武器の押収と同時に、ミュルーズへ通じる鉄道と電信線の切断・破壊も順調に行われ、役人と住民等への尋問の結果、オルブールとコルマール市内から逃げ去った義勇兵は11日にセレスタ北のベルナルトシュヴィラーで前哨を襲った義勇兵と同じ部隊の者たちで総勢1,500名ほど、全員がパリや南仏リヨンからやって来たアルザス人でない「よそ者」と判明するのでした。
翌15日。ケラー将軍は本隊と共にエンシスハイム(ミュルーズの北12.8キロ)まで前進し、バーデン南部で待機するパウエル大佐はミュールハイムで前進命令を受領し、部下と共にノィエンブルク(=アム=ライン。ミュールハイムの西4.2キロ)でラインを渡河して対岸のシャランペからバンツェンハイム(シャランペの西北西2キロ)へ達します。
16日にはケラー支隊、パウエル支隊共にミュルーズへ進み、「ミュルーズには南仏から前進した1個軍団三万人の仏軍がいる」との噂を笑い飛ばすかのようにケラー将軍らは部隊を市内へ入城させました。
ケラー将軍は市内を捜索させますが、既に仏軍は撤退した後で武器や金品、鉄道の資材なども上アルザス南端*のベルフォール(ミュルーズの西南西37.5キロ)へ送っており、市内にはめぼしい戦利品が残っていませんでした。ケラー将軍は日没までにベルフォールへの鉄道とイル川に架かる橋を破壊させています。
この16日午後、エンシスハイムで頭に血が昇った住民と隠れていた義勇兵による暴動が発生し、居残っていたBa守備隊が襲われますが、速やかにミュルーズから来援した部隊と共に夕方までに鎮圧しています。
※要塞都市ベルフォールは当時(1870年)オー=ラン県に属してアルザス州にありました。普仏戦争の結果、独に編入されそうになりますが、「戦争中に激しい抵抗を示した」ことで結局仏に残留、「テリトワール・ドゥ・ベルフォール」(ベルフォール領土)と名付けられた特殊な地区となり、「仏で最も小さな県」と呼ばれた時期を経て今日に至ります。この経緯詳細は「ベルフォール攻囲戦」で後述とします。
ケラー将軍の「上アルザス遠征」は17日に終了しました。これは同日朝、ミュルーズに達した攻囲軍本営からの帰還命令によるもので、ヴェルダー将軍は上アルザスに現れたという仏軍部隊が「幻」だったことが確認出来たことでケラー将軍とパウエル大佐の任務は完了した、と見なしたのでした。
17日正午。ケラー将軍の部隊は占領地を放棄して一斉に北上を開始します。同じくパウエル大佐の部隊もライン川方面へ後退し、シャランペからラインを渡河してミュールハイムの駐屯陣地へ帰って行ったのでした。
20日、ケラー将軍と部隊はベンフェルドへ帰着し、同じ日にパウエル大佐は命令を受け、その主力だったBa第6連隊第6,7中隊を直率すると、終盤に差し掛かった要塞攻囲に加わるためケールへと進んだのでした。
結局、ケラー支隊の遠征では途上、仏軍が籠城するセレスタ要塞とヌフ=ブリザック要塞周辺以外では目立った組織的抵抗に遭遇しませんでした。しかしこれは上アルザス地方が独軍に恭順だったという訳ではなく、斥候たちは度々銃撃を受けましたが、相手は義勇兵ですらない一般の住民だったと言うことも数多くあったのです。特にヌフ=ブリザック要塞に籠もる護国軍と義勇兵は積極的な指揮官に率いられているのか活動は活発で、攻囲を受けずにいることを良いことに幾度も要塞を飛び出し、北北西に10キロも離れたムンツェンハイムのBa軍駐屯兵を襲撃したりするのでした。
ヴォーバンのヌフ=ブリザック・プラン
☆ ヴォージュ山脈方面と攻囲最終期の包囲線南部
ストラスブールの攻囲が開始された8月中旬以降も、その西側後方ロレーヌ(ヴォージュ県)地方との境界となるヴォージュ山脈方面では組織的抵抗が見られました。
セレスタ要塞とサン=ディエ(=デ=ヴォージュ。セレスタの西37.3キロ)には護国軍の目立った部隊が駐屯し、これに呼応する義勇兵が50から100名ほどの単位で多くの「遊撃隊」を組織し、山地を越えて幾度も山脈の東側山麓や平地へ進入し、独軍前哨や斥候を襲ったのです。特にブリュシュ川(イル支流。サン=ディエ東方ヴォージュ山中を源流にストラスブールの西でイルに合流します)の渓谷一帯は独軍斥候にとって危険極まりない地帯で、これまでも既述通り度々衝突が見られました。9月15日にブリュシュ川上流域を捜索したBa第4連隊の強力な斥候隊は、ロトー(セレスタの北西28.5キロ)付近で護国軍と義勇兵の混成部隊と遭遇しこれを撃破、度々斥候隊と仏護国軍との小競り合いの場となったサン=ブレーズ(=ラ=ロッシュ。サン=ディエの北東20.6キロ)まで追撃するのでした。
ゾールヌ川(サルブールの南側ヴォージュ山中を源流にライン=マルヌ運河と並行してサヴェルヌ~ブリュマトと流れ、アグノー南東方向のロアヴィラーでライン支流のモデ川に合流します)の造る渓谷を抜ける重要なストラスブール~ナンシー鉄道を防衛するため、ヴェルダー将軍は18日、後備近衛擲弾兵第2連隊のデュッセルドルフ後備大隊と予備驃騎兵第2連隊の2個小隊、そして近衛軍団予備軽砲中隊の1個小隊(砲2門)からなる支隊を編成させ、これをデュッセルドルフ後備大隊長のフォン・エーレルン少佐に指揮させてヴォージュ山脈へ派遣しました。
「エーレルン支隊」は任地の攻囲線西方から北西に進んでサヴェルヌへ達し、ここからサルブールへ進むと20日にはブラモン(サルブールの南西22.3キロ)へ至ります。この後方連絡線要地で斥候隊を複数組織して南方のヴォージュ山脈へ放った少佐は、ブレメニル(ブラモンの南南東9キロ)とセル(=シュル=フレンヌ。同南南東16.8キロ)で斥候隊が義勇兵と衝突し少時交戦したとの報告を受けました。
少佐は23日、本格的に強行偵察を謀って歩兵3個中隊をセルへ送ります。するとピエール=ペルセ(セルの北西1.9キロ)から山を越えてセルに迫った部隊は部落前で激しい銃撃を浴び、この部落前に散兵線を敷いていた仏義勇兵の排除には成功するものの、部落に籠っていた護国軍1個大隊と義勇兵2個中隊と対峙する羽目になりました。独軍部隊は大事に至る前に戦闘を切り上げ、バドンヴィエ(セルの北西6.2キロ)まで後退しています。
9月27日にエーレルン支隊は、ロートリンゲン総督府に属するザクセン兵站守備歩兵第1大隊の2個中隊と予備槍騎兵第2連隊の1個小隊によるムルト川(ヴォージュ山脈からナンシーに至るモーゼル支流)上流偵察に同行し、ガラス工芸で有名なバカラ(ブラモンの南南西17.5キロ)を越えてサン=ディエへの前進中、ラオン=レタップ(バカラの南東9キロ)付近で強力な仏護国軍部隊と遭遇し、先に進むのを諦め長時間の銃撃戦を行いますが、大きな損害なく後退することが出来ました。
この「エーレルン支隊」と東側から連絡を取ろうと、9月21日、Ba師団から1個支隊が出発します。ムツィグで編成された支隊は、Ba第4連隊の第2大隊、Ba第5連隊の第6中隊、Ba竜騎兵第3連隊の1個中隊、そしてBa軽砲第4中隊の1個小隊(砲2門)からなる部隊で、Ba第4連隊第2大隊長のヘルト少佐が指揮を執りました。
元よりムツィグに常駐していたBa第5連隊第6中隊は前哨をディンスハイム(=シュル=ブリュシュ。ムツィグの西2.3キロ)の東郊外に出していましたが、22日の早朝、付近のブドウ畑を占拠したおよそ400名の仏義勇兵から猛銃撃を浴びます。前哨の危機に駆け付けた第6中隊は数時間に渡って銃撃戦を行い、最後に突進して義勇兵をブドウ畑から追い出し、義勇兵はフレックブール(ムツィグの北北西4キロ)方面へ退却して行きました。
第6中隊以外の「ヘルト支隊」は急ぎブリュシュ渓谷を上流に向かって進み、エイリジャンベル(同西4.7キロ)で仏義勇兵の別の部隊を退散させると夕方にはシルメック(同西南西18.8キロ)へ到着しました。しかし、ヘルト少佐は翌23日早朝に師団本部から帰還命令を受領し、急ぎムツィグへと引き返すのです。
これは攻囲軍本営に届いた「仏軍はストラスブール解囲のためベルフォールに集合した部隊を北進させた」との情報により、特別任務等で各地に散っていたBa師団を再び集合させることをヴェルダー将軍が命じたためでした。
この集合命令により、Ba第1旅団は要塞南方攻囲線の守備、同第3旅団は北部対壕とケーニヒスホーフェン周辺の砲台守備が命じられます。残った師団戦力は、万が一南方より仏軍の強力な部隊が攻撃を仕掛けて来た場合に備え、ロスハイム(ムツィグの南南東4.8キロ)~ニエデルネ(ロスハイムの南南東6.2キロ)~エルスタン(ニエデルネの東南東11.2キロ)の線に布陣するのでした。
9月25日にはこの「南部阻止線」から一支隊をエバースハイム(セレスタの北北東6キロ)へ進出させ、この部隊はセレスタ要塞と西側ヴォージュ山脈へ斥候を放ち警戒しました。
攻囲軍本営はBa師団を援助するためムツィグ~アンジャンビートン(大聖堂の西南西10.4キロ)間に軍の予備となっていた普軍部隊を集合させました。しかし先の仏軍進撃情報はまたしても誤報と分かり、これらの処置は全て無駄に終わるのです。
バーデン竜騎兵第2連隊の騎兵
※Ba師団と同師団援助普軍部隊の序列(9月25日)
○Ba「混成」第1旅団
旅団長 男爵アルフレッド・エミール・ルートヴィヒ・フィリップ・フォン・デーゲンフェルト少将
・Ba擲弾兵第1「親衛」連隊
・Ba歩兵第6連隊・フュージリア大隊
・Ba竜騎兵第3「カール親王」連隊の2個中隊
・Ba師団砲兵隊の3個(軽砲第2、重砲第1,2)中隊
○Ba「混成」第3旅団
旅団長 フランツ・アントン・ケラー少将
・Ba歩兵第3連隊
・Ba歩兵第4連隊
・Ba歩兵第5連隊
・Ba竜騎兵第3連隊の1個中隊
・Ba予備砲兵隊の4個(軽砲第3,4、重砲第3,4)中隊
○南部阻止線(ロスハイム~ニエデルネ~エルスタン)支隊
支隊長 男爵フォン・ラ・ロッシ=スタルケンフェルス=ヴェルツェ少将
・Ba擲弾兵第2連隊
・Ba竜騎兵第1「親衛」連隊
・Ba竜騎兵第2「マルクグラーフ・マクシミリアン」連隊
・Ba軽砲第1中隊
・Ba騎砲兵中隊
○ムツィグ~アンジャンビートンの普軍混成支隊
支隊長 クルーグ・フォン・ニッダ少将(予備騎兵第1旅団長)
・後備近衛擲弾兵第1連隊
・予備竜騎兵第2連隊
・予備驃騎兵第2連隊
・後備近衛師団混成砲兵大隊と予備第1師団砲兵から抽出した7個砲兵中隊
※その他「ケール支隊」「バーデン南部支隊」など特別任務部隊有




