ストラスブール攻囲戦(後)/第3平行壕と攻囲東部の状況
第2平行壕の完成を見た9月9日頃、ムンドルスハイム在の独ストラスブール攻囲軍本営は、要塞北西端前進堡塁の第53と第55眼鏡堡前面となる斜堤直下に第3平行壕を掘削し、これら前進堡を攻略後、その後方の要塞第11と第12稜堡に砲撃による破口を開き同時突撃を敢行することを決します。
この正攻法最終段階となる作業を容易くするため、攻囲軍は要塞の外濠に満ちている水を排水するよう計画し、既に9月初頭の数日間に渡ってストラスブールの遙か南側で、ライン=ローヌ運河やラアン・トルテュ川、イル川、そしてシュワルウヴァセエ川(独名シュヴァルツヴァッサー。ラアン・トルテュ川支流。「ヴァセエ」はウォーター・水の意)の上流域において阻塞や土手を複数箇所で切壊して排水作業を行いました。これら水流の減少は要塞南部に広がっていた広大な氾濫地域の水を減少させる効果を上げ、氾濫地域の一部では地表が覗くようになります。
上流からの水流を減少させると、攻囲軍は「本題」となる下流(北)側の排水をもくろみ、9月9日には第33号砲台がユーデン門とフィッシャー門(要塞北東正面でイル川が要塞に入る西側と東側にありました)の間、イル河畔にある第63半月堡裏の濠水門(重要な内濠の閘門です)を狙って砲撃を行い、部分破壊に成功しました。しかし、この水門は強力な15センチカノン砲がある最も近い第33砲台からでも2キロ離れており、また独軍の支配領域からは全く見通すことが出来なかったため破壊は十分ではなく、独軍が期待したほどの効果は現れませんでした。
効果が大きかったのは、この頃ヴァッケン島とヤルス島を担当していたフュージリア第34「ポンメルン」連隊が行った破壊工作です。
同連隊の前衛は、9月15と16日の両日、仏防衛隊が懸命に阻止しようと行う猛銃撃を冒し、要塞外濠に通じる水門橋(コンタッド築堤東の突角前にありました)に接近します。幾度かの失敗の後、ポンメルン兵は橋に取り付けられた堰水調節装置を破壊する事に成功し、第52眼鏡堡からコンタッド築堤(第57堡)までの外濠の水は少しずつ排水されて行きました。
要塞斜堤には仏軍により坑道地雷(感圧起爆・携行式のあの「地雷」ではなく、爆薬を斜堤に開けた坑道に詰めて安全地帯から導火線や起爆装置で爆破する方式です)が設置されていることも考えられました。攻囲軍工兵本部は第6軍団要塞工兵第1中隊長のレデブール大尉に坑道地雷の有無を確認するよう命じ、9月8日の夜間、大尉は第3平行壕掘削予定地前面の斜堤を偵察しました。その結果、第53眼鏡堡付近に地雷の坑道を発見しますが、既に仏軍はこの坑道付近から撤退していることも確認されます。レデブール大尉は翌9日夜に再び少人数の部下を伴って同地を訪れ、ロープを伝って斜堤下の外濠へ降りると、その壁に開いた横穴に侵入し、詰め込まれていた危険な起爆装薬を撤去し坑道地雷を無効化するのでした。
大尉ら工兵隊は第3平行壕完成後の14日、平行壕から縦穴を掘って地雷の坑道へ貫通させ、ここから坑道に残っていた大量の爆薬を運び出すのです。
レデブール
9月9日午後6時。4個大隊に増加した対壕護衛隊は二本の平行壕に展開し、その右翼端の部隊は危険な第44眼鏡堡を監視(実は前日8日に銃砲撃機能を喪失しています)しました。対壕の衛兵が警戒する中、工兵が前進し第3平行壕の掘削準備作業が開始されます。
この9日夜には第2平行壕から3本の攻路対壕が掘削されましたが、中央の対壕は要塞から猛銃撃を受けて損害が続出し、工兵や補助の歩兵たちは10日の日中も必死で掘った土を積み上げ掩蔽を高く設えました*。しかし10日夜に入ると仏防衛軍の銃撃は静まり、急ぎ仮設の対壕を掘って前進した工兵は、歩兵の助力を借りつつ作業を着々と進め、11日夜には対壕の改良と拡張を完成し、要塞の斜堤下に達した攻囲軍工兵は第3平行壕の掘削を実施する事が出来たのです。
この11日夜には中央攻路の東におよそ550mの平行壕を掘ることが出来、その最左翼(東側)で地下水が湧き出たため東側部分を規定より浅く広く掘り進めました。この左翼部分では要塞の第55眼鏡堡から銃撃を浴びせることが出来たため、新たに横壕を掘って胸郭を造りこれで通行を援護しています。
※この、敵に姿を晒したまま対壕掘削作業を実施しなくてはならない時には、壕の前端に土を盛り上げ(これを「頭掩体」と言います)、側面にも土を盛り上げて(同じく「側掩体」)遮蔽を設けた後に作業を行いました。この掩体が一方の側にだけあるものを旧軍は「轅土(えんど)単対壕」と呼び、両側にあるものを「轅土重対壕」と呼びました。この項では以降「轅土」を略して「単対壕」「重対壕」と呼称します。
翌12日の夜。中央と西の攻路間に幅1.5mの交通壕を掘削し平行壕中央から第53眼鏡堡前の斜堤へ届く長さ160m、幅1.4mの「半」平行壕が掘削されました。しかし、第52眼鏡堡へ向かって対壕を掘削する作業は、月夜のために要塞塁壁から銃撃が間断なく浴びせられたため断念するしかありませんでした。
攻囲軍にとっては、このように正面の厚い第52、53眼鏡堡ら前進堡を破った後に要塞本郭(第11稜堡)へ向かわずとも、左翼(東)側から大きく正面を晒していた第52と第54眼鏡堡の中間斜堤(スタイン門へ続く道があります)に対壕を開けて第12稜堡へ向かった方が理に適っているようにも思われますが、メルテンス将軍等はこの方法を却下しました。
これには立派な理由があり、これまでもそうであったように左翼(東)側は一雨来れば対壕という対壕が全て冠水してしまってその都度人員を割かれること、第12稜堡の前面は広く開けて要塞本郭と左右前進堡からの射界が開けており、この部分を辿ることに決すれば十字砲火に耐えながら重対壕を長く細かくジクザグに折って造らねばならず、却って時間が掛かることが懸念され、また、第12稜堡に辿り着いてもその先は厳重に防御施設が巡らされていたため激戦が予測されたからでした。
この状況から攻囲軍本営では、正攻法の「終着」として第52と第53の両眼鏡堡を抜いた後、第11稜堡で要塞本郭に達することに決します。この際に左翼(東)側の第54眼鏡堡や第12稜堡から攻路側面に銃砲火を浴びせられる点については、これらの堡塁を攻城砲兵隊が「黙らせる」ことに決まりました。
9月13日夜。工兵と歩兵の作業隊は重対壕を構築しつつ第52、53眼鏡堡の凸部に向かってじっくりと、しかし確実に進み始めました。
斜堤を登りつつ掘り進められた重対壕が斜堤頂点の両眼鏡堡凸部直下に達すると、工兵たちは更に深く掩蔽壕を掘ってこれを左右に広げつつ冠塞(クラウンワーク。王冠型の堡塁や掩蔽)状に突撃陣地を構築し始めるのでした。
この作業は夜間、攻囲軍攻城砲兵が榴散弾や霞弾で堡塁を攻撃している最中に行われ、最初の数日間で左右別々に構築された掩蔽が連結されて重対壕が拡張され、その中間にあり内濠外に突出していた第53a堡塁はたちまち独軍の手に落ちました。
右翼(西)側では第53眼鏡堡に延びた掩蔽壕が凸角外壁を包囲し、左翼(東)側では第52と第54の眼鏡堡中間にあるスタイン門外の軍隊集合場にも掩蔽壕が延伸されました。
9月18日には斜堤頂上の「冠塞」が殆ど完成し、その下の「半」平行壕は両翼へ、第3平行壕は右翼側へとそれぞれ延伸され、この両平行壕の間には掩蔽された交通壕(単対壕)が新設されました。
工兵が最終段階に向け危険で難しい工事を行っている間に、攻城砲兵も砲台の前進と増設を行っています。
サン・テレーヌ墓地の北西側にあった第7と第8号の臼砲砲台は「墓地の通路」へと前進し、第7a、第8a号と名付けられました。臼砲砲台の前進は炸裂擲弾の発射装薬を(目標までの射程が縮まったことで)減じて節約する効果もあります。
頑丈な石積と堅焼煉瓦、そしてベトン(コンクリート)から成る前進堡と稜堡を破壊するため、第2平行壕とその前方に臼砲台が増設され、それぞれ第45号(15センチ滑腔臼砲x4)、第46号(23センチ臼砲x6)、第47号(15センチ滑腔臼砲x10)、第48号(15センチ滑腔臼砲x6)砲台と名付けられました。またクローネンブルク北方にあった第5号砲台が第2平行壕右翼端にあった第37号砲台左隣に前進して第5a号(28センチ臼砲x3)砲台と名付けられ、同時に第2平行壕左翼端にあった第36号砲台は、備砲だった15センチ滑腔臼砲を最前線の新造砲台に譲渡し、代わりに23センチ臼砲2門を受け取ります。
ストラスブール攻囲軍の臼砲台
前進した各砲台と最前線の新造砲台が運用を始めると、その効果は絶大で仏軍の反撃も少なかったため、攻撃正面から離れている右翼(西)側の各砲台も前進することになりました。
第17a、第19a、第21a号の三砲台は備砲のカノン砲の効果を高めるため要塞に接近し、それぞれ第17b、第19b、第21b号と名称を改めました。
同時にカノン砲台も増設され、シルティカイム南端に第41号(9センチカノン砲x4)、「墓地の通路」後方には第42号(15センチ短カノン砲x6)、アル河畔の第1平行壕前でヴァッケン島西の「橋頭堡」前に第43号(15センチカノン砲x8)、第3平行壕へ通じる西側交通壕には第44号(9センチカノン砲x6)が、それぞれ設置されます。
ヴァッケン島の攻城砲台(第43号砲台)
前線にカノン砲24門、臼砲29門を増設し一気に攻撃力を増した攻城砲兵隊でしたが、既に工兵の作業は前進堡の攻略段階となっており、味方への誤射を防ぎつつ正面の堡塁を砲撃するには、左右両翼端の諸砲台からしか砲撃が出来ないことが多くなります。味方の頭越しに前線を越えて砲撃しなくてはならない第1平行壕付近正面にある各砲台は、射程を延ばして要塞の本郭に目標を転換し砲撃を行っています。また、夜間に使用していた榴散弾は斜堤に掘削作業が移った時点で味方の人員と対壕施設に損害を与えぬため、一切使用が禁止されました。
砲台の前進と共に予備第1連隊の台装銃隊も前進を始め、工兵の作業に従って順次陣地を進めると、最終的には第3平行壕から斜堤頂上の冠塞に入りました。
これにより仏防衛隊の前進堡や稜堡を守備していた兵士たちが腕自慢の普軍狙撃兵に狙われる危険が増し、自然と昼間は胸郭内に籠もり夜間のみ活動することが増えて行きました。
増強された攻囲軍砲台の威力で、9月も半ばとなると要塞北部の仏軍は火力を用いることが困難となります。また、市内の被害も格段に上がり、北西部市街地では被災していない建物はほとんど見られなくなり惨状は目を覆うばかりになりました。
この間、ライン東岸ケールのBa軍砲台も活発に活動しており、9月15日には「城塞」の備蓄弾薬が引火して大爆発を起こし、16日夜の砲撃では陸軍裁判所と付近の教会が焼失、17日には砲兵工廠の倉庫が、20日には新知事が就任した直後(後述)のバ=ラン県庁がそれぞれ焼け落ちました。当然ながら続く砲撃と甚大な被害は一般市民の気力を殺いで行き、火災と惨状を目の当たりにして絶望し病人同然となる者も少なくありませんでした。
燃える県庁と消防隊
☆ 要塞北東~東部方面の戦況
9月2日明け方の「ブロ大佐攻勢」直前にヤルス島へ進出していた普第30「ライン第4」連隊に対し、仏軍防衛隊は3日以降も雑木林となっている島の南端に鹿砦と散兵壕を築いて踏み留まり、その南側コンタッド築堤内北東端にある数軒の農家にも拠点を設けて要塞とを結ぶ通行路もしっかり築くと、これ以上の進出は許すまいとの決意を秘めて対峙しました。
仏軍はこれらの拠点からヤルス島の前哨に対し頻繁に銃撃を加え、夜間には騒擾攻撃を繰り返して普軍兵士を悩ませ続けていたのです。
攻囲軍本営はこの状況の報告を受けると、アル川両岸に跨がる第30連隊の前衛を5個中隊に増やすことを許可し、また左岸(西)側の防御態勢を強化させました。ヴァッケン島北西端にあった「なめし皮工場」付近の仮設舟橋は徒渉専用から馬車が通れる本格的な橋に架け変えられ、第1平行壕からヴァッケン島への橋頭堡と化している第43号砲台への交通壕は橋を守る散兵壕となりました。
更に攻囲軍は燃え尽きた獣皮工場(なめし皮工場の南側)付近に肩墻を設けようと考えていましたが、この地域は攻囲当初から仏軍要塞砲の目標とされており、工兵が作業を始めるとすかさず砲撃を浴びたため、無駄な犠牲を増やさないため工事は中止されました。
ヤルス島南端の仏軍拠点に対抗するのは、ヤルス島の部隊「直協」専門とされた第38号砲台(9センチカノンx4)に、ヴァッケン島に隠されて仏軍の隙を突きながら砲撃を繰り返していた予備第1師団に属する2、3門の野砲でしたが、効果は余り芳しいものではありませんでした。これらの大砲はコンタッド北東角の「農家群」を焼き払おうと砲撃しますが、これも続く雨天のために完遂出来ませんでした。
結局攻囲軍はヤルス島ではこれ以上南下して地域を占領することが出来ず、これを行うためには本格的な全面攻撃を仕掛けて要塞の守備兵を他の地点に釘付けにするしか手はなかったのです。
ポンメルンの後備兵部隊と交代してローベルゾ地区(ヴァッケン島の東、ライン川までの地域)に進出していたフュージリア第34連隊の第3中隊は、12日になってヤルス=ローベルゾ間の小さな中州の一つに進出し、ここに陣地を設けました。
しかし同じ12日、ヤルス島の西側を造るアル支流が蛇行湾曲する部分にある家屋群に籠もっていた普軍前哨は、連日激しい銃撃を受け続けたためこれ以上留まることが不可能となり、この拠点を放棄するしかなくなるのでした。
9月19日には、混成砲兵第2大隊の3個中隊が前線に進出し、第38号砲台と共同でコンタッド「農家群」を砲撃し、一部を破壊することに成功します。しかしこの時には既に要塞への正攻法が佳境に入っており、要塞側もそちらに気を取られていたのか、以降、ヤルス島方面では時折仏防衛隊の斥候隊が嫌がらせの攻撃を仕掛けるのみで、開城まで大きな戦闘は発生しませんでした。
一方、その東側のローベルゾ地区では、度々仏防衛隊の小部隊が進出し、独攻囲軍前哨を脅かしていました。
攻囲当初はこの荒涼とした地区から南側のオランジュリー(オレンジ農園)地区へ斥候を派遣するに留めていた独軍でしたが、全体の攻囲計画ではオランジュリーを占領し要塞の北東部に圧力を掛けることとなっていたため、攻囲軍は度々仏軍の出撃拠点となったフィッシャー=アレイ(フィッシャー門へ続く並木が目立つ幅員の大きな公園道路)とその西側にある仏前哨がたて籠もる一軒農家を焼き払うことにします。しかしこの計画もヤルス島での「不完全燃焼な結果」と同じく仏軍の抵抗に遭い上手く行きませんでした。
ローベルゾとヴァッケン島との間にはイル川が流れますが、攻囲軍工兵はここに仮橋を架けるとフィッシャー公園道北端付近のライン~イル運河他にも小さな徒渉橋を架け、オランジュリーとローベルゾとの間の通行を保障します。
この時、ローベルゾ地区の担当となった第30連隊の2個(第3,4)中隊は、これらの橋が完成した直後の11日、運河を渡って僅かな損害だけでオランジュリー島北部の仏軍を追い出し、オレンジ園周辺を確保しました。両中隊は直ちにライン~イル運河からイル川に掛けて散兵壕を掘り、陣地の強化を開始します。予備第1師団砲兵の野戦重砲中隊はオレンジ園北縁付近に進出するとコンタッドの北東端を目標に砲撃を行い、「農家群」に損害を与えました。
オランジェリーとヴァッケン島の独軍前哨間に連絡を通した前哨部隊は、それ以前にローベルゾとシュポレン島(ストラスブールの東、セーヌ本流国境の川中島)間に連絡を通すようヴェルダー将軍に命令されていました。
9月4日に第30連隊のF大隊2個中隊はその一部がライン~イル運河のライン河口側、オランジュリー島北東先端に渡り、そこにあった河口監視の「デュクロ堡塁」(現在は廃墟として跡が残っています。当時は仏軍が撤退し無人でした)を占領し守備していましたが、命令を受けたF大隊の2個中隊はこの堡塁の援護下で運河に舟橋を架けて橋頭堡を強化していました。ここを拠点にシュポレン島へ渡った斥候は、ケールからストラスブールへの街道(現存せず)と国際鉄道線の北には一切敵がいないことを確認するのでした。
ライン右岸(河川の上流から下流を見て右、左となります。ここでは東岸)、ケール部落前面に砲台を構築していたBa軍攻城砲兵も攻囲が進むと増員し、更に要塞へ接近しました。
ケール北部のカノン砲台
8月末に12センチカノン砲8門がケール(以下Kとします)第2号砲台に追加され、この砲台に備えてあった15センチカノン砲4門はK第3号砲台に移動増加されます。最も北に設置されていたK第1号砲台の両側に肩墻を増設、ケール南郊外のエアレンヴェルトにあったK第6号砲台の西側河畔に新砲台を構築し、9月15日までに12センチカノン8門を備えてK第7号砲台と名付けました。また、ライン川沿いの低地から城壁を備えたストラスブール市内が見渡せなかったため、観測所としてケール部落内の教会尖塔上に展望所を設置し、ここから電信を使用して各砲台に砲撃の効果を知らせていました。
9月2日以降、川を挟んでケールに対面するシュポレン島の仏軍は姿を消します。ここを目標としていたK第1号臼砲砲台は砲撃を中止しました。この頃のK諸砲台48門はストラスブール東部に構える「城塞」の西側隣接地域を主目標に定め、「城塞」を孤立させていました。
9月14日以降は各砲台とも臼砲と同じ焼夷擲弾を使用して市街地を焼き払い、市内東部の住民も北西部同様焼け出される者が続出するのでした。
この頃になると仏軍は要塞砲弾・爆薬が底を突き始め、応射の間隔が開き、榴弾に炸薬を詰めず空弾で発射することもありました。
独攻囲軍の砲台
ヴェルダー将軍は、ライン左(西)岸の最右翼部隊と同じく、ケールのBa軍部隊にもシュポレン島に進むよう命じます。
この命令を受けて9月13日の夜間、ケール在のBa第6連隊の2個中隊は工兵の指導する作業隊を引き連れてラインを渡河し、国際鉄道の堤に防御施設を造りライン本流と平行する支流に架かる街道橋(大聖堂の東2.3キロ、現グラン・ポン通りの橋梁付近に架かっていました)を封鎖すると、右翼北側は川中島北端に進出した前述西岸攻囲軍の最右翼警戒部隊前哨と連絡を通し、左翼南側はライン西岸のBa軍南支隊最右翼(東)前哨と連絡しました。
要塞南西部の仏防衛隊は、最初シュポレン島での独軍の動きに対し全く反応しませんでした。しかし15日の払暁時(午前3時頃)、突然要塞の砲兵はシュポレン島に対して猛烈な砲撃を開始し、あらゆる種類の砲弾(攻撃に適した榴弾が残り少なくなったのでしょう)が川中島のBa軍将兵の上に降り注いだのでした。午前3時30分、封鎖されていた街道橋に仏軍の歩兵2個中隊が現れ、島に向かって突進して来ます。ここで警戒していたBa軍の前哨は鉄道堤の陣地まで後退し、堤ではBa第6連隊の第3中隊が殺到する仏軍に向かって銃撃を開始しました。
仏軍はこの鉄道堤に突撃を敢行しようと接近しましたが、この時、北からシュテンダール後備大隊の第3中隊が仏軍左翼を奇襲するのです。
ローベルゾ在の警戒部隊(この時はポンメルン後備混成歩兵第3「第26/第61」連隊)所属で、この夜シュポレン島北端で警戒任務に就いていたエーニッケ大尉は、南側から銃声を聞くと直ちに部下全員を引き連れて来援したのでした。
この突然の攻撃で仏軍2個中隊は浮き足立ち、錯乱した仏将兵は街道橋に引き返して退却しました。Ba軍前哨たちは普後備兵の時機に適った助太刀に感謝すると、再び橋に戻って封鎖警戒任務に就いたのです。
このこともあり、ケールではシュポレン島の部隊が退却する場合を考えてライン本流に架かっていた爆破済みの国際鉄道鉄橋前に堡塁を構築し、万が一に備えました。同時に橋北東側のK第4号砲台付近に設えた肩墻に、この橋頭堡を側面援護するための設備を整えました。
シュポレン島は9月17日に今一度仏軍の反攻を受けますが、Ba軍前哨がこれを防いだ後は目立つ小競り合いもなくなります。この後の数日間、島は「城塞」から五月雨的に砲撃を受けていましたが、これもK諸砲台が21日に一斉砲撃を仕掛けて要塞東部の仏軍砲兵に打撃を与えた後は、仏軍による砲撃は顕著な減少を見ることとなります。
ストラスブール要塞堡塁上の要塞砲と海軍砲兵
☆ スイスからの来訪者たち
ウーリッシ将軍は「セダンの大敗」を市民から隠し通そうと考え、しばらくは「噂」段階で留めることに成功しましたが、それも「ばれる」時が来ます。
永世中立国スイスは、国境を接する独仏の戦争を油断なく見守っていましたが、赤十字の本家だけあって人道に基づく傷病者と罪なき住民の救済にも熱心に取り組み始めていました。
9月10日、スイスからの使節団がヴェルダー将軍の下に現れ、ストラスブールで家を失った婦女子老人を救済したいと申し出ます。ヴェルダー将軍も仏のプロパガンダによって「罪なき婦女子を無差別砲撃で虐殺」との汚名を着せられつつあり、使節団に対し頑固なウーリッシとの交渉を許可しました。
赤十字と白旗を翻してストラスブール要塞都市へ入城したスイス使節団はウーリッシ将軍と直接交渉を行い、その結果、婦女子と児童、老人に限り自由に街を出て良いこととなり、11日を初めとして許された住民2,000名強は順次街を去りました。
しかしこの許可は後に激怒したヴェルダー将軍により取り消されます。何故ならば許されて街を出てスイスのバーゼルへ待避した者の中に、南部アルザスで独軍への抵抗運動を呼びかける者があったため(檄文の類が押収されたものと思われます)でした。
市内へ入城したスイス使節団
スイスの使節団がもたらしたのは良いことばかりでなく、彼らの口や持ち込んだ新聞各紙から「悪い情報」もまた市内へ入って来ました。
「セダンの大敗と皇帝捕虜」の噂はこれで本物だと分かり、共和国宣言がパリ市庁舎で行われ、国防政府が立ち上がっていることも知れ渡ります(ウーリッシ将軍は当然9月上旬にはパリ発の電信で知っていたものと思われます)。
市民や共和派市会議員に有力者がウーリッシ将軍の本営に押し掛け、圧された将軍は仕方なしに共和制の宣言を許します。結果共和派の弁護士キュスが市長となり、共和派はボナパルト派の知事、市長と役人、義勇兵部隊指揮官の職務を剥奪しました。しかし、ウーリッシ将軍は政権に関係なく「籠城する要塞都市の防衛指揮官」としての職務を全うすることを宣し、市内の軍事・治安警察権に防衛隊の指揮権は変わらずウーリッシ将軍が掌握するのでした。
婦女子の大部分が去った12日から一層激しい砲撃が続き、前進堡も陥落寸前となったことで、18日、我慢出来なくなった市民たちは徒党を組んで市長と共にウーリッシを訪れ、開城の交渉を行うよう再び強要しました。しかし頑固なウーリッシは再びこれを拒絶して、逆に市民たちを脅して解散させるのです。
スイス使節団に伴われオーステルリッツ門から市外へ出る婦女子たち
この険悪な雰囲気の中、一人の男が独攻囲軍の前線を越えて市内にやって来ました。
ストラスブール出身の元官吏で、51年12月の革命により帝政政府に逮捕され英国に亡命、70年5月の恩赦でフランスへ戻った共和左派のマリー・エドモン・ヴァランタン(当時47歳)は、9月の政変でパリ国防政府からバ=ラン県知事に任命されていました。
ヴァランタンは包囲された県都で故郷のストラスブールに「何としてでも赴任しよう」と決心し、独軍が未だ本格進出していない南アルザスから北上して、一端バーデン領内に入ってから密かにラインを渡って市内に入るか、氾濫地域を越えて攻囲軍の少ない南から市内に入ろうと考えました。しかし、このどちらも試みる傍から困難なことが判明し、独軍の目を盗んで市の郊外から前線の隙間は無いものか観察し機会を窺っていましたが、19日になって市北部からの観察中、前線の攻囲軍部隊が糧食の補給と休息を行っているのを発見、前哨の隙を突き第1平行壕を突破したヴァランタンは、その先の警戒兵に発見され銃撃を浴びますが、直ぐ脇を流れるアル川に飛び込んで難を逃れ、川を泳いで第56眼鏡堡前の濠に入り、今度は仏軍からも銃撃を浴びたものの無事城内に入ったのです。
この命がけの就任はたちまち市民の間で噂となり、翌日は灰燼に帰す運命にあった県庁舎で就任の挨拶をしたヴァランタン知事は、国防政府の標語をなぞって「戦闘は我死して後に止む」との決意を表明したことで、市民の消えかけた闘志は再び火が点き、攻囲戦は最終段階を迎えるのでした。
ヴァランタン




