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プロシア参謀本部~モルトケの功罪  作者: 小田中 慎
普仏戦争・パリ包囲とストラスブール陥落
336/534

ストラスブール攻囲戦(後)/正攻法開始・第1平行壕の完成

 独軍のストラスブール攻囲軍司令官、普軍中将のカール・フリードリヒ・ヴィルヘルム・レオポルト・アウグスト・フォン・ヴェルダー伯爵は、1870年8月26日、砲撃と並行してストラスブール要塞都市に対する「正攻法」攻撃を行うことを決します。


 要塞への「正攻法」、即ち堡塁上から銃砲で直射させぬようジグザグに「壕」を掘り進めて要塞へ接近し、充分近寄ったならばそこから歩兵を突撃させ、稜堡を陥落させるという、稜堡式要塞を攻撃する際に採られる作戦の「王道」ですが、その実施には多大の労力と資材を要し、正面からの強襲ほどではないにせよ、それなりの犠牲も覚悟しなければならない「一大作戦」です。

 この普仏戦争では多くの要塞攻囲戦が発生しましたが正攻法による攻略は少なく、多くは攻城砲による砲撃で白旗を待つか、包囲して相手が飢餓に陥るか我慢出来ずに出撃するのかを待つ持久戦でした。ストラスブール攻囲戦でも一度は砲撃主体の攻撃方針となりますが、既述通りメッス包囲とセダン攻撃(8月下旬時点。皇帝降伏後はパリ包囲)が同時進行となることで「資源節約」と「時短」を迫られたヴェルダー将軍は「正攻法」と「砲撃」を同時進行で行うことを決心したのでした。

 ヴェルダー将軍はこの方針を翌27日に普大本営へ通告した後、正攻法の第一手である第1平行壕の掘削を29日から30日に掛けての夜間に行うこととしました。


 この第1平行壕は、要塞の衛星市街シルティカイム部落(大聖堂の北2.6キロ周辺)の東側を流れるイルの川中島・ヴァッケン島北のライン~マルヌ運河畔を起点に、シルティカイム南郊外を抜けてサン・テレーヌ墓地(大聖堂の北北西2キロ)の北側を通り、市西郊外の貨物停車場北でパリへの国際鉄道線路(墓地から1キロほど西)に達するというもので、攻囲軍は翌9月1日に貨物停車場の北からケーニヒスホーヘン(大聖堂の西2.8キロ)のユーデンキルヒホーフ墓地近くまで掘り進めようと計画したのでした。


挿絵(By みてみん)

ストラスブール北西郊外から市街地を見る


 この大掛かりな土木工事の準備は大急ぎで行われ、ムンドルスハイム(大聖堂の北北西7.2キロ)東側丘陵の麓に設えた掩蔽に攻城砲兵のための土木工具や建設資材の集積場が作られ、対壕(平行壕や攻路塹壕等、要塞に迫るように掘り進む塹壕の総称)を掘削する作業用の工具はビシュハイム(大聖堂の北3.6キロ)とゾウフェルヴァイヤースハイム(同北6キロ)の倉庫に集積され、ライン川対岸ケール(同東4.7キロ)諸砲台への補給は、バーデン領コルク(同東9キロ)のバーデン軍砲廠とノイニュール(ケールの東2キロ)付近に作られた臨時弾薬廠が行い、要塞北・西部から砲撃を行う攻城砲部隊の世話をする砲廠はフェンデンハイム(大聖堂の北10.3キロ)に置かれました。


※8月下旬~9月上旬までに独攻囲軍砲廠に備蓄された大砲と弾薬、材料


〇フェンデンハイム砲廠

◇大砲

*カノン砲(212門)

・15センチカノン長(砲身)砲x60門 ・15センチカノン短(砲身)砲x12門 ・12センチカノン砲x100門 ・9センチカノン砲x40門

*臼砲(81門)

・28センチ臼砲x16門 ・23センチ臼砲x23門 ・21センチ臼砲x2門 ・15センチ臼砲x40門

*その他

・28センチ臼砲砲身x7本 ・23センチ臼砲砲身x2本 ・予備の砲架及び砲車81輌

◇弾薬

*カノン砲用

・15センチカノン榴弾x57,972 ・15センチカノン長榴弾(通常榴弾より射程の長い砲弾)x5,955 ・15センチカノン貫弾(初期のベトン貫通弾)x3,594 ・12センチカノン榴弾x100,000 ・9センチカノン榴弾x40,000 ・15センチカノン榴散弾x10,002 ・12センチカノン榴散弾x16,000 ・9センチカノン榴散弾x6,000 ・9センチカノン霞弾x1,000

*臼砲用

・28センチ臼砲炸裂弾x19,800 ・23センチ臼砲炸裂弾x25,677 ・21センチ臼砲長榴弾x825 ・15センチ臼砲炸裂弾x33,579

〇コルク砲廠(大砲のみ)

*カノン砲(48門)

・15センチカノン砲x24門 ・12センチカノン砲x24門

*臼砲(18門)

・30センチ臼砲x8門 ・23センチ臼砲x10門

*その他

・15センチカノン砲砲身x5本

 ※ケール付近の諸砲台への弾薬補給はノイニュールの弾薬廠が担い、この弾薬厰への補給はラシュタット、ウルム両要塞とフェンデンハイム砲廠から行われました。


 独攻囲軍はまた、普後備近衛師団を除く各大隊から優秀な射撃手を選抜し、中隊規模の2個「台装銃隊」を編成します。これは万が一要塞より仏軍が出撃した場合などに砲列や対壕を護るための配備でした。


※攻囲軍の台装銃隊


○予備第1師団台装銃隊

 士官2名・下士官兵222名、ドライゼ式台装銃装備

○バーデン大公国(以下、Ba)師団台装銃隊

 士官2名・下士官兵197名、ミニエー式台装銃装備


挿絵(By みてみん)

サン・テレーヌ墓地の争奪(8月18日)


 攻囲軍は既に8月24日までには正攻法に必要となる木材の調達や付近の樹木伐採を終えており、壕の掘削に必要な土木工具等を準備した後、工兵士官が歩兵たちに対壕掘削作業の手順を説明し作業の訓練を開始しました。

 また、27日の夕刻には、目標地点の詳細な観察と最初の接近作業に必要となる掩蔽(土堤)の構築を安全に行うため、ケーニヒスホーヘンからアル川(シルティカイムの東側にあるヴァッケン島の西側を流れ要塞の西へ至るイル川支流)までの前哨線を一気に数十から数百m先へと進めます。

 この時、独軍前哨たちは仏軍の監視を盗んで平均して斜堤まで300mへ接近しました。特にスタイン門付近では仏軍歩哨や斥候もいなかったため、要塞斜堤に到達しています。ただし、クローネンブルク(大聖堂の西北西2.8キロ)付近では、折からの雨でも消火しないストラスブール市街の激しい火災のため、その熱風が吹き付けてとても接近出来る状況ではありませんでした。

 この夜、工兵たちは大雨の中、急ぎ各所に掩蔽壕を完成させ、護衛の前哨は夜明け前に各隊とも無事元の前哨線まで引き上げています。


 仏軍守備隊は砲撃が始まった後の数日間、まったく出撃することはありませんでしたが、28日の午前10時頃、突然要塞より激しい銃砲火を独軍前哨に浴びせたかと見ると正午過ぎ、歩兵2個中隊がステイン門付近から出撃し、土手のある道路を伝って真っ直ぐに独軍前哨へ突撃して来ました。

 シルティカイム南方で守備に付いていたシュナイデンミュール後備大隊(後備第1旅団)*のある中隊は、この攻撃により一時撤退する羽目となりますが、まもなく後方より増援が到着したため反撃に転じ、結局は出撃した仏軍を撃退し前線を守りました。この地点では日没まで銃撃戦が続きます。

 眼鏡堡の要塞第44堡塁からはシャスポー銃と台装銃の銃火が激しく、やがて仏軍守備隊が付近掩蔽から飛び出しクローネンブルク方面へ突進しました。しかしこれも、前夜部落東端に展開していた普予備第1師団の台装銃隊による猛烈かつ正確な銃撃で阻止され、それでも銃火を冒して前線の塹壕まで達した百名ほどの仏軍歩兵たちは、駆け付けた普軍歩兵の銃火で撃退されてしまいました。

 仏軍が撃退された後の夕暮れ時、それまでオベルハウスベルジャン(大聖堂の北西5.5キロ)への街道(現国道D41号線)とパリへの国際鉄道間に設えた予備第1師団の野営地に待機していた普後備近衛師団の2個大隊が前哨前線まで前進し、万が一の仏軍による本格反攻に備えました。

 ※独攻囲軍の戦闘序列は「ストラスブール攻囲戦(前)/本格攻囲の開始」にあります。


 この攻撃もあってか、独攻囲軍は28日から29日の夜、全線に渡って掩蔽壕を増設・拡張し、交通壕も増やして平行壕や掩蔽壕相互間の連絡を密としました。


 この工事を安全に行うため、ヴェルダー将軍はヴァッケン島を占領するよう命令を下します。

 これを受けたコーニッツ後備大隊(後備第1旅団)は、工兵が設置したアル川に架かる徒歩橋を使って1個中隊を川中島へ送り、ヴァッケン島に展開していた仏軍前哨部隊を急襲して東側のライン~マルヌ運河の外まで敗走させ、運河岸とアル川渡河点に前哨を置き、川中島には掩蔽壕を築きました。

 29日早朝、仏軍は逆襲に転じてヴァッケン島を1個中隊の歩兵で襲います。ヤルス島(ヴァッケン島の南西側)からヴァッケン島へ渡った仏軍中隊は普後備兵中隊と壮絶な銃撃戦を行いました。仏軍は更に増援を送って島に地歩を築きますが、普軍側もシルティカイムからドイツェ=クローネ後備大隊を送り込み、やがて仏軍は押され始めるとヤルス島へ撤退しました。普軍後備兵は運河を渡って追撃しますが、午前9時頃、深追いを恐れた前哨指揮官の命令で追撃隊は全てヴァッケン島まで戻っています。


 要塞南西部から南部の包囲を担当するBa師団はワーグホイザー(大聖堂の南3.5キロ)、マイナウ(ワーグホイザーの東1.2キロ)、ヌーオフ(大聖堂の南南東4.7キロ)に前哨を出していましたが、28日、「攻囲軍の真の目的(北西方面からの正攻法攻撃)を悟られないため」更にノイドルフ(要塞南郊外)からシャッヘンの製粉所(オストヴァルドの北東3.7キロ付近、ラアン・トルチュ川南畔にありました)間まで前進し、イルキルシュ(大聖堂の南南西6.5キロ)にいた部隊は要塞の斜堤まで一気に接近して城壁上の守備隊と銃撃戦を行っています。

 29日早朝になると、Ba師団は前述の目的のため更に一部部隊をランゴルサイム(大聖堂の西南西5.8キロ)から「パテ眼鏡堡塁」の「喉元」へ前進させますが、これは仏軍が要塞南西郊周辺に氾濫地域を設けて橋を全て破壊していたため南からは接近することが出来ませんでした。

 それまでは沈黙し勝ちだった要塞南西部前進堡塁の仏軍要塞砲は、この29日からケーニヒスホーヘンやその周辺の攻城砲部隊へ猛烈な砲撃を開始し、ランゴルサイム付近のBa師団前哨線にも時折激しい銃砲撃を浴びせました。

 28日と29日の両日、集団で街を脱出したストラスブールの市民は全てこのBa師団の前哨線で発見・拘束され、要塞市街へ追い返されています。


 ウーリッシ将軍率いる仏軍ストラスブール防衛隊は29日、独軍攻城砲の砲撃に対しほとんど応射せず、ひたすら堡塁の損傷と砲撃を防ぐ掩蔽の掘削に従事していました。また、火災で住居を失った多くの市民のために避難所を開設し、仮設住宅の建設を急ぎます。多くの被災市民はこうした仮設住宅や被災していない(数の少なくなった)公共施設へ収容されました。


 この29日日中には、カール・ヴィルヘルム・フェルディナント・フリードリヒ・フォン・メルテンス少将を中心とする攻囲軍の工兵士官たちが、要塞の北西側に当たる対壕を掘り進む予定地を仔細に観察し、第1平行壕の掘削位置を決定するとヴェルダー将軍に報告しました。将軍は予定通り29日夜から30日明け方までに第1平行壕を掘削するよう改めて作業責任者のメルテンス将軍に命じます。


挿絵(By みてみん)

メルテンス


 29日夕刻。予備第1師団傘下の普第30「ライン第4」連隊フュージリア(以下F)大隊は平行壕掘削工事の援護を命じられ、シルティカイム部落南端とパリ国際鉄道線路との間に展開し、午後7時45分頃、その前哨を要塞斜堤からおよそ200~300m付近まで前進させます。

 その右翼(西)側は後備近衛師団の担当地区で、後備近衛擲弾兵第1連隊所属のゲルリッツ後備大隊が前哨となってクローネンブルクとその周辺を警戒しました。同連隊のポズナン=リッサ後備大隊は部落西郊の床板製造工場に近付いて待機しています。

 特に幾度か仏軍が奪還攻撃に出ていた危険なサン・テレーヌ墓地の散兵線とヴァッケン島付近のアル河畔にある掩蔽壕には4~5名で班となった台装銃兵が配備され、仏軍の前進拠点となっていた第44眼鏡堡の面前にも前哨部隊が張り付いて仏軍の動きを偵察しました。


 平行壕掘削を直接に援護する予備第1師団の部隊は29日午後、ホエンハイム(シルティカイムの北2キロ)に集合し、午後7時、第30連隊第1、2大隊はサン・テレーヌ墓地の両側を南下して、兵士たちは壕の掘削地点より15m先で伏せて散兵線を敷きました。予備となった後備歩兵の2個大隊はシルティカイム部落とその周辺で待機し、後備近衛師団から軽砲1個中隊がヴァイセンブルクへの街道(現国道D263号線)脇を進み、シルティカイム北方のビシュハイム西郊で待機しています。


 ゾウフェルヴァイヤースハイムとレクステット(ゾウフェルヴァイヤースハイムの北北東1.8キロ)付近に集合していた工兵を中心とする掘削作業隊も午後7時に出発し、南へ5~6キロほどの工事地区に入ると直ちに作業に取り掛かります。

 第1平行壕は前述通りその第一段階として右翼(西)側をパリ国際鉄道線路までとして掘削され、要塞斜堤からの直線距離はおよそ550m、総延長は約2.7キロに及びました。その後方には平行壕と既存の散兵壕や拠点とを結ぶ交通壕が複数掘削されました。

 作業を開始して見ると、既に数本の散兵壕や掩蔽が作られていたサン・テレーヌ墓地周辺での作業は短時間で完了し、この工区にいた作業隊は直ちに西へ進んで、作業区西端の郊外貨物停車場の北側鉄道線路からクローネンブルクへ至る第二段階の工事に着手しました。しかしこの地域の平行壕は貨物鉄道用の線路によって掘削を妨げられたため、要塞斜堤からは900mも離れてしまうこととなります。

 また左翼東側を見れば、シルティカイムの南東端に達した平行壕は、この地にあった石造りの邸宅を角として屈曲し、ライン~マルヌ運河へ向かって後退した鉤型となっています。このシルティカイム南郊には頑丈な石造邸宅が直線で並ぶ家屋群が何列かあり、平行壕への交通には格好の遮蔽でしたが、これらは全て要塞砲の射程圏内にあったため、将来破壊される可能性も高く、この地区にも部落までの交通壕が複数本掘削されています。


 掘削作業は前述シルティカイム南郊とライン~マルヌ運河付近で一部出水があり、また地盤が堅く作業が難航した箇所もありましたが、その他は掘削に適した地質で仏軍の妨害も受けなかったため土木作業は順調に進み、掘削工事は30日午前1時から3時までにあらかた終了しました。前進していた第30連隊F大隊は工事終了の合図を受けて後退し、完成したばかりの交通壕に入りました。


挿絵(By みてみん)

夜間の対壕掘削作業


 メルテンス将軍の正攻法作業と並び、フリードリヒ・ヴィルヘルム・オットー・ヘルマン・フォン・デッカー中将率いる攻城砲兵部隊の砲撃も「抑制して」実施されます。


 ライン左(西)岸にある野戦砲兵部隊と、要塞から遠い攻城砲台の第6、9、10号砲台は28日を最後に砲撃を中止しました。残り10個の砲台(42門)は、各砲一日25発の発射に抑えて砲撃を続行します。また夜間の正攻法工事中は、同士討ちを嫌って作業区域外の左右両翼からその正面のみの仏軍拠点を狙って砲撃する規則が定められていました。

 デッカー将軍は工兵隊の作業と平行して29日から30日の夜間、攻城砲兵隊の下士官や砲卒を総動員して土盛り(肩墻)の砲台を11個築造させます。この新たな砲台には例外を除いて12センチ口径の攻城カノン砲4門を配備させました。


※8月29日夜に築造された新たな11(第14~27号)砲台

 但し第18、24、26号は後日築造の予定地を定めただけで番号のみ。

・第25号砲台 15センチカノン砲x4門

・第14号砲台 12センチカノン砲x6門

・第15~17、19~23、27号砲台 12センチカノン砲x4門


 これら砲台に割り当てられた砲弾は1日あたり1門に付き榴弾50発、榴散弾10発でしたが、当分の間、他の西岸地区10砲台と同じく1日の発射は25発に制限されました。

 また、これら砲台の主目標は要塞北西正面の第8稜堡と第13稜堡間に存在する前進堡(第39~60までの番号を振られた堡塁や築堤)とされますが、第17号と第19~21号の四砲台は命令の誤認によって目標からかなり離れた場所に設置されてしまい、その距離は斜堤まで1.3~1.8キロとなっていました。


 これら新設の砲台は改修と増築造を重ねて次第に数個の「砲台群」となります。

 この砲台群と砲台群の間、そして砲台群と最近の対壕との間には交通壕が築かれて互いの連絡を図りました。

 8月30日朝の時点で独攻囲軍はラインの西岸地区に21個の攻城砲台と攻城砲88門(15センチカノンx22、12センチカノンx42、臼砲x24)を備えることとなり、要塞堡塁の仏軍砲兵と充分に渡り合える準備が完成したのです。


挿絵(By みてみん)

ストラスブール北西郊外の普軍砲台


 対する仏防衛隊は、静粛を守って行われた独軍の土木作業に気付かず、妨害することなく29日の夜を過ごしてしまいました。

 10個の攻城砲台の内、平行壕掘削や砲台築造作業を邪魔しない左右両端4個の砲台から行われた五月雨的な夜間砲撃(何せ1日1門25発しか撃てません)にも応射はなく、午前1時過ぎに一部堡塁上から前哨に向け銃撃が見られただけで、どうやら斥候隊も出動した気配はありませんでした。

 

 独軍が達成した「成果」は払暁時に発見され、仏軍は驚きと共に30日朝を迎えます。


 30日午前6時、仏要塞防衛隊は、完成したとは言っても補強や修正を加えねばならない第1平行壕や新砲台に対し砲撃を開始、対する攻囲軍の攻城砲台も応射を開始しました。

 配置に就いたばかりの攻城各砲は1時間30分に渡って砲撃戦を繰り広げ、午前7時30分に要塞の仏軍砲兵は砲撃を中止しました。

 しかし独軍砲兵はそのまま「試射」を続けて前進堡への照準に磨きを掛けます。仏軍守備隊は砲撃中止後の午前中、土嚢を積み重ねた堡塁の銃座から銃撃を繰り返すだけでしたが、要塞の北西正面に大砲を運び込んで砲数を増やした後、午後に入って砲撃を再開しました。

 この砲戦は2時間に渡って続いた後に一旦終了しますが、独攻囲軍側は夜に入ると砲弾を榴散弾に変えて前進堡に砲撃を続行し、仏軍による要塞の補修を妨害するのでした。


 この30日夜間にも平行壕掘削と砲台の補強作業は行われ、翌31日朝にはパリへの国際鉄道とライン~マルヌ運河間に掘削された第1平行壕は、メルテンス将軍が満足するまでに幅員を広げ、軍の規定通りの十分な深さも確保するのです。また、線路や突き固められた街道、敷石舗装された道路などを横切る部分など「後回し」にされた箇所も30日の夜、工兵が集中して作業し壕の掘削を終えています。


 この平行壕や交通壕を護るため、この30日夜から左右両翼端に歩兵の1個大隊が交替で警戒配置に付くこととなります。同時に1個大隊をシルティカイムに配して予備としました。この「予備大隊」の内2個中隊はシルティカイムの停車場(部落西側で現在はビール工場の引き込み線となっています)南に、1個中隊はサン=シャルル教会(停車場から500m西。現存)付近に、残り1個中隊は戦闘配備のまま部落内で仮眠を取っていました。他にも1個大隊が部落内にあり、これは通常の宿営をしています。

 30日の夜、右翼(西)のケーニヒスホーヘンでは、後備近衛師団の前哨が仏軍の斥候隊としばしの間銃撃戦となり、左翼(東)のヴァッケン島では、予備第1師団の前哨が南側ヤルス島の雑木林内に陣取る仏軍前哨から度々猛烈な銃火を浴びていました。


 一方、要塞に対しライン川を挟んだ東岸縁にあるケールでは、Ba師団のケール分遣隊が8月29日の朝、第1臼砲砲台と第2臼砲砲台を完成させ、第1臼砲砲台には23センチ臼砲4門が、第2臼砲砲台には30センチ臼砲8門がそれぞれ運び込まれました。これでケールの砲台群は合計36門の大砲を備えることとなり、目標とするストラスブール要塞の東端部分「シタデル(城塞)」への砲撃力を高めました。

 この29日には第1臼砲砲台はラインの大きな川中島シュポレン島に仏軍が築きつつあった防御工事を妨害する命令が発せられ、この砲撃に対する仏軍の「シタデル」からの応射は微少で、Ba軍攻城砲部隊は一晩中激しい砲撃を繰り返すのでした。


 8月31日。第1平行壕が完成した時点で、独攻囲軍本営は「要塞のどの部分に向かって対壕攻路を掘り進めるのか」の決定を迫られます。


 シルティカイム、ビシュハイム、ホエンハイムの「姉妹部落」や、その部落の各所にある堅牢な石造りの家屋、左翼(東)に流れるイルやアル川に運河、対壕を掘り進めるには便利な障害物のない平坦地が要塞斜堤まで続くシルティカイム南方の風景等々を観察すれば、「答」はおのずと「要塞の第11と第12稜堡間」となります。しかし、ヴァッケン島やヤルス島に沿う部分は泥濘に沈んでおり、掘り進めば出水があること必至で、メルテンス将軍ら工兵の首脳は、なお地質と現地の調査を重ねる必要がある、としました。しかし、大本営から「短期間での攻略」を迫られているヴェルダー将軍と、参謀長のパウル・スタニスラス・エデュアルド・フォン・レシュツィンスキー中佐は、「時間の浪費を防ぐために」調査と同時進行で第11と第12稜堡間へ対壕を掘り進めるよう命じるのです。


 この8月最終日の夕刻。メッスで「ノワスヴィルの戦い」が始まり、セダンでは「前哨戦」の「バゼイユ橋梁の戦い」があったこの日、夜の対壕護衛隊に指名された後備近衛歩兵第2連隊のベルリン後備大隊とコトブス後備大隊は午後11時頃、前哨を要塞の斜堤へ接近させ、この警戒網の下でこの夜も発見されることなく工兵が出動して、平行壕から対壕を掘削前進し、暁前までに第1平行壕の前方およそ230mまで2本の攻路(対壕)を掘り進めるのでした。

 この内の1本はシルティカイムの南東隅から南西方向に掘り進め、もう1本はヴァイセンブルク街道とパリへの国際鉄道の中間(サン・テレーヌ墓地の北西端から西北西に500mほどの地点)から南東方向へ掘り進められました。


 同31日深夜。ライン西岸包囲網の北側最左翼(東)であるローベルゾ地区で前哨任務に就いたばかりノイハルデンスレーベン後備大隊(後備第2旅団所属。同旅団は8月31日に最前線へ進み出ました)は、夜の暗闇を利用してライン~イル運河に徒歩仮橋を架設しました。

明けて1日朝、この小橋から斥候隊がオランジュリー島へ渡り、オレンジ園を抜けて要塞へ接近しますが強力な仏軍前衛と遭遇して銃撃を浴びてしまい、急ぎローベルゾ地区まで引き返しています。

 31日日中には仏軍もヴァッケン島に向かってヤルス島から出撃し、また第44眼鏡堡からもクローネンブルクの前哨線へ出撃しますが、これらの攻撃は午後から夜までの間でことごとく撃退されています。


 独攻囲軍の対壕工事は9月1日も継続して行われ、工事の進捗に従って中央と左翼の工区後方に工兵のための前進工廠(資材集積と工作場)である「中間廠」が設営されました。

 攻城砲兵たちは1日夜に第28号砲台をシルティカイム東端に設営し、早速12センチカノン砲4門を設置して、ヤルス島南のコンタッド築堤(第57堡塁)と第13稜堡前のフィンクマット前進稜郭堡群(第58~60堡塁)を狙いました。同夜、普軍の攻城砲兵はクローネンブルク北の第5砲台で砲撃戦により破損した23センチ臼砲2門を撤去し、新たに28センチ臼砲を設置しています。

 対する仏軍は1日日中に要塞北部各所から2時間に渡る砲撃を行いますが次第に静まり、忘れた頃に五月雨的な砲撃を繰り返すだけとなりました。


 1日深夜に平行壕の外へ進出した独軍斥候たちは、仏軍防衛隊が要塞の各前進堡塁で厳重に警戒任務に就いていることを報告します。更に斥候たちは第44、第53~55の眼鏡堡と第57堡のコンタッド築堤では補修と増強工事が進められており、逆に「パーテ」と呼ばれていた第8稜堡の外にある第37堡塁は放棄されていることを確認しました。これら斥候は至る所で銃撃を浴び、独軍が正攻法を開始したことで仏軍が警戒を厳重にしたことを感じ取ったのでした。


 ストラスブール攻囲戦 第1平行壕・8月31日

挿絵(By みてみん)


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