フェリエール会談・ファーヴルの苦悩
第二帝政がセダンの大敗・皇帝捕虜という大失態により「自然崩壊」し、何もせずとも政権がその手に転げ落ちて来たパリ選出穏健派共和党議員(だけ)による「国防政府」。
「侵入外国軍に対しては戦闘を継続しこれを勝利に至るまで貫徹する」と声高に宣言し、外務大臣に就任したジュール・ファーヴルは「独に対し1センチの国土も割くことなく、要塞の積石ひとつ与えない」と豪語、「戦争は我ら斃れし後に止まん」の標語が全国に流布しましたが、国防政府首脳の大部分は(首班のトロシュ将軍でさえ)パリに迫る危機を前に、「負け知らず」の「独大連合(北独=普と南独諸侯)」と密かに「戦争終結」の話し合いを開始することを願っていました。
その「密かな願い」を具現しようと、ファーヴルは「仏共和国外務大臣」の名前で9月10日、「北独連邦宰相ビスマルク伯爵」宛に「双方の平和を回復する条件を話し合うつもりはあるか否か」を問うため、書簡を独大本営に送付しました。
ジュール・ファーヴル
一方のビスマルクにしても普墺戦争時と同じく戦争の目的は「敵の殲滅」にあるのではなく、「仏と戦争をする(=強大な敵を相手に団結する)ことで独の統一(小ドイツ主義の完成)を謀る」ことにあるのであり、普墺戦争の「ケーニヒグレーツの大勝」に相当する「セダンの勝利」を得た後となっては、パリを攻撃することは「いたずらに損害を増やすだけで、既に得た成果を無駄にするような行為」でした。ですから仏国「政府」と「パリ攻撃が始まる前に」交渉することはビスマルクにとって願ってもないことだったのです。
しかし、普墺戦争終盤と違って大きな問題が二つありました。
その一つは、果たして「仏国防政府」なるものは国際的に見て正式な「仏国政府」と呼べるものか否か、という問題でした。
当然ですが「休戦協定」から「戦争終結交渉」そして「講和条約」へ進むには、国際的にも「誰が見ても正当な政権」同士による「対等な立場」での会談が必要とされます。しかし当時の「仏政権」は、正当な下院議員による政権とは言え、その政権奪取に至った過程やパワーバランスからしても到底「正当な政権」とは呼べず、今は「世論」を恐れて黙ってはいるものの、最近までの政権である「ボナパルティスト」や、共和主義者でも社会主義思想の強い左派の「急進共和主義者」、旧弊ではあるものの根強い「王党派」、民衆が力を付けたことで台頭して来た「自由主義諸派」にもっと過激で急進的な「共産主義者」や「無政府主義者」など、虎視眈々と政権奪取の機会を狙っている者たちの方が遥かに大勢力でした。
ビスマルクとしては、9月10日付けのファーヴルによる「交渉の誘い」は、「現政権者の一人であるファーヴルの力量を見ることやパリ政府の内情を知るいい機会」であるとは思って見たものの、このような「不正規な臨時政権」と交渉することは、「正当な政権」担任者であり「権力者」であるビスマルクら北独連邦政府にとって「あり得ない」ことであり、仕方なく「会談は拒否する」との主旨の回答を送付しました。
もう一つの、仏現政権と交渉するにあたっての「問題」とは、「軍部と民衆」の存在でした。
今やモルトケが主導すると言っても良い「独軍」は、ケーニヒグレーツの戦いから終戦に至った際の「消化不良の」過程を忘れてはいません。あの時はビスマルクの「穏健な政策」が国王を屈服させる形で選択され、敵であるオーストリア帝国は「かなり甘い」賠償金だけで赦され、領土の直接割譲もなく済んでしまいました。
あの時、モルトケは「次の強大な敵(=仏)に勝つため」と妥協し、ビスマルクの「作戦」を呑みましたが、その「強敵」相手のこの戦争では、ケーニヒグレーツ後のような甘い解決は許されないと考えていました。
モルトケがいつも心の片隅に置いているクラウゼヴィッツの「戦争論」から言えば、確かに「戦争は政治の一手段」ではあるものの、その「手段」=戦争を遂行するのは軍隊であり、「政治」は戦時においては軍隊の行動にいちいち口を出すべきではない、と考えていました。また、完全に敵の報復能力を奪うか、それを行使出来ない情勢に持ち込まない限り和平交渉に進むべきでない、とも考えていました。モルトケとしては「普段ビスマルクの政治手腕を信頼し政治に口出しをしないのだから、ビスマルクも軍事に口出ししないで欲しい」と言うことであり、「仏首都を包囲するまで追い込んで置いて、詰めを誤り反撃されては適わない」と言うことなのです。
つまりはモルトケを始めとする軍部としては、強敵仏国を打ち負かした今、普墺の時の様に「妥協」されたのでは困る、即ち、敵首都を完膚なきまでに叩いて反攻の機運を潰し、妥当な額の賠償金や犠牲に対する何らかの「見返り」も得て、独に対する今後の「安全保障」がなければ「終戦」すべきでない、という立場なのでした。
更に厄介なのは「セダン」で10万を捕虜としその中に皇帝も居た、という「勝ち過ぎた」ことで独民衆が浮かれてしまい、中途半端な妥協は即ビスマルクの政権に致命的な批判を呼び込んでしまうという、正にファーヴルら仏国防政府の表裏となる「世論の恐怖」でした。
当然、ビスマルクとしてもモルトケらが不満を抱えていることを知っており、「民意」の怖さも仏政権を反面教師としなくても理解しています。この恐怖から逃れるため、そして独の損害(人・資源・金銭)が膨らんで国力を低下させないためにも、ビスマルクは「正当な仏政権と急ぎ和平交渉を開始し、独軍部や民意が納得する賠償を得なくてはならなかった」のでした。
ビスマルク(制服姿)
ビスマルクが次の手を思案している最中(9月12、3日頃)、パリ駐在英国大使リヨン卿配下の書記官より「表向きはどうであれ」ファーヴル外相はビスマルクとの会談を「何としてでも」望んでいる、との通達が届きます。これはビスマルクにとって都合のよい流れで、「相手が望んでいるのなら非公式に話くらいは聞いてやろう」とばかりに横柄な態度で会見を許可するのでした(それも返事は16日、第三軍先鋒がセーヌ河畔に到着した頃合いを見計らって、でした)。
ジュール・ファーヴルはリヨン卿から「ようやくビスマルクが会見を承諾した」と聞き、早速出発の準備に掛かります。
これは全て隠密な行動で、この会見を知っていた仏政府関係者は陸軍大臣のアドルフ・シャルル・エマニュエル・ル・フロ将軍と外遊中の老獪な政治家ティエールだけ、何と首班のトロシュ将軍でさえ知らなかったのです。ファーヴルが何故この二人にだけ秘密を打ち明けたのかと言えば、フロ将軍に対しては交渉のため前線を越えるので万が一逃亡(最悪は反逆)と思われないため、ティエールには、9月4日にも示した(ファーヴルたちに主権を渡した)国を想う老獪な判断を見ても分かるように、ベテラン政治家として党派を越えての「信頼」から(これを知らずにいると、海外で仏への同情を呼び込むとの任務中に事が露見した場合難しい立場となります)と思われます。
こうしてファーヴルはトロシュ始め閣内に諮ることなく9月18日の夕刻、5人の部下と共にシェードを降ろした馬車に潜んで城壁のシャラントン門から市外へ出ると、シャラントン分派堡塁の脇を抜けクレテイユへ至ります。この南郊外、前日に「モン=メスリーの戦い」が勃発した高地を超えると、リメイユ(=ブレバンヌ)北方で警戒する普第6軍団の普第22「オーバーシュレジエン第1」連隊の前哨線に突き当りました。前哨に止められたファーヴルは身分を明かして北独宰相との会見を要求し、一向は馬車に乗ったまま前線を通過すると、普兵に付き添われて普第6軍団が抑えるセーヌ渡河地点、ビルヌーブ=サン=ジョルジュに進み、ここでモー在の大本営にいると思われるビスマルクへ独前線を越えたことを報せ、この日はビルヌーブで夜を明かします。
翌朝、モーへ向かったファーヴル一行は、同じくこの日の午後フェリエール(=ザン=ブリ。ビルヌーブ=サンージョルジュの東北東21.3キロ)へ大本営が移ることとなったため移動中のビスマルクとモントリー(モーの南南西9キロ)で邂逅しました。
ビスマルクは部落西部にあるオート・メゾン(モントリー城館)へファーヴルを招き入れ、ここで第一回目の会談を開きました。
オート・メゾン城館(モントリー城)
会談は最初から厳しい言葉の応酬となります。
ビスマルクは、占領地各地で横行する非道な「殺人・暴力行為」に対し口を極めて非難しました。これは「義勇兵」たちのゲリラ的襲撃行為のことで、ビスマルクは「そちらが『フランスの狙撃手』と呼ぶ者どもは山賊同様であり、捕まえ次第に射殺する」とファーヴルに宣言します(既に後方連絡線沿いではそのような処置も行われつつありましたが)。
対するファーヴルは、過去の戦争を引き合いに出して、戦争における国際慣習上、軍事力を担うと認定される場合は(それと分かる制服や腕章などを着用していれば)捕虜として取り扱って貰いたい、と主張しました。
ビスマルクはナポレオン1世の情け容赦ないゲリラに対する処置を引き合いに出し、あの時はプロシア人の「愛国者」たちも多くが吊るされた、と切り捨てます。
この様に19日の会談はお互いの主張を述べあうことに終始すると比較的短時間で切り上げられ、ビスマルクはファーヴルを誘って国王が進んだフェリエールへ向かいました。会談はこのフェリエールの城館で再開されるのです。
翌7月20日、世界的な銀行一族ロスチャイルド家のフランス系統、ロチルド家の城館で行われた会談は、前日のモントリー城館における会見と合わせて「フェリエール会談」として知られます。
フェリエール城(正面)
休憩を挟んで行われた「和平交渉」は、最初から暗礁に乗り上げる運命にありました。
何故ならビスマルクが仏「政府」に求めたのは「独に対し1センチの国土も割くことなく、要塞の積石ひとつ与えない」と公言していたファーヴルが到底呑めるものではなかったからです。
フェリエール城に移っての会談冒頭、ファーヴルはビスマルクに問いました。
「パリにおいて独仏が戦う前に、我ら皇帝政府を打倒した国防政府と貴官らが和平のための交渉を行うことは可能であると私は信じるものだが、貴官は我ら仏国民(代表)と交渉する意思を持っているのか否か、それとも仏国を滅亡させようとこの『挑戦』を続けるつもりなのか」
対するビスマルクは、「我々は平和を希求するし、そもそもこの平和を乱したのも独ではない。仏国は大した理由もなく我ら独に宣戦を布告し、独諸国は戦争の意図などなかった。我らは自身の安全のため仏の『挑戦』を受けて立ったのだ」
そしてファーヴルが密かに恐れていた最初の要求を出したのです。
「独諸邦が被った損害への補償と占領地という既得権益を考慮すれば、その一部の割譲をお願いするしかないだろう。ストラスブールは我ら独にとって脅威となり続けている。これは我らの玄関の鍵のようなものだ。メッスも劣らず危険な存在である。まずはこれらとそれに属する周辺地方を割譲して貰いたい」
この先75年間に渡って独仏最大の懸案となる「アルザス=ロレーヌの帰属問題」がこの瞬間から発生するのでした。
この部分は多くの詳細な研究がなされて調べ易い部分でもありますので、簡単に経緯だけ以下に記せば……
ビスマルクは戦争以前に「アルザス=ロレーヌ」の割譲を言及したことはなく、それは軍部やヴィルヘルム1世もそうだったと考えられます。勿論、一部の右翼党派に政治家や軍人たち、そして民衆の一部には、「仏との国境に緩衝地帯としての国土があれば安全保障になる」との考え方はあったと思います。
これが現実の構想となるのは戦中で、ビスマルクは勝利で発言権が増す軍部を「黙らせる」ためにも「完全な勝利の代償」として「仏本土の割譲」が必要と考え始め、最初は「国境にあるいくつかの要塞(都市)」がその対象となりました。それがセダンの勝利(ビスマルクにとってケーニヒグレーツ以上の「勝ち過ぎ」)により一気に「レート」が上がり、「国境地域を後年の安全保障(緩衝地帯)として割譲させる」という考えに至り、独系住民が独系言語を話すアルザス全域とメッスのあるロレーヌ北部に変わって行きました。
ビスマルクは外交的には「拙い」が内政的(独統一を呼び込む熱狂の「起爆剤」)には「必要」だとして、パリの包囲が始まる一週間も前にヴィルヘルム1世へ「エルザス=ロートリンゲン(独語読み)総督管区はパリの占領以前に強力な管理下に置いて、戦後は我ら独の一部となることを住民にも知らしめることが必要となりましょう」と述べるに至るのです。
間違ってはいけないのは、このモーゼル川流域までの国境地帯を独が戦前から狙っていた等ということはなかった、という部分です。
またこの割譲要求は、領土拡張の野心から出たものでもありません。戦争中、あのメッス東西での激しい戦い(ボルニー=コロンベイ、マルス=ラ=トゥール、グラヴロット)、そしてヴルトとストラスブールの戦いで巨大な消耗(人・金・物資)が発生し、その恐ろしい近代戦(=総力戦)の黎明を見た独首脳が「戦後を考え」この要塞地帯を「緩衝地帯として」手に入れたいと考え始めた、ということです。
残念ながらこの「緩衝地帯」との考えから手に入れた土地に、独本土の人間は愛着を持つことがありませんでした。特に軍部は「国防上の重要な要塞地域」としか認識せず、あの普墺戦争後にハノーファーやザクセンを上手に「仲間」として迎え入れた実績も忘れられたのか、そこに住む「独語を解する元フランス人」たちは、東方のポーランド人たちと同じく「二級の国民」扱いしかしてもらえず権利を侵害し続けられるのです。この「悲劇」はやがて独帝国に暗い陰を落として行くこととなりました。
少し先走ってしまいましたので、時を1870年9月20日のフェリエール城に戻します。
この降って沸いたような要求はファーヴルを恐怖に陥れ、思わず「貴官は仏の破滅を望んでおられるのか」と呟かせます。
「仏国は賠償金に関しては話し合いに応じるかも知れないが、土地割譲については断じてこれに応じない」
するとビスマルクは激しく頭を振り、
「この要求が容れられなければ更なる講和条約の細目を検討する訳にはいかん」
ファーヴルは努めて静かに、
「貴官が戦うのはこれで仏国民全員となるだろう。我々は近々選挙を行い正式な政府を立ち上げる。その政府が貴官の土地割譲について議論するに違いない」
対するビスマルクは、
「選挙をするには休戦が必要となろう。しかしこの状況では本官は休戦など絶対に認めないだろう」
この「非公式な政権」の有力者との話し合いでは「休戦条約」も「講和条約」の締結も出来ません。それをするには仏国が選挙を行って議会を招集し政府を立ち上げ、これが国際社会にも認められなくてはなりません。
しかし、独が「非公式な」休戦を認めてしまえば、今の仏国民感情からして選挙などまともに行われず、それを機会に未徴兵の国民を召集して新たな軍を立ち上げ、気の遠くなるような数の国民衛兵が雨後の竹の子のように短時間で現れるはず。ビスマルクの脳裏にはそんな「悪夢」があったと思います。つまりはファーヴルやトロシュが「選挙を行うためだけの休戦」を約束出来るのかがビスマルクにとっては重大であり、それはきっと不可能であろう、と考えたのでした。
ビスマルクは「選挙のみに休戦を使うための担保」として、「ビッチュ、トゥール、ストラスブール各要塞を即座に開城」し、「メッス要塞は戦闘が継続中のため休戦協定から外す」こと、パリについては「独軍が包囲を続けるか市内を見下ろせる2、3の分派堡塁(そのひとつはパリ西方唯一のモン=ヴァレリアン分派堡塁と言われています)を明け渡すか」二者択一を求めました。しかし、もしパリが分派堡塁を渡さないのならば、独はパリで議会が開催されることを許さず、その代わりに中仏のトゥールを臨時の首都として議会が開催されるよう計らうので「ストラスブール在の戦力は捕虜とする」ことを要求したのです。
パリについての「奇妙な要求」について次のようなやりとりがあったとされます。
ビスマルクが「市街地を見下ろせる」パリの分派堡塁に言及した時、ファーヴルは発言中のビスマルクを遮って「貴官は何故仏の新議会が独の大砲射程内で開催されることを望むのか。パリそのものを無防備宣言させる方が簡単だろうに」と疑問形で疑念を伝えました。
これに答えなかったビスマルクは、別の方法があるのかとファーヴルに尋ね、ファーヴルは「中仏ロワール河畔のトゥールで議会を招集するのならどうか」と逆提案しました。ビスマルクはこれを国王に諮るとして中座し、15分後に戻ると、「陛下はトゥールにての議会招集は承認した。代わりにストラスブールの軍隊を全て捕虜として貰おう」とするのでした。
ビスマルクがパリ「占領」を持ち出さなかったのは、パリを包囲監視ではなく占領してしまえば、200万もの住民や軍を直接保護しなくてはならず、たちまち糧食・物資不足に独仏共に陥ることを懸念したものと思われます。
ビスマルクは、「選挙は仏国が自由に行うことを保証する」が「アルザス=ロレーヌでは選挙を行わない」こと、「当選した議員たちには独軍の通行許可証を発行し、休戦中は人道的なパリへの食料補給を許可する」と慰めるようなことを伝えます。
ファーヴルは「パリの分派堡塁は渡せないし、英雄的な籠城を続けるストラスブールの将兵たちを何もせず捕虜として引き渡すことは出来ない」と答え、「それ以外の条件について同僚たちと協議する。もし何らかの進展があった場合はここへ戻って来る」としてフェリエール城館を後にしました。
前線まで普兵に護衛されたファーヴルは20日夜更けにパリ市内へ戻り、直ちに国防政府の執務場所となっていた市庁舎へ向かいました。
市庁舎ではちょうど「第一期シャティヨンの戦い」の混乱が下火になったことで、今後の対策を協議する時間の出来たトロシュら閣僚が会議の真最中でした。
「行方不明」だったファーヴルが現れ、包み隠さず「ビスマルクと会って来た」と告げると閣僚たちは一様に驚愕し、ファーヴルはその彼らを前に長い報告をしました。
報告を聞き終えたトロシュら閣僚は一斉に「ビスマルクの休戦条件」に反発します。それはまるで「無条件降伏」に等しい条件であり、未だ意気盛んなパリ市民が納得することは絶対にありませんでした。直ちに声明が起草され、これは独に対する新たな挑戦状ともいえる内容となりました。
「国防政府に対し、栄光と危険に満ちた名誉ある『道』を踏み外そうとしている、という悪い噂を広める輩がいるようだ。この『道』とは次の公式スローガンのことである。
『独に対し1センチの国土も割くことなく、要塞の積石ひとつ与えない』
国防政府は最後までこれを変更することは無い。 パリ市役所において 1870年9月20日」
また、ファーヴルはビスマルクに対し次の「交渉決裂文」を送付しました。
「本職は、誠に遺憾ながら我が政府が閣下(ビスマルク)の提案に応じることは出来ない旨をここにお知らせするしかありません。我が政府は国民議会の選挙及びその開催を目的として休戦を望むものですが、閣下の要求する条件は全く応じることが出来ないものであります。 1870年9月20日 ジュール・ファーヴル拝」
この書状は翌21日、フェリエールのビスマルクの下に届いています。
こうして、僅かな休戦への望みは潰えます。フェリエール会談は当初秘密とされますが、数日後にトゥールの「地方政府」が発表した声明で露呈し様々な波紋を各方面に投げかけました。しかしその頃には国防政府が独軍へ渡すことを拒否した要塞のうちの二つが降伏するに至るのです。
パリ近郊のモルトケと参謀本部員(アントン・フォン・ヴェルナー)
ドイツ帝国・エルザス=ロートリンゲン州(1905年の地図)
1871年5月10日のフランクフルト講和条約によりフランスからドイツへ割譲された土地は、仏アルザス州とロレーヌ州のモゼル県からなる土地で、ドイツ帝国では「ライヒスラント・エルザス・ロートリンゲン」として一括りにされた州となりました。エルザス地域には、ストラスブール(独・シュトラースブルク、以下同)、ヴァイセンブルク、ローターブール(ラウターブルク)、アグノー(ハーゲナウ)、コルマール、セレスタ(シュレットシュタット)、ミュルーズ(ミュールハウゼン)などが含まれ、ロートリンゲンにはメス(メッツ)、ティオンヴィル(デーデンホーヘン)、ブレ=モゼル(ブーレイ)、サルグミーヌ(ザールゲミュンド)、シャトー=サラン(ザルツブルク)、サールブール(ザールブルク)などが含まれていました。




